◆梅田徹 (2006) 『企業倫理をどう問うか――グローバル化時代のCSR』, NHKブックス
序章 企業倫理が問われる時代
第一章 「企業の社会的責任」はどうかんがえられてきたか
第二章 「企業の社会的責任」とはなにか
第三章 CSRを推進するさまざまな力
第四章 多国籍企業の責任をどう問うか
第五章 製品ができる源流まで遡る −サプライチェーンにおけるCSR
第六章 グローバル・コンパクトは世界を変えられるか
第七章 グローバル・コンパクトに向けて動き出した企業
そもそも、企業というのは絶対に匿名では寄付しない存在なのです。たとえば、個人の場合であれば、歳末助け合い募金にときどき匿名で寄付をする奇特な人がいます。しかし、企業の場合には同じような意味で匿名の寄付をすることは絶対にありません。匿名で多額の寄付をすることは「背任」ということにもなりかねません。 企業にとって寄付をすることは、たとえ多少なりとも世間に、あるいは少なくともその寄付を受ける団体に自社の名前を売り込むことになります。ですから、企業が社会のために寄付をする行為と宣伝のためにお金を出す行為は、ともに自己の利益に資する部分があるという意味では、全く切り離して考えることはできないのです。つまり、企業の社会貢献活動といえども、自己利益追求から完全に自由になることはできないわけです。(p.52)
「インテグリティ」とは、嘘をついたり、相手をだまそうとしたりしないこと、正直なことです。「アカウンタビリティ」とは、関わりのある人に対して自らのことをきちっと説明して、その内容について責任を果たすことです。「トランスペラレンシー」とは、原義はガラス張りのことで、つまり、隠しごとをしないこと、正直に情報を開示することです。(p.71-2)
言い換えれば、企業のCSRへの取り組みは自社のレピュテーションを高めようとするゲームなのです。ゲームには、競争があって勝者と敗者があります。このゲームにもそうした側面があることは否定できません。しかし、ゲームと言っても、必ずしも否定的なニュアンスを伴うものと考える必要はないでしょう。それが企業をしてCSRに向かわせるインセンティヴになっているとすれば、それを肯定的に評価しないわけにはいかないのです。(p.74-5)
そもそも国際社会が多国籍企業の行動を規制する必要があると認識し始めたのは、70年代のことでした。そのきっかけをつくったのは、1973年にチリで起きた軍事クーデターでした。アジェンデ政権を倒すために軍部が画策したクーデターに、米国の通信大手ITTの子会社がかかわっていたことがのちに発覚したのです。この事件によって、途上国の多国籍企業に対する不信感はいっそう募りました。そして、多国籍企業の行動を規制しなければならないという声がいっそう強まり、1974年、国連経済社会理事会の下に多国籍企業委員会が設置されました。(p.130)
不正競争防止法の外国公務員贈賄禁止規定は、当初、属地主義を基礎としていました。したがって、日本企業が純粋に海外で実行した贈賄行為であれば、その規定を適用できないことになります。「純粋に」といったのは、場合によっては、その企業の日本にある本社が贈賄を電話やメールで支持することがあれば、それは日本国内で犯罪の一部が実行されたとみなされるため、そういったケースでは当局はこの規定に基づいて摘発することができるということです。(p.140)
このように、フェアトレードでは、一定の割増金を支払うことによって市場価格よりも多角、産品を生産者から買い付けるわけですが、その市場価格との差額あるいは割増金はいったい誰が負担するのでしょうか。結論から言えば、それは、先進国の消費者が負担するということです。たとえば、フェアトレード方式で取引されるコーヒー(「フェアトレード・コーヒー」)は、生産者からの買い付け価格が高いため、一定の流通経路を経て、先進国のコーヒー豆の販売店で売られるときには、通常のコーヒー豆よりも高い値段で販売されています。フェアトレードに従事する団体は、通常の流通経路よりも短い産地直送のような形で取引するといっていますが、たとえそうであるとしても結果的には普通に取引されるコーヒーよりも小売価格が高めになるのは避けられません。(p.177)
