◆中村常次郎 (1969) 「取締役会の社会的責任――ニューマンの見解を中心として」
中村常次郎 大塚久雄 鍋島達 藻利重隆編著『現代経営学の研究――柳川昇先生還暦記念論文集』 pp.30-47
…受託者としての伝統的な取り締まり役割に挑戦しようとしたニューマンの主張が、その意義を失うことに成り、ニューマンのいう経営者の立場もまた、いよいよあいまいなものになることを指摘しなければならない。かくして、取締役会の社会的責任についてのニューマンの主張は現実的根拠をもたない1つの見解として、それも1つの規範的提案としてのみ存在しうるにすぎない。(p.47)
◆垣見陽一 (1969) 『新企業体制論――社会的責任の究明』中央経済社
序論
1 企業体制論の方法論的課題
2 研究のねらい――社会的責任
本論
3 問題の提起
4 フォレット女子の経営本質観
5 G・ゴイダーの共同企業論
6 F・タネンバウムの企業体制論
7 回帰闘争と自由主義経営理念――J・バーナムの諸説にふれて
結論
補論 フォレット学説の研究
フォレット女史の経営本質観
使用者は責任回避のため、その分割に付いてよく語ることがある。多くの人たちも責任を回避するための決定を避けるものである。例えば、横暴な亭主の家庭のよくあることである。それで私は単なる責任の分散には賛成し得ない。経営の賛否は責任を委員会、部門管理者、職長に分担せしめた後で、どれほどそれらの責任を相互浸透せしめるかにかかっているのである。連合責任のこの点に付いてわつぃはよく誤解され、私が分権を信じていないように時々思われるが、それを信ずることではあえて人後に落ちるものではない。私は連合責任と分権責任とは相即すべきであり、否それ以上に同一事物の両部分であると思う。(p.39-40)
後者は、いわゆる職能説として歓迎され分業による適材適所が主張されてきたが、その結果、私どもは自身の責任が、それだけで終わるものではなくて、また全体に対する責任があることを忘れる傾向を示している。経営は全構成員が、この責任を感ぜしめるように組織されねばならない。…社会サービスの協同責任(Joint responsibility)感から生まれてくるものほど、労働を尊厳ならしめるものはないのである。これは同時に、経営管理上の問題でもある。すなわち如何にして労働者、経営者、所有者が連合責任を感ずるように組織化したらよいかの問題である。ここにG・ゴイダーの共同企業体制の論理的根拠がある。(p.40)
経営組織における機能と責任及び権限は三位一体的のものである。このことは、化学的管理の工場では、ますます認められつつある。発想係は、その仕事に付いては社長より以上の権限を持っている。職長はよく人事担当者の、例えば任免における権限を嫉視するが、それが大切なのではなくて、その機能が重要であることを知らしめねばならない。(p.62)
この権利の概念は、機能の考え方により実質的に変化し急速に消滅しつつあることは、祝福すべきことである。(p.63)
F・タエンバウムの企業体制論
このような共同体の弱体化は、男女のみならず婦人子供や老若さらに熟練者も負熟練者にも影響を与えた。その効果は、そのなかの諸団体に及び、伝統的な身分社会は溶解し去って、ますます孤立化し、平等で独立した個人により構成されて、ここに始めて人びとは自身に対してのみ責任を負い(自己責任の原理)、同時に他人に対しては最も近親者に対してさえも無責任となるに至った。もちろんこの分裂は、理論的にはともかく、完遂されたのではないが一時代を画するものであった。この古い社会崩壊の直接の原因となったのは、労働者、男女、子供のそれぞれへの貨幣賃金の支払いである。この支払いは、親から子を引き離し老若を平等にしたのである。それぞれへの賃金支払いは、若い人が年長者より、息子が親より以上な生活をするようになり、娘は家を離れて独立に生活するに至った。(p.154)
◆高田馨 (1970) 『経営の目的と責任』 千倉書房
第T部 経営目的論
1 序説
2 経営哲学
3 経営目標の質的側面
4 ドラッカーの経営目的論
5 経営目標の水準原理
第U部 社会的責任論
6 シェルドンの社会的責任論
7 ドラッカーの社会的責任論
8 イールズの社会的責任論
9 社会的責任反対論――とくにレビットの諸説について
10 権力ー責任ー均衡の法則
11 社会的責任論の結論
第V部 統合原理
12 マクレガーの統合原理
13 スキャンロンの経営原理――マクレガー統合原理の実現
14 全体結論
生産と分配は交響の要求によってきまる。このことから、産業は公共へのサービスのために存在するものであるという信条の経済的基礎ができる。サービスは単に経済的なものに終わるのではなくて、動機は倫理的である。(シェルドンからの引用p.120)
分配に関する利潤分配にシェルドンは言及していることに注目しなければならない。あず、利潤分配は労働者が利潤作出に参加しているときにのみ正当化される。そのことは当然であるが、さらに、シェルドンは、利潤は労働と資本だけで分配してはならないという。すなわち、資本と労働が適正な報酬を得たあとは公共全体に分配すべきであろうとする。産業は公共の構成部分であるから交響への配慮も当然であるという。(Sheldon[1924, p98], p129)
経営者が社会の指導者として負うべき社会的責任は、経営者が権限を正常に行使できる領域に限られねばならない。(Management's public responsiblity as one of the leading group should ... be restircted to areas in which manageent can ligitimately clai authority, Drucker[1955=1965, p344]) p145
純粋に公共の利益であるならばなにごとでお、それを企業自身の利益に転化させることが経営者の社会的責任である。(It is management's public responsibility to make whatever is genuinely in the public good become the enterprise's own self-interest. Drucker[1955=1965: 345=下291])
