うまなり 経営倫理教育

ケースメソッド(事例教育法)

ケースメソッドの特徴(安藤 2008,p.77)

年表

1870 ラングデル(C. C. Langdell)が、ハーバード・ロースクールに招かれて、判例を教材として講義(ケース・システム)を行う。ケース・メソッドの始まり(村本 1982,p.2)
1908 ハーバード・ロースクールから独立したビジネス・スクールが、商法の授業でロースクールがすで採用していた判例研究を導入する→一部の留まる。(安藤 2008,p.77)
1908ハーバード・ビジネス・スクールの最初のカタログに初代校長ゲイ(Edwin Francis Gay)が、「プロブレム・メソッド」の導入を予告する(マクネラー編 1954=1977, p.37)。専門経営管理職の養成を目的として、ハーバード・ビジネス・スクールが設立される。School of Business Administhationを冠する最初の学校となる。初年度入学者58名、内42名はハーバード・カレッジ卒業生(村本 1982,p.5)(佐藤編 1968,pp.37-38)
1908A.W.ショウの支援により、ハーバード経営研究所設立(マクネラー編 1954=1977, p.38)
1919ゲイ校長退任。後任にウォーレスB.ドーナム(ダンハム)が就任。ドーナムは、コープランド教授に事例の作成を依頼する。(安藤 2008,p.77)(マクネラー編 1954=1977, 序文ⅳ)
1931エクシ・E・フレイザー編著『ケース・メソッドによる教育』刊行(マクネラー編 1954=1977 編集者序文)
195レスリスバーガーが感受性訓練の方法としてケース・メソッドを利用する。ケース・メソッドを人間同士の葛藤を参加者間に実際に起こさせ、人間の感情を学ばせることを目的とする(安藤 2008,p.77)
1952ケース・メソッドが国内で初めて行われる。(佐藤編 1968, p.30)人事院・国鉄でハーバード方式の研究を進め、ハーバードからハンセン氏を招へいしてセミナーを開く。
1953人事院が『JST指導研究会議資料』上梓。この中で事例集を作成する。また国鉄でも同様の出版物を刊行する。(佐藤編 1968, p.30)
1958佐藤三郎がスリランカで感受性訓練のワークショップに参加する。(安藤 2008,p.78; 佐藤編 1968, p.11)
1959日本生産性本部と経営セミナーとの主催で、国内初のケース・メソッドが行われる。(佐藤編 1968, p.30)
1960佐藤三郎が神戸高校で日本赤十字社主催の高校生リーダー訓練でケースメソッド教育を行う。以後、看護教育にケースメソッドが引き継がれる。(安藤 2008,p.78)
1962慶應義塾大学商学部がケース・メソッドを採用する(安藤 2008,p.77)
1963学校教育関係者にはじめて事例法が紹介される。日本赤十字社青少年課発行『事例法・事例集』(佐藤編 1968,p.25)
1964佐藤三郎が月刊誌『総合教育技術』(小学館)に「新しい話し合いの持ち方」発表する。日本教育学会機関誌『教育学研究』に「学校教育技法としての事例法」を掲載する。(佐藤編,1968,p.25)
1965「事例法による創造性の訓練」(佐藤三郎『授業研究』8月号)。(佐藤編 1968,p.25)
1967ハーバード大学ハンセン・セミナー(安藤 2008,p.77)
1968人事院JST指導者研究会資料に「事例集」として紹介される。→ケース・メソッドを「事例研究」と翻訳する。(安藤 2008,p.77)
1969佐藤三郎『人間関係の教授法』刊行。

文献・資料

  • ◆安藤輝次(2008)「学校ケースメソッドの理論」奈良教育大学教育学部附属教育実践総合センター『教育実践総合センター研究紀要』17, 75-84
  • ◆Barnes, Louis B. , C. Roland Christensen, and Abby J. Hansen. (1994).
  • Teaching and the Case Method: Text, Case, and Readings. Harvan Business School Press. (= 1997 髙木晴夫 監訳『ケースメソッド実践原理』ダイヤモンド社)
  • ◆Barnes, Louis B., and C. Roland Christensen. (1997).
  • Teaching and the Case Method: Text, Case, and Readings Third Edition. Boston: Harvan Business School Press. (= 2010 髙木晴夫 監訳『ケース・メソッド教授法――世界のビジネス・スクールで採用されている』ダイヤモンド社)
  • ◆井上 正治(1956)「ラングディル――ケースメソッドの創始者として」『判例時報』 (86), 2309-2313
  • ◆井上 正治(1956)「ケース・メソッド」『判例時報』 (90), 2421-2425
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  • ◆樋口又男(1965)『事例研究の方法と展開』日刊工業新聞社
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  • ◆加藤一郎(1963)「ケイス・メソッド論 上」  『ジュリスト』287,46-51
  • ◆加藤一郎(1963)「ケイス・メソッド論 下」  『ジュリスト』288,42-48
  • ◆加藤尚文(1960)『労務管理』三一書房
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  • ◆清宮政宏(2008)「ケース・メソッド方式での企業経営教育におけるミニ・ケース使用の効果と限界,そして今後への課題について」滋賀大学経済学会『彦根論叢』370 pp. 123-141
  • ◆三石誠司(2006)「意思決定と拡散思考――ケース・メソッドで学べるもの『宮城大学食産業学部紀要』1(1),75-81
  • ◆百海正一(2002)「ケース・メソッド教育」『商経論叢』 38(1), 71-111
  • ◆百海正一(2000)「<研究ノート>経営学における教授法の改善――ケース・メソッド教育を中心に」『商経論叢』 36(2), 51-111
  • ◆百海正一(2009)『ケースメソッドによる学習』学文社
  • ◆石田英夫、星野裕志、大久保隆弘 編(2007)『ケース・メソッド入門 ケースブックⅠ』慶應義塾大学出版会
  • ◆村本芳郎(1974)「ケース・メソッドの原理と経営学(経営国際化の諸問題)」『經營學論集』 44, 231-237
  • ◆村本芳郎(1982)『ケースメソッド経営教育論 文眞堂現代経営学選書5』文眞堂
  • ◆McNair, P. Malcolm. (Ed). (1954).
  • The Case Method At The Marvard Business School. McGraw-Hill Book Company, Inc. (= 1977 慶應義塾大学ビジネススクール 訳『ケース・メソッドの理論と実際』東洋経済新報社)
  • ◆ミラー・スタンリー・S , 小林 規威(1961)「経営者教育におけるケース・メソード」『三田商学研究』 4(4), 52-68
  • ◆中村秋生(2005)「経営技能の育成とケース・メソッド」『共栄大学研究論集』 3, 17-36
  • ◆西尾範博(2005)「効果的なケース・ディスカッションに関する一考察――ゲームマッピングを中心に」『流通科学大学教育高度化推進センター紀要』2号、
  • ◆西尾範博(2008)「ケース・メソッド授業研究――受容の視点からの考察」『流通科学大学教育高度化推進センター紀要』 4, 31-46,
  • ◆小高泰雄(1961)「財務管理教育のケース・メソッドについて」『産業經理』21(10), 44-48
  • ◆岡田加奈子、竹鼻ゆかり、磯邊聡ほか(2010)「教員研修におけるケースメソッド教育の直後評価--研修受講者350名を対象とした質問紙調査」『千葉大学教育学部研究紀要』58, 203-210
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  • ◆坂井正廣、吉田優治監修、ケース・メソッド研究会(1997)『創造するマネージャー――ケース・メソッド学習法』白桃書房
  • ◆坂井正廣、村本芳郎編(1993)『ケース・メソッドに学ぶ経営の基礎』白桃書房
  • ◆坂井正廣(1996)『経営学教育の理論と実践』文眞堂
  • ◆坂井正廣、吉田優治 (1997)「ケース・メソッドにおける古典と現代」『青山経営論集』 31(4), 95-122.
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  • ◆佐藤三郎(1964)「学校教育技術としての事例法」『教育学研究』31(4),11-20
  • ◆佐藤三郎 編(1969)『人間関係の教授法』明治図書
  • ◆佐野享子(2003)「学院における高度専門職業人養成のための経営教育の授業法に関する実証的研究――ケース・メソッド授業がめざす経営能力の育成とその方法に焦点を当てて」『大学研究』 (26), 93-116
  • ◆佐野享子(2005)「職業人を対象としたケース・メソッド授業における学習過程の理念モデル――D.コルブの経験学習論を手がかりとして」『筑波大学教育学系論集』29,39-51
  • ◆佐野享子(2005)「ケース・メソッド授業における教師・学生間の相互作用に関する一考察―― ビジネス・スクールにおける討論授業での教師の発話に焦点をあてて」『京都大学高等教育研究』11, 1-11
  • ◆佐野享子(2007)「ケースメソッド授業の展開における教師の発話の機能――経営教育における教授方略上の意味を探る手がかりとして」『筑波大学教育学系論集 』31, 1-13
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  • ◆椙山正弘(1990)「大学教授法としてのケース・メソッド研究」『大学論集』19, 235-252
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  • ◆竹村正明(2002)「ケースメソッド――思考プロセスの事前経験」『彦根論叢』334
  • ◆髙木晴夫(2001)「ケースメソッドによる討議授業のやり方」『経営行動科学』14(3)161-167
  • ◆髙木晴夫、竹内伸一(2006)『実践!日本型ケースメソッド教育』ダイヤモンド社
  • ◆髙木晴夫、加藤尚子(2003)「経営能力の育成に向けて――ケースメソッドの果たす役割とその教育方法」『経営情報学会誌』 12(1), 79-84
  • ◆髙木晴夫 監修(2004)『ビジネススクール・テキスト 人的資源マネジメント戦略』有斐閣
  • ◆髙木晴夫 監修(2005)『ケースメソッド授業への招待状――MBAホルダーが就職先で直面した問題:ケース「ベンチャー電子工業株式会社』(DVD)慶應義塾大学大学院経営管理研究
  • ◆髙木晴夫・竹内伸一(2010)『ケースメソッド教授法入門――理論・技術・演習・ココロ』慶應義塾大学出版会
  • ◆高宮晋(1956)「米国におけるケース・メソッドとケース・スタディー」『ビジネスレビュー』 4(2), 1-27
  • ◆高宮晋・高橋吉之助(1960)「対談 会計研究室 経営者教育とケース・メソッド」『産業經理』 20(10), 172-165
  • ◆竹内弘高(1988)「ケース・メソッドを考える――ハーバードと一橋での経験から」『一橋論叢』 99(4), 455-472
  • ◆竹内伸一(2013)「ケースメソッド教育の実践を支える組織的サポートに関する研究――ハーバード・ビジネス・スクールと慶應義塾大学ビジネス・スクールの事例から」『広島大学大学院教育学研究科紀要第三部』 62,69-78
  • ◆田村修一(2012)「ケースメソッドが教職志望者の「チーム援助志向性」に及ぼす効果」『北里大学一般教育紀要』17, 133-149
  • ◆梅津光弘(2007)「経営倫理教育におけるケース・メソッドの方法と意味(統一論題 経営倫理と教育)」『日本経営倫理学会誌』 (14), 5-13
  • ◆Ewing, W. David. (1990).
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  • ◆山本 純一(1984)「事例教育法(ケ-ス・メソッド)の実践的研究」『甲南経営研究』 24(3), 1-31
  • ◆Yin、R.K. (2003). Case Study Research (3rd Ed.). SAGE Publication Sudzina, (=1996 近藤公彦訳『ケース・スタディの方法』千倉書房)

議論

◆安藤輝次(2008)「学校ケースメソッドの理論」奈良教育大学教育学部附属教育実践総合センター『教育実践総合センター研究紀要』17, 75-84

1970年代 青山学院大学経営学部 坂井正廣

「ケース・スタディとは、厳密にはプロジェクト・スタディというべきものであって、仮説に基づきなされる調査研究であり、現実の経営から資料を収集し>p.77>、それらを分析し、その結果によって仮説を検証したり、あるいは変更したりして新しい仮説をたて、さらに新しい調査研究を行ったりする研究方法であって、それによって経営現象の因果関係が明らかにされたり、新しい理論が生まれたりする」(pp.76-77)
「ケース・メソッドの場合、そこで言うケースは、リサーチ・ケースではなく、ティーチング・ケースと呼ばれ、教育を目的とし、教材として開発されたケースである。したがって、ケース・メソッドとは、現実の経営現象から可能な限り、生の情報を収集し、教材として提示し、そのような教材としてのケースを基礎として討論中心として行われる教授法・学習法を言うのである」(p.77)

 このように現代の学校ケースメソッドは、佐藤三郎氏が四半世紀以上前に紹介したような感受性訓練に価値を見出し、道徳の授業や保護者間や教員間の相互理解を促すような人間関係の改善策に留まらず、教育学の幅広い分野で使われるになってきた。それは、かつてシュールマンがケースメソッドの目的として特徴づけた次の5点を反映したものであると言えよう。
「ケース及びケースメソッドは、次の事柄を教えるために用いる。
1 一つの理論的性格を備えた原理や概念
2 実践に対する先例
3 道徳や倫理
4 方略、傾性、知力の習慣
5 将来起こりうる事柄の見通しやイメージ
 加えて、ケースは、次のように捉えることができる。
① 学習の動機付けを生み出したり、高めたりする
② ケースを書くと、その人は、ケースの書き手や批評として独特な何か得るものがある
③ 原理の学習からまたは以前学んだケースから過度に>79>に一般化してしまわないようにするための解毒剤を投与する
④ 参加者たちが討論や話し合いのためのコミュニティーを形成する教材として役立つ」(pp.78-79)

 ケースメソッドの目的は、2に示すように、将来の教育実践のための先例として活かし、問題に遭遇した際に起こりうる状況について4の方略等を使って、5のように、想像力を働かせることに役立つこともあるが、その主眼は1の理論や基本的な概念を用いながら、「何が問題か」ということを見極める力をつけるものである。また、ケースメソッドは、教育学という柔軟な学問的構造の中で“理論と実践の橋渡し”として役立つということである。
 ただし、サディナがケースメソッドには「どんな正解もない。答えは他との関係によって変わってくる」と誤解されたことが普及の妨げとなっていると指摘し、ケースメソッドではよりよい答えを見出すことができるとその効用を述べているが、この理解が十分なされていないことがケースメソッド導入に際しての最大の課題であろうと思われる。
 シュールマンは、ケースメソッドをやっていくと、ケースの中で教師がいかに考え、行動するのかということを皆で検討する過程での道徳や倫理感を見直し、養うこともできるとも言う。確かに、教員養成や現職の教員研修であれば、特定の徳目を講義式に説明されて、「なるほど」と納得して簡単に受け人れる人は少ないだろうが、それが特定の問題場面をめぐる参加者たちの討論を通じた学習の共同体(learning community)>80>の中では学びやすいように思う。
(中略)

 したがって、教育学の理論だけでなく道徳や倫理感なども、直接教えるよりむしろ具体的な場面で「ああでもない、こうでもない」と悩み、他者と問題を共有し、話し合いながら、自らを振り返るというケースメソッドによる間接的な教え方のほうが有効であるということである。だから、ケースメソッドが専門職大学院等で歓迎され、長年にわたって採用されてきたのである。
 特に、学校ケースメソッドを適用した場合、アメリ力の教員養成課程の学生は、教育実習に行っても複数の見方をすることが少なく、自分の考えの根拠付けも苦手で、一つの問題について一つの解答しか考えることができないこと、大学院博士課程で学ぶ管理職の大学院生を見ていると、「問題提起の際に、複数の見方からその争点を見ることができないし、単に個人的意見に頼るか、あるいは、その問題の学校内の力関係という政治的側面からしか分析しない」傾向があると言う。その点では、わが国でも同様であって、佐藤氏が言うように、「もともと教師というものは、知性もあり、良心的で善意の人間であるが、学校という組織の中では、前にも言ったように、自分の教科や学級にとじこもり、相互のチームワークや相互批判の研修の機会にも欠け、また一面、事大主義的で権威に迎合し易い欠陥をもっている。しかも、教えることに馴れて、自ら学ぶことから遠ざかり、自己変容に抵抗する。」ということは今もなお変わっていないように思う。このような問題点を解消するために、教育実習生を経た学生を含めて、現職前は現職中の研修方法として学校ケースメソッドの活用が有効ではないかということである。(p.80)

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◆岡田加奈子、竹鼻ゆかり、磯邊聡ほか(2010)「教員研修におけるケースメソッド教育の直後評価――研修受講者350名を対象とした質問紙調査」『千葉大学教育学部研究紀要』58, 203-210

 (前略)本来PBLは、具体的な状況を利用して、学ぶ必要がある学習内容を修得することに焦点が当てられており、獲得した新しい知識と問題解決のスキルをすぐに活用できるようになることを主たる目的としている。一方、ケースメソッド教育は、討論によって導かれる問題解決に至るまでの思考過程が重要であり、判断力や意思決定力を高めることが主たるねらいであるため、PBLとは、最終的な教育目的が異なるといえる。(p.204)

 アメリカでは、この講師の役割をディスカッションリーダーと呼び、積極的なイニシアチィブをとる方向であるが、日本では討論に慣れていないことから自由に思ったことを発言できる環境を設けることが重要だと言われ、我々もチューターと呼んでいる。(p.208)

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◆田村修一(2012)「ケースメソッドが教職志望者の「チーム援助志向性」に及ぼす効果」『北里大学一般教育紀要』17, 133-149

 これまで筆者らは、「チーム援助」実践のカギを握ると考えられる教師の「被援助志向性(他者に援助を求める態度)」の重要性に着目してきた。そして、①教師の「被援助志向性」尺度の開発と概念の検討、②教師の「被援助志向性」と適応の関係、③教師の「被援助志向性」の規定要員を検討し、教師の「被援助志向性」に関するいくつかの知見を得た。これらの一連の研究は、児童・生徒に対する指向・援助場面での教師の「他者に援助を求める態度」を検討したものであり、「チーム援助」研究の基礎研究としての意義があったと考えている。しかしながら「チーム援助」そのものに対する指向性を検討した研究ではなかった。そこで本研究では、チーム援助志向性」そのものに焦点を当てる。本研究では、「児童・生徒の問題を解決するために、教職員が援助チームを形成し、連携と協働を基盤として効果的な指導・援助を行おうとする態度」のことを「チーム援助志向性」と定義する。(p.134)

 ケースメソッドの長所として岡田ら(2011)は、①「身近で具体的なケースにより、参加者の興味を引き出す」、②「具体的に討論することにより、実践場面でのイメージが膨らみ、討議形式よりも具体的理解が深まる」、③「学習事項を実践に応用する技能を育成でき>p.135>る」、④「他の参加者の多様な価値観により啓発される」などの優れた教育効果を報告している。(pp.134-135)

この結果は、本研究で実施した「ケースメソッド」が、①教育現場の実態をイメージしやすくさせ、②児童・生徒の現状を正しく認識させることに貢献し、③それらの問題の解決のためには「チーム」で指導・援助することが有効であることの理解を深めた可能性が考えられる。加えて、全体討議後の授業者の補足説明や現職教員の成功した指導・援助事例の紹介が「モデル」の役割を果たし、今後の「効果の予測」や「実践意欲」の向上につながった可能性が高いと考えられる。このことから、教職課程科目で「ケースメソッド」を導入した介入授業は、教職志望者の「チーム援助志向性」の向上に一定の効果を及ぼしたと判断できる。(p.146)

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◆西尾範博(2008)「ケース・メソッド授業研究――受容の視点からの考察」『流通科学大学教育高度化推進センター紀要』 4, 31-46,

 ケース・メソッド授業の実践と研究を進めるうちに、ケース・メソッド授業に慣れていない学生を対象にケース・メソッド授業を効果的に行うには、まず教員や学生が文化の転換、そしてパラダイムの転換を理解する必要があること、そしてこれらの転換なくしてケース・メソッド授業による教育効果を期待することは難しいと結論付けるに至った。これは、従来のケース・メソッド研究において積極的に取り上げられてこなかった点である。従来の研究においては、そのほとんどが方法論的特徴に焦点が当てられ、ケース・メソッド授業が目指すもの、ディスカッションの進め方、教員の役割、学生に求められることなどが主に取り上げられてきた。(p.32)

 ケース・メソッド授業では、そもそも文化やパラダイムが全く異なり、過程志向である。それは、教員が講義して学生はそれを聞きノートテイクするという講義方式とは対照的に、教員がディスカッション・リーダーあるいはファシリテ一ターとなって学生中心に議論がなされディス力ッションが展開される、といった授業形態上の相違にとどまらない。過程志向を具体的に示すのが、後に詳述するように、「正解なし、結論なし」という原則である。ケース・メソッド授業に初めて出席した学生から「正解は何か」「答えがないからすっきりしない」「結局、何が結論なのかが分からないから、ディスカッションして何が得られるのだろうかと違和感を持った」といったコメントがしばしば聞かれる。それらは結果志向という文化から生まれるものである。むしろ、正解もなく結論もないから、正しいか否か、何が正しいか、何が結論かなどの結果志向の必要がなくなり、ディスカッションそのものに没頭し、享受することができる。「意見の相違は論争になるのでなく、さらなる探求を生み出す」といわれているように、意見の相違も、対立を起こすとか、どちらかが優れているかをたたかわせるものではなく、さらなる探求の契機となって、議論の深まり、広がりへとつながっていく。また、もう一つの原則、すなわち「ケースに基づいたすべての発言を尊重し、全員が耳を傾け、そのあとを誰かが続ける」ことも過程志向である。学生全員で力を合わせ、さまざまな観点や発想、捉え方を出しあい、共有し、創造的な思考を行うことを可能にする。ケース・メソッド授業にみられる過程志向の文化がもつパラダイムはwin-winである。誰かが優秀なのではない。誰かが勝者なのでもない。強いていえば全員で力を合わせて全員が優秀、あるいは勝者となる。(p.33)

 「受容」(acceptance)とは、一般に、二つの意味で用いられる。一つは、「評価や判断を加えず、そのまま受け取ろうとする(多くは「あいづち」の形で示される)応答技法」である。いま一つは、受容的な態度や姿勢の意味で用いられ、それは無条件の肯定的尊重(関心)とほぼ同じ意味である。これは、話し手がどのような思いや感情の表明を行おうとも、聞き手には話し手とは異なる思いなり感情があるものだが、たとえ聞き手にはそう思えないことであっても現に目の前の話し手はそう思っている、感じているのであるから、聞き手にはどのように思えようとも、それはそれとして、話し手の思いなり感情なりをそのまま尊重し、肯定的に関心を払おうとするものである。別の表現をするならば「同じ方向をみること」でもある。聞き手にはどのようにみえようとも、話し手がみているのと同じ方向を聞き手がみて、話し手の目に映っている世界、状況を話し手がみているように理解しようとすることである。(p.37)

 しかしながら、自身の発言に「耳を傾けてもらえた」という経験がその重労働を厭わずにしようという行動に向かわせる。「耳を傾けてもらえた」「理解してもらえた」ことにより、心理学でいわれるところの3つの効果が得られるからである。すなわち、聞いてもらってすっきりした(カタルシス効果)、聞いてくれる仲間が得られた(バディ効果)、話しているうちに自身が気づいていなかったこと、例えば考えや別の観点や発想、捉え方に気づく(アウェアネス効果)といった効果である。(p.40)

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◆McNair, P. Malcolm. (Ed). (1954). The Case Method At The Marvard Business School. McGraw-Hill Book Company, Inc. (= 1977 慶應義塾大学ビジネススクール 訳『ケース・メソッドの理論と実際』東洋経済新報社)

目次
1 ケース・メソッドへの導入
2 叡智は教えられぬがゆえに
3 硬い心とケース・メソッド
4 経営教育におけるケース・メソッドの生成
5 ケースの実例(教授要項付)
  Ⅰ マーケティングのケース
  Ⅱ プロダクションのケース
  Ⅲ コントロールのケース
  Ⅳ 経済問題に関する広範なケース
6 最近の卒業生の目から見たケース・メソッド
  Ⅰ ケース・メソッドとは何か
  Ⅱ ケース・メソッドによる学生の成長
  Ⅲ ケース・メソッドの価値と限界
  Ⅳ ケース・メソッドの基本的特徴
7 ケース・メソッドを用いる場合の教師の役割
8 教室におけるケースの用い方
9 ケース分析レポート
10 管理者および監督者の育成とケース・メソッド
11 ビジネス・ケースの作成

 このようにケース・メソッドが経営上の意思決定のプロセスを重視することによって、さまざまな社会諸科学について必要とされる統合化を必然的に要請するという点は、ケース・メソッドの持つ大きな利点の1つである。ケース・メソッドでは、学生はビジネスマンの立場に立たされる。実際のビジネスマンは行動しなければならず、行動するまえに、様々な事柄についてその生活上短期および長期の双方の観点から考慮し、彼の問題に関連あることがらに互いにウェイト付けしなければならず、しかもいかなる場合にあっても1つの意思決定を下してそれを実施しなければならない。教室におけるケース・メソッドの著しい特徴は、このような利点および欠点の分析によるウェイトづけ、および1つの確定的な決定に到達する責任が大幅に学生自身に課せられているという点にある(ⅶ)

 
1 ケース・メソッドへの導入

 そして、もしケースによる授業が100%完全に行われるならば、ケース教育はすべて、事実の修得ではなく、思考の力を養成することこそが、我々の教育上の最終的な理想であるとする、理論の現実的な適用以外の何ものでもないということになる(p.4)。

 しかし、ケースには次のような素晴らしい価値がある。すなわち、ケースには、現時点において経営者が直面しているのとまったく類似した種類の問題が盛り込まれているのである。彼がどれだけ確信をもって問題を考え、理性的な回答を見つけることができるのかは、彼の個人的な成功、そして我が国の経済的繁栄への貢献度を決定するであろう。この2つは、いずれも確立された先例の把握や、他人の体験に対する無批判な追従のみをもってしたのでは、到底実現することのできない効果である。(p.5)

 ともかく、ケース・メソッドによる教育を通じて、教師が実現したいと希望するところのすべては、それを次のように要約することができる。第1に、現代の経営問題にまつわるほとんど無限に近い複雑さの認識を育てることである。第2に、確定した明確な回答を発見することの希望がもてない事実を学生の頭にたたき込むことである。そして第3には、――ちょうどヘーゲル学派の弁証法のいうように――このジレンマを注意深く論理づけられてはいるが、結局のところ常識的な行動により解決させることである。通常、複雑な経営の問題は、最も単純で、最も積極的であり、しかも最も長期的な見通しに立つ対策によって、最善の解決に導かれるのである。結果を求めるのにあまりに急であること言うことは、経営教育におけるのと同様、経営においても最大の危険性をはらんでいる。(p.5)

 

 2 叡智は教えられぬがゆえに

 つまり学生には、非難の対象とすべき仮説や一般理論は与えられないのである。その代わりに彼らには、実際に意志決定の資料となるもので、かつ実際的で有益な結論を導き出すことのできる原資料となるものが与えられているのである。こうした有意義な機会を学生に与えられることは、企業経営の本質に照らしてはなはだ意味深いものである。企業経営はテクニカルな問題ではなく、人間の問題である。(p.10)

 学生はグループ全体を理解に到達させる努力に貢献できるし、またそのような貢献を期待されてもいるという自信をケース・メソッドにおいては学生に与える。そのこと自体が、ケース方式に対する努力を強く促すものである。グループ全員を同じケースの状況に置くことによって、当然アイディアを提供したり受け入れたりする練習の場を学生に提供しているのである。要するに相互の真のコミュニケーションが成立するのである。(p.11)

 大学院に進学する多数の学生は、この受講者の役割に慣れ切ってしまっているのである。しかし、自分の責任において実際的な行動をとらねばならな>12>くなる時期は、いずれ必ず若い人々にも迫ってくる。強いていえば子供として親や教師に対する依存の状態から、頼りになる自立独立の状態へのこの転換を実現させるための時間は、プロフェッショナル・スクールの学生に多く与えられないのが現状であって、ハーバード・ビジネス・スクールでは、2年間がこれに当てられているのである。(pp.11-12)

