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企業の社会的責任
1950-

  
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2000 / 2001 / 2002 / 2003 / 2004 / 2005 / 2006 / 2007 / 2008 / 2009 / 2010 /
博士論文 / 年表 /

 

【書籍】

◆Kaysen, C. (1950, May). The Social Significance of the Modern Corporation. The American Economic Review. Supplement, CLVII, 311-319.

◆岡田五郎 (1950) 「経営の概念とその社会的責任の理論」, 『大分大学経済論集』

◆高田馨 (1950) 「経営者の社会的責任」,『産業能率』

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【1951】

 

◆Goyder, George., (1951). The Future of Privete Enterprise, A study in Responsibility. Basil Blackwell. (= 1964 名東孝二 監訳・垣見陽一 訳 『私企業の将来 社会責任の一研究』, 税務経理協会)

◆Abram, F. W., (1951). "Management's Responsibilityes in a Complex World," Harvard Business Review. May. reprented in Carroll (ed.). [1954].

◆Lunding, Franklin J. (1951). Sharing a Business; The Case Study of a Tested management Philosophy, New York. 土屋 [1956:84]

◆野田信夫 (1951) 『企業の近代的経営』 ダイヤモンド社 243P

◆小高泰雄 (1951)「経営者の社会的責任」,ダイヤモンド社 編 『重役・部課長・現場責任者』, ダイヤモンド社

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【1952】

 

◆Randall, Clarence H. (1952). A Creed for Free Enterprise. Boston.

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【1953】

◆Bouldin, K. E. (1953). The Organizational Revolution, National Council of the Churches of Christ in U.S.A. Harper&Row. (= 1972 岡本康雄 訳 『組織革命』, 日本経済新聞社)

◆Bowen, Howard R. (1953). Social Responsibilities of the Businessman. New York: Harper & Row.(= 1960 日本経済新聞社 訳 『ビジネスマンの社会的責任 経済生活倫理叢書』, 日本経済新聞社 342p)→山城 編[1967:108-115]に解説。

◆Ford, Henry., (1953). TODAY AND TOMORROW. Productivity press. (= 1988,2002 竹村健一 訳『藁のハンドル』 中央公論新社)

◆Bunting, J. W., (1953). Ethics for Modern Business Practice. New York

◆村本福松 (1953) 「経営者の社会的責任」,『インヴェストメント』

◆菅谷重平 (1953) 「経営者責任論1−6」,『PR』

◆高宮晋・山城章 編著 (1953) 『経営責任者』, 如水書房 →1958年に税務経理協会より再刊

◆山城章 (1953→1958) 「経営責任者」 高宮 山城 編『経営責任者』 税務経理協会

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【1954】

 

◆Berle, A. A., Jr., (1954). The 20th Century Capitalist Revolution, Harcourt, Brace and Company. (= 1956 桜井信行 訳 『二十世紀資本主義革命』, 東洋経済新報社)

◆Carroll, T. H. (ed.). (1954). Business Education for Competence and Responsibility,

◆Drucker, Petter F., (1954). The Practice of Management. New York: Parper and Row Publishers.( = 1965, 1996 上田惇生 訳 『現代の経営』, ダイヤモンド社)

◆中谷哲郎 (1954) 「経営利害者集団と企業性格」,『熊本商大論集』第1号、→所収 1954 梶山武雄 編,『現代資本主義論』

◆曾我部豊 (1954) 「書評 ゴイダー著『私企業の将来』 -責任の研究-」,『一橋論叢』31-1

◆山城章 (1954) 「経営責任/経営の社会的責任論」 所収,『経営政策』白桃書房

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【1955】

 

◆Bowen, Howard R. (1955). The Business Enterprise as a Subject for Research. New York: Social Science Research Council.

◆Demos, R., (1955). "Business and the Good Society," Harvard Business Society, July/Aug.

◆Drucker, P. F., (1955). The Practice of Management(= 1965 野田一夫 監修・現代経営研究会訳 『現代の経営上下』ダイヤモンド社)

◆Levitt, Theodore., (1955). The Twilight of the Profit Motive, Washington, D.C. : Public Affairs Press.

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【1956】

 

◆Bendix, Reihat., (1956/1963). WORK AND AUTHORITY IN INDUSTRY -Ideologies of Management in the Course of Industirialization, John Wiley and Son., Harpaer Torchbook. →山城 編 [1967:89-94]に解説。

◆Eelles, Richard. (1956). Corporate Giving in a Free Society. NewYork: Harper.→山城 編 [1967:74-79]に解説。

◆Selekman, S. K., & B. M. (1956). Power and morality in a business society. McGraw-Hill.

◆Sutton, F. X., Harris, S. E., Kaysen, Carl., & Tobin, James. (1956). The American Business Creed. Cambridge ; Harvard University Press.(= 1968 高田馨・長浜穆良 訳 『アメリカの経営理念』,日本生産性本部)→山城 編 [1967:62-69]に解説。

◆Sylvia, & Benjamin Selekman. (1956). Power of Morality in a Business Society. McGraw-Hill Book Company.

◆Wilcox, Walter W. (1956). Social Responsibility in Farm Leadership. NY: Harper. (=1960 日本経済新聞社 訳 『農業指導者の社会的責任』, 日本経済新聞社)

◆垣見陽一 (1956) 「経営者の社会的責任論 −Geoge Goyder等の所論にふれて」『名古屋商科大学論集』, 1, 71-99.

◆西尾一郎 (1956) 「経営における責任概念――ブラウンの所説を中心として」, 『名古屋商科大学論集』, 1, 101-138.

◆土屋好重 (1956) 『経営倫理現代商学全集第十三巻』 春秋社

◆占部都美 (1956) 「経営者の社会的責任」 所収『経営者』 ダイヤモンド社

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【1957】

 

◆Fitch, John A. (1957). Social Responsibility of Oranized Labor. NY: Harper. (= 1960 日本経済新聞社 訳 『組織労働者の社会的責任』, 日本経済新聞社)

◆Kaysen, Carl. (1957, May). The Social Significance of the Modern Corporation, 47 American Economic Review, 312, 311-319.

◆Heald, Morell. (1957, Win.). "Management's Responsibility to Society: The Growth of an Idea," The Business History Review. 31(4), 375-384.

◆Ohmann, O. A., (1957,Sept./Oct.). "Search for a Managerial Philosophy," Harvard Business Review,

◆中谷哲郎 「『経営者の社会的責任』――高田馨教授の『社会的責任論』」→ 『商経論集』11(2) 北九州大学 →馬場克三 編 (1957) 『増補版 個別資本と経営技術』第8章

◆西野嘉一郎 (1957) 「新資本主義と経営者の社会的責任」,『会計』

◆佐々木吉郎 (1957) 「経営者の社会的責任の自覚と実践」,『会計』

◆財団法人 日本証券投資協会 編 (1957) 「特集 現代経営者とその社会的責任」,『PR』8(10)10月号 p.5-57 
【経営者の意見】
 諸井寛一 「経営者の社会的責任とその自覚」, 5-7.
 菅谷重平 「『経営者の社会的責任の自覚と実践』について」, 8-11.
 原吉平 「経営者の社会的責任」, 12-14.
 西野嘉一郎 「新資本主義と経営者の役割」, 15-20.
【労働組合の意見】
 岩井章 「日本経済の体質改造」, 21-25.
 和田春生 「社会的責任と労使関係の改善」, 26-37.
【学界の意見】
 池内信行 「経営者責任の論理」, 38-46.
 宮田喜代蔵 「現代経営者とその社会的責任」, 47-51.
 佐々木吉郎 「社会的責任の基礎」, 52-57.
 資料 経済同友会第九回全国大会決議
 日本経済の現状と経営者の責任――学者と実際家の共同討論 その2  中山均・東畑精一・中西寅雄・飯田清三