1つの極には、会社は私有財権者たる株主の組織的手段に他ならないという見解がある。会社所有者のための利潤最大化が会社の唯一の合法的機能であるとしばしば主張される。この伝統的会社観では、会社所有者の純粋持分を増加させることを唯一の目的として会社資産を厳格に運用することが基本方針となる(Eeels[1960: 6], p152)
社会的責任という新説に味方する人びとの通常の論述を吟味すると、その正当化は一般に代償論(the quid pro quo augument)である。すなわち、社会的責任はひきあうからである(the spcial responsibility pays off)。それが、会社に直接利益になって戻ってこないで長期的にみてはじえて利益になるものにすぎなくても」Eeels[1960:41], (p153)
母体的会社はその活動を背悪規定された企業目的に限定してはいない。それは広い社会的諸目標を持ち、広い社会的責任をとる。それは、社会の多数の相異なる部分にたいして責任を取る。その経営者は多くの相異なる調停者(arbiters)であり調整者(adjusters)であり、均衡設定者(balancers)である。(Eells[1960:53])
今日多くの人間は会社を『権力』の中心とみなし、その権力を『公正』二使用するように要求している。そして経営者は企業への敵意を恐れるとともに、社会的有用性を証明し社会的承認(public approval)を得ようとする意欲をもつにいたったからである という(Eells[1960: 72-3] p.157)
経営者が社会資産の所有者に対してもつ責任は、経営者が企業の福祉に貢献する所有者以外の人々への義務を認めたからとて、なおざりにされることにはならない。現在及び将来にわたって企業を継続企業とするために貢献を結集するすべての利害関係者の利益を慎重に考慮することは、事実、おそらく、株主の持分を保護し増大する唯一の道であろう。慎重さ(prudence)とはこの場合、会社の利益と、より広い社会の利益とアメリカ理想主義一般との融合を意味する。(Eells[1960: 476],p.162)
レビットは、社会的責任が利潤の手段として理解されている限りは、危険な結果が生まれないが、信念=使命として理解されるようになると、危険な結果が生まれるという。(p169)…従業員福祉方策を増大し、さらに、地域社会、政治、慈善、教育などのことがらに深く立ち入って関係し、社会の好意を得ようとすることによって、企業はすべての義務を応用になる。そして、広い義務を負うことによって大きな権力をもつことになる。そして、人間の生活の全面にわたり、社会の全体にわたって、企業の野心によってすべてを形成しようとするにいたる。「企業がもしその社会的負担、従業員福祉、政治に深入りすると、結局は、上記のような単元的作用を及ぼすことになる」(Levitt[158])
「成員となる」(menbership investment)代わりに要求する報酬である。金銭報酬、承認、自己啓発、能力伸長という報酬である。…人間は組織にすべてを捧げるのではない。彼は自分自身の創意、自立のためなにかを留保している。組織に属していてもなんらかの自由を求める。…p.191人間が組織に求める正義は本質的には分配正義(distributive justice)である。投資(investment)に見合う報酬がなければならない。(p191-2)
彼ら[デイビスとブロムストローム]は均衡法則の内容に相当するものとして、第1に「社会的責任は社会的権力にともなう」(Social Responsibility goes with Social Power.)を主張したが、私はこれをこの均衡法則の意味を示すものと解釈した。第2には、彼らは「責任の鉄則」を主張しているが、私はこれを均衡法則の貫徹の面を示すと解釈した。彼らは均衡法則に関する説明を個々で打ち切り、均衡回復の方策に写っている。しかし、私は均衡法則になお第3命題として「責任を負担する者は権力を得る」を負荷しなければならないと思う。これもやはり法則貫徹に冠するものである。(p.193 )
◆the Research and Policy committee of Committee for Economic Development(CED) (1971) Social Responsibilities of Business Corporations: A Statement on National Policy.
= 1972 経済同友会訳 『企業の社会的責任』 鹿島出版会
第一部 CED『企業の社会的責任』
緒言・序論
第一章 変貌する社会と企業との契約
第二章 新しい企業のあり方と経営理念
第三章 啓発された自己利益 −良き社会に生きる企業の鍵
第四章 広がりつつある企業の社会的活動
第五章 社会進歩のための政府=企業パートナーシップ
CED製作委員の個人的見解と留保意見
第二部 企業の社会的責任について
座談会 CED見解の評価と日本の比較
コメント CEDレポートと企業の社気的責任について
今日では、企業の自己利益は企業がその不可分の一体をなしている社会全体の福祉と分かれがたく結びついており、企業は資本、労働、顧客など企業活動に不可欠な基礎的要素を社会そのものに依存しているのだ、という認識が広まっている。…啓発された自己利益の原則は、もし産業界が社会改良のために遂行すべき責任を回避するとすれば、実際問題として企業の諸利益が危険にさらされるであろうという命題にも根拠を求めることができる。社会の変化うす量急に鈍感であれば、遅かれ早かれ、世論の圧力が高まり、元来企業側としては自発的にやりたくなかったこと、あるいはやできなかったことを政府の介入や規制の下で強制される結果になろう(p.36)
大企業の場合はとくに長期計画ベースで事業を行なっているから、社会改良の事業についてもそれが長い目で企業環境を改善し利益を高める見通しが立てば、短期的には利益を見送ってもコストの負担に耐えることができよう。もっとも、短期的な利益をあまりにお犠牲にしすぎると、やがては、あれこれと思いめぐらすべき長期的展望そのものも失う結果になる。(p.46)
水質汚濁の主たる責任は自治体である。しかし国民は、十分な下水処理にはコストが必要であり、その支払いのためにどのくらい税金がかかるか、あるいはどの程度の価格引き上げが必要になるかといった問題をほとんど理解していない。(p.116)