 さらに、ビジネス・スクールへの入学を考慮する青年には通常、直接ただちにビジネスの世界に飛び込む別途が開けているのであるから、ビジネス・スクールでは、学生が同じ時期にビジネスの実務経験で成就しうること以上のものを与えねばならない。フォーマルなプロフェッショナル・エデュケーション(専門職業教育)は、必然的に、責任を伴う実際行動を開始する時期を延期させる。にもかかわらず、専門職業教育の目的はあくまで責任ある立場における、分別ある行動力を学生に育成させることにある。専門職業教育の過程を卒業する青年には、フォーマルな訓練を経ずして実務生活に入った青年と比較した場合に、後者よりも分別ある判断を下すこと、あるいは思慮のある判断をより早期に発揮することが期待されるのである。(p.13)

 他人の洞察や知識を効果的に駆使することはできない。自らが役立てるのは自分自身の洞察であり知識でなければならない。(中略)その上で、もし彼が当方の味方に賛成であれば、そこではじめて、当方の忠告にもとづいてということでなく、彼自身の心が向くままに当方の示唆した行動をとることができるようになるのである。ケースメソッドの持つ最も顕著な長所は、学生が現実的な条件のもとで行動を開始するようにしむけることである。つまり、ケース・メソッドは、彼らを消極的な吸収者の役割から引き出して、学習の協同努力におけるパートナーにしたてる点である(pp.15-16)
 ケース・メソッドによる教育は、独断的あるいは家長的ともいうべき講義方式による教育と比較すれば、民主的と呼べるであろう。ケース・メソッドにおいては、教師と学生から成るアカデミック・グループの全員が同一の基本資料を手にし、その資料を使って分析が行われ、意思決定がなされるのである。したがって、ここでは各人が、ビジネスの実践と方針決定とを左右する諸原則の樹立にまったく平等な立場から寄与できる機会に恵まれているのである。(p.16)

 クラスのデモクラシーの重要な一面は、新しい人間関係が作られることにある。ここでは、最早、一方に教師があり、他方に一団の学生がいるという関係は存在しない。学生たちの注目の的は、教師から同僚に移されるのである。(・・・)個人1人1人は平等な立場にあると同時に互いに競争相手なのである。こうしてクラスの内外を通じた強いギブ・アンド・テイクの絆が提供されるのである。(p.17)

 ある時、ウインストン・チャーチルが述べたと伝えられるごとく、貴重な軍艦数隻の運命にかかわる命令の責任を負うことと、そうした責任は負わずに意見のみを述べることとの相違は絶大である。実際の経験そのもの以外の何かから、経験と同一の結果を期待するのは無理である。
 にもかかわらず、学生に比較的無責任な言動を許す訓練期間には大きな利点がある。まじめな学生は、自分や自分の社会をリスクにさらすことなしに、責任ある意志決定に欠くことのできない背景を修得するのである。自分で経験しようとすれば、少なくとも一生はかかるであろうと思われる膨大な数の種々の連ある現実の諸状況を積極的に考慮するよう、学生は指導を受けるのであり、またそのようにして彼がビジネス活動を本職にする時期が来たときのために、比較と分析の基礎を与えられるのである。(p.20)

 

3「硬い心とケースメソッド」

 そしてこれこそわれわれがあなた達に対して、教科書と講義方式という安易な方法ではなく、ケース・メソッドという困難な方法を採ることに要請する理由である。われわれは、あなた達が自ら様々な事実を掘り出すことを期待している。それは真の教育は受講者の心を引き出す1つのプロセスであって、教師の考えをつぎ込むことではないからである。その価値は、あなた達が掘り出すであろう様々な事実の中にあるのではなく、あなた達がそれらを掘り出す作業によって開発するだろう力の中にある。このビジネス・スクールで、あなた達は書物の最後には何も解答が与えられていないことに気付くであろう。(p.33)

 もしあなた達がそうしていると考えているのであれば、おそらく、あなた達は過度に安全を見込んで行動していると言うことであろう。あなた達の目的は、「リスクの回避」であってはならず、「リスクの知的な管理」でなければならない。(強調原文どおり)
 今日、かつて見られぬほど、アメリカ企業が強く必要としているのは、より多く――より少なくではない――リスクを敢然として冒す態度である。(p.36)

 このような意思決定における制約条件や困難は、学生の胸にドキンとくるような反応を引き起こすのである。(…中略)これによって学生は、彼のまだ知らないことがまだまだたくさんあるのだと言うこと、また一足跳びの結論やシャドー・ボクシングにも似た理論的な分析では問題を明確化したり、真の問題を解決したりすることにはならないのだということを、学び取ることができるのである。(p.110)

 こうしてある段階までくると、彼は、それまでの個人作業やグループ作業、ケース分析レポートやクラスでの討議などを通じて、自分の個人的性格を見抜く力を持つようになる。彼は、自分の見解、印象、反応、態度、偏見などを他人の前に露呈し、それが周りの人間によって時には補強されたり時には拒絶されたりするのを目の当たりに見ることによって、自分自身の特性やパーソナリティを再評価する機会を持つのである。先入観とか身についた態度とかが、現実の雰囲気の中でもまれ、有効性という点からチェックされ、そのあり>111>のままの姿を自分自身で見ることができるのである。(pp.110-111)

6「最近の卒業生の目から見たケース・メソッド」

 ケース・メソッドは、それ故、ビジネス教育としては他に見られない長所を有している。ケース・メソッドは学生に現実的なビジネスの諸問題を与えるから、実際的な方法で分析能力を高めることができる。高度に複雑な諸問題を含んだ多種多様なケースを研究することになるから、学生は熟達し、視野を広め、ビジネスの本来的性格を理解できることになる。ケース・メソッドは学生の関心を深め、自然に疑問を生じさせ、そして学生の多大な知的活動を要求するものであるから、進歩の度合いは際だって早い。
 ケース・メソッドの長所が大きいとはいえ、その限界を知っておくことも必要である。確かにケース・メソッドは現時通主義的な方法ではあるが、現実その>119>ものと同一視することはできない。ケースの制作者は学生のために、すでに事実の選択を行っているのであって、ビジネスの世界に生きている人々の生活を構成している、日常の細かな仕事の連続体の中に見られる諸々の事実や関係について学生が知りうることはほとんどない。印刷媒体を教材にしているのであるから、微妙な、重要ではあるが文字には表せない個人の性格や行動は欠落している。(pp.118-119)

 ケース・メソッドは、学生があらゆる事実と知識とを自分の判断の下で効果的に統合する能力を身につけていくのを助ける。問題にたいするきびしい態度が生まれ、その結果、学生は自分の持っている一般的地域から、有用な事実や理論を選択し、直面する特定状況にそれらをいかに応用するかを学ぶようになる。このようなきびしい態度はまた学生が経済発展の可能なインパクトを評価するよう訓練し、それによって変化への適応を円滑にする。(p.124)

 これまで述べたことは、学生の立場から私が考えたケース・メソッドの利点である。ただしケース・メソッドは弱点もある。第①に、ケースによる経営管理スキルの開発度合いは遅く、学生教師共に、特にケースを始めて数ヶ月の頃はちぐはぐな感じをもつ。学生がケース・メソッドに始めて接し、支持されたケース・メソッドの下で立場と責任の変化を理解しようと努める場合はことさらその傾向が強い。
 第2に、経営管理の教育として使われるケース・メソッドは、熟達と同時に事実に関する基本知識、つまり責任を持つ範囲の広さを前提とする。もし結果が現実的に求められるものなら、当然、若すぎる学生にはこの方法は向かない。(p.124)

 おそらくケースを学ぶ学生にとって、最も必要かつ重要な能力は、行動力と行動に対する責任感であろう。この責任を果たすということは、ケース・メソッドの場合、容易なことではない。なぜなら、ビジネスの世界と同様に、学生は自分の意思決定の基準となるデータのすべてを入手することなしに、行動を起こさなければならないからである。たとえ理想的な状況の下では意思決定のための時間がもっと多くあり、利用できるデータももっと豊富であると彼が考えていても、やはりケース・メソッドでは責任を負わなければならないのである。
 ケース・メソッドにおけるこの行動に対する責任負担という要求は、おそらく基本的な特性であろう。講義方式においては、ほとんどの場合、教育目的として行動を挙げることはなく、その代わり知識の吸収あるいは理解力の養成を挙げている。ケース・メソッドの学生は、合理的行動についての技術を学ぶことが出来なければならない。彼が自分で自己反省や自己懐疑的な態度を無視しているとしても、過度に反省的であったり、自信を失ったりすることは無用であると言っても、差し支えないであろう。(p.131)

 経営管理においては、人間とデータとが作る状況下で行動することが最も重要である。経営教育において、学生が誤りなく適切な経営野意思決定を行うため、指針となる原理を見つけるのが難しい。ただ1つすべての場合に適用できる「原理」は、迷路を乗り越えて自分の進むべき道を考え、行動を決定する能力を開発することである。経営管理教育において、ケース・メソッドが育てるのはこのような行動を合理化する能力である。(p.132)

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◆髙木晴夫(2004)「ケース・メソッド授業について」髙木晴夫監修(2004)『ビジネススクール・テキスト 人的資源マネジメント戦略』有斐閣 pp.145-

 ここで言うところの経営能力とは、これまでの経営上の問題解決方法に関する知識や経営活動の必要な専門知識に加え、経営問題への意思決定力や実行力といった力がその中核をなしている。
 これから解説していくケースメソッドとは、この経営能力のうちの後者の「力」を訓練するために有効な教育方法の1つなのである。(p.145)

 自分の意見を発言するということは、自分の思考プロセスを他の参加者に表現することである。そこでは表現の明確さが求められる。お互いの思考プロセスを言葉で表現しあうことで、そのプロセスを明確な表現、すなわち言語を通じて学習しあうことが可能になると考えられる。(p.147)

 ここでいう修羅場とは自分の将来に大きく関わり、かつ困難な仕事を経験することであり、成功したときには自分が大きく成長できる種類の仕事の経験のことを指している。
 われわれは修羅場を経験することによって以下のことがらを経験する。1つは自分ではこれまで見えていなかった仕事のやり方の不備を知ることになるという点、もう1つは他者が持っている情報の組み合わせ方、新しい情報を構築していく力に直接触れるという点である。これは意思決定能力に要求されている者であり、修羅場を経験することによって、その力を高める効果が期待される。
 この効果を教室のなかでも有効とする教育方法としてあげられるのが、先ほど述べた自分の頭で思考経験を繰り返し行う訓練ができるケースメソッド授業である。一種の疑似体験による学習と言ってもよい。(p.149)

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◆梅津光弘(2007)「経営倫理教育におけるケース・メソッドの方法と意味(統一論題 経営倫理と教育)」『日本経営倫理学会誌』 (14), 5-13

 通常の座学とは異なったケース・メソッドの成果とは何なのか。それは受動学習では修得できない倫理判断についての主体的・自主的な判断能力の開発ということである。しかもこの能力は、発話行為の能力と同様、その行為を導いたり、正当化したりするコード、その行為が捉えられる状況、行為によって影響される共同体(あるいは複数のステイクホルダー)など複雑な要素を総合判断して行わなければ成(ママ)らない。 (p.11)

 こうした自由な組織論的素地(これを倫理的組織風土あるいは倫理性を組織修得した集団と呼んでもよいと思われる)はE.エプスタインの言う経営社会即応性を習得した組織であると言えるだろう。そして経営社会即応性はそのまま潜在する倫理的課題事項を予測し、それが不祥事として顕在化する以前に解決する能力、すなわち組織の自浄能力であるともいえよう。
 ケース・メソッドによる経営倫理教育は個人と組織の即応的な倫理能力を訓練する方法であると要約することができる。(p.12)

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◆Louis B. Barnes, C. Roland Christensen, and Abby J. Hansen. (1994). Teaching and the Case Method: Text, Case, and Readings. Harvan Business School Press. (= 1997 髙木晴夫 監訳『ケースメソッド実践原理』ダイヤモンド社)

第Ⅰ部 ケースメソッド教授法を読み解く
第Ⅱ部 ケースメソッド教授法をケースメソッドで学ぶ
 第1章 教育の機会を見出し、リスクとジレンマを考慮する
 第2章 ディスカッション・リーダーシップを養う
 第3章 コミュニティの場づくりを了解する
 第4章 問いかけ、耳を傾け、対応する
 第5章 指示的か非指示的かを選択する
 第6章 試練を乗り越え、チャンスをつかむ
 第7章 倫理問題を考える
 第8章 誰が教えるべきか 
第3部 改善のための反省と再検討
 

 訳者はしがき「ケースメソッドが示唆する二十一世紀の教育方法論」(髙木晴夫)

 しかしながら、ケースメソッドによる教育効果という意味において、訳者はHBSで認識されている諸点と同等のものを事実感じている。それらを列挙すると次の五点である。
① ケースメソッドは、一般的に言って、講義方式やテキスト中心の授業よりも、学生の興味を引き起こすことが容易である。それゆえ、学生に対し、自発的な学習意欲を喚起し、経営に関する学習と思考を刺激する。
②ケーメメソッドは、学生に、現実問題の解決という”経験”のなかで概念や考えかたを使用させることによって、それらを自らのものとさせられる。
③ケースメソッドは、学生に対し、時には現実とかけ離れた教材から概念だけを学習させる場合よりも、状況を評価したり、概念を応用したりする技能を育成する。
④ケースメソッドは、学生にこの方法が必要とするグループ研究やほかの人々との相互関係が、経営の人間的側面の理解にとって有用な準備であることを教える。
⑤ケースメソッドによって学習する学生は、既成概念の応用と同時に、新しい概念を展開する方法をも身に着けることができる。将来の問題は新しい概念を要求する場合が多いから、ケースメソッドによ>007>る学習の体験者は、既存の概念を記憶するだけの学習をしたものより将来に対してよりよく準備される。(pp.006-007)
 ケースメソッドのもともとの対象である経営教育においても、もっと一般的な教育の場面においても、ディスカッション形式は二十一世紀の求める教育方法の中核となりうる。その理由は、ケースメソッドに「個の尊重」と「関係性による創造」を同時に達成する力があるからである。(p.011)

 討論授業の基本原則は以下の四つである。
① 討論授業は教師と学生の協働作業(コラボレーション)であり、双方がともに、教える責任と力、および学ぶ喜びを共有する。
② 討論授業の教室は、単なる個々人の集まりから、価値と目的を共有する”学びの共同体”に進化しなければならない。
③ 学生と盟友になることによって、教師は、学生自らの手で授業案内を学んでいく力を与えられる。
④ ディスカッション・リーダーシップでは、討論する内容及びそのプロセスの双方をつかさどる能力が必要である。(p.034)

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◆Barnes, Louis B., and C. Roland Christensen. (1997). Teaching and the Case Method: Text, Case, and Readings Third Edition. Boston: Harvan Business School Press. (= 2010 髙木晴夫 監訳『ケース・メソッド教授法――世界のビジネス・スクールで採用されている』ダイヤモンド社)

 

訳者はしがき「ケース・メソッドが示唆する21世紀の教育方法論」髙木晴夫

 しかしながら、ケース・メソッドによる教育効果という意味において、訳者はHBSで認識されている諸点と同等のものを事実感じている。それらを列挙すると次の5点である。
 ①ケース・メソッドは、一般的に言って、講義方式やテキスト中心の授業よりも、学生の興味を引き起こすことが容易である。それゆえ、学生に対し、自発的な学習意欲を喚起し、経営に関する学習と思考を刺激する。
 ②ケース・メソッドは、学生に、現実問題の解決という“経験”のなかで概念や考え方を使用させることによって、それらを自らのものとさせられる。
 ③ケース・メソッドは、学生に対し、時には現実とかけ離れた教材から概念だけを学習させる場合よりも、状況を評価したり、概念を応用したりする技能を育成する。
 ④ケース・メソッドは、学生に、この方法が必要とするグループ研究やほかの人々との相互関係が、経営の人間的側面の理解にとって有効な準備であることを教える。
 ⑤ケース・メソッドによって学習する学生は、既成概念の応用と同時に、新しい概念を展開する方法をも身につけることができる。将来の問題は新し>ⅷ>い概念を要求する場合が多いから、ケース・メソッドによる学習の体験者は、既存の概念を記憶するだけの学習をしたものより将来に対してよりよく準備される。(pp.ⅶ-ⅷ)

 ここで、ケース・メソッドは慶應義塾の建学の精神とどのように融合してきたかを、やや歴史的に述べてみる。
 KBSはHBSを範として、1962年に設立された。設立にあたり当時の塾長と教授陣は、経営能力の育成に向けて特にケース・メソッドに注目した。その理由は、ケース・メソッドが経営上の意思決定プロセスを重視するからであり、意思決定力とその実行力こそが経営能力の中核だからである。
 HBSの考え方において、経営者はさまざまな事柄について考慮し、意思決定を行い、それを実施しなければならない。さらに、この経営能力を実践面の経営能力とすれば、それを支える精神面の経営能力もある。HBSでは、それを「強い精神」(tough-mindedness)と呼んでいる。知的能力の強鞭さ、精神の頑健さのことである。
 一方、慶應義塾がKBSを設立することで実践的学問たるべき経営学を教え、経営能力の育成を図ろうとした根本には、福沢諭吉の「実学」の精神があった。慶應義塾として、前述したHBSにおける経営能力の考え方を、この「実学」の考え方を基礎にして解釈してきた。(p.ⅷ)

 情報化と多様化が進む21世紀では、「個の尊重」と「関係性による創造」を同時に達成する力が求められる。自分と自分の力がどのようなものであるかを知り、自らがそうするように人々もそうすることで、お互いの多様性を尊重せざるをえなくなる。同時にそこから、社会として、人々の集まりとして、多様なものを有する個人個人が関係性を持ち、新しい価値を創造していかねばならない。
 ケース・メソッドという教育方法論は、初めからこれを可能にする思想を根本に持っている。ディスカッション、すなわち教室にいる一人ひとりが自らの考えを発言し、相互に理解し、対立し、そして新たな理解をグループとしてつくり上げていく。この過程こそ「個の尊重」と「関係性の創造」の同時進行である。これをなす力は、本書に言うディスカッション・リーダーシップの能力である。そして、ディスカッション・リーダ一の役目を経験しこれに熟達することは、まさしく 21世紀に求められる力の訓練となる。(p.)

 HBSでケース・メソッドが開発された当時、この教育方法は本質的にどのような力を育成できるか、という議論があった。それこそが、前節で述べた経営能力の実践面を支える「強い精神」であった。訳者は、古典の言葉を借りて、ディスカッション・リーダ一シップの基底にあるこの力について次のように説明しておきたい。
 すなわち強い精神とは、本質的には、さまざまな事実を把握し、それらを知的で大胆な行動の基盤として用いることを可能とするような態度、資質、および訓練を意味している。強い精神の持ち主は困難な問題に対して関心を寄せている。彼らは未知の事柄に敢然と取り組み、頑固な新しい事実から有用な真理を奪い取ろうと努力する。また彼らは、変化に直面しても慌てふためくようなことはない。
 なぜなら彼らは、次第にその速度を上げていく変化こそが日常生活のパ夕ーンであること、そしてこのパターンに基づくことによってのみ行動が成功を収めうることを知っているからである。さらに彼らは、伝統の安易な教訓あるいはさまざまな規則への単なる適合に身をゆだねることはない。それは彼らが、書物のなかではさまざまな解決案が発見できないことを知っているからである。

(p.xiii) 

 討論授業の基本原則は以下の4つである。
① 討論授業は教師と学生の協働作業(コラボレーション)であり、双方がともに、教える責任と力、および学ぶ喜びを共有する。
② 討論授業の教室は、単なる個々人の集まりから、価値と目的を共有する“学びの共同体"に進化しなければならない。
③ 学生と盟友になることによって、教師は、学生自らの手で授業内容を学んでいく力を与えられる。
④ ディスカッション・リーダーシップでは、討論する内容およびそのプロセスの双方をつかさどる能力が必要である。(p.16)

 I 目的は感情移入
 ケース・メソッド教授法で絶対にしないことは、ルールやテクニックの体系を与えることである。その柔軟性が硬直性を排除している。各ケースはだれかの人生の一断片である。各ケースが示唆する教訓は、それぞれの読者によって異なるだろう。別の言い方をすれば、各ケースは万華鏡である。そのなかに何を見るかは、それをどのように振るかによって変わってくる。
 我々が教材をケースという形で提供する目的の1つは、我々の描く教師と学生に対する感情移入を引き出すためである。感情移入は、討論プロセスに酵素とスパイスを与えることができる。またそれは、ほとんどの学生が最もひどいと考える教師に欠落しているのを残念に思う特性でもある。我々はこの特性を同情や、やさしさと混同してはいない。それどころか、学生のほんとうの苦境に対して感情移入すれば(人が別の人の境遇をほんとうに理解できるとすれば)、厳密な行動方針が分かるかもしれない。
 教師は、学生の目標、長所および短所をできるだけ公平に評価するために、彼らの観点を理解するように努めるべきである。手を抜くことは、疎外の危険、また敵意の危険さえ冒すことと同じである。(p.56)

教材はだれのために考案されているのか
 単なる「知識の移転」(この場合は、しばしば丸暗記が学生の最良の友となる)以外の方法で教える者であればだれでも、標準的なケース・メソッド教授法セ>57>ミナー、またはより短期間のワークショップで、我々の教育ケースで学ぶことから利益が得られる。我々は、教師が教科書や参考図書を選んだり、完璧な試験問題を作成したり、盗作を暴き出したり、演壇でのカリスマ性を身につけられるよう援助するわけではない。
 しかし我々は、効果的なディスカッション・リ一ダーシップを構成する技術の集合についての洞察を刺激できるものと確信している。そのような洞察は、しばしば実際的な改善を促してきた。(p.57)

 討議のための準備と教えるための準備とは異なる
 注意すべきこととして次のことを言っておこう。教育ケースの討議のために準備することは、教えるための準備をすることと同じではない。授業に出る前に完全に弁護できる「専門家の分析」を用意する必要はない。討論に備えるために>57>は、まず最初に、もちろんケースを読み、ケースの主要登場人物の観点から、また識別できるかぎり多くのその他の視点から、感情的に登場人物に入り込む道を「感じ取る」ように努める。たとえば、以下のようなやり方が考えられる。(pp.57-58)

 教師の仕事は、学生が教材を克服できるよう助力することであり、自分の優秀さを誇示することではない。教室は学生の学習を援助するための最良の場であるため、教室での実践が教師の注意の多くを占めるべきである。優れた教育のほとんどすべての基本原則は、言葉または身体でそれを「実行できる」というのが、我々の基本的信念の1つである。原則は、それに基づいて行動できなければ、ほとんど役に立たない。
 我々の教材は、討論授業の永遠の問題に取り組んでいる。それらは、基本的な、常に陥りやすい、しばしば意外なほど簡単な問題であるが、どれも改善に近づくことを可能にし、成功の中心をなすもの、と我々は確信している。もちろん我々は、理論よりも実践に偏重している。我々は、よい教育とは、頭たけでなく心にも触れる技であると認識している。最も重要なことは、我々がそれを教えることのできる技と考えていることである。(p.62)

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◆村本芳郎(1982)『ケースメソッド経営教育論 文眞堂現代経営学選書5』文眞堂

 もう一つの教育理論は、知識を伝達することが教育であるとは考えない。知ることが教育ではなく、行動できるようにすることが教育と考える。変化してやまない環境の新しい状況に直面して、新しい経験を獲得できるように訓練しようとする。したがって、過去の先例などには価値を認めない。創造性を養うのに役立つような先例だけを重視する。新しい状況、新しい経験は、人間に考えること、創造性を発揮することを要求する。新しいことと考えることとは、言葉は違っていても意味は同じである。
 知識を伝達する教育方法に比較して、この考えることを教える教育方法は、方法も未完成で、粗雑であり、教育効果を測定する方法も確立されていない。しかしながら、ケース・メソッドの教育理論は、知識の獲得でなく、考える力の養成を目的とし、その実際的な適用なのである。(p.43)

 ドーナムは景気循環を重視し、不況期の企業の経験をケースとして記録し、次の不況に先例として役立てることを提唱したが、その先例的ケース観は、1920年代のアメリカの繁栄時代の産物であったといえる。1929年の大況慌は、産業界に大きな衝撃を与え、過去の経験が先例として役立たないことが明らかになった。
 財務論の教授であった、デューイング(Arthur Stone Dewing)は、1931年、発行されたケース・メソッドに関する論文集(CE. Fraser, ed.. The Case Method of Instruction, McGraw-Hill Book Company, Inc.,1931)において、「ケース・メソッドへの導入」(An Introduction to the Use of cases)という論文を発表し、先例的ケース観を否定している。企業は変化して止むことがない複雑な社会的経済的環境に適応しなければならないことを強調し、そのためには、先例や伝統に依存することなく、新しい情況に適応する思考カこそ大切であると、彼はいうのである。そして、このような思考力を養成することができる限りにおいて、先例は有益であり、創造性に導くような先例でなければ、先例としての価値がないと述べている。
 デューイングは、創造性教育に役立つケースを、教育用ケースの名にふさわしいケースとしたのである。
 ゲイの討議用ケース観から始まり、ドーナムの先例的ケース観へと発展し、さらに、デューイングの創造性教育ケース観へと高められたといえるであろう。(p.44)

 コジオールが副目的としてあげている「知識の獲得と人格の形成」は、ケースを読むことによって得られる経営の実態についての知識と、討議することによって得られる人格の陶冶を示している。この副目的は、アメリカにおいても、ケース・メソッドの副次的な教育効果として挙げられているものである。(p.164)

 ソクラテスの産婆術という教育観もケース・メソッドの教育観に通じるところがある。注入主義教育のように、知識の伝達を教育の使命とする教育観は、ケースメソッドは否定している。ケースメソッドにおいて、知識の伝達に関しては極めて非効率的にしか行い得ないからである。
 ケースメソッドにおいては、インストラクターは、知識を伝達する人ではなく、学生各自がケース分析を行い、クラス討議に参加し、知的成長を遂げるのを助ける、精神の産婆の役割を果たす人であるといえる。
 ソクラテスの対話法は、具体的事象から出発して、一般的、普遍的概念に到達するという、極めて哲学的目標が掲げられているのに対し、ケースメソッドは、ケースという経営の具体的状況から出発して、経営問題の解決という極めて現実的な目標が掲げられている。
 ソクラテスの哲学は、自己の無知を自覚するところから始まるのに対して、ケース・メソッドは、ケースには「唯一の正解」はない、インストラクターといえども、そのようなものは知られていないという前提に立っている。
 ソクラテスの対話法と経営教育のケースメソッドは、二千年の歴史に隔たりがあり、古代ギリシャと現代アメリカ、哲学と経営学の相違にもかかわらず、教理念と教育方法において、一脈相通じるところがあるといえる。(p.173)

 分析能力に関しては、実務経験が少ない学生ほど重視していて、実務経験が増加するにしたがって、重視の程度が減少している。そしてこの理由として、年齢が影響していることが考えられると述べている。(p.197)

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◆髙木晴夫・竹内伸一(2006)『実践!日本型ケースメソッド教育』ダイヤモンド社

 では、そもそもケースメソッドの参加者の学習はどのように進行するか。実際にクラス討議が行われている様子を見ると、意外な事実が分かる。発言の多い人とほとんど発言をしない人に分かれるのである。では、多く発言する人が多く学び、発言をしない人は学べないかと言うと、そうではない。確かに、多く発言する人にとってはたくさんの問題解決のためのシミュレーションが頭の中で進行し、経営に関する意思決定の疑似体験を深めることができる。
 一方、発言しなくともその場に主体的に参加し、他の人の発言を我がものとして聞き入る人にも同程度の学習効果が生じる。これは「観察学習」と呼ばれているもので、人間の持つ学習能力で極めて重要なものだ。もし人間がすべて自分で経験しないと学習できないのであれば、膨大な経験が必要となる。これを回避する能カが観察学習の>12>能力である。学習している人を見ることが、その人にとって学習となる。大事な経験、重要な能力の発揮、苦労した末の解決などを目撃すると、人は脳裏に自分の経験であるかのような効果を生じさせる。これは脳内リハーサル効果と呼ばれるものである。(pp.11-12)

