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企業の社会的責任
2001

  
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博士論文 / 年表 /

 

【洋文献】

◆Bronson, D. P. (2001). "Private Politics, Corporate Social Responsibility, and Integrated Strategy," Journal of Economic and Management Strategy. 10(1), 7-45.

◆Brasnson, Douglas, M. (2001). Corporate Governance "Reform" and the New Corporate Social Resoponsibility, 62 U. of Pitt. L. Rev.605. →中原 [2003:160-173]に解説。

◆Crane, A. (2001). "Unpacking the Ethical Product," Journal of Business Ethics. 30(4), 361-373.

◆Collins, J. (2001). Good to Great: Why Some Companies make the Leap and Others Don't. New York: HarperCollins.

◆Djordjija, Patkoski. (2001) 「多国籍企業の社会的責任への取り組み――企業の社会的責任と企業理論:統合的教育プログラムの実践(第4回)世界銀行」,『ステークホルダーズ』, 2001(3), 海外事業活動関連協議会, 45-48.

◆Gelb, D. S. & Strawser, J. A. (2001). "Corporate Social Responsibility and Financial Disclosures: An Alternative Explanation for Increased Disclosure," Journal of Business Ethics. 33(1), 1-13

◆Gordon, K. (2001). "The OECD Guidelines and othre Corporate Responsiblity Instruments: A Comarison," OECD Working Paper on International Investment. Paris.

◆Hodson, R. (2001). Dignity at Work. Cambridge:Cambridge University Press.

◆Henderson, David. (2001). Misguided Virtue: False Notions of Corporete Social Responsibility, The Institute of Economic Affairs.

◆Kok, P. Van Dr Wiele, T., Mckenna, R., & Brown, A. (2001). "A Corporate Social Responsiblity Audit within a Quality Management Framework." Journal of Business Ethics. 31(4), 285-297.

◆Lantos, Gedfrey P. (2001). The Boundaries of strategic CSR, The Journal of Consumer Marketing. 18, 595-630.

◆McWilliams, A., & Siegel, D. (2001). "Corporate Social Responsibility: A Theory of the Firm Perspective," Academy of Management Review. 26(1), 117-127.

◆Mitchell, Lawrence E. (2001). CORPORATE IRRESPONSIBILITY, Yale University. (= 2005 斎藤祐一 訳 『なぜ企業不祥事は起こるのか――企業の社会的責任』, 麗澤大学出版会)

◆Moses, J. (2001). Oneness: Great Principles Shared by All Religions. New York: Ballantine.

◆Organizaition for Economic Co-operation and Development(OECD). (2001). Corporate Social Responsibility: Private Initiatives and Public Goals. Paris: OECD. (= 2004 今井正太 訳 『企業の社会的責任――OECD加盟国の理念と現状』, 技術経済研究所)

◆Sen, S., & Bhattacharya, C. B. (2001). "Dose Doing Good Always Lead to Doing Better? Consumer Reactions to Corporate Social Responsiblity," Journal of Marketing Research. 38(2), 225-244.

◆Windsor, D. (2001b). "The Future of Corporate Social Reponsibility," International Journal of Organizational Analysis. 9(3), 225-256.

【書籍】

【論文】

◆部落解放・人権研究所 編 (2001) 「特集 企業の社会的責任と人権」,『部落解放研究』, 14, 部落解放・人権研究所

◆合力知工 (2001) 「不況期における企業の社会的責任」,『經營學論集』, 70, 日本経営学会, 281-286.

◆長谷川知子 (2001) 「企業経営としての企業の社会的責任(CSR)への取組み」,『ステークホルダーズ』2001(4) 海外事業活動関連協議会 ,31-34. 

◆今西宏次 (2001) 「コーポレート・ガバナンスと企業の社会的責任及び倫理――アメリカにおける議論を中心として」,『經營學論集』, 70, 日本経営学会, 115-121. 

◆川崎友巳 (2001) 「法人の刑事責任」,『刑法雑誌』, 41(1).