2004年度の買い付け価格の平均は1ポンドあたり1ドル20セントであるとしています。スターバックスが扱うフェアトレード・コーヒー豆の割合はスターバックスで使用するコーヒー全体の1.6%程度ですから、1ドル20セントという数字は、一般のコーヒー豆についてもかなり高めに買い付けていることを示しているわけです。(p.181)
アムネスティ・インターナショナルやヒューマン・ライツ・ウォッチといった人権擁護団体、世界自然保護基金といった環境保護団体などがアナン事務総長のイニシアティブに賛同を表明した一方で、グリーンピースをはじめとする一部のNGOは参加を見送りました。その拒否の理由は、多国籍企業の一部はグローバル・コンパクトに参加することによって、国連の青旗で自らがかかわっている悪事を覆い隠すことになるだけだ、というのです。一般に国連の青旗で箕を通罪悪事を覆い隠そうとすることを「ブルーウォッシュ」と表現することがあります。(p.194)
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◆飫富順久・辛島睦・小林和子・柴垣和夫・出見世信之・平田光弘 (2006) 『コーポレートガバナンスとCSR』, 中央経済社
1 コーポレート・ガバナンスと企業の社会的責任の動向 飫富順久
2 コーポレート・ガバナンスと周辺概念 平田光弘
3 コーポレート・ガバナンス実践の国際動向 出見世信之
4 企業倫理の確立とコンプライアンス・マネジメント 出見世信之・辛島睦
5 コーポレート・ガバナンスと証券市場 小林和子
6 企業の社会的責任と企業行動 平田光弘
7 コーポレート・ガバナンス論の過去・現在・展望――むすびに代えて 柴垣和夫
資料 シンポジウム「企業の統治と社会的責任――現状と方向」の内容
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◆谷本 寛治 2006 『CSR 企業と社会を考える』NTT出版 ISBN4-7571-2179-2
第1章 「企業とは何か」を問い直す
第2章 社会の中の企業
第3章 企業評価基準の変化
第4章 企業とステイクホルダーのコミュニケーション
第5章 企業の社会貢献活動の広がり
第6章 持続可能な社会経済システムを求めて
まず「啓発された自己利益」とは、一般にコミュニティにとって良いことをすれば回り回って企業にとってプラスになると理解するものである。社会的責任を果たすことは長期的な利益に結びつくと70年代に言われたが、しかしそこには、どのように回り回るのか、だれがどのように測定し評価するのか、といった議論はなく曖昧である。(p.60)
ブルーウォッシュとは、「ホワイトウォッシュ」から派生した言葉である。「ホワイトウォッシュ」という英語は、漆喰で上塗りする、ごまかすといった意味であり、これをもじって、環境NGOなどが「グリーンウォッシュ」という言葉を使っている。企業が環境、緑を守る対策を講じているように表面だけを取り繕うことである。これがさらに転化したのが「ブルーウォッシュ」。ブルーは国連の旗の色である。グローバル・コンパクトに調印すれば国連のいわばお墨付きを得たようにみえてしまう。企業の自主性に任せるため、サインしただけでグローバル・コンパクトにかかわったことを宣言できる制度に対する懸念がある。(p.91)
そこで問題になるのは、日本の市場社会におけるステイクホルダーの位置づけ、機能を改めて考えなければならないということである。企業にアカウンタビリティを求めるステイクホルダーが存在しなければCSRの議論は成り立たない。さらにCSRを積極的に評価するステイクホルダーが存在しなければ、企業は取り組まないし、取り組めない。つまり企業がCSRに対応したとしても、市場社会が評価しなければ、その活動が定着することは難しいのである。では日本では市場社会が成熟しているかというと、企業とステイクホルダーはそういった関係にはなかった、ということを本書で指摘してきた。つまり、中心的なステイクホルダーは企業システムに組み込まれているような形で企業社会が構造化してきたこと、そしてステイクホルダーが企業にアカウンタビリティを求めていくような関係性は弱かったことである。しかしながらその構造が近年変化し始めていることも見てきた。(p.254)