 縦軸の要因は、一言でまとめると「実践力」となる。これには「洞察力」「統介カ」「概念形成力」「戦略力」「意思決定力」など、幅広いビジネス能力が含まれる。いずれも「〇〇力」という呼び方をしていることからもわかるように、縦軸の要因はいわゆる「知識」とは異なる性格を持っている。先の三分類で言えば、「コンセプチュアルスキル」に近く、人間に対する洞察や理解を求めているという点では「ヒューマンスキル」に通じる要素も含んでいる(p.50)。

 困難な状況に速やかに対応する力をつけるためには、疑似体験による訓練が有効である。たとえば、学校や職場で体験してきた非難訓練は、火災発生という非常事態を疑似的に作り出し、実際に体を動かして、適切な対応を確認するというものだ。(中略)
 ケースメソッド教育でも、ケース教材をうまく選ぶことで、さまざまな経営上の疑似体験が可能になる。シミュレーションを重ねることで、経営課題への対応力を伸ばせるのである。(p.57)

 ケースメソッド教育の前線にいていつも頼もしく思うのは、この教育方法が本質的に持つ、学習者に自律的な姿勢を身に着けさせる効果である。その意味で、ケースメソッド教育は選抜リーダー教育のツールのみならず、リーダーに準ずる人々の力を底上げするための教育ツールとしても秀逸で、企業組織の今日的な課題に相応しい教育方法なのである(p.71)。

 講師が自分の知識を話し、学生がそれを聴くという講義型の授業と、ケースをもとにした討議型の授業とでは、どちらか一方だけが絶対的に優れているわけではない。しかし、教える内容によっては、より適切な授業方法というものがある。特に、実践学問では、理論知識の獲得だけでなく、実践力の養成も必要である。それこそが、学部と大学院を併せ持ち、社会に出るための基礎教育と、高度専門教育の両方を扱う大学のあるべき姿である。この目的に最適な教育方法の一つが、実践知識も育む討議形式のケースメソッド教育と言えるのである。(p.74)

 人とつながることで生まれる倍カ効果を「身をもって知る」ためにはケースメソッド教育が有効である。討議を通して、人と人がつながつていくことが大きなカになることを実感し、何よりもその楽しさに気づく。(p.95)

 しかし、ケースメソッドの討議で参加者が貢献し合うことで倍力効果が生まれるプロセスは、日本型の組織アーキテクチャが倍力効果を作りだしていくプロセスと極めて近くなる。つまり、受講者個人への教育効果に加えて、組織学習という副次効果が自然に期待できるのである。研修という形なので、容易に着手でき、継続もしやすい(p.100)。

 ディスカッション・リードの大前提は、参加者の主体性をほぼ全面的に尊重して、なおかつ「束ね」「導く」ことである。そのため、教壇から直接的に「教える」行為とは異なる部分が多い。ディスカッション・リーダーに求められるのは、直接操縦することではなく、組織の上下左右に目配りしながら、「人を束ねて方向づけていく」リーダーシップである。そうした能力を、本書では「第三の能力」と呼んでいる。
 それでは、ケースメソッド教育を通して養われる第三の能力を、討議の中で示す行動特性をもとに概観していこう。(p.111)  

Q 受講生の年齢に制限はあるか。
A 大学三年生の受講生の場合、教材の情報を読むことはできるが、社会経験がないため、ケースに描かれている状況を経験に照らし合わせて理解することができず、内容をきちんと読み取ることができない。これは年齢というよりも、経験を積んでいるかどうかの違いではないか。そうした条件があるので、教材で扱っている内容が読み取れる一定の年齢より上であることが必要だ。(p.203)

 道場的な厳しい授業の例として、ハーバードのロースクール(法科大学院)の授業風景を描いた『ぺーパー・チェイス』という古い映画ある。100人ぐらいの受講生の中から毎回1人を吊るし上げて、講師が問い詰めていく。非常に厳しくて、答えられなくなるまで追い詰める。こうした教え方は、「ソクラテス・メソッド」と呼ばれている。
 このやり方は一時期、アメリカ全体のロースクールでも随分使われたそうだが、実は逆効果のほうが大きい。受講生は先生に言われたことに答えるようになり、自分が発想したものを自分の論理で組み立てるという自発性を失っていくからだ。
 そうしたやりとりを聞いている他の人は、そこから多くを学べるので、学習効果としてはプラスの面ももちろんある。ロースクールではプラスの面が成り立つかもしれないが、ビジネスは法律論のようにはいかない。重要なのは、他の人の行動よりも自分でどう経営>221>するかということなので、自分の論を組み立てる必要がある。同時に、自分の正当性を他の人に納得させるという議論のしかたのほうがいいので、自主性を重視すべきだ。(pp.220-221)

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◆坂井正廣、吉田優治監修、ケース・メソッド研究会(1997)『創造するマネージャー――ケース・メソッド学習法』白桃書房

 

ピゴーズ教授は,ハーバードの卒業生ではあるが,マサチューセッツ工科大学(MIT)の教授として,HBSにおけるケース・メソッドが,学生にケース分析の準備のために余りにも多くの時間をかけさせていることに関する懸念を端緒として,HBSのケース・メソッドと同様の効果を持ち,しかも準備時間を節約できる方法としてインシデント・プロセスを開発したのであった。インシデント・プロセスとは,次の5段階から構成されるケース研究の方法である。
I. インシデントの研究(HBSスタイルのケースにおける情況の核心部分にあたる短い出来事の研究)。
II. 事実の探索(インシデントに関連する情報の収集と整理)。 >9>
III. 今直ぐに決定すべき問題の設定。
IV.  意思決定とその理由の記述。
V.  ケース全体から学ぶことのできる問題の検討。(pp.8-9)

 したがって、適切に行われるケース・メソッドによる訓練は、上述の問題解決の実践上の過程と方法を文字通りシミュレートすることが期待できる。参加者を様々なケースに対峙させ、問題解決過程を念頭に入れながら問題分析過程に特段の注意を払ってなされる問題解決訓練は、参加者をして対症療法的な意思決定を制御する思考の習慣と方法を身につけさせることを可能にする。そして、意思決定過程の全域にかかわる問題解決訓練は,次の討論の方法と関わることによってさらに効果的なものになる。

2. ディスカッションを通じて行われる学習

 ケース・メソッドは経験による学習を重視するが、その学習効果は集団学習,すなわち討論によってもたらされると考えられる。したがって,討論のないケース・メソッドは無意味とさえ言われる。実践における問題解決も通常一人でなされるものではなく,上司―部下の関係,あるいは会議などの集団討議というように、他者が関わっている。それ故,自己の判断は個人だけでは完結しない。自己の判断は,大勢の前で示されることになる。(pp.54-55)

 実務経験の浅い者にテーマを与えると、当初は、単なるアイディアだけで問題状況との適合性や方策実行にともなう予測し得る影響を考慮しない、あるいは突き詰めれば費用、時間等いわゆる5W2Hが著しく抜け落ちた自己完結型の抽象度の高い方策しか出してこない。その方策に対し、上司、関連部署、あるいはプロジェクトメンバー等多くの他者から指摘されながら彼は要求水準を体得していく。このような経験を繰り返すことによって、様々なテーマに出くわしても彼は組織の要求する水準で解決策を案出するようになるのである。問題解決訓練におけるディスカッションによる方法は、まさに同様の状況を提供しているといえよう。参加者は、以上のような訓練を通して経験し得た相当数の成功例、失敗例を分析し、試行錯誤を繰り返しながら、対症療法的でない意思決定を効率よく導き出す実践的な能力を身に付けていくと考えられるのである。(p.56)

 意思決定のこの側面は,技術的というより道徳的なものであり、したがって限りなく非論理的過程を含むものである。その能力の育成は不可能ではないが、決して容易ではないであろう。このような意思決定の道徳的側面の能力の育成に関して、ケース・メソッドによる訓練は効果を発揮しうるであろうか。発揮し得るとすれば、それは何故であろうか。われわれは、ケース・メソッドの有効活用のためにも,以上のような重要かつ困難な問題をさらに究明していかなければならない。その意味において、最終判断を含む問題解決過程へのアブローチに意義をおくケース・メソッドによる問題解決訓練のあり方を再吟味することが必要であろう。(p.57)

 次に,「ケースから学ぶ」ための問題分析(総合的問題分析)の具体的な方法について論じていくことにしよう。それは,既述のように,ある意味で「負けの原因」を探求することでもあり,したがって「問題発生図式」の確立という形を取る。問題発生図式というのは耳慣れない用語であるが,それは経営実践上のトラブル発生の必然性を整理することである。問題解決のための「治療体系」ではなく,それ以前の「病理体系」を確立することである。つまり,経営者が何の策も講じなければ当然に発生する諸問題の予知体系と言っても良い。「○○の問題を解決するために△△すべきだ」ではなく「△△しないと○○の問題が発生する」という図式の確立である。(p.64)

 経営実践上、例えば組織の病気は、ボクシングの試合におけるボディ・ブローの効果のようにジワジワと体にダメイジを与えていく。つまり、その原因と結果との間にタイム・ラグがある場合が多い。したがって、問題発生図式を構築していくことは、「先行指標」づくりでもある。組織の病気は気づいた時には「時宜に遅し」という場合が少なくない。財務数値などは遅行指標と言わねばなるまい。アナロジカルな言い方をすれば、やはり「特効薬」よりも体質改善を目的とする「漢方」の発想が必要なのである。われわれは、そういった発想に立つからこそ、「問題への反応」ではなく予防的な意味を持つ「問題の設定」が可能となる。学習体系には、収益それ自体ではなく収益性(力)の、つまり損益計算書的見方ではなく貸借対照表的見方が大切なのである。「バブルが弾けて、さあどうしよう?」と問題に反応するのではなく、「順風時に経営者が何をするか」という問題を設定することのほうが大切なのである。(p.67)

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◆佐藤三郎 編(1969)『人間関係の教授法』明治図書

 ここまで説明すれば、事例討議でいう事例とは、単に事例討議の時間に配られたところの「書かれて印刷された」事例だけではなく、肉体作業における参加者の仕事の状況、講演者の人物、その講演内容、また講演の後のわれわれとの質疑応答、施設の見学なども事例として取扱われていることがわかるだろう。書かれた事例と区別していえば、見学などは「生の事例」というわけである。
 しかし、生の事例は、講師や、面接した校長のように、参加者自身からみて、利害のない第三者である場合、そこには参加者との間に一定の距離がおかれていて、まだ迫真性がない。それと較べて、肉体労働の後の討議は、正に、肉体労働に従事したわれわれ自身が事例となっているので、迫真性どころか猛烈な感情の葛藤を伴う。(p.20)

 学校であれ、また一般に社会にみられるさまざまの社会的組織であれ、(多くは公式的な形式的組織であるが)または、さほど形式ばらない一時的目的のための臨時の集団であっても、およそ人問の集団があれば、そこには一定の集団目的があり、その集団が達成すべき課題がある。集団の成員はその課題を知り、その課題を能率的に達成するために協力する。これは自明の常識である。
 ところがこの研修所では、教室でめいめい学習して、適当に自室で休息するという個人べースの研修ではなく、生活と研修活動のほとんど全日程の中で、集団行動を要求されているにもかかわらず、達成すべき課題も知らされず、協力とはおよそ反対の人間間の憎悪・中傷・攻撃・非難をかきたて、混乱と挫折の中にわざと追いこむよう仕組まれている。チーム・ワークにしても、それができ上がろうとした途端に破壊されてしまうのである。何が達成目標であるのかわからないのだから、みなが手さぐりで試行してみるのだが、スタッフからの承認は得られない。およそ能率ということは全然問題にならないのである。(p.21)

 といっても、ケース・スタディ、つまり事例研究は、通常、とくに問題となる子どものケースの研究を指すのであって、予診的にも、治療的にも、教師による教育行為以前に、その子の知的、身体的、情緒的、社会的特性、生育歴、種々の環境要因など、あらゆる角度から、いろいろな方法によって調べ、問題となっているケース解明の手がかりや資料を集めて、対策のための研究をすること、またはそのようにして集められて整理された記録のことをいっている。単に現在の時点における平面的、羅列的資料だけでなく、ケースとなった問題を生育歴の軸でとらえるのが事例史研究(ケース・ヒストリイ・スタディ)である。いうまでもなく、この方法は本来、社会福祉、児童福祉の専門家であるケース・ワーカーの専門技術であって、それを学校場面に転用したものである。この説明で明らかなように、この場合、事例研究は、教育や診断、治療の対象となる問題をもった子どもがあって、教育者やカウンセラー、またはケース・ワーカーは、その行為を行なう前に事前に対象の問題を把握するために行なうことである。広い意味ではこのような準備行為も診断・治療・教育の行為といってもよい。(p.27)

 たしかに、判断力を訓練すること、最近のコトバでいえば意思決定の能力を開発することは重要であり、あとで事例法の目標の一つとしてあげるつもりだが、JST方式のように、指導過程の最後に「解決策を出す」をあえて意思決定訓練過程の必須の段階としてあげなければならないかというと疑問である。(p.32)

 樋ロ氏は、事例研究の目的を、はっきりと実践力育成の具体策をつくりあげることだといい、そのために、わざわざヒグチ方式が最適と考えているのであって、その時点でハーバード方式とは全く決別している。しかし、自分の方式が最適であると自認するあまり、本来、氏とは目的を異にしているハーバード方式自体が欠点を持つと評価するのはゆきすぎであろう。氏は、ハーバード方式を"単なる訓練の方式"、ヒグチ式を"問題解決の方法"と区別しているが、たんなるという形容詞が侮べつの語感を与える点は気になる。(pp.32-33)

 この能力によって、即座に意思決定をせまられている新しい状況の中で、最大公約数的には安全な決定を下し得る確率は高いが、人間関係のように多くの原理が錯綜し矛盾し対立し、しかもいかなる原理でもそのままの適用では解けない事態の場合には、演繹によって身につけた原理をそのまま適用できるものではない。ある原理を学ぶ時、その解決策を得るまでの試行的過程は貴重なものであるが、どんなときでもその原理が適用できると思わせて強いて解決策を出させようと誘導してゆけば、いったん解決策が出た場合、そこで得られた原則に拘束される危険がある。(p.33)

 私が、解決にいたらせるステップを、極度に警戒する理由はここにある。樋ロ氏はハーバード方式を非能率的だと批判しているが、まさに外見上の非能率の中にこそ人間関係訓練としてのハーバード方式の秘訣の1つがあるのではないだろうか。樋ロ氏だけではない。人事院のJST方式にしても、樋ロ氏ほどではないが解決策にこだわっている。さきにのべた慶応大学の関ロ氏は、事例がスマートに解決にいたる過程を含むことを警戒しながらも、結局、事例法を判断力訓練としてのみ把握している。氏はハーバード方式を忠実に記述する立場をとろうとして、ケース・メソッドを「意思決定、つまり目標の決定や将来の洞察力判断力を狡う方法」だと説明しているが、いくつかの方法上の特徴をあげた一つにケース・メソッドはこれらの諸問題をリーダーの指導のもとに、分析し解決するために、クラスを討議の場として用いる」ことだといっているのである。
 つまり、関ロ氏は人事院方式を採用した東京都職員研修用の「事例研究の手引」を批判し、そこでの事例が"例題"や"演習問題"であること、そして例題といわれるものは「学ぶべき原理とか理論が具現されている実例」であり、演習問題は「すでに学んだ原理や原則を適用して、ある状況の意味、相互関係を演繹的に理解させるような事例」であって、氏によれば、ケース・メソッドの事例は、そのようなものであってはならず、またそのように取り扱ってはならないと注意しているのは正しい。そして関ロ氏はケースには解答が含まれていない」のであって、むしろケースは、「当面する問題を中心に必要な状況が詳細に記述された教材」だという。ケースについて、正確に理解されている氏が、人事院などの事例研究を評して「とくにわが国などの思考方法、訓練教育通念からみると、討議だけでは何か得心が得られないので、結論めいたことを要求する傾向にある」と、せっかくよい点をつきながらも、最後はケース・メソッドを安易に問題解決法だときめることによって、氏は、自己矛盾に陥っている。(p.34)

 これは樋ロ式ステップとはかなりちがっているようにみえる。樋ロ氏の場合、事例は一種の演習であって、そこにはすでにかくされた形で解答が含まれている。氏は"問題解決の方法"といっているにもかかわらず、ほんとうの問題解決にならないで一種の宝探し、問題の中の原理を発見する方向に向かってしまっている。それに比べて関口氏は典型的な問題解決学習の手法をとっている。だが、問題解決型の訓練であるがために、まさにそのことから、何とかして問題をつくり出し、それの最終的解決をしなければならない。そうであれば結論を出すまでの過程に若干のちがいはあっても、解答を得る点では全然変わらないといわなければならない。
 これまでの論述に明らかなように、ケース・メソッドの訳としてのわが国の事例研究、また関ロ氏のように、そのような事例研究と区別して、あえて言語のままケース・メソッドを使っている場合でも、事例討議を通じて何らかの結論または解決策を出すことによって、思考力や判断力、つまり意思決定の能力を訓練するという共通の特徴を持っている。 もし、それがケース・メソッドの中心的な特徴であれば、ケース・メソッドとはいっても、私がさきにケース・スタディの訳としての事例研究、またそれより多少ケース・メソッドに近い事例研究法の「事例資料を使用しての教育者、カウンセラー、ケース・ワー力ー(広くいって指導者、ケース・メソッドの発生からいえば企業の経営貴任者まで拡大できる)の訓練」と大差はないといってよいことになろう。(p.35)

 私の理解するところ、ケース・メソッドはなるほど、ある限られた範囲の意味では、意思決定の訓練にはちがいなく、また、事例の討議展開の中で、時には解決や結論を出そうとすることもある。かえってどんな場合でも、解決や結論を出さないようにするという固定形式にこだわるならば、展開の上でゆきづまりが生じてまずいことがある。しかし、いかに共同の力で、綿密に事例を分析して結論を出したにしても、それは、常に暫定的であり、わず>36>かの反対資料によってくつがえされる脆弱なものにすぎないことを知るべきである。結論は、参加者ひとりひとりの内部の中で、むしろ課題として残るのであって、加藤氏が「なし得れば原則を発見する」という慎重さを私は逆にして「なしうれば共同の場では原則を出さないようにする」と主張したいのである。 (pp.35-36)

 ところで問題法は、二十世紀初頭の教育界の寵児であって、商学教育においても、問題を感知して解決するまで、学生、生徒の主体的参加を通じて、思考能力を訓練する方法として事例を用いようとしたのである。しかし問題法をうまく運常しようとすれば、判断の道程や解決が明示されている判例のような事例は適当でない。生徒には未解決の問題として提出され、参加者の主体的判断を要求するように、混沌とした瞬眛なものとして示されなければならない。ともかく問題法としてのケースメソッドは"意思決定能力訓練"のためのものであった。 だが、この限りでは、まだ集団の討議を必ずしも前提にしていない。たとえばマックネアのごときは、さまざまのケース・メソッドの変種があることを認めているが、しかし共通のものとして「教育の過程に学生が参加すること、学生(単数)が諸事実を評価し、分析を行ない、結論をあれこれ考えて、最後に決定を下す場合に、自らボールを運ぶこと」であるといっている。 (p.38)

 (前略)一般に今でも問題法による意思決定能力訓練に重きをおいている人びとは(またはそれを重視したケース・メソッドの時代)集団討議を便宜的に考えている傾向がある。講義を少なくして、学生の自主性を重んじた学習形態では、学生が複数であれば自然、討議になるし、討議になれば相互に役立つこともあろう。だが、集団討議をしたからといって、意思決定の訓練の性質が変わることはないのである。
 ケース・メソッドにおいて、問題法のアプローチによる意思決定能カの訓練――単に能率的で、最大公約数的には安全な決定を下すのでなく、むしろ、結果的には賢明で効果的であることが望ましいが、何よりも多少のリスクをおかしても、創造的な解決策を下す判断力――は、それが商学部において創り出された本来の意図であったという歴史的理由によってでなく、その後の実績からみても高く評価されているのであって、私もそれを重要な特徴の一つとして保存しておきたい。(p.39)

 (前略)同教授らはまた、ケース・メソッドを人間関係訓練に活用する上に大きく貢献した。彼らは意思決定能力の訓練をするにしても、意思決定を下すまでに、決定を必要とする状態の中に関与している複数の人間とそれが構成している人間関係に対する視点が必要であると考えた。そのためには事例に含まれるものとして政治・経済の理解と動向、経営の手法、労務問題、経理・販売・生産の知識や管理技術のデータも必要だが、それに加うるに、具体的人物とその人間関係をクローズ・アップする場面記述がなければならない。そこで、事例も、意思決定訓練を重点とした場合、「事例とは、管理者が何らかの対策を決定しなければならないような問題を含んだ特定の事実関係の記述」で十分であったが、レスリスバーガーは「誰かがあることで何かしなければならないと感じまたは考えた問題をめぐっての、人間たちの相互関係を含んだ具体的事態の記述」であると、とくに人間関係が付加されていることに注意する必要がある。 つまり、事例の中には人間関係と、決定した問題または決定を必要とされている問題事態が含まれているのであって、したがって、ケース・メソッドの目標も、①実践上の判断力意思決定の能力と②各人における行動の源泉となっているその人の感情や目的を感じとる(appreciate)という二重のものになってきている。 後者についてここで多少説明を加えておこう。(詳しくは後述)
 参加者は単に事例の中に現象として現れている人間関係に関与している人々の行動や言語を知るのでなくて、そのような行動や言語の出てきた当人の立場・感情、そのような行動や言語の出てきた当人の目的にまで立ち入って理解することを求められる。事例の登場人物の行動や言語を現われた表面だけを知るのは、"外部からの見解"(outside view)であり、その人物になりきって、その人物の内面から理解してゆくことを、"内部からの見解"(inside view)といってもよい。(p.41)

 ケース・メソッドを人間関係訓練の技術として特徴づける場合、もはやその段階で、それを事例研究と訳すのは不適切である。なぜなら、研究という語感からは、研究する側からみれば、事例は自分とは利害の関係のない第三者のことであって、没感情的に外から知るという傍観的な印象をまぬがれないからである。同時に、ここで問題にしたい点は、事例研究としてのケース・メソッドでは、前にもいったように集団討議を絶対の条件としなくてもよいということである。だが人間関係訓練に重点をおいた場合、集団討議は不可欠のものとして重要視される。というのは、討議によって多様な意見が出されることによって、「このような見方もあれば、あのような見方もある」と知ることは、事例の人物に対して自分個人の立場から事例の中の人物を一義的に理解し評価することの限界に気づき、事例の人物をさらによく知ろうとしてその立場や感情にまで立ちいって考えることになるのであって、同感的に理解する上に役立つからである。(p.42)

 利害関係から言えば、事例中の人物(小説や映画も)と、それを研究し討議するもののの間には、葛藤がない。あ>44>っても激しいものではない。そこで、変革をひきおこす葛藤を人為的につくりだすのが、事例の集団討議なのである。ケース・メソッドで集団討議を重んずる第二の理由がここにある。つまり、集団討議の場それ自体が「社会的関係の実験であり、教室がワーク・ショップ」である。それをやや詳しく説明していえば、たしかに事例の中のデーターは重要であり、登場人物の立場や感情をめぐって慎重に吟味して討議されなければならないのである討議者が討議する過程において事例に触発されて、参加している人々のナマの人間関係が討議されるようになってくる。つまり、事例の中の人間関係、事例の中の人物と、それを調べている参加者の人間関係ではなく、参加者の間の人間関係(社会的関係)が、生きた事例となり、それだけに、葛藤の場が生まれ易くなるのである。(pp.43-44)

 とすれば、ケース・メソッドにおける集団討議は、解決策を出すための共同研究でもなければ、多様な見解を出させるための便宜だけでもなく、実は、討議者間の葛藤をひきおこさせるものであり、その葛藤の中で、参加者みずからが関係している討議集団の人間関係を体験し、それを通じてできれば、自己概念の修正を目的として仕組まれた必要条件であることがわかるであろう。
これがケース・メソッドたとすれば、解決策を求める事例研究とはまったく異なっている。意識的に葛藤をひきだすのは、事例研究で行なおうとす討議の能率性・生産性とはおよそ反対である。むしろケース・メソッドでは、人間の含まれる事態には、スマートな解決策はあり得ないというジレンマに参加者を陥らせ、彼をしてかえって問題の深刻さに慎重にならせるのである。 結論的にいえば、人間関係訓練の技術としてのケース・メソッドの目的は、「参加者に対して、各人が考える力>45>と成熟した深い見解(point of view)を持てるようにすることであって、一連の事態(事例)――と同じような事態は起こるものではない――に対する特定の、最善の回答を与えることではない」ということができる。(pp.43-44)

 これまでのところ、ハーバード大学商学部で行なわれているケース・メソッドは、実はつぎの三つに整理できよう。
① 問題法(または意思決定能力訓練)としてのケース・メソッド
② 人間関係訓練としてのケース・メソッド
  (a)事例の中の人間関係
  (b)事例から触発されての参加者間の人間関係。(p.45)

 ハーバード大学で1951年から開始された十年計画の新プロジェクトは、右にのべたような人問関係訓練の方法としてケース・メソッドを越え、まさにナマの人間同士の葛藤を研修参加者の中でおこすことを目的としている。それを指導しているレスリスバーガーは、ケース・メソッドの利点を認めながらも、その限界をつぎのように指摘している。
 ①人間関係の技能をあまりにも教室の内に限定している。
 ②事例は、具体的事態を記述したものであるが、それでもなお"真実“から数歩遠のいている。学生が学んだ観察はなお、コトパで記述された行動であり、リアルな行動ではない。
 ③それは、他人の行動との関係において自分の行動を考えて悩んでいる学生の持っている問題に対処するしく>47>みになっていない。
 ④それは、感受性を訓練できるだろうが、じっさいの対人関係で使うべき意思伝達の方法を訓練することはできない。(pp.46047)

 事例法による訓練で、特徴的なのは、研修のオリエンテーションにおいて”事例法の事前説明は絶対行なわないということである。
 事例法による訓練の意図は、これまでの説明、とくに第二章の切明氏の体験記録などから、読者にはある程度わ>91>かっていただけたはずである。もし、そのような意図・期待される能力・事例法の技法など最初に説明するならば受講生はそれを知識として頭で受けとめ、そのような期待を先取して、意識的に行動し発言する。ところが観念で修正できるのは、観念レベルでの自己であり、意識で無理につくろったものは、意識の抑制のないところでは無力である。(中略)。
 したがって、観念レベルの予備知識を事前に与えるのは、訓練には絶体禁物である。むしろ何らかの形によって、グルーブの中に挫折をひきおこし、感情事態が現われてくるのでなければならない。研修の意図を説明してくれない。受け入れ体制は不親切である。スタッフはたよれない。その他どんなことがらによるにしろ、不満の感情は早くも訓練の初期に現われてくるのである。(pp.90-91)