◆小山嚴也 (2001) 「企業に対する社会的要請の変化――社会的責任論の変遷を手がかりにして」,『第八輯 組織・管理研究の百年』, 経営学史学会編, 文眞堂 

◆荻野百合子 (2001) 「企業の社会的責任と消費者」,『農業と経済』, 67(11), 昭和堂, 31-37.

◆大濱慶和 (2001) 「企業の社会的責任と経営環境に関する一考察」,『愛知産業大学紀要』, 9, 95-103.

◆奥泉裕史 (2003) 「企業の社会的責任」, 「小樽商科大学卒業40周年記念論文集」編集委員会 編 『小樽商科大学卒業40周年記念論文集』,

◆櫻井克彦 (2001) 「企業経営とステイクホルダー・アプローチ」『経済科学』, 484, 名古屋大学経済学研究科

◆櫻井克彦 (2001) 「現代経営学研究と『企業と社会』論的接近」『経済科学』, 493, 名古屋大学経済学研究科

◆末永敏和 (2001) 「企業の社会的責任」,森本滋・川濱昇・前田雅弘 編 『企業の健全性確保と取締役の責任』, 有斐閣(オンデマンド版)

◆杣山貴要江 (2001) 「介護保険制度と企業の社会的責任」,『企業経営研究』, 4, 日本企業経営学会 ,25-33.

◆竹内慶司 (2001) 「フード・サービス産業の現状と課題――社会的ニーズへの適応、顧客満足の追求、企業の社会的責任のあり方を中心に」,『経済経営論集』9(1) 名古屋経済大学・市邨学園短期大学経済・経営研究会, 29-35.

◆臼井久実子 (2001) 「企業と障害者雇用」,『部落解放研究』, 142, 25-36. 部落解放・人権研究所 編 部落解放・人権研究所

◆山田啓一 (2001) 「企業の社会的責任と企業倫理」,『流通科学研究』, 1(1), 中村学園大学流通科学部, 23-37.

◆山口孝 (2001) 「環境保全型経営の展開をどうみるか――大企業の社会的責任を問う」『経済』, 69, 新日本出版社, 130-141.

◆山本久美子 (2001) 「経営政策論による企業の社会的目的への接近――現代企業社会と経営政策についての一考察」,『三田商学研究』, 44(2), 慶應義塾大学, 75-92.

 

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【議論】

◆Mitchell, Lawrence E. (2001). Corporate Irresponsibility. Yale University. (= 2005 斎藤祐一 訳 『なぜ企業不祥事は起こるのか――企業の社会的責任』,麗澤大学出版会)


第T部 基盤 −アメリカ企業の哲学
 第一章 アメリカ流自由主義とその根本的欠陥――企業問題の根底にあるもの
 第二章 完璧なる「外部化マシン」
 第三章 企業心理――役割統合の制約
 第四章 富は価値か


第U部 構造的な罠――法の名の下に
 第五章 経営者――ジキル博士かハイド氏か
 第六章 伝統的な株主――生ける死者の夜
 第七章 新たな株主――クオトロンを持ったキングコング
 第八章 見捨てられた株主
 第九章 ディルバート社会?――アメリカの企業労働者

第V部 海外のアメリカ人
 第十章 資本主義、社会主義、民主主義
 第十一章 伝統的アメリカと誤ったアメリカ――拡大するアメリカ経済帝国主義

 本書の論旨はかなりシンプルだが、説明はずっと複雑になる。端的に言えば、アメリカ企業の最大の問題点−すなわち「無責任性」の主因−は、短期的な株価最大化への傾向にある。これは、思慮ある人ならだれもが避けるべきとすることなのである。問題の根本は、企業構造そのものにある。アメリカ企業は法的に、経営者を短期的な業績達成へ走らせる構造になっている。つまり経営者に対し、責任と道徳観をもって行動する自由を制限している。その結果が、不道徳な企業行動なのである。そうした行動は、だれにとっても最善の利益に資さない。とりわけ企業の法的構造の外側にいる集団、つまり株主と経営者以外のすべての人々に、破壊的な影響を及ぼしている。(p.5)