(座談会 小林宏治日本電気取締役社長の発言)われわれ経営者とすれば、なるべくそういうことはしたくないけれども、従業員にとっては一度握った権利は既得権になってしまいます。ですから今度は企業が土地を買って分譲しろ、家を買って分譲しろ、ということになっているのです。灰の中から立ち上がる過程をとおして、従業員は個人生活を築きあげるのに会社を利用しなければならなかったのです。(p.171)
(座談会 成毛収一ブリヂストンタイヤ取締役副社長の発言)東京で工場を作りましたとき、隣に国立の精神病院がありましたが、工場が大きな音を出すと患者があばれだすということで、音が聞こえないようにするのに苦心しました。そこで工場は病院からかなり離して作ったのです。これがブリヂストンの公害の走り、騒音妨害対策の最初でした。
◆村本福松 (1972) 「経営倫理の基本的考察」 所収 山城章 編『現代の経営理念』白桃書房 p.129-43
1340年代 キリスト教信仰告白者教範(Mamual of Confess) 取引上の悪徳行為(evils of trade)
1 できるかぎり高く売り、できるかぎり安く仕入れること
2 商品を売るにあたり、ウソをいったり、悪口をいったりすること
3 量目、寸法をいつわること
4 先売りをすること
5 見本と違ったものを交付すること
6 潜在的な欠陥をかくして真実を告げないこと
7 実際よりもよく見せるようにすること(p.137)
◆山本安二郎 (1972) 「経営教育における経営理念」」(所収 山城章 編 (1972) 『現代の経営理念』白桃書房 p.144-53)
経営の社会的責任は少なくとも2つの意味を持つ。1つは事業経営に徹して良質廉価な商品やサービスの提供、つまりフォードやドラッカーの奉仕主義である。他は経営関係者の利害の調整である。いずれも経営の社会的・経済的責任の自覚を説くものである。(p.152)
◆日本経済新聞社 (1974) 『企業の社会的責任ハンドブック』 日本経済新聞社
T 総論
1 企業の社会的責任とは
2 なぜ問われているか
3 わが国の現状
4 何が求められているか
U 実践編
1 実践へのマニュアル
2 ケーススタディ
V ビジネス・アセスメント篇
1 日経の「新しいモノサシ」
2 生産性本部の「企業の東郷社会的責任指標」
3 日本能率協会の「複合責任会計制度」
4 アプト社の社会監査
W 資料編
1 経済団体の提言
2 行動基準
3 アンケート
4 参考文献
企業の本来の機能とは、社会がその企業に求めている財やサービスをできるだけ良質で、より安く、安定して提供することであり、それによって適正な利潤を追求しながら、従業員とその家族には生活水準の向上を、株主には適正かつ安定した配当を、消費者には良質かつ安価な便益の安定供給を、それぞれ保障することである。(p3)
大企業の寄付というと、とかく白い目で見られ勝ち。特に最近の企業批判ムードの中では、「今まで儲け過ぎていた」「そんなにもうかるなら製品を値下げすべきだ」といったこえもでており、そうなっては効果もまったくの逆効果。(p85)
家電製品でもカラーテレビ、冷蔵庫、洗たく機は普及率が伸び悩み、モデルチェンジが活発になっている。日本電気工業会調べによると、冷蔵庫の場合、期待寿命十・二年に対し、平均耐用年数は六・四六年で、その分だけ、買い替え需要の創造が行われるしくみである。だがモデルチェンジに反省が求められている。世界的に同じ傾向である。その最も大きい背景は資源不足に対する危機感の対等にある。使い捨てによる廃品回収が企業にとっても大きな責任問題になってきたためだ。(p.96)
三井物産は四十八年七月に発表した同社の行動基準の中で、企業の社会的責任を果たすため「利益還元制度」を創設することを明らかにした。同社の利益還元制度というのは「税引き前利益の二-四%を決算期ごとに、継続的に”社会貢献のための経費”として予算化する」というもの。…この制度の最大の特徴は、社会貢献費として計上された予算はすべて「利益を生まない社会的事業」に使うというところにある。…つまり、企業存立の基盤tのして企業活動が社会に受け入れられるために、社会的費用(ソーシャル。コスト)として出費するわけである。(p.162)
◆Heilbroner,Robert L. et al. (1972) IN THE NAME OF PROFIT, Doubleday & Company, Inc.
= 1973 太田哲夫 訳 『利潤追求の名の下に――企業モラルと社会的責任』 日本経済新聞社 246P
1 どうして私の良心をとがめるのかね?――カーミット・バンディビア
2 製品を安っぽくする決定――コルマン・マッカーシィ
3 ある植民地風の建物――モートン・ミンツ
4 できることをうまくやり遂げろ――テンフォード・J・アンガー
5 このナパーム商売――ソール・フリードマン
6 企業をコントロールすること――ロバート・L・ハイルブローナー
訳者あとがき
しかし、利益が伸びないとき、あるいは経営者がもっとうまくやれると考えるとき、決定は必然的に製品の値上がりにする方向で下される。そうした決定の結果が市かもしれないとき、道徳的無感覚さが収益システムに励まされてむき出しになる。(p.78)
ここで問題にされていることはベトナム戦争の背後にある法則はビジネスの世界でも働いているということだ。その法則とは、自由とか利益という名前において他者に損害をあたえることができるということである。(p.195)
もしそうだとしたら、道義的責任を問う場合、企業組織の中のどのくらい上までさかのぼるべきなのだあろうか?ベトナムで行なわれた残虐行為に関して米軍の将軍たちは自分たちが犯罪に関わりあっているという気持ちを持ち合わせてはいない。同じように、この本に出てくる企業のお偉方も自分が犯罪にかかわりがあるなどとは思っていないのである。そして、軍隊の場合も企業の場合もトップにいる人たちには現実についてぼんやりとした知識を持っているものもいるにはいるが、大多数はそうした程度の知識さえ持っていない。(p.196)
ダウ・ケミカル社がナパーム爆弾を製造するのは利益のためではなく愛国精神のためであると発表するとき、同社の重役たちは社会的責任という感情で気分を高揚させているものと私は確信する。そして同社が大衆の抗議を聞き入れてナパーム爆弾の製造を中止するとき、重役たちは再び社会的善行をしているのだという感情に包まれるに違いない。しかし、このような動機で社会的な問題に関する決定がなされてよいものかどうか私には確信が持てない。(p.209)