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【1958】

◆Abegglen, James. C. (1958). The Japanese Factory. New York: Free Press. (占部 都美 1958 『日本の経営』 ダイヤモンド社)→山城 編[1967:117-123]に解説。

◆Barnard, Chester. (1958, Fall). Elementary Conditions of Business Morals. California Management Review T(1).
= 1972 坂井正広・吉原正彦 訳 「ビジネスモラルの基本的情況」,『青山経営論集』7(1,2), 10-15.
= 1972 坂井正広・吉原正彦 「バーナード研究序説――協力状況におけるモラルの問題を中心として」,『青山経営論集』7(1・2), 166-176.
= 1973 坂井正広・吉原正彦 「バーナード研究所説U――協力状況におけるモラルの問題」,『青山経営論集』7(3) 99-110.
= 1972 坂井正広・吉原正彦 「バーナード研究序説V――協力状況における道徳の衝突の問題」,『青山経営論集』7(4), 150161.

◆Heron, A. R. (1958). "How Responsible can Management Be?" in Richards M. D. and Nielander, W. A. (ed.). Readings in Management.

◆Levitt, Theodore. (1958, Sept.-Oct). "The Dangers of Social Responsibility," Harvard Business Review, 36(5), 41-50. In Greenwood, William T. (ed.). (1964). Issues in Business and Society 461-474.
= 1975 上田 つよし 訳 「レビットの社会的責任反対論」,『北九州大学商経論集』10(2・3), 185-209.

◆Livingston, A. (1958). The American Stockholder. J.B. Lippincott Company.

◆Stover, Carl F. (1958,Win). Changing Patterns in the Philosophy of Management. Public Administration Review. 18(1).

◆Thompson, Stweart. (1958). Magagement Creeds and Philosophies : Top Management Guides in Our Changing Economy, American Management Association. 32. →山城 編 [1967:36-61]に解説。

◆Wirtenberger, Hanry J. (1958, May). Moral Guides to Business Decisions. John Carroll Univestity Business Bulletin, II, 35-43.

◆アーウィン・D・キャンハム著、遠藤斌 訳 (1958) 『新しい事業家――その自由と社会的責任』, 緑地社

◆笛木正治 (1958) 「『社会的責任』の経営理論」,『一橋論叢』 96-6

◆藤芳誠一 (1958) 「経営者の社会的責任」,『近代経営と経営者』 経林書房

◆今井俊一 (1958) 「経営者社会責任論に関する考察」,『同志社商学』10(5), 399-420.

◆木川田一隆 (1958) 「企業の社会的責任と経営権」,『経営者』12(5) 日本経営者団体連盟出版部, 30-33.

◆西野嘉一郎 (1958) 「企業発展に対する経営者の責任」,『経営者』12(5) 日本経営者団体連盟出版部, 34-37.

◆酒井正三郎 (1958) 「現代経営者の社会的責任」『PR』

◆竹中竜雄 (1958) 「『経営の社会的責任』概念の発展過程」,『国民経済雑誌』

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【1959】

◆Berle, A. A. Jr., (1959). The Power without Property,
= 1960 加藤寛・関口操・九尾直美 訳 『財産なき支配』 新栄堂

◆Cole, A. H., (1959). Business Enterprise in its Social Setting. Harvard University Press.
=1969 中川敬一郎 訳 『経営と社会』 ダイヤモンド社

◆Eells. Richard, (1959, Winter). Social Responsibility : Can Business Survive the Challenge?. Business Horizon. 2(4).

◆Fitch, J. A., Social Responsibilities of Organized Labor,

◆Gambs, J. S., & Werter, Sidney. (1959). Economics and Man. Homewood, III. Richard D. Irwin, Inc.

◆Jennings, Eugene E. (1959). Make way for the Business Moralist. Nation's Business. 47(9), 92-96.

◆Mason, E.S. (1959). The Corporation in Modern Society. Harvard Univ. Press.

◆Selekman, B. M. (1959). A Moral Philosophy for Business. New York:McGraw-Hill. (= 1962 渡辺信六 訳 『現代ビジネスの思想』, ダイヤモンド社)

◆セオドア・A.ピータスン著 (1959)「プレスに関する社会的責任理論」,F.S.シーバート・T.A.ピータスン,W.シュラム 著、内川芳美 訳 『マス・コミの自由に関する四理論』, 東京創元社

◆ウィルバー・シュラム著、崎山正毅訳 (1959) 『マス・コミュニケーションと社会的責任』, 日本放送出版協会

◆鯰江城夫 (1959) 「企業論に於ける社会的責任の限界」,『関西大学経済論集』9(2), 29-51.

◆本間幸作 (1959) 「企業経営者の社会的責任」日本経営学会編,『国民経済と企業』, 61-69

◆池田直視・中村一彦 1959,『経営者支配の法的研究』, 評論社

◆一瀬智司 (1959) 「公社と株式会社の実質的接近」,『総合経営』10月

◆今井俊一 (1959) 「経営者の社会的責任論」日本経営学会編,『国民経済と企業』

◆松下武二 (1959) 「経営者の社会的責任」,『福岡大学商学論叢』, 3(4), 1-15.

◆藻利重隆 (1959) 「経営者の社会的責任と企業的責任および自己責任」日本経営学会編,『国民経済と企業』, 33-42

◆野田信夫 (1959) 「わが国の企業における社会的責任の自覚」,『企業の近代的経営』ダイヤモンド社

◆祭原光太郎 (1959) 「経営者の社会的責任」『立命館経済学』

◆菅谷重平 (1959) 「経営者の社会的責任」,『現代の経営者』, 日本経済新聞社

◆土屋好重 (1959) 「能率と公衆責任の経営哲学」 日本経営学会 編 『国民経済と企業』

◆土屋好重 (1959) 「社会的責任と商業活動」,『横浜大学論叢』, 10, 横浜市立大学学術研究会, 39-66.

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【議論】

◆Goyder George. (1951). The Future of Private Enterprise; A Study in Responsibility. (=1964 名東孝二・垣見陽一 訳 『私企業の将来――社会責任の一研究』, 税務経理協会)

 
第一章 緒論
第二章 産業の意味
第三章 産業の法律構造
第四章 産業は誰れに責任を負うべきか
第五章 産業の目的
第六章 政府干渉の限界
第七章 産業における自然的秩序の問題
第八章 産業における法の機能
第九章 信託制度としての会社
第十章 アッベとカールツアィス財団
第十一章 産業責任の最近の発展
第十二章 地域社会、消費者と産業
第十三章 責任会社 T一般目的
第十四章 責任会社 U通常定款
第十五章 責任会社 V利潤と配当
第十六章 結論

 われわれは株主以外の四集団は誰れであるか、産業におけるそれらの機能は何であるかを検討して、現在の私的所有と私的利潤の制度が、産業上の決定に責任ある協力者として参加する他の集団と調和しうるためには、実際的で、また立法的ないかなる手段がとられるべきかを決定せんとするものである。(p.9)

