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企業の社会的責任 (年表 / 文献 / 論)
Corporate Social Responsibility (CSR)



 


◆Goyder George. (1951) The Future of Private Enterprise, A Study in Responsibility
=1964 名東孝二 垣見陽一 訳 『私企業の将来――社会責任の一研究』 税務経理協会 p.207

 
第一章 緒論
第二章 産業の意味
第三章 産業の法律構造
第四章 産業は誰れに責任を負うべきか
第五章 産業の目的
第六章 政府干渉の限界
第七章 産業における自然的秩序の問題
第八章 産業における法の機能
第九章 信託制度としての会社
第十章 アッベとカールツアィス財団
第十一章 産業責任の最近の発展
第十二章 地域社会、消費者と産業
第十三章 責任会社 T一般目的
第十四章 責任会社 U通常定款
第十五章 責任会社 V利潤と配当
第十六章 結論

 われわれは株主以外の四集団は誰れであるか、産業におけるそれらの機能は何であるかを検討して、現在の私的所有と私的利潤の制度が、産業上の決定に責任ある協力者として参加する他の集団と調和しうるためには、実際的で、また立法的ないかなる手段がとられるべきかを決定せんとするものである。(p.9)

1809年に、文学界と社交界の寵児であるサー・ウオルター・スコットが、かれの出版業者バランタインの名ばかりの組合員たることをー肝要だが、不注意にもー引き受けたために、130,000磅という莫大な金額支払いの負債を持つにいたったことが1825年には評判となった。サー・ウオルターが貸主に支払うために骨肉を削って苦労したこと、破産を逃れるために非凡の努力をして、その著作によって二年に40.000磅を稼いだのであるが、ついにその健康をむしばまれたことは、文学史上の悲劇のひとつとなっている。これが有限責任性要求への新しい弾みとなったのである。もしスコットのごとき偉大な人でさえ破滅に陥るとすれば、誰しも地震の安全性を考えることはできないであろう。かかる要求は、天才ロバート・ロウイ(後のシアー・ブルック卿)とブラムウエル卿の協力によって実現されるに至った。かれらは、新有限責任会社の名前のあとに「有限」(Limited)なる言葉を付して、それと引き換えをする一切の人々に注意を与えるという工夫(くふう)をしたのである。(p.12)

 会社法はそれ自体で、その会社の福利の維持のために地元社会へ会社の義務を取り上げてはいないのである。原稿会社法が取り上げているものは株主に対してであり、かつ株主のみに限られている。そして会社関連法規の唯一の権利義務負担の対策は株主と株主取締役である。このことが産業の運営や産業の関係集団間の関係にいかなる影響を及ぼすものなりや?(p.19)

 明らかに、株主はその所有株式の価値だけしか産業に貢献してはいない。したがって株主の危険はその株式だけであって、しかもしれは前もって予知され、またたいていの場合前払いされることによって軽減されるのに対して、従業員の危険は未知で、予知できず、前払いもされない。何時かれは職場で障害を受けたり無能力にされるか、また解雇されるか分からないのである。(p.21)

 しかるに従業員の地位は[これら企業家の危険にくらべると]その仕事が労多く不愉快なこともしばしばあったにしろ、危険は少なく、また他の仕事を見つけることにも慣れていたし、結構間に合ったのである。よしできないにしても、親戚の農家にいく溶かして、その場を乗り切れえたし、最後の切り札は何時でも移民という手段があった。とかくかれの危険は雇傭だけの問題であり、その貯蓄はその手元に残った。かれの危険は大きかったが、雇い主とは異なり限度のあるものであった。1862年までは、事業の失敗の衝に当たったのは、雇い主であって従業員ではなかった。したがってかかる事情のもとで資本家の地位が、法律によって保護され、危険が存するかぎり「所有制度」が確保されたのはけだし当然である。1760年の近代産業の夜明けから1862年までの百年間における大きな危険と失敗の頻発した時代におけるかかる資本家の産業危険の負担と全財産をかけての危険負担の職能を見逃してはならないのである。このことは往々批評家によって看過されがちである。[ところが]1862年の会社法による有限責任制度の強制は、ここに産業における諸集団間の相対的な危険負担に根本的な変質を将来するに至ったのである。(…)1862年の法律によって株主は安全性を確保したが、反対に従業員は不安定さが増し、その地位に新しい危険を将来したのである。(p.22-3)

しかしながら組織がこのようでは、産業における株主の影響は次の二点において有害である。それは第一に、自己の立場における利益の追求に、他のすべての問題を従属させてしまうということ。第二に、産業支配権を奪うことによって、他の集団である従業員、消費者、地域社会がその共通利害になるような産業における目的や条件を作り出すことに参加する権利を阻害するということである。利潤動機は敵ではない。けだしそれは自己保存の本能に属するものであって、空腹の衝動と同じく不可避的なものである。悪いのは、産業の一集団が利潤獲得の手段を支配する地位にあり、したがって相互協約の世界から決定権を奪い去ることである。これは、人間を目的としてではなくて、手段として取り扱うことである。(p.34-5)

 その結果政府(とくに商務省と調達省)が控訴院としてではなく第一審裁判所として、当該産業の多数の企業間におこる持分の複雑な問題について、自ら判決する地位に立たざるをえないのである。しかもしこでは、その正しい問題の解決には、いかに有能であっても政府の関係者が支配しえないような産業知識を必要としているのである。(p.50)

 このように地方の建設業者は、大契約者に比して不公平な不利に立たされることが多いのである。[かくて]政府はその一般性と無感覚によって、不断にまた無自覚のうちに企業を萎縮さしているのである。このことは小企業の分野にとくに多いが、それはその性質上政府の直接統制に不適当だからである。(p.51)

 過去二世紀にわたり、西洋文明に比類なき物質的恩恵をもたらした私企業制度の存続性の課題は、産業四集団の権利の調整を通して産業をして、それ自体の構造の内で決定されなければならない正しい目的に奉仕せしめる、われわれの能力にかかっているのである。この調整の達成は、経営者の最高職能であると同時に、また立法者の最高課題でもある。(p.55)

 「あくまでも各人は工場所在の社会にとって未知の人々のために働くのではなくて、まずもって自分自身と家族のために最善をつくすのであり、次にその運命共同体である工場の保持のために、そして最後に、財団を通してその地域社会のために働くのである」と。(ナチスに迫害を受けたカールツァイス財団役員の1930年の言/p.79)

 この信託の特異なる性格は、経営会議のメンバーは利潤分配計画に参与し得ないということである。さらにかれらの最高の報酬は、従業員の平均賃金の十倍を越してはならないようになっている。(p.85)

 リンカーン自身の言葉でいえば、「株主はこの制度の成功になんら新しいものを貢献したのではない。その貢献は少ない。したがってその貯蓄の中の分け前は比較的に少なくすべきである。もしも(従業員の誘引にもとづく生産性の増強から出てくる)貯蓄が「利潤」とよばれて名ばかりの株主への大部分向けられるならば、この制度は失敗するであろう」と。リンカーンはその経験則によって、総費用に対する販売価格の比率を一定に維持するのである。したがって販売価格でのコストの節約は消費者の手に渡るのである。従業員は、そのボーナスや配当の源泉を販売増加によって出てくる利潤に依存するようにされている。消費者はコスト低下の利益を受ける資格があり、また受けねばならないとリンカーンは信じている。(p.95)

 もし産業が将来十分な能率をあげるとすれば、地域社会に対してなんらかの責任を負わねばならないのである。従業員に対する産業の新しい態度、すなわち従業員は目的であって単なる手段として扱うことはできないということを理解するならば、[とうぜん]地域社会に対する産業の態度には再検討を不可避とするに違いないのである。…かれが、その働く会社の利潤の一部が自分の住む近隣の福利の改善に使われ、自分の仕事によって妻や子供や隣人が直接恩恵をこうむっていることを知るならば、自分の仕事が社会に奉仕してその有用なる一員として知られんとする本能を内心で満足させるであろう(p106)

 フランスにおける工場と地域社会との間の一層の結びつきを通して、人間的意義を増進させるという理想と、アメリカにおける高能率の大量生産による消費者への奉仕の理想とは[その間の]関連性をもたせる必要がある。(p.107)

 国家としては、ひとつの方法が主張されるのである。それは、基本定款のなかにある会社の目的宣言に、会社の一般目的のひとつとして(企業の環境に適した意味を持つように定義された)社会の利害を尊重する胸の一条項を含ましめることである。そしてそれに対応する通常定款の規定があって、そこでは「地域社会」担当の取締役の選出方法や権限が決定されていて、かれは総会で社員に答弁する特別責任を持ち、取締役会によって任命されるのである。もし通常定款の中で、政府の所管省の代表者が年次総会に出席して特定の取締役の報告書について発言しうる権利を持つように規定が作られるならば、国家に対する責任の連鎖は会社の自治を阻害したり、または国家をして私的産業経営に責任をもたせるようなこともなく、完全なものとなるであろう。(p.114)

 利潤の分割については、一定限度内で前もってこれら四つの主要目的の間に協定がなされるべきである。会社利潤への最初の賦課は、準備金の強化と運転資本や拡張資本への準備でなければならないのである、このことは、会社が自分自体に対して負う責任から生まれてくるものである。(p.139)

 問題解決の方向は、利権[配当]の最高率を規定するよりもむしろ、利権[配当]支払い期間の法的限度を規定することにある。公衆に発行する産業の普通株の最高期間が、五十年といわれるのも道理のあることである。…資本の過去の危険に対して褒賞することは、なお公正なことである。しかしその褒賞が永久に続くべきでないのは、従業員が退職後も永久に支給を受けるのと同じことである。この段階にある資本は、責任会社において従業員が受けるのと同じように年金を受けるべきである。(p.146)

公的会社の場合には、いかなるときでも会社における産業会社株の議決権行使の最高機関を五十年に制限するよう規則で定める必要があるということである。このことは、この種の法的行為が公的会社に制限されるべきか、有限責任会社全部に等しく適用されるべきかの重要な問題を提起することになるのであるあ。論者によっては、私的会社は家族的利害によって大きく支配されているという理由で、社会的に無責任になることが少ないと思われている。(p.148)

 


 

◆野田信夫 (1951) 『企業の近代的経営』 ダイヤモンド社 243P

 
T 序論
U 企業の形態
V 企業の組織
W 企業の機関
X 資本の調達
Y 内部統制
Z 公共関係

 しかるに現今の企業の実態は、かかる所有権中心主義は、法制上の形骸に過ぎず、企業を真に民主化するには、労働にも資本と同等の地位を与え、この間に立つ経営者は、完全に独立した第三者として企業の運営の責任と権利とを与えられなければ成らない、という経営者独立論の考え方であって、この主張は将来の企業組織に対する一つの有力な教唆を含んでいることを見逃し得ない。(p.24)

 経済同友会の企業民主化研究会が「修正資本主義」論(大塚万丈委員長)を発表する。「企業をもって経営・資本・労働の三者によって構成される共同体とする建前をとる。法律的には企業財産を右三社の共同運営する企業体たる法人の所有とするが、これに対する株主の絶対的関係を改め、経営者および労働者もそれぞれ経営または労働という要素を提供しているという意味においては権利を持つものとする。右三者の内的配分貴族関係については、出資者の出資の限度内における企業財産は当然出資者に配分すべきものであるが、増殖分はこれを適当な割合にて三分し、経・労・資三社それぞれの集団に帰属せしむるものとする。したがって企業が解散する場合、企業財産は三者間に右の帰属分の限度において分配される」(p.24-5) 

 公共関係業務(Public Relations)。公共関係業務とは、私企業が、その民主的社会における公共性を自から認め、それを実現し、かつ関係者および一般公衆にそれを理解してもらうための業務を総称する。また公共大河、その公共性を積極的に発揮するため、関係者及び一般公衆に対して働きかけることをも含む場合がある。(p.223)

 即ち、公共関係業務は、企業の目的・事業・経営方針・業務上の措置などに関して、世人によく理解してもらい、私企業の利益は決して公共の利益と背反するものではないことを、実践的に世に知らせようとする活動である限り、この活動に当る人は、いわゆる「社長から門番まで」全従業員の平常の言行が、みなそれと合致したものでなければならない。(p233)

 

 要するに、公共関係業務は、企業を社会化するための重要な役割を果たさんとしているのであって、アメリカでは前にも述べた様に、巨大企業に対する社会の反感・地方民との利害の衝突・営利事業の反社会性に対する反撃などに直面して、資本主義の運命の問題にまで追い詰められた挙句、その一つの重要な打開策として発展してきたのである。(p.243)

 


 

◆野田信夫 (1960) 『企業経営』 有信堂 129P

 
第一章 企業
第二章 組織
第三章 利益
第四章 生産
第五章 労働
第六章 企業の社会的責任

 

 利益のために働くのでなく社会のために働くのだということで非常な勤労意欲が出たり、或いはそれが高尚な仕事であるという考え方と結びつき、企業という活動から利益観念を取ってしまう。ところが企業自体から利益観念を取ってしまったらどんなことになるか。(…)巨大な浪費をいかにしても防ぐことはできない。何故かといえば、黒字を出す義務も責任も興味がないということは、収入あるだけ使えということになる。何も苦労をして働く必要はない。全産業界がこんな考えになったらどういうことになるか。もしこれで経済性を保とうとすれば、収入をだんだん減らしていく、いいかえれば物の値段を下げていくよりほかにない。(p.14)

 結局大きな社会を立てていくためには企業別の独立採算制を確立させなければいけない。人間の資質、人間の能力の限界からいって、それ以外に経済社会を立てていく方法はない。ソ連でも独立採算制をあれ程やかましくいっている。独立採算制というのはいうまでもなく各企業別に収支のバランスをとり、そこに黒字があったならば、その企業にその黒字を留保することを言う。つまりそこに黒字を出させ、これを企業の成績をはかるメドにする。こういうことをしてはじめて経済性が保てる。(p.14-5)

 たとえばジェネラル・モーターズが巨大な投資計画というものを一年繰り上げるか繰り下げるかで、アメリカの景気は相当な影響をうける。この巨大な投資計画というものをどうするという自由は自分が持っており、政府が介入する権利はない。ただこれを決定するにはおきな責任がある。一企業の決定が、その国の経済社会に及ぼす責任を自覚していなければならない。(p.23)

 大企業は大企業としての責任があり、大企業になればなる程、社会的影響が多いだけに社会的責任がある。こういう関係で近代企業は大企業になればなる程、自分の会社の行動、やり方が社会に対して影響が大きいから、慎重な、非情に大きな責任観念を持つようになる。(p.128)

 

 


◆Bowen, Howard R. (1953) Social Responsibilities of the Businessman Harper& Brothers, New York.
= 1960 日本経済新聞社 訳『ビジネスマンの社会的責任(経済生活倫理叢書)』 日本経済新聞社 342p

 
第1章 序説
第2章 経済的諸目標
第3章 社会的責任と自由競争主義
第4章 『今日の資本主義』におけるビジネス決定の社会的意義 
第5章 企業化の社会的責任についての清教徒的見解
第6章 ビジネスマンの社会的責任感
第7章 個々の責任についての企業家の見解
第8章 なぜ企業家は自己の社会的責任に関心を持つか
第9章 なぜ企業家は自己の社会的責任に関心を持つか(つづき)
第10章 社会的責任説およびその批判
第11章 法律と社会的責任
第12章 企業の方針と社会的責任
第13章 提案:企業の組織と慣行上の変革
第14章 提案:産業会議のプラン
第15章 その他の提案
第16章 所得分配に関する倫理
第17章 企業家が当面するその他の倫理的諸問題
第18章 ボーエン氏研究の倫理的意義

 

 しかし、一つはっきりいえることは、自由企業体系の特徴である経済行為決定の自由が、私企業体の所有者や経営者層だけでなく、社会全体の各層ビジネスマン何百人にひとしく与えられていなければならないことである。ただ、この私企業の自由と私的コントロールが社会全体の福祉のために社会の進歩を促し、生活水準を引き上げ、経済的公正をもたらす、などに役立つものでないかぎり、私たちはそれを支持することはできない。(p.18-9)

 十九世紀経済においてビジネスマンが守るべきものとされていた基本道徳は、@私有財産の尊重、A契約の履行、B詐欺や虚偽の排除であった。そしてこれらの道徳は法律によって守られ、それらの法律−他の法律も同じだが−も、長年広く行なわれ、社会的にも承認されている道徳観を基礎にしていたから成功した(p.36)。

 今日の米国経済は自由競争主義と社会主義の両方の重要要素を織り込んだ『混合経済』だとよくわれるが、サンジカリズムの性質さえ幾分帯びている。すなわち、生産、消費、職業選択、地理的移動についての個人の自主性と選択の自由は実質的に維持されており、社会主義的要素としては政府による所有、管理、制限、立案がそれであり、サンジカリズムの要素としては、労働組合その他の組織体が行っている戦略的行動である。この混合経済ができたのは、自由と経済的進歩という目標−この二つは自由競争哲学の要素である−を安定、生活保障、構成、個性発揮という目標−これは近代人道主義哲学が重要視する要素−に調和させた人類の努力の結果である。(p.46)

 プロテスタントは私有財産の問題については『管理』あるいは『管財』という題名をつけて多くの意見を発表している。彼らの意見によれば、財産は絶対的、生得的なものではなく、その所有は個人によって所有され、管理されることによって社会の福利に貢献する場合だけ許される。財産所有者は、それを使用し管理するに当たっては自己の利益ばかりでなく、社会全体の必要をも考慮に入れる義務があるとされている。であるから、道徳的観点から見れば、無限の所得、あるいは責任のない所有はありえない。所有者という意味は神と社会に対して責任を負う管財人のことである。(p.54)

