松田二郎 (1988) 『会社の社会的責任』 ,商事法務研究会
会社の社会的責任については、商法上議論のあるところでありまして、ドイツで1937年、すなわちナチス時代に制定された株式法(701条1項)に『取締役は自己の責任において企業及び従業員の福祉並びに国民及び国家の共同利益の要求するところに従って会社を運営することを要す』との規定がありましたが、第二次世界大戦後、西ドイツの1965年の株式法は、そのような規定を設けておりません。わが国の有名な商法学者の中には、1937年の規定は、ナチスの指導者原理にもとづくものであって、企業の社会的責任の規定を安易に設けることは、はなはだ危険だと主張され、1965年の株式法がそのような規定をおかなかったことを有力な根拠とされて、これに同調する学者が少なくありません(p.225-6)
この点に付いて、鈴木竹雄教授は曰く、「この規定(すなわち1937年株式法701条1項)は、公益優先・指導者原理に根ざしたものであって、そのこと自体について行けないばかりか、その違反の効果についての規定もなく、法的意味がない一種の宣言に過ぎないものである。そのうえ、取締役が公共の利益を名として株主の利益を害する経営を行うようなことになったら、それこそ百害あって一理なしにということにもなりかねない…」(鈴木竹雄 「歴史はくりかえす」『ジュリスト』578号p.10-11)(p.5)
、」いわく
他の商法学者はいう、「社会的責任は、それ自体として、はなはだ耳障りのよいものであり、またそれの主導者は全く両親からそれを主張したとしても、社会が右または左へつっ走る場合には、そのときの権力にうまく利用されるという危険性を内在している。ドイツの経験はまさにこれを実証して見せてくれている」と。(河本一郎「企業の社会的責任」『ジュリスト』578号p.113
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◆Anderson Jr., Jerry. (1989). Corporate Social Responsibility: Guidelines for Top Management, Quorum Books, Greenwood Publishing Rroup, Inc. in Westport (= 1994 森下正・伊佐淳・百瀬恵夫 訳 『企業の社会的責任』, 白桃書房)
第T部 社会的責任と企業に関する背景とマクロ的概観
第1章 背景
第2章 社会的責任と企業
第U部 企業の社会的責任――その歴史と進展
第3章 中世以前(紀元前5000-紀元550年)および中世(紀元550-1450)
第4章 重商主義時代(1450-1775年)
第5章 初期工業化時代の著名人たち(1775-1930年)
第6章 社会的著名人たち(1930-1988年)
第7章 社会的責任の法的諸側面――企業と政府
第8章 企業、政府、環境間の社会的責任の法的側面
第9章 社会的責任の諸側面、企業、政府、消費者
第10章 企業、政府、地域社会間の社会的責任の法的側面
第11章 社会的責任の法的諸側面――労使の責任と労使関係
第12章 倫理的・道徳的考察
第13章 フィランソロピー
第14章 社会的責任としての監査
第15章 社会的責任の将来
フリードマンは2つの例外を設けている。第1に、経営者と所有者が同じ、すなわち経営と所有が密接に結びついているような企業は、税負担を減らすために慈善事業に直接寄付することが許されるべきである。第2に、寄付金によって企業に限界費用以上の限界収益がもたらされる場合には、彼は、地域の公共施設や芸術(たとえば、病院、大学、講演、博物館など)に寄付することに賛成している。しかし、フリードマンは、第2カテゴリーを本当の慈善行為であるとは考えていない。彼は、それを営業費と考えているのである(p.27)
連邦政府は確かに政界の黒幕であり、合衆国が現在たどっている進路のナビゲーターだということである、つまり、企業の行為と社会的責任は、大部分は政府の支持を受けているのである。本書の読者のだれもが次に回答を出さなければならない問題は、政府、企業、国民の現代社会におけるそれぞれの役割とはどのようなものであるべきかということである。(p.167)
利害関係者が企業を信頼し、企業は数多くの利害関係者の要求に応じようとしているという点で企業による大きな前進が見られた。これまで多くのことが実行されてきたし、これからまたさらにいろいろなことが実行されなければならない。しかしながら、利害関係者は極端に走ったり、本当に必要な、あるいは受けるにたる以上のものを産業界に対して要求しているのではないことに注意する必要がある。また、社会の側では企業に要求を出す場合、ある程度の節度と忍耐が必要である。生死に係わる状況にないかぎり、企業行動の即時修正を要求することによって、一つの会社が廃棄せざるを得ない状況に追い込まれるようなことをしてもよいことなどほとんどない。むしろ、妥当な期限を与えてその会社に行動修正を求めることで同じ効果を挙げながら、その会社に経営を続けてもらうことによって、多くの雇用を維持していくという場合もある。(p.363)
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山田経三 (1987) 『経営組織とリーダーシップ――人間尊重の経営理念』,明石書店
第一章 人間尊重の経営理念――経営参加の基礎
第二章 組織と個人の統合における経営者の役割 リーダーシップの組織論的展開
第三章 リーダーシップの未来像――組織化と人間化の相克