…小さな政府化を示すと同時に、ここは、経済的・社会的に排除された人々を救済、支援するシステムづくりや、NPOの役割を支援する仕組みづくりといったことを具体的に示していく必要であろう。こういったビジョンの中に、持続可能な発展やCSRの発想が位置づけられているならば、意義あるものとなろう。(p.257)
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◆弦間明・小林俊治 (2006) 『江戸に学ぶ企業倫理――日本におけるCSRの源流』, 生産性出版
第1章 江戸時代の社会とビジネス 小林俊治 大月博司
第2章 江戸期商人の商業道徳――往来者・家訓・商人心得所を中心に 片岡信之
第3章,『日本永代蔵』にみる企業倫理――江戸時代における商家の蔵と西鶴の致富観 水村典弘
第4章 石田梅岩の企業倫理 日野健太
第5章 近江商人の企業倫理 馬場芳
第6章,『日暮硯』と企業倫理――恩田杢に見るリーダーシップの本質 松本典子
第7章 職人の倫理 竹澤史江
第8章 豪商の企業倫理 飯野邦彦
第9章 江戸時代のビジネスにおける女性の役割 潜道文子
第10章 「三方よし」から「六方よし」の企業倫理へ――座談会 小林俊治・藤居寛・矢内裕幸
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◆奥村宏 (2006) 『株式会社に社会的な責任はあるか』,岩波書店
株式資本主義論者がいうように「会社は株主のものである」とするなら、会社の損失、あるいは会社が他人に与えた損害については株主が負担しなければならないことになる。社会が損失を出した場合、株価が下がるからその分だけ株主が責任をとったということになる。さらに、会社が倒産した場合、あるいは会社が解散した場合、株券はタダになるから、それだけ株主は責任を取ったことになる。しかし、それ以上の責任を株主は負わなくてよい。これが全株主有限責任の株式会社の原則である。
ここでいう「良心ある株式会社」は"soulful corporation"の訳語であるが、この文章の中では、経営者が良心ある行動をするということと、株式会社に良心があるということが混同されている。これは先のバーリの本でも同じであるが、経営者に良心があるということと、法人としての株式会社に良心があるということは別である。同じように「企業の社会的責任」という場合も、経営者に社会的責任があるという議論と、法人である会社に社会的責任があるという議論が混同されてしまっている。(p.89)
もし株主資本主義者たちがいうように、「会社は株主のものである」としたら、会社が行ったことについての責任は株主がとらなければならないということになる。しかし公害にせよ薬害にせよ、その他多くの企業犯罪、あるいはさまざまな企業不祥事で株主の責任を問題にした人はいない。株式会社では株主全員が有限責任であり、株主は持っている株券はただになるかもしれないが、それ以上の責任は負わなくてよいということになっている。そのため企業犯罪や企業不祥事について株主の責任を問題にする人はいない。
ではだれが責任をとるのか。公害や薬害などの責任は直接にそれにかかわった担当者の責任が問われる。しかし担当者は会社の仕事の一環としてやったのであり、それは個人の行為ではない。では経営者はどうか。経営者は担当者がやったことに就いて知っていれば責任を問われるかもしれないが、知らなかったといえば責任を問われない。そこで法人としての会社が行ったことだから、会社が責任をとるべきだという議論がでてくる。「会社それ自体」が責任をとるべきだという議論である。「会社それ自体論」については先に取りあげたが、「企業の社会的責任」という場合、多くの人は「会社それ自体」が責任をとると考えている。しかし「会社それ自体」が責任をとることができるだろうか。(p.96)