私の思うところでは、ビジネスマン自身が自分たちはただの金儲け屋に「しか過ぎない」といわれることにはあまりよい気持ちを持っていないというのが一つの大きな理由である。資本主義の神学にまつわる一つの問題点は、資本家は理論が言うほどには純粋な自己利益だけで動きたがらないということである。(p.210)
フリードマンの理論が論理的であるにもかかわらず人々を説得し得ない第二の理由は、ビジネスと政府との間に、実際には維持されることが難しい関係を想定していることである。その想定とは、政府はビジネスから切り離れた立場でいろいろの規則を作るということ、そして逆に企業は政府の作った規則には従うが、その規則を作ることについては口をさしはさまないということである。だが、各種の規制の歴史を過去五十年間振り返ってみると分かることは、規則を作る立場にある政府の期間はほとんどどれもがその規制の対象となる業界の支配下にあるということだ(p.211)
結局のところ、企業の収益というものは、労働者の汗と、経営者の鋭さと頭と、そして大衆の欲望ー素朴なものであれ、操作されたものであれ―の三社が組み合わさって生み出されるものである。だから、企業の剰余を「社会的」目的のために使うことに関して誰に決定権があたえられるかということになれば、労働者、経営者、大衆の三者の方が株主よりははるかに正当な権利を要求できるのではなかろうか。(p.212-3)
企業を政治化するということは二つの一般的形態をとる。一つの幅広い攻撃の方法は経営者、投資家双方に自らの行為の社会的結果について目覚めさせることである。この作戦の典型的な例は、以前ウォール街で証券アナリストだったアリス・テッパーが率いる経済優先度協議会だ。堂協議会は、企業が弾薬製造、公害、人種に関しての雇用方針、そして海外投資などにどのように関わり合っているかについて、見事な調査を行った。(p.224)
◆乾昭三 平井宣雄 編 (1973,1977,1981) 『企業責任――企業活動に因る法律的責任を問う』 有斐閣
1 企業責任とはなにか――乾昭三
2 企業責任の内容――平井宣雄
3 事業災害と企業責任――平井宣雄
4 公害賠償における企業の責任――徳本鎮
5 旅客に対する運送企業の責任
6 医療事故と病院の責任
7 企業活動と公害(1)――企業活動と権利濫用――森島昭夫
8 企業活動と公害(2)――因果関係を中心に――竹下守夫
9 企業活動と公害(3)――共同不法行為を中心に――森島昭夫
10 企業活動と公害(4)――法人の刑事責任――芝原邦爾
11 製造物責任とはなにか――浜上則雄
12 製造物責任の性質と背金分配――浜上則雄
13 マスコミ企業の責任――三島宗彦
14 船舶事故と企業責任――谷川久
15 企業間の自由競争の限界――渋谷達紀
16 被用者の行為による企業責任――伊藤進
17 企業の責任と被用者個人の責任――伊藤進
18 元請・下請・名義貸与と企業責任――乾昭三
19 自動車事故における企業の責任――伊藤高義
20 企業と工作物責任――中井美雄
21 公企業の責任――古崎慶長
22 法人格濫用と企業責任――志村治美
23 企業責任と損害賠償――篠原弘志
24 企業活動の差止――中井美雄
25 免責約款と企業責任――谷川久
26 企業と無過失責任――徳本鎮
27 企業責任と責任保険――西島梅治
企業はなぜ無過失責任とも呼ばれる重い損害賠償責任を負担しなければならないのか、という問題について、ふつう説明されているところを簡単に紹介しておきましょう。ひとつは、「利益あるところに損失も帰属させるのが衡平である」とする報償責任の考え方です。企業は平素から多くの従業員を雇って利益を収めているのだから、企業活動空に生じた事故について、その損失は企業が負担して当然だと見るのです。この考え方は、事故を起こした労働者の責任わけても使用者の求償を軽減する上で、役立ちましょう。他のもうひとつは、「危険物の所持を社会的に許された者は、危険物から生ずる損害については無条件に責任を負担せよ」という危険責任の考え方です。危険物を所有できるのは、社会から特権を認められたことになるから、特権に応じた思い責任を負担して当然だと主張します。(p.10-11)
危険な企業活動が許される以上、企業には損害を防止するための行動の注意を払うことが要求されなければなりません。つまり、企業に高い注意義務を課すこととのかねあいで、危険が許されることになるわけですこのように、事業活動から生じる便益と危険とのバランスをどのようにしてとるかが、事業災害の最も基本的な問題なのです。(p.26)
企業は、危険を生じさせ、それを支配管理することによって、利益を上げている、という点で巣。もっとも、産業資本主義勃興期のように無秩序・無制限な利益追求は、現代の企業にはもはや許されないと言えるかもしれませんが、絶え間のない技術革新やあくことなく生産性の向上を求める企業の行動には利益の追求がその大きな動因となっていることはいうまでもありません。危険をもたらすことにより利益を上げているなら、企業は危険から生じることあるべき損害を補填すべきではないか、という考え方がここから生まれてきます。(p.26-7)
どういう場合にいかなる損害が生じるかを予見するのは、高い注意を払っても実際に難しい場合があるかもしれません。しかし、損害を予見し、防止することが期待されるのは、新製品・新技術を生み出した企業の専門的知識しかありません。したがって、たとい、道の危険であっても、そこからの損害を予見し回避する能力が企業に要請されなくてはいけません。(p.27)
事業災害は、不特定多数のものに生じることが多く、生じた損害が思わぬ方向へ波及する程度が高く、損害額は極めて莫大なものになりますが、損害の予見能力をもつ企業はそれを分散することが技術的には可能であるという点です。すなわち、企業は少なくとも一定の範囲では、保険というしくみを通じて生じうべき損害の負担の危険を分散させることができ、しかも分散のための対価(保険料)は、競争力を低下させて利益に影響を与えることにならない程度においては、製品のコスト等に組み入れ、事業活動によって利益を受けるものに転嫁することができます。(p.27)
