◆Friedman, Milton. (1962) Capitalism and Freedom, The University of Chicago Press, Chicago. (= 1975 熊谷尚夫・西山千明・白井孝昌 共訳 『資本主義と自由』, マグロウヒル好学社)
第1章 経済的自由と政治的自由との関係
第2章 自由社会における政府の役割
第3章 貨幣の管理
第4章 国際金融・貿易制度
第5章 財政政策
第6章 教育における政府の役割
第7章 資本主義と差別
第8章 独占と企業および労働組合の社会的責任
第9章 職業免許制度
第10章 所得の分配
第11章 社会福祉政策
第12章 貧困の軽減
第13章 結論
第一に、政府の活動範囲は制限されなければならない。政府の主要な機能は、われわれの自由を国外の敵と国内の同胞との双方から守ること、いいかえれば法と秩序を維持すること、私的契約を履行させること、競争的市場を育成することでなければならない。(p.2)
それの主要な論題は、経済的自由の体制であるとともに政治的自由のための必要条件としての競争的資本主義−自由な市場で活動する私的企業を通じて経済活動の大部分が行われるような組織−の役割である。その副次的な論題は、自由を最高の目的とし、経済活動の組織化を主として市場に頼ろうとする社会において政府が果たすべき役割である。(p.4)
つぎの二つの条件がみたされるならば、協力は厳密に個人的かつ自発的である。すなわち、(a)企業は私的なものであり、したがって究極の契約当事者は個人であるということ、そして(b)個人はどんな特定の交換にも参加するかしないかが実質的に自由であり、したがってあらゆる取引が自発的であるということ。(p.15)
人びとが公然と社会主義を主張し、そのための運動をすることができるのは、資本主義社会の政治的自由のしるしである。それと等しく、社会主義社会における政治的自由は、人びとが資本主義の導入を提唱するのに自由であるべきことを要求するであろう。資本主義を提唱する自由は、社会主義社会のなかでどのようにして維持され保存されうるであろうか。(p.18)
効果的な比例代表が不可能な事柄も明らかにいくつかある。私が望む量だけ国防を手に入れることはできないし、あなたがそれとは違った量を望むだけ手に入れることもできない。このような分割不可能な事柄について、われわれは討議し、主張し、そして投票することができる。しかし、決定したからには、われわれは服従しなければならない。市場を通じての個人の行動に全面的に頼るわけにいかなくさせるのは、まさしくこのような分割不可能な事柄−なかでも個人と国民を強圧から守ることは明らかに最も基本的なものである−の存在である。資源のいくらかをこのような分割不可能な項目に使用すべきであるとするなら、われわれは意見の相違を調停するのに政治的経路を用いなければならない。(p.26)
人びとの自由は相互に衝突することもありうるし、そのような場合には、ある人の自由は他の人の自由を守るために制限されなければならない−かつて最高裁判事が述べたように、「自分の握りこぶしを振るわたしの自由は、あなたの下あごが近くにあることによって制限されなければならない」。政府が行うに適した活動を定める際の主要な問題は、異なる個人の自由のあいだのこのような衝突を如何に解消するかと言うことである。ある場合には、その答はやさしい。ある人が隣人を殺す自由は、その隣人を生きる自由を守るために犠牲にされなければならない、という主張に対してほぼ全員一致を取り付けることには、ほとんど困難がない。別の場合には、答は難しくなる。経済の領域では、結合する自由と競争する自由とのあいだの衝突に関して大問題が発生する。「自由」と言う言葉が「企業制」という言葉を修飾しているとき、それにはどんな意味が付与されるべきであろうか。(p29)
要約すると、自発的交換を通じて経済活動の組織化は、つぎのことを前提している。すなわち、ある個人に対する他の個人の強制を排除するための法と秩序の維持、自発的に取り交わされる契約の履行の確保、財産権の定義を明確にすること、そのような権利の解釈と施行、および貨幣制度の枠組みの整備が政府を通じてわれわれに用意されていることがそれである。(p.31)