1809年に、文学界と社交界の寵児であるサー・ウオルター・スコットが、かれの出版業者バランタインの名ばかりの組合員たることをー寛容だが、不注意にもー引き受けたために、130,000磅という莫大な金額支払いの負債を持つにいたったことが1825年には評判となった。サー・ウオルターが貸主に支払うために骨肉を削って苦労したこと、破産を逃れるために非凡の努力をして、その著作によって二年に40.000磅を稼いだのであるが、ついにその健康をむしばまれたことは、文学史上の悲劇のひとつとなっている。これが有限責任制要求への新しい弾みとなったのである。もしスコットのごとき偉大な人でさえ破滅に陥るとすれば、誰しも自身の安全性を考えることはできないであろう。かかる要求は、天才ロバート・ロウイ(後のシアー・ブルック卿)とブラムウエル卿の協力によって実現されるに至った。かれらは、新有限責任会社の名前のあとに「有限」(Limited)なる言葉を付して、それと引き換えをする一切の人々に注意を与えるという工夫(くふう)をしたのである。(p.12)

 会社法はそれ自体で、その会社の福利の維持のために地元社会へ会社の義務を取り上げてはいないのである。現行会社法が取り上げているものは株主に対してであり、かつ株主のみに限られている。そして会社関連法規の唯一の権利義務負担の対策は株主と株主取締役である。このことが産業の運営や産業の関係集団間の関係にいかなる影響を及ぼすものなりや?(p.19)

 明らかに、株主はその所有株式の価値だけしか産業に貢献してはいない。したがって株主の危険はその株式だけであって、しかもそれは前もって予知され、またたいていの場合前払いされることによって軽減されるのに対して、従業員の危険は未知で、予知できず、前払いもされない。何時かれは職場で障害を受けたり無能力にされるか、また解雇されるか分からないのである。(p.21)

 しかるに従業員の地位は[これら企業家の危険にくらべると]その仕事が労多く不愉快なこともしばしばあったにしろ、危険は少なく、また他の仕事を見つけることにも慣れていたし、結構間に合ったのである。よしできないにしても、親戚の農家にいくとかして、その場を乗り切れえたし、最後の切り札は何時でも移民という手段があった。とかくかれの危険は雇傭だけの問題であり、その貯蓄はその手元に残った。かれの危険は大きかったが、雇い主とは異なり限度のあるものであった。1862年までは、事業の失敗の衝に当たったのは、雇い主であって従業員ではなかった。したがってかかる事情のもとで資本家の地位が、法律によって保護され、危険が存するかぎり「所有制度」が確保されたのはけだし当然である。1760年の近代産業の夜明けから1862年までの百年間における大きな危険と失敗の頻発した時代におけるかかる資本家の産業危険の負担と全財産をかけての危険負担の職能を見逃してはならないのである。このことは往々批評家によって看過されがちである。[ところが]1862年の会社法による有限責任制度の強制は、ここに産業における諸集団間の相対的な危険負担に根本的な変質を招来するに至ったのである。(…)1862年の法律によって株主は安全性を確保したが、反対に従業員は不安定さが増し、その地位に新しい危険を招来したのである。(p.22-3)

 現行会社法は産業をして四集団のひとつである株主集団に対してのみ責任を負わせているのであるが、ある意味ではかかる現行の法律構造は擬制であり、会社は株主に「所属する」ものとの擬制にもとづいている。しかし会社はだれにも「所属」しないし「所有」の対象とはなりえないのである。会社は自己所有であり、財産を保有して一定の活動に従事する法人格を持つのである。会社を財産と見ることは正しくないし、産業の所有権について語ることは誤りである。(p.28)

 しかしながら組織がこのようでは、産業における株主の影響は次の二点において有害である。それは第一に、自己の立場における利益の追求に、他のすべての問題を従属させてしまうということ。第二に、産業支配権を奪うことによって、他の集団である従業員、消費者、地域社会がその共通利害になるような産業における目的や条件を作り出すことに参加する権利を阻害するということである。利潤動機は敵ではない。けだしそれは自己保存の本能に属するものであって、空腹の衝動と同じく不可避的なものである。悪いのは、産業の一集団が利潤獲得の手段を支配する地位にあり、したがって相互協約の世界から決定権を奪い去ることである。これは、人間を目的としてではなくて、手段として取り扱うことである。(p.34-5)

 その結果政府(とくに商務省と調達省)が控訴院としてではなく第一審裁判所として、当該産業の多数の企業間におこる持分の複雑な問題について、自ら判決する地位に立たざるをえないのである。しかもそこでは、その正しい問題の解決には、いかに有能であっても政府の関係者が支配しえないような産業知識を必要としているのである。(p.50)

 このように地方の建設業者は、大契約者に比して不公平な不利に立たされることが多いのである。[かくて]政府はその一般性と無感覚によって、不断にまた無自覚のうちに企業を萎縮さしているのである。このことは小企業の分野にとくに多いが、それはその性質上政府の直接統制に不適当だからである。(p.51)

 過去二世紀にわたり、西洋文明に比類なき物質的恩恵をもたらした私企業制度の存続性の課題は、産業四集団の権利の調整を通して産業をして、それ自体の構造の内で決定されなければならない正しい目的に奉仕せしめる、われわれの能力にかかっているのである。この調整の達成は、経営者の最高職能であると同時に、また立法者の最高課題でもある。(p.55)

 「あくまでも各人は工場所在の社会にとって未知の人々のために働くのではなくて、まずもって自分自身と家族のために最善をつくすのであり、次にその運命共同体である工場の保持のために、そして最後に、財団を通してその地域社会のために働くのである」と。(ナチスに迫害を受けたカールツァイス財団役員の1930年の言/p.79)

 この信託の特異なる性格は、経営会議のメンバーは利潤分配計画に参与し得ないということである。さらにかれらの最高の報酬は、従業員の平均賃金の十倍を越してはならないようになっている。(p.85)

 リンカーン自身の言葉でいえば、「株主はこの制度の成功になんら新しいものを貢献したのではない。その貢献は少ない。したがってその貯蓄の中の分け前は比較的に少なくすべきである。もしも(従業員の誘引にもとづく生産性の増強から出てくる)貯蓄が「利潤」とよばれて名ばかりの株主への大部分向けられるならば、この制度は失敗するであろう」と。リンカーンはその経験則によって、総費用に対する販売価格の比率を一定に維持するのである。したがって販売価格でのコストの節約は消費者の手に渡るのである。従業員は、そのボーナスや配当の源泉を販売増加によって出てくる利潤に依存するようにされている。消費者はコスト低下の利益を受ける資格があり、また受けねばならないとリンカーンは信じている。(p.95)

 もし産業が将来十分な能率をあげるとすれば、地域社会に対してなんらかの責任を負わねばならないのである。従業員に対する産業の新しい態度、すなわち従業員は目的であって単なる手段として扱うことはできないということを理解するならば、[とうぜん]地域社会に対する産業の態度には再検討を不可避とするに違いないのである。…かれが、その働く会社の利潤の一部が自分の住む近隣の福利の改善に使われ、自分の仕事によって妻や子供や隣人が直接恩恵をこうむっていることを知るならば、自分の仕事が社会に奉仕してその有用なる一員として知られんとする本能を内心で満足させるであろう(p106)

 フランスにおける工場と地域社会との間の一層の結びつきを通して、人間的意義を増進させるという理想と、アメリカにおける高能率の大量生産による消費者への奉仕の理想とは[その間の]関連性をもたせる必要がある。(p.107)

 国家としては、ひとつの方法が主張されるのである。それは、基本定款のなかにある会社の目的宣言に、会社の一般目的のひとつとして(企業の環境に適した意味を持つように定義された)社会の利害を尊重する旨の一条項を含ましめることである。そしてそれに対応する通常定款の規定があって、そこでは「地域社会」担当の取締役の選出方法や権限が決定されていて、かれは総会で社員に答弁する特別責任を持ち、取締役会によって任命されるのである。もし通常定款の中で、政府の所管省の代表者が年次総会に出席して特定の取締役の報告書について発言しうる権利を持つように規定が作られるならば、国家に対する責任の連鎖は会社の自治を阻害したり、または国家をして私的産業経営に責任をもたせるようなこともなく、完全なものとなるであろう。(p.114)