事業災害は企業の代表者あるいは被用者個人の行為から生じたというよりも、企業の支配管理する危険そのものから生じたと考え、企業という組織体・経営体そのものの責任を問題とするほうが実態に合っていると考えるべきでしょう。代表者や被用者個人の行為を問題にする場合でも、企業の責任を追及するための現行法上の法技術がもたらす結果なのだと考えた方がよいと思われます。(p.28)
過失を立証する資料は、危険な物や行為を支配管理する企業の手にあるのが普通ですから、被害者が立証しようとするのは難しい場合が少なくありません。そうだとすると被害者にとって甚だ過酷なようですが、判例は企業側の過失成立をきわめて容易に認めており、実際の結果においては、無過失責任を認めたにひとしくなっています。先に一言しましたように、学説も無過失に結論をもたらすような法理論を作り出すように努力をしており、事業災害における過失は、過失責任から無過失責任への移行点にあるとか、過失の衣を着た無過失といわれるくらいです。(p.30-31)
◆求償権の制限 企業が被用者に対し使用者として賠償責任を負うのは、本来被用者の負担する賠償義務を代わって履行しているにすぎないというのが、通説・判例であることは前に述べました。この考えでいくと企業が被害者に支払った賠償金は、被用者に求償できるのは当然ということになります。しかし、これを当然視し被用者に全額の償還義務を認めますと、我々の今日の日常間隔から見て疑問が生じます。その被用者の行為から収益をあげたときは企業がそれを取得することになりますが、たまたま違法であったときは被用者自身がその損害を負担しなければならないというふうに企業活動に従事する被用者は、自身の責任で活動しなければならないのに甘い汁だけが企業に吸い上げられてしまうことにもなりかねないからです。それでは、被用者は、生活をしていくのに精一杯の給料からこれを償還していかねばならないことにもなります。この結果は被用者は小心者となり企業活動において萎縮してしまうことにもなって、企業活動そのものが停滞し発展を阻害してしまうことにもなります。(p.244)
◆企業と被用者の責任分担関係 このことを考えるに当たって最も参考になるのは国家賠償法1条2項です。そこでは賠償責任を負担した国または公共団体は、公務員に故意又は重過失があったときは、公務員に求償できるとしています。そこでこの前提として、公務員の経過質の場合は公務員自身には何ら責任がなく、国・公共団体自身の責任であるとの条例理論を形成してきています。行為・重過失の場合と経過質の場合とでその不法行為責任の分担者を決めようとする考え方といえます。(p.249)
もし責任保管が加害者の保護手段に過ぎないならば、それは社会全体からみて尊重されないだけでなく、むしろ反感を買うおそれがあります。なせなら、保険会社が保険金の支払いをしないですむように加害者の賠償責任の証明するため八方手をつくすことになるからです。医師や食堂経営者は、治療上のミスや料理による客の食中毒などを発見されて業務が行きづまることがこわいため、責任ありとして保険金をもらうよりも、責任なしとして保険金をもらわないほうが、ずっと得だと考えます。保険会社にしても、保険金支払いによる事後的救済よりも責任追及に対する防御という事後的救済に責任保険のセールス・ポイントを置くことがあります。(p.381)
◆高田馨 (1974) 『経営者の社会的責任』 千倉書房
T 社会的責任肯定論
(1)社会的責任の意味
(2)社会的責任と経営活動
(3)社会的責任の問題点
(4)社会的責任論の要点
(5)社会的責任の問題領域(とくに環境諸主体)
(6)社会的責任実行の基本原理
U 社会的責任否定論
A 代表的諸説
(1)フリードマンの主張
(2)ハイエクの主張
(3)ルイスの主張
B 否定論の概括
(1)社会的責任の弊害
(2)利潤最大化原理の主張
(3)条件
(4)社会的責任否定論の意味
(5)社会的責任否定論の問題点
V 結語
(1)肯定論と否定論の比較
(2)協力原理の重要性
私見では、社会的責任の本質的意味は、人間の主体性尊重の責任である。人間の主体性を認める責任は、人間が具体人としてもつすべての欲求を満足できるように努力する責任である。そして、具体的人間が持つ欲求には経済的欲求のほかに非経済的欲求のすべてが含まれる。したがって、人間の主体性尊重の責任としての社会的責任のなかには、既述の狭義社会的責任のほかに経済的責任も含まれる。(p.3)
以上で知られるように、協議社会的責任と経済的責任は密接に関連しながら人間主体性尊重の責任の中に含まれているのである。この人間主体性尊重を講義社会的責任と見るとき、これこそ新の社会的責任である。これによってこそ、はじめて、具体的人間の全欲求を満足させる責任が考えられるのであり、これこそ新の社会的責任と言わねばならない。(p.4)
企業はもともと財貨・用役の生産とその経済成果の配分を担当する組織体であり、そこでは、経済的責任と狭義社会的責任とは独立無関係のものと見ることはできないことを知らねばならない。もちろん、経済的責任も広義社会的責任にとり必要条件ではなるが十分条件ではない。(p.5)
「自発性」といえども、その背後には環境諸主体の要請ときには強制がある場合があるが、それをもって直ちに他律的とはいわない。たとえば、労使関係において、労働関係諸法律にもとづく強制や政府介入があるとき他律的であり、労働協約の内容に付いては自立的であるものが含まれうる。また、公害問題でも、公害関連法律によるものは他律的であり、公害防止協定は自発的でありうる。(p.21)
経営学が取り扱う社会的責任は経営問題としての社会的責任であり、それは、経営者の自発性=自立性による社会的責任の経営理念化と実行を意味する。経営者の対立的な社会的責任は、むしろ、経営者に社会的責任を負わせる権力を持つ経営者以外の主体とくに広義政府そのものの社会的責任の問題として経営学以外のところで問題としなければならない性格のものである。(p.22)
実は、権力−責任−均衡法則がある。もし、私企業が責任を負わないならば、その権力は責任を負担した他のものに移ってしまうのである。上述で、自由保持の条件は責任を負うことだといったが、このような条件が生ずる根拠は、実は、権力ー責任均衡法則なのである。…この法則は、人間の長年の経験のなかから導き出された法則であり、これを認めざるを得ないとおもう。とすると、企業が<私企業の自由性・自律性への要求>をみたそうとすれば、自発的に者気的責任をおわなければならあいというkとおになり、先に述べた<自由保持の条件>が生ずることになる。(p.27.8)