 企業家は現在の一般人の意見や態度を考え合わせた結果、企業家の最大の責任(企業家はこれを社会への責任と考える)の一つは、公衆に自分たちを理解してもらうための徹底的なスケールの大きい教育計画を実行することだ、と判断して、公衆に健全な経済原理を教えることだと考えている。(p.81)

 企業化が、社会の利益にもなるが、結局は私企業の利益に関係した責務に、より熱心であるからといっても、驚くにあたらないし、失望するにもあたらない。むしろ、私的な利益と、社会的な利益が、このような重大な点で一致しているということで、大いに満足すべきである。というのは、社会的利益は、それが私的利益にバックされている場合の方が、ずっとうまく達成されるからだ。(p.95)

 企業家に対する高い累進課税は、彼らの勤労意欲をそぐかわりに、彼らを金銭的な報酬から他の報酬へと方向転換させるにとどまった。現在の税制の下にあっては、課税後の金額や自分の所有する財産によって成功を誇示することが難しくなってきた。そこで人々は名声を得るための他の方法−財産による方法と同じくらい満足なものであり、効果的な方法−に目を向けるようになった。基本的動因は今も昔も変わっていない。一番強い動因は自分の成功を知ってもらいたいという希望である。ただ今日の成功はそれを誇示するのに膨大な財産を必要としなくなったので、膨大な金銭的報酬に根ざす動因の意義は、ぐっと減少したのである。(p.128)

 われわれはこの問題[『今日の企業家は、なぜ自己の社会的責任に関心を持つか?』]の答えを次の三つに分けることができる。@重んじるように強制されたから A重んじるように説得されたから B大企業において所有と管理の分離が行われた結果、社会的関心の高まる好条件がそろってきたので。(p.140)

 限界的な用具で、限界的な土地を耕作している限界的な農民は、自分の社会的責任といったところで、ほとんど何もすることができない。彼は自分の借金の返済と家族の生活費を捻出するだけ出ていっぱいである。(p.148)

 彼は外部からの圧力−特に労働者、世論、政府等の−には強い関心を持っている。彼は自己の長い目で見た利益は、自己の政策や行動を、その社会的影響という面から捉えなければならないということを、次第に認識するようになってきている。企業家が、世論というものに非常に関心を持ち、それを変化させようとしている事実は、いかに大きな力を世論が企業の上に持っているかを物語っている。また最後に、社会的責任に対する関心が、必ずしも利益動機とうらはらのものでないことを示している。(p158)

 多くの企業家自身も指摘しているように、彼らの交際は主として自分たちと同等の人々に限られており、経験もほぼ一定している。彼らの見解も特殊なものになっており、胸に抱く物もだいたい同じである。そうなると他の利益グループの判断を参考にせず、自分たちだけの考えで、公衆の利益を決定することは必ずしも当を得たことではない。もし、社会的責任説が、米国経済生活における重大な、信じるに足る要素になるためには、責任の定義が、たった一つの階級や、たった一つの職業団体だけで決められる、というのであってはならない。企業に対する民主主義の応用が、ここにおいて力を発揮すべきである。この考え方は、もしもわれわれが、労働者や農民、投資家や消費者の社会的責任を考える場合にも適用できる。(p.165)

 利益動機が利己性に基礎を置いていることは確かだが、しかしその意味では、賃貸動機、利息動機、賃金動機、消費動機なども同様である。地主が小麦のほうがとうもろこしよりも収入がよいから、作物を小麦からとうもろこしにかえたところで文句をつける道徳家はいないだろう。投資家が、GMの方が配当がよいからAT&Tの株を売ってGMに乗り換えたとしても通常文句を言われる筋合いはない。また労働者が北部の賃金がよく就職機会が多いから南部から北部へ移住するとしても、誰も非難しないだろう。(…)これらのすべての経済的決定は典型的に自己の利益を最大の同期として行われているのである。しかし誰もこれらが道徳的にいかがわしいとは考えない。ところが企業化がひとたびある生産品の生産を思いつき、ある市場に乗り込み、ある機械を他の機械と交換し、企業を拡大し、または、その他彼の生産費や市場に影響する決定を行い利益を求めるとなると、この種の自己利益はたちまち日道徳的な目的であるとされてしまうのである。もしわれわれが企業家の利益動機を非難するとすれば、われわれは当然筋を通して、賃貸動機、利息動機、賃金動機、消費動機なども非難しなくてはならない(p.196)

 もし企業の建設的な社会行動に対するコストが価格決定において他のコストと同様に考慮に入れられるならば、この方面における企業の行動はもっと活発になるだろう。とにかく、利益の低減と企業の社会的責任とを混同しては良い結果は得られない。この二つは分離できる問題であり、おのおの違った方法で取り扱った方が適当である。たとえば、労働搾取的な工場を廃止することによって増大する労働コストは、経営者の利益を低減するか価格を上げるかのいずれかによって相殺されなければならない。後者の方法をとる場合は搾取問題は必ず解決される。しかし前者のように利益からコストを捻出しなければならないとなると、労働搾取の廃止が本当にできるかどうか疑わしい。利益が減じるとなれば企業家は、労働条件を積極的に改善する意欲がなくなるが、価格を上げて利益を据え置くということになれば企業家とても抵抗を感じる度合いが少なくなるだろう。利益そのものが高すぎるというのであれば問題はまた別で、労働搾取をなくするという大目的を危険にさらすことなく、それなりに処理することができるだろう。(p204)

 PRの機能が発達するにつれて、この分野の指導者や多くの企業家たちは、公衆の好意的な態度とは、企業の政策を『売る』ために用いられた宣伝技術と同様に、会社の政策そのものに左右されるということがわかった。このため、PRは政策決定上の一要素となり、PRの職能は公衆の態度に与える影響という観点から、政策助言の一機能となった。このようなPRの職能に対する考え方が、公衆の利益のための代弁者、受託者という考えに移行するのは、決して大きな飛躍ではない。(p.210)

 収入と支出の関係を考慮する場合、伝統的な方法では支出は収入の原因であると考えられていた。すなわち、収入が支出に見合うか、あるいはそれ以上の利益を生み出すか、はっきりしたメドがついてはじめて企業はいろいろな支出を行うのである。(p.259)

 補償されない社会的損害とは、煙、におい、汚物、騒音、汚水、爆発の危険、風致を害すること、醜い建物、都市の雑踏などの損害である。企業は、これらの損害のいくつかをある程度まで排除するように、法律によって要求されてはいるが、それだけでは重大な社会的損害は解決されないものが多い。(p.282)

 


 

◆山城章 (1953→1958) 「経営責任者」 高宮 山城編著 『経営責任者』 税務経理協会

 さて次に重要な点は、責任論は目標論と一体をなし表裏をなしていることである。社会的責任の問題は、企業の営利的利潤追求性に対立して主張せられるものであり、企業性格の社会性或いは公共性を主張し、営利性を否定せんとする立場である。つまり営利こそ企業の目標であると主張した旧来の企業間に対して、社会席や公共性を主張するのであって、社会責任論は、一面、社会性や公共性を企業または経営の目標として主張する論である。(p.5)

 経営という活動の現場で、経営者・理管者・作業者のすべてが活動するモーチブは、投資資本家のための利潤、つまり配当をより大にしてやるためのみにあると誰が考えるであろう。(p.9)

 経営体はこの生産性を手段として、国家性にも営利性にも役立っている。しかし経営体自体の活動は生産性を手段としてはこれを解していないで、直接これを目標としている。経営体なるものが、もともと手段的組織であるが、手段たるそれ自らは手段たる生産性それ自体を目的として活動する。いま経営自体の目標が問題なのである。この経営体の活動の「結果」は第二次の問題となる。経営体は生産をそれ自らの機能とし、生産性効用モーチブで活動する。その生産結果は続いて配分せられる。配分問題は経営体が勝手に処決し得ないものであり、対境的支配関係によって決められる。生産隊は生産問題を考慮し、配分問題は対強敵関係で考慮される。(p12)

 経営体の成果は、対境的利害関係者に対し配分せられるが、この関係は、むしろ逆に対境的利害集団(interest group)の勢力関係によって決定されるのであり、配分の支配こそ対境利害者の中心関心事である。(p.12)

 ゴイダー(G. Goyder)が指摘するように二十世紀の経営は、もはや株主だけを営ますための私的な設備とは考えられない。むしろそれは労働者。経営者・消費者・地方自治体・政府・組合員等のすべてが、それぞれその役割を演ずる共同企業(joint enterprise)である。ただこの共同関係はあくまで配分の方策に関するものであろう。共同経営することとは全く異る。このような諸利害者集団が配分支配をなす以前の「清算」こそ経営体にとって本質的課題であり、目標なのである。(p.15)

 収益は、もとより一部は営利ともなるが、それ以外社会、公共、国等々への配分の基盤となり、また経営体自体への配分、即ち自己金融 (selbstfinanzierung)にもなる。最近の企業ではここにいう収益の最大の配分先は国である。即ち「税」の形成約六十%が納入せられるのである。この残部が配当となり、賞与となり、自己金融されている。(p.15)

 さてトラスティシップはこのように内容的には具体的合理生産によってこたえうるのであるが、この意味で経営体がトラストされ、またその最高の機関たる経営者機関(多くは取締役)がトラスとされた内容は、結局は経営体の生産活動の合理的達成であり、これによって成果を各利害者に配分して役立つのである。

 


◆土屋好重 (1956) 『経営倫理(現代商学全集第十三巻)』 春秋社


第一編 ビジネス倫理のイデオロギー
第一章 近代ビジネスと新しい哲学
第二章 歴史的宗教と対立する同胞主義
第三章 感情中心主義の思想と倫理学
第四章 営業目的と企業のマネジメント哲学
第五章 東西の倫理思想と商道の哲学
第二編 人間的関係と公衆的関係
第六章 P・Rの根底としての人間関係
第七章 経営管理者と公衆関係
第八章 従業員と各種公衆群との良好関係
第九章 ビジネスP・Rと高度自由主義経済
第三篇 営業活動の本質と自制的倫理
第十章 消費者主権の原則と消費購買者
第十一章 消費者価値の増大と奉仕競争
第十二章 マーケティングの理念と適正価格
第十三章 自制的倫理と販売及び仕入活動

 経営管理者は、自らそれを自覚すると否とに関わらず、配分のための技術者である。ビジネスの活動のために、その一部分を担う各種の集団の権利や利害を均衡せしめる技術(art of Ballancing the rights and interests)を体得することが必要である。なんとなれば、それを十分に体得しなければ上手にビジネスを管理することが不可能だからである。株主の中には大きな配当のみを求めるものがあるかもしれない。しかし、ビジネスの長期的な安全のために必要であるならば、収益の大部分を社内留保にしたり、再投資してもらえるように仕向けるのでなければならない。従業員の賃金引上げその他の福利のための要求の中で、ビジネスの収益の配分を不当に害するものがあるならば、断固として拒否されなければならない。…そうでないと、経営管理者は、株主、顧客、一般公衆等の利害を無視することになり、ひいては長期的にみて、従業員そのものの福利を害することにもなるからである。…無分別に、不注意に、便宜や方便のために、先見の明を失うならば、経営管理者はその基本的な責任を全うしないものになる。そして、もし、一つの集団だけのために、他の集団のあることを無視すれば、ビジネスはついに破滅せざるをえなくなるのである。さらに、もしビジネスが上手に運営されるならば、それが、やがて国民経済の向上のために資するものであるということを忘れてはならない。もしもビジネスが採算がとれず、社会に貢献することができなければ、結局納税をして、国家の財政を豊かにすることもできなくなってしまうのである。(Lunding [1951:106-8],p.86)

 P・Rの歴史が、四つの段階に区分して分析せられている。 (Rex F Harlow & Marvin Black. (1947) Practical Public Relation], New York. p.115)
第一期(1900-14年)各会社に対する悪意の攻撃が起こったが、この攻撃に対し、会社側からその潔白を述べるための宣言をした時代
第二期(1915-18年)アメリカ政府が第一次大戦の戦争目的を国民に納得してもらうため各種の宣伝を行なった時代
第三期(1919-23年)第一次大戦後、消費者運動の活動に伴い、ビジネスが大規模な事業宣伝を開始しだした時代
第四期(1929-)会社の利害と公衆に対する責任とが融合せられ、私益と公益とが必ずしも矛盾しないという確信を強めた時代

 消費購買者は、扶養家族のために購買または調達活動を行なうという経済的な実力を持っていて、いわば一種の金銭的な特権者である。そして生産に対しては経済的投票の権限を持つ重要なる経済的・経営的な主権者なのである。それゆえにその社会的責任は極めて重いものであるといえる。(p.195)

 全体主義者は、一人の賢人による100%望ましい経済社会の即時実行のようなことを、しばしば、理想と遷都することであろう。そして衆愚による60%ないし70%の善良さの経済は、これを排除遷都することであろう。しかし全人民の主権者性を尊ぶ民主主義者や、自由精神或いは個別体尊重精神の信奉者は、これとはまさに反対の立場にたたんとするものである。そして、一人の賢者の従う奴隷的存在となるよりは、多数者の衆知を集める独立人となることを望むものである。また奴隷となって田から与えられる福利を受けんとするよりは、むしろ、福利を多少犠牲にすることがあっても独立と自治による喜びを求めんとするのである。(p.218)

 業者と消費購買者とのあいだの取引においては、たとえいかにこの種の公正取引の原則が守られても、業者の立場は、多くの場合、消費購買者に対して優位にたつものとなることであろう。なんとなれば、業者は、おおむね、視力があるものであろう場仮でなく、その知識経験において、消費購買者一般の追随を許さないものをもつであろうからである。(p220)

 私有財産制度そのものが本来的に必要なのではない。個々の人や企業に十分にその能率を発揮させるための方便として、間接的に、その制度が便宜的に必要とせられるのである。私には私有財産制度という言葉そのものにも、その本旨を見誤ったごとき点があると思われる。私有の私に代えて個別とし、個別財産制度とするがごときことが考えられてもよいだろう。(p.226)

 もしも、ビジネスで、一個五十円であった石鹸を、製造方法を改良して、四十五円で売り出すことができたならばどうであろうか。消費購買者は一個の石鹸を購買するごとに、現実にご縁の利益を受けることになるのである。ビジネス側では、一個、売るたびに、五円の寄付を出しているのと同じ経済的な貢献をなすことができるわけである。(p.229)

 いやいやながら、少額の慈善や寄付金をさせるという一般倫理よりも、進んで、ビジネスを通じて、自分も利益しながら、消費購買者にも利益を与えるというビジネス倫理の方が、社会的にみて、とくに経済的にみて、重要なものであるといえるだろう。


 

◆占部都美 (1956) 「経営者の社会的責任」 所収『経営者』 ダイヤモンド社

 

 この問題は、要するに、われわれが前に触れたように、取締役会長の地位を強化し、その職能の遂行に適材な人物を経営担当者のほかに求めて、経営の責任体制を確立する以外に、現在のところ問題解決の近道はないであろう。それとともに、経営担当者が人事その他の問題について日常行なう決定が、重要な社会的責任の問題を含んでいることが、経営者自体によって十分に認識されねばならない。(p.283-4)

 


 

◆藻利重隆 (1959) 「経営者の社会的責任と企業的責任および自己責任」日本経営学会編『国民経済と企業』p.33-42

 進歩的経営者における社会的責任の自覚と強調とは、元来、経営者が「利己的経営者」二転落することなしに、その自己責任を達成する途を見いだすことを意図するものであったはずである。それにもかかわらず、社会的責任を強調するのあまり、逆に、社会的責任が返って企業的責任[株主利益の追求]を排除し、またはこれを自己に従属させる方向に経営者を追い立て、そこに新しい「利己的経営者」を発展させることとなるならば、社会的責任の強調はかえってその意義を完全に滅却してしまうものだといわざるをえない(p.39)

 今日わが国における「経営者の社会的責任」の強調もまた、同様の意味において、「経営目的」ないし「企業目的」に対する経営者及び支配者の意識的反省と、これにもとづく営利原則の長期的理解とを、一般的に要請してやまないものであることを、われわれは指摘したいのである。(p.41)

 


 

◆藤芳誠一 (1958) 「経営者の社会的責任」 『近代経営と経営者』 経林書房

 このように、経営者の社会的責任の要請されるゆえんは、単なる道義や慈善の動機からではなく、まさに経営存立の必要性と現行社会体制の維持の必要性から生まれたものであることを知らねばならない。(p.83)

 このように厖大な数にのぼる株主・従業員・消費者の生活に直接間接の影響をあたえる企業は、これがためにも維持されなければならない。それがためには、企業は商品の能率的な生産と収益の適正な配分が継続的に遂行されることによって、経営者は社会に対する責任を果たすことができる。それには、企業維持のために必要な収益をあげることができなければならない。その意味で収益性を維持していくことは、経営者の社会的責任の根源的な部分をなしているのである。(p.84-5)

 このように、株主・労働組合・消費者という利害者集団は、自己の利害の立場から経営に圧力を加える。そこに、経営者としては、これらの利害者集団の間の利害関係を調整することが企業維持のために必要な任務となる。(p.88)

 したがって、それは、矛盾の社会構造的解決方策を求めようとするのではなく、また政府の統制に依存するものでもなく、企業自体の自己の責任においてこれが解決を要求されるわけで、その基本理念はあくまでも自由企業の体制を存続発展せしめ、資本主義体制の若干の修正は当然のこととして、基本構造まで壊さないようにして自由社会の存続をはかろうとするところにある。(p.90)

 


 