 利潤の分割については、一定限度内で前もってこれら四つの主要目的の間に協定がなされるべきである。会社利潤への最初の賦課は、準備金の強化と運転資本や拡張資本への準備でなければならないのである、このことは、会社が自分自体に対して負う責任から生まれてくるものである。(p.139)

 問題解決の方向は、利権[配当]の最高率を規定するよりもむしろ、利権[配当]支払い期間の法的限度を規定することにある。公衆に発行する産業の普通株の最高期間が、五十年といわれるのも道理のあることである。…資本の過去の危険に対して褒賞することは、なお公正なことである。しかしその褒賞が永久に続くべきでないのは、従業員が退職後も永久に支給を受けるのと同じことである。この段階にある資本は、責任会社において従業員が受けるのと同じように年金を受けるべきである。(p.146)

公的会社の場合には、いかなるときでも会社における産業会社株の議決権行使の最高機関を五十年に制限するよう規則で定める必要があるということである。このことは、この種の法的行為が公的会社に制限されるべきか、有限責任会社全部に等しく適用されるべきかの重要な問題を提起することになるのである。論者によっては、私的会社は家族的利害によって大きく支配されているという理由で、社会的に無責任になることが少ないと思われている。(p.148)

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◆野田信夫 (1951) 『企業の近代的経営』 ダイヤモンド社 243P

 
T 序論
U 企業の形態
V 企業の組織
W 企業の機関
X 資本の調達
Y 内部統制
Z 公共関係

 しかるに現今の企業の実態は、かかる所有権中心主義は、法制上の形骸に過ぎず、企業を真に民主化するには、労働にも資本と同等の地位を与え、この間に立つ経営者は、完全に独立した第三者として企業の運営の責任と権利とを与えられなければならない、という経営者独立論の考え方であって、この主張は将来の企業組織に対する一つの有力な教唆を含んでいることを見逃し得ない。(p.24)

 経済同友会の企業民主化研究会が「修正資本主義」論(大塚万丈委員長)を発表する。「企業をもって経営・資本・労働の三者によって構成される共同体とする建前をとる。法律的には企業財産を右三者の共同運営する企業体たる法人の所有とするが、これに対する株主の絶対的関係を改め、経営者および労働者もそれぞれ経営または労働という要素を提供しているという意味においては権利を持つものとする。右三者の内的配分帰属関係については、出資者の出資の限度内における企業財産は当然出資者に配分すべきものであるが、増殖分はこれを適当な割合にて三分し、経・労・資三者それぞれの集団に帰属せしむるものとする。したがって企業が解散する場合、企業財産は三者間に右の帰属分の限度において分配される」(p.24-5) 

 公共関係業務(Public Relations)。公共関係業務とは、私企業が、その民主的社会における公共性を自から認め、それを実現し、かつ関係者および一般公衆にそれを理解してもらうための業務を総称する。また公共体が、その公共性を積極的に発揮するため、関係者及び一般公衆に対して働きかけることをも含む場合がある。(p.223)

 即ち、公共関係業務は、企業の目的・事業・経営方針・業務上の措置などに関して、世人によく理解してもらい、私企業の利益は決して公共の利益と背反するものではないことを、実践的に世に知らせようとする活動である限り、この活動に当る人は、いわゆる「社長から門番まで」全従業員の平常の言行が、みなそれと合致したものでなければならない。(p233)

 要するに、公共関係業務は、企業を社会化するための重要な役割を果たさんとしているのであって、アメリカでは前にも述べた様に、巨大企業に対する社会の反感・地方民との利害の衝突・営利事業の反社会性に対する反撃などに直面して、資本主義の運命の問題にまで追い詰められた挙句、その一つの重要な打開策として発展してきたのである。(p.243)

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◆Bowen, Howard R. (1953). Social Responsibilities of the Businessman Harper& Brothers, New York. (= 1960 日本経済新聞社 訳 『ビジネスマンの社会的責任(経済生活倫理叢書)』, 日本経済新聞社)

 
第1章 序説
第2章 経済的諸目標
第3章 社会的責任と自由競争主義
第4章 『今日の資本主義』におけるビジネス決定の社会的意義 
第5章 企業家の社会的責任についての清教徒的見解
第6章 ビジネスマンの社会的責任感
第7章 個々の責任についての企業家の見解
第8章 なぜ企業家は自己の社会的責任に関心を持つか
第9章 なぜ企業家は自己の社会的責任に関心を持つか(つづき)
第10章 社会的責任説およびその批判
第11章 法律と社会的責任
第12章 企業の方針と社会的責任
第13章 提案:企業の組織と慣行上の変革
第14章 提案:産業会議のプラン
第15章 その他の提案
第16章 所得分配に関する倫理
第17章 企業家が当面するその他の倫理的諸問題
第18章 ボーエン氏研究の倫理的意義

 

 しかし、一つはっきりいえることは、自由企業体系の特徴である経済行為決定の自由が、私企業体の所有者や経営者層だけでなく、社会全体の各層ビジネスマン何百人にひとしく与えられていなければならないことである。ただ、この私企業の自由と私的コントロールが社会全体の福祉のために社会の進歩を促し、生活水準を引き上げ、経済的公正をもたらす、などに役立つものでないかぎり、私たちはそれを支持することはできない。(p.18-9)

 十九世紀経済においてビジネスマンが守るべきものとされていた基本道徳は、@私有財産の尊重、A契約の履行、B詐欺や虚偽の排除であった。そしてこれらの道徳は法律によって守られ、それらの法律−他の法律も同じだが−も、長年広く行なわれ、社会的にも承認されている道徳観を基礎にしていたから成功した(p.36)。

 今日の米国経済は自由競争主義と社会主義の両方の重要要素を織り込んだ『混合経済』だとよくわれるが、サンジカリズムの性質さえ幾分帯びている。すなわち、生産、消費、職業選択、地理的移動についての個人の自主性と選択の自由は実質的に維持されており、社会主義的要素としては政府による所有、管理、制限、立案がそれであり、サンジカリズムの要素としては、労働組合その他の組織体が行っている戦略的行動である。この混合経済ができたのは、自由と経済的進歩という目標−この二つは自由競争哲学の要素である−を安定、生活保障、構成、個性発揮という目標−これは近代人道主義哲学が重要視する要素−に調和させた人類の努力の結果である。(p.46)

 プロテスタントは私有財産の問題については『管理』あるいは『管財』という題名をつけて多くの意見を発表している。彼らの意見によれば、財産は絶対的、生得的なものではなく、その所有は個人によって所有され、管理されることによって社会の福利に貢献する場合だけ許される。財産所有者は、それを使用し管理するに当たっては自己の利益ばかりでなく、社会全体の必要をも考慮に入れる義務があるとされている。であるから、道徳的観点から見れば、無限の所得、あるいは責任のない所有はありえない。所有者という意味は神と社会に対して責任を負う管財人のことである。(p.54)

 企業家は現在の一般人の意見や態度を考え合わせた結果、企業家の最大の責任(企業家はこれを社会への責任と考える)の一つは、公衆に自分たちを理解してもらうための徹底的なスケールの大きい教育計画を実行することだ、と判断して、公衆に健全な経済原理を教えることだと考えている。(p.81)