社会的責任否定論者といえども、肯定論者と同じく、アメリカの自由企業体制の保持要求を根底にもっている。社会的責任に反対する根拠は、社会的責任によってかえって自由企業制、自由社会、多元社会がそがいされるというところにあるのである。(p.36)
「会社の権力は是認されているのであるから、その権力を社会のために活用できるし、しなければならない」というのが社会的責任肯定論の主張の要点の一つである。とくに、「企業権力は社会のために活用できるし、しなければならない」という主張の根底には、企業の大きな自負心があることを見逃してはならない。(p.40)
社会責任肯定論は、はじめから責任の存在を肯定している。しかも、すでにみたように権力の存在を認めている。こうして、責任と権力の存在を認めている以上、「責任鉄則」を認めざるをえないであろう。なぜなら、「責任鉄則」は「責任を回避すれば権力を失う」ことを意味するが、権力喪失はこれを経営者は欲しないからである。(p.41-2)
ハイエクは立法と行政を明確に区別していることに注意しておかねばならない。さきに、政府・政治家が会社経営に介入することに対しては彼は反感を示したが、「わく組み」における「法的わく組み」(legal framework)は是認している。経営者が株主利益に奉仕せざるをえないように法による枠組みを設定しておきさえすれば、経営者の目標が一元化し、「社会適正人」論に惑わされて政府の介入を招くようなことにはならないと考えているものと思われる。また、政府の介入は「経営者がなにをなすべきか」への介入であり、経営目標そのものへの介入であるし、政府の恣意が入るが、法的枠組みは制約条件であり、これさえ確立しておけば経営目標そのもののも単一化し政府の恣意が入り込む余地はないとも考えているとおもわれる。(p.89)
経営者の型が所有経営者(owner manager)であろうと専門経営者(professional manager)であろうと、経営者は自利心(self-interest)を強くもっているとみられる。…強い経済的自利心が経営者の本質とみなされる。ところが、社会性任肯定論は倫理(ethics)を強調し、利他心(altruism)を肯定する。しかし、この利他心は経営者の本章とは異質のものである。したがって、社会的責任は経営者の本性とは衝突・矛盾するものである。(p.101)
社会的責任がエコノマイジングを妨害するという批判の意味は、上述のように理解できる。そして、このような批判の根底にあるのは、市場に参加する各人が自利心にもとづいて意思決定し(企業は利潤最大化原理によって意思決定し)、それが最高度のエコノマイジングをもたらすのであり、この意味で私益と公益は一致するという自然法的調和感。楽観論であることは詳しく述べるまでもないだろう。(p.108)
「責任を負担すれば権力を得る」を利用して、責任を負担しているようにみせかけることによって権力を得ることを考える経営者もあるとする見解もある。いわば偽装された社会的責任であり、もともと社会的責任はそうした偽装であり偽善にすぎないという批判もでてくる。(p.113)
利潤追求が「見えざる手」によって公益を実現するという原子論的競争、完全競争の条件が実在しない状況においては、経営者が利潤最大化に専念することによって政府の課題は日増しに増加することは明らかである。そして、政府がその課題を果たすことは、企業への制約、統制、干渉、制裁が日増しに増加することを意味する。このことは、企業の自由が縮小することを意味する。しかも、社会的責任否定論は「経営者は利潤最大化に専念せよ。」とすすめるのであり、明らかに自由企業性を是認しているのである。
自由企業性を是認していながら、結局は、上記のように、企業の自由を縮小するというパラドックスに陥ることになる。(p.132)
◆鈴木治雄 岸本重陳 太田薫 大野力 (1974) 『企業の社会的責任とはなにか』 昌平社
第1部 企業とサラリーマンの社会的責任 鈴木治雄 太田薫 大野力
第2部 社会的責任論 岸本重陳 大野力
第3部 企業の内であれ外であれ人間らしく 大野力
『企業革命論』と私の考えの異なるのは、岡本説が経営者公選制をもって、内部制度に一挙に支配的権威の転換を求めるのに大して、私の場合は、あくまでサラリーマン一人ひとりの職務の場から、企業内に人間の権威の浸透を図ろうとする点にあります。そしてそのことは、岡本説が職務そのものにおいては、そしきの命令系統に属するものとしているのに対し、私の場合、まさにその職務の実質においてこそ、サラリーマンの発言権が認められるべきだとしているところが相違しております。(p.218)
1 企業の構成員は、自分が担当する業務の社会的有効性について、企業経営者に対し、資料、情報、見解の提示を求め、またそれに関して意見を述べる権利を有する。
2 もしそのさい、見解が相違した場合は、企業経営者は関係者を含めて公平に議論できる機会をつくらなければならない。
3 企業経営者とその構成員との間に、構成員の担当する業務の社会的有効性に関し企業内で合意が得られない場合は、どちらからでも外部の審議機関に提訴することができる。
4 外部の審議機関において、十分に納得できる根拠があると認められた場合は、企業構成員は、みずから命ぜられた業務を拒否することができる。
5 企業は、1-4項の行為を理由に、その当事者に対し、いかなる不利益も与えてはならない。
6 企業は、その構成員の基本的人権にふれる事項を、指示命令してはならない。
7 前項に監視、企業経営者とその構成員の見解に一致が見られない場合も、1-5項が適用される。(p.220-221)
◆中村一彦 (1977,1980) 『企業の社会的責任 法学的考察 改訂増補版』 同文舘出版
第一部 総論
第一章 企業の社会的責任に対する法学からのアプローチ
第二章 企業の社会的責任の発生要因――とくに「所有と経営の分離」について
第三章 「企業」「経営者」および「社会的責任」の法律的意義
第二部 各論
第一章 政治献金と企業の社会的責任
第二章 企業の社会的責任に関する一般的規定
第三章 株主運動と企業の社会的責任
第四章 議決権行使の代理人の資格制度――企業の社会的責任の視点から
第五章 利益の供与の禁止
第六章 経営者の社会的責任
第七章 経営者の社会的責任と取締役会の構成
第八章 会計学の領域に対する法学的アプローチ――企業の社会的責任の視点から