会社が何かを決定するという場合は、会社の代表者である自然人=個人が決定している。日本の株式会社では取締役会で決定し、代表取締役がそれを実行する。その命令に従って従業員が行為をしている。例えば、会社型の会社の株主になっている場合、法人である会社が株主総会に出席することはできない。株主総会に出席して議決権を行使したり、あるいは株主への委任状を書くのは代表取締役またはその代理人である。このように法人である会社には必ずそれを代表する自然人が存在する。それが代表取締役などの経営者である。
したがって会社が犯した犯罪についても経営者が責任をとるべきではないか。経営者は会社を代表することで強大な権限を持っており、高い地位と巨額の報酬を得ている。公害などで、経営者が直接にその事実を知っていたかどうかに関係なく、法人としての会社が犯した犯罪については経営者が責任をとるべきではないか。(p.122)
(中略)企業批判に対抗して企業の社会貢献活動が行われていることがはっきりしている。そして景気が悪化したり、企業批判が下火になると、社会貢献活動も下火になるということを繰り返しているといえる。それは純粋に博愛心から出たフィランソロピーではない。個人には博愛心があるが、法人である会社に博愛心があるはずはない。それは企業批判をかわすためであるか、あるいはそれを利潤追求の手段にしようとするものであり、それは博愛心とはまったく別のものである。(p.149)
このSRI投資信託は社会的責任を果たしている会社に投資するというものだが、それが投資家にとって利益となるということを前提にしており、簡単に言えば会社が社会的責任を果たすことが儲かるということにつながる。果たして社会的責任を果たすことが儲かるということになるのか。そこには根本的な問題がある。もし利益追求が目的であるなら、なにも社会的責任などという必要はないのではないか。それは会社の宣伝、あるいはごま化しではないかという疑問をだれもが抱く。(p.166)
株式会社が全株主有限責任であるためには資本金が担保になるということであり、したがって資本金を上回る借入金をするということはそもそも株式会社も株式会社の原理に反することである。そのため戦後の日本では企業の資本構成是正ということがたえず問題にされながら、高度成長時代はますます資本構成が悪化していった。この「借金経営」すなわち自己資本不足という、株式会社の原理に反するやり方が日本経済の行動成長をもたらしたが、その矛盾を解決するために行われたのがバブル時代のエクイティ・ファイナンスであった。これは株高を利用して巨額の資金を調達し、それによって自己資本(株主資本)を増やすというもので、それはまさに株式会社としてのメリットを追求するものであった。(p.174-175)
株式会社が株主のものであるのならば、株主がこれらの責任を負わなければならないはずだが、株主有限責任で、株券はタダの紙屑になるおそれがあるとはいえ、それ以上の責任は負わない。その結果、株式会社は有限責任ならぬ「無責任会社」になっている。株式会社の実際の経営にあたっているのは経営者であるが、その経営者は「善良な管理者として注意深く」経営をし、会社に「忠実」であったならば、その責任を問われない。こうしてだれも責任をとるものがないので、本来は責任の主体にはなりえない法人としての会社に社会的責任があるといわざるをえない。(p.184)
20世紀末から21世紀初めにかけて株式会社の危険がさらに進行し、そのため企業の社会的責任論がアメリカ、ヨーロッパ、そして日本などでも流行することになったが、この企業の社会的責任論はなによりも株式会社を守ろうとするためのものであった。企業の社会的責任を果たすとして行われている社会貢献は、株式会社が社会事業や文化事業などに寄付をするという形で実行されるが、一方で公害や薬害を起こし、環境を破壊しながら、他方では慈善事業のために寄付するという形で株式会社に対する批判をかわしながら、そして学問や芸術に介入し、世論操作を行う。株式会社による広告宣伝は、当初は販売する商品の広告であったが、やがて会社そのもののイメージアップのための宣伝に力を入れるようになった。それがさらに会社が社会貢献を行っているという宣伝にまでなった。そして社会的責任を果たすことが長期的にみて会社の利益につながるのだという。(p.195-196)