 すなわち、私たちが自制しなければ、さらなる富を得ようとする衝動を抑えられなければ、企業ビジネスのあり方を考え直さなければ、私たちは現在の繁栄を長期的に維持できなくなるおそれがある。そして私たちの繁栄の喪失は、世界の多くにとっても損失を意味することになる。それは、私たちが子供の頃に教えられた教訓、そして私たちが子供たちに教えている教訓と同じだ。 (略)長期的なメリットのためには短期的な楽しみは忘れろ、後々の満足のことを考えろ、という(・・・)な教訓である。これはだれもが知っている教訓でありながら、私たちは簡単に忘れてしまう。特に、自分ひとりではなく他人と一緒に、無名性と無思考性を特徴とするアメリカ企業資本主義社会の市場において、行動する時には。(p.13)

 企業も時には、そうした代償を払っているのかもしれないが、それを私たちと同じようには経験していない。GMとその経営陣は、同社の車に爆発を起こす恐れがあることを顧客に説明することをせず、法廷に持ち込まれるまで謝罪する必要も感じていなかった。つまり、彼らは責任を感じていなかった。それというのも、人命を犠牲にして利益の拡大を図る意思決定が引き起こす結果を、彼ら自身が「経験」してはいなかったからである。(p.31)

 簡単な例えで、「自己本位の剰余」を説明しよう。二人の子供が、校庭でボール遊びをしている。一人は背が高く、もう一人は背が低い。大きい方の子が、ボールを持ったときに、もう疲れたから止めるという。小さい方の子は、もっと遊びたい。すると大きい子は、ボールを高く持ち上げて、「欲しければ取ってみろ」と言う。小さい子は、何度も飛び上がるが届かず、ついにあきらめる。この場合のボールの高さと、小さいこの手の届く高さの差が、「自己本位の剰余」なのである。(p.42)

 アメリカのように大きく多様な社会において、自分の生活圏の外にいる人々の存在を「人間」として意識することは、およそ少ない。街で行きかう見知らぬ人々のことを考えたりしないのが普通だ。この隔離ゆえに、他人に対する思いやりと気遣いが弱まってしまう。私たちが見知らぬ他人のことを思いやるには、劇的な不幸が必要となる。…空間と時間が私たちを他者から切り離すのである。それによって、いたわりのメカニズムが阻害され、私たちは最も近くにいる人たち―つまり自分自身と自分が愛する人々にだけ、目を向けるようになる。だからこそユノカル社のイムルも、自社の名の下にミャンマーで繰り広げられた残虐行為を、いとも簡単に無視―あるいは信じまいと―することができたのだ。(p.46-4)

 人が決断を下して行動する時、その人は自分自身が決断したということ、さまざまな目的の中からそれを選んだこと、それに伴う責任を意識している。そしてその選択が、自分自身や他人によからぬ結果を引き起こした場合には、法的・社会的な、あるいは両親の求める咎によって、その結果について説明責任を問われる。(p.53)

 有限責任の概念は、簡単に説明できる。有限責任とは、企業がどんなに環境を破壊しようと、どれほど債務を踏み倒そうと、またマリブのような車の爆発やタイヤの破裂、あるいはアスベストによって、従業員や消費者をどれだけ死なせようと、そして年金などの手当てなしに、それだけ従業員を追い出そうともーつまり、どんなに痛みを引き起こそうとも、企業の賠償責任(それが問われたとして)は会社資産の範囲内にとどまる、ということを意味する。(p.60)