 企業家が、社会の利益にもなるが、結局は私企業の利益に関係した責務に、より熱心であるからといっても、驚くにあたらないし、失望するにもあたらない。むしろ、私的な利益と、社会的な利益が、このような重大な点で一致しているということで、大いに満足すべきである。というのは、社会的利益は、それが私的利益にバックされている場合の方が、ずっとうまく達成されるからだ。(p.95)

 企業家に対する高い累進課税は、彼らの勤労意欲をそぐかわりに、彼らを金銭的な報酬から他の報酬へと方向転換させるにとどまった。現在の税制の下にあっては、課税後の金額や自分の所有する財産によって成功を誇示することが難しくなってきた。そこで人々は名声を得るための他の方法−財産による方法と同じくらい満足なものであり、効果的な方法−に目を向けるようになった。基本的動因は今も昔も変わっていない。一番強い動因は自分の成功を知ってもらいたいという希望である。ただ今日の成功はそれを誇示するのに膨大な財産を必要としなくなったので、膨大な金銭的報酬に根ざす動因の意義は、ぐっと減少したのである。(p.128)

 われわれはこの問題[『今日の企業家は、なぜ自己の社会的責任に関心を持つか?』]の答えを次の三つに分けることができる。@重んじるように強制されたから A重んじるように説得されたから B大企業において所有と管理の分離が行われた結果、社会的関心の高まる好条件がそろってきたので。(p.140)

 限界的な用具で、限界的な土地を耕作している限界的な農民は、自分の社会的責任といったところで、ほとんど何もすることができない。彼は自分の借金の返済と家族の生活費を捻出するだけで手いっぱいである。(p.148)

 彼は外部からの圧力−特に労働者、世論、政府等の−には強い関心を持っている。彼は自己の長い目で見た利益は、自己の政策や行動を、その社会的影響という面から捉えなければならないということを、次第に認識するようになってきている。企業家が、世論というものに非常に関心を持ち、それを変化させようとしている事実は、いかに大きな力を世論が企業の上に持っているかを物語っている。また最後に、社会的責任に対する関心が、必ずしも利益動機とうらはらのものでないことを示している。(p158)

 多くの企業家自身も指摘しているように、彼らの交際は主として自分たちと同等の人々に限られており、経験もほぼ一定している。彼らの見解も特殊なものになっており、胸に抱く物もだいたい同じである。そうなると他の利益グループの判断を参考にせず、自分たちだけの考えで、公衆の利益を決定することは必ずしも当を得たことではない。もし、社会的責任説が、米国経済生活における重大な、信じるに足る要素になるためには、責任の定義が、たった一つの階級や、たった一つの職業団体だけで決められる、というのであってはならない。企業に対する民主主義の応用が、ここにおいて力を発揮すべきである。この考え方は、もしもわれわれが、労働者や農民、投資家や消費者の社会的責任を考える場合にも適用できる。(p.165)

 利益動機が利己性に基礎を置いていることは確かだが、しかしその意味では、賃貸動機、利息動機、賃金動機、消費動機なども同様である。地主が小麦のほうがとうもろこしよりも収入がよいから、作物を小麦からとうもろこしにかえたところで文句をつける道徳家はいないだろう。投資家が、GMの方が配当がよいからAT&Tの株を売ってGMに乗り換えたとしても通常文句を言われる筋合いはない。また労働者が北部の賃金がよく就職機会が多いから南部から北部へ移住するとしても、誰も非難しないだろう。(…)これらのすべての経済的決定は典型的に自己の利益を最大の動機として行われているのである。しかし誰もこれらが道徳的にいかがわしいとは考えない。ところが企業家がひとたびある生産品の生産を思いつき、ある市場に乗り込み、ある機械を他の機械と交換し、企業を拡大し、または、その他彼の生産費や市場に影響する決定を行い利益を求めるとなると、この種の自己利益はたちまち非道徳的な目的であるとされてしまうのである。もしわれわれが企業家の利益動機を非難するとすれば、われわれは当然筋を通して、賃貸動機、利息動機、賃金動機、消費動機なども非難しなくてはならない(p.196)

 もし企業の建設的な社会行動に対するコストが価格決定において他のコストと同様に考慮に入れられるならば、この方面における企業の行動はもっと活発になるだろう。とにかく、利益の低減と企業の社会的責任とを混同しては良い結果は得られない。この二つは分離できる問題であり、おのおの違った方法で取り扱った方が適当である。たとえば、労働搾取的な工場を廃止することによって増大する労働コストは、経営者の利益を低減するか価格を上げるかのいずれかによって相殺されなければならない。後者の方法をとる場合は搾取問題は必ず解決される。しかし前者のように利益からコストを捻出しなければならないとなると、労働搾取の廃止が本当にできるかどうか疑わしい。利益が減じるとなれば企業家は、労働条件を積極的に改善する意欲がなくなるが、価格を上げて利益を据え置くということになれば企業家とても抵抗を感じる度合いが少なくなるだろう。利益そのものが高すぎるというのであれば問題はまた別で、労働搾取をなくするという大目的を危険にさらすことなく、それなりに処理することができるだろう。(p204)

 PRの機能が発達するにつれて、この分野の指導者や多くの企業家たちは、公衆の好意的な態度とは、企業の政策を『売る』ために用いられた宣伝技術と同様に、会社の政策そのものに左右されるということがわかった。このため、PRは政策決定上の一要素となり、PRの職能は公衆の態度に与える影響という観点から、政策助言の一機能となった。このようなPRの職能に対する考え方が、公衆の利益のための代弁者、受託者という考えに移行するのは、決して大きな飛躍ではない。(p.210)

 収入と支出の関係を考慮する場合、伝統的な方法では支出は収入の原因であると考えられていた。すなわち、収入が支出に見合うか、あるいはそれ以上の利益を生み出すか、はっきりしたメドがついてはじめて企業はいろいろな支出を行うのである。(p.259)

 補償されない社会的損害とは、煙、におい、汚物、騒音、汚水、爆発の危険、風致を害すること、醜い建物、都市の雑踏などの損害である。企業は、これらの損害のいくつかをある程度まで排除するように、法律によって要求されてはいるが、それだけでは重大な社会的損害は解決されないものが多い。(p.282)

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◆山城 章 (1953/1958) 「経営責任者」 高宮 晋・山城 章 編著 『経営責任者』 税務経理協会

 ところで、さらに経営者責任は、もうひとつ吟味を進める必要がある。即ち、経営者責任は実は正しくは経営責任、経営体責任と見られるべき性質のものであるという点である。信任論や受託論も、この角度から考えるべきである。経営者責任の以前に経営体責任があり、社会的責任はこの経営体について考えられるべきである。ところが経営体を外に代表し内に指導するものは経営者である。経営体の構成一員であり、また代表者である経営者の責任は、経営体責任を代位すべきものであるが、理論上は明らかに区別して考える必要がある。この区別なしでは、真に責任論を明らかになしえぬであろう。まず経営責任があり、続いて経営者責任、管理者責任などもあるのであり、重役、部長、課長、現場係長等すべてに責任論が展開する。
 さて次に重要な点は、責任論は目標論と一体をなし表裏をなしていることである。社会的責任の問題は、企業の営利的利潤追求性に対立して主張せられるものであり、企業性格の社会性或いは公共性を主張し、営利性を否定せんとする立場である。つまり営利こそ企業の目標であると主張した旧来の企業観に対して、社会性や公共性を主張するのであって、社会責任論は、一面、社会性や公共性を企業または経営の目標として主張する論である。(p.5)

 経営という活動の現場で、経営者・理管者・作業者のすべてが活動するモーチブは、投資資本家のための利潤、つまり配当をより大にしてやるためのみにあると誰が考えるであろう。(p.9)