◆本間幸作 (1959) 「企業経営者の社会的責任」日本経営学会編『国民経済と企業』 p.61-9

 第一、資本主義の現段階は日本の内外を問わず独占資本主義の時代といわれている。特に資本蓄積の乏しい日本は資本の威力は絶大である。このような状況で果たして専門経営者が資本家の要求を無視して企業を経営しうるかどうか。第二、資本というときは自己資本のみを資本と称すべきではない。他人資本も資本である。而して戦前と異り、自己資本と他人資本との比率が逆転して、自己資本過少に陥っている日本の企業の場合には金融資本家の要求は絶対的である。もちろん、独占禁止法はある程度これをカバーしているとはいうものの、この法律自体すでに抜穴だらけであるのみならず、大幅に改正緩和の運命にある。第三、(…)資本が分散しているということと資本家が企業を支配していることとは別個である。大株主は群小株主を無視しまたはこれを利用して企業を支配することが出来る。(p.62-3)

 一部の経営学者は今日企業は長期安定利潤を求めるが、決して最大利潤を求めはしないと称する。しかし、これは国家の保護の厚い独占企業に該当しても、一般の私企業には該当しない。そんな陽気なことを言っておれぬのである。而して今日、企業経営者の社会的責任が追及せられる最大理由はここにある。国家の保護助成の厚い独占企業は、国家の保護助成のゆえに、それと引替に社会的責任の自覚を叫ぶ。国家の保護助成に見離された多くの私的企業はそれ自らの維持存続に忙しく、経済道徳を顧みない。そのゆえに企業の社会的責任が要求される。前者は経済的に安定であるがゆえに、うちから企業経営者の社会的責任を主張し、後者は経済的苦境にあるがゆえに外からその社会的責任を要求される。(p.64)

 若し企業経営者の政治献金が労組員のそれと同様、それぞれのポケットマネーから支払われるのであれば、自然に寄付の限度は適当のところにとどまるであろう。然るいかれらの政治献金は企業という公的機関から恰もポケット・マネーの如くに無造作に支出されるところに問題がある。(p.68)

 わが国の企業が年に費消する機密費、交際費は実に膨大な額に上っているのであるが、これは内部留保を妨げることに於て社会を毒し、自己の健康を害し、家族え(ママ)のサーヴィスの機会を失わせることに於て自己及び自己の家族を毒するものである。(p.68)


◆Friedman, Milton. (1962). Capitalism and Freedom, The University of Chicago Press, Chicago.
= 1975 熊谷尚夫 西山千明 白井孝昌 共訳 『資本主義と自由』 マグロウヒル好学社

 
第1章 経済的自由と政治的自由との関係
第2章 自由社会における政府の役割
第3章 貨幣の管理
第4章 国際金融・貿易制度
第5章 財政政策
第6章 教育における政府の役割
第7章 資本主義と差別
第8章 独占と企業および労働組合の社会的責任
第9章 職業免許制度
第10章 所得の分配
第11章 社会福祉政策
第12章 貧困の軽減
第13章 結論

 

 第一に、政府の活動範囲は制限されなければならない。政府の主要な機能は、われわれの自由を国外の敵と国内の同胞との双方から守ること、いいかえれば法と秩序を維持すること、指摘契約を履行させること、競争的市場を育成することでなければならない。(P2)

 それの主要な論題は、経済的自由の体制であるとともに政治的自由のための必要条件としての競争的資本主義−自由な市場で活動する私的企業を通じて経済活動の大部分が行われるような組織−の役割である。その副次的な論題は、自由を最高の目的とし、経済活動の組織化を主として市場に頼ろうとする社会において政府が果たすべき役割である。(P4)

 つぎの二つの条件がみたされるならば、協力は厳密に個人的かつ自発的である。すなわち、(a)企業は私的なものであり、したがって究極の契約当事者は個人であるということ、そして(b)個人はどんな特定の交換にも参加するかしないかが実質的に自由であり、したがってあらゆる取引が自発的であるということ。(P15)

 人びとが公然と社会主義を主張し、そのための運動をすることができるのは、資本主義社会の政治的自由のしるしである。それと等しく、社会主義社会における政治的自由は、人びとが資本主義の導入を提唱するのに自由出るべきことを要求するであろう。資本主義を提唱する自由は、社会主義社会のなかでどのようにして維持され保存されうるであろうか。(P18)

 パンを買う人は誰も、その原料になる小麦が共産主義者によって作られたか共産党員によって作られたか、立憲主義者によって作られたかファシストによって作られたか、あるいはまた、そのことに関するかぎり、黒人によって作られたか白人によって作られたかは周知するところではない。これは没人格的な市場がどのようにして経済活動を政治的見解から切り離すか、そして人びとが彼らの経済活動において、生産と無関係な理由−これらの理由が彼らの見解や肌の色と結びついていようといまいと−のために不利な差別を受けないように保護するかを例証するものである。(P34)

 技術的的条件が競争的な市場のはたらきの自然な結果として独占を生み出すとき、採用できると思われる選択の途は三つしかない。(・・・)しかしながら、私的独占・公的独占・公的規制という三つの害悪の中での選択は、現実の状況とは無関係に、一度限りに行われうるものではない。(・・・)時と場合によっては、技術的独占が事実上の公的独占を正当化することもありうる。他の誰であれ競争することは違法であるとすることによって達成される公的独占を技術的独占の論拠だけで正当化することはできない。(・・・)もし技術的独占でなければ、政府はそれにたずさわるべき理由はない。どちらかであるかを見きわめるための唯一の方法は、他の人びとに自由に参入させてみることである(P32-4)

 近隣効果は諸刃の剣であるどちら側を切ることもできる。それは政府の活動を制限する理由にも、また拡張する理由にもなりえ

 このことをもっと非情なように見える調子でいいかえると、子供たちは一種の消費財であると同時に、潜在的には社会の責任ある成員である。個人が彼らの経済的資源を自分の望むように使う自由は、子供をもつためにそれを使う −いわば子供のサービスを特殊な消費形態として購入するためにそれを使う−自由を含んでいる。しかし、ひとたびこの選択がなされるならば、子供たちは自ら自体として価値をもち、両親の自由の単なる延長ではない彼ら自身の自由を持つのである。(P38)

 社会全体の見地からみた商品本位制の根本的な欠陥は、貨幣ストックを増加させるには実質資源を使用しなければならないということである。南アフリカの地中から金を掘り出すために人びとは重労働をしなければならない(・・・)。商品本位制を運用するために実質資源の使用が必要であるということは、こうした資源を使わずに同じ結果を得る方法を見出そうとする強い誘因を人びとに与える。(P45)


◆中村常次郎 (1969) 「取締役会の社会的責任――ニューマンの見解を中心として」
中村常次郎 大塚久雄 鍋島達 藻利重隆編著『現代経営学の研究――柳川昇先生還暦記念論文集』 pp.30-47

…受託者としての伝統的な取り締まり役割に挑戦しようとしたニューマンの主張が、その意義を失うことに成り、ニューマンのいう経営者の立場もまた、いよいよあいまいなものになることを指摘しなければならない。かくして、取締役会の社会的責任についてのニューマンの主張は現実的根拠をもたない1つの見解として、それも1つの規範的提案としてのみ存在しうるにすぎない。(p.47)


◆垣見陽一 (1969) 『新企業体制論――社会的責任の究明』中央経済社


序論
1 企業体制論の方法論的課題 
2 研究のねらい――社会的責任
本論
3 問題の提起
4 フォレット女子の経営本質観
5 G・ゴイダーの共同企業論
6 F・タネンバウムの企業体制論
7 回帰闘争と自由主義経営理念――J・バーナムの諸説にふれて
結論
補論 フォレット学説の研究

 フォレット女史の経営本質観

使用者は責任回避のため、その分割に付いてよく語ることがある。多くの人たちも責任を回避するための決定を避けるものである。例えば、横暴な亭主の家庭のよくあることである。それで私は単なる責任の分散には賛成し得ない。経営の賛否は責任を委員会、部門管理者、職長に分担せしめた後で、どれほどそれらの責任を相互浸透せしめるかにかかっているのである。連合責任のこの点に付いてわつぃはよく誤解され、私が分権を信じていないように時々思われるが、それを信ずることではあえて人後に落ちるものではない。私は連合責任と分権責任とは相即すべきであり、否それ以上に同一事物の両部分であると思う。(p.39-40)

 後者は、いわゆる職能説として歓迎され分業による適材適所が主張されてきたが、その結果、私どもは自身の責任が、それだけで終わるものではなくて、また全体に対する責任があることを忘れる傾向を示している。経営は全構成員が、この責任を感ぜしめるように組織されねばならない。…社会サービスの協同責任(Joint responsibility)感から生まれてくるものほど、労働を尊厳ならしめるものはないのである。これは同時に、経営管理上の問題でもある。すなわち如何にして労働者、経営者、所有者が連合責任を感ずるように組織化したらよいかの問題である。ここにG・ゴイダーの共同企業体制の論理的根拠がある。(p.40)

 経営組織における機能と責任及び権限は三位一体的のものである。このことは、化学的管理の工場では、ますます認められつつある。発想係は、その仕事に付いては社長より以上の権限を持っている。職長はよく人事担当者の、例えば任免における権限を嫉視するが、それが大切なのではなくて、その機能が重要であることを知らしめねばならない。(p.62) この権利の概念は、機能の考え方により実質的に変化し急速に消滅しつつあることは、祝福すべきことである。(p.63)

F・タエンバウムの企業体制論

 このような共同体の弱体化は、男女のみならず婦人子供や老若さらに熟練者も負熟練者にも影響を与えた。その効果は、そのなかの諸団体に及び、伝統的な身分社会は溶解し去って、ますます孤立化し、平等で独立した個人により構成されて、ここに始めて人びとは自身に対してのみ責任を負い(自己責任の原理)、同時に他人に対しては最も近親者に対してさえも無責任となるに至った。もちろんこの分裂は、理論的にはともかく、完遂されたのではないが一時代を画するものであった。この古い社会崩壊の直接の原因となったのは、労働者、男女、子供のそれぞれへの貨幣賃金の支払いである。この支払いは、親から子を引き離し老若を平等にしたのである。それぞれへの賃金支払いは、若い人が年長者より、息子が親より以上な生活をするようになり、娘は家を離れて独立に生活するに至った。(p.154)


 

 

◆高田馨 (1970) 『経営の目的と責任』 千倉書房

 
第T部 経営目的論
1 序説
2 経営哲学
3 経営目標の質的側面
4 ドラッカーの経営目的論
5 経営目標の水準原理

第U部 社会的責任論
6 シェルドンの社会的責任論
7 ドラッカーの社会的責任論
8 イールズの社会的責任論
9 社会的責任反対論――とくにレビットの諸説について
10 権力ー責任ー均衡の法則
11 社会的責任論の結論

第V部 統合原理
12 マクレガーの統合原理
13 スキャンロンの経営原理――マクレガー統合原理の実現
14 全体結論

 生産と分配は交響の要求によってきまる。このことから、産業は公共へのサービスのために存在するものであるという信条の経済的基礎ができる。サービスは単に経済的なものに終わるのではなくて、動機は倫理的である。(シェルドンからの引用p.120)

 分配に関する利潤分配にシェルドンは言及していることに注目しなければならない。あず、利潤分配は労働者が利潤作出に参加しているときにのみ正当化される。そのことは当然であるが、さらに、シェルドンは、利潤は労働と資本だけで分配してはならないという。すなわち、資本と労働が適正な報酬を得たあとは公共全体に分配すべきであろうとする。産業は公共の構成部分であるから交響への配慮も当然であるという。(Sheldon[1924, p98], p129)

 経営者が社会の指導者として負うべき社会的責任は、経営者が権限を正常に行使できる領域に限られねばならない。(Management's public responsiblity as one of the leading group should ... be restircted to areas in which manageent can ligitimately clai authority, Drucker[1955=1965, p344]) p145

 純粋に公共の利益であるならばなにごとでお、それを企業自身の利益に転化させることが経営者の社会的責任である。(It is management's public responsibility to make whatever is genuinely in the public good become the enterprise's own self-interest. Drucker[1955=1965: 345=下291])

 1つの極には、会社は私有財権者たる株主の組織的手段に他ならないという見解がある。会社所有者のための利潤最大化が会社の唯一の合法的機能であるとしばしば主張される。この伝統的会社観では、会社所有者の純粋持分を増加させることを唯一の目的として会社資産を厳格に運用することが基本方針となる(Eeels[1960: 6], p152)

 社会的責任という新説に味方する人びとの通常の論述を吟味すると、その正当化は一般に代償論(the quid pro quo augument)である。すなわち、社会的責任はひきあうからである(the spcial responsibility pays off)。それが、会社に直接利益になって戻ってこないで長期的にみてはじえて利益になるものにすぎなくても」Eeels[1960:41], (p153)

 母体的会社はその活動を背悪規定された企業目的に限定してはいない。それは広い社会的諸目標を持ち、広い社会的責任をとる。それは、社会の多数の相異なる部分にたいして責任を取る。その経営者は多くの相異なる調停者(arbiters)であり調整者(adjusters)であり、均衡設定者(balancers)である。(Eells[1960:53])

 今日多くの人間は会社を『権力』の中心とみなし、その権力を『公正』二使用するように要求している。そして経営者は企業への敵意を恐れるとともに、社会的有用性を証明し社会的承認(public approval)を得ようとする意欲をもつにいたったからである という(Eells[1960: 72-3] p.157)

 経営者が社会資産の所有者に対してもつ責任は、経営者が企業の福祉に貢献する所有者以外の人々への義務を認めたからとて、なおざりにされることにはならない。現在及び将来にわたって企業を継続企業とするために貢献を結集するすべての利害関係者の利益を慎重に考慮することは、事実、おそらく、株主の持分を保護し増大する唯一の道であろう。慎重さ(prudence)とはこの場合、会社の利益と、より広い社会の利益とアメリカ理想主義一般との融合を意味する。(Eells[1960: 476],p.162)

 レビットは、社会的責任が利潤の手段として理解されている限りは、危険な結果が生まれないが、信念=使命として理解されるようになると、危険な結果が生まれるという。(p169)…従業員福祉方策を増大し、さらに、地域社会、政治、慈善、教育などのことがらに深く立ち入って関係し、社会の好意を得ようとすることによって、企業はすべての義務を応用になる。そして、広い義務を負うことによって大きな権力をもつことになる。そして、人間の生活の全面にわたり、社会の全体にわたって、企業の野心によってすべてを形成しようとするにいたる。「企業がもしその社会的負担、従業員福祉、政治に深入りすると、結局は、上記のような単元的作用を及ぼすことになる」(Levitt[158])

 「成員となる」(menbership investment)代わりに要求する報酬である。金銭報酬、承認、自己啓発、能力伸長という報酬である。…人間は組織にすべてを捧げるのではない。彼は自分自身の創意、自立のためなにかを留保している。組織に属していてもなんらかの自由を求める。…p.191人間が組織に求める正義は本質的には分配正義(distributive justice)である。投資(investment)に見合う報酬がなければならない。(p191-2)

 彼ら[デイビスとブロムストローム]は均衡法則の内容に相当するものとして、第1に「社会的責任は社会的権力にともなう」(Social Responsibility goes with Social Power.)を主張したが、私はこれをこの均衡法則の意味を示すものと解釈した。第2には、彼らは「責任の鉄則」を主張しているが、私はこれを均衡法則の貫徹の面を示すと解釈した。彼らは均衡法則に関する説明を個々で打ち切り、均衡回復の方策に写っている。しかし、私は均衡法則になお第3命題として「責任を負担する者は権力を得る」を負荷しなければならないと思う。これもやはり法則貫徹に冠するものである。(p.193 )

 


◆the Research and Policy committee of Committee for Economic Development(CED) (1971) Social Responsibilities of Business Corporations: A Statement on National Policy.
= 1972 経済同友会訳 『企業の社会的責任』 鹿島出版会


第一部 CED『企業の社会的責任』
緒言・序論
第一章 変貌する社会と企業との契約
第二章 新しい企業のあり方と経営理念
第三章 啓発された自己利益 −良き社会に生きる企業の鍵
第四章 広がりつつある企業の社会的活動
第五章 社会進歩のための政府=企業パートナーシップ
CED製作委員の個人的見解と留保意見
第二部 企業の社会的責任について
座談会 CED見解の評価と日本の比較
コメント CEDレポートと企業の社気的責任について

 今日では、企業の自己利益は企業がその不可分の一体をなしている社会全体の福祉と分かれがたく結びついており、企業は資本、労働、顧客など企業活動に不可欠な基礎的要素を社会そのものに依存しているのだ、という認識が広まっている。…啓発された自己利益の原則は、もし産業界が社会改良のために遂行すべき責任を回避するとすれば、実際問題として企業の諸利益が危険にさらされるであろうという命題にも根拠を求めることができる。社会の変化うす量急に鈍感であれば、遅かれ早かれ、世論の圧力が高まり、元来企業側としては自発的にやりたくなかったこと、あるいはやできなかったことを政府の介入や規制の下で強制される結果になろう(p.36)

 大企業の場合はとくに長期計画ベースで事業を行なっているから、社会改良の事業についてもそれが長い目で企業環境を改善し利益を高める見通しが立てば、短期的には利益を見送ってもコストの負担に耐えることができよう。もっとも、短期的な利益をあまりにお犠牲にしすぎると、やがては、あれこれと思いめぐらすべき長期的展望そのものも失う結果になる。(p.46)

 水質汚濁の主たる責任は自治体である。しかし国民は、十分な下水処理にはコストが必要であり、その支払いのためにどのくらい税金がかかるか、あるいはどの程度の価格引き上げが必要になるかといった問題をほとんど理解していない。(p.116)

 (座談会 小林宏治日本電気取締役社長の発言)われわれ経営者とすれば、なるべくそういうことはしたくないけれども、従業員にとっては一度握った権利は既得権になってしまいます。ですから今度は企業が土地を買って分譲しろ、家を買って分譲しろ、ということになっているのです。灰の中から立ち上がる過程をとおして、従業員は個人生活を築きあげるのに会社を利用しなければならなかったのです。(p.171)