パンを買う人は誰も、その原料になる小麦が共産主義者によって作られたか共産党員によって作られたか、立憲主義者によって作られたかファシストによって作られたか、あるいはまた、そのことに関するかぎり、黒人によって作られたか白人によって作られたかは周知するところではない。これは没人格的な市場がどのようにして経済活動を政治的見解から切り離すか、そして人びとが彼らの経済活動において、生産と無関係な理由−これらの理由が彼らの見解や肌の色と結びついていようといまいと−のために不利な差別を受けないように保護するかを例証するものである。(p.34)
技術的条件が競争的な市場のはたらきの自然な結果として独占を生み出すとき、採用できると思われる選択の途は三つしかない。(・・・)しかしながら、私的独占・公的独占・公的規制という三つの害悪の中での選択は、現実の状況とは無関係に、一度限りに行われうるものではない。(・・・)時と場合によっては、技術的独占が事実上の公的独占を正当化することもありうる。他の誰であれ競争することは違法であるとすることによって達成される公的独占を技術的独占の論拠だけで正当化することはできない。(・・・)もし技術的独占でなければ、政府はそれにたずさわるべき理由はない。どちらかであるかを見きわめるための唯一の方法は、他の人びとに自由に参入させてみることである(p.32-4)
この場合、道路を利用する個人を識別し、彼らに使用料を課すことは技術的に可能であるから、この仕事を私的に運営することも技術的に可能である。しかしながら、多数の出入り口がある一般通行用道路については、もし料金が各個人の受けた特定のサービスに応じて付加されるべきものだとするならば、すべての進入箇所に料金徴収所かそれに相当するものを設ける必要が生じるので、徴収費用は極度に高くなるだろう。道路の利用度にほぼ比例して個々人に料金をかける方法として、ガソリン税のほうがはるかに安あがりである。しかしながら、この方法では特定の道路利用に特定の支払いを密接に結びつけることができない。したがって、広範囲な私的独占を成立させるのでなければ、私的企業にサービスを提供させたり利用金を徴収させたりすることは実際上ほとんど不可能である。(pp.34-5)
、近隣効果は諸刃の剣であるどちら側を切ることもできる。それは政府の活動を制限する理由にも、また拡張する理由にもなりえる。近隣効果が自発的交換を妨害するのは、第三者に及ぼされる影響を識別して、その大きさを軽量するのが困難だからである。(p.36)
このことをもっと非情なように見える調子でいいかえると、子供たちは一種の消費財であると同時に、潜在的には社会の責任ある成員である。個人が彼らの経済的資源を自分の望むように使う自由は、子供をもつためにそれを使う −いわば子供のサービスを特殊な消費形態として購入するためにそれを使う−自由を含んでいる。しかし、ひとたびこの選択がなされるならば、子供たちは自ら自体として価値をもち、両親の自由の単なる延長ではない彼ら自身の自由を持つのである。(p.38)
社会全体の見地からみた商品本位制の根本的な欠陥は、貨幣ストックを増加させるには実質資源を使用しなければならないということである。南アフリカの地中から金を掘り出すために人びとは重労働をしなければならない(・・・)。商品本位制を運用するために実質資源の使用が必要であるということは、こうした資源を使わずに同じ結果を得る方法を見出そうとする強い誘因を人びとに与える。(p.45)
政府はある最低限水準の学校教育を義務づけ、それをまかなうに親に証票(ヴァウチャー)をあたえて、「公認の」教育サービスに費やされるならば子供一人一年当たりある一定の最高限度額までそれが償還されることができよう。そうすると親はこの金額といいくらかでも自分の用意した金額とを合わせて、自分自身で選んだ「公認の」機関から教育サービスを購入するのに自由に費やすことができよう。教育サービスは営利を目的とする私企業によって提供されることもあれば、非営利施設によって提供されることもありうるだろう。政府の役割は、それらの学校が授業計画の中に最低限度必要とされる共通の内容を取り入れているかどうかといった、ある一定の最低基準を満たすように保障することに限れられるのであって、それは政府が現在飲食店を検査して、最低限の衛生基準を維持させようとしているのほとんど同じである。(p.102)