 経営体はこの生産性を手段として、国家性にも営利性にも役立っている。しかし経営体自体の活動は生産性を手段としてはこれを解していないで、直接これを目標としている。経営体なるものが、もともと手段的組織であるが、手段たるそれ自らは手段たる生産性それ自体を目的として活動する。いま経営自体の目標が問題なのである。この経営体の活動の「結果」は第二次の問題となる。経営体は生産をそれ自らの機能とし、生産性効用モーチブで活動する。その生産結果は続いて配分せられる。配分問題は経営体が勝手に処決し得ないものであり、対境的支配関係によって決められる。生産体は生産問題を考慮し、配分問題は対境的関係で考慮される。(p12)

 経営体の成果は、対境的利害関係者に対し配分せられるが、この関係は、むしろ逆に対境的利害集団(interest group)の勢力関係によって決定されるのであり、配分の支配こそ対境利害者の中心関心事である。(p.12)

 ゴイダー(G. Goyder)が指摘するように二十世紀の経営は、もはや株主だけを営ますための私的な設備とは考えられない。むしろそれは労働者・経営者・消費者・地方自治体・政府・組合員等のすべてが、それぞれその役割を演ずる共同企業(joint enterprise)である。ただこの共同関係はあくまで配分の方策に関するものであろう。共同経営することとは全く異る。このような諸利害者集団が配分支配をなす以前の「生産」こそ経営体にとって本質的課題であり、目標なのである。(p.15)

 収益は、もとより一部は営利ともなるが、それ以外社会、公共、国等々への配分の基盤となり、また経営体自体への配分、即ち自己金融 (selbstfinanzierung)にもなる。最近の企業ではここにいう収益の最大の配分先は国である。即ち「税」の形成約六十%が納入せられるのである。この残部が配当となり、賞与となり、自己金融されている。(p.15)

 さてトラスティシップはこのように内容的には具体的合理生産によってこたえうるのであるが、この意味で経営体がトラストされ、またその最高の機関たる経営者機関(多くは取締役)がトラストされた内容は、結局は経営体の生産活動の合理的達成であり、これによって成果を各利害者に配分して役立つのである。

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◆土屋 好重 1956 『経営倫理(現代商学全集第十三巻)』 春秋社


第一編 ビジネス倫理のイデオロギー
第一章 近代ビジネスと新しい哲学
第二章 歴史的宗教と対立する同胞主義
第三章 感情中心主義の思想と倫理学
第四章 営業目的と企業のマネジメント哲学
第五章 東西の倫理思想と商道の哲学
第二編 人間的関係と公衆的関係
第六章 P・Rの根底としての人間関係
第七章 経営管理者と公衆関係
第八章 従業員と各種公衆群との良好関係
第九章 ビジネスP・Rと高度自由主義経済
第三篇 営業活動の本質と自制的倫理
第十章 消費者主権の原則と消費購買者
第十一章 消費者価値の増大と奉仕競争
第十二章 マーケティングの理念と適正価格
第十三章 自制的倫理と販売及び仕入活動

 経営管理者は、自らそれを自覚すると否とに関わらず、配分のための技術者である。ビジネスの活動のために、その一部分を担う各種の集団の権利や利害を均衡せしめる技術(art of Ballancing the rights and interests)を体得することが必要である。なんとなれば、それを十分に体得しなければ上手にビジネスを管理することが不可能だからである。株主の中には大きな配当のみを求めるものがあるかもしれない。しかし、ビジネスの長期的な安全のために必要であるならば、収益の大部分を社内留保にしたり、再投資してもらえるように仕向けるのでなければならない。従業員の賃金引上げその他の福利のための要求の中で、ビジネスの収益の配分を不当に害するものがあるならば、断固として拒否されなければならない。…そうでないと、経営管理者は、株主、顧客、一般公衆等の利害を無視することになり、ひいては長期的にみて、従業員そのものの福利を害することにもなるからである。…無分別に、不注意に、便宜や方便のために、先見の明を失うならば、経営管理者はその基本的な責任を全うしないものになる。そして、もし、一つの集団だけのために、他の集団のあることを無視すれば、ビジネスはついに破滅せざるをえなくなるのである。さらに、もしビジネスが上手に運営されるならば、それが、やがて国民経済の向上のために資するものであるということを忘れてはならない。もしもビジネスが採算がとれず、社会に貢献することができなければ、結局納税をして、国家の財政を豊かにすることもできなくなってしまうのである。(Lunding [1951:106-8],p.86)

 P・Rの歴史が、四つの段階に区分して分析せられている。 (Rex F Harlow & Marvin Black. (1947) Practical Public Relation], New York. p.115)
第一期(1900-14年)各会社に対する悪意の攻撃が起こったが、この攻撃に対し、会社側からその潔白を述べるための宣言をした時代
第二期(1915-18年)アメリカ政府が第一次大戦の戦争目的を国民に納得してもらうため各種の宣伝を行なった時代
第三期(1919-23年)第一次大戦後、消費者運動の活動に伴い、ビジネスが大規模な事業宣伝を開始しだした時代
第四期(1929-)会社の利害と公衆に対する責任とが融合せられ、私益と公益とが必ずしも矛盾しないという確信を強めた時代

 消費購買者は、扶養家族のために購買または調達活動を行なうという経済的な実力を持っていて、いわば一種の金銭的な特権者である。そして生産に対しては経済的投票の権限を持つ重要なる経済的・経営的な主権者なのである。それゆえにその社会的責任は極めて重いものであるといえる。(p.195)

 全体主義者は、一人の賢人による100%望ましい経済社会の即時実行のようなことを、しばしば、理想とせんとすることであろう。そして衆愚による60%ないし70%の善良さの経済は、これを排除せんとすることであろう。しかし全人民の主権者性を尊ぶ民主主義者や、自由精神或いは個別体尊重精神の信奉者は、これとはまさに反対の立場にたたんとするものである。そして、一人の賢者の従う奴隷的存在となるよりは、多数者の衆知を集める独立人となることを望むものである。また奴隷となってから与えられる福利を受けんとするよりは、むしろ、福利を多少犠牲にすることがあっても独立と自治による喜びを求めんとするのである。(p.218)

 業者と消費購買者とのあいだの取引においては、たとえいかにこの種の公正取引の原則が守られても、業者の立場は、多くの場合、消費購買者に対して優位にたつものとなることであろう。なんとなれば、業者は、おおむね、資力があるものであろうばかりでなく、その知識経験において、消費購買者一般の追随を許さないものをもつであろうからである。(p220)

 私有財産制度そのものが本来的に必要なのではない。個々の人や企業に十分にその能率を発揮させるための方便として、間接的に、その制度が便宜的に必要とせられるのである。私には私有財産制度という言葉そのものにも、その本旨を見誤ったごとき点があると思われる。私有の私に代えて個別とし、個別財産制度とするがごときことが考えられてもよいだろう。(p.226)

 もしも、ビジネスで、一個五十円であった石鹸を、製造方法を改良して、四十五円で売り出すことができたならばどうであろうか。消費購買者は一個の石鹸を購買するごとに、現実に五円の利益を受けることになるのである。ビジネス側では、一個、売るたびに、五円の寄付を出しているのと同じ経済的な貢献をなすことができるわけである。(p.229)

 いやいやながら、少額の慈善や寄付金をさせるという一般倫理よりも、進んで、ビジネスを通じて、自分も利益しながら、消費購買者にも利益を与えるというビジネス倫理の方が、社会的にみて、とくに経済的にみて、重要なものであるといえるだろう。

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◆占部 都美 (1956) 「経営者の社会的責任」 所収『経営者』 ダイヤモンド社