 (座談会 成毛収一ブリヂストンタイヤ取締役副社長の発言)東京で工場を作りましたとき、隣に国立の精神病院がありましたが、工場が大きな音を出すと患者があばれだすということで、音が聞こえないようにするのに苦心しました。そこで工場は病院からかなり離して作ったのです。これがブリヂストンの公害の走り、騒音妨害対策の最初でした。

 


 

◆村本福松 (1972) 「経営倫理の基本的考察」 所収 山城章 編『現代の経営理念』白桃書房 p.129-43

 1340年代 キリスト教信仰告白者教範(Mamual of Confess) 取引上の悪徳行為(evils of trade)
1 できるかぎり高く売り、できるかぎり安く仕入れること
2 商品を売るにあたり、ウソをいったり、悪口をいったりすること
3 量目、寸法をいつわること
4 先売りをすること
5 見本と違ったものを交付すること
6 潜在的な欠陥をかくして真実を告げないこと
7 実際よりもよく見せるようにすること(p.137)


 ◆山本安二郎 (1972) 「経営教育における経営理念」」(所収 山城章 編 (1972) 『現代の経営理念』白桃書房 p.144-53)

 経営の社会的責任は少なくとも2つの意味を持つ。1つは事業経営に徹して良質廉価な商品やサービスの提供、つまりフォードやドラッカーの奉仕主義である。他は経営関係者の利害の調整である。いずれも経営の社会的・経済的責任の自覚を説くものである。(p.152)

 


◆日本経済新聞社 (1974) 『企業の社会的責任ハンドブック』 日本経済新聞社


T 総論
1 企業の社会的責任とは
2 なぜ問われているか
3 わが国の現状
4 何が求められているか

U 実践編
1 実践へのマニュアル
2 ケーススタディ
V ビジネス・アセスメント篇
1 日経の「新しいモノサシ」
2 生産性本部の「企業の東郷社会的責任指標」
3 日本能率協会の「複合責任会計制度」
4 アプト社の社会監査
W 資料編
1 経済団体の提言
2 行動基準
3 アンケート
4 参考文献

 企業の本来の機能とは、社会がその企業に求めている財やサービスをできるだけ良質で、より安く、安定して提供することであり、それによって適正な利潤を追求しながら、従業員とその家族には生活水準の向上を、株主には適正かつ安定した配当を、消費者には良質かつ安価な便益の安定供給を、それぞれ保障することである。(p3)

 大企業の寄付というと、とかく白い目で見られ勝ち。特に最近の企業批判ムードの中では、「今まで儲け過ぎていた」「そんなにもうかるなら製品を値下げすべきだ」といったこえもでており、そうなっては効果もまったくの逆効果。(p85)

 家電製品でもカラーテレビ、冷蔵庫、洗たく機は普及率が伸び悩み、モデルチェンジが活発になっている。日本電気工業会調べによると、冷蔵庫の場合、期待寿命十・二年に対し、平均耐用年数は六・四六年で、その分だけ、買い替え需要の創造が行われるしくみである。だがモデルチェンジに反省が求められている。世界的に同じ傾向である。その最も大きい背景は資源不足に対する危機感の対等にある。使い捨てによる廃品回収が企業にとっても大きな責任問題になってきたためだ。(p.96)

 三井物産は四十八年七月に発表した同社の行動基準の中で、企業の社会的責任を果たすため「利益還元制度」を創設することを明らかにした。同社の利益還元制度というのは「税引き前利益の二-四%を決算期ごとに、継続的に”社会貢献のための経費”として予算化する」というもの。…この制度の最大の特徴は、社会貢献費として計上された予算はすべて「利益を生まない社会的事業」に使うというところにある。…つまり、企業存立の基盤tのして企業活動が社会に受け入れられるために、社会的費用(ソーシャル。コスト)として出費するわけである。(p.162)

 


◆Heilbroner,Robert L. et al. (1972) IN THE NAME OF PROFIT, Doubleday & Company, Inc.

 
= 1973 太田哲夫 訳 『利潤追求の名の下に――企業モラルと社会的責任』 日本経済新聞社 246P

1 どうして私の良心をとがめるのかね?――カーミット・バンディビア
2 製品を安っぽくする決定――コルマン・マッカーシィ
3 ある植民地風の建物――モートン・ミンツ
4 できることをうまくやり遂げろ――テンフォード・J・アンガー
5 このナパーム商売――ソール・フリードマン
6 企業をコントロールすること――ロバート・L・ハイルブローナー
訳者あとがき

 しかし、利益が伸びないとき、あるいは経営者がもっとうまくやれると考えるとき、決定は必然的に製品の値上がりにする方向で下される。そうした決定の結果が市かもしれないとき、道徳的無感覚さが収益システムに励まされてむき出しになる。(p.78)

 ここで問題にされていることはベトナム戦争の背後にある法則はビジネスの世界でも働いているということだ。その法則とは、自由とか利益という名前において他者に損害をあたえることができるということである。(p.195)

 もしそうだとしたら、道義的責任を問う場合、企業組織の中のどのくらい上までさかのぼるべきなのだあろうか?ベトナムで行なわれた残虐行為に関して米軍の将軍たちは自分たちが犯罪に関わりあっているという気持ちを持ち合わせてはいない。同じように、この本に出てくる企業のお偉方も自分が犯罪にかかわりがあるなどとは思っていないのである。そして、軍隊の場合も企業の場合もトップにいる人たちには現実についてぼんやりとした知識を持っているものもいるにはいるが、大多数はそうした程度の知識さえ持っていない。(p.196)

 ダウ・ケミカル社がナパーム爆弾を製造するのは利益のためではなく愛国精神のためであると発表するとき、同社の重役たちは社会的責任という感情で気分を高揚させているものと私は確信する。そして同社が大衆の抗議を聞き入れてナパーム爆弾の製造を中止するとき、重役たちは再び社会的善行をしているのだという感情に包まれるに違いない。しかし、このような動機で社会的な問題に関する決定がなされてよいものかどうか私には確信が持てない。(p.209)

 私の思うところでは、ビジネスマン自身が自分たちはただの金儲け屋に「しか過ぎない」といわれることにはあまりよい気持ちを持っていないというのが一つの大きな理由である。資本主義の神学にまつわる一つの問題点は、資本家は理論が言うほどには純粋な自己利益だけで動きたがらないということである。(p.210)

 フリードマンの理論が論理的であるにもかかわらず人々を説得し得ない第二の理由は、ビジネスと政府との間に、実際には維持されることが難しい関係を想定していることである。その想定とは、政府はビジネスから切り離れた立場でいろいろの規則を作るということ、そして逆に企業は政府の作った規則には従うが、その規則を作ることについては口をさしはさまないということである。だが、各種の規制の歴史を過去五十年間振り返ってみると分かることは、規則を作る立場にある政府の期間はほとんどどれもがその規制の対象となる業界の支配下にあるということだ(p.211)

 結局のところ、企業の収益というものは、労働者の汗と、経営者の鋭さと頭と、そして大衆の欲望ー素朴なものであれ、操作されたものであれ―の三社が組み合わさって生み出されるものである。だから、企業の剰余を「社会的」目的のために使うことに関して誰に決定権があたえられるかということになれば、労働者、経営者、大衆の三者の方が株主よりははるかに正当な権利を要求できるのではなかろうか。(p.212-3)

 企業を政治化するということは二つの一般的形態をとる。一つの幅広い攻撃の方法は経営者、投資家双方に自らの行為の社会的結果について目覚めさせることである。この作戦の典型的な例は、以前ウォール街で証券アナリストだったアリス・テッパーが率いる経済優先度協議会だ。堂協議会は、企業が弾薬製造、公害、人種に関しての雇用方針、そして海外投資などにどのように関わり合っているかについて、見事な調査を行った。(p.224)


◆乾昭三 平井宣雄 編 (1973,1977,1981) 『企業責任――企業活動に因る法律的責任を問う』 有斐閣


1 企業責任とはなにか――乾昭三
2 企業責任の内容――平井宣雄
3 事業災害と企業責任――平井宣雄
4 公害賠償における企業の責任――徳本鎮
5 旅客に対する運送企業の責任
6 医療事故と病院の責任
7 企業活動と公害(1)――企業活動と権利濫用――森島昭夫
8 企業活動と公害(2)――因果関係を中心に――竹下守夫
9 企業活動と公害(3)――共同不法行為を中心に――森島昭夫
10 企業活動と公害(4)――法人の刑事責任――芝原邦爾
11 製造物責任とはなにか――浜上則雄
12 製造物責任の性質と背金分配――浜上則雄
13 マスコミ企業の責任――三島宗彦
14 船舶事故と企業責任――谷川久
15 企業間の自由競争の限界――渋谷達紀
16 被用者の行為による企業責任――伊藤進
17 企業の責任と被用者個人の責任――伊藤進
18 元請・下請・名義貸与と企業責任――乾昭三
19 自動車事故における企業の責任――伊藤高義
20 企業と工作物責任――中井美雄
21 公企業の責任――古崎慶長
22 法人格濫用と企業責任――志村治美
23 企業責任と損害賠償――篠原弘志
24 企業活動の差止――中井美雄
25 免責約款と企業責任――谷川久
26 企業と無過失責任――徳本鎮
27 企業責任と責任保険――西島梅治

 企業はなぜ無過失責任とも呼ばれる重い損害賠償責任を負担しなければならないのか、という問題について、ふつう説明されているところを簡単に紹介しておきましょう。ひとつは、「利益あるところに損失も帰属させるのが衡平である」とする報償責任の考え方です。企業は平素から多くの従業員を雇って利益を収めているのだから、企業活動空に生じた事故について、その損失は企業が負担して当然だと見るのです。この考え方は、事故を起こした労働者の責任わけても使用者の求償を軽減する上で、役立ちましょう。他のもうひとつは、「危険物の所持を社会的に許された者は、危険物から生ずる損害については無条件に責任を負担せよ」という危険責任の考え方です。危険物を所有できるのは、社会から特権を認められたことになるから、特権に応じた思い責任を負担して当然だと主張します。(p.10-11)

 危険な企業活動が許される以上、企業には損害を防止するための行動の注意を払うことが要求されなければなりません。つまり、企業に高い注意義務を課すこととのかねあいで、危険が許されることになるわけですこのように、事業活動から生じる便益と危険とのバランスをどのようにしてとるかが、事業災害の最も基本的な問題なのです。(p.26)

 企業は、危険を生じさせ、それを支配管理することによって、利益を上げている、という点で巣。もっとも、産業資本主義勃興期のように無秩序・無制限な利益追求は、現代の企業にはもはや許されないと言えるかもしれませんが、絶え間のない技術革新やあくことなく生産性の向上を求める企業の行動には利益の追求がその大きな動因となっていることはいうまでもありません。危険をもたらすことにより利益を上げているなら、企業は危険から生じることあるべき損害を補填すべきではないか、という考え方がここから生まれてきます。(p.26-7)

 どういう場合にいかなる損害が生じるかを予見するのは、高い注意を払っても実際に難しい場合があるかもしれません。しかし、損害を予見し、防止することが期待されるのは、新製品・新技術を生み出した企業の専門的知識しかありません。したがって、たとい、道の危険であっても、そこからの損害を予見し回避する能力が企業に要請されなくてはいけません。(p.27)

 事業災害は、不特定多数のものに生じることが多く、生じた損害が思わぬ方向へ波及する程度が高く、損害額は極めて莫大なものになりますが、損害の予見能力をもつ企業はそれを分散することが技術的には可能であるという点です。すなわち、企業は少なくとも一定の範囲では、保険というしくみを通じて生じうべき損害の負担の危険を分散させることができ、しかも分散のための対価(保険料)は、競争力を低下させて利益に影響を与えることにならない程度においては、製品のコスト等に組み入れ、事業活動によって利益を受けるものに転嫁することができます。(p.27)

 事業災害は企業の代表者あるいは被用者個人の行為から生じたというよりも、企業の支配管理する危険そのものから生じたと考え、企業という組織体・経営体そのものの責任を問題とするほうが実態に合っていると考えるべきでしょう。代表者や被用者個人の行為を問題にする場合でも、企業の責任を追及するための現行法上の法技術がもたらす結果なのだと考えた方がよいと思われます。(p.28)

 過失を立証する資料は、危険な物や行為を支配管理する企業の手にあるのが普通ですから、被害者が立証しようとするのは難しい場合が少なくありません。そうだとすると被害者にとって甚だ過酷なようですが、判例は企業側の過失成立をきわめて容易に認めており、実際の結果においては、無過失責任を認めたにひとしくなっています。先に一言しましたように、学説も無過失に結論をもたらすような法理論を作り出すように努力をしており、事業災害における過失は、過失責任から無過失責任への移行点にあるとか、過失の衣を着た無過失といわれるくらいです。(p.30-31)

◆求償権の制限 企業が被用者に対し使用者として賠償責任を負うのは、本来被用者の負担する賠償義務を代わって履行しているにすぎないというのが、通説・判例であることは前に述べました。この考えでいくと企業が被害者に支払った賠償金は、被用者に求償できるのは当然ということになります。しかし、これを当然視し被用者に全額の償還義務を認めますと、我々の今日の日常間隔から見て疑問が生じます。その被用者の行為から収益をあげたときは企業がそれを取得することになりますが、たまたま違法であったときは被用者自身がその損害を負担しなければならないというふうに企業活動に従事する被用者は、自身の責任で活動しなければならないのに甘い汁だけが企業に吸い上げられてしまうことにもなりかねないからです。それでは、被用者は、生活をしていくのに精一杯の給料からこれを償還していかねばならないことにもなります。この結果は被用者は小心者となり企業活動において萎縮してしまうことにもなって、企業活動そのものが停滞し発展を阻害してしまうことにもなります。(p.244)

 ◆企業と被用者の責任分担関係 このことを考えるに当たって最も参考になるのは国家賠償法1条2項です。そこでは賠償責任を負担した国または公共団体は、公務員に故意又は重過失があったときは、公務員に求償できるとしています。そこでこの前提として、公務員の経過質の場合は公務員自身には何ら責任がなく、国・公共団体自身の責任であるとの条例理論を形成してきています。行為・重過失の場合と経過質の場合とでその不法行為責任の分担者を決めようとする考え方といえます。(p.249)

 もし責任保管が加害者の保護手段に過ぎないならば、それは社会全体からみて尊重されないだけでなく、むしろ反感を買うおそれがあります。なせなら、保険会社が保険金の支払いをしないですむように加害者の賠償責任の証明するため八方手をつくすことになるからです。医師や食堂経営者は、治療上のミスや料理による客の食中毒などを発見されて業務が行きづまることがこわいため、責任ありとして保険金をもらうよりも、責任なしとして保険金をもらわないほうが、ずっと得だと考えます。保険会社にしても、保険金支払いによる事後的救済よりも責任追及に対する防御という事後的救済に責任保険のセールス・ポイントを置くことがあります。(p.381)


◆高田馨 (1974) 『経営者の社会的責任』 千倉書房

 
T 社会的責任肯定論
 (1)社会的責任の意味
 (2)社会的責任と経営活動
 (3)社会的責任の問題点
 (4)社会的責任論の要点
 (5)社会的責任の問題領域(とくに環境諸主体)
 (6)社会的責任実行の基本原理


U 社会的責任否定論
 A 代表的諸説
  (1)フリードマンの主張
  (2)ハイエクの主張
  (3)ルイスの主張
 B 否定論の概括
  (1)社会的責任の弊害
  (2)利潤最大化原理の主張
  (3)条件
  (4)社会的責任否定論の意味
  (5)社会的責任否定論の問題点


V 結語
 (1)肯定論と否定論の比較
 (2)協力原理の重要性

 私見では、社会的責任の本質的意味は、人間の主体性尊重の責任である。人間の主体性を認める責任は、人間が具体人としてもつすべての欲求を満足できるように努力する責任である。そして、具体的人間が持つ欲求には経済的欲求のほかに非経済的欲求のすべてが含まれる。したがって、人間の主体性尊重の責任としての社会的責任のなかには、既述の狭義社会的責任のほかに経済的責任も含まれる。(p.3)

 以上で知られるように、協議社会的責任と経済的責任は密接に関連しながら人間主体性尊重の責任の中に含まれているのである。この人間主体性尊重を講義社会的責任と見るとき、これこそ新の社会的責任である。これによってこそ、はじめて、具体的人間の全欲求を満足させる責任が考えられるのであり、これこそ新の社会的責任と言わねばならない。(p.4)

 企業はもともと財貨・用役の生産とその経済成果の配分を担当する組織体であり、そこでは、経済的責任と狭義社会的責任とは独立無関係のものと見ることはできないことを知らねばならない。もちろん、経済的責任も広義社会的責任にとり必要条件ではなるが十分条件ではない。(p.5)

 「自発性」といえども、その背後には環境諸主体の要請ときには強制がある場合があるが、それをもって直ちに他律的とはいわない。たとえば、労使関係において、労働関係諸法律にもとづく強制や政府介入があるとき他律的であり、労働協約の内容に付いては自立的であるものが含まれうる。また、公害問題でも、公害関連法律によるものは他律的であり、公害防止協定は自発的でありうる。(p.21)

 経営学が取り扱う社会的責任は経営問題としての社会的責任であり、それは、経営者の自発性=自立性による社会的責任の経営理念化と実行を意味する。経営者の対立的な社会的責任は、むしろ、経営者に社会的責任を負わせる権力を持つ経営者以外の主体とくに広義政府そのものの社会的責任の問題として経営学以外のところで問題としなければならない性格のものである。(p.22)