 むろん、有限責任には擁護論もあり、私も、それを無視するつもりはない。擁護論の一つは、有限責任によって企業への投資は合理性を増し、したがって資本供給による経済の機能向上がもたらされる、というものである。有限責任ゆえに、投資家は分散投資によるリスク軽減が可能になる。それはなぜか。答えは、有限責任の下では、自分以外の株主がだれであるかを気にする必要がないからである。企業債務の取立てが株主には及ばないのだから、自分以外の株主がだれであるかを気にする必要がないからである。企業債務の取立てが株主には及ばないのだから、自分が一番金持ちの株主であろうと、一番貧乏な株主であろうと、問題は生じない。だからこそ、数多くの企業に投資しながら、どの企業にも注意の目を向けずにいられるのである。唯一のリスクは、投資した金を失うことだ。そしてそのリスクも、分散投資によって小さくなる。
 株式投資が一般化した今、分散投資のメリットを、これ以上説明する必要はないだろう。しかし、有限責任のしくみが存在しなければ、人々は投資の分散化を恐れるだろう。なぜなら、投資先を増やすことは、それだけ個々の投資先企業に対する注意が薄れることを意味するからである。(・・・)有限責任がなかったら、企業に対する投資のリスクは、他の株主がだれであるかによって大きく左右されるため、株がこれほど自由に売買される状況も生まれない。また、市場に飛び交う情報も複雑化するため、スムーズな売買は困難になり、したがって市場の二次流動性が損なわれ、資本を最大限の価値で活用する市場機能は低下する。つまりこの意味で、有限責任は目的を果たしている−。(p.68)

 倫理的で責任ある行動をとる企業とは、最低限の法的義務に従っているだけの企業よりも、大きなコストを背負っている企業である。倫理性の高い企業が、その評判ゆえに人々の心をひきつけ、それが顧客基盤と顧客ロイヤルティーの拡大につながり、会社の収益が増す、ということはありうる。しかし、現実はそれほど単純ではないし、そもそも倫理的行動に伴うコスト増加によって、増収の少なくとも一部が相殺されることになる。(p.78)

 経営義務を遵守させるための仕組みとして、裁判所によって編み出されて以来、株主代表訴訟には疑念の目が向けられてきた。その理由は察するに難くない。株主は会社のための訴訟を起こすのだから、勝訴の際のの損害賠償は、株主ではなく会社に対して支払われる。したがって、株主側にとって、株主代表訴訟に時間と金を費やす経済的インセンティブはほとんど働かない、ということになる。そうした中で訴訟を起こす株主は、そもそも取締役に対して一定の影響力をもつ重要な株主だろう。経済的インセンティブの問題としてみれば、取締役に対して多くの株主代表訴訟が起こされることは考えにくい。ところが現実には、多くの訴訟が起こされている。ならば、取締役に注意義務と忠実義務を確実に果たさせるには、どうすればいいのか?株主代表訴訟を確実に起こさせるようにするには、どうすればいいのか?その答えは、勝訴した株主の訴訟費用を取締役側に負担させる仕組みである。(p.114)

 取締役会は、そのもっとも得意とする仕事を自由に行う必要があり、その仕事とは長期的視点から企業経営(または長期的な企業経営を用立てること)である。取締役会は、自らの決定の影響を十分に認識し、責任および説明責任を持って経営を行う必要がある。ここまで詳しく論じてきたように、現在の会社法の構造と規定はそれを困難にし、取締役会が短期的観点から経営にあたる企業が、少なくとも短期的な競争力をもちうる状況を生み出している。(p.131)

 ここまで述べたことは全て、ひとつの結論につながっている。すなわち、企業経営は株主の圧力から完全に切り離されるべきなのである。これを実現する最も容易な方法は、株主の投票による毎年の取締役選任をやめることである(一年が「長期」であるというのなら話は別だが)。そしてそのための一つの方法が、取締役を無任期にして短期的圧力から解放し、その元の経営陣も同様に、責任ある長期的経営ができるようにすることである。(p.132)

 ここで重要なのは、私たちが、所有物の使用の仕方を制限する法律をもつだけでなく、その使用の仕方に道徳的責任も持っていることである。そしてこの道徳的責任は、次の事実によって裏打ちされている。すなわち、私たちが自分の所有物を使う際には通常、その影響を他人に及ぼしている、と言う事実である。例えば、自分の車で誰かを轢いた場合、自分のした行為、自分がその行為をしたと言うこと、自分がその行為をしたと言う経験は、否定のしようがない。ところが、企業の所有者には、それと同じことが言えない。(p.136)