 だが感受性訓練とちがって事例法では、直接露骨に本人に挑戦するのでなく、間接的なアプローチによって、それとなく自己概念の修正の必要を気づかせることになっている。私は、さきに事例の中の事実を周到綿密に観察・分析・省察することを事例法の一つの特徴だといった。ところで、それは「立場的思考と感受をさせるためという目的をもって」と補足しなければならないということになろう。
 事例の中には、いろいろな人物が登場している。さきにもいったように、事例討議では徹底的に、その状況におかれた人物の立場に立って考えさせる。相手の立場に立つということは、その人が、その状況で、ある行動・ある発言をしたというのには、そうせざるをえなかった理由があり、本人が意識しようと意識しまいと、その人の自己概念の枠の中では、その決定のしかたが、その人のとりうるギリギリ一ぱいの極限のものではなかったかと理解してみることである。つまり、各人にはいい分があるはずである。それを聞いてみなければならない。私たちは少し努力すれば、その時のその人の感情を知るだけでなく、ある程度それを感じることもできよう。だが、人は誰しも自己概念の枠をもち、それを感情によって武装しているかぎり、相手の感情との一体化をなしえない。相手の感情を感じとるには、自己の枠組を切り開いて、人の感情をよび入れなければならない。自己と異質の感情を感受できるためには、自己の感情を、かなり柔軟にもみほぐす必要があり、とりもなおさず、それが自己概念の修正なのである(p.110)

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◆髙木晴夫・竹内伸一(2010)『ケースメソッド教授法入門――理論・技術・演習・ココロ』慶應義塾大学出版会
①ケース教材は実践さながらの統合的問題状況をそのまま扱える。
 経営に限らず、現実問題が科目ごとに分かれていることはまずなく、いつも統合的な状況を呈している。しかし、大学教育は、研究者による探求と教育提供の便宜上、それぞれの科目に専門分化されている。このギャップを埋めつつ、大学院ならではの高度な専門教育が実現されなければならない。
②討議参加者の経営活動における得意領域を伸ばしつつ、弱点の補強が自ずと進む。
 入学前にビジネス経験を積んでいるMBA学生は誰でも、ビジネスに関する興味・関心の中心領域を持っていて、入学当初はそれをよりどころとして討議に参加する。ところが、他の学生と議論しているぅちに、実は限られた領域しか視野に人れずに働いていたことに嫌でも気づいていく。
③訓練の時間効率が高いので、短時間で多種多量の訓練を積むことができる。
 ニ年間で300-400ケースに立ち向かい、考え続けた訓練効果は、想像以上に大きい。ケースメソッド授業なら、異動することなく他部署の視点を学べ、転職することなく他業界の課題に直面できる。毎日2ケースというのは、実際に企業組織に勤務する場合の数十倍のぺースでさまざまな課題に直面し、何らかの利断や対応を考え続けなければならないことを意味している。
④精神力が鍛ええられ、人間的成長が促される。
 来る日も来る日も考え続けるためには、相当な意志の強さが必要だ。明日の授業に出るための予習から逃げ出さずに、毎日深夜まで勉強し、規則正しく登校し、果敢に発言することを繰り返す過程で、ビジネスリーダーに必要な"tough mindedness"(知的能力の強靭さ、精神の頑健さ)が自ずと養われる。>32>
 また、クラスへの積極的な参加と貢献は、実務とほとんど変わらない対人関係基盤の上に成立している。職場で上司・同僚・顧客からの支持を得てきたビジネスパーソンはケースメソッド授業の教室でも同様に支持を集めるが、厳しいことに、その逆の状況も生じる。教室では、毎日の発言からにじみ出る人間性やものの考え方が、発言の部度、(明示的あるいは非明示的に)周囲から肯定されたり否定されたりする。そのような場に身を置けば、誰でも自分を人間的に成長させることに熱心になる。人間社会の縮図の中で学ぶことになるケースメソッド授業は、その学習効果が「発言時の言語表現力が磨かれる」といった表面的な向上に留まらず、「人間的成長」にまで及ぶ貴重な機会になる。
⑤真の学習能力が身につく。
 ケースメソッド授業では、教員側から明示的に教えることは慎まれているため、学生は自分たちで学ぶ姿勢と能力を身につけざるを得ない。経営(それに限らず、広く実務)では、事前の備えが十分でないのに対処しなければならない、前に進まなければならない場面がいくらでもある。そぅすると、事的には備えきれないがゆえに、「その場で何とかする力」が重要になる。この種の力は人から短時間に授かる類のものではないため、自分で作り上げていくしかない。また、このような力は属人的で、その人のものの見方や価値観とも密接に関係している。したがって、他ならぬ「自分のために」自分で作り上げていくしかない。それは、授業の都度、自分で気づき、自分に言い聞かせていくことでしか実現しない。 (pp.31-32)

 

第一に、これは教育者サイドからの一方的な言い分に聞こえるかもしれないが、ケースメソッド授業は緻密に作り込まれた教育行為である。授業者である教師は、毎回の授業に際し、その科目が設置されている課程(コース)の目的、科目の目的、単元の目的、参加者の興味と関心、そしてケース教材の内容に応じて明確な教育目的を設定する。したがって、一見すると授業では自由な意見交換だけが行われているようにも見えるが、教師の側には、その議論を通して初めて手に入る叙智を参加者につかませたいという明確な計画と意思があり、討議中は終始それを意識し続けている。
 第二に、ケースを用いた討議に参加することで、ケース主人公の代理体験が成立する。代理体験は学習者の感情をもゆり動かす学習効果をもたらす(Bandura. 1986)。
 第三に、討議が実務経験に代替する訓練になり得ることは、論理的にも矛盾せず、概念的にも十分に成立する。先ほど、経験が行動変容のきっかけになると述べたが、ケースの主人公の立場に立った者同士が、自分だったらどうするかを相互に発言し合う教室は、複数の討議参加者による分析や判断が飛び交う場となる。ディスカッション授業では実務のように結果からのフィードバックこそないが、(擬似的とはいえ)実践状態にある参加者の思考や感情は、実務のときよりもむしろ豊かに、外部に向けて発話されている。 (p.33)

 その一方で、すべての基礎科目をケースメソッドで教えることへの批判もある。その理由は大きく、(1)現実的に実践困難であること、(2)実践できたとしても学生の専門知識が不足しがちになること、のニ点に集約されるだろう。
 (1)は主に教師側の都合である。科目の境界をあいまいにして教えるのは、学術キャリアを積んだ多くの教師にとって、少なくとも最初のうちは辛いものだ。授業で扱う範囲を科目の境界外へ広げれば広げるほど、特定分野で研究研鑽を積んだ教師が、授業内容を文字化して計画的に教えていく方法が通用しにくくなる。この苦しさは時間とともに乗り越えられるのだが、乗り越えることの意味が見出せなくなる者もいないわけではない。このとき、KBSのようにすべての基礎科目をケースメソッドで教えることがルールになっている学校であれば、この壁を乗り越える時間は自ずと縮まるが、そうでない学校では教員個人の意志の強さに依存することになるため、腰折れすることもしばしばあるだろう。
 また、(2)もたいへん悩ましい部分を含んでいる。入試で選抜され、個人の学習能力が高いKBSの学生であっても、「日本語で教えている割には専門知識が浅い」と批判されることが(ときどき)ある。この指摘が正しければ、KBSの教育は、実践的であることを重視するあまり、専門知識が不十分ということになり、結果的に卒業生が社会から十分な評価を受けないということにもなりかねない。ここでは「教えて身につけさせる」だけでよいのかという疑問は残るものの、「教えていないからついていない」という事実も否めない。授業時間内にたくさんのことを教えるという点では、討議型よりも講義型の授業のほうが効率的であるのは確かで、ケースメソッド教育ではあまり多くの内容を学生に詰め込めない。このように、ケースメソッドで教えることのよさが一定以上の水準で顕在化していないと、この教育方法の維持は難しくなる。(pp.56-57)

 教育目的、教材の仕様、必要となる討議運営スキルの甚本は:1:85と変わらない。しかし、慶應型ケースメソッドでは、教師が授業でもっとも重視すべきこととして、相互学習を深化させるための「学びの共同体」をより積極的に形成する。結果的に、強い意志を表出し合う競争的な討議よりも、参加者が相互につながって協働し、丁寧かつ創発的に知恵を紡ぐ討議が志向される。第I部の締めくくりとして、ここでは慶應型ケースメソッドが形成された過程とともに、経営教育以外の実践教育領域に向けても高い応用可能性を持つことについて述べよう。(p.145)

 慶應独自のケースメソッド.スタイルが確立された理由を筆者なりに考察すると、①ケースメソッドが参画型の教育/学習手法であつたこと、②マニュアルによって標準化されたかたちでの教授法への縛りがなかったこと、に集約される。(p.147)

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◆ 工藤市兵衛・尾藤信(1981)「経営管理教育におけるケース・メソッドの本質と問題点」『愛知工業大学研究報告. B, 専門関係論文集』16, 137-142

 しかしながら、現在の、また将来のプロフェッショナル・アドミニストレター(原文のまま)を教育する方法としては、ケース・メソッドが最も有効であることを、人びとは確立し続けてきた。
 それは、次のような見方に立っていたからである。すなわち、今日の産業社会は不断に変化しつつある。その中で企業の常用も不断に変化せざるをえない。そのような新しい状況から発生する諸問題を常に処理しなければならないプロフェッショナル・アドミニスターには、過去の経験や知識を伝授するだけでは意義が少ない。かれの当面する現在の状況は、過去の経験や知識を生んだ状況とは異なった新しい事態であって、この新しい状況においては、想像するということが決定的に重要でなければならない。過去の知識や経験は、それに、役立つ限りにおいて有意義である。この新しい状況に直面してたんに知っているということだけではなく、それを分析し、判断しなければならないのであって、その能力は知識のたんなる集積よりも、はるかに重要である。ケース・メソッドは、新しいケース状況に、次から次と直面させ、考えさせ、判断させることによって、あたかも実際経験によって鍛えられるのと同じように創造的に判断する能力を養わしめるのである。しかも、もし判断を誤っても、実際経験の場合のように、実害を伴わなくて済むのである。 (p.141)

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 ◆金井 壽宏(2000)「解説 ケース・メソッドによる経営教育――通常のケースの効果と課題、ならびにライブ・ケースのすすめ」『企業と人材』 33 (745), 7-15

 短所が長所と裏合わせということは多いが、それがケースによる経営教育にも当てはまる。以下、前述の長所4点のうち最初の3つについて、その裏面としての短所を見ていこう。加えて、もう1点ありうべき短所を指摘しておきたい。これらの短所に陥らないように工夫することによって、ケースの効果が高くなると読んでいただくのがいいだろう。
 第1に、ケースがビジネス・センスを磨くのに有効であるならば、また、多種多様な産業についてコンテンツとして実体的な知識を授けるのに意味があるためには、ケースそのものが最新のものでなければならない。しかし、現実には、必ずしも常に新しいケースが蓄積されているとは限らないし、歴史的にはすぐれたケースのアップ・ツー・デイトが適宜行われているとは限らない。古典落語と同じように、時の経過によってすたれることのないケースがないわけではない。扱われている舞台が古くても、そこにいつまでたっても変わることのない本質が潜んでいることがある。しかし、そのような本質について議論するのならば、そもそもケ一スよりもレクチャーと討議の組み合わせのほうが適しているかもしれない。また、仮にケースで書かれている範囲についてはすたれることがない古典的テーマが存在しても、技術の新たな進展が、これまで慣れ親しんだ世界をひっくり返してしまうかもしれない。 (中略)
 第2の意思決定ケースの強みは、実は、ケース教育の弱みを揶揄するために、よく問題とされる。(中略)しかし、ビジネス・センスも意思決定力も、ケースの数をこなすことによってではなく、正解のない世界でほんとうに悩み、深く考えに考えて、そして少しずつ試しに決めながら行動しながらもさらに考え抜いて、最後の大きな決定に至るような実践によって学ぶのが筋だとしたら、この点では、ケース教育は、有害とまでいかなくてもときには「お門違い」ではあるだろう。本人のキャリアプランを書かせたり(OBの場合)、自分の属する事業分野のビジネスプランもしくは新規事業のプランを作成させたり(経営戦略の場合)して、実際の意思決定や実際のアクションにつなげるような工夫も必要とされる場合がある。ケースの素材となった実際の経営者に対しては,2-3時間でその決定は間違っていると分析的に断罪する受講生の態度は、ミンツバーグによれば、お門違いで、その発言は冒涜でもある。もちろん即断が大事なビジネス場面もあるだろう。しかし、同時に、秋山真之ほどでなくても、経営幹部にも、じっくり深く考え込まないといけない場面、実際にそのプランを実施する勇気が問われる場面、簡単に短時間に決める癖をつけるとしたら困る戦略的場面もある。
 第3の波乗りのようなケース討議での、受講生の積極的な発言を促すには、ここでもまたケース・ディスカッションをリードする者の力量が問われる。普通の講演だったら、その日のテ一マに詳しい人を呼べばよい。質疑応答の時間があっても、質問に対して専門家として答えを授けるだけでいい。しかし、ケースをめぐって受講生個人個人の考えを聞いて、ある人の考えと他の人の考えが違うことにきちんと気づいて、議論を促進するには、そのテーマの内容に詳しいだけでなく、議論のためのやりとりのプロセスをうまく操れなくてはならない。(後略)
 第4に、先に述べた長所の裏面ではないけれども、具体的な事例の議論から教訓を引き出すには、講師の力量もさるものながら、受講生の力量も問われる。具体的な1回限りの実例から、意味ある教訓を引き出すためには、抽象化能力がいる(中略)。そんな能力がなければ、読まされたケースと同じ状況に出会わない限り、ケースはその人に役立たなくなってしまう。ここを補足するために、講師の側がケースからの教訓を、ケース討議の結びとして(少しレクチャーふうに)まとめる場合もある。(中略)。ケースの教訓がはっきりしているなら、それが必要なようにも思えるが、その場での議論が何であれ、まとめはこれだと決まっているのなら、ケ一ス討議のほんとうの醒醐味、つまり、その議論の場で知識創造しているという醍醐味は失われてしまう。その意味ではケース・ディスカッションの意味を真剣に考えるなら、このようなまとめは邪道であろう。しかし、まとめがないと自分からは意味のある教訓を引き出せない(引き出さない)人もいる。ここでは、またしても、受講生の側の姿勢、態度、経験が問われることになる。(pp.10-11)

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◆ミラー・スタンリー・S著 , 小林 規威 訳(1961)「経営者教育におけるケース・メソード」『三田商学研究』 4(4), 52-68

 ケース・メソードとは、学生に対し、決定を下すこと、及び計画を樹立することについて、擬装の経験(Simulatede experience)を与えることにより、(よって彼らの間に)ビジネス上の判断力を育成しようと試みる一方法である。特定のビジネス事情を、できるだけ詳細に、そしてできるだけ速やかに学生に提示するということは、非常に重要なことである。なぜなら、学生は、このようにして初めて、ビジネスの問題を直接目のあたりに見ることができるからである。ちょうど俳句が読む者を詩のムードにまぬき入れようと努めるように、ケースは、学生を、ビジネスの現実に近づけようと努めるのである。その過程において、彼は、より多くの彼自身の体験を問題の分析に役立てることができる。(p.55)

 けれども、過去二五年間に、ケース・メソードの根底に横たわるアカデミックな理論が、より広く〔人々の間で〕認識せられるようになってきたということは事実である。そして、このことはケース・メソードがより組織的に用いられ、かつ多くの違った国丸に広められるという結果を生んだ。〔ここで私は〕ケース・メソードの三つの理論的局面につき特に言及したいと思う。これらの局面とは、モデル理論、学生に自ら学を修めさせる理論(Learning theory)、そして教育計画である。(p.62 )

モデル理論(中略)
 ケース・メソードもまた、モデルを使用する。ケースは、単独のビジネス事情の一つのモデルである。それは競争下にあって仕事を行なっている、一つ分特定なビジネス組織を説明する本質的な事実から作成されている。ケースを書くことにより、われわれは、モデルを外的な影響や、実際の事情をあいまいにしがちな、日々の圧力から切り離すことが出来る。そこでケース・メソードは、アカデミックな指導のもと、学生をして注意深き研究に従事せしめるべく、教室の授業に援用しうるのである。
 もちろん、モデルを作成するためには困難が存在する。どの事実をケースの中にもり込むべきかを決淀するのはたやすいことではない。なぜならば、ビジネス事情の根本的な性格が実際何であるかを決定するのは、少なからず難かしい問題であるからである。しかし、良いケースのモデルといわれるものは、通常、学生が、それを駆使して勉強するに足る資料の多くを含んでいるが故に、足りないよりもむしろ、多すぎる事実を載せている。(後略)(p.63)
 学生にみずから学を修めさせる理論(Learning theory)は、学生を、彼自身の教育に参加せしめることにより、彼のこのような体験の重要性を強調する。教育は、学生が、みずから彼に提示された知識を吸収する能力を発達せしめる時に、その役割をはたす、ケース・メソードによれば、学生は、授業時間ごとに、彼が何をなすことができるかということに関し、みずから証明・表示する機会を与えられるのである。知識は、ケースの中の資料や、教授の担導から与えられる。しかし実際上の頭脳の働きは、学生自身の努力と啓発とにかけられているのである。
 ケース・メソードは、多くの教授たちがそれに従って講義を行なう、秩序ある過程よりも、むしろ、多くの学生たちが、それによってみずからを教育する無秩序な過程により多く依存している。それ故われわれは、レクチャー・メソードよりも、むしろケース・メソードにおいて、このような教育計画に関し、より多くの困難を見拙すことであろう。このことは、教授が、ケース・メソードにおいて、彼自身の授業を計画し、また他の教授たちの授業との関連を考えることを、非常に重要なこととするものである。〔この場合において、〕教授は、ケースを通じて計画を進めねばならない。ケースは、ここでは、概念の伝達の媒介として用いられる。(p.64)

 西欧諸国において、ケース・メソードは、教室の授業時間に、学生たちが積極的に討論及び分析に参加するということに基礎をおいている。しかし、もし学生たちが、問題の真の洞察を行なうことに貢献するには、あまりにも若すぎたりまたは無経験であるときには、討論はあまり興味深いものとはならないであろう。 それ故一般的にいって、学生たちが年長であればあるだけ、ケース・メソードは良い働きをする。一部の国々において、ケース・メソードは、大学の学部の三年生もしくは四年生によって使用され、成功を納めた。

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◆加藤尚文(1960)『労務管理』三一書房

 いままでの研究法というのは、一定の形式なり抽象なりがあって(例えば教科書)そこから物事をみてゆくやり方であった。このやり方は概念の整理には便利であっても、生きた現実を殺したり、日常の処理には力がなかった。そこで考えだされたのがその逆をゆくやり方で、その最たるものが事例研究である。
今までのやり方をドイツ観念論風――戦前の日本は教育のみならず万般をドイツに学んでいた――とすると戦後のこの新しいやり方は英米経験論風であるといえる。「本もノートもない勉強」といわれるケース・スタディはハーバード大学が本山で、同学のビジネス・スクールの大学院コースは全部このやり方だそうだ。各人がもちよったナマの事実を全員が討議し、できればその中から原則をひきだす。何度もそれをくり返す。もちろんその事例は、討議の便宜上、本文事例6のように予め印刷しておき、それ以外は本当に何も用いない。 >223>
 戦前の日本では、英米法の演習に一部用いられてのみで、こんなこんなやり方は見向きもされなかった。ケース・スタディが日本の企業の注目を浴びたのはもちろん戦後のことである。人事院・国鉄などで研究がすすめられていたが、三ニ年ハーバードから招いたハンセン氏の箱根セミナーではじめて実施をみた。翌年8月人事院では『JST指導者研究会餒資料』を事例中心に作成し、同年末の継続課程用として事例集の作成に成功した。ついで国鉄関係で同様の出版物がだされた。このあたりから今までの翻訳調を脱し、三四年日本生産性本部と経営セミナーとの共催でわが国最初のケース・スタディが行われた。
 ネライは、具体的事例につきグループ・ディスカッション(集団討議)によって、原因を分析して問題点をだし、対策をたてるにあり。なしうれば原則を発見する、というもので、討議の過程に重点がおかれていることは、他の諸方式と同じである。だから、「リーダーはしゃベらない」がここでも鉄則である。

 日本の労働運動はもっとケースに学ぴ体験を整理すべきことを痛感する。おそらくはじめてと思われる、組合活動の事例集が去年(34年)10月に編さんされた。全国地方銀行従業員組合連合会(地銀連)編『職場の組合活動・続編1――事例集』がそうで、傘下単組のこの事例を収録している。(pp.222-223)

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◆坂井正廣、村本芳郎編(1993)『ケース・メソッドに学ぶ経営の基礎』白桃書房

 ケース・メソッドによる経営学教育は,まず,経営者にとって必要とされる分析技能(analitytical skill)を磨くことを可能にさせる。ケース・メソッドによる教育は,当然にケース討論をともなうことになるから,クラス討論において,「参加者は指導者や同僚学生の挑戦にさらされ,自分の主張と分析の正当さを擁護しなければならない。その結果,参加者は問題解決力を深め(a sharpning of problem solving),厳密に思考し,議論する能力を強める(a hightened abihtv to think and reason regorouslv)」ことになるとみられている。ケース・メソッドによる経営学教育は,学生たちを次々と新しい事態に直面させ,さまざまな分野で生じる問題の解決を迫ることによって,「経営者として彼らが出会う問題は,ある組織にだけ特有のものではないことを認識させ,よりいっそうの職業的経営感覚(a more professional sence of management) を発展させるようになる」 のである。このように,ケース.メソッドの経営学教育における意味を検討してみると,その内容に具体的な言及しなければ,ケース・メソッドのもつメリットだけを主張しているように思われるであろう。ケース・メソッドをひとつの全体として,教育システムとして取り扱うことは別の機会に譲らなければならない。 (中略)

 筆者は,かねてからケース・メソッドを論じる場合,その背後にある教育哲学を強調してきた。それは,すでに言及したが,アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの哲学である。彼は,「教育とは知識を利用する技(the art of the utilization of knowledge)を獲得することである。この技は,それを伝えるのに非常に困難なものである」と述べている>32>。知識は,それを利用する技能をもたないならば,実務家にとって生気のない,余計な荷物となる。新しい知識を絶えず注入することがなければ,技能は,その所有者に常軌的な事柄をさせるだけのものとなり,彼を倦怠に陥らせ,やがては新しい知識をもって技能を変え,よりよいものとし,さらに発展させうるような人によって,その技能は陳腐化させられてしまうことになる。(pp.11-12)

 吉田優治「第12章ケース・メソッド導入に伴う諸問題 第3節 大学教育の場合」(坂井正廣、村本芳郎編(1993)所収)

 

 参加者による討論は,理論的基礎が不十分であったこともあり,経験や勘による主張が多く,議論かみ合わない場合も少なくなかった。一方、ケース状況を十分に考慮する ことなく, 学習したばかりの理論を ケース 分析に無理やりに応用しようとする場合も少なくなかった。そのような欠点を多くもっていたにもかかわらず,ケ一ス討論の過程において他の参加者の意見を聞くことにより,新たな発見をしたり,自分の事実認識の甘さ,意見の誤りや弱点に気づかしめられたりすることも多かった。ケ一ス・メソッドは,学生たちに,研究に能動的に参加しているという意識を与え,経営学の諸問題を身逝な問題,自己の問題として感じ取らせる効果を確かにもっていたといえる。(p.236)

 第3の問題点は,ケース分析における理論の位置づけである。ケース分析用具として概念や理論を適用するに当たり,ケースを十分に検討することなしに,選択した理論に合わせ,ケース状況を分析することが少なくなかった。とりわけ,特定の理論を学んだ直後に行われたケース分析においては,この傾向が強かった。また,ケース分析に適用する理論を選択しようとはせず,直前に学んだ理論を選択する場合も多かった。村本芳郎教授は,桜井信行博土の論述を引用しながら,「原理・原則という理論の武器はいつでも使えるように用意しながら,現実のなかから複雑な諸要素,それらはケースに記述されている経営の具体的状況であるが,それを忍耐強く,綿密詳細に分析すること」の必要性を説かれ,「理論の武器を背後にもたないケ一ス分析は表面的な薄弱なものに終わってしまうだろう」と論じている。しかし,理論の武器を背後にもちつつケース分析を行うことは,理論の理解が十分でない初学者にとって容易ではない。
 第4の問題点は,ケース分析に対する評価についてである。ケース・メソッドには,唯一の解答がないことを知らされていても,インストラクタ一やその他の参加者からの評価を意識し,何が正しく,何が正しくないのかという観点から,ケース分析を行う傾向が強かった。それ故,インストラク夕一が最後に行う「総括」とでもいうべきコメントを唯一の解答と思い込み,分析の過程を軽視することが多かった。このことは、ケース・メソッドに対する受講者の基本的理解の問題であろう。(p.238)

 もっとも重要なことは,ケース・メソッドは学生への理論の教授がなされてはじめてその目的を達成することができるということである。それ故,ケース・メソッドにかかわる人々にとって,理論の教授,それに先立つ理論研究の必要性は,ケース・メソッドの実施とともにますます高まろう。理論研究の進化,そうした理論の教授とケース・メソッドの関連が深まることによってのみ,ケース・メソッドのさらなる発展の道が開けると いえよう。(p.241)

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◆桜井信行(1960)「経営教育におけるケース・メソッドの本質と問題点」『青山経済論集』12(3), 1-14

 ここで再び用語のことに関係するが、ここにいうところのケースを「事例」と訳することに、わたくしは賛成しかねる。なぜなら、ケース・メソッドにおけるケ一スは、よく「たとえば……」といって原理・原則などをやさしく説明するための事例(example)でもなければ、経営上の諸問題の正しい処理とか、誤った処理とかを示すための実例(illustration)でもないからである。アメリ力でも,そのような誤解が多いせいか,ハーバ一ド・ビズネス(ママ)・スクールのケースには、必ず次のような脚注が付されることになっている。すなわち、「ハーバード経営大学院のケース資料は、クラス・ディスカッションのための基礎として用意されたものである。ケースは経営上の諸問題の処理が正しかったとか,正しくなかったとかの実例を示すために作られたものではない」と。かように、ケース・メソッドのケースは、いわゆる「事例」ではない上に、メソッドも研究方法というよりは教育方法を意味しているのであるから、ケース・メソッドの訳語として「事例研究」は、まことに不適当であるといわなければならない。したがって,より適当な日本語があれば、それを訳語として用いるのに吝かではないが,片かなの「ケース・メソッド」を,そのまま日本語の訳語として用いることに,わたくしは賛成したいのである。(pp.721-8)

 すなわち,今日の産業社会は不断に変化する。その中で企業の状況も不断に変化せざるをえない。そのような新しい状況から発生する諸問題を常に処理しなければならないプロフェショナル・アドミニストレ一ターには,過去の経験や知識を伝授するだけでは意義が少ない。かれの当面する現在の状況は,過去の経験や知識を生んだ状況とは異なった新しい事態であって,この新しい状況においては,創造するということが決定的に重要でなければならない。過去の知識や経験は,それに役立つ限りにおいて有意義である。この新しい状況に直面しては,単に知っているということだけではなく,それを分析し,判断しなければならないのであって,その能力は知識の単なる集積よりも,はるかに重要である。ケース・メソッドは,新しいケース状況に次から次と直面させ,考えさせ,判断させることによって,あたかも実際経験によって鍛えられると同じように創造的に判断する能力を養わしめるのである。しかも,もし判断を誤っても,実際経験の場合のように,実害を伴なわないですむのである。(p.12)

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◆桜井信行、坂井正廣(1995)「人間関係論とケース・メソッド」『青山経営論集 (経営学部創設30周年記念号) 』30(3), 101-124