 実は、権力−責任−均衡法則がある。もし、私企業が責任を負わないならば、その権力は責任を負担した他のものに移ってしまうのである。上述で、自由保持の条件は責任を負うことだといったが、このような条件が生ずる根拠は、実は、権力ー責任均衡法則なのである。…この法則は、人間の長年の経験のなかから導き出された法則であり、これを認めざるを得ないとおもう。とすると、企業が<私企業の自由性・自律性への要求>をみたそうとすれば、自発的に者気的責任をおわなければならあいというkとおになり、先に述べた<自由保持の条件>が生ずることになる。(p.27.8)

 社会的責任否定論者といえども、肯定論者と同じく、アメリカの自由企業体制の保持要求を根底にもっている。社会的責任に反対する根拠は、社会的責任によってかえって自由企業制、自由社会、多元社会がそがいされるというところにあるのである。(p.36)

 「会社の権力は是認されているのであるから、その権力を社会のために活用できるし、しなければならない」というのが社会的責任肯定論の主張の要点の一つである。とくに、「企業権力は社会のために活用できるし、しなければならない」という主張の根底には、企業の大きな自負心があることを見逃してはならない。(p.40)

 社会責任肯定論は、はじめから責任の存在を肯定している。しかも、すでにみたように権力の存在を認めている。こうして、責任と権力の存在を認めている以上、「責任鉄則」を認めざるをえないであろう。なぜなら、「責任鉄則」は「責任を回避すれば権力を失う」ことを意味するが、権力喪失はこれを経営者は欲しないからである。(p.41-2)

 ハイエクは立法と行政を明確に区別していることに注意しておかねばならない。さきに、政府・政治家が会社経営に介入することに対しては彼は反感を示したが、「わく組み」における「法的わく組み」(legal framework)は是認している。経営者が株主利益に奉仕せざるをえないように法による枠組みを設定しておきさえすれば、経営者の目標が一元化し、「社会適正人」論に惑わされて政府の介入を招くようなことにはならないと考えているものと思われる。また、政府の介入は「経営者がなにをなすべきか」への介入であり、経営目標そのものへの介入であるし、政府の恣意が入るが、法的枠組みは制約条件であり、これさえ確立しておけば経営目標そのもののも単一化し政府の恣意が入り込む余地はないとも考えているとおもわれる。(p.89)

 経営者の型が所有経営者(owner manager)であろうと専門経営者(professional manager)であろうと、経営者は自利心(self-interest)を強くもっているとみられる。…強い経済的自利心が経営者の本質とみなされる。ところが、社会性任肯定論は倫理(ethics)を強調し、利他心(altruism)を肯定する。しかし、この利他心は経営者の本章とは異質のものである。したがって、社会的責任は経営者の本性とは衝突・矛盾するものである。(p.101)

 社会的責任がエコノマイジングを妨害するという批判の意味は、上述のように理解できる。そして、このような批判の根底にあるのは、市場に参加する各人が自利心にもとづいて意思決定し(企業は利潤最大化原理によって意思決定し)、それが最高度のエコノマイジングをもたらすのであり、この意味で私益と公益は一致するという自然法的調和感。楽観論であることは詳しく述べるまでもないだろう。(p.108)

「責任を負担すれば権力を得る」を利用して、責任を負担しているようにみせかけることによって権力を得ることを考える経営者もあるとする見解もある。いわば偽装された社会的責任であり、もともと社会的責任はそうした偽装であり偽善にすぎないという批判もでてくる。(p.113)

 利潤追求が「見えざる手」によって公益を実現するという原子論的競争、完全競争の条件が実在しない状況においては、経営者が利潤最大化に専念することによって政府の課題は日増しに増加することは明らかである。そして、政府がその課題を果たすことは、企業への制約、統制、干渉、制裁が日増しに増加することを意味する。このことは、企業の自由が縮小することを意味する。しかも、社会的責任否定論は「経営者は利潤最大化に専念せよ。」とすすめるのであり、明らかに自由企業性を是認しているのである。

自由企業性を是認していながら、結局は、上記のように、企業の自由を縮小するというパラドックスに陥ることになる。(p.132)


◆鈴木治雄 岸本重陳 太田薫 大野力 (1974) 『企業の社会的責任とはなにか』 昌平社


第1部 企業とサラリーマンの社会的責任 鈴木治雄 太田薫 大野力
第2部 社会的責任論 岸本重陳 大野力
第3部 企業の内であれ外であれ人間らしく 大野力

 

 『企業革命論』と私の考えの異なるのは、岡本説が経営者公選制をもって、内部制度に一挙に支配的権威の転換を求めるのに大して、私の場合は、あくまでサラリーマン一人ひとりの職務の場から、企業内に人間の権威の浸透を図ろうとする点にあります。そしてそのことは、岡本説が職務そのものにおいては、そしきの命令系統に属するものとしているのに対し、私の場合、まさにその職務の実質においてこそ、サラリーマンの発言権が認められるべきだとしているところが相違しております。(p.218)

1 企業の構成員は、自分が担当する業務の社会的有効性について、企業経営者に対し、資料、情報、見解の提示を求め、またそれに関して意見を述べる権利を有する。

2 もしそのさい、見解が相違した場合は、企業経営者は関係者を含めて公平に議論できる機会をつくらなければならない。

3 企業経営者とその構成員との間に、構成員の担当する業務の社会的有効性に関し企業内で合意が得られない場合は、どちらからでも外部の審議機関に提訴することができる。

4 外部の審議機関において、十分に納得できる根拠があると認められた場合は、企業構成員は、みずから命ぜられた業務を拒否することができる。

5 企業は、1-4項の行為を理由に、その当事者に対し、いかなる不利益も与えてはならない。

6 企業は、その構成員の基本的人権にふれる事項を、指示命令してはならない。

7 前項に監視、企業経営者とその構成員の見解に一致が見られない場合も、1-5項が適用される。(p.220-221)


◆中村一彦 (1977,1980) 『企業の社会的責任 法学的考察 改訂増補版』 同文舘出版


第一部 総論
 第一章 企業の社会的責任に対する法学からのアプローチ
 第二章 企業の社会的責任の発生要因――とくに「所有と経営の分離」について
 第三章 「企業」「経営者」および「社会的責任」の法律的意義


第二部 各論
 第一章 政治献金と企業の社会的責任
 第二章 企業の社会的責任に関する一般的規定
 第三章 株主運動と企業の社会的責任
 第四章 議決権行使の代理人の資格制度――企業の社会的責任の視点から
 第五章 利益の供与の禁止
 第六章 経営者の社会的責任
 第七章 経営者の社会的責任と取締役会の構成
 第八章 会計学の領域に対する法学的アプローチ――企業の社会的責任の視点から
 第九章 独占禁止法と企業の社会的責任
 第十章 責任ある企業社会は到来するか

 結局、筆者によれば、一定の規範的順にもとづく社会からのサンクションと、それに適合する企業内部の経営者の職務を中心とする組合の総合による社会的責任を確定すべきであるということになる。(p.38)

 商法上、会社は営利を目的とするので(商52条1項、2項、有1条1項参照)、いわゆる営利法人に属する。すなわち、会社は対外的な活動によって、利益を獲得し、その得た利益を社員に配分することを目的とする法人である。これは、企業の主観に契機を求めた伝統的な商法の考え方である。(p.41)

 「経営者支配論」は、経営者の新たな行動基準の探求という形で、経営者の社会的責任の問題をクローズ・アップする。そして、経営者支配の性格としては、私的資本から完全に中立ではなく、むしろ私的資本の繋縛のもとにあると解すべきである。このような性格を前提にして、経営者支配に対する社会の側からの有効なサンクション・システムを法的にも検討しなければならない。(p.73-4)

 商法上、会社は営利を目的とするので、いわゆる営利法人に属する。すなわち、会社は対外的な活動によって、利益を獲得し、その得た利益を社員に分配することを目的とする法人である。しかし、会社が利益を社員に分配することを目的とするとは言っても、これは制度としてそういうたてまえになっているだけのことであって、ここの会社が臨時のその利益の限られた一部を社員に分配することなく寄付することが右のたてまえを崩すとは考えられない。今日の会社は、社会との関係に足には存続しえない。会社の収益源が一般消費者ないし国民大衆の尊属に依存しているからである。企業の社会的責任の視点に立てば、経済学でいう利潤最大は企業の存続のための必要条件の一つであって、それだけで十分条件をなすものではない。(p.121-2)

 市場経済の原理によっては解決できない事態に対処するためには、競争秩序維持政策とは別のほうの手段によって迫られなければならない。しかも、困難ではあるが、競争秩序維持政策とは矛盾しない、市場メカニズムを保管するような法的手段が必要である。たとえば、消費者の保護は元来市場メカニズムを通じてなされてきた。しかし、独禁法が完全に発動されても、なお解決できない問題として、欠陥商品の問題が発生してきた。これに対する対策としては法律または行政機関による保護ないし救済という方法もあるが、企業の意志決定に消費者が直接参加できるような法的仕組みが考えられてもよいのではないか。また、株主の提案権や解説請求権などの付与によって、大衆株主の強化を図れば大株主や経営者の会社支配力はそれだけ制御されることになり、これは間接的に競争秩序を確保することになろう。(p.157)

 悪意・重過失の挙証責任は、一般に被害者にあると解されているが、筆者は取締役が悪意・重過失のないことを立証しなければ、その責任をまぬかれないと解する。取締役と会社の利害関係者とのあいだには、一種の準契約的関係を犠牲することができるから、基本的には債務不履行の一般理論によって解決すべきで、ただ取締役の責任の過大化を防止するために軽過失を免責事由としていると解することができるからである。(p.215)

 一つは、個人責任から組織体責任への変化である。近代法は個人主義の立場をとり、その自由な活動を保証したため、不法行為に付いても、行為者個人に過失があるかどうかを判断し、責任も原則として個人が負担してきたが、企業内の労働者の立場、被害者の利益の配慮、企業独自の活動の自由から見て、企業自身が賠償するのが当然という考え方が出ている。もう一つは、過失責任から無過失責任への変化である。周知のとおり、近代法において個人の責任が過失責任を原則とするのに対し、企業責任は無過失責任という考え方が強まっている。乾昭三「企業責任」、加藤一郎「企業責任の法理」『ジュリスト』578号


 

◆山形休司 (1977) 『社会責任会計論』 同文舘出版 271P


序章 問題の提起
第1章 会計と効率の測定
第2章 ソーシャル・プログラムと会計
第3章 環境会計論
第4章 社会監査論
第5章 社会的コストの測定
第6章 社会的コスト論
第7章 社会的業績会計
第8章 社会責任会計モデル
第9章 社会責任会計の実例
第10章 企業社会報告の基準

 社会責任会計とは、まさに、そのような企業の社会的責任業績についての測定・報告を意図した会計である。したがって、それは伝統的会計の財務的業績測定だけでは満足せず、社会的責任領域での活動業績の測定。報告をも目指した会計である。(p.i)

 社会的費用(収益)は、その社会取引の結果として、企業のよって費消(付加)された諸資源の、社会にとっての犠牲(ベネフィット)をあらわす。言い換えれば、社会的費用(social overheads)は、企業のマイナスの外部効果の測定価値であり、社会的収益(social returns)は、そのプラス外部効果の測定価値である。(p.12)

 社会的利益(social income)は、企業の期間的純社会貢献額を表わす。それは、企業の伝統的に測定された純利益と、その総社会的費用とその総社会的収益の台数和として計算される(p.12)

 たとえば、製造原価の中に、環境を破壊しないで商品を生産するために必要なコストを含めようとはしなかった。言い換えれば、会計目的のための私的コストの中に、公害コスト(pollution cost)を含めようとはしなかった。それは、郊外を無くすために費やすコストは、個別企業の観点からは、利益に不利に作用すると考えられたからである。その結果、原稿報告実務の下では、能率的でありえるように思える企業が、実は、社会的には非能率的であることもありえるのである。(p.116)

 会計報告は、企業ないしは産業が引き受けるべき責任を査定するための基礎を読者に提供するような、付加的ディスクロージュアを用意すべきである。企業の社会的責任についての情報要求は、もし会計がそれを要求するというチャレンジに答えなければ、他のものによって満足させられることになるであろう。したがって、会計は公害コストについて、ディスクロージュアを用意しうるし、すべきである。(p.119-20)

 大まかにいって、企業の活動が、ただ企業自身のコストとベネフィットに影響するだけの時には、私的価値と社会的価値とのあいだに乖離はない。そのような場合には、企業自身のための利益の追求でなされた決定とか行動は、両者の最適化を結果するであろう。(p.130)

 なぜ企業が社会的プログラムや環境プログラムを試みるのかとか、そのようなプログラムが株主の最大の関心事であるかどうかは、ここでは、問わないことにする。ただ、そのようなプログラムの多くは、法的に要請されているものであり、たとえば、作業安全プログラムとか、公害削減プログラムのようなものがある。他のものは、訴訟を避けるためプログラムで、たとえば、製品の安全性とか少数民族雇用プログラムがその例である。あるプログラムは一般大衆のイメージの改善とか、企業にとって有害と考えられる製品ボイコットとか、規制のための政治的圧力を和らげるためのものである。社会的プログラムの中には、会社の経営者の利他的社会関心に根ざしているものもある。…そこで、社会的プログラムを支持する人々は、典型的には、そのようなプログラムが企業の存続長期の利益を保障すると言うのである。(p.134)

 企業の社会的業績を強調する立場は、往々にして、個別企業の立場が直ちに社会的立場に通じるという誤りを犯している。社会的業績が上がれば良いのは言うまでもないが(そのことは、たとば、社会的富の増大があるということなので)、そのことが直ちに、個別企業の社会的業績が上がればよいということには結びつかない。(p.164)

 社会性が第一義的であるならば、儲からなくても社会的に意義ある仕事であるならば、そのような仕事からの撤退はできないはずである。そこに資本の論理があり、社会的生産と私的生産の矛盾が見られる。したがって、社会的業績というのは、個別企業の立場からは手段としての意義と、事後的でしかも受動的に決定されることがらなのである。(p.165)

 資金配分のための、目立った、しばしば唯一のように見える基準というのは、会社に対する申込人の関係、ないしは会社に及ぼすインパクトである。言い換えれば、寄付決定の場合のひとつの基準は、会社自身の利益に照らして決定されることである。…第二の観察事項は、利用可能な資金の配分に、トップ・マネジメントによって割り当てられた時間の長さである。8社の場合のすべてについていえるのであるが、トップ・マネジメントは非情に感覚的と思えるような領域に大きな興味を示すのである。…3番目に、一度”勝ちある理由で配分”がなされたならば、贈与された資金が要求した問題に使われた同化を評価したり、あるいは将来も資金的援助をなすべきかどうかを検討するような、フォロー・アップが、実質的にはないことである。(p.168)

 社会責任会計の実施上の最初のステップは、まず、「トップ・マネジメントの支持を得ることである」という指摘がある。このことをとくに意識しておきたい。社会責任会計は、まだ形式・内容とも整ってはいないが、不十分な形のものでも、まず実行する意欲をトップが持つことが肝要である。(p.250)


◆森田章 (1978) 『現代企業の社会的責任』 商事法務研究会


第一編 米国における企業の社会的責任の展開
 第一章 社会的責任論の発生・展開とその背景
 第二章 バーリー・ドッドの論争
 第三章 会社の寄付についての法展開
 第四章 会社行動と利益原理
 付論 ヘラルド事件の評釈


第二編 株主提案権の機能と企業の社会的責任論
 第一章 問題の所在
 第二章 株主提案規則制定の経緯
 第三章 株主提案規則の運営
 第四章 株主提案権の新展開
 第五章 株主提案権の機能
 付論 SEC株主提案規則の改正 −1976年改正(現行規則)


第三篇 企業開示の強制
 第一章 社会問題とSECの規則制定権限 −NRDC判決の紹介
 第二章 「開示」実現のためのSECの強制訴訟手続
 第三章 不正支出の開示 −ウォーターゲート事件の余波
 第四章 外国賄賂禁止立法 −1977年証券取引法の改正

 

 1935年に、ドッドは、右のようなバーリーの諸説に対して、次のように述べた。すなわち、バーリーの指摘するように、私的企業の経営者が投資者以外の人々の利益に奉仕することを可能にさせるような法原則は、存在しない。労働者や消費者の一定の最低限の権利は、立法により与えられることが可能であり、また、かなり与えられてきている。しかし、これ等の立法が、基本原則を実質t系に変更するのではない。法による最低賃金の支払い、あるいは法による最高価格の遵守という義務は、従業員や消費者に対する忠実義務ではない。一般にいうと、そのことは、企業が全体として負う義務であり、経営者が個人的に負う義務ではない。(p.23)

 初期の判例は、チャーターの規定を厳格に狭く解釈した。…裁判所は会社に金銭的な利益が結果されることの明らかな寄付をも、ウルトラ・ヴィーレスとしたのである。…しかしながら、州が、19世紀末に、チャーター規定の制限を緩和する会社法を制定しだしたために、チャーター規定を厳格に狭く解釈することは、妥当性を欠くようになってきた。…会社のなす義務と会社のビジネス目的との間の関係が、直接的であるかあるいはきわめて近い場合であって、しかもこの寄付が会社に経済的利益をもたらすことの証明がなされた場合に、裁判所は、この会社のなす寄付を有効と判断した。(p.55)

 裁判所はいったいどのような場合に「利益」があると認めてきたのであろうか。a従業員に火契約上の手当を支給すること。b従業員の新規採用のための寄付。c善意(god will)の創造 (p.56)