 そして私はここまで、企業経営者が無用な短期的圧力を受けることなく、経営にあたれるようにする仕組みの必要性を説いてきた。この本筋に添えば、経営者たちが株価引き上げのために、他者に害を及ぼす決定や行動をした際の自己弁護ーただ自分の仕事をしているだけだ、命令に従っているだけだーを封じることができる。しかしながら、私の主張には、実はかなり大きな穴がある。経営者を株主の圧力から解放し、株価という足かせを外せば、今度は経営者が自己利益の追求に走り、会社の長期的利益という名分で全てが正当化される恐れが生じるのである。(p.205)

責任と説明責任を感じさせられている労働者は、会社の目標と一体化し、自分自身のアイディアを持つ重要な貢献者であるという意識を得る。そうした労働者は、利益を生むための機械として扱われているに過ぎない労働者よりも、会社のことを真剣に気にかけ、会社の行動に関心を向ける傾向がはるかに強い。(略)株主利益の最大化は、労働者を費用として扱うことを意味する。その意味するところは、これまでみてきたように目的を朗走者に与えることには、本質的な価値はなく、報いもないということである。それはまた労働者を、フォーブス誌の悪趣味なキャッチフレーズ−「資本家のツール」−のように変えてしまうことも意味する。そんな大げさなと思った読者は、労働者本意とされる最近の学術論文をどれでも見てみるといい。そこでは労働者が、「人的資本」として再発見されている。(p.p.229-230)

 従業員持ち株制度は、数十年来、拡大の一途を辿っている。その目的の一つは、敵対的買収に対する防衛である(従業員持ち株制度は、経営陣が選任した受託者によって管理される)。しかし同時に、労働者の将来の富の一部を企業業績に連動させることで、会社との間に直接的利害関係を持たせる手段でもある。(…)年金基金と同じく、従業員持ち株制度は集団オーナーシップの一形態である。しかし従業員持ち株制度の場合、自然に労働者の参加が生じるわけではない。工場の生産現場ではもとより、取締役の選任といった(…)の企業統治においてもそうである。従業員の持ち株は、信託財産として保有され、受託者は経営陣によって指名されることが多い。従って、経済的分配と労働者インセンティヴにおいては有益であっても、労働者の参加という問題の真の解決にはつながらない。
 労働者オーナーシップのもう一つの形態は、労働者協同組合で、これは個々の労働者が事業のオーナーであるとともに参加者となるものである。そのもっとも有名にして最大の成功例は、スペインのモンドラゴン協同組合である。(p.268)

 

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◆Organizaition for Economic Co-operation and Development : OECD. (2001). Corporate Social Responsibility -Partners for Progress,  (= 2004 今井正太 訳,『企業の社会的責任――OECD加盟国の理念と現状』, 技術経済研究所)

 
第1部 グローバル経済における企業の社会的責任
 討議の概要
 慈善行為と社会責任――フランスの視点
 社会の課題における企業の役割
 内部利害関係者と本道を行く企業
 社会に積極的な影響を与えること
 欧州連合における企業の社会的責任への取り組み方

第2部 地域社会における企業の協力
 討議の概要 
 中小企業との協力――社会的排除への取り組み
 パートナーシップ(協力)を通じ地域社会に権限を
 ロンドンの仲介モデルの適用
 地方発展のための活発なパートナーシップによる炭鉱閉鎖の克服
 生活保護から雇用へ――企業のための賢明な解決策
 パートナーシップ(協力)による社会的排除の克服

第3部 企業の社会的責任を育成する倫理的投資
 討議の概要
 地域社会に奉仕する貯蓄銀行
 責任ある投資――持続可能な発展に注目

 

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◆UP:050222/REV:060322,060412,060520,060528,060913,060914,060930,061003,061207,070202,0204,0217,0223,0515,0530,1030,080304,1229,110203,0204