 

 この問題は、要するに、われわれが前に触れたように、取締役会長の地位を強化し、その職能の遂行に適材な人物を経営担当者のほかに求めて、経営の責任体制を確立する以外に、現在のところ問題解決の近道はないであろう。それとともに、経営担当者が人事その他の問題について日常行なう決定が、重要な社会的責任の問題を含んでいることが、経営者自体によって十分に認識されねばならない。(p.283-4)

 

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◆藻利 重隆 1959 「経営者の社会的責任と企業的責任および自己責任」日本経営学会 編『国民経済と企業』p.33-42

 進歩的経営者における社会的責任の自覚と協調とは、元来、経営者が「利己的経営者」に転落することなしに、その自己責任を達成する途を見いだすことを意図するものであったはずである。それにもかかわらず、社会的責任を強調するのあまり、逆に、社会的責任が返って企業的責任[株主利益の追求]を排除し、またはこれを自己に従属させる方向に経営者を追い立て、そこに新しい「利己的経営者」を発展させることとなるならば、社会的責任の強調はかえってその意義を完全に滅却してしまうものだといわざるをえない(p.39)

 今日わが国における「経営者の社会的責任」の強調もまた、同様の意味において、「経営目的」ないし「企業目的」に対する経営者及び支配者の意識的反省と、これにもとづく営利原則の長期的理解とを、一般的に要請してやまないものであることを、われわれは指摘したいのである。(p.41)

 

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◆藤芳 誠一 1958 「経営者の社会的責任」,『近代経営と経営者』 経林書房

 このように、経営者の社会的責任の要請されるゆえんは、単なる道義や慈善の動機からではなく、まさに経営存立の必要性と現行社会体制の維持の必要性から生まれたものであることを知らねばならない。(p.83)

 このように厖大な数にのぼる株主・従業員・消費者の生活に直接間接の影響をあたえる企業は、これがためにも維持されなければならない。それがためには、企業は商品の能率的な生産と収益の適正な配分が継続的に遂行されることによって、経営者は社会に対する責任を果たすことができる。それには、企業維持のために必要な収益をあげることができなければならない。その意味で収益性を維持していくことは、経営者の社会的責任の根源的な部分をなしているのである。(p.84-5)

 このように、株主・労働組合・消費者という利害者集団は、自己の利害の立場から経営に圧力を加える。そこに、経営者としては、これらの利害者集団の間の利害関係を調整することが企業維持のために必要な任務となる。(p.88)

 したがって、それは、矛盾の社会構造的解決方策を求めようとするのではなく、また政府の統制に依存するものでもなく、企業自体の自己の責任においてこれが解決を要求されるわけで、その基本理念はあくまでも自由企業の体制を存続発展せしめ、資本主義体制の若干の修正は当然のこととして、基本構造まで壊さないようにして自由社会の存続をはかろうとするところにある。(p.90)

 

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◆本間 幸作 1959 「企業経営者の社会的責任」日本経営学会編『国民経済と企業』 p.61-9

 第一、資本主義の現段階は日本の内外を問わず独占資本主義の時代といわれている。特に資本蓄積の乏しい日本は資本の威力は絶大である。このような状況で果たして専門経営者が資本家の要求を無視して企業を経営しうるかどうか。第二、資本というときは自己資本のみを資本と称すべきではない。他人資本も資本である。而して戦前と異り、自己資本と他人資本との比率が逆転して、自己資本過少に陥っている日本の企業の場合には金融資本家の要求は絶対的である。もちろん、独占禁止法はある程度これをカバーしているとはいうものの、この法律自体すでに抜穴だらけであるのみならず、大幅に改正緩和の運命にある。第三、(…)資本が分散しているということと資本家が企業を支配していることとは別個である。大株主は群小株主を無視しまたはこれを利用して企業を支配することが出来る。(p.62-3)

 一部の経営学者は今日企業は長期安定利潤を求めるが、決して最大利潤を求めはしないと称する。しかし、これは国家の保護の厚い独占企業に該当しても、一般の私企業には該当しない。そんな陽気なことを言っておれぬのである。而して今日、企業経営者の社会的責任が追及せられる最大理由はここにある。国家の保護助成の厚い独占企業は、国家の保護助成のゆえに、それと引替に社会的責任の自覚を叫ぶ。国家の保護助成に見離された多くの私的企業はそれ自らの維持存続に忙しく、経済道徳を顧みない。そのゆえに企業の社会的責任が要求される。前者は経済的に安定であるがゆえに、うちから企業経営者の社会的責任を主張し、後者は経済的苦境にあるがゆえに外からその社会的責任を要求される。(p.64)

 若し企業経営者の政治献金が労組員のそれと同様、それぞれのポケットマネーから支払われるのであれば、自然に寄付の限度は適当のところにとどまるであろう。然るにかれらの政治献金は企業という公的機関から恰もポケット・マネーの如くに無造作に支出されるところに問題がある。(p.68)

 わが国の企業が年に費消する機密費、交際費は実に膨大な額に上っているのであるが、これは内部留保を妨げることに於て社会を毒し、自己の健康を害し、家族え(ママ)のサーヴィスの機会を失わせることに於て自己及び自己の家族を毒するものである。(p.68)

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◆Levitt, Theodore., (1958). "The Dangers of Social Responsibility," Harvard Business Review, Sept.-Oct. p.41-9. in Greenwood, William. T., (1964). Issues in Business and Society p.461-474.
= 1975 上田 つよし 訳 「レビットの社会的責任反対論」,『北九州大学商経論集』10(2・3) p.185-209.

 即ち、企業内の体育プログラムの支持、会社の合唱グループに有給の指揮者を雇うこと、あるいは、従業員のドラマの上演の経費を負担すること(勤務時間におけるものに対しても)、は慈善ではない、と。それらは、政治家と職業的避難者の猛襲に対する、生存の抜けめのない策略なのである。そしてそれ以上に、それらはモラールを形成し、能率を向上させ、さらに、手ぎわのよい現金で報酬を生み出すのである。言いかえるなら、そうすることは、ひきあうのである。もしひきあわないのなら、何らのゲームも行なわれはしない。(p.190-1)

 われわれは、全て、全能がまかり通る状態をおそれる。それは、退屈で恐怖に満ちた統一−一元的社会−を、つくり出すからである。われわれは、権力の一つの所在地、一つの権威、正当性の一人の決定者、を持った社会貢献を欲しはしない。われわれは、変化、多様性、自発性、競争−要するに、多元主義−を、欲し必要としているのである。(…)われわれは、福祉に反対するが為ではなく、集中化された権力とそれが極めて不可避的に生み出す過酷な社会的規律に反対するがために、全てを包合する福祉国家に反対である。(p.193)

 福祉と社会問題は、会社の仕事ではない。その仕事は、金をもうけることであって、甘い音楽を作ることではない。同様のことだが、労働組合にもあてはまる。彼らの仕事は、”パンとバター”と職務の権利である。自由企業体制においては、福祉は自動的なものと考えられている。そしてそうでないところにおいては、それは政府の仕事になる。これは、多元主義の概念である。政府の職務は企業のものではなく、企業の職務は政府のものではない。そして、もし、それらの機能が全ての点に関して最終的に結合されるのである。結局、危険なのは政府が企業を運営するようになるだろうとか、企業が政府を運営するようになるだろうということではなく、むしろ、それら二者が、われわれが前に見たように、反対されず反対されえない単一の権力に合体するようになるだろう、ということである。(p.202)

 企業は、何が政府の役割であるかを認識すべきであり、そして、政府が企業にそれ自身を直接的に押し付けるところで政府と戦うためにのみ立ち止まるというふうにしなければならない。企業は、企業が福祉のより物的な側面に留意することができるように、政府に一般的福祉を留意させるべきである。(p.281)

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◆垣見陽一 (1956) 「経営者の社会的責任論――Geoge Goyder等の所論にふれて」『名古屋商科大学論集』1 p.71-99.