われわれがすでに見てきたようなやり方で、自由市場は経済的効率性をそれとは無関係な諸特性から切り離す。第一章で注意したように、パンを買う人はそれが白人の栽培した小麦から作られたのか、あるいは黒人の栽培した小麦からなのか、キリスト教徒のか、それともユダヤ人のかといったことを認めようとしない。その結果、小麦の生産者は、彼が雇用する人々の人種・宗教あるいはその他の特徴に対して社会がどのような態度をとっているかにかかわりなく、資源をできるだけ効率的に利用することができる。それに加えて、おそらくもっと重要なことには、自由市場には経済的効率性を個人の他の諸特性から切り離そうとする経済的誘因が存在する。ある実業家とか企業者とかが自分の経済活動において、生産的効率性と関係のない選好を表すならば、彼はそうでない人々に比べて不利になる。そのような個人は事実上、こうした選好を持たない人びとよりも高い費用を自分自身に負わせていることになる。そのために自由市場では後者の人びとが彼を駆逐することになりがちであろう。(p.124)
これと同じ現象はもっと広い範囲にわたって見られる。人種・宗教・皮膚の色、あるいはその他の何であれ、そのようなことを理由にして他人を差別する者は、そうすることによって何らの費用もまねかず、他人に費用をかぶせているにすぎないのだということがしばしば当然のように考えられている。この見解は、他国の商品に関税を課しても自国はまったく被害をこうむることはないという、大変よく似た誤謬と同質なものである。どちらも等しく間違っている。たとえば、黒人からものを買ったり黒人と一緒にはたらいたりすることをいやがる人は、それによって自分の選択の範囲を狭めている。一般的にいって、彼は自分の買うものに対してはより高い価格を支払い、自分の仕事に対してはより低い報酬を受け取らねばならないだろう。あるいは、反面からいえば、皮膚の色や宗教と関係のないことだと考える人びとは、その結果として何らかのものをよりやすく買うことができる。(p.124-5)
たとえば、黒人の手による応対に強い嫌悪を抱く人々の居住する地域で営業している食料品店が置かれている状況を考えてみよう。いま、これらの店のひとつの店員に空きがあって、最初の応募者がその他の点では資格があるにもかかわらず、たまたま黒人であったとしよう。そして法律があるために、この店は彼を雇わなければならないものとしよう。そうすることの結果は、この店の商いが減り、店主は損失をこうむるということであろう。もしもこの地域社会の差別的嗜好が非常に強ければ、この店は閉鎖に追い込まれることさえあるかもしれない。法律がない場合に店主が黒人よりも白人の手人の方を雇うとしても、彼は決して自分自身の選好、偏見、もしくは嗜好を表明しているのではないかもしれない。彼はただその地域社会の嗜好をとりついでいるだけではないかもしれない。彼はいわば消費者のために、消費者が進んでお金を払ってくれるサービスを生産しているのかもしれない。それにもかかわらず、彼がこの活動に従事することを禁じる法律、すなわち、黒人ではなく白人の店員を雇うことによって地域社会の嗜好の仲立ちをすることを禁じる法律によって被害を受けるのは彼であり、じっさい、彼だけが著しい損害を受けるのかもしれない。この法律が抑制しようと意図しているような選好をもつ消費者たちは、店の数が制限されて、一つの店が脱落していたためにこれまでよりも高い価格を払わねばならないかぎりにおいて実質的な影響をこうむるに過ぎないであろう。この分析は一般化することができる。(p.126-7)
法人企業の役員が株主のためにできる限りの利益を上げるということ以外の社会的責任を引き受けることほど、われわれの自由社会の基盤そのものを徹底的に掘り崩す恐れのある風潮はほとんどない。これは根本的な破壊活動の教義である。もし経営者が株主のための最大の利益をあげるということ以外の社会的責任を実際に持つとした場合、彼らはそれが何であるかをどうやって知るのだろうか。仲間内だけで選ばれた私的個人が社会的利益の何たるかを決めることができるだろうか。彼らは社会的利益に奉仕するために、どのくらい大きな負担を自分たち自身または株主のいわせるのが正当とされるかを決めることができるできるであろうか。厳密に私的な集団によってその地位に選ばれ、現在たまたま特定の企業にあずかっている人々によって、そうした課税、支出、および統制の公的機能が行使されてよいものであろうか。もし経営者が株主の雇人ではなくて公務員であろうとするならば、民主主義のもとでは、遅かれ早かれ、彼らは選挙と任用の公的手続きを経て選ばれるようになるであろう。(p.151-2)