法人は社会にとって価値を持つから社会によってヒトとして認められているのだ、したがって法人は社会に役に立つことをしなければならない−これは至極当然のことのように聞こえる。しかしそれは「人間は社会にとって価値を持つから社会によって認められているのだ。したがって人間は社会にとって役に立つことをしなければならない」といったらどうか。それは修身教科書の教説であっても、それによって人間が実際にどういうことをしようとしているかということの説明にはならない。それは「良いことをし、悪いことをしないようにしましょう」というのと同じで、道徳的説教であっても、人間を解明したものではないし、いわんや社会科学ではない。
そればかりか、このような議論は「であるべき」(ゾルレン)と「である」(ザイン)を混同することによって、会社を賛美し、会社を守ることになる。それは「株式会社は法人として社会によって認められているのだから社会のために貢献しています」、あるいは「会社は社会のものだから、会社に役立っています」というのと同じである。「あるべき」が「ある」姿になり、会社は社会的存在としてすばらしいということになる。
このような議論は株式会社の実態を隠蔽し、その矛盾を見えなくさせる。そして株式会社の改革を阻止し、会社は現在のままでよく、せいぜい目標に向かって努力せよということになってしまう。「企業の社会的責任」論はこうして企業改革を阻止あるいは妨害する役割を果たしている。そして「企業の社会的責任」論を唱える学者や評論家は主観的には良いことをしていると思っているかもしれないが、客観的には会社を守り、企業改革を阻止する役割を果たしているのだ。(p.198)
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◆原田勝広・塚本一郎 編 (2006) 『ボーダレス化するCSR――企業とNPOの境界を越えて
』, 同文館出版
第1部 CSRとNPO・NGOとの協働の背景とその意義
導入編
第1章 CSRとは何か――企業と社会変革の道具としてのCSR 塚本一郎
第2章 グローバル化のなかのCSRとNPOとの協働 原田勝広
第3章 CSRの世界的動向――現状と課題 坂本文武
第4章 CSRとSRI――投資を通じたCSRの促進 足達英一郎
第2部 CSRとNPOとの協働の実際
事例編
第5章 松下電器産業の社会貢献活動とCSR 森信之
第6章 資生堂の社会貢献活動とCSR 磯田篤
第7章 損保ジャパンの社会貢献活動とCSR 関正雄
第8章 大和証券グループにおけるSRI 高岡亮治
第9章 NPO環境文明21と企業との協働 藤村コノヱ
第10章 日本における企業とNPO・NGOの協働の動向 小関隆志
第3部 営利と非営利の境界を越えて
戦略編
第11章 なぜ「経営戦略としてのCSR」なのか 伊吹英子
第12章 地雷除去支援NGO事務局長、富田洋にみる社会企業家としての生き方 原田勝広
第13章 社会的企業――「営利」と「非営利」のハイブリッド 塚本一郎
第14章 企業とNPOとの境界を越えて 原田勝広
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◆藤井敏彦・海野みづえ 編 (2006) 『グローバルCSR調達――サプライチェーンマネジメントと企業の社会的責任
』,日科技連出版 ISBN4-8171-9197-x
第1章 調達とCSR
第2章 CSR調達の国際規格およびイニシアティブ
第3章 CSR調達を実践する企業事例
第4章 原材料調達におけるサプライチェーンマネジメント
第5章 CSRサプライチェーンマネジメント導入、実行
第6章 サプライヤー、調達企業の悩みどころと対応方法
第7章 グローバル経営とCSRサプライチェーンマネジメントの将来
何らかの物品などを購入する2つの用語、「購入(p.urchasing)」と「調達(p.rocurement)」の違いについて、ここでは次のように定義する。まず、最終使用者(最終消費者)が「使用」ないし「消費」を目的に物品を購入するう行為を「購入」と定義する。この場合、最終使用者である一般消費者(一般市民)が、食料品、雑貨、自動車、家電などを「使用」や「消費」を目的に購入することが典型的な事例となる。この「購入者」は個人に限られたものではなく、政府機関や企業が、事務用品、コピー機、什器、IT危機などを購入することも、この「購入」にあたる。