第四章 マネジメント・リーダーシップ
第五章 参加型リーダーシップ――人権に基づくリーダーシップ
第六章 参加型組織の形成――教会組織におけるリーダーシップ
第七章 組織の構造的分析――人間化と非人間化の相克
第八章 社会的環境に対する組織の対応
第九章 『人間の労働に基づく』経営理念の変革
第十章 企業の社会的責任
第十一章 毛系学の基礎、人格の考察――人権の歴史的背景
第十二章 人間尊重に基づく経済秩序
マネジメントは、会社がその目的を達成しうるように人間を組織化し、効率的に動かす役割をもつ。経営陣は取締役に対しては労働条件について、消費者に対しては生み出される製品の質について責任をもつ。労働者は賃金と交換に行なう労働、仕事に対して責任をもつ。(p.230)
すでに述べたとおり、企業における責任は、第一義的には株主の代理人である取締役会が負う。取締役会はマネジメント、つまり管理職全体を管理監督する義務がある。取締役会のメンバーは株主に対し、有能な社長、副社長をはじめ廉潔で能力の高い役職者を選任する責務を負う。会社の進むべき目標、基本方針を定める責も負う。会社経営の根幹に関わる決定をし、自社の安寧に十分配慮する責任をもつ。自ら下した決定にモラル的責任をもつだけでなく、下すべき決定を下さなかったことについても責任をもつ。(p.230)
ところで制裁措置を伴わない責任は無意味である。責任を求めるには、制裁措置が決められ、これが実施される必要がある。ところで実際には、非道徳的行動に対する批判を受け入れる企業は極く稀である。経営者や取締役会に、しかるべき措置を講じる企業は更に少ない。企業内部にチェック機関があり、非モラル的行動ゆえにその責任者に制裁を加えるという事例は皆無に等しい。そこで第八の提案がある。G責任は、組織内部と業界全体に一貫する制裁措置を伴って、課される必要がある。企業の問う経営陣の無責任、不道徳に対する制裁は、従業員同様に厳しくあって然るべきである。企業の方針、行動は場合によってはその企業のモラル義務と対立する。反対を唱える人々の立場を危うくすることなしに、この種の食い違いを取り払い、論議し得る体制が必要である。産業界ではこれまでいくつもの内部告発が行なわれ、一般社会の反響を呼ぶということもあった。ところが内部告発はモラルに対する誠実な態度ゆえに、社内では極めて過酷な待遇を受けるのが多くのケースである。(p.237-8)
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◆佐伯信之 (1986) 「現代企業の社会的責任に関する一考察」, 岡山商科大学学会, 『岡山商大論叢』, 22(1), 13-25.
十全な責任論の展開に際しては、第一に、企業が権力を有するにいたっており、またその維持を願うことを示すことが、第二に、そのような権力の維持のためには企業による社会的責任の受け入れが不可避であることを物語るような客観的法則が存在することを示すことが必要である。なお、社会的責任が企業において実践されるにいたっているということが示されれば、責任論はより説得力をもつであろう。(p.22)
…責任体制の具体的なあり方をわが国の企業について論ずる場合、責任体制のあり方をば単に経営参加問題のみの角度から論じ得ないことは明らかであり、重要なことは、わが国の社会価値の動向の把握を根底に、企業による社会的責任の自立的引き受け、あるいは独占禁止法の強化というような、責任体制の確立への動向を総合的に把握し、そのことのうちに企業の責任体制のあるべき姿を求めることである。(p.24)
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◆杉下正 (1988) 『企業経営の社会的責任』, 高文堂出版社
第1章 企業と社会
第2章 企業と環境
第3章 企業の社会的責任
第4章 経営者の社会的責任
第5章 企業の社会的責任と法との関連
第6章 むすびにかえて
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◆梅田武敏 (1980) 「企業の社会的責任」,『茨城大学政経学会雑誌』, 43, 23-36.
…例えば、株主の利益と従業員の利益、投資家の利益と消費者の利益、というように各々がそれぞれ対立することとなり、いったいなにが社会的責任であるのか、社会的責任の基準と限界はどこかはっきりしない、とする疑問が発せられて来た。しかし、この疑問が成立するには、株主の利益も消費者の利益も公害の被害者の利益も、とにかく企業と関係する総てのものは等質に置かれていることを前提にせねばならない。等質と考えるからこそ、いずれも兄たり難く弟たり難しで優先されるべき利益を知ることができないのである。だが、企業の社会的責任を問題とすることは、株主の利益よりも、消費者の利益、投資家の利益よりも公害を出さないようにさせることの優先なのであって、総ての利益を等質に置くことを否定することから出発していることなのである。これは剰余価値追求至上主義の否定と人間尊重主義であり、企業の社会的責任とは抽象的にいえばこのことである。
我が商法学の支障的・学問的状況を踏まえれば、現行法の全体的な法秩序−それは剰余価値追求至上主義の否定と人間尊重主義を含む秩序であるが−に加えて更に、剰余価値追求至上主義の否定と人間尊重主義を商法・株式会社法の指導原理として確立すべきだとすることこそ社会的責任論の主要な目的なのである。(p.34)
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