政府が企業や労働組合の自己統制を求めるのは、政府が自分のこと−それには貨幣の管理も含まれる−を自分でやる能力がないからであり、また責任を他に転嫁しようとする自然な人間性のためである。社会的責任論の領域での一つの話題で、私自身の利害にも影響するので、ぜひ触れておく義務があると感じるのは、企業は慈善活動を支援するために、またとりわけ大学に対して寄付をすべきだと言う要求についてである。法人企業によるこのような贈与は、自由企業社会では会社の資金の不適当な使い方である。法人企業はそれを所有している株主の道具である。もし法人が寄付をするならば、それは個々の株主が自分の資金をどのように処分すべきかを自分自身で決定する自由を妨げることになる。法人税と寄付金の控除制度とがあるために、株主は無論自分に代わって会社が贈与をしてくれることを望むかもしれない。というのは、それによって彼らはより多額の贈与をすることができるだろうからである。最善の解決は法人税の廃止であろう。しかし法人税が存在するかぎりでは、慈善的ないし教育的施設への寄付の控除を許すことは正当化できない。そのような寄付は、われわれの社会における究極の財産所有者である個人によってなされるべきである。(pp.153-4)
・・・政府が現に動きつつある方向、すなわち法人企業に慈善的目的の寄付を許し、所得税に対する控除を許すという方向は、所有と管理の真の分離を作り出し、われわれの社会の基礎的な本質と性格を破壊する方向への一歩である。それは個人主義的な社会から遠ざかり、法人国家へと向かう一歩である。(p.154)
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◆中村常次郎 (1969) 「取締役会の社会的責任――ニューマンの見解を中心として」
中村常次郎・大塚久雄・鍋島達・藻利重隆 編『現代経営学の研究 柳川昇先生還暦記念論文集』 pp.30-47
…受託者としての伝統的な取り締まり役割に挑戦しようとしたニューマンの主張が、その意義を失うことになり、ニューマンのいう経営者の立場もまた、いよいよあいまいなものになることを指摘しなければならない。かくして、取締役会の社会的責任についてのニューマンの主張は現実的根拠をもたない一つの見解として、それも一つの規範的提案としてのみ存在しうるにすぎない。(p.47)
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◆垣見陽一 (1969) 『新企業体制論――社会的責任の究明』中央経済社
序論
1 企業体制論の方法論的課題
2 研究のねらい――社会的責任
本論
3 問題の提起
4 フォレット女子の経営本質観
5 G・ゴイダーの共同企業論
6 F・タネンバウムの企業体制論
7 回帰闘争と自由主義経営理念―J・バーナムの諸説にふれて
結論
補論 フォレット学説の研究
フォレット女史の経営本質観
使用者は責任回避のため、その分割につ付いてよく語ることがある。多くの人たちも責任を回避するための決定を避けるものである。例えば、横暴な亭主の家庭のよくあることである。それで私は単なる責任の分散には賛成し得ない。経営の賛否は責任を委員会、部門管理者、職長に分担せしめた後で、どれほどそれらの責任を相互浸透せしめるかにかかっているのである。連合責任のこの点に付いて私はよく誤解され、私が分権を信じていないように時々思われるが、それを信ずることではあえて人後に落ちるものではない。私は連合責任と分権責任とは相即すべきであり、否それ以上に同一事物の両部分であると思う。(p.39-40)