第九章 独占禁止法と企業の社会的責任
第十章 責任ある企業社会は到来するか
結局、筆者によれば、一定の規範的順にもとづく社会からのサンクションと、それに適合する企業内部の経営者の職務を中心とする組合の総合による社会的責任を確定すべきであるということになる。(p.38)
商法上、会社は営利を目的とするので(商52条1項、2項、有1条1項参照)、いわゆる営利法人に属する。すなわち、会社は対外的な活動によって、利益を獲得し、その得た利益を社員に配分することを目的とする法人である。これは、企業の主観に契機を求めた伝統的な商法の考え方である。(p.41)
「経営者支配論」は、経営者の新たな行動基準の探求という形で、経営者の社会的責任の問題をクローズ・アップする。そして、経営者支配の性格としては、私的資本から完全に中立ではなく、むしろ私的資本の繋縛のもとにあると解すべきである。このような性格を前提にして、経営者支配に対する社会の側からの有効なサンクション・システムを法的にも検討しなければならない。(p.73-4)
商法上、会社は営利を目的とするので、いわゆる営利法人に属する。すなわち、会社は対外的な活動によって、利益を獲得し、その得た利益を社員に分配することを目的とする法人である。しかし、会社が利益を社員に分配することを目的とするとは言っても、これは制度としてそういうたてまえになっているだけのことであって、ここの会社が臨時のその利益の限られた一部を社員に分配することなく寄付することが右のたてまえを崩すとは考えられない。今日の会社は、社会との関係に足には存続しえない。会社の収益源が一般消費者ないし国民大衆の尊属に依存しているからである。企業の社会的責任の視点に立てば、経済学でいう利潤最大は企業の存続のための必要条件の一つであって、それだけで十分条件をなすものではない。(p.121-2)
市場経済の原理によっては解決できない事態に対処するためには、競争秩序維持政策とは別のほうの手段によって迫られなければならない。しかも、困難ではあるが、競争秩序維持政策とは矛盾しない、市場メカニズムを保管するような法的手段が必要である。たとえば、消費者の保護は元来市場メカニズムを通じてなされてきた。しかし、独禁法が完全に発動されても、なお解決できない問題として、欠陥商品の問題が発生してきた。これに対する対策としては法律または行政機関による保護ないし救済という方法もあるが、企業の意志決定に消費者が直接参加できるような法的仕組みが考えられてもよいのではないか。また、株主の提案権や解説請求権などの付与によって、大衆株主の強化を図れば大株主や経営者の会社支配力はそれだけ制御されることになり、これは間接的に競争秩序を確保することになろう。(p.157)
悪意・重過失の挙証責任は、一般に被害者にあると解されているが、筆者は取締役が悪意・重過失のないことを立証しなければ、その責任をまぬかれないと解する。取締役と会社の利害関係者とのあいだには、一種の準契約的関係を犠牲することができるから、基本的には債務不履行の一般理論によって解決すべきで、ただ取締役の責任の過大化を防止するために軽過失を免責事由としていると解することができるからである。(p.215)
一つは、個人責任から組織体責任への変化である。近代法は個人主義の立場をとり、その自由な活動を保証したため、不法行為に付いても、行為者個人に過失があるかどうかを判断し、責任も原則として個人が負担してきたが、企業内の労働者の立場、被害者の利益の配慮、企業独自の活動の自由から見て、企業自身が賠償するのが当然という考え方が出ている。もう一つは、過失責任から無過失責任への変化である。周知のとおり、近代法において個人の責任が過失責任を原則とするのに対し、企業責任は無過失責任という考え方が強まっている。乾昭三「企業責任」、加藤一郎「企業責任の法理」『ジュリスト』578号
◆山形休司 (1977) 『社会責任会計論』 同文舘出版 271P
序章 問題の提起
第1章 会計と効率の測定
第2章 ソーシャル・プログラムと会計
第3章 環境会計論
第4章 社会監査論
第5章 社会的コストの測定
第6章 社会的コスト論
第7章 社会的業績会計
第8章 社会責任会計モデル
第9章 社会責任会計の実例
第10章 企業社会報告の基準
社会責任会計とは、まさに、そのような企業の社会的責任業績についての測定・報告を意図した会計である。したがって、それは伝統的会計の財務的業績測定だけでは満足せず、社会的責任領域での活動業績の測定。報告をも目指した会計である。(p.i)
社会的費用(収益)は、その社会取引の結果として、企業のよって費消(付加)された諸資源の、社会にとっての犠牲(ベネフィット)をあらわす。言い換えれば、社会的費用(social overheads)は、企業のマイナスの外部効果の測定価値であり、社会的収益(social returns)は、そのプラス外部効果の測定価値である。(p.12)
社会的利益(social income)は、企業の期間的純社会貢献額を表わす。それは、企業の伝統的に測定された純利益と、その総社会的費用とその総社会的収益の台数和として計算される(p.12)
たとえば、製造原価の中に、環境を破壊しないで商品を生産するために必要なコストを含めようとはしなかった。言い換えれば、会計目的のための私的コストの中に、公害コスト(pollution cost)を含めようとはしなかった。それは、郊外を無くすために費やすコストは、個別企業の観点からは、利益に不利に作用すると考えられたからである。その結果、原稿報告実務の下では、能率的でありえるように思える企業が、実は、社会的には非能率的であることもありえるのである。(p.116)
会計報告は、企業ないしは産業が引き受けるべき責任を査定するための基礎を読者に提供するような、付加的ディスクロージュアを用意すべきである。企業の社会的責任についての情報要求は、もし会計がそれを要求するというチャレンジに答えなければ、他のものによって満足させられることになるであろう。したがって、会計は公害コストについて、ディスクロージュアを用意しうるし、すべきである。(p.119-20)
大まかにいって、企業の活動が、ただ企業自身のコストとベネフィットに影響するだけの時には、私的価値と社会的価値とのあいだに乖離はない。そのような場合には、企業自身のための利益の追求でなされた決定とか行動は、両者の最適化を結果するであろう。(p.130)