一方、企業などが、製品を製造するなど二次的な利用のために購買する行為を「調達」と定義する。一般的な「調達」は、企業が、部品、原材料など製造資源を購買することがこれにあたる。この定義から、「調達」に関与する2社の関係は、ほとんどの場合、B to B(Business to Business)となる。
したがって、製造業を営む企業での購買行為は、「調達」「購入」の2種類があり、製造資材の購買は「調達」、非製造資材の購買は「購入」となり、大きな企業の中では、同じ資材部門でも、取引する部署は異なっている場合が多い。(p.21-22)
(略)最終製品のメーカーは程度の差はあれ、部品や材料をサプライヤーから調達し、最終製品としてくみ上げた製品を出荷しているため、調達する資材(モノ)、すなわち部品や材料などに禁止された物質が含有していると、結果的にそれらの部品や材料を使用した最終製品は禁止物質を含有することになり、その製品が出荷できないことになるからである。これらの物質を、納入される部品や材料に含まないことを調達基準に盛り込み、納入先(サプライヤー)に基準の遵守を徹底するのが、この「グリーン調達」の典型的な例である。(略)前項で述べたような、モノにかかわるグリーン調達や、環境マネジメントにかかわるグリーン調達もCSR調達の一部であるが、CSR調達ではそれにとどまることなく、サプライヤーの人権、労働条件、安全衛生に対するマネジメントなども対象として調達条件に組み入れられるのが通例である。したがって、CSR調達は下記のように定義できる。
調達先であるサプライヤーにたいし、何らかのCSRのかかわる調達基準を提示し、それにたいする遵守を要請して行く行為。(p.24-25)
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◆森末伸行 (2006) 『ビジネスの法哲学――市場経済にモラルを問う』,昭和堂
序 本書の目的
第1章 ビジネスにおけるモラル=エージェント――考えたいのはどのようなことか
第2章 市場経済におけるほうとモラル――市場の論理と倫理とはどのようなことか
第3章 制度と組織――共同概念からみた組織とはどのようなことか
第4章 組織生成の論理構造――企業の成り立ちとはどのようなことか
第5章 株式会社の存在構造――会社を所有するとはどのようなことか
第6章 ビジネスの正しさ――あるべき企業とはどのようなことか
以上のことから導かれるのは、市場経済システムの活躍してよい範囲を限定する必要がある、という結論である。少し時代がかった言い方をすれば市場システム帝国主義の拒否である。なぜならば、市場システムは個人を抽象化し手段化するメカニズムを本性的ないし根源的に具えているからである。たしかに、これがあるから他者との観念上の互換可能性ということができる。つまり市場は、たとえ抽象的にでしかないとはいえ、また頭の中だけでしかないとはいえ、相手の立場に自分の身をおくことのできる、他者と自分を同等とみなすことができる社会システム上の可能性、すなわち正義の可能性を与えるという点で全面的に否定されるべきとは思えない。しかし、このメカニズムのネガティヴな部分を見据えておくことは必要なはずである。(p.79)
本来が入れ替え不可能なユニークネスである一人ひとりの個人を、対等な存在者に仕立て上げること(つまり入れ替え可能にすること)で生じてしまう不都合はないか。もし不十分と思い、また不都合があるとすればこのことにどう対応すべきか。(p.212)
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◆UP:050222/REV:060322,060412,060520,060528,060913,060914,060930,061003,061207,070202,0204,0217,0223,0515,0530,1030,080304,1229,110203,0204