後者は、いわゆる職能説として歓迎され分業による適材適所が主張されてきたが、その結果、私どもは自身の責任が、それだけで終わるものではなくて、また全体に対する責任があることを忘れる傾向を示している。経営は全構成員が、この責任を感ぜしめるように組織されねばならない。…社会サービスの協同責任(Joint responsibility)感から生まれてくるものほど、労働を尊厳ならしめるものはないのである。これは同時に、経営管理上の問題でもある。すなわち如何にして労働者、経営者、所有者が連合責任を感ずるように組織化したらよいかの問題である。ここにG・ゴイダーの共同企業体制の論理的根拠がある。(p.40)
経営組織における機能と責任及び権限は三位一体的のものである。このことは、科学的管理の工場では、ますます認められつつある。発送係は、その仕事に付いては社長より以上の権限を持っている。職長はよく人事担当者の、例えば任免における権限を嫉視するが、それが大切なのではなくて、その機能が重要であることを知らしめねばならない。(p.62)
誰かがあなたの仕事をなし、それにともなう権限を持つこととなる。権限は職務に属しそれとともにある。わたしは最高管理者の全権限に対する権利(Right)を否定したが、この権利の概念は、機能の考え方により実質的に変化し急速に消滅しつつあることは、祝福すべきことである。(p.63)
F・タエンバウムの企業体制論
このような共同体の弱体化は、男女のみならず婦人子供や老若さらに熟練者も不熟練者にも影響を与えた。その効果は、そのなかの諸団体に及び、伝統的な身分社会は溶解し去って、ますます孤立化し、平等で独立した個人により構成されて、ここにはじめて人びとは自身に対してのみ責任を負い(自己責任の原理)、同時に他人に対しては最も近親者に対してさえも無責任となるに至った。もちろんこの分裂は、理論的にはともかく、完遂されたのではないが一時代を画するものであった。この古い社会崩壊の直接の原因となったのは、労働者、男女、子供のそれぞれへの貨幣賃金の支払いである。この支払いは、親から子を引き離し老若を平等にしたのである。それぞれへの賃金支払いは、若い人が年長者より、息子が親より以上な生活をするようになり、娘は家を離れて独立に生活するに至った。(p.154)
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◆Hayek. F. A. (1960). The Corporation in a Democratic Society : In Whose Interest Ought it and Will it be Run?. in Anschen, M and Bach, G. L. (eds.). (1985) Management and Corporations 1985, McGraw-Hill Book Company, Inc.
= 1963 名東孝二 訳 「民主社会における会社」 所収『20年後の会社と経営』 日本生産性本部
第一部
一、会社:それは機械によって経営されるか ハーバート・A・サイモン
二、会社:その人間との共存 ロバートマートン
三、民主社会における会社 A.A.バーリ二世
四、民主社会における会社 フリードリッヒ・A・ハイエク
五、他教国家間にまたがる会社の経営 デービッド・リリエンタール
六、西欧の会社と低開発経済 バーバラ・ウォード
七、会社と教育、倫理、権力 ロバート・M・ハッチンズ
第二部
経営と変化 メルビン・アンシェン
四、民主社会における会社 フリードリッヒ・A・ハイエク
私の主張したい点は、もし会社が有用な存在となるよう、会社の権力を制限したいならば、株主によって委託されている資本の利益を生むための使用、という特殊の目的以外のものはすべてこれを制限してしまわねばならぬ、ということである。わたくしにいわせるならば、会社が管理を任された資本を最大に回転させて長期にわたって極大の利益をあげること以外に、特定の目的のため、会社のもてる資源を使用することが認められておりあるいは強制されているので、それが会社をして好ましからざる社会的に危険な権力とさせ、社会的考慮によって社会の政策を立てねばならぬという、流行の考え方がややもすれば、もっとも好ましからざる結果を生み出してしまうのである。(pp.89-90)
経営者は株主より委任された信託者にすぎず、会社の活動がより高い価値に奉仕するように使われるべきかどうかの決定は、個々の株主の決議にゆだねるというやり方が、会社の無軌奔放にして政治的に危険な権力の獲得を抑える最も重要な防護手段であるということである。(p.91)