 ブランバーグは次のように述べている。すなわち、このような寄付は、直接の経済的利益を結果しなくても、ビジネス目的を充足している。「利益」という言葉は、ビジネス目的の充足と気宇との間の関係における「合理性」という言葉に置き換えられうると。また、これ等の判決に共通していることは、寄付額が会社の収益に比して相対的に商学であったことである。判決25はinternal revenue codeの寄付に付いて控除規定を基準として、税引き前会社利益の5%を上限とみなしたのである。(p.67-8)

 株主提案がなされた場合に、経営者がその内容を自発的に受け容れることがあるのは注目されよう。経営者がこのような行動をとろうとする理由は、提案が提出されたときに生じるパブリシティの圧力によるものと思われる。けだし、普通の会社ニュースはめったに大見出しにならないが、贈賄、公害、対南アフリカ接近政策は、大見出しになるといわれるからである。社会問題に関する提案は、パブリシティを獲得しやすいものであり、それによって経営者はその対応を迫られることになりやすいようである。(p.236)


◆対木隆英 (1979) 『社会的責任と企業構造』 千倉書房


第1章 企業の社会的責任の生成
第2章 企業の社会的責任否定論
第3章 社会的責任肯定論とその根拠
第4章 社会的責任の内容
第5章 社会的責任と取締役会
第6章 社会的責任と管理体制
第7章 社会的責任と企業モデル
第8章 新企業像への接近
第9章 社会的責任と企業の三重構造的理解

 本書では、商品の生産、販売を組織的、継続的に行う企業全体を行動主体と設定し、この企業にとって外在性externalityを有する諸要因ないしその複合体を企業環境と呼ぶ。しからば、企業の内部世界は、環境と呼んではならないのであろうか。それは、しばしば、企業の内部環境として表示されるのではないだろうか。この点に関しては、種種の議論がありえるが、ここでは、企業の内部世界は、企業の内部構造及び内部諸状況と表現しておきたい。(p.3)

 企業の社会的責任は、ここの企業の利潤追求活動が、全体経済、社会の利益と常に必ずしも一致するものではないこと、企業目的追求過程において、企業環境に対する配慮を欠いた自己本位で独善的行動が行われ、情況によって組織的批判が展開され、企業と環境の利益がしばしば矛盾し背反すること、こうした自体が明確化されることによって形成されてきたと見なすことができる。(p.15)

 レビットは、万能の国家omnipotent stateを恐れる。それが活気の喪失と恐れるべき画一性を強制し、一元的社会を形成することになるというのがその理由である。われわれの生活全般が、すべて、唯一の思想と見解で統一化され、すべての人が画一的行動をすることは、多様化した現代社会の情況に合致しないし、自由が失われることを意味する。いかに物質的豊かさが得られようとも、一元的社会による個人の拘束、規制は排除されるべきである。それゆえ、たとえ福祉国家welfare stateと呼ばれるものでも、国家の権限が強大で、それが、人々の生活のあらゆる領域に関する機能を集中化させ、厳格に遂行し、個人的生活の全分野にわたって介入するならば、それは判t内され、否定されるものとなる。福祉自体が否定されるわけではない。それが醸成する厳格かつ硬直的社会規律と自由の侵食に対する反抗が必要なのである。(p.31)

 デイビスは、以上六つの点を踏まえながら、企業及び経営者の責任の説明を試みる。そのために、かれが設定する概念が、権力責任の均衡power responsibility equationである。現代企業は、大量の有形、無形の経済的資源と大きな権力を有し、社会における指導的制度の一つとしてその地位を確立している。企業が経済的社会的権力を掌中に収めていること、そのことこそが、企業の社会的責任の源泉である。企業の社会的責任は、それが所持する権力の総量から生じることは歴史的事実であることを彼は強調する。このことは、社会的権力と等量の社会的責任が企業に課せられていることを意味し、このバランスが崩れたり、喪失されるときに、い号に対する社会の信頼と支持は後退し、企業批判や企業行動に対する攻撃が開始されることを意味するにほかならない。権力−責任の均衡の論理balancing of power and responsibilityないしは、権力−責任適正均衡の論理the logic of resonably balanced power and responsibilityは、企業行動の基礎をなしているのであり、この論理を逸脱する企業は効率的活動を阻害される。(p.52-3)

 社会的責任を経営学的観点から整理するさいに、G.Aスタイナーの所論がひとつの参考になると思われる。かれは、「企業と社会」(1971)において企業の社会的責任分類の手段tのして内部的社会責任internal social responsibilityと外部的社会責任external social responsibilityの区別を行う。内部的社会責任は、従業員と資源の利用に関連している。具体的には、従業員の採用、訓練、昇進、解雇過程、物的作業条件、従業員の個人的生活の支持と資源の有効利用過程に関する事項とされる。(p.73) Steeiner G. A. (1971,1975). Business and Society, Random House, N. Y.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


◆Milton & Rose Friedman. (1979,80). Free to Choose
= 1983 西山千明 訳 『選択の自由』 講談社文庫

経済学上の誤った考えの大半は、この簡単な洞察をおろそかにして、この世の中にはつねにある一定の大きさのパイしかないと考え、したがって誰かが利益を得るためには、必ず他の誰かがその犠牲にならなくてはならないと想像してしまう傾向から発生してきている。(上p.51)

すなわち、そのひとつは「資本主義にもとにおける労働者に対する搾取」であり、もうひとつはこの主張と絡み合って主張されている「マルクスの金言に基礎をおいた社会の優越性」である。その金言とは、「すべての人にその必要に応じて与え、すべての人にその能力に応じて貢献させよ」という主張だ。ところが、この金言に従い完全に命令組織原理によって経済を運営しようとしたところ、これを実行することができず、その結果、所得分配の決定を価格機構の働きから切り離すことができなくなってしまった。(上p.71)  

このような条件下においては、自分が反対していたり、自分はそのための費用を負担したくない活動を、ある地方政府が行い、しかもこれらの活動のほうが、自分が賛成し費用負担も喜んでする活動よりも割合から言って多くなれば、これに対して人びとは移住という形における反対投票をすることができる。(上p.79)

 自由社会を実現し、これを維持していくに当たって発生する主要な問題は、自由を維持するために政府に与えられた強権が、この機能を達成するためにだけ行使され、それ自体が自由に対するひとつの脅威となることがないように、われわれが保証できるためには、いったいどうしたらいいのか、という問題以外のなにものでもない。(上p.82-3)

 第三の任務が政府の妥当な任務だと考えなくてはならない理由は、すべてのことを自発的な交換にだけまかせてしまった場合、そこで交換される財やサービスの種類によっては、極端に高い費用になったり、費用の正確な計算がきわめて困難になったりすることがあるからだ。(上p.85)

 ところで問題は、誰が誰に対してどれだけの損害や利益をもたらしたかを認定するのが困難な場合だが、このような認定を民間が行うのが困難ならば、政府とて同じことだ。その結果、自体を是正しようとする政府の努力が、実は何の罪もない人に費用を負担させたり、幸福な局外者に利益を与えたりすることになってしまい、事態を改善するよりは、かえってこれを悪化させてしまう可能性が、きわめて大きい。そもそも政府がこのような活動をするためには、その費用をまかなうために税金を徴収しなければならないが、これは納税者一般の生活に対して影響を与えることになり、ここでもひとつの「第三者に対する影響」を発生させることとなる。その上、どんな目的のためであっても、政府の権力が増大すればするほど、それは市民の多数派のために奉仕するよりは、市民の中の特定の人びと方の市民たちを利用する手段として使われるようになってしまう。(上p.88)

 「敵にあった。敵はわれわれ自身だ」というポゴの言葉は、不朽の名言だ。われわれは「特殊利益」をののしるが、それは「特殊利益」が自分のものでない場合だけだ。われわれのそれぞれが、自分にとってよいこととは国のためにもよいことだと思っている。そのため、「われわれみんなの特殊利益」と称されるものでも、実はそのひとつひとつが違うということになる。このような状態がもたらす究極的にな結果はなにかといえば、政府によるいろいろな制限措置や抑制措置の迷宮状況の発生であり、われわれのほとんど全員が、これらすべてが廃止されたときよりも実は悪い状況におかれてしまっている。(上p.101-2)

 不平をいう資格があるのは、外国の市民たちだ。外国の市民たちこそが、アメリカの消費者や、自国内で助成金の対象となっている企業を所有している同胞や、それらの産業で働いている仲間の労働者たちの利益のために、低い生活水準を強制されることとなっているのだ。(上p.114-5)

 もちろん鉄鋼産業分野において発生した新しい失業者たちを、これらの企業が吸収していくまでには時間を必要とする。しかし、このような影響を相殺する形において、これまで失業していた人びとが鉄鋼産業以外の分野で雇われるようになったのだ。すなわちプラス・マイナスの賞味でいって、まったく雇用の現象が発生する必然性はない。(上p.116)

 幼稚産業の保護育成のため、初期において関税で保護することは、結果的にはその国の消費者たちがこの産業に助成金を与えるのに等しい。消費者たちがこのような行動をとる価値があるとすれば、それは、その産業の製品価格が、将来、世界の価格より低くなるとか、助成金を取り返すことができる場合だけだ。だがこんな具合に助成金をやがて取り返すことができるのならば、そもそもそれを与えてやらねばならない必要があるのだろうか(…)。「幼稚産業」論は、ひとつの煙幕でしかない。このいわゆる「幼稚産業」は決して成長することはないのだ。(上p.122)

 多数決原理による投票方式は、意見の一致がないというのに、強制による意見の一致をつくりだしてしまう。これに対して市場は、強制なしで意見の一致を作れる。だからこそ強制によってでも意見の一致をつくりたいのであれば、可能な場合にかぎり投票による方法を使うのが望ましいことになるのだ。(上p.154)

 アメリカ人はアメリカ社会が自由企業社会だとか、資本主義社会だとかいう。しかし法人企業に対する所有権を見てみると、アメリカ社会はもはや四六%社会主義社会となってしまっている。法人の一%を所有するということは、その法人の利潤の一%を受けとる権利を持っているということであり、また法人が損失を発生させれば、その損失の位置%から自分が所有する株の全体値に等しいところまでは、その損失を分かちあわなければならない義務を持っている(上p.156)。

 官僚は、誰か他人のお金を、誰か他人のために消費している。このような状況下でも、官僚がそのお金を受益者にとって最も利益あるようなやり方で消費することを確実にするためには、人びとに根強くある「自己愛」という強く依存することができる同期に拍車をかけるのではなくて、人道主義に満ちた親切心をあてにする以外にない(上p.246)

 まったくのところ、政治と呼ばれる「市場」において低所得者層の人びとがこうむる不利益は、経済の市場においてこれらの人びとがこうむる不利益よりも、もっと大きい可能性がある。善意に満ちた改善運動者というものは、ひとつの福祉政策を立法化するに当たって、低所得者層をいったん助けこれに成功すると、他の改善運動へと移っていくために、貧困者はその後は自分自身で処理しなくてはならなくなる(上p.247)

 短期的には、ある人びとによっては冷酷なように思えるが、これらの人びとを、福祉政策に依存させておくよりは、低賃金で魅力少ない仕事であってもそれらの仕事に従事させるべきだ。そうすれば、長期的にはるかに人道的な結果がもたらされる。しかし、現状のように福祉プログラムが存在しているかぎりは、これらのプログラムを一夜で廃止してしまうことは不可能だ。(上p.250)

 債権、株券、住宅、工場といった財産に対する相続権というかたちでこの不公平さが現れるかもしれない。また、音楽的な才能や肉体的な能力、数学的天才ぶりといった才能の遺伝という形で、不公平さが出現することもある。財産の相続に対してのほうが才能の相続に対してよりも、はるかに容易に政府の政策によって介入することができる。しかし、倫理的な観点からみて、これらのふたつの異なった種類の相続の間に、いったいほんとうのちがいがあるのだろうか。ところが多くの人びとは、財産の相続には恨みを抱くのに、才能の遺伝に対してはそうではない。(p.284)

 自分でその責任を取るのであれば、自分で決定を下せる。そうではなくて、誰か他の人が結果の責任をとるというのであれば、自分でその決定をするのを許されるべきだろうか。もしくは、実際にそんなことが許されるだろうか。(p.287)

 そのうえ平等へ向けての運動は、もっとも能力があり、最善の頭脳をもち、最も活力に満ちた市民たちのいく人かを、イギリスから外国へと追い出してしまうこととなった。これらの人々の能力を自国の利益のために利用する、より大きな機会を提供したアメリカやその他の国々が、利益を得ることとなった。(上p.301)

 「もしもあなたが自分の子弟のための公立学校教育費を使わないようにしてくれるならば、その代わりに政府はあなたに授業料クーポン、すなわちこのクーポンを認可された学校で自分の子弟の学校教育費用として支払うために使用するならば、そして使用する限りにおいて、クーポンの額面に明示してある金額だけ支払われることを確約する証明書を渡すことにしよう」と。(…)今日親が学校を選択するにあたってその自由を制限されることになっているあの財政的な罰金、すなわち学校教育のための税金を支払い、それと同時に私立学校の授業料も支払わなければならないという罰金の、少なくとも一部は取り除かれることになるだろう。(下p.29)」

 高等教育のおかげによって高度な技術を持ち訓練を受けた人びとを増大させることは、国家にとって利益になるとか、このような技術をより多くの人びとがもてるようになるように投資をすることは、経済成長にとって不可欠なことだとか、もっと訓練した人を増やせばその他の人たちの労働の生産性も増大背させるといった主張を聞かされてきた。これらの主張は正しい。しかしそのどれひとつとして、高等教育に対して政府が助成金を与えることを正当化するような適切な理由では決してない。(…)もしも高等教育がこれを受ける個人の経済的な生産性を改善するのであれば、そのような改善をもたらす成果を本人たちは高い所得を手に入れることによって自分のものとしていくことができる。したがって本人自身が、訓練を受けたいという個人的な誘因を持っているのだ。すなわち、アダム・スミスの「見えざる手」が、本人たちの個人的な自己愛が社会の利益に奉仕するようにさせるのだ。そうだというのに、彼らが受ける学校教育に対して政府が財政による助成を行い、それによって個人的な自己愛を異なった自己愛にさせるということこそが社会的利益に反している(下p.64-5)

 高等教育を受けない人々の犠牲において、高等教育を受ける人の費用を政府が助成金として支出するのを正当化してくれる理由はまったくない。政府が高等教育機関を運営するとしても、その教育のための全費用や高等教育が提供するその他のサービスに対する全費用に対応した金額における授業料を、政府は学生に対して請求すべきだ。(下p.73)

 「見えざる手」に対するこれらの批判は、第一章で述べたように正しい。ほんとうの問題は、このような市場の限界に対応し、市場を補完するために提案されたり採用されたりしたいろいろな取り決めが、そこで目的としていたことを達成できるようにうまく計画化されているか、それともしばしば実際に発生するように治療のほうが病気よりも悪い結果をもたらすといった状況になっていないかどうかだ。(下p.84)

 公衆を安全でない薬や役に立たない薬から保護することが望ましいのは、いうまでもない。しかし新しい薬の開発を促進するような刺激が与えられ、それらの新薬を必要としている人びとにいち早くそれらが入手可能になることもまた望ましいことだ。しばしばそうであるように、ひとつのよい目的はもうひとつのよい目的と衝突する。一面での安全と用心が、他の面で死をもたらす結果となることは十分にありえることだ。(下p.113)

 この引用文のとおりだとすれば、危険な薬を市場から排除できるとか、あるいは一連のサリドマイド悲劇の発生を防止できるという理由で、難病や奇病の患者がこうむるこうした犠牲を正当化することはできないのではないだろうか。(…)食品医薬品局がどんなによい意図をもっていたとしても、その活動が新しい、そして有効な薬の開発販売を必然的に抑圧ないし妨害することになっているという事実はけっして偶然の結果ではない(下p.117)

 その薬がもし開発されていたなら助かったかもしれない人はもはや死んでしまっていて、講義をすることもできないのだ。だからといって、それらの患者の家族は、自分たちが愛していた人の命が、会ったこともない食品医薬品局の役人の「用心」によって失われたことに気づくはずもない。(下p.118)

 しかし不幸にして「市場の失敗」を生み出す原因そのものが、政府がこれを満足いくように解決することをも困難にさせる原因となる。一般的にいって、誰が被害を受け、誰が利益を受けているかを明確にすることは、市場における参加者よりも政府にとっての方が容易であるということはけっしてなく、どれだけの被害や利益がそれぞれの人に発生したかを性格に評価することも、政府にとっての方が容易であることは決してない。「市場の失敗」を是正しようとして、政府を使用する試みは、しばしばただたんに「市場の失敗」を「政府による失敗」に置き換えるだけのことに終わってきた(下p.130)。

 本当の問題は「汚染の排除」ではなくて、汚染を「妥当な」量だけ生み出すことができるような取り決めをどうしたら決定することができるかだ。ここでいう「妥当な」量とは、汚染を減少させることによって発生する利益が、汚染を減少させるためにわれわれがあきらめなくてはならない他のよいもの、たとえば住宅、靴、衣服、その他のものをどれだけ犠牲にしなくてはならないかを明らかにし、そのような犠牲の大きさとまさにつり合いが取れるような量のことだ。(下p.131)

 汚染問題の場合では、非難されるべき悪魔は「企業」すなわち財貨やサービスを生産している会社だというのがその典型だ。しかし事実は、汚染に対して責任があるのは生産者ではなくて消費者のなのだ。消費者こそが汚染に対する需要をつくり出しているのだ。電気を使う人が発電所の煙突から出てくる煙に対する責任をもっている。もしも電気による汚染を少なくしたいというのであれば、そのために要する費用をまかなうのに十分なだけ高い代金を、われわれは直接的に漢籍にか電気に対して支払わなくてはならない。(…)企業はたんなる仲介者でしかなく、人びとの消費者としてのいろいろな活動と生産者としてのいろいろな活動とを調整させているだけの存在でしかない。(下p.132)