 法律は株主と取締役の社会のみを認めるが、富の生産も配分もしないし法律もするものと期待してもいない。われわれは真の社会に法的根拠を与え架空の社会から意味なき特権を除去せねばならない。現会社法は産業をして四集団の一つである株主集団に対してのみ責任を負わしめるが、かかる法制度は擬制であり会社は株主に所属するものとの擬制に基づくが然し会社は誰にも所属しない所有の対象とはなり得ない。会社は自己所有であり、財産を保存し一定活動に従事する法人格を持っている。産業の所有制について語る事は誤りである。会社は事実株主の所有でなくて人間社会−人間が其の内で働く会社である。社会有機体として会社は所有の対象となる有形物ではない。(p.93)

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◆財団法人 日本証券投資協会 編 (1957) 「特集 現代経営者とその社会的責任」,『パブリックリレーションズ』8(10), 5-57.

◆菅谷重平 「『経営者の社会的責任の自覚と実践』について」 p.8-11.

 商法は株主と債権者を保護する規定を持っている。しかしそれは株主なり債権者なりの権利が侵害されたことを深刻があって始めて取り上げるだけのものでしかない。経営者が株主や債権者の財産をカラにしてしまって、株主や債権者はそれを苦にして死んだとしても、法律は経営者の責任を問わない。(pp.9-10)

 

◆原吉平 「経営者の社会的責任」 p.12-14.

 かつてアダム・スミスは『見えざる手』によって私益は公益と合致すると述べたが、私益を追求することが、結局は公益に合致し、社会全体の福祉を増進するというスミスの楽観的な予定調和の考え方は、19世紀の驚くべき経済発展をもたらしたのではあったが、複雑な現代経済には、これをそのまま適用することはできない。企業の利己的な利潤追求はもはやそのままでは社会の福祉とは調和しなくなった。(p.12)

 私は消費者に対する良品の安価な提供こそ経営者の究極の社会的責任であると述べたが、これは単なる価格の引き下げの意に解せられてはならない。このようなことを附言するのは過当競争の弊害を恐れるからである。値段の安いということは有力な競争手段ではあるが、それだけでは消費者を惹き続けることはできない。企業が他の企業を圧倒するために採算を割って安売りを行う場合にはたしかに一時的には消費者を十分に満足させることができるであろう。しかしながら、このような過当競争は経済界に無用の混乱を引き起こすばかりでなく、価格引き下げ競争は当然「安かろう、悪かろう」の品質低下競争を誘引する。また、企業が価格引き下げ競争の後において、その間の損失の補填をはかるならば消費者は結局、価格的にも高いものを買わされることとなるのである。(p.13)

 

◆西野嘉一郎 「新資本主義と経営者の役割」 p.15-20.

 そので国家の発展と繁栄をもたらす企業の利益とは何か。企業の利益には二つある。一つは単なる他人の損失犠牲のうえに求められるもので、これを「振替利益」というのである。たとえば貨幣購買力の大きい金を借り、貨幣購買力の小さい金に返すことによって生ずるインフレによる債務利益や計画的に他人に損失を与えて利益をえる独占利益、または相場の暴落による利益がこれである。この種の利益は経済全体としてみるとき、価値の移転があるだけで価値の相対は増加しないのである。いまひとつの利益は「生産的利益」である。これは新技術、新製品、市場開拓に伴う「危険」に対し、果敢にいどみ、新しき価値を創造せしめるものであるから経済は発展する。国家の発展と反映をもたらす企業利益とはこの後者を指すのである。(p.20)

 

◆和田春生 「社会的責任と労使関係の改善」 p.26-37.

 ざっくばらにんにいって、従業員に対しては暴君であり無慈悲であっても、お客さんにはエビス顔、という経営者の方がおおいのではあるまいか。最近、近代の企業における経営者の任務として、第一は顧客に奉仕すること、第二は、従業員に奉仕すること、第三は、株主に奉仕すること、第四は、公共に奉仕すること、を強調する説が行われている。それは大いに結構、よい一つの心構えだと思う。しかし、この第一と第二とは、順序を逆にしたほうがいい。順序を逆にするという語弊があるが、違ったベースで考えたほうがいいと思う。端的にいうなら、顧客に対しては奉仕などという観念から離れ、商売の相手とし、もっとドライにみても従業員のほうは、奉仕の観念に徹底してもらいたい。(p.28)

 

◆宮田喜代蔵 「現代経営者とその社会的責任」 p.47-51.

 しかしこうしたあるべきという知恵はなく、現実での存在としてみるとき、現代経営者は一時的な利潤獲得を目標とするものではなく、長期的・持続的な収益獲得に志向するものであり、しかも常に増殖する収益に志向する長期的・発展的な性格をもつ。こうした費用以上の収益の持続的獲得が保証されなければ、社会構成体はその存続を確保しえないからである。その意味において現代経営者にとっては、収益獲得はまったく顧慮されないというのではない。それどころか収益の持続的獲得こそ、企業の存立と持続の必須要件として要請されている。しかも企業の長期的・発展的な存立と持続を保証せんとする志向において、前に分析した企業の在内と持続の必要条件であると言わねばならぬ。(p.51)

 

◆佐々木吉郎 「社会的責任の基礎」pp.52-57.

 果たしてそうであれば、社会的責任を次のように定義することができる。『社会的責任とは、相関的な義務の遂行が他の者の持っている重要な期待を失望させないように、私的な権限を行使する義務である。』これは、何もある人の権利の放棄を要求するものではない。それは、ある人の権利と他の人の権利との間の調整を要求することを意味するのである。もっと簡単に社会的責任を定式化するとすれば、『社会的責任とは、他人の重要な権利に反対することがないようにある人の権利を行使する義務である』ということができる。これは、ある特定の関係においてのみ言われることではなくて、他のすべての主要な関係との一致においてのみ言われることである。この意味においてある関係の権利・義務が認められることになる。(p.57)

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◆木川田一隆 1958 「企業の社会的責任と経営権」,『経営者』12(5) 日本経営者団体連盟出版部, 30-33.

 (・・・)経営者は自由放任時代のごとく単に企業の利潤を最大にする努力を果せば事足りたのであるが、我々の持つ責任は生産者と消費者との利潤を最大にするところに最終的理念をおかねばならない。
 そうして、生産者の利潤を極大にすることによって、投資家に後世奉仕するばかりでなく、消費者の利潤をもあわせ考慮することによって公益を増大する結果となるであろう。
 さらに労働者に対しては、二つの義務付けが生ずるであろう。その一つは、労働者の人権を尊重し、技術革新に伴う人間無視の世界から、いかにして新しい人間解放が可能かどうかを見るとともに、個人の創造性を自己拡張する機会と刺戟とを与えて、より高い人間啓発に努める任務である。その二つは、労働の質量に従って社会的公正な報酬を確保するルールの設定である。(p.32)

 政府は経営者の創造的努力を誘発するために、環境を整備し、望ましい方向に経済を誘導する外的条件を作ることを原則とすべきにもかかわらず、公共福祉の名の下に、経営権の行使に介入していることは再検討の切要なるものであろう。(p.33)

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◆UP:050222,REV:060322,060412,060520,060528,060913,060914,060930,061003,061207,0211,0216,0223,0310,0329,080301,0303