 それでは,経営とは,一体どのような機能なのであろうか。さきに,人間組織(以下,単に組織と言う)は,協力的活動の体系(協働システム)であると言ったが,協力的活動(以下,協働と言う)は,共通の目的を前提としている。
 そこで,この共通の目的を実現するためには,組織内の人々の意識的な活動が,目的に向かって有効に調整され,目的が実現されるまで,それが持続的に確保されなければならない。しかも,組織に参加している個々人の目的が,その組織の目的の実現を通して満足されるように配慮されなければならない。この組織目的の実現と個人的満足の達成とは,相互に密接に関連しているのである。
 このように,共通の目的に向かって人間協働を体系づけ,人々から協動を持続的に確保し,組織の目的を実現しながら,人々の個人的満足を達成する機能を「経営」と言うのである。この機能を担当するものが,「経営者」(administrator)にほかならない。したがって,経営は,組織に関わる一機能ではあるが,単なる執行的労働機能に比べて,組織の存立と持続にとって,はるかに重要な機能であると言わなければならない。労働の科学のみならず,経営の科学(経営学)が必要とされるゆえんがここにあると言えよう。
 ところで,経営者が,組織における人々から,その協動を持続的に確保するためには,強制や温情主義に訴えるのではなく,人々の自発性を喚起しなければならないであろう。経営者にとって組織内の人々の自発的協力を確保するために最も重要なことは,彼が,組織における人間行為と人間関係に対する深い理解を持つことであろう。ヒューマン・リレイションズ(human relations),すなわち「人間関係論」は,そのような「組織における人間行為と人間関係」を専門的に研究する学問として起こってきたものである。したがって,経営学とヒューマン・リレイションズとは,非常に密接な関係にあると言える。(p.106)

 レススバーガー教授は,次の三つの問題を挙げている。
1 個人と個人,個人と集団,集団と集団とのあいだにおいて,異なった条件,種々の関係において,どのようにして意思の疎通(communication) と 理解 (understanding) を 確保するかと いう ことに関する一般的な諸問題。
2 異なった環境や種々のフォーマル・オーガニゼーションにおいて,どのようにして人々に行動を起こさせ,協働を確保するかということに関する一般的な諸問題。
3 変化の中でも,個人的な均衡と組織的な均衡とを,どのようにして維>110>持するかということに関する一般的な諸問題。(p.109-110)

 

 ヒューマン・リレイションズは,研究調査の面では,臨床的方法を特徴的に発展させた。ここで臨床的方法というのは,医学から借用した用語であるが,医師が患者を診察するときのように,研究者が対象を直接,具体的な情況において研究する方法を意味している。これに対して,ヒューマン・リレイションズにおいては,その教育訓練の面でも,一つの独自的な方法を展開したと見ることができる。それが,いわゆる「ケース・メソッド」という教育方法(the case method ofteaching or instruction))にほかならないものである。(p.110)

 また,ケースは,決して,何らかの原理や原則を教えるための実例として与えられるものではない。ケースは,むしろ,理論や原理がそれらの中から引き出されてくるような現実の生の資料というべきであろう。(p.111)

 大学においては,子供のようにではなく,成熟した判断と行動がとれるように学生を導かなければならない。そのためには,教授の講義を聞いて,よく筆記して,それを覚えて,試験のときには,その通り答案に書けば,それでよい成績を与えるような教育だけでは駄目である。ケース・メソッドによって,はじめて,学生は,独創的に考え,自主的に判断する能力が育成されるのである。
 原理を応用して,情況に適合した判断と行動をとれるようになるのは,実際の経営者としての経験を通してであろう。しかし,実際にあたっては,その判断と行動を誤れば,取り返しのつかないほどの損失をまねくこともあり得る。ケ一ス・メソッドによる教育は,そのような損失をまねくことなしに,あたかも試行錯誤の過程を経て,現実の経験によって得られるのと同様なものを身につけることができるといって差支えなかろう。
 ケースの問題には,唯一の正しい答えというものはない。その討議に参加する学生も教師も,みなそれぞれに異なった過去の経験や知識や考え方を持っていると思われるが,それらのものが,ある一つの現実の問題情況を記述したケースにぶつかって,おのおのが自分はこのように判断し,自分がこの情況に置かれたならば,このように行動すると意見を述べる。それらの意見が全員一致した意見になるというようなことは,まずないと言ってよい。
 しかし,互いに議論をしていく過程において,自分の判断や考え方のみが決して絶対的なものでなく,自分と違った判断や考え方があるということを互いに学び,それらの中でよりよいと思われるものを採っていくのである。それこそ相互学習法の神髄である。その意味において,この学習方法は,全く民主主義的であるということができるであろう。ケース・メソッドにおいては,教師は,もはや一方的に教壇から講義する権威者ではなく,その学グループの一員となって,ただそのケースをグループの人々に提供し,それをみんながどういう風に考えるかという議論を刺激し,ときに人々を勇気づけ,議論を導いていくという立場に立つのである。
 学生たちは,自ら考えようとしないで,あるいは自分たちの考えが行き詰まると,直ぐに教師に権威ある解答を期待しがちである。しかし,教師は,直接に解答を与えるのではなく,学生たちが自分たちで,自分の問題解決を追及するように助け,その考え方の中に障害となっているものを発見し,もし発見できれば,それを取り除いてやるよう努力するのである。
 そのために,教師は,グループの一人ひとりを理解してやり,彼らの意見を最もよく聞いてやり,彼らが自ら進んで自分の意見を発表するような雰囲気を作っていくことが,その最も重要な役割となる。場合によっては,グループ・メンバ一の一人ひとりに対し,面接によるカウンセリングが必要とされるかもしれない。(p.113)

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◆山本 純一(1984)「事例教育法(ケース・メソッド)の実践的研究」『甲南経営研究』 24(3), 1-31

 ケース・メソッドは,それを研究し学習する主体(個人)が,ある所与の役割ないし機能的地位において,現実の経営の事例を,自己の解決を迫られた問題として,所与の状況において意思決定しなければならないという,事実による管理(management by fact)であり,プラグマテイズムによる教育方式であると規定することができるのである。

 ケース・メソッドは,原則として,その主体は個人であったり,またはプロゼクト・チーム的な小集団であることもあるが,何よりも,その個人の意思決定能力を高めることを本質としている。しかし,その問題解決による意思決定や,あるモデルの設計は,生きた人間の実践的学習過程においてなされるのであって,彼の勉強部屋や研究室において,いわゆる象牙の塔におけるデスク・ワークを主とした抽象的思考を通じてなされるのではない。それは,彼の社会的所存としての社会的行為に本質的にかかわっているのである。

 また次の項で述べるように,彼は,個人であるとともに,協働システムの中核である組織という意思決定システムの成員であるから,この協働の社会的行動システムに,組織的に関係しながら,学習し,自己啓発し,意思決定するという経験とキャリアを育成することが望ましい。(p.7)

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◆栗本 宏(1964)「アメリカにおけるケース・メソッドについて」『名古屋商科大学論集』(9), 135-141

 ケース・メソッドは,以上述べたように,経営責任者としての資質および能力の養成を主眼とする、大学院教育の方法として発展して来たのであるが,この目的達成のためには,教材として使用されるケースの研究が,極めて重要なこととなってくる。そして,そのケースの収録と整理については,いわゆるケース・スタディが十分になされねばならないのは当然である。すなわち,ケースの選択にあたっては,出来るかぎり,経営上の重要な問題点を含んでいることが望ましいことであり,経営の事実を,忠実に記述しただけのものでは,分折や判断の訓練をなす上においては不適当である。この意味において,ケースは、一般的事例よりも,むしろ,特定の場合のものが,教育材料としてはよいのであり,かつ便利である場合が多いのである。なぜならば,学生の大部が、経営理論や原理方法についての基本的な知識は与えられていても,特定のもとにおける,特定の問題の分析や判断に対する能力を,啓発する機会は与えられていないのが普通であるからである。従って,学生達は,いずれの問題に対しても一様に,或る固定的な理論をもって判断しようとしがちである。これに対しては,教師は学生達に,一般の原理ないし方法についての知識においては,当然に一定の限界のあることを知らしめなければならない。特に,今日の経営学にあっては,一股的な原則論よりも,常に変動する情況から発生する,特殊の問題に対しての判断や行動に基ずく,一連の対応能力を高めるための教育,すなわち,将来,この教育の効果を,社会において生かすことを目指す教育の方法が,より有力であって,単に,過去の知識や経験を,固定的・機械的に暗記するのみでは,実践の場において,実効を生じないとの考え方が強いからである。これが,経営大学院における教育が,経営責任者に必要な,対人・対物にっいての,事実の意義の把握及び,その相互関係の認識にもとづいて,的確な判断を下し,有効的,かつ迅速に対策を決定し,この方針の決定を,組織,あるいはラインによって,それぞれの部署に伝達するという意志決定者(decision-maker)としての能力を養成することにあると考えられている所以である。特に,わが国では,一般的な事物の判断に当り,ややもすれば抽象論での考え方が固定しており,そのため,現実の利害得失や,細かく>140>実態を考慮した上で議論しないという欠陥があるように思われる。ケース・メソッドを取りれるに十分な環境は、わが国の大部分の大学ではいまだ育成されていないけれども、現代大学教育における短を補うものとして今後の経営・経済関係の大学に採用されることが望ましいと考えられるのである。(pp.139-140)

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◆Kahana Tsvi、桑原昌宏 訳(2004)「北米ロー・スクールに於けるケース・メソッドとソクラテック・メソッドによる法学教育の現状・課題と実演;ソクラテック・メソッドとケース・メソッドの実演シナリオ――トリニティ・ウエスターン大学事件 連邦最高裁判決を素材にして」『愛知学院大学論叢 法学研究』45(3), 256-249  

 批判は多くあるが,簡略な概観を意図しているこの論文ではその全てを類型化して紹介するには,その数が多すぎるので,特に述べるに値する二つの主たる批判についてここ紹介することとする。
 第1の見解は,このケース・メソッドで学ぶ範囲が狭すぎるという点に 向けられている。(中略)判例のみを集めたケース・ブックは,学生に対し,法的紛争についての法的な(それに純粋培養された)結果のみを提供することになろう。この種のケース・メソッドでは,学生は取り上げられた判例を含む大きな背景を確認することはなく,そこに残されたのは,その判決と関連する重要な社会的正義を含め,その判決と法制度を支える,あるいはその判決を支える哲学的な判断に関した重要な問題も問おうとしない。
 第2の批判は,学生に曲解した理解を与えると主張する批判がある。このケース・メソッドの下では,上訴審の判例7>文章化されたものを読むのであるが,上訴審の判決に見られる裁判官の意見は,訴訟の過程をそこまで辿り着く数少ない事例の結果に過ぎない。現実に生起する多くの事件は,事実審の段階さえも行き着かないし,その段階を経た場合でも,上訴審まで行くのはさらに数少ない。その結果,上訴審の判決に絞って学ぶことは,法的紛争の当事者が選びうる無限の選択肢のほんの一部を学ぶことでしかない。このことは,弁護士実務で実際に直面する,法的紛争に関する事実をどのようにして提示するのか,論陣を張るに際してどのような法>125>的論点を提示するのか,その法的紛争の解決のために役立つ選択肢で,当面する諸問題と密接に関連する選択肢は学ばないのである。この欠点はジェローム・フランクをしてかって嘆かしめた次の言葉に繋がる。
「ラングデル制度で教育を受けた学生は,花を切ることだけを学ぶ園芸家のようであり,また,建物の絵だけを学んだ建築家のようである。彼らは縫い包みの犬しか知らない養犬家に似る」
 要約すれば,ケース・メソッドは,法律実務一般の現実とは,かけ離れた方法である。現実に依頼者の依頼する事案は,判決と違い,担当する弁護士のために,依頼された事案の事実,問題,法令,分析が,既に詳細に説明され巧く整理された形で提示されるのではないのである。(pp.124-125)

 ラングデルは,ケース・メソッド教育方法とソクラテック・メソッド教育方法を連動させて使った。今日でもこれ等二つの教育方法はあたかも一つであり,また同じであるかのように理解されていることがしばしばである。しかし先に述べたように,そうではない。カナダのロー ・スクールでは,ケース・メソッドが圧倒的に多く用いられているが,その教育方法が,ソクラテック・メソッドと連動させて使われることは極めて稀である。
 ケース・メソッドの支持者は,ソクラテック・メソッドと連動させて用いる理由を次のように説明する。
 ソクラテック・メソッドという教育方法は,ケース・メソッドの持つ基本的な目的に沿う意味で完璧な補完的役割をもつ。具体的には,その方法は学生が新しい知識を修得するために,理由づけの基礎と解釈を検討させる方法であるからである」。>126>
 ラングデルの教育方法を有名にしたのは、学生に弁証法的にあるいは詳細に検討する思考方法を取らせるために問答方式を使ったからである。この方法の基本は、教員が学生と対話を続けることである。 (中略)
 ソクラテック・メソッドでは、教員の仕事は、学生とより厳しい論争を試みることである。この教育方法は、講義とは違い、教員は学生に対し常に質問を出さねばならず、それに対する学生の回答を、さらに展開した質問で対応する。この間、この質問を通じて、その学生自身が正しい回答にたどり着く方法で、正しい問答に導かねばならないのである。この教育方法について,優れた説明は次のようである。
 「この方法は,学生が,同級生と教員の前で,現に弁護士らしく振舞い,法律家らしい分析をすることを学ぶよう手助けするものである。このことにより,学生は自分では想像もしなかった答えを発見することができることに自信を深めるようになる。また,同様に,学生が解決すべき問題を考えることを通して,それへの理由付けをすることができることに自信を持つようになるのである。さらに,教室では,そのクラスの予習段階で,これ等の質問を自問することが出来た答であることを理解するのであり,また,復習の段階では,教員がした質問を学生自身が,自分に対し自問することができることを自覚するのである。こうした質問を自分の中で行うことは非現実的なことではない。これこそ法的理論構成を修得することの真髄であり,従って,ソクラテック・メソッドのもた>127>らす教育効果である」
 この教育方法の最大の恩恵について,賛同者によると,「学生自身が自らを教育することであり,学生はクラスで質問されるのと同じ質問を自問することを早い機会に学ぶのであり、ソクラテック・メソッドがよい教育方法であると主張する側からは,全てのロー・スクールのクラスでこの教育方法が採用されるのが好ましいことを理由づけるのに,これ以外の多くの論拠が提示されている。まず,クラスでの教員と学生間のやりとりから,学生がクラス参加により興味を持つようになり,その結果,学生の向学心を増す。もう一つの論拠は,クラスで教員から当てられる可能性があるので,同級生や教員の前での回答で成功したいがために,充分予習をした上でクラスの出席する動機が与えられる。このことは先に述べたように,もし学生が充分な予習をして来るのであれば,さらに学ぶようになるというにある。最後の論拠は,この教育方法が,「例えほとんど答えが見出せないであろうほど難しく見える時も,学生は答えを見出さねばならない」のであるから,学生に考え抜く創造性を育てるというのである。
 しかしながら,ケース.メソッドがそうであったように,教室でのソクラテック・メソッドに対しても批判する意見がある。その批判は多くあるのでこの短い原稿に適切に要約することはできないが,主たる点についてはここに紹介する価値がある。
 第1の批判は,その問答形式が「詳細に検討する(弁証法的)問答」ではないのではないという点にある。つまり,本来は,教員は学生と問答するに際し,学生と共同して共に考えるとういう精神の下では,教員自身が答えを持ち合わせていない真の質問を提起するという,弁証法的なもののはずである。ところが現実に教員が行っているのは,ずっと論争的な,>128>「論争コンテストで論争相手に勝つための一種の知恵比べ」である。この論者によると,「ソクラテック・メソッドで教える教員は,不完全な答えしかできなかった学生の回答を直ちに批判し,答えられない学生を人前で名誉を失墜させ,屈辱感を与え,馬鹿にし,その人間性を失わせる」。明らかに,これは良心的な教員にとっての教育目的ではない。ここには,この教員が考えている学生への教育的動機にも拘わらず,真剣に考えるべき問題がある。それは多くの学生が,ソクラテック・メソッドで,教員から質問されることをどのように受け取っているかを正確に知ることである。
 教育学の論文によると,「教員が次から次への学生に質問することは,その質問を受ける学生を,受身で,抵抗し難く,知識がないと感ずるような状態に追い込む」。実際のところ,歴史的に見て,多くが男性で圧倒的に白人で占められてきたロー ・スクールの環境の下で,ことに女性,そして一見して明らかに社会的に少数派と見られる人々は,ソクラテック・メソッドが用いられるクラスで,疎外感を持つことが多いと報告されている。
 第2の批判は,第1の批判と密接に関連しているが,ある種の学生にとり,ソクラテック・メソッド教育方法に不可分な,人前での質問されることから生まれる否定的な反応である。「多くの学生にとり,その返答が正しい内容であるかどうかとは無関係に,教員と同級生の前で,答えなければならないかもしれないこと自体が,酷く怖れをもたらすものである。もとよりこの恐怖があるから,多くの学生は注意深く予習をしてくることを促す。しかし,ある種の学生は,何時当てられるかもしれないと考えて,怖れを抱き,また逆に,当てられないなら当てられないことで,安心感を過度に持つのである」。それに加えて,聡明で良くできる学生でも,教員からの質問に対し誤った答えをしてしまい,他の学生の前で自分の理解が不十分であったことも判ってしまうのは,本人にやる気をなくすとことに>129>充分なり得るのである。
 第3に,叙上の二つの批判と関連するが,ソクラテック・メソッド教育方法は,ロー ・スクールのクラスで,学生間に不健康で,非生産的な競争状況を醸し出すという主張がある。この批判からすると,学習環境で最も好ましいのは,学生間の協力的関係であるにも拘わらず,教員からの連続的な質問を受ける学生は,同級生の前で次から次へとテストを受けているようなもので,協力的関係とは逆の学習環境に置かれる。つまり,質問を受ける「学生は全て,しばしば,同級生に対し,自分の知っているところをお互いに教え合うというよりも,自分が教員の質問に答えられるということを示しあう競争に曝される」。この見解によると,ソクラテック・メソッドは,「学習を助け合うよりも妨げる雰囲気をクラスに現に醸し出している」のである。
 最後に,ソクラテック・メソッドを用いることへのもっとも直接的な批判は,学生に心理的に否定的な影響をもたらすにとどまらず,多くの学生の頭に混乱をもたらすような質問を際限もな〈提起するという批判である。(中略)
 教授が取り上げる判例が複数あって,それら相互に矛盾し合う判例を教室で取り上げている場合に,教員がそれらの判例を支配する法原則を学生に明確に告げることなく,ただただ,質問を学生に突きつけるばかりであると,多くの学生はソクラテック.メソッドが用いられている教室で,混舌しだけを感じる。こうした状況になることを予見することは,おそらく充分可能であろう。幾人かの教員は,「こうした混乱を最小限に押さえるのに,現在確立している判例上の法原則が何であるかという点に学生を辿り着かせるよりは,問題となっている法的問題について相互に対立する見解があることを知らせることが,重要であることを強調し過ぎている」。それ故に,ソクラテック・メソッドは「平均的な学生を犠牲にして,よくできる学生のみの要望に答える」傾向があるという見解もある。この批判によると,よくできる学生のみが,試験でうまく答案を書けるように,教室で取り上げられた複数の判決を正しく総合的に考え,かつ先例となっている法原則を識別して,これらの判決を捉えることができるであろう。そのレベルに達しない一般学生は,それらの判決における法原則が何であるかといった基本的な問題を十分理解するのに頭を悩ませていて,クラスで取り残されるであろう。(pp.125-130)

 北米の学者の間に増加しつつある批判法学派は,問題解決教育方法:プロブレム・メソッドという教育方法を採用するよう主張して,教育方法の徹底した転換を強く主張している。この方法によると,教員と学生は,「弁護士になれば,実務に於いて遭遇するであろう複雑な状況に似た,幾つかの判例と制定法に跨る幾つかの問題を」,協同して解決策を探るの>132>に多くに時間を費やすのである。この方法は,ケース・メソッドよりも優れているといわれているが,その理由は,この方法によると,「学生は,クラスの他の学生が教員から出された質問で問題となっている法律問題への回答を見出すのを,推測して見ているのではなく,自ら自分で回答を見出すことを教えるからである」。この20年で,プロブレム・メソッド:問題解決教育方法は,多く採用されるようになった。このことは,法典に依拠する内容を教える科目でいえる。(pp.131-132)

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◆坂井正廣、辻村宏和(2000)「ラルフ・ハウアーのケース・メソッド論――「高等経営講座のための最終講義」(1948年)を中心として」『国士館大学政経論叢』 2000(1), 97-128,

 ハウアーは,「高等経営講座」において「経営実践論」を担当していたが,講義を意識的に避け,なによりも参加者たちの相互の話し合いを求めた。そのようなアプローチを採用した狙いは,何よりも参加者たちの思考を育むことにあった。ケース・メソッドの目的の一つは,そこにあるからである。他のインストラクターと同じように,指導者としてのハウアー自身もまた,その学習プロセスにおいて影響を受け,育成されたことはいうまでもない。ケース討論による学習は,ジグソー・パズルのパターンともいうべきものに>103>収めるべき多くの断片を学習者に残したまま終了する。そして,多くの断片をパターンに収めるという作業は参加者たちの手に委ねられるのである。一般に教師が本来担うべきであると考えられている理論構築とでも言われるような作業は,学習参加者自身の手に委ねられると言ってもよい。このことは,伝統的な教師という立場からすると,ケース・メソッドは,教師にとって,しばしば「後味の悪い教授法」であるということになりかねない。学習參加者の主体的な経験の蓄積と整理に基づく,それぞれの「解」の探求が求められるからである。しかしながら,ハウアーは,高等経営講座のコースが時間的にも限られていることもあり,理論構築というのではなく,ケース・メソッドという教授法の特質に即して,彼自身のやり方で,多数の断片をパターンに収めるという作業を試みようとして,この「最終講義」を準備したのであった。(pp.102-103)

 「経営実践論」において,人々が何よりも最初に理解しなければならなかった問題の一つは,いかなる経営情況であれ,それがもっと甚だしい複雑性(the extreme complexity ot any administrative situation)であった。ケースの登場人物は誰一人として,一人の部下,あるいは一つの部下の集団との関係という単純な情況にではなく,しばしばネットワークを形成する非常に多くの諸関係に直面していたのである。したがって,組織における行動は非常に多くの決定要因の合成物であるということができる。活動の基礎になるものとして,その一つあるいは二つを捉え,残りは無視するというようなことは,問題の誤解を生み,誤った問題解決へと導くことになる。そうした考えに基づき,ハウアーはクラス討論において頻繁に利用した「行動に対する影響要因」という図>107>を提示する。(中略)
よい経営者とは,人々の集団,彼らの感情と態度,行動準則を観察するということである。また,例えば,人々が個人ベースで働いているか,作業それ自体が人々の相互作用をともなうどうかなどなどを理解するように職場情況を観察することである。更にはまた,個人的な背景に関する情報を直ぐに入手できるように配慮することである。「われわれは誰もみな,それがどのような経営情況であれ,それぞれの個人的なものの見方をそこに持ち込む。しかも,その個人的なものの見方は現在の環境および過去の経験の合成物なのである」>108>
職場情況は一つのシステムである。その構成要素のどれ一つを変化させても,それが全体に対して重要な意味を持つ。したがって変化の導入方法が重要な問題となってくる。経営者が彼の手中にある事実の全てを全体情況(the total situation)との関連において検討するとき,そのときにのみ真に意味のある考えを持つことができるとハウアーは主張する。経営実践にあたる者が絶えず心に留めておくべきことは,情況の分析にあたって,自分が直接に関わる人々の感情とその情況に自分自身が持ち込む感情の両者を考慮することであるとされる。(pp.106-108)

 これまでの論述から,経営情況がどのようであれ,経営者自身の態度こそ,最も重要であるということが明らかになったであろう。経営者の態度は基本的な要因である。経営者の態度および彼自身の先入観が,必然的に出来事に関する解釈や考え方に影響するのみでなく,経営者の行動のそうした側面が従業員の経営者に対する反応に影響するからに他ならない。(p.109)

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◆竹内弘高(1988)「ケース・メソッドを考える――ハーバードと一橋での経験から」『一橋論叢』 99(4), 455-472

 弁護士や医者を輩出している両者に比べると、ビジネス・スクールのステイタスは相当低く、MBAという称号を企業から認めてもらうのに苦労していた時代であった。
 いかにしたら、世の中が認めてくれるプロフェッショナルなマネージャーを育成できるであろうか。これが課題であった。(中略)ロー・スクールでは、判例を中心に授業が組み立てられていたし、メディカル・スクールでは臨床講義を多用していたことが目にとまった。双方とも「問題解決」のために「受講者参加」によって、分析、診断が行われていた。
 これらの特徴をビジネス・スクールでも取り入れることとし、そこで生まれたのが企業を中心に書かれたケースである。プロフェッショナルなマネージャーを育成することはまず、企業の管理職が日常的に直面する問題に接することである。そして、ディスカッションを通じて問題解決の手段を模索することである。その過程において分析のノウハウを身に着けるはずである。これがケース方式のルーツとでもいうべき考え方なのである。(p.456)

 クラスでは、ひとつのケースを1時間20分かけて、さまざまな角度から検討する。学生は各種の事実やデータを分析し、自分蟻の提案や結論をもってクラスに臨む。そして、発表の場が与えられると、それらを裏付ける定量的・定性的な立証を行う。学生はくる日もくる日も、教師やクラスメイトから自分の考えや分析について追求(ママ)される。このような過程を経て、問題解決の方法を考え出す能力が開発されるのである。(p.459)

 正解がないからこそ、学生は自由な議論ができるのである。大切なことは「何をするか」ではなく、そこに行きつくまでに、どのようなロジックをもって分析と検討を重ねたかである。ロジックの組み立て方、つまり思考プロセス自体が評価の対象になるのである。一人一人の学生が、自分なりの考え方を模索することで、様々な角度から分析が加えられ、議論が活発になる。もし、正解があるならば、議論は教師を中心に収斂してしまうであろう。(p.465)

 (前略)そうでない学生でも、ケース・メソッドに対して次のような不満を抱いているものは少なくない。
1、結論がまとまらず、混乱したまま、クラスディスカッションが終わってしまう。
2、多くの重要な点が見過ごされたまま、ケース分析が終わってしまう。
3、ケースに無関係なコメントや、くどくどしたコメント、間違っているコメントによって、授業時間が無駄になる。
4、ケースについて、自分の感情でモノを言う学生が多い。そのような感情は、他の学生にとっては理解できないし、訊きたいとも思わないし、苦痛ですらある。
5、学生は経験が浅すぎたり、勉強不足のため、間違った結論を出す可能性がある。教官の方がより多くの資料を持っており、より深く正しい理解をしているはずなので、そういう時はすぐ訂正すべきである。(p.470)

 最後に、企業サイドからどのような批判がなされているのであろうか。その多くは直接ケース・メソッドに対する批判というより、その中で育った学生に対する批判である。ある米国企業の人事部長いわく、「ケース・メソッドの文化の中で育った学生は、すぐ自分を社長の立場に起きたがる。頭の中でそうすることは構わないのだが、それが態度にまで出てしまう者もいる。それに、問題解決施行なのは結構だが、回答を1時間20府二内に出そうとする。そうすると、どうしても短期志向になりやすい。」のである。(p.471)

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◆佐野享子(2003)「大学院における高度専門職業人養成のための経営教育の授業法に関する実証的研究――ケース・メソッド授業がめざす経営能力の育成とその方法に焦点を当てて」『大学研究』 (26), 93-116

 ケース・メソッドにおいては学生はケースから考えられる問題について様々な角度から意見を出しあって討論し、教師はクラスの討議が有益な展開となるように論点の流れの舵をとる。ケース・メソッドは、受講者が学ぶべき知識や理論を教師が講義するものではない。また討議の素材となるのは現実の経営事例であるため特定の理論が前提となってケースが記述されているわけではなく、ケースを通じて特定の理論を教授することが授業のねらいにあるわけでもない。むしろ>95>授業における教師の役割として重要なのは、討議が有益な展開となるための舵取り、すなわち教師から学生に対していかに問を発して討議を進めていくかという点にあると考えられることができる(pp.94-95)