 汚染排出課徴金を高くすることによって、財政収入を増大させることができるので、被害をこうむった人びとに補償をしたり、被害対策のために使用できる資金が増大するということも意味しち得る。賦課される汚染排出課徴金の大きさは、われわれがいろいろと経験をつんで汚染に関する費用と利益についての情報が増すにつれて、いろいろと変えていくことができる。(下p.135)

 粗悪品や危険な商品を販売することはきわめてへたな商売のやり方であって、ひいきしてくれたりいつも買ってくれる顧客を獲得していける方法ではない。(…)自由市場による場合と政府の規制に依存する場合との違いは、自由市場では深刻な失敗を犯す企業は倒産へと追い込まれるのに対して、政府機関は失敗を犯すごとにますます大きな予算を手に入れていく可能性がきわめて大きいという点だ。(下p.146-7)

 小売業者は消費者よりも、商品の質を判断するのにはるかに有利な立場に立っている。シアーズ・ローバックやモンゴメリー・ワードは、その他の百貨店と同様にただたんに流通業者であるだけではなく、消費者に対する検査を有効に行い、それらの品質を保証してくれる期間でもあるのだ。自由市場でわれわれが使用できるもうひとつの方法は、商品のブランドつまり商標だ。(…)われわれが市場で使うことのできるさらにもうひとつの方法は、民間の検査機関だ。(下p.147-8)

 強い労働組合がその組合員に対して獲得する賃上げは、主として他の労働者の犠牲においてである、という点が見落とされてしまっている。(…)労働組合がその活動において成功を収めれば、その労働組合が支配している種類の仕事の数は減少していく。その結果、労働組合水準の賃金で、そのような仕事に尽きたいと思う人々は、もはやその仕事に就業することができなくなる。それらの労働者は、どこかほかの分野で求職しなくてはならなくなる。その結果、他の仕事に対する労働者の供給が増大していくにつれて、それらの仕事に対する賃金は引き下げられていく。(下p.165-6)

 ある労働者が提供するサービスを雇用者が求めるのは、とりもなおさずその労働者の仕事に完全に見合った賃金や俸給を支払うことが、雇用者自身の利益になるからだ。もしある雇用者が十分に賃金を払わないならば、他の雇用者が喜んで払うといいだすだろう。つまりその労働者が提供するサービスを手に入れようと、数多くの雇用者たちが競走することが、労働者にとっての本当の保護となる。(下p.188)

 通貨を持っているすべての人びとが道路のために費用を支払ったということだ。労働者たちが他の何らかの生産的活動に従事する代わりに、道路建設に従事するように誘導しようとして、政府によって支出された余分の通貨は、物価を押し上げる。政府支出の増大による支払いを受けた労働者たちはその支出を増大させ、これらの労働者たちにいろいろなものを売った販売者たちへと余分の通貨がさらに流れて息、さらにその余分の通貨がそれらの販売者たちから他の人びとへと流れていく。(下p.219)


◆藻利重隆 (1984) 『現代株式会社と経営者』 千倉書房 ISBN4-8051-0497-X


第一章 企業と社会
第二章 資本と経営の分離
第三章 経営者支配の本質
第四章 経営者支配と資本主義体制――ブロスの所論を中心として
第五章 経営者の社会的責任とその企業的責任および自己責任
第六章 経営者の革新的職能――シュンペーターの所論を中心として
第七章 企業者職能と資本主義体制――シュンペーター学説の検討
第八章 経営者の勤労意欲と分散管理

 今日の経営者がこのような意味において二重性格を持つということは、経営者の個々人に関して、二種の責任を成立させることとなる。その第一は職能人ないし労働者としての経営者の責任であり、第二は労働力の所有者としての経営者の責任である。前者は経営者の企業に対する、あるいは企業の利益に対する責任であり、われわれはこれを経営者の「企業的責任」とよぶことができるであろう。これに対して後者は経営者の自己に対する、あるいは自己の利益に対する責任であり、われわれはこれを経営者の「自己責任」とよぶことができるだろう。(p.156)

 経営者の責任は本質的には企業的責任につくされるべきものであり、あるいはこれに包摂されなければならないものであると解されるべきであろう。しかもこの企業的責任が「革新的経営者」の発現と存立とを可能にするような企業的責任として理解されることこそは、今日の企業の客観的な内面的要請をなすのであり、この事実に対する認識を経営者および支配者のうちに意識的に形成されるところにこそ、「経営者の社会的責任」が主張されることの意義が存するものと、われわれは理解せざるをえいあのである。(p.163)

 今日の大企業において「革新的経営者」を存立させるためには、一方において経営者の個人的責任を社会的責任として自覚させるとともに、他方においてこの社会的責任を企業的責任のうちに包摂しうるような見地を確立することを必要とするであろう。われわれはこうした見地を長期的・持続的営利の見地に見出すことが出来る。在来の企業の見地は短期的・一時的営利の見地にほかならないのであって、こうした見地において「企業の利益」が論じられ、また経営者の企業的責任が問題とされるかぎり、経営者の「個人的責任」はついにそのうち包摂されえないこととなる。企業が短期的・一時的営利の見地に立脚するかぎり経営者はついに「革新的経営者」たりえないのであろう。(p.252)

 労働力の所有者としての労働者もまた生活の安定及びその発展ならびに個性の自由な発揮をその個人的責任として要求する。そこで協議の労務管理は、第一に労働者の生活安定を問題とするとともに、第二に労働者ないし労働組合の企業における決定に対する参加、すなわちいわゆる経営参加を問題とすることとなる。後者は労働者の個性の自由な発揮に関する要求を集団的に解決することを期待するものにほかならない。(p.253)


宮本光晴 (1987) 『人と社会の社会経済学』 東洋経済新報社 ISBN4-492-31165-3


1章 経済人
2章 企業者
3章 組織人
4章 内部組織の論理
5章 日本的経営の組織理論
6章 中間集団としての企業組織

 株式会社の制度によって、雇用者の個人財産に関わるリスクやその個人責任を問うことは無意味となる。財産所有者としての雇用者の個人責任は、仮にあるとしても、それは株主としての出資の範囲に限定され、さらに株主個人としては、株式の流動性によってそのリスクを軽減することも可能である。もちろん株式会社の制度を採らない大規模組織や、中小企業に見られる未公開の株式会社といったケースもあるだろう。後者の場合には株式の流動性はなく、株主は出資の範囲内であれリスクを完全に負担する。…しかし、大規模な株式会社組織ということで共通に理解されるのは、その雇用者つまり最終的な意思決定者をたとえ株主にするにせよ、その有限責任は財産所有をもってする個人責任という意味からは実質的には無責任に近いものである。あるいは株価の変動という意味でのリスクの負担に対しても、それは株式会社でのリスクであり、企業経営に関わるリスクではない。(p.211-2)

 株式会社の制度によって、個人に代わる別の主体が登場する。この主体が即ち、法人格を付与された「会社それ自体」にほかならない。もちろんこれは擬制であるが、この擬制の背後には、企業活動の成果として過去から蓄積されてきた有形・無形の資産が実存する。つまり「会社それ自体」とは、法人格を付与された主体としてはたしかに擬制に過ぎないものだとしても、有形・無形のあるいは物的・人的資産もしくは資本を体化した存在としては、「それ自体」として実存する。…すなわち株主の請求権は、会社資産を体化した「組織それ自体」に及ぶことはなく、この意味で実在としての「組織それ自体」に対する株主の介入は排除可能となる。(p.213)

 株式会社制度についてこれまでこまごまと述べてきたそのわけは、結局はこの組織を形成するメンバーが雇用者であれ被用者であれ、経営者であれ従業員であれ、個人としては財産所有に関わりなく、自らの人的資本を保有するだけのものであることを確認することでもあった。雇用者であれ被用者であれ、その人的資本の形成とその価値の実現は組織を離れてはありえない。つまり彼らは組織の中にみずからの経済的機会を見出すことができるだけである。(p.219)


松田二郎 (1988) 『会社の社会的責任』 商事法務研究会 ISBN4-7857-0414-4

 会社の社会的責任については、商法上議論のあるところでありまして、ドイツで1937年、すなわちナチス時代に制定された株式法(701条1項)に『取締役は自己の責任において企業及び従業員の福祉並びに国民及び国家の共同利益の要求するところに従って会社を運営することを要す』との規定がありましたが、第二次世界大戦後、西ドイツの1965年の株式法は、そのような規定を設けておりません。わが国の有名な商法学者の中には、1937年の規定は、ナチスの指導者原理にもとづくものであって、企業の社会的責任の規定を安易に設けることは、はなはだ危険だと主張され、1965年の株式法がそのような規定をおかなかったことを有力な根拠とされて、これに同調する学者が少なくありません(p.225-6)

 この点に付いて、鈴木竹雄教授は曰く、「この規定(すなわち1937年株式法701条1項)は、公益優先・指導者原理に根ざしたものであって、そのこと自体について行けないばかりか、その違反の効果についての規定もなく、法的意味がない一種の宣言に過ぎないものである。そのうえ、取締役が公共の利益を名として株主の利益を害する経営を行うようなことになったら、それこそ百害あって一理なしにということにもなりかねない…」(鈴木竹雄 「歴史はくりかえす」『ジュリスト』578号p.10-11)(p.5) 、」いわく

 他の商法学者はいう、「社会的責任は、それ自体として、はなはだ耳障りのよいものであり、またそれの主導者は全く両親からそれを主張したとしても、社会が右または左へつっ走る場合には、そのときの権力にうまく利用されるという危険性を内在している。ドイツの経験はまさにこれを実証して見せてくれている」と。(河本一郎「企業の社会的責任」『ジュリスト』578号p.113



◆Anderson Jr., Jerry. (1989). CORPORATE SOCIAL RESPONSIBILITY : Guidelines for Top Management, Quorum Books, GREENWOOD Publishing Rroup, Inc. in Westport
= 1994 森下正・伊佐淳・百瀬恵夫訳 『企業の社会的責任』 白桃書房


第T部 社会的責任と企業に関する背景とマクロ的概観
 第1章 背景
 第2章 社会的責任と企業


第U部 企業の社会的責任――その歴史と進展
 第3章 中世以前(紀元前5000-紀元550年)および中世(紀元550-1450)
 第4章 重商主義時代(1450-1775年)
 第5章 初期工業化時代の著名人たち(1775-1930年)
 第6章 社会的著名人たち(1930-1988年)
 第7章 社会的責任の法的諸側面:企業と政府
 第8章 企業、政府、環境間の社会的責任の法的側面
 第9章 社会的責任の諸側面、企業、政府、消費者
 第10章 企業、政府、地域社会間の社会的責任の法的側面
 第11章 社会的責任の法的諸側面:労使の責任と労使関係
 第12章 倫理的・道徳的考察
 第13章 フィランソロピー
 第14章 社会的責任としての監査
 第15章 社会的責任の将来

 フリードマンは2つの例外を設けている。第1に、経緯者と所有者が同じ、すなわち経営と所有が密接に結びついているような企業は、税負担を減らすために慈善事業に直接寄付することが許されるべきである。第2に、寄付金によって企業に限界費用異常の限界収益がもたらされる場合には、彼は、地域の公共施設や芸術(たとえば、病院、大学、講演、博物館など)に寄付することに賛成している。しかし、フリードマンは、第2カテゴリーを本当の事前行為であるとは考えていない。彼は、それを営業費と考えているのである(p.27)

 連邦政府は確かに政界の黒幕であり、合衆国が現在たどっている進路のナビゲーターだということである、つまり、企業の行為と社会的責任は、大部分は政府の支持を受けているのである。本書の読者のだれもが次に回答を出さなければならない問題は、政府、企業、国民の現代社旗におけるそれぞれの役割とはどのようなものであるべきかということである。(p.167)


◆Mitchell, Lawrence E.(2001) CORPORATE IRRESPONSIBILITY, Yale University.
= 2005 斎藤祐一 訳 『なぜ企業不祥事は起こるのか――企業の社会的責任』 麗澤大学出版会


第T部 基盤――アメリカ企業の哲学
 第一章 アメリカ流自由主義とその根本的欠陥――企業問題の根底にあるもの
 第二章 完璧なる「外部化マシン」
 第三章 企業心理――役割統合の制約
 第四章 富は価値か


第U部 構造的な罠――法の名の下に
 第五章 経営者――ジキル博士かハイド氏か
 第六章 伝統的な株主――−生ける死者の夜
 第七章 新たな株主――クオトロンを持ったキングコング
 第八章 見捨てられた株主
 第九章 ディルバート社会?――アメリカの企業労働者

第V部 海外のアメリカ人
 第十章 資本主義、社会主義、民主主義
 第十一章 伝統的アメリカと誤ったアメリカ――拡大するアメリカ経済帝国主義

 

 企業も時には、そうした代償を払っているのかもしれないが、それを私たちと同じようには経験していない。GMとその経営陣は、同社の車に爆発を起こす恐れがあることを顧客に説明することをせず、法廷に持ち込まれるまで謝罪する必要も感じていなかった。つまり、彼らは責任を感じていなかった。それというのも、人命を犠牲にして利益の拡大を図る意志決定が引き起こす結果を、彼ら自身が「経験」してはいなかったからである。(p.31)

 簡単な例えで、「自己本位の剰余」を説明しよう。二人の子供が、皇帝でボール遊びをしている。一人は背が高く、もう一人は背が低い。大きい方の子が、ボールを持ったときに、もう疲れたから止めるという。小さい方の子は、もっと遊びたい。すると大きい子は、ボールを高く持ち上げて、「欲しければ取ってみろ」と言う。小さい子は、何度も飛び上がるが届かず、ついにあきらめる。この場合のボールの高さと、小さいこの手の届く高さの差が、「自己本位の剰余」なのである。(p.42)

 アメリカのように大きく多様な社会において、自分の生活圏の外にいる人々の存在を「人間」として意識することは、およそ少ない。街で行きかう見知らぬ人々のことを考えたりしないのが普通だ。この隔離ゆえに、他人に対する思いやりと気遣いが弱まってしまう。私たちが見知らぬ他人のことを思いやるには、劇的な不幸が必要となる。…空間と時間が私たちを他者から切り離すのである。それによって、いたわりのメカニズムが阻害され、私たちは最も近くにいる人たちーつまり自分自身と自分が愛する人々にだけ、目を向けるようになる。だからこそユノカル社のイムルも、自社の名の下にミャンマーで繰り広げられた残虐行為を、いとも簡単に無視 −あるいは信じまいとーすることができたのだ。(p.46-4)

 人が決断を下して行動する時、その人は自分自身が決断したということ、さまざまな目的の中からそれを選んだこと、それに伴う責任を意識している。そしてその選択が、自分自身や他人によからぬ結果を引き起こした場合には、法的・社会的な、あるいは両親の求める咎によって、その結果について説明責任を問われる。(p.53)

 有限責任の概念は、簡単に説明できる。有限責任とは、企業がどんなに環境を破壊しようと、どれほど債務を踏み倒そうと、またマリブのような車の爆発やタイヤの破裂、あるいはアスベストによって、従業員や消費者をどれだけ死なせようと、そして年金などの手当てなしに、それだけ従業員を追い出そうともーつまり、どんなに痛みを引き起こそうとも、企業の賠償責任(それが問われたとして)は会社資産の範囲内にとどまる、ということを意味する。(p.60)

 経営義務を遵守させるための仕組みとして、裁判所によって編み出されて以来、株主代表訴訟には疑念の目が向けられてきた。その理由は察するに難くない。株主は会社のための訴訟を起こすのだから、勝訴の際のの損害賠償は、株主ではなく会社に対して支払われる。したがって、株主側にとって、株主代表訴訟に時間と金を費やす経済的インセンティブはほとんど働かない、ということになる。そうした中で訴訟を起こす株主は、そもそも取締役に対して一定の影響力をもつ重要な株主だろう。経済的インセンティブの問題としてみれば、取締役に対して多くの株主代表訴訟が起こされることは考えにくい。ところが現実には、多くの訴訟が起こされている。ならば、取締役に注意義務と忠実義務を確実に果たさせるには、どうすればいいのか?株主代表訴訟を確実に起こさせるようにするには、どうすればいいのか?その答えは、勝訴した株主の訴訟費用を取締役泡に負担させる仕組みである。(p.114)

 取締役会は、そのもっとも得意とする仕事を自由に行う必要があり、その仕事とは長期的視点から企業経営(または長期的な企業経営を用立てること)である。取締役会は、自らの決定の影響を十分に認識し、責任および説明責任を持って経営を行う必要がある。ここまで詳しく論じてきたように、現在の会社法の構造と規定はそれを困難にし、取締役会が短期的観点から経営にあたる企業が、少なくとも短期的な競争力をもちうる状況を生み出している。(p.131)

 ここまで述べたことは全て、ひとつの結論につながっている。すなわち、企業経営は株主の圧力から完全に切り離されるべきなのである。これを実現する最も容易な方法は、株主の投票による毎年の取締役選任をやめることである(一年が「長期」であるというのなら話は別だが)。そしてそのための一つの方法が、取締役を無任期にして短期的圧力から開放し、その元の経営陣も同様に、責任ある長期的経営ができるようにすることである。(p.132)

 ここで重要なのは、私たちが、所有物の使用の仕方を制限する法律をもつだけでなく、その使用の仕方に道徳的責任も持っていることである。そしてこの道徳的責任は、次の事実によって裏打ちされている。すなわち、私たちが自分の所有物を使う際には通常、その影響を他人に及ぼしている、と言う事実である。例えば、自分の車で誰かを轢いた場合、自分のした行為、自分がその行為をしたと言うこと、自分がその行為をしたと言う経験は、否定のしようがない。ところが、企業の所有者には、それと同じことが言えない。(p.136)