なぜ企業が社会的プログラムや環境プログラムを試みるのかとか、そのようなプログラムが株主の最大の関心事であるかどうかは、ここでは、問わないことにする。ただ、そのようなプログラムの多くは、法的に要請されているものであり、たとえば、作業安全プログラムとか、公害削減プログラムのようなものがある。他のものは、訴訟を避けるためプログラムで、たとえば、製品の安全性とか少数民族雇用プログラムがその例である。あるプログラムは一般大衆のイメージの改善とか、企業にとって有害と考えられる製品ボイコットとか、規制のための政治的圧力を和らげるためのものである。社会的プログラムの中には、会社の経営者の利他的社会関心に根ざしているものもある。…そこで、社会的プログラムを支持する人々は、典型的には、そのようなプログラムが企業の存続と長期の利益を保障すると言うのである。(p.134)
企業の社会的業績を強調する立場は、往々にして、個別企業の立場が直ちに社会的立場に通じるという誤りを犯している。社会的業績が上がれば良いのは言うまでもないが(そのことは、たとば、社会的富の増大があるということなので)、そのことが直ちに、個別企業の社会的業績が上がればよいということには結びつかない。(p.164)
社会性が第一義的であるならば、儲からなくても社会的に意義ある仕事であるならば、そのような仕事からの撤退はできないはずである。そこに資本の論理があり、社会的生産と私的生産の矛盾が見られる。したがって、社会的業績というのは、個別企業の立場からは手段としての意義と、事後的でしかも受動的に決定されることがらなのである。(p.165)
資金配分のための、目立った、しばしば唯一のように見える基準というのは、会社に対する申込人の関係、ないしは会社に及ぼすインパクトである。言い換えれば、寄付決定の場合のひとつの基準は、会社自身の利益に照らして決定されることである。…第二の観察事項は、利用可能な資金の配分に、トップ・マネジメントによって割り当てられた時間の長さである。8社の場合のすべてについていえるのであるが、トップ・マネジメントは非情に感覚的と思えるような領域に大きな興味を示すのである。…3番目に、一度”勝ちある理由で配分”がなされたならば、贈与された資金が要求した問題に使われた同化を評価したり、あるいは将来も資金的援助をなすべきかどうかを検討するような、フォロー・アップが、実質的にはないことである。(p.168)
社会責任会計の実施上の最初のステップは、まず、「トップ・マネジメントの支持を得ることである」という指摘がある。このことをとくに意識しておきたい。社会責任会計は、まだ形式・内容とも整ってはいないが、不十分な形のものでも、まず実行する意欲をトップが持つことが肝要である。(p.250)
◆森田章 (1978) 『現代企業の社会的責任』 商事法務研究会
第一編 米国における企業の社会的責任の展開
第一章 社会的責任論の発生・展開とその背景
第二章 バーリー・ドッドの論争
第三章 会社の寄付についての法展開
第四章 会社行動と利益原理
付論 ヘラルド事件の評釈
第二編 株主提案権の機能と企業の社会的責任論
第一章 問題の所在
第二章 株主提案規則制定の経緯
第三章 株主提案規則の運営
第四章 株主提案権の新展開
第五章 株主提案権の機能
付論 SEC株主提案規則の改正 −1976年改正(現行規則)
第三篇 企業開示の強制
第一章 社会問題とSECの規則制定権限 −NRDC判決の紹介
第二章 「開示」実現のためのSECの強制訴訟手続
第三章 不正支出の開示 −ウォーターゲート事件の余波
第四章 外国賄賂禁止立法 −1977年証券取引法の改正
1935年に、ドッドは、右のようなバーリーの諸説に対して、次のように述べた。すなわち、バーリーの指摘するように、私的企業の経営者が投資者以外の人々の利益に奉仕することを可能にさせるような法原則は、存在しない。労働者や消費者の一定の最低限の権利は、立法により与えられることが可能であり、また、かなり与えられてきている。しかし、これ等の立法が、基本原則を実質t系に変更するのではない。法による最低賃金の支払い、あるいは法による最高価格の遵守という義務は、従業員や消費者に対する忠実義務ではない。一般にいうと、そのことは、企業が全体として負う義務であり、経営者が個人的に負う義務ではない。(p.23)
初期の判例は、チャーターの規定を厳格に狭く解釈した。…裁判所は会社に金銭的な利益が結果されることの明らかな寄付をも、ウルトラ・ヴィーレスとしたのである。…しかしながら、州が、19世紀末に、チャーター規定の制限を緩和する会社法を制定しだしたために、チャーター規定を厳格に狭く解釈することは、妥当性を欠くようになってきた。…会社のなす義務と会社のビジネス目的との間の関係が、直接的であるかあるいはきわめて近い場合であって、しかもこの寄付が会社に経済的利益をもたらすことの証明がなされた場合に、裁判所は、この会社のなす寄付を有効と判断した。(p.55)
裁判所はいったいどのような場合に「利益」があると認めてきたのであろうか。a従業員に火契約上の手当を支給すること。b従業員の新規採用のための寄付。c善意(god will)の創造 (p.56)
ブランバーグは次のように述べている。すなわち、このような寄付は、直接の経済的利益を結果しなくても、ビジネス目的を充足している。「利益」という言葉は、ビジネス目的の充足と気宇との間の関係における「合理性」という言葉に置き換えられうると。また、これ等の判決に共通していることは、寄付額が会社の収益に比して相対的に商学であったことである。判決25はinternal revenue codeの寄付に付いて控除規定を基準として、税引き前会社利益の5%を上限とみなしたのである。(p.67-8)
株主提案がなされた場合に、経営者がその内容を自発的に受け容れることがあるのは注目されよう。経営者がこのような行動をとろうとする理由は、提案が提出されたときに生じるパブリシティの圧力によるものと思われる。けだし、普通の会社ニュースはめったに大見出しにならないが、贈賄、公害、対南アフリカ接近政策は、大見出しになるといわれるからである。社会問題に関する提案は、パブリシティを獲得しやすいものであり、それによって経営者はその対応を迫られることになりやすいようである。(p.236)
◆対木隆英 (1979) 『社会的責任と企業構造』 千倉書房