「労働者」の利害については、もう少し長く考えてみる必要がある。それは労働者一般の利害の問題ではなくて、特定の会社の被用者の特殊な利害問題であることが明瞭になると、会社がそのやとう特定の閉鎖的グループの人々の利益のみを主として行動するということは、「社会」の利益のため、いな労働者一般の利益のためでさえないことが、はっきりしてくるのである。従業員を出来るだけガッチリと会社に結びつけるのは会社の利益であるが、この方向への傾きは重大な関心の基礎を与えている。被用者のうえに増大する権力―その権力に対しては、個人がその職を変える容易さ以外に保護手段はありえないのである―を会社がもつということは、労働者が雇用された特定の会社にますます依存することになるのである。会社というものは、おもに共通の経験と伝統を持った一群の人々のいだく目的のために雇われた一団の人々によって指揮され、運営される物的資源の蓄積を発揮させていくものであり、また会社は独自の人間個性を発展させていくものでさえあるということは、重要かつ不可避な事実なのである。(p.92)
それにもかかわらず、自由組織では(すなわち自由労働の組織では)、会社は主として物的な資産の集合体とみなされることが、資源の効率的な使用の点から必要である。会社は、その経営者が自由に他の目的に振り向けうる人々の集合ではなく、彼らはただ会社の仕事を最善に行なうための手段に過ぎないのである。しかし、他面人々は、その勢力をもっともよく使うのに特定の会社で行なう方の場所で行なうかの自由を決定する最後のよりどころを自ら残しておかねばならないのである。(p.93)
したがってある特定の使用が「社会の利益」になるかどうかの問題には、直接の関心がないということである。このことは分業に基礎をおく制度の下では、必要かつ正しいことであると信ずる。それとともに、最も生産的な用途に向ける目的のために集められた資産の集合が、一般社会に好ましいと思われる支出のための適当な資源であるとは思われないのである。かかる支出は個人の自発的な支払いによって、その所得または資本から支出されるか、または課税によって徴収された資金から出されるべきものである。(p.95)
会社の支出の正しい対象とみなされるようなかかる目的の範囲は、非常に広いのである。すなわち政治的、慈善的、教育的なもの、いな事実は社会的という漠然としてほとんど意味のない言葉の関しうるものすべてなのである。(p.95)
厳密な意味において、被信託者はその被信託者たる本質上持っていないのと同じように、会社はそれ自身の所得などもってはいないのである。経営者がひとつの目的のために大きな資源をゆだねられているということは、それらを他の目的に使ってもよいことを意味していないのである。
(p.96)
経営者はその擁する全資本をもっとも有効な用途に使うというやり方で経営を行なわねばならないということ、また一般公衆が、法律のことを保証するように作られるものだという印象をはっきり持つことである。(p.104)
結論として次のことを繰り返しておこう。上述の変化の主なる取柄は、その変化によって現在以上に有効に経営者を唯一の仕事
−すなわち株主の資本をもっとも有利なやり方で運用するという仕事−に結び付けようとするということ、またなにか「公的な利益」の奉仕に使う経営者の権力をその変化によって奪い去るということであろう。(p.105)
しかし短期では、その効果は責任のない権力を増すことになろうが、長期の場合には、その効果として必ず国家権力による会社統制の増大と言うことになるのである。会社は特殊な「公的利益」に奉仕するよう仕向けられるべしと言うことが受け入れられれば受け入れられるほど、政府は公的利益の名指しされた守護者として会社にそのなすべきことを教える権力を持つべきだという主張がますます説得的となるのである。[しかし]それ自身の判断に従ってよいことをする政府の権能は、必ずや一時的段階のことに過ぎないのである。長期利潤の最大収益をうるという唯一の目的に会社の資源を使うことによって、会社はもっともよく公共の利益に奉仕するということを信じないならば、自由企業体制は崩壊しよう。(p.106)
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