 そして私はここまで、企業経営者が無用な短期的圧力を受けることなく、経営にあたれるようにする仕組みの必要性を説いてきた。この本筋に添えば、経営者たちが株価引き上げのために、他社に害を及ぼす決定や行動をした際の自己弁護ーただ自分の仕事をしているだけだ、命令に従っているだけだーを封じることができる。しかしながら、私の主張には、実はかなり大きな穴がある。経営者を株主の圧力から解放し、株価という足かせを外せば、今度は経営者が自己利益の追求に走り、会社の長期的利益という名分で全てが正当化される恐れが生じるのである。(p.205)

 


 

◆松野弘・堀越芳昭・合力知工 編著 (2006) 『「企業の社会的責任論」の形成と展開』, ミネルヴァ書房

 
第1章 転換期の「企業の社会的責任論」と企業の<社会性>への今日的位置――松野弘
第2章 日本における経営理念の変遷と「企業の社会的責任」概念の質的転換――松野弘・合力知工
第3章 日本における企業の社会的責任論の生成と展開――堀越芳昭
第4章 アメリカにおける企業の社会的責任論の生成と展開――小山嚴也
第5章 企業の社会的責任論への企業倫理論的アプローチ――合力知工
第6章 企業の社会的責任論へのステイクホルダー論的アプローチ――高岡伸行
第7章 企業の社会的責任論へのCSP論的アプローチ −その役割と展開の方向性――谷口勇仁
第8章 企業の社会的責任論へのコーポレート・ガバナンス論的アプローチ――津田秀和
第9章 企業の社会的責任論への社会戦略的アプローチ――横山恵子
第10章 企業の社会的責任論へのNPO論的アプローチ――樽見弘紀
第11章 企業の社会的責任論への環境経営論的アプローチ――環境会計の生成と展開――大島正克
終章 「企業の社会的責任論」の役割と今後の方向性――松野弘・合力知工

 すなわち、初期の経済同友会の課題は、日本経済の民主化、日本の経済復興、労働運動激化への対応という諸問題に鯛s知恵、企業改革、資本・労働に対する経営の自立化、新しい経営者の性格と役割をどのように確立するかということであった。企業改革として「修正資本主義」「企業民主化」論(大塚万丈)なども提案されたが、経済同友会全体としては「企業権」→「経営権」の確立方向で集約されていった。(p.74)

 したがって、消費者や株主などの個々人の利害が同質なのではなく、かれらが企業というシステムに提供する機能が同質と解されていると考えるのだが妥当であろう。消費者であろうと、従業員であろうと、ステイクホールダーを主体として捉えているならば、彼らの利害はその世界観や個性によって判断され、多様であるはずが、個別機能主体としての同一グループの利害が同質であるという論理は、ステイクホールダーがある程度、なんらかの尺度で共通化される世界観や利害の質によって束ねられたグループではなく、企業というシステムにたいしてステイクホールダーが提供する効用で測られていない限り成り立たない。(松野ほか[2006:186)

 機能次元アプローチは、各ステイクホールダーのもっとも重要な利害(企業にとっての機能)に注目し、その他の部分は捨象している。それは行為者としてのステイクホールダーの役割の多様性を捨象していることを意味する。(松野ほか[2006:188])

 企業に対して働きかけを行なうときには、主体として働きかける場合もあるものの、企業から重要な機能とみなされていない主体は、企業の運営に対してそれほど大きな力をもちえないため、利害関係者として、自らの企業の影響するチャネルを活用する場合がある。(p.249)


◆中村美紀子 (1999) 『企業の社会的責任――法律学を中心として』 中央経済社 ISBN4-50277333-6


第一章 企業の社会貢献の過去と現在
 T 中世イタリアにおける企業の社会貢献
 U 企業の社会貢献の現状
第二章 企業の社会的責任と商法
 T 序説
 U 総説 −経営学、経済学の立場から 
 V アメリカ
 W イギリス
 X 日本
第三章 企業の社会的責任と税法
 T 序説 −日本の現状
 U アメリカ
 V 小括
第四章 企業の社会的責任と労働法
 T 序説
 U ドイツにおける労働者の経営参加制度
 V 労働者代表の二重の忠誠
第五章 企業の社会的責任の新たな地平 −まとめに代えて

 

 確かにメディチ家の人々は、純粋な博愛精神から社会貢献事業を行っていたわけではないようである。しかし、たとえ民衆のごきげん取りとしても、その一貫性といい、徹底ぶりといい、情熱の傾けかたといい、偉大という言い方がふさわしいように思える。現代の我々にとっては外交的な博愛心よりもむしろ、内向的な自己抑制力に学ぶべきところが多くありそうである。(p.30-1)

 経営者がこのように社会的および公共的利益をも考慮しなければならないとすると、経営の方針が与えられていないも同然となり、その結果、経営者には統制不可能な権力が与えられることになる。これは一面において企業の社会責任を規制する法の継続的機器である。そこで利潤の最大化への回帰の動きが見られた。ここにおける社会的責任とは、まさに利潤を増加することである(フリードマン)。しかし、善外の多くの論者は、このようなフリードマンの法則への服従へ戻るという主題を共有しない。(p.57)

 寄付金が法人の純資産の減少の原因となることは事実であるが、法人の支出した寄付金につき、どれだけが費用の性質を持ち、どれだけが利益処分の性質をもつかを客観的に判断するのはきわめて困難である。そのため法人税法は、行政的便宜並びに公平の維持の観点から統一的な損金参入限度額を設け、寄付金のうちその範囲内の金額は費用として損金参入を認め、それを越える部分の金額は損金に参入しないこととしている。(法人税法37条2項)。損金参入の限度額はおよそ次の算式で計算される(法人税法施行令73条1項1、2号)
損金参入限度額=(登記末の資本等の金額×0.0025 当期所得金額×0.025)/2   (p.90)

 一般寄付金とは別に、国または地方公共団体に対する寄付金と「指定寄付金」については、全額損金参入が認められる。指定寄付金とは、広く一般に公募され、かつ公共性・緊急性が高い寄付金で、大蔵大臣の指定したものである。(p.90)

 まず、監査役会の構成に付いて、同数の膠着状態を克服する中立の議長の不存在のため、議長が初回の議決で決定しない場合は株主代表監査役を議長とすると決定される。そうするとあらゆる場合において株主側が最終決定をすることになり、労使同数代表は名目的に止まることになる。次に、監査役会へ労働組合が参加することは、経営参加がより強化されたものということができるが、候補者の推薦だけを組合に委ね、選出は労働者の選挙によるということであれば、組合の影響力は減ずる結果となる。(p.124-5)

 企業がなす無償の金銭支出の性格としては、公益的なものと会社利益につながるものとの二種類がある。寄付金の損金算入範囲を広く認める立場からは、この両者が交わる(and)の部分、つまり、公益のためにもなる、かつ会社にとって儲けにもなるという範囲を、長期的に見れば会社の利益につながるということを期待して、できるだけ広く認めるべきであるとの解釈がでてきているのである。社会のための寄付は、政策的な寄付と社会費用としての寄付という二つの方面から拡大が推し進められているといえる。(p.161)


山田経三 (1987) 『経営組織とリーダーシップ――人間尊重の経営理念』 明石書店


第一章 人間尊重の経営理念 経営参加の基礎
第二章 組織と個人の統合における経営者の役割 リーダーシップの組織論的展開
第三章 リーダーシップの未来像 組織化と人間化の相克
第四章 マネジメント・リーダーシップ
第五章 参加型リーダーシップ 人権に基づくリーダーシップ
第六章 参加型組織の形成 教会組織におけるリーダーシップ
第七章 組織の構造的分析 人間化と非人間化の相克
第八章 社会的環境に対する組織の対応
第九章 『人間の労働に基づく』経営理念の変革
第十章 企業の社会的責任
第十一章 毛系学の基礎、人格の考察 人権の歴史的背景
第十二章 人間尊重に基づく経済秩序

マネジメントは、会社がその目的を達成しうるように人間を組織化し、効率的に動かす役割をもつ。経営陣は取締役に対しては労働条件について、消費者に対しては生み出される製品の質について責任をもつ。労働者は賃金と交換に行なう労働、仕事に対して責任をもつ。(p.230)

 すでに述べたとおり、企業における責任は、第一義的には株主の代理人である取締役会が負う。取締役会はマネジメント、つまり管理職全体を管理監督する義務がある。取締役会のメンバーは株主に対し、有能な社長、副社長をはじめ廉潔で能力の高い役職者を選任する責務を負う。会社の進むべき目標、基本方針を定める責も負う。会社経営の根幹に関わる決定をし、自社の安寧に十分配慮する責任をもつ。自ら下した決定にモラル的責任をもつだけでなく、下すべき決定を下さなかったことについても責任をもつ。(p.230)

ところで制裁措置を伴わない責任は無意味である。責任を求めるには、制裁措置が決められ、これが実施される必要がある。ところで実際には、非道徳的行動に対する批判を受け入れる企業は極く稀である。経営者や取締役会に、しかるべき措置を講じる企業は更に少ない。企業内部にチェック機関があり、非モラル的行動ゆえにその責任者に制裁を加えるという事例は皆無に等しい。そこで第八の提案がある。G責任は、組織内部と業界全体に一貫する制裁措置を伴って、課される必要がある。企業の問う経営陣の無責任、不道徳に対する制裁は、従業員同様に厳しくあって然るべきである。企業の方針、行動は場合によってはその企業のモラル義務と対立する。反対を唱える人々の立場を危うくすることなしに、この種の食い違いを取り払い、論議し得る体制が必要である。産業界では之までいくつ者内部告発が行なわれ、一般社会の反響を呼ぶということもあった。ところが内部告発はモラルに対する誠実な態度ゆえに、社内では極めて過酷な待遇を受けるのが多くのケースである。(p.237-8)


◆鈴木幸毅 1992 『環境問題と企業責任――企業社会における管理と運動』 中央経済社 ISBN4-502-61242-1


第1章 企業の社会問題と行動原理 −分析視点と原理的立場について
第2章 現代企業と公害−環境問題 −ローマ・クラブ『成長の限界』(1972年)との関連において
第3章 企業の社会的責任と環境管理 −経営者集団の見解と環境費用を含めて
第4章 企業の社会問題と社会的責任 −企業社会における管理と問題の展開
第5章 地域環境問題と企業責任 −WCED報告『我ら共有の未来』(1987年)との関連において
第6章 環境分析とリスク・マネジメント −体制危機と環境問題処理をめぐって


◆梅田徹 2006 『企業倫理をどう問うか――グローバル化時代のCSR』 NHKブックス
序章 企業倫理が問われる時代
第一章 「企業の社会的責任」はどうかんがえられてきたか
第二章 「企業の社会的責任」とはなにか
第三章 CSRを推進するさまざまな力
第四章 多国籍企業の責任をどう問うか
第五章 製品ができる源流まで遡る――サプライチェーンにおけるCSR
第六章 グローバル・コンパクトは世界を変えられるか
第七章 グローバル・コンパクトに向けて動き出した企業

 そもそも、企業というのは絶対に匿名では寄付しない存在なのです。たとえば、個人の場合であれば、歳末助け合い募金にときどき匿名で寄付をする奇特な人がいます。しかし、企業の場合には同じような意味で匿名の寄付をすることは絶対にありません。匿名で多額の寄付をすることは「背任」ということにもなりかねません。 企業にとって寄付をすることは、たとえ多少なりとも世間に、あるいは少なくともその寄付を受ける団体に自社の名前を売り込むことになります。ですから、企業が社会のために寄付をする行為と宣伝のためにお金を出す行為は、ともに自己の利益に資する部分があるという意味では、全く切り離して考えることはできないのです。つまり、企業の社会貢献活動といえども、自己利益追求から完全に自由になることはできないわけです。(p.52)

 「インテグリティ」とは、嘘をついたり、相手をだまそうとしたりしないこと、正直なことです。「アカウンタビリティ」とは、関わりのある人に対して自らのことをきちっと説明して、その内容について責任を果たすことです。「トランスペラレンシー」とは、原義はガラス張りのことで、つまり、隠しごとをしないこと、正直に情報を開示することです。(p.71-2)

 言い換えれば、企業のCSRへの取り組みは自社のレピュテーションを高めようとするゲームなのです。ゲームには、競争があって勝者と敗者があります。このゲームにもそうした側面があることは否定できません。しかし、ゲームと言っても、必ずしも否定的なニュアンスを伴うものと考える必要はないでしょう。それが企業をしてCSRに向かわせるインセンティヴになっているとすれば、それを肯定的に評価しないわけにはいかないのです。(p.74-5)

 そもそも国際社会が多国籍企業の行動を規制する必要があると認識し始めたのは、70年代のことでした。そのきっかけをつくったのは、1973年にチリで起きた軍事クーデターでした。アジェンデ政権を倒すために軍部が画策したクーデターに、米国の通信大手ITTの子会社がかかわっていたことがのちに発覚したのです。この事件によって、途上国の多国籍企業に対する不信感はいっそう募りました。そして、多国籍企業の行動を規制しなければならないという声がいっそう強まり、1974年、国連経済社会理事会の下に多国籍企業委員会が設置されました。(p.130)

 不正競争防止法の外国公務員贈賄禁止規定は、当初、属地主義を基礎としていました。したがって、日本企業が純粋にかいがいで実行した贈賄行為であれば、その規定を適用できないことになります。「純粋に」といったのは、場合によっては、その企業の日本にある本社が贈賄を電話やメールで支持することがあれば、それは日本国内で犯罪の一部が実行されたとみなされるため、総意多々ケースでは当局はこの規定に基づいて摘発することができるということです。(p.140)

 このように、フェアトレードでは、一定の割増金を支払うことによって市場価格よりも多角、産品を製sんしゃから買い付けるわけですが、その市場価格との差額あるいは割増金はいったい誰が負担するのでしょうか。結論から言えば、それは、先進国の消費者が負担するということです。たとえば、フェアトレード方式で取引されるコーヒー(「フェアトレード・コーヒー」)は、生産者からの買い付け価格が高いため、一定の流通経路を経て、先進国のコーヒー豆の販売店で売られるときには、通常のコーヒー豆よりも高い値段で販売されています。フェアトレードに従事する団体は、通常の流通経路よりも短い産地直送のような形で取引するといっていますが、たとえそうであるとしても結果的には普通に取引されるコーヒーよりも小売価格が高めになるのは避けられません。(p.177)

 2004年度の買い付け価格の平均は1ポンドあたり1ドル20セントであるとしています。スターバックスが扱うフェアトレード・コーヒー豆の割合はスターバックスで使用するコーヒー全体の1.6%程度ですから、1ドル20セントという数字は、一般のコーヒー豆についてもかなり高めに買い付けていることを示しているわけです。(p.181)

 アムネスティ・インターナショナルやヒューマン・ライツ・ウォッチといった人権擁護団体、世界自然保護基金といった環境保護団体などがアナン事務総長のイニシアティブに賛同を表明した一方で、グリーンピースをはじめとする一部のNGOは参加を見送りました。その拒否の理由は、多国籍企業の一部はグローバル・コンパクトに参加することによって、国連の青旗で自らがかかわっている悪事を覆い隠すことになるだけだ、というのです。一般に国連の青旗で箕を通罪悪事を覆い隠そうとすることを「ブルーウォッシュ」と表現することがあります。(p.194)

 

 


◆鈴木辰治・角野信夫 編 (2000) 『企業倫理の経営学――叢書現代経営学16』 ミネルヴァ書房


序章 経営学と倫理学――その背景を考える――角野信夫
第T部 企業倫理の理論
 第1章 アメリカにおける企業倫理論――その背景、方法、展開――梅津光弘
 第2章 ドイツにおける企業倫理論――経済性と倫理性の統合――鈴木辰治
 第3章 日本における企業意倫理研究――社会的責任と企業倫理――鈴木辰治


第U部 企業倫理と企業行動
 第4章 現代日本企業と企業倫理――行動特質、行動倫理、倫理的問題状況――鈴木幸毅
 第5章 企業と従業員・労働組合――人にやさしい倫理的企業――田中輝純
 第6章 企業と消費者――豊かな生活の実現と企業経営――森文雄
 第7章 企業と地域社会――わが国における企業の社会貢献活動――伊佐淳
 第8章 企業の国際化と企業倫理――国境なき企業倫理の課題――劉容菁

終章 21世紀における企業倫理の課題――社会のなかの企業――角野信夫

 


◆飫富順久・辛島睦・小林和子・柴垣和夫・出見世信之・平田光弘 (2006) 『コーポレートガバナンスとCSR』, 中央経済社


1 コーポレート・ガバナンスと企業の社会的責任の動向――飫富順久
2 コーポレート・ガバナンスと周辺概念――平田光弘
3 コーポレート・ガバナンス実践の国際動向――出見世信之
4 企業倫理の確立とコンプライアンス・マネジメント――出見世信之・辛島睦
5 コーポレート・ガバナンスと証券市場――小林和子
6 企業の社会的責任と企業行動――平田光弘
7 コーポレート・ガバナンス論の過去・現在・展望――むすびに代えて――柴垣和夫

資料 シンポジウム「企業の統治と社会的責任――現状と方向」の内容


◆谷本寛治 (2006) 『CSR――企業と社会を考える』, NTT出版


第1章 「企業とは何か」を問い直す
第2章 社会の中の企業
第3章 企業評価基準の変化
第4章 企業とステイクホルダーのコミュニケーション
第5章 企業の社会貢献活動の広がり
第6章 持続可能な社会経済システムを求めて


◆050222,060322,060412,060520,060528,060913,060914,060930,061003,061207更新