 ここでは、経営場面における人間相互の関わりを重視する考え方が見受けられる。経営問題の本質が、どのような経営技術を用いるかという点にあるのではなく、経営に関わる関係者の行動への対処の問題であると捉える独自の経営観がそこに看取される現実の経営問題の正解が一つに定まらないとする個別論重視の考え方も、現実の経営場面に関わる関係者がそれぞれ異なるとすることに由来するものと考えられる。ケース・メソッドにおける教育のねらいは変化する情勢下での思考力育成にあるとデューイングは述べていたが、この点についても、変化する情勢下において関保者の対処が変化する、その中での思考力の育成の問題であると捉え直すことができるのである。
 このような独自の経営観を授業法に反映させたのが、まさにケース・メソッドであると言ってよいだろう。ケース・メソッドにおける討議の場は、まさに参加者相互が関わりあって意見を述べ合う場である。ケース・メソッドではビジネスの個々の現実問題を素材としたクラス討>98>議を通じて、ビジネスの現場における人間相互の関わりの中から経営者としての対処の仕方について意思決定を行う過程を疑似体験させているのである。(pp.97-98)

 第一に、大学院において職務の実際に即した授業を行う際には、社会人としての実践経験と理論とをいかに結合させて授業を構成するかという点が考盧されなければならないという点である。
 授業後に学生に感想を尋ねたところ、KBSがケース・メソッドの授業を特色としている点を承知した上で入学していることから、授業において理論の講義がほとんどなされていないことへの不満を聞くことはなかった。本授業ではあらかじめ教科書を指定して予習をさせたり、主要部分について理論の解説を行うなどしていたが、KBSにおける他の授業では教科書の指定すらほとんど行われないとのことであり、授業の内容が理解しやすいという点で本授業は学生に好評で>104>あった。(pp.103-104)

 第三は、学生の目先のニーズにとらわれず学生が真に身に付けるべき経営能力とは何かを見極める専門性を教師が持つ必要があるという点である。ケース・メソッドは経営の現実を重視した考え方に依拠しているが、そこでめざされているのはあくまでも変化する情勢下で思考する力である。したがって学生がこれまでの職務経験では体験してこなかった意思決定への思考の道筋に対しても教師は的確に学生を誘導していかなければならない。(p.104)

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◆加藤一郎(1963)「ケイス・メソッド論 上」『ジュリスト』287,46-51

◆加藤一郎(1963)「ケイス・メソッド論 下」『ジュリスト』288,42-48

 ラングデル自身は、この方法を科学的方法(scientific method)と呼んだという。これは、ケイス・メソッドが具体的な判例から帰納的に法を見出すといい方法であり、他の科学と、法を対象とする>47>という点で異なるだけで、帰納的方法そのものは同じであると考えたからであった(pp.46-47)。

 ただ、現在のケイス・メソッドは、初期のケイス・メソッドからかなり発展したものになっている。初期のケイス・ブックは、判例だけを並べたものだったが、現在のケイス・ブックは、判例を中心としながらも、そのほかに、基本的な事項についての解説、著書・論文からの抜粋、立法・外国法または統計などの資料、関連して考えるべき問題などを含んでいるのがふつうである。そこで、書名も"" Cases and Meterials on…”とするものがふえてきている。もっとも、教室では、これらの材料をいちいち取りあげるわけではなく、討議の中心はやはり判例であるのがふつうであるが、こういうものを読んでくれば、学生の理解や考え方が早く、広く、かつ深くなるわけである。また、課目によっては、判例以外の資料の方が主になっているものもある。このように、必ずしも判例と限らずに、判例も含めて、具体的な事例を中心とする討議を通じて教育する方法を、広く、プロブレム・メソッド(problem method)と呼んでいる。ケイス・メソッドも、プロブレム・メソッドの一種といえるが、本来のケイス・メソッドの発展がプロブレム・メソッドを生んだのである。(p.47)。

 第三には、ロー・スクールがもっぱら法曹志望者のための教育機関であるということがあけられる。つまり、ロー・スクールの学生は、すべて卒業後弁護士試験を受けて弁護士の資格をとり、法律の専門家(法曹)として立っていくつもりである。だから、かれらは、日本の法学部の学生のように、「自分は何のために(あるいは何の因果で)法律なんか勉強するのだろう」という悩みをもったりすることがない。法律の勉強はみずから選んだ確定コースであり、その道の上をひたすらに進みさえすれはよい。そういう意味では、ロー・スクールは日本の司法研修所と似ている点があり、日本を知っているアメリカの法律家の中には、司法研修所こそロー・スクールにあたるものだと考えて、これを高く評価する人が少なくない。
 このようにロー・スクールの学生がすベて法曹志望であるということは、ケイス・メソッドと深い関係がある。討議の中からよるべき原理を明らかにするというケイス・メソッドは、弁護士その他の職業法律家の教育のためには、きわめてすぐれた教育方法だということができよう。また、ケイス・メソッドのためには学生の積極的な意欲、具体的にいえば、十分な予習と勉学上の熱意とが必要であるが、このような前提条件も、ロー・スクールでは、学生の法曹志望ということによってみたされているわけである。(p.47)。

 このように、判例が大量であることは、同時にその内容が多種多様の豊富さをもつことを意味している。それだけ多くの訴訟があれば、ふつうに考えられるようなあらゆる種類の事件が裁判所に出てくることになる。たとえば、A1の事実に対して結論がんの判決があるとすると、それと少しずつ事実の違うA2、A3の事件について、結論がX1、Y1、Y2の判決を見つけることが、アメリカでは容易にできる。そこで、わずかの事実の差がいかに判決に影響を与えたか、どの事実が結論をXからYに変える上での決定的な要素になっているかを、これらの判決の比較から導き出すことができる。右の例でいえば、んとんの事実の違いが、結論をXの系列からYの系列に変えたことになるのである。このようにして、類似した事実をもつ判例の中から、法的な原則を引き出すことは容易となり、それを帰納的方法によって行なうことができるわけである。
 つまり、事実と結論とを縦軸と横軸とにとって、その対応関係を図表にして見た場合に、アメリカの判例は直線の形で連続的につながっているのに対して、日本の判例はとびとびの点があるにすぎないことになる。もっと正確にいえば、アメリ力の判例は星雲状に点が密集しており、結論についての境界線をその間を縫って引くとすれば正確に引けるのに対して、日本の判例は、あちこちにちらばっているだけで、境界線を引こうと思ってもうまく引けないということになるてあろう。(p.42)。

 アメリカの判例には、形式的に先例から結論を演繹するだけでなく、なぜそういう結論をとるのが実質的に妥当であるかを論じるものが多い。先例によるとしても、先例から形式的に演繹するわけではなく、なぜその事件にその先例が適用されるかが実質的に論じられる。このような実質論は、大きくいえば正義・公平>43>の見地から論じられるわけであるが、そのほかに広い意味での政策的理由、つまりパブリック・ポリシー(public policy)、ソウシャル・ポリシー (social policy)、あるいは裁判管理上の便宜(たとえば、ここで救済を打ち切らないと、切りがつかなくなって、濫訴の弊が生じるというようなこと)などが正面から論じられている。
 これは、一つには、成文法主義でないために、条文というような与えられた権威から形式的な演繹によって結論を出さなければならないというドグマがアメリカでは存在しないということによるものであろう。しかし、わが国のような成文法主義の下でも、裁判官が実際には右のような実質的判断によって結論を出していることが少なくないと思われる。ただ、それは裁判官として理論的に許されないことだと考えたり、あるいは少なくとも、実質的判断を述べることをおもはゆく考えたりするために、判決理由にはそれが現われず、もっぱら条文からの形式的な演繹で結論が出たように装われているのである。このことは、第一に、判決の背後にある実質的理由を蔽い隠し、それについての考察ないし批判を封じることになる。われわれは、そういう実質的理由を臆測して、当るか当らないかわからないような議論をせざるをえないことになるのである。第二に、それは、判決とは条文からの形式的な演繹であるとのドグマをますます強固にし、裁判官に実質的判断を回避させ、弾力性のない機械的な判決を増加させることになる。
 このようにわが国で実質的理由が論じられないのは、決して裁判官だけの責任ではなく、わが国の法律学ないしは法学教育全体の責任であるが、こういう行き方は速かに改めていく必要がある。すなわち、われわれは、裁判官が実質的理由によって結論を出すという事実を直視し、それをむしろ正面に出して論議すベきなのである。これは法律の条文を無視しろというわけではないが、条文は通常の場合を予想して立てられた一般的な原則であって、それが世界の隅々までを支配するわけではない。裁判所に出てくる事件は、条文に示された一般原則の適用が疑問とされる場合であるのがふつうであり(そうでなければ結論ははじめからきまっているはずだ。そこでは、実質的な判断が重視されなければならないのである。(pp.42-43)。

 成文法主義の下では、成文法が第一次的な法源であって、判例はその下で事実上の法源として機能するにすぎない。したがって、アメリカでは、ケイス・メソッドによる判例の勉強が最も重要であり、しかもそれだけでいちおうたりるのに対して、わが国では、判例だけではどうにもならず、もとになる法規についての体系的な知識がどうしても必要である。この点は、ケイス・メソッドの当否の根本にふれる問題である。たしかに、ケイス・メソッドは、コモン・ローの下で発達した教育方法であり、コモン・ローについて最もよくその効果を発揮する。もっとも、アメリカでも、州によっては法典の多いところもあり(たとえば、力リフォルニア州には、民法をはじめわが国の六法のような法典がある)、そこでもケイス・メソッドは効果をあげているが、それは、コモン・ローに属する分野>47>では、法典化がなされても従来のコモン・ローの判例がその解釈の基礎となることが多いためであって、必ずしも大陸法系の成文法主義の国に同じことがあてはま フるわけではない。
 しかし、成文法主義の下でも、単に法規の体系的知識を得るだけでなく、法的なものの考え方を養うことが、もとより必要であり、そのためにはやはりケイス・メソッドがすぐれている。また、法規の体系的知識といっても、条文は一般的な原則を記しただけであって、判例で具体的にどう問題が解決されるかがわからなければ、実際の役には立たないわけである。そうしてみると、ケイス・メソッドをそのまま成文法主義の下に持ちこむことはむりだとしても、ケイス・メソッドの基本を採り入れることは、十分価値があると思われる。たとえば、オーストリアのレードリッヒも、コモン・ローと大陸法との基本的な相違のためにケイス・メソッドをそっくりまねることは不可能だが、ケイス・メソッドの基本的な考え方、すなわち、学生の側での独立の知的作業というような点はもっと取り入れるべきであり、いままでのような学生の出席の自由、教授の一方的な講義というやり方は再考する必要があると述べている。そこで、わが国でケイス・メソッドを採用する場合の具体的方法としては、ケイス・メソッドに入る前に、または、それと平行して、法規についての基礎的な知識を講義によって支えること、あるいは、学生にその点についての教科書を与えてそれを読んでこさせること、さらに教材として、判例だけでなく、立法資料、比較法的資料など幅の広い材料を取り入れることなどが考えられよう。(pp.48-47)。

 以上、かなり長くこの注意書きを引用したのは、それがケイス・メソッドの精神をいきいきと描き出しているからであつた。第一に、ケイス・メソッドの中心は予習にあること、第二に、判例を徹底的に読みぬくこと、第三に、異なる判例を対比しながら、その差異を生み出した変数を見出すこと、第四に、教師に頼らず自分自身で考えること-------これらは、まさに、ケイス・メソッドの核心なのである。さらに、右の記述の中からは、ケイス・メソッドのきびしさを読み取ることもできるはずである。(p.50)。

 まず、わか国では本来のケィス・メソッドよりは、いわゆるプロブレム・メソッド、つまり判例のほかに多くの資料を加え、個々の判例の検討よりは、具体的な問題をどぅ解決すべきかに重きをおく行き方の方が適当だと思われる。それは、わが国が成文法主義をとっていること、判例が貧弱であり、また判例だけでは法規の主要部分さえも必ずしもカバーできないことなどのためである。(p.48)。

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◆平野竜一、加藤一郎、新堂幸司(1967)「ケース・メソッドの体験をめぐって――法学教育改善の一方法(鼎談)」『ジュリスト』 (368), 76-88

 

平野 その点は全くそうだと思います。私も初め四、五回かなり徹底してケース・メソッドでやったのです。学生や一般にモラリストですから、けしからん行為は処罰しろという気持が強いし、そういう発言も多いのですが、議論しているうちに、人を処罰するということはそう簡単にはできないのだという気持がわかってくる。そう簡単にはなっとくしない人もいますが、「処罰すべきだ」という感覚と対抗する「感覚」としてそういうものを感じとるようになる、ところが一九世紀になって罪刑法定主義が主張され、それが近代刑法の基本原則で、それにはこういう派生的な原則がある。したがってこういう類推解釈は許されないのだという教え方だと頭ではたしかによくわかるのでしょうけれども、感覚的にはわからない。だから新しい問題にぶっつかると、自分の感覚を頼りにすることができず、何かこれについて書いたものはないかを探すという行動様式をとることになる。です力らそういうやりかたを貫けばなにぶん現在は実質三力月しかない、その三力月でとにかく刑法全部を教えなくてはいけない。谷からはい上がるのには時間がかかるので、はい上がらないうちに時間が切れるということになりそうだったので、私は気が弱いものですから講義式を採り入れるようになったのですけれども、一年、あるいは半年でもみっちりやる時間があれば、刑法総論くらいはケース・メソッドでやるほうがいい。いずれにせよ、初めからケース・メソッドでやるところに値打ちがあるので、初めの講義でやって後でやるということは、それほど意味がないのじゃないかという感じさえするのです。(p.84)

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◆井上正治(1956)「ラングディル――ケースメソッドの創始者として」『判例時報』 (86), 2309-2313

 しかしその法律学の原理は数世紀にわたって判例の中にしかもその中にのみ展開して来たことを説く点にこそ、コマン・ローの国の大きい特色があろう。その原理をどう理解するかは、著者の判例の選択の中に具体化して語られる。「法律学は科学である。」かつてブラックストンによって提唱されたこの画期的見解は、大いにもたついたがついにラングディルによってまさに巨歩をふみ出した。しかし、すべて法律の原理はケース・ブックにそしてそれのみに存すると考えたことは、法律学を甚だ狭隘なものとしてしまった。ここに至ってラングディルをしてブラックストンと袂を分たしめる。そこには歴史的研究もなければ比較的研究もない。まさに法律は自定的なもので、すベての結論はそこからのみ導かれる。これでは、ケース・メソッドが法学教育の方法として非難にさらされるに至ったことは当然であった。(p.5)

◆井上 正治(1956)「ケース・メソッド」『判例時報』 (90), 2421-2425

 エドマンド・エム・モーガン(Edmund M. Morgan)は、ケース・メソッドを分析して、大体その中にある三つのヴァリエイションを明らかにしている(Harono, ibid, P. 63)。第一は、法律原理を理解させる媒介物としてのみ判例を引用するもの。しかし、これは原理を理解させるためにも余り役立たない、とモーガンはきめつける。第二は、当事者の法律関係について法的に意義ある事実とそうでないものとを学生に選り分けさせる方法。この方法は、学生にケースの完全な理解のみを期待する点では第一のものにまさるが、しかし、最もすぐれた.ケース・メソッドというわけにはいかない。そこで最後に第三の方法がのこる。ここではまず学生にケースをしャベらせ、場合によってそのケースと本質的には 異ならない事実を仮定することからはじめられる。また議論の過程では教師は異なる事実を設けることもあろう。そして、学生をして判決が正しいかどうか考えさせ、そして同時に学生じしん結論を出すように指導する。その後で、プロブレム・ケージズとして、他の裁判所における判例を教え、且つ、立法ではどう解決されたかを顧みる。この第三のケース・メソッドは、ケースだけを問題とする限り、第ニの方法と同じく文字どおりケース・メソッドであるが、たんにそのケースのみに,こだわらないで、他の判例や立法にまで及ぶ意味で、まさに視野が拡げられているといえよう。(p.2)

 (前略)ここで、現在のケース・ブックとラングディルの頃のそれとの相違を指摘しておく必要があろう。ラングディルの時代には、とにかく歴史の流れの中に法を発見することが唯一の目的であった。だから、ケース・ブックも、法律概念をタイトルとして分類されていた。尨るほど、今でも「自白」であるとか「自己負罪強要禁止」というように区別の体裁を捨ててはいないが、同時に「違法に蒐集された証拠の証拠能力」というょうに機能的分類が多かれ少なかれ附加されている。これは結局、法学教育を狭くテクニシアン養成の道具たらしめるに止まらず、社会に必要な政策決定に広く眼を開かせる必要があったからである。
 法学教育がたんに既成の法律的文章論(legal syntax)に止まる時は過ぎてしまった。 立法や行政法規の新らしい分野は、益々拡げられてゆく。ラングディルの時代には考えもしなかった税法だとか労働法あるいはもっと複雑な行政法のような新らしい法体系が生れて来た。こういう中で従来のケース・メソッドは望息しそうな状態にある。それを切り抜けるためにはどうしてもケースだけの研究から手を切らなくてはならない。そこで、現在のケース・ブックは、理論的論争にも注意を払い、論文からの抜粋を引用し、更に、立法がこれをどう解決しようとしているかまで採り入れることになった。こうしてこそはじめて、生きた社会から遮断されていた法学教育に新らしい生命を与えることもできるのであった。(p.2)

 

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◆高宮晋(1956)「米国におけるケース・メソッドとケース・スタディー」『ビジネスレビュー』 4(2), 1-27

 ケース・メソッドは、この講議の方法とは教育方法としての目的なり原理を全く異にするものである。それは知るということよりも、みずから考え判断し行動することを訓練することを目的とする教育方法である。われわれは単に知るということだけでは、教育の究極の課題を果しえない。不断に変化する環境の新しい状況から発生する諸問題にたいしていかに判断し行動的に対処するか、その能力を高めることこそが教育の究極の課題である。過去の経験や知識を伝授することは有意義であるが、しかし、それは、当該の人の頭脳の中に機械的に固定的に存在するだけでは意義は少いのである。当面する現在の状況は過去の経験や知識を生んだ状況とは異った新しい事態であって、この新しい状況において創造するということが決定的に重要でなければならない。過去の経験や知識はそれに役だつ限りにおいて有意義である。この新しい状況に直面しては、単に知っているということだけではなく、それを考え、判断しなければならないのであって、その能力は知識の単なる集積よりもはるかに重要である。ことに、経営学は実践的な学>10>(pp.9-10) 問であって、その教育は不断に変化する経営の情況の下において、いかに効果的な経営活動を実践するかを教え訓練することでなければならない。ケース・メソッドはかかる能カを訓練することを目的とする教育方法である。

 理想的なものの考えを記述したものであってはならない。それは現実にあるところのその特定的な事態を示したものである。ケースは、原理なり原則を示す例示として用いられるものではない。ケースは特定の情況の下において具体的に考え判断する訓練に用いられるのであるから、特定的な現実の経験といぅものが、かかるものとして記述されるのである。ケースは特定の情況において意思決定をなす責任をとる場合における経験を提供するものでなければならない。(p.11)

 ケース・メソッドにおいては、一般化による理論構成よりも、特定のケースにおける意思決定ということが重点であり、その判断力なりその技能を獲得することが中心目的である。しかして、かかるケース・メソッドを行う過程において、おのずから、原理なり原則が体得され、有用な一般化(useful generalistion)が学生自身によってもたらされてくるのである。教師はこれにたいして学生を援助するだけである。
 学生が経験をするという点に力点がおかれる。それは知識を学生に伝授するためのものではなく、学生に、みずから経営の責任を負う経営責任者として考え判断し行動することを訓練するために用いられるということはしばしば述べたところである。それは学生をしてみずから経営を経験せしめるただ一つの方法である。しかし、学生が経営者として経営活動を経験するといっても、現実にそれを経験するわけではないから、その点に大きな限界がある。ケースには種々の条件が多角的に記述されているとしても、しかし、現実に経営活動を行う場合と違い、意思決定における条件は限定づけられ固定化されている。現実には、未知の条件を調査によって知悉するという問題や、情報の獲得という問題があるから、これによって現実の意思決定は弾力的に展開されなければならないが、ケース・メソッドにおいては、かかる関係における意思決定上のニュアンスは出てこない。また、経営責任者として責任のある意思決定をなすといっても、その意思決定の結果にたいしては、現実の場合におけるようなテストはうけないのである。現実においては、経営者の意思決定は現実に多大の影響を及ぽし、その成否が具体的にあらわれ、それによって経営者の意思決定は厳格な試練をうけるが、ケース・メソッドによる場合にはいうまでもなくかかる問題は生じえない。
 現実に実践するということと意見を教室で述べるとしうこととはそこに大きな差異があるのであるから、ケース・メソッドが学生に経営者の経験をあたえるという場合の経験は実際の経営者の経験とは異るわけである。それは、教室内における教育の一つの方法にすぎないのであって、かかる方法として、できうる限り経営者の経験らしきものを経験せしめるという点にあるのである。ケース・メソッドにおいてはすでに縷々述べたように、学生があたかも経営者になったつもりで、与えられたケースの情況の下において、判断し意思決定する。それには、ケースの事実を多角的に分析し、問題をつかみ、その解決の方法を自分で考えなければならない。(pp.11-12)

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◆小高泰雄(1961)「財務管理教育のケース・メソッドについて」『産業經理』21(10), 44-48

 次にケースの多様性は種々の観点から分類せられるか、その取り上げられる問題の性格にしたがって次のように三つに分類されるのでその各々について観察しよう。
 1 現在当面している問題が記述され、問題の解決が何等かの手法、たとえばある種の財務表の作成とかその検討だけに終るように見えるものもある。従来ケースと呼ばれるもののうちには、このようなある種の手法を訓練するだけの目的をもって作成されているものも少なくない。たとえば。(p.46)

 2 何等かの決定がなされた状況が記述され、この決定を遂行するための方策を検討する。
 経営計画としてある決定ががざれるとその実施は計画と有機的に関連するものであり、特にこれをぶんりすべきではない。したがって、ケースによってはこれら両者を検討させるものも少なくないのであるが、決定にしたがってどのよう実施計画を作成し遂行するかという局面だけを取る場合もある。このような場合にも、実施計画が基本的な経営計画とどのように関連するかを考察しなければならない。また、実施に際してある局面が他の局面に与える影響を考慮し、計画実施の時間的調整を検討する必要がある。したがって、ケースには実施計画設定に際しての経営計画決定の基盤が記述されていなければならない。(p.47)

 3 明瞭な問題または決定は記述されていないが、経営活動を一層発展するための何等かの方策を採ることが必要であるか否かを検討する。順調に発展しつつある企業においても、何等かの方策を採ることによりその発展が堅実となるものが少くない。また、一見問題のないように思える企業において、すでに改善を要する事態が発生していることがある。これらの場合には、ある局面に問題が存するよりはむしろ各局面相互の関連が経営計画との関係でとりあげられることになる。この種のケースは1、2のケースより複雑なものが多く、検討をなすべき諸点の摘出に熟練を必要とする。(中略)
 次に、ケースは被教育者の経歴、基礎知識の程度に応じて取捨選択しなければならない。このことは、ケースをその教育段階に応じて種々準備しなければならないことを意味している。かかる点よりすれば、ケースは綜合ケースと部分ケースに分類することができる。前者は経営計画の決定、実施、評価に関するもので経営全般の指導に関するものであり、経営計画自体に関するものと、各部門における計画およびその実施を経営計画の面よりとりあげるものとがある。いずれの場合もその考察方法の基盤に変りはない。綜合ケースは経営者層および次期経営者層に属する人々に適している。(p.47)

 従来、企業の各部門にはそれぞれ専門職業人として、高度の専門的知識と経験を有する人々が存在していた。経理部および財務部でもこのような専門家が希望され、重視されたのであり、社員教育の重点もここにおかれていた。この傾向は企業の他の部門においても同様であった。しかしながら、現在の企業においては経営者層は勿論であるが、各部門においても、広く経営全般なかんずく経営計画との関連において部門活動の在り方を考察できる人々が要求されてきたのであり、このためには経営全般に関する広範な基礎知識とその応用能力を育成しなければならない。ケースの使用はこの目的に適したものである。(p.48)

 ケース使用の効果は以上述べたごとくであるが、この他にいくつかの二次的成果をあげることができる。まず、ケースの検討に際しグループ研究を行なうことによる成果である。被教育者をして交代にリーダーを務めさせることは討論の司会に熟練せしむることであり、且つグループの司会者に対する協力を認識させ、各種の会議における司会者および参加者としての心得を修得させ、議題の選定、会議の運営などに寄与する。また、グループ研究の他の効果として、グループに対して責任を持つた言動をなすようになることである。自己の発言が他の人々に対して与える影響を常に考慮し、慎重な態度で討論に参加することを自覚させることは重要なことである。(p.48)

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◆椙山正弘(1990)「大学教授法としてのケース・メソッド研究」『大学論集』19, 235-252

 

 6 経営論から決別した人間関係独自の教授法へ
 ケース・メソッドで人間関係の問題を扱うようになった起源はこのような経営論からくるものであったが,この経営論とは決別した形で独自に人間関係の問賴を扱う新しい傾向もでてきたので>245>ある。佐藤三郎は,「労使という基本的には公式集団を非公式集団における人間関係のアプローチによってのみ解決することは私は反対である」と述べて,次のような試みを発表する。「事例法を問題の多い産業経営の分野から引き離して、一般の社会集団における人間関係へ,さらに学校における教師と生徒,生徒と生徒との人間関係の場に導入する」のが課超であるという。(中略)佐藤はその後,児童・生徒の教育技術として事例法の研究をすすめることになる。そして昭和36年,日本赤十字社青少年課発行の『事例について』,翌年,小学館発行の『総合教育技術』,昭和39年『教育学研究』などに次々と論文を発表することになる。
 「教える」という姿勢で凝り固まっている教師の集団に対して,事例法の訓練を試みる佐藤は,次のように述べる。
 「事例法で訓練されることによって教師は,自らが属する教師集団の中での人間関係をうまく処理するだけでなく,彼が指導性をもっとも発揮する対児童,生徒との人間関係において成長することが期待されている。優れて人間関係の技師である教師は外側から測定され易い知識や技能伝達の成果に幻惑されることなく子どもの内面的成長,その自己決定の能力,その生涯にわたる自己学習>247>の意欲を助長しなければならない。」と論ずる(pp.245-247)

 ケース・メソッド研究のこうした成果と現状の上にたって椙山女学園人学人間関係学部では,学部設置の趣旨を生かすために,授業科目として,ケース・メソッドを採用することにした。
 その理論はこうである。ケース・メソッドはある事例を想定し,既得の一般的原理に関する知識をその具体的事例のなかで検証したり,他人の判断した過程を確かめたり,問題を観察,分析,省察しそれらを集団のなかで討議することによって,多様な見解があり得ることを埋解するとともに,それらを止揚するなど,特に人間関係の諸問題を対象とするには,きわめて有効な教授法である。さらにこのケース・メソッドは、高等教育の教育方法を現代化したとまで,高く評価されたすぐれた教授法である。(p.248)

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◆三石誠司(2006)「意思決定と拡散思考――ケース・メソッドで学べるもの『宮城大学食産業学部紀要』1(1),75-81

 筆者なりの結論を言えば、ケース・メソッドは万能薬ではない。ただし、使い方によっては、これまで習慣として慣れ親しんできた思考方法とはやや異なる思考の訓練になることは間違いなく、思考のバランスを取る上でも良い剌激にもなるのではないかと思われる。
 会議室に閉じこもり何時間も議論したにも関わらず良いアイデアが出なくても、わずか5分の休憩時間に突然アイデアがひらめくことなどは誰もが経験しているのではないだろうか。
 筆者は、かつて、ケ一ス・メソッドの効果とは、こ>76>うした「ひらめき」の世界に近いのではないだろうか…と感じていたこともあったが、最近ではむしろ思考方法の違いによるところが大きいのではないかと考えている。そして、この思考方法の違いによる果実こそが、いわゆる「知恵(wisdom)」と呼ばれているものであり、経営においては「経宮センス」と称される、曖昧ではあるが他者との差を際立たせる重要な能力の一部を表しているのではないかという気がしてならない。(pp.76-77)

 ケ一ス・メソッドを通じた学び方に習熟してくることにより、参加者はまさに「正解のない」問題に対する経営者やマネジャーとしての考え方を疑似体験していくことになる。こうした訓練を繰り返すことにより、未知の状況に直面したときや不十分な情報のもとで一定の判断をしなければならないときにも「頭が真っ白>80>になる」ことはなく、自分なりに一定の「納得できる」意思決定を行うことが可能となる。
 このように見てくると、ロ一・スク一ルやビジネス・スク一ルで行われているケース・メソッド、そして拡散思考を活用した「考え方」は、法律学や経営学に関わらず、あらゆる学問、場合によっては家族間のコミュニケ一ションなどにも十分応用可能であることがわかる。(pp.79-80)

 その意味で、本来のケース・メソッドが最終的に目指しているものは、「正解の無い」問いに対する自分なりの対応の仕方や姿勢と言えよう。ケースの討論においては、インストラクターである教師も学生達の議論を促進させる役回りを担っているに過ぎない。教師が、慣れ親しんだ公式やa論だけでなく世の中や企業経営における「常識」と呼ばれるモノを説くことにより、白熱した議論に水を差すようなことをすれば、それは表面上ケース討論の形を取ってはいても、実質的には従来型の講義における質問のやり取りと変わらないものになってしまう。 つまり、インストラクターには、あくまでもオーケストラにおける指揮者の役割に徹する姿勢が求められる。この点では、学生よりも教師サイドの意識の転換がケース・メソッドの成否を分ける重要なポイントとなる。
 ケース・メソッドが用いる拡散思考そのものは、今まで使っていないか、あるいは長年の先入観にとらわれすぎる余り、長いこと使用していない我々の思考パターンに刺激を与え、活性化させる手法であると言えよう。その意味で、詳細な情報が書かれたケースを読み込むことにより身に付く「知識」は、あくまでも頭を活性化させ、「知恵」を引き出すための前菜なのである。

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◆髙木晴夫(2001)「ケースメソッドによる討議授業のやり方」『経営行動科学』14(3)161-167

 2. 2 ケースメソッド授業の一般的効果
 ケースメソッド授篥の教育効果として一般的に考えられるものを列挙すると次の5点である。
[1] ケースメソッドは、講義や教科書中心の授業よりも,受講者の興味を引き起こすことが容易である。それ故,彼等に対し,自発的な学習意欲を喚起し,経営に関する学習と思考を剌激する。
[2] ケースメソッドは,受講者に,現実問題の解決を議論するという「経験」のなかで概念や考え方を展開させることで、それらを自らのものとさせられる。
[3] ケースメソッドは,ややもすると現実とかけ離れる講義教材から概念だけを学習させる場合よりも,現実状況を評価し概念を実践応用する技能を育成できる。
[4] ケースメソッドは,人間同士が討議することで,経営における人間的側面の重要性を理解させられる。
[5] ケースメソッドによって学習する者は,既存の概念の修得以上に、新しい展開する方法を身に着ける。将来の問題は新しい概念を要求する場合が多く、ケース メソッドで学んだ者は,既存の概念を記憶するだけの学習をした者より、将来に対してよりよく準備される。(p.162)

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◆髙木晴夫、加藤尚子(2003)「経営能力の育成に向けて――ケースメソッドの果たす役割とその教育方法」『経営情報学会誌』 12(1), 79-84

 経営能力の育成にとっては専門知識の獲得も重要ではあるが、それにしてもまして重要な力が意思決定力であり、その力を身に着けていくことが経営能力の育成の中核となる。
 この力は、専門知識の獲得のように情報を記憶するというやり方では身につけることが難しく、自分の頭での思考経験を繰り返し積むことが必要であった。そこで重要となるのは、自分の構築した考えと対比しながら他者の持っている情報を作り出す力に触れ、そこから新たに情報を組み立てる力を学習することであった。実際の仕事場面においては修羅場を経験することがこの学習には有効であり、教室の中ではケースメソッド授業がその習得には有効であった。
 意思決定力を高めるには繰り返しの訓練が必要であり、その観点からすると、ケースメソッド授業により訓練を積むことは有効であろう。ただし操り返しになるが、経常能力は意思決定力がその中核をなしてはいるが専門知識の獲得もともに重要であることは忘れてはならない。
 我々が直目する経営問題には唯一の正解というものは>84>ない。絶えずつきまとう不安とともに様々な障害を克服していけるよう、高度な経営能力を備えていなければならないのである。(pp.83-84)

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◆福留東土(2002)「専門職教育の構築過程に関する一考察――ハーバード大学ビジネス・スクールの成立期を通して」『広島大学 高等教育研究開発センター 大学論集』33:57-74.

 経営研究部は,その最初の事業として履物小売業の経営や販売の問題に関する現地調査に着手した。最初の課題として,企業によってばらつきのあった会計手法に,統一されたシステムを導入することが図られた。当初,各企業は調査に懐疑的で自らの経営情報を開示することに拒絶的な反応を示していたが,新しい会計システムが利用されるようになるにつれて,逆に広範な反響を呼び,1913年までに26の州で650社が調査に参加し,同年刊行された調奄報告書は1万部がすぐに完売した>70>という研究部は次第(こその名声を高め,調査対象とする産業分野を拡張するとともに,実業界への貢献という枠を超えて,研究成果を応用してHBSの教育に利用し始めた。すなわち,経営研究部,ひいてはHBSの活動が社会的な認知を得るにつれて実業界との連携が可能となり,その連携を通してさらなる研究活動が行われるとともに,研究の成果が独自の教育方法を可能とする基盤を構築するという循環が生じ始めたわけである。
 このような動きはHBSの財政的な側面からも跡付けることが可能である。表4には,各年度における企業等からの寄附金とHBSの総収入に占めるその割合,および研究費の支出額と総支出に占めるその割合を示した。ここから明らかなように,1913-14年度以降,総収入に占める企業寄附金の割合は50%前後という高い比率で推移している。また,研究費への支出についてみると,1909-10年度まで費目自体が存在しなかったのが,翌年度に初めて支出項目に登場するとともにその比率を上昇させ,1912-13年度以降は9-11%台で安定している。このように,経営研究部の設置を契燥として,実業界からの寄附金が増加し,さらにその少なくない部分が研究活動に割り当てられるという構図が現われ始めるのである。(pp.69-70)

 以上,本稿では,全米のビジネス・スクールを代表する存在であるHBSの初期の歴史を通して,大学における専門職教育の構築過程の一端について論じてきた。実質上の設i者であるローレンス・ローウェルが提唱した大学院レベルにおけるビジネス教育という構想は,当時生成期にあったビジネス・スクールにとって斬新な試みであった。しかし,その実現の過程には同時に,大学におけるビジネス教育に対する社会的認知の低さ,そして職業的有為性を持っ教育内容・教育方法の未確立というビジネス・スクール全体が抱える問題が強く反映されてもいた。もっとも,初代ディーンのゲイが述べていたように,それらを解決する方途を見出すことこそがHBSが自らの役割と自認していたところだったのである。設立時のHBSは,たしかにこれらの問題に直面したのだが,設立後数年のうちに教育内容・方法の体系化が図られ,それは結果的にHBSに対する社会的認知を高めてゆくこととなった。
 HBSにとって,社会的認知と教育内容・方法の確立という二つの問題は相互に深く関連し合っていた。教育内容・方法の充実が学生の就学行動を変化させるとともにHBSの社会的認知を高める主要因となるということはもちろんだが,他方で,社会的認知を獲得することは,HBSに独自の教育>71>内容・方法の前提となる調査研究を行ってゆく上で重要であった。それは,HBSが自らの教育の立脚点を現実のビジネスの中に求めたゆえのことであり,すなわち,ビジネスに関する専門職教育の構築には実業界との一定の連携が不可欠の要素であったといえるわけである。この連携が比較的スムーズに実現された背景には,当然ハ一バード大学の組織的威信が存在していたはずである。しかし,他方で,研究活動と連動した教育システムをつくり出すことができたのは,大学院レベルのビジネス・スクールという新しいコンセプトを生み出すとともに,それにふさわしい手段を模索し続けた結果であるとみることができるのである。(p.70-71)

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◆坂井正廣(1996)『経営学教育の理論と実践』文眞堂

 教師も学生も,互いに学習プロセスに積極的に参加することが必要である。学生とともに教師もまた学ばなければならない。ケース・メソッドという学習の方法は,教師と学生のあいだに信頼関係を築くことによって,互いに発展することができるような創造的な環境作りをも,その課題としている。われわれは,そのことに,真正面から取り組むことはできないけれども,新しい教授理論の展開(the evolution of a new teaching theory)にも関心を示さないわけにはいかない。しかしながら,ここでは,われわれの考察を,主として,ハーバ一ド・ビジネス・スクールにおけるケース・メソッドによる経営学教育に限定して,論述することとする。(p.8)

 そして、マーケティング論に始まった一連のケース・メソッド教育が、本格的に展開していく過程において「人間関係論学派」の果たした役割は少なくなかった。HBSにおいて,いわゆるメイヨー・グループによって最初に開講された公式のコースは「経営の人間的諸問題」(Human Problems of Administration)であった。フリッツ・ジュール・レスリスバ一ガーはその「回想録」とも言える『捉えがたい現象』の中で,「それは,産業生理学に関する委員会(The Committee of Industrial Physiology)のもとに産業調査部(the Department of Industrial Research) が設置されてから 11 年後の 1938 年の ことであった。その年に,――アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの子息であり,ノースと呼ばれていた。トマス・ノース・ホワイトヘッドと私は,経営学修士(MBA)の学位のためにニ年間のプログラムの第2年次に,1学期の選択科目を開講した。それは,1943年の春学期まで続けられた」と述べている。(p.11)

 1943年,アメリカ合衆国政府がスポンサ一となり,「戦時産業再訓練計画」が開始され,第二次大戦終了後,それは「上級マネジメント計画」となり,そこには社長,副社長,社長候補など,トップ・エグゼキュティブや大きな影響力を持つ人々が参加するようになり,HBSの本格的な「成人教育」の端緒ともなった。レスリスバーガ一は,そこで「人事と管理統制」(Personnel and Management Controls) と 呼ばれる コースを 担当した。 (p.13)

 HBSの他の科目の教授たちは,例えばマーケティング政策,生産政策,財務政策等々における意思決定の学習について学生と協働することが課題とされていたが,「経営実践論」の教授たちは,政策や目的ではなく人間関係を調査するケースについての協働が求められていた。数年間にわたって,キャタログの講座要覧では,他のコース,例えばマーケティングや生産などのコースにおいては「意思決定の学習」(learning to make decision)が強調されていたのに対し,「経営実践論」においては「人々に仕事をさせること(getting things done through people)」に力点が置かれると書かれていた。そのためもあってか,タウルは,「教授たちがいくら『そうではない』と説明しても,アド・プラック(Ad Prac)という用語が,説得や人間操縦,さらには『マキャベリアニズム』と同意語として使用されるようになったのは,当然のことであったと言えるかも知れない」と述べている。
 しかし,「経営実践論」や「人間関係論」というコースでは、前提とされた仮設から導き出される活動に対してではなく、全体状況(the total situation)に応答する必要が強調されていたのであり、一般に経営者の行動と考えられている「決定的行動」(decisive behavior)に対比して、「応答的行動(responsive behavior)の重要性が強調されていたとみるべきであろ>15>う。(po.14-15)

 ケース・メソッドは,「現実の経営に生じた状況を,文章,数字,図表などで表したケースを使用し,集団討議により学習する教育システム」である。これは,ハ一バード大学院のビジネス.スクール(HBS)が,医学部や法学部に習い,専門職としての経営者育成の意図をもって開発したものであり,何よりもその教育技法としての有効性の故に,やがて全米の大学はもとより,諸外国のさまざまな教育機関にも導入されることとなった。ケース・メソッドの効果的活用のためには,教材として優れたケース,意欲ある教師,そして主体的な学習意欲を持つ参加者の三つの要素が不可欠となる。(p.52)

マルコム・マクネア(Malcom Perrine McNair)は,ケースの持つ構造を次のように説明している。
①時間的構造:ケースに記述される経営情況は,時間の流れにしたがって生起するから,原則として,出来事の前後関係を無視してはならない。
②物語的構造:事件は時間的継起において発生するが,それは読者が明瞭に読み取れるように物語られなければならない。ケースは一種の文学作品であり,ケ一スライタ一は,物語文学の作者のような能力を必要とする。
③解説的構造:ケースライターや登場人物にとっては常識的な言葉や事象であっても,討論参加者にとっては解説なしでは理解できないものもある。教材としてのケ一スにおいては,業界,組織,技術などについて解説を必要とする場合も少なくない。
④脚色的構造:教材であるとはいえ,ケースには読者を引きつけるような「すじ」が必要である。事実の配列や表現の工夫によっては無味乾燥な事実の記述より以上のものになる。

これらは一般的な特徴としてケースが備えていなければならない要素とも言えよう。(p.55)

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◆関ロ操(1962)『管理能力育成とケース・メソッド』中央経済社

 三 意思決定に関する訓練…ケース・メソード
 つぎに、意思決定、つまり目標の決定や将来への洞祭力判断力を培うための方法として、ケース・メソードがあげられる。ケース・メソードも前に述べてきた討議方式のひとつではあるが、ケースを使用することが異なっている。しかも、このケースを使用した討議はケースを中心におこなわれていくので、それだけに特徴を発揮する。ケース・メソードの特徴を明らかにするために、先ず、ハーバード大学で形成されてきた。ケース・メソードの性格を述べよう。ケース・メソードは確かに教育法の一つである。しかし、そのような教育法自体がどのような目的をもっているのか、その教育理念と切り放しては単にケース・メソードを技術化するだけでなく、本来の特徴を発揮し得ないので誤解される恐れがあるからである。
 一般にいわれているように、経営管理者の貴任は、起業の経営をとおして、経済産業の発展と社会の福祉にするという理想をかかげている。このような責任を、ビジネスの場で遂行するために、管理者はプロフェッショナルな管理者としての見識と実行力を持つことが要請される。その見識とは、企業内の内外の環境・状況の下で当面し、かつ将来にかかわる問題を的確に判断する能力を導き出す。
いうまでもなく、ビジネスの分野の知識や技術はすばらしい発達をきたしているが、これらの知識や技術を身につけることは、専門的管理者として当然のことである。しかし、知識や技術を身につけただけで、管理者とし>47>ての問題を的確に処理する能カを養成することに努カするものでなければならない。冒頭に述べた管理能カそのものである。問題を広く考え、鋭い洞察カをもち、創造カに富み、確固たる責任感を持つ管理者こそ、プロフェッショナルな管理者である。以上のような識見に加えて、独自的な実行力もまた要求せられる。つまり、決断力、企画力、処理能力、指導力などである。
 このような管理能力を要件とする管理者グループ、とくにトップレベルでの管理者を養成するためにとられた教育法がケース・メソードである。つまり、ケース・メソードの理念は、以上述べてきたような高度の管理能力を発展し、専門的管理者を育成しようとするものである。
 そのために、一定の教育計画のもとで、多くの経営問題に当面させ、管理者として責任をもって、独自の意思決定を反復経験させる方法をとるに至った。すなわち、数多くの実際問題を自ら分析し、判断し、決定を下す試みを訓練することによって、管理者の識見と実行力とを養うものである。
 このように考えてくると、ケース・メソードによる管理能力啓発には、つぎの四つの特徴をあげることができる。
(1) ケース・メソードによる教育は、過去の業績よりも、むしろ将来の行動に指向されている。
(2) ケース・メソードの訓練を受ける者は、常に衝突する諸目的の中から選択をおこない、決定を下さなければならない。>48>
(3) ケース・メソードの訓練は、事実に関して充分な知識をもたずに行動しなくてはならない。
(4) ケース・メソードにおいて、その行動は多くの独立した諸個人の努力を総合しつつ、組織全体を通じて実現される (pp.46-48)

 また、ケース・メソードにおいては問題解決のために積極的な決定をしがちであり、場合によっては非現実的な提案をすることがある。また、決定をのばすような態度から積極的な決定を避ける傾向もでてくる。所与の状>217>況の下で意思決定をしなければならないのであるが、ともすればその状況が身辺に感じられないうらみがある。このことは、問題の状況が過度に単純化されることにもとづく。先に指摘したようにケース・メソードの理論の一つであるモデルの理論がその基礎にあることにもとづくからである。
 ところで、このモデルの理論は多くの分野で用いられてきた。数学の分野では公式のすべては、一つのシステムにおける動的諸要素間の関係を表示するモデルの機能をはたすものと考えられてきている。振子の運動についての公式を研究することにより、どうしたら最もよく時計を作成することができるかを決定し得る。電気計算機を使用してビジネス間の競争のモデルを作成・研究するようになってきた。(中略)
 ケースがビジネスの状況を一つの擬装的記述をもって構成されているとすれば、これはケース・メソードの宿命ともいうべきものてある。しかし良いケースのモデルといわれるものは通常、学生がそれを駆使して勉強するに足る資料の多くを含んでいるから、足リないよりもむしろ、多すぎる事実を載せているのである。
 このように考えてくると、ケース・メソードによる問題も思考、判断力の訓練として有用なものであり、厳密にいって事実とは異なるからその複雑さにおいては劣るとはいえ、考慮すべき諸点、要因、影響などを注意深く検討し、問題を解決する経験を得ることができるのである。つまり自らをひろめる経験をケース・メソードによって得ることが可能となるからである。
 このような経験は、重要なる事実を選択すること、根底に横たわる問題を分析すること、必要なる決定を下すこと、この決定を実行するための計画を準備すること、そしてこの計画を実行し、これを変化する条件に即して変更することを確実にするための管理についての手続を作成することなどである。
 ケース・メソードによる啓発の機会は、いわば自らのこれらの能力を証明、表示する機会となるのである。(pp.216-218)

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◆樋口又男(1965)『事例研究の方法と展開』日刊工業新聞社

 その効果の最も大きなものの一つに,行動的能力を育成強化するというのがある。行動的能力というのは,分析,総合,創造,判断,決断といったものだといわれている。この能力は,現在の経営管理者として最も要望されている能力であり,この能力育成に事例研究が最適であるというのが今日事例研究を重視する最大の原因をなしているものである。
 このような能力を育成強化する際に,漫然と事例研究を展開するよりは,特定の人物の職位を研究の立場と決め「あたかも自分がその立場に立ったものであるかのように,真剣に問題解決に努力する」やり方のほうがいっそう行動的能力育成に効果的である。以上が研究する立場を決める理由ということになる。インストラクターがやかましく研究の立場に拘泥するのも,こういった効果をきびしく追求しようとするからである.

 事例の中から問題点を追求し,これを摘出し,それを解決する方策を考え出すのであるが,その間事実のみを尊重し,その事実に基づいて対策を展開するのであって,その考え方は,目的的であり,科学的であるといえる。真実の中でも原理,原則,あるいは法則といったものは精度のきわめて高いものであるが,この事例研究においては、あらゆる場面において原則,原理を活用するわけである。
 経営に関する諸法則,あるいは人間工学の諸原則,すべてが事例研究にとって大切な存在である。正しい考え方ということをよくいうが,正しい考え方というのは真実を尊重し、真実のうえに展開する考え方のことである。その意味から、事例研究の考課のひとつは経葦い考えかたの訓練ということにある。
 経営管理者の多くは,事件の発生などにおいてポンポン対処する状態をみて「あれは頭がよい,腕が立つ」などといって賞賛する傾向があるが,これはきわめて危険である。経営管理者というのは,責任をもって事態に対処するという「レスポンド的」管理者でなければならない.「リアタト的」管理者であってはならない。最近,計数管理が重視されてきたが,経営の真実を知るための一手法である。真実を尊重するということは,社会人としての面においても,経営人としての面からも,きわめて重要であることを事例研究を通じて体得することのできるのも,事例研究の効果としてとりあげてもよいのではなかろうか。(p.17)

 いろいろある事例研究方式が共通的にとりあげている効果というのは,正しい考え方の訓練に関する事項である。表現としては考える能力の強化,あるいは行動的能力の育成強化等々いろいろであるが,要するに考える訓練としての>22>効果を意味しているものである。この考える訓練というのは、事例研究の狙っている効果の中でも最も大きなものであることに間違いない。講義方式などではとうてい期待しえないものてあり,事例研究が高く評価される理由もここにあるように思われる。(p.21-22)

 孝える能力を育成する場合に強力なファクタ一となるものは知識である。知識と事例研究の関係については「事例研究を学ぶ人のために」の章においてすでに述べているのであるが,分析,総合,創造,判断,決断といった行動的能力は知識の力によってさらに訓練の効果を倍増するものであり,事例研究実施の以前において,そのような知識を与えることが望ましいわけである。このことは,事例研究を計画する担当の者が十分承知しておくべきことであろう。事例研究がいかに効果的であるといっても,メンバ一が全然討議研究すべき事例の内容について知識をもっていないような場合には事例研究が成立しないと考えてよいと思う。従来幹部訓練といえば講義方式が主体であったが,講義による教育効果のはかなさは,すでにホーレットなどの学者によって証明されているとおりである。
 すなわち,講義方式による場合,完全に理解する者は20%以内であり,しかも10日後までもその理解を持続する者は,さらにその20%にすぎないといわれている。もちろんこのパ一セントは一般的傾向を示すものであろうが,いかに講義と実践力との関係の弱さを示すものであるかは十分理解してもらえると思う。ところが講義で与えられた知識であっても,その知識を基盤として,事例研究を実施することによって,その知識が身について忘れられないものになるばかりでなく,その知識の活用を演練することによって,それを実践化することができる。(p.23)

 ハ一バード方式の欠点というか,不向きに思われる点について2-3指摘してみたいと思う。これは,いろいろの人によって批判されている点であるということを念のため申しそえておく。
4-5-1方法について
 この方法は,やはり知識を主体とする学生向きの教育方法である。という一言につきると思う。企業についての具体的な知識をもたぬ学生の,知識中心の放談には適しているけれども,実践を主体とする企業教育には適していない。要するに,研究のための方法であって,実践のためのやり方としては適していない。企業においては最少のコストで最大の効果を収めようとする考え方は,决して仕事だけに限定しているものではない。教育の場においても,いろいろの効果を同時にねらう方法をとるのがむしろ常識といってよいくらいである。その意味からしても,実践を主体とするミドル以下の管理者に対する教育方法としてはむだが多いということになる。また,事例研究に要する時間も企業の場合には不適である。また,個人研究,グループ研究,全体研究のように,同一のメンバーでしばしば事前研究を必要とするやり方も,現実を無視したものであって企業には適さない。(p.45)

事例について
 学生の個人研究およびグループ研究を可能ならしめるために必要な状況というのは,最初から事例の中に含ませている。
 そのために,追加状況を与えるとか,質問によって必要な説明をする,といったことは全然しない。提示した事例だけでやる,というのがたてまえである。そのために,必要とする状況が全部包含されていない場合が多く,論議する場合も推論や放談が多くなり,勝手にしゃべりまくる,といった感じが強くなり,討議が終わった後に空しさが残り,本当に勉強したという充実感に乏しいといううらみがある。
 また,状況が不明瞭であるということは,討議の前提条件ともいうべき「同一の認識」というのがてきないため,討議がちぐはぐになり相当の時間を無駄に費やすことになる。(p.46)

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◆百海 正一(2002)「ケース・メソッド教育」『商経論叢』 38(1), 71-111

 最後にアウトプットとは,授業結果として生み出されるなんらかの成果を意味している。その成果としては,学生(学習者)のスキル(ヒューマン・スキル,アナリティカル・スキル,コンセプチュアル・スキルなど)の向上とする(p.74)。

 ここで,テクニカル・スキルとは,マネージャーなどが特定の職務に関する理解と効率的に遂行する能力のことをいい,具体的にはエンジニアリング,製造,財務などある特定の職務を遂行するうえで要求される手法(例 設計,QC手法など),ツール(例 コンピュータ,統計処理など)を扱う能力が含まれる。さらに,ある特定分野における問題を解決するために必要な専門知識と分析能力,およびツールや手法を使いこなす技術能力も含まれる。(p.74)
2 ヒューマン・スキルとは、マネージャーなどがグループ・メンバーとより良い人間関係を>75>築き,かつ部下を通して職務を遂行したり,他部門のメンバーと共に職務を協調的に遂行していく能力である。ヒューマン・スキルには,部下のモチベーションを高めたり,部下を組織目標に向かって結集していくためにリーダーシップを発揮したり,職場におけるコンフリクトを解決したり、メンバー間の意見の違いを調整したり,職場における人間関係をより良いものにするためにコミュニケーションを高めたり,他者に影響を及ぼしたりする能力である。
3 コンセプチュアル・スキルは,一部門の立場だけでなく,企業全体の立場に立って問題を認識したり,考えたり,判断する能力である。例えば,あるゲームソフト会社が新製品(ビジネス・ゲームのソフト)を開発した場合,マーケティング政策慨存のチャネルを使えるか,ターゲットとする顧客は誰か,セールスマンや代理店に対する教育は必要か,カニバリゼイションはおこるか),財務(キャッシュフローは何時プラスになるか),開発部門(メインテナンスやサポートが必要か,他部門のマンパワーへの影響は)にどのように影響を与えるか,ということについても認識する能力が含まれている。コンセプチュアル・スキルには,マネージャーとしての思考する能力,問題を処理する能力,計画する能力や全社的,長期的視点に立って戦略的に思考する能力が含まれる。

 個人で学習した場合には得られないメリットが,グループ学習にあります。それは,学生を受け身の学習から積極的な参加に動因するという動機づけの問題に関係があります。しかし,もっと重要なことは,学生は自分の意見やアイディアをオープンに発言したり,またメンバーの意見に耳を傾けたり,そして自分の考えがいたらない場合には,相手の意見を受け入れることを学びます。さらに,同じく重要なことはメンバー間で意見が対立した場合,感情的対立を回避しながら,相手を説得したり,どう対応したら良いかを学びます。
 討論型授業の特徴は,学生がディスカッションに積極的に参加すればするほど,相手からも学ぶ機会はさらに多くなることです。グループ学習を要約すると,クラス・ディスカッションの人数が50人以一ヒになると,ディスカッションは困難な状態になるので,5ー6人のグループに分け,メイン・イシューについて各グループで話し合った後に,クラス・ディスカッションにうつる方法が通常の討論型授業の進め方です。各グループは,司会者を選んだりして,各自の個人研究の成果を発表しあって,グループとしての解決案なりをまとめていきます。もちろん個人の予習してきた成果や主張が,グループの主張や解決案と異なっている場今も当然有り得ます。大事なことは,自分の意見を述べると同時に,他者の意見や主張に耳を傾けることです(p.100)

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◆百海正一(2000)「<研究ノート>経営学における教授法の改善――ケース・メソッド教育を中心に」『商経論叢』 36(2), 51-111

 従来の講義方式は教師がある学問分野において学生が知らなければならないと考える知識(概念や理論)や授業内容を決定し,教室で学生に対して一方的に教授する。そして教師は,学生がそうした知識をどの程度まで理解したのかを試験する。これに対し,ケース・メソッド教育は,現実の経営現象から可能な限り生の情報を収集し,教材として提供し,そのような教材としてのケースを基礎とし>57>て討論を中心に行われる教育方法である(p.100)

 筆者が経営学の授業にケースを用いる目的は,①ある概念について,具体的なイメージを形成させる,②問題点を発見させる,③原理・原則を理解させる,④原理・原則を適用する,⑤問題を解決するためのアプローチ(考え方や技法)を訓練する,⑥メンバー同志で多様な意見や討論を通して,視野を広げる,⑦意見交換を通して,自分の行動を気づかせる,⑧ある事柄についての教訓を得させる,などの教育効果が期待できるからである(p.71)

 ケース・メソッド教育には,「ケースから学ぶ」に見られるようなメリットもあるが,デメリットもある。それは,①教材の良否により,学習効果に差異が生ずること,②授業の成功・不成功はインストラクターの指導力に大きく依存すること,③学生の参加意欲と学習能力の優劣により,差異が生ずること,④学習環境,例えば討論に不向きな教室のレイアウト,多様な学生,などの要因によってうまくいかない場合が生じてくる。これらのデメリットはあるものの,多くの学生の意見に見られるようにケース・メソッド教育を導入する意義は大いにある。それは,経営の知識や原理・原則を教授するだけの教育では,経営能力や技能を向上させることはできないからである。いいかえれば,「知っていても」それが「できる」ことにならないからある。問題を企業全体として把握する能力(コンセプチュアル・スキル)や分析する能力(アナリティカル・スキル〕などを開発するためには,問題を発見し,分析し,解決するための状況が与えられなければならない、こうした疑似的状況を経営教育の場において提供するのがケース・メソッド教育である。大学教育の場において,>78>ケース・スタディを積極的に導入すれば、学生の学習意欲は高まると思われる(pp.77-78)

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◆中村秋生(2005)「経営技能の育成とケース・メソッド」『共栄大学研究論集』 3, 17-36

 ケース・メソッドは経営技能の向上にいかに寄与し得るのか。われわれは経営技能習得方法の一つとしてケース・メソッドによる経営教育(以下ケース教育とする)を提唱する立場をとるが、多大な期待を寄せ過ぎてないものねだりをするような愚を犯すべきではないと考えている。言うまでもなく完璧な方法などあろうはずがない。ケース教育の限界も同時に認識したうえで上手に使うことが賢明であると言えよう。しからば、ケース教育の有効性や限界の根拠をどこに求めるべきであろうか。それらの根拠をケース・メソッド講師(以下ケース講師とする)やケース教育による学習者(以下学習者とする)の体験談やその著述に求めることも可能であるが、そうした問題に真正面から立ち向かおうとすれば、さらにケース教育と経営技能向上の因果関係の理論的な考察に立ち入らなければならない。以上のような問題認識から、本研究の狙いは経営行為とケース教育における学習(以下ケース学習とする)プロセスとの対応関係を考察し、両者の対応関係の有無を根拠にケース教育の有効性と限界を明らかにすることにある(p.19)

 つまり、こうしたケース討論は、例えば会社での政策決定会議の場において自身の案を採択させるための売り込み、あるいは論戦の模擬的経験の機会を学習者に与えるものであると言えよう。であるとすれば、それは、決定内容を実際に実行する、あるいはその決定によって影響を受ける者たちにそれを受容させるための説得とは言い難い。
 経営行為としての説得は、上記のような公式の討論の場における「議論、あるいは抽象的論証の方法」だけではあるまい。受容を目的とするなら、「説明される側の人々の見方を考えずに、話し手の見方からのみ、ものごとを人に説明しようとすることは無益」であるから、説得者はまず内的行為だけではなく、実際に説得される側のものの見方、利害、諸条件などを理解、あるいは感得するよう、観察、質問、傾聴などの対人関係行動を効果的に行うことが求められる。さらに、経営行為としての説得においてわれわれが留意すべきことは、効果的な説得の方法は紳士的な対話よる方法だけではなく、「『陣頭に立って』率先垂範してみせることや、平静な態度で信頼感を呼び起こすことや、あるいは緊迫した瞬間に落着いて命令を下すことから、熱狂的な演説やお世辞、あるいは金銭、名誉、地位、栄光といった報酬の約束、さらにはおどしや強要といったものまで」様々な方法があるということである(p.29)。
 以上のような説得行動の全体をケース討論において学習者は経験できるのであろうか。 一部は、説得者と被説得者の役割を決めて、ロール・プレイングなどを取り入れるなどの努力をすることによって模擬的な経験をすることができるかもしれない。しかし、そうした模擬的経験のリアリティは、被説得者の利害、感情、価値に大きく関わる実際の説得情況とは大きく隔たるから、シミュレーションによる育成効果には相当限界があるように思える30)。そればかりか、上述した説得の様々な方法についてはケース討論において経験することは不可能であると言わざるを得ない。(p.26)

 本研究において経営行為とケース学習の対応関係をみてきたが、そうした考察を通してケース学習の有効性と限界が以下のように明らかになった。
① ケース学習は、経営行為の全ての領域には対応できない。つまり、それは情報収集行為、説得行為との対応関係が希薄であり、したがってそれらの経営行為の向上に対する有効性は極めて低い。
② 極論すれば、ケース学習は意思決定行為、そのなかでも特に論理的意思決定行為に最も対応する学習方法だと言える。何故なら、前述したように説得行為の内的行為は実質的には論理的意思決定プロセスに含まれ、またケース討論において経験し得る説得行動は>27>経営技能の育成とケース・メソッド言わば論理的意思決定プロセスを念頭においた論理的な説明でしかなく、さらに意思決定行為に対応する学習プロセスは非論理的意思決定行為と直接的な対応関係にあるとは言い難い、と結論付けられるからである。
③ 上述のことを技能レベルに置き換えて述べれば、それが最も寄与するのは論理的意思決定技能であって、経営行為の本質とも思える対人関係技能にはほとんど寄与することはない(pp.26-27)

 学習者たちは、そうした設問に従って今までの自己のケース分析やクラスでの討論での経験を再認識し、様々な問題意識や考えを展開していく。それらは理論と呼ぶにはまだ距離があるかもしれないが、彼らが感じ、主体的に考えた持論であると言える。それこそ彼らが本当に学んだことであり、彼らの今後の実践にとっては、受動的に生半可に学んだ既存理論よりも余程有用であるかもしれないのである。また、以上のような学習のアウトプットとして、そうした新たな理論の創造(持論の形成)ではなく、一般化の結果として既存の理論に辿り着いただけということも多々あるであろう。それは学習者がただその既存の理論に無知であったからに過ぎないのかもしれないが、それでも与えられるのではなく自らの経験学習によってその理論を認識し得た、つまりある意味では理論を発見したと言えなくもなく、その意義は決して小さなものではない。何故なら、理論の創造と同様に、その場合も経験から理論形成の方法を学ぶことにつながるからである。(p.28 )

 ケース教育におけるこうした主張の思惑を実現させるには、何よりも学習者に対するケース講師の働きかけが問われることになるであろう。彼は、学習者に対しケース分析過>29>程における理論活用の意義を述べ、理論の活用を促し、その使い方を指導しなければならない。そのためには、ケース講師自身が理論に精通していなければならないであろう。さらに彼は、学習者自らをして理論の限界に気づかせる努力もしなければならない。また、村本博士は既存理論の有用性を強調するが、われわれは個別解に寄与するという持論の有用性も同時に認識する。しかし、持論は不適切な一般化により、環境認識を歪め、新たな学習を阻害するような偏見として機能する危険性も有する言わば諸刃の剣である。しかも、学習者がその持論を自覚していない場合もある。したがって、ケース講師は学習者の持論に気づき、それを学習者とともに顕在化し、その有効性や修正の是非に関する論議を誘発することも求められるであろう。以上のようなケース講師をめぐる種々の要請は、翻ってわれわれがケース学習をすすめるうえで克服しなければならない極めて困難な課題になると言っても過言ではない。(pp.28-29)

 本研究における私の考察が妥当するものであれば、いかに学習方法を工夫しても、ケース学習は経営行為の中核要素である対人関係行為(情報収集行為、説得行為)との関係は希薄であり、対人関係技能の向上への寄与は不十分なものでしかないと言える。意思決定技能以上に社会的技能(対人関係技能)の育成に力点を置いたケース教育を推し進めたレスリスバーガーでさえその限界を認め、例えば次のように述べている。
① それは、対人関係技能の学習をあまりにも教室内に制限しすぎた。
② 「ティーチング・ケース」は、具体情況の記述ではあるが、それでも「現実」からは少し距離があった。学生が学ぼうとする観察は、記述された行動(書き言葉)についての観察であって、現実的行動についてではなかった。
③ それは、「診断技能」と同程度に重要なコミュニケーション技能の実践機会よりも「診断技能」の実践機会を提供した。過去において、われわれは、この問題に対処する一つの方法として「ロール・プレイング」を用いたが、それでも未だに不満足であると認識していた。(pp.28-29)

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◆佐野享子(2005)「職業人を対象としたケース・メソッド授業における学習過程の理念モデル――D.コルブの経験学習論を手がかりとして」『筑波大学教育学系論集』29,39-51

 ケース・メソッドの特色は,講教形式の授業を排し,討論によって教育を行う点にある。成人教育における有効な学習方法として,討論形式による学習方法を挙げている代表的な論者としては,アメリカにおける成人教育学の祖であるエデュア一ド・リンデマン(Eduard C.Lindeman)が挙げられる。リンデマンは,成人教育における最高の資源は学習者の生活経験であり,成人ならではの生活経験の意味を探究することによって新たな知識を産み出すことが成人教育の目標であるとして,成人の特性を踏まえた教育の原理を構想した。彼は,複数の人間が互いの経験を交流させあうことで,我々を取り巻く状況と向き合い,新たな行為への方向付けを行うことができるとして,成人教育の場における集団的機能が来たす役割の重要性を強調する。そしてそのための教育方法として小集団ディスカッション法,すなわち成人の生活している状況を討議 (discuss) することこそが成人教育固有の方法であると指摘している(p.39)

 以上のように,ケース・メソッド授業において取り扱われる知識は,理論や技術などの他者に伝達可能な知識ではなく「経験によって個人的に獲得される力」であり,具体的には「新たな経験の場面で行動しうる力」であると認識されている。理論や技術などの他者に伝遂しうる知識と,自らの思考と感覚で個人的に獲得される知識という対比を考えると,前者を社会的知識,後者を個人的知識と呼称することができるものと思われる。ケースメソッド授業では後者の知識獲得がめざされていると考えられる。
 ケース・メソッドが想定する社会的知識や個人的知瞰の内実について更なる検討を加えよう。一般的に社会的知識に含まれるものとしては,第一に,経営の現実から機能的に導き出された理論的な法則性が挙げられる。しかし先に述べたように,ケース・メソッドの授業の過程ではそれらは受講者に示されず,ケース・メソッド授業を日々積み重ねることにより,受講者自身によって経営の原則の一般化が自ずと行われているのだと考えられている。このように,ケ一ス・メソッド授業においては,個人的知識が,一般化された原則という意味での社会的知識へと発展する可能性については極めて狭い範囲で考えられており,授業の過程で個人的知識を社会的知識へと変容させることは意図されていない。
 また社会的知識に含まれるものとしては特定分野に関する専門知識が考えられるが,それらについても,教師に対する受講生の質問や受講生が自主的に書物を読むことによって身につけることが期待され,授業の中では計画的に取り上げられることがない。
一方個人的知識としては何が具体的に措定されているのか。ケース・メソッド授業において討論される課題の一つに,行動する際の「手段(expedient) 」があげられている。例えばグラッグは,与えられた指示がいかに立派であったにしても,それであらゆる事態をカバーできるわけではないとし,新たに生起する一つ一つの事態に対処するためには,想像力に富んだ理解力が不可欠であるとする。社会的知識として言語化され伝達された知識のみでは,現実に行動を行う際に生じる個別の問題に対して対処を行うことは不可能であるとの指摘である。(p.42)

 まず職業人たる受講者は,ケース・メソッド授業の受講前に,各々の職場での何らかの経験を経ている(1)。受講者は,これらの職場経験から何らかの暗黙知を会得しているはずであり,授業での討論はそれらの知識の影響を受ける。討論への参加に先だって,受講者はケースに関する分析を行い,ケースに描かれた事例における管理者の立場に立った場合に,自分ならいかに行動するかについて,自分なりの価値判断を行っている(2)。討論の過程では、他の受講者との相互行為を行う中で,これまでの職場経験から会得したもののうち当該ケースに関わる価値判断と関連するものについての内省的観察が行われるであろう(3)。この場合の内省は,職場経験で会得されたものを経験後に振り返って行われるものであることから,ショーンの言う「行為についての内省(reflection on action)」に該当する。
 このようにして当該ケースに関わる価値判断は,(3)で観察された事象との関連性をするといった抽象的なレペルの思考が行われるという形で,その新たな意味づけが行われていくものと思われる。コルプの言う抽象的概念化のモードがこれに当たる(4)。高木教授の授業例のように、理論知識適用の蓋然性について検討することが受講者に促されるのであれば,ここでの抽象的概念化は一層促進されるであろう。また討論の最中に,受講者や教師側から「このような場合にはどうするか」といった新たな問題が提起されるであろうから、その場合には,提起された新たなビジネスの場面において4の段階で意味づけられた価値判断を適用することが可能か否かが,討論を通じて検証されることが予想される(5)。このような過程を通じて,討論終了時(6)には,討論後の新たな職場経験(7)への活用が可能になるような,「状況に埋め込まれた行為を行いうる方法知識が獲得される。また討論の過程では,授業中に発言することで(あるいは具体的な発言行為に至らない場合でも受講者の心中において),受講者は自らの価値判断について,ザルズニックの言う「言語の内省」を行っているはずである。したがって討論の過程では,ショーンの言う「行為の中の内省」が行われていることが予想される。
 このようにここで提示した理念モデルによれば,ケース・メソッド授業においては,ケースに書かれた事例に閲する自らの価値判断の意味づけを行う経験学習サイクルと,職場経験から会得した暗黙知に対する意味づけを行う経験学習サイクルとが重畳して出現する。その中では,受講者が職場経験から会得した知識は,当該ケースに関する価値判断との関連性において「抽象的概念化」される過程を経て,討論後の新たな職場経験への活用を可能とする知識へと変容する。(p.47)

 筆者が提示した理念モデルの検討を通じて,ケース・メソッド授第は,個別の経営場面の「状況に埋め込まれた行為を行いうる方法知」としての個人的知識を獲得する点をねらいとしていること,また職業人の載場経験を異なる職場経験での活用に資する知識へと変容する意味を持つという意味で,職業人の特性に合致した授業法であることが示唆された。
 ケース・メソッド授業を効果的に実施するための条件について若干の検討を加え,結びとする。コルプはシュミレーションやロ一ル・ブレイなどの経験学習の方法ごとに,経験学習サイクルにおける各モードごとの有効性の検討を試みている。その中でケース・メソッドについては,具体的経験と抽象的概念化のモードに対する貢献度の低さが指摘されている。具体的経験については、ケース執筆者の記述いかんで,ビジネスの現実に基づく思考が難しくなることがその理由となっており、ケース・メソッド授莱の改善の際には,ケース教材の質に関しても併せて留意する必要がある。
 またコルプは,抽象的概念化のモードへの貢献の低さを補うためには,ケース・メソッドにおいても文献の講読y理論に関するセッションを設けるべきだと主張する。この点に関しては,高木教授の授業の過程に理論知瞰が位置付けられていた点が示唆に富む。今回提示したモデルは,ハ一パ一ド方式の授業過程を実証的に明らかにした上で提示したものではなく,あくまでも仮説的なモデルの提示に留まるものである。また冒頭で述べたように,ケース・メソッド授業にはハーバ一ド方式以外にも多様な方式が考えられており,受講者の個人的知識を学習者間で新たな体系的な知識として「連結化」することを意図する授業のモデルもその中には存在するであろう。(p.48)

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◆佐野享子(2005)「ケース・メソッド授業における教師・学生間の相互作用に関する一考察―― ビジネス・スクールにおける討論授業での教師の発話に焦点をあてて」『京都大学高等教育研究』11, 1-11

 ケース・メソッド授業における教師・学生間の相互作用に閲する実証研究として、Louise (1994)は、ビジネス・スクールにおける授業記録の分析を残している。その結果学生による質の高い発言は、質の高い発言を促す教師の発問によって誘導されており、教師の発問と学生の応答との対応関係が確認できたとして、学生による質の高い発己を促すための教師側からの発問を積極的に行うべきであるとの提言を行っている。しかしながら学生の発言は教師の発問に対する1対1の応答によって必ずしも行われるわけではなく、教師から発問がなくても、発問以外の教師の発話や他の学生の発話によって、学生側の祈たな発見が促されていくことも大いにありえるであろうし、むしろそのような形で学生の主体的な討論への参加が尊重され、主体的な学習が進展すべきものと筆者は考える。学生の主体的な討論への参加が促されるために、教師がどのように討論の方向付けを行っているのかについて明らかにすることを、本研究では意図している(p.2)

 次に授業展開過程ごとの教師及び学生の発話の特徴を探るため、分節ごとにこれら発話の機能を分類した。ケース・メソッドにおいて教師がクラス討論を導く技術として、ハーバード・ビジネススクールのアンドリュース(K.Andrews)は、発問(ask question)、再述(restate)、事実認識の言及(draw upon his own knowledge off act)の3つが重要であると指摘しており、本稿においても教師の発話については、これらを基礎として発話の機能を分類するカテゴリーとした。発問とは学生に対し討議の方向を示唆する役割を果たすもの、再述とは学生の個々の発言内容を明確にするために、発言された内容を教師が別の言葉で言い換えること、事実認識の言及とは討議の進展が情報不足によって妨げられている場合に、自らの認識している事実に基づいて教師が意見を述べることをそれぞれ指している(Andrews,1854)(p.3)。

 以上の分析結果から、事例として取り上げた高木教授の授業においては、おおむね次のような傾向が見られた。(1)教師と学生との応答は、「学生の発話→教師による学生の発話内容の確認」が主体となっており、その後学生の発話内容が十分でない場合の教師の応問、又は学生の発話内容が十分でない場合の教師から他の学生への発問が必要に応じて展開されている。(2)授業全体の展開はあらかじめ構想された主題の順序どおりに進められており、それまでの討論内容の要約が教師によって確認されてから次の主題が導かれている。(3)あらかじめ構想された主題の下位のレベルに位置付く主題は、学生の発話内容によって異なるものが設定されることがある。それらは教師による学生の発話内容の確認の後に新たな発問によって導かれている。(中略)
 教師の発話における「確認」の機能として上記以外に考えられるのは、討論において学生の自由な発言を教師が受容していることを示す機能であろう。ハーバード・ビジネススクールのバーンズ、クリステンセンとハンセン(Barnes, Christensen, and Hansen 1994)は、ケース・メソッド教授法に関する著作の中で、教師が学生の発言をまじめに受け止め、苦労して議論の中に組み込んでくれたとわかれば、発言者は自らの存在意義を感じるようになるとの指摘をしている。データ1に見られたように、学生の発言をそのまま教師が再述する(繰り返す)ことで、学生は自らの発言がそのまま受容されたことを感じ、討論の場に主体的に参加しようとの意識を持つのではないかと予想される。(p.10)

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◆佐野享子(2007)「ケースメソッド授業の展開における教師の発話の機能――経営教育における教授方略上の意味を探る手がかりとして」『筑波大学教育学系論集 』31, 1-13

これまで筆者が分析対象としてきたのは組織マネジメントに関するデシジョン・ケースである。一連の研究の中で明らかになったのは,ケースメソッド授業における教師の発話に関しては,「発問」のみならず,学生の発話内容を明確化することを意図する「確認」の機能を果たす発話の頻度が高く,学生の発話内容を「確認」する発話の後に他の学生への教師の「発間」がなされて授業の新たな主題が展開するなど,教師による「確認」の発話が教師と学生の応答の中心的な役割を果たしているという点であった(佐野 2005)。

 

 以上より,討論の過程では,学生の発話を「要約」したり,内容が不十分な学生の発話に対して教師自身が「言葉の補足」や「趣旨の補足」を行うことによって「論旨の明示」を行い,討論の筋道を他の学生にわかるように示す>9>とともに,学生の発話の中の特定の単語・文節を「くり返し」たり,板書による「図示」,学生の発話内容を教師自身が「概念化」するなどによって,「論点となる概念の提示」を行い,それらの概念に対する学生の注意を促している様子がうかがえた。(pp.8-9)

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◆石田英夫、星野裕志、大久保隆弘 編(2007)『ケース・メソッド入門 ケースブックⅠ』慶應義塾大学出版会

 「ESSAY3 ケースと事例研究」星野裕志

 最後に、両者の目的とするところの違いが考えられる。ケースは、まさに読者がケースに描かれた課題に直面した際に、その当事者としてどのように判断し戦略を構築するかというプロセスを疑似体験し、意思決定力を高めるマネジメント・トレーニングを目的としている。状況を把握すること、直面している問題を分析すること、課題を自分なりに解釈すること、そしてそれらの分析に基づいて適切なアクション・プランや戦略を提示すること、という要素が、多くのケースに見られる構成である。事例研究では、対象とする企業の記述にある成功要因や失敗要因、あるいは事業展開を事実として受けとめ、その結果からインプリケーションを得ることを目的としている。(p.19)

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◆Ewing, W. David. (1990). Inside The Harvrd Business School: Strategies and Lessons of America's Leading School of Business. NY:Radom House Inc. =1993 茂木賢三郎 訳 『ハーバード・ビジネス・スクールの経営教育』TBSブリタニカ

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◆佐藤三郎(1964)「学校教育技術としての事例法」『教育学研究』31(4),11-20

 事例法は創造的思考を育成することだけが目的ではない。後でのベるように,それは情感(sentiment),社会的感受性(social sensitivity)を育成することをむしろより重要な目的としている。だが,ここでは児童・生徒を対象とした事例法の適用を取扱うが,その場合,社会的感受性を第一としてではなく,むしろ,創造的思考と並列さしている。(p.12)

 1920年代になって一般の教育学界において“問題法”、“討議法”が”講義法”に代っていわゆる新教育の名で知られ始めてきた。だから,ハーバ一ドにおいて1920年頃から集団による事例研究が全学部で採用されはじめたのも偶然ではない。講義による法学や経済学の原理や知識の教授ではなく,事例を使って事実を観察し分析することによって原理や知識を実証的に集団の討議で研究することが特徴となった。私はこの型を,”共同の問題解決”の事例研究と呼ぶ。”個人による分析”の事例研究とは区別される。前者の場合、話し合いか主であり,後者の場合、読みみ(reading)が主となる。
 事例研究がハーバードで今日の形の事例法に変質する原因となったのは戦後におけるアメリカ経営学の変化である。周知のように,経営の事態は日々変転しているが,ことに技術革新によってそのテンポは高まってきているので,経営者にとって重要な能力として意志決定(decision-making)が問題となってきた。(私は,この論文で事例法のこの面を主に取扱うつもりだ)。(p.12)

 経営の原理や知識を確実に修得するための事例の研究ではなく,所与の原理や知識を事態を観察し分析した上で,賢明に行使する判断力を訓練するために事例が使われる。一定の時間に共同の問題解決の成果を求めるのでなく,討議に参加する個々人が自らの力で問題解決を行う能力を身につけさせるのが目的である。成果だけに注目すれば過程が軽視されるからである。やがてのベるように,事例法にはべつの特徴もあって,重点のおき方によってその方法に若千の差が出てくる。(p.12)

 事例の中に多くの事実が提出されている。事実に対して観察・分析・省察を行う場合でも,その事実の多くはそれに関与した人びとの感受した事実であり,そこにはその人びとの感情・立場・先入観念が介在している。もちろん,人間関係から独立した中性の物理的事実もある。問題はそれと区別することである。法則から事実を解釈するのでなく,事実をありのままに観察し,分析し,省察を加える”状況的思考”(situational thinking), 事例の中に登場する人物の立場を理解する”立場的思考”,相手の立場や感情に自分をおき”相手の感情に対する感受性(social sensitivityとかempathyといわれるもの)を訓練するのが事例法である。(p.13)

 以上の考察をまとめて事例の使用の方法についてしてみよう。
1 治療のために行う事例研究,事例史研究
(2)研修のため第三者の事例を用いる。
  i) 研修者個人による分析のための事例研究
  ii) 研修者集団による共同の問題解決のための事例研究
iii) 意志決定と社会的感受性の能力を訓練するための,研修者集団による事例法又は事例研究法
以上の分類を試みた理由は,今日,事例法が事例研究,とくにその中で(2)のii)の事例研究と混同される例が多いからである。(p.13)

 事例法の最大の特徴は、その叫喚、つまり集団的情感の具体的な訓練法を示したことである。(p.14)

 事例法で自らが指導性を訓練されているのに,教師は事例法の技術の伝達講習会であると受けとめるのである。熱心であればあるほど事例法の訓練の目的から遠ざかっていく。既成の権威として生徒に臨む教示的態度は事例法とはおよそ無縁である。子どもの創造的思考を助長するには,まづ教師が評価する姿勢を捨てなけわばならない。事例法で教えるためには,まづ教師自らが十分事例法で訓練されるべきである。少くとも事例を指導する教師としての心構えをしかと身につけなければならない。事例法で訓練されることによって教師は,自らが属する教師集団の中での人間関係をうまく処理するだけでなく,彼が指導性をもっとも発揮する対児童,生徒との人間関係において成長することが期待されている。優れて人間関係の技師である教師は,外側から測定され易い知識や技能伝達の成果に幻惑されることなく子どもの内面的成長,その自己決定の能力,その生涯にわたる自己学習の意欲を助長しなければならない。子供にそのような能力がないと想定するのが権威的な矜持の方法である。子どもの持っている潜在的な能力に信頼をおくのであれば教師は子どもの立場,感清,要求に対して鋭い感受性をもたなければならない。(p.15)

 レスリスバーガーは事例討議に参加する人びとの陥り易い欠点をあげている。要約すれば,事例を与えられた場合,人びとが最初に示す反応は,事例の中の事実を,先入観念や既成の原理や法則を適用して解釈しようとする。彼らは,自己に都合のよい,また原理や法則に適合した事実だけを拾いあげ,その他の事実には盲目であることが多い。自己の価値基準に適合したものが善で,そうでないものは悪であって,トラブルを起した人物は悪者だと断定する。彼らは知識として多くの原理や法則を知っている。事例の中に登場する人物の不完全な行為を是正する具体的な手段には思いいたらず,直ちにべきだと押しつける。また、不完全な行為を是正する近道はその人に権威をもたせることだと彼らは安易に考える。事例の中の事実や,自分が持っている知識で,事例を理解し難いときには,事例の中の事例が不足していると不満をかこち,最後には手助けを事例教師に求める。決定的に不足しているのは,与えられた事実を徹底的に観察し,分析し,省察を加える能力である。彼らは先入観念や既成の原理や法法則,権威に依存しているのであって,それが事実を事実として自分の眼でたしかめることをさまたげている。決して生来怠慢で愚鈍であるわけではない。判断は日常生活において,あらゆる資料を余すところなく集めた後で行うものではなく,限られた資料を十分省察してその都度行うものである。しかも眼前の事態は刻々変化し予想を許さない新局面を展開する。彼は現実をしかと知って,賢明な判断を自ら下さなければならない。だがこの判断能力を事例法で訓練しようとして,レスリスバーガ一が指摘するような参加者の誤った発言傾向を,直接に矯正してはならない。教師の役割は,参加者の注意を,事例の中の事実にもどすのが主であって,評価し,矯正し,教示しようとする習性を慎しまなければならない。(p.17)

 さて,ここで注意しなければならないことは,事例の中の”事実”である。人間の知覚から独立した物理的事実と,知覚によって着色された事実とが一応区別されなければならない。事例法の事例は人間関係に関する事実を多く含んでいる。従って単なる事実の観察や分析ではなく,事実を知覚された事実として把えることが必要である。事実の背景にある,それを知覚した人の立場や感情まで立ち入って理解しなければならない。人間関係には見る人と見られる人との相互の間に複雑な交錯があり,単純な因果関係で律し切れないものがある。正確にいえば,事例法における事実の観察・分析・省察は集団的情感と別個に訓練されるのでなく,前者に則して後者を訓練す>18>るのである。だから事例法は情感を訓練する知的アブロ-チであるともいえよう。人間関係に関する事実をありのままの事実として観察し,分析するには,事実をそれに関与した人が見たままに見ることであり,事実をそれに関与した人が感じたままに感じるという意味で事実に忠実でなければならない。そのような訓練を重ねることによって人は集団的情感を身につけるのである(pp.17-18)。