> うまなり[Home] / 人文・社会科学のための研究倫理
Research Ethics for Humanities and Social Sciences
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◆安藤寿康、福士珠美、佐倉統(2009)「人を対象とした研究の倫理」 『日本音響学会誌』 65(6), 324-330 ◆安藤寿康・安藤典明編(2011)『事例に学ぶ心理学者のための研究倫理 第2版』ナカニシヤ出版 ◆米国科学アカデミー編 ; 池内了訳 『科学者をめざす君たちへ――科学者の責任ある行動とは』 ◆出口弘(2011)「人を対象とする研究の倫理指針の諸問題」『社会・経済システム』32:14-20 ◆長谷川公一(2010)「社会調査と倫理――日本社会学会の対応と今後の課題」『先端社会研究』6:189-211 ◆長谷川公一(2014)「社研究倫理のローカル性と普遍性」『社会学研究』93:93-101 ◆藤本加代(2007)「アメリカ合衆国における『IRB制度』の構造的特徴と諸問題――日本の社会科学研究における研究対象者保護制度の構築に向けて」『先端社会研究』6:165-188 ◆古澤頼雄・斉藤こずゑ・都築学編(2000)『心理学・倫理ガイドブック――リサーチと臨床』有斐閣 ◆本郷 一夫(1997)「研究の「主体」とどのようにつき合うか――乳幼児研究における研究倫理」『発達心理学研究』 8(1), 67-69 ◆飯倉義之(2008)「現地の<声>と研究倫理」日本民俗学』253,74-83 ◆池田光穂(1996)「「健康の開発」史――医療援助と応用人類学」『文学部論叢(地域科学篇)』, 52: 41-72 ◆稲葉昭英(2014)「社会調査と利益相反問題」『社会と調査』12:13-19 ◆石川良子(2014)「調査倫理の一歩目――調査する側とされる側の関係から考える」『社会と調査』11,56-62 ◆伊藤敦規(2014)「「先住民の知的財産問題」と文化人類学の関わり」『社会と調査』12:29-37 ◆岩本健良(1997)「フォーラム 研究の倫理とルール>社会制度としての研究倫理――アメリカ社会学会の実例と日本の社会学者の課題」数理社会学会編集委員会編『理論と方法』 12(1), 69-84 ◆岩佐光広(2008)「生命倫理学における民族史的アプローチの重要性」『生命倫理』18(1):22-29 ◆河原純一郎・坂上貴之編(2010)『心理学の実験倫理――「被験者」実験の現状と展望』勁草書房 ◆片岡栄美(1997)「<フォーラム 研究の倫理とルール>学問的誠実性(Academic Integrity)の基準と共同研究の心得――アメリカの事例にみる学問的倫理」『理論と方法』12(1), 85-95 ◆日本文化人類学会(2013)「日本文化人類学会倫理綱領」『文化人類学』77(4):635 ◆高坂健二(2007)「『調査倫理』問題の現状と課題――特集のことばに代えて」『先端社会研究』6,1-22. ◆正村孝之(2014「古くて新しいテーマ」『社会学研究』93,1-4 ◆丸山英二(2012)「アメリカ合衆国における臨床研究規制『年報医事法学』27:58-69 ◆松原洋子 編(2007)『研究倫理を考える』立命館大学人文科学研究 ◆松井健志・會澤久仁子(2014)「看護研究における研究倫理指針の歴史的展開」『Clin Eval(臨床評価)』 42(2):519-530 ◆松井 健志・會澤久仁子・丸祐一・原千絵子・齊尾 武郎(2014)「論文非掲載――学術誌の公正性と倫理性をめぐる問題事例の検討」『Clin Eval(臨床評価)』 42(2):513-517 ◆宮野勝(1997)「<フォーラム 研究の倫理とルール>国際共同研究の問題点と注意点」『理論と方法』 12(1), 97-10 ◆宮内洋(2014)「フィールドワークにおける葛藤(小特集 フィールドワークにおける倫理問題)」『社会と調査』11,48-55 ◆宮本常一(1972)「調査地被害――される側のさまざまな迷惑」『朝日講座探検と冒険7 巷』朝日新聞社 ◆武藤香織・佐藤恵子・白井泰子(2005)「倫理審査委員会改革のための七つの提言」『生命倫理』15(1):28-34 ◆武藤香織(2012)「倫理審査委員会」笹栗俊之・武藤香織編『シリーズ生命倫理学 第15巻 医学研究』丸善 ◆武藤香織(2014)「社会科学とIRB制度――米国での経験から何を学ぶべきか?」『社会学研究』93:29-50 ◆中村英昭(2014)「欧米諸国におけるリモート方式による公的統計データの二次的利用――利用者の倫理に依存しない提供手段」『社会と調査』12:38-45 ◆中根光敏(1996)「ラポールという病――参与観察の陥穽」『広島修大論集 人文編』37(1);195-217 ◆中島理暁(2005)「『倫理委員会』の脱神話化」『思想』9,88-108 ◆日本民俗学会編(2008)「」『日本民俗学』 (253), 100-109 ◆島二郎(2012)「フランス人対象研究法2012年改正――『臨床研究』の新たな仕分けを主眼として」『臨床評価』40(1):71-77 ◆斉藤こずゑ(1998)「発達研究の質の転換を促す研究者倫理問題:研究者の自己言及性の高まり」『発達心理学研究』8(3),244-214 ◆齋藤芳子(2008)「米国における大学院生向け研究倫理教育コースの設計」 『名古屋高等教育研究』 (8), 117-136 ◆阪本俊生(2007)「質的社会調査とプライヴァシー――質的調査、モラリティのまなざし、社会の物語」『先端社会研究』6:23-47 ◆桜井厚(2003)「社会調査の困難――問題の所在をめぐって」『社会学評論』53(4):452-470 ◆桜井厚(2003)「ライフヒストリー研究における倫理的ディレンマ」『社会先端研究』6:87-113 ◆佐藤恵(2014)「支援現場における調査と調査倫理」『社会と調査』11:63-69 ◆新谷由紀子、菊本虔(2009)「大学における研究倫理問題への対応のあり方に関する一考察」『文理シナジー』 13(1), 33-42 ◆社会調査協会編 (2014) 『社会と調査〈第12号〉特集 社会調査とデータの利用をめぐる研究倫理の動向』 有斐閣 ◆祖父江孝男ほか(1992)「日本民族学会研究倫理委員会(第 2 期)についての報告」 『民族學研究』 57(1), 70-91 ◆杉森伸吉・安藤寿康・安藤典明、青柳肇・黒沢香・木島伸彦・松岡洋子・小堀修(2004)「心理学研究者の倫理観――倫理学研究と学部生の意見分布、心理学研究者間の差異」『パーソナリティ研究』 12(2):90-125 ◆杉森伸吉(2014)「心理学における研究倫理の動向」『社会と調査』12:28-20 ◆杉浦郁子(2014)「「ピア」に対するローカルな研究倫理という課題――日本クィア学会会員有志による活動を通じて考えたこと」『社会学研究』93:79-92 ◆高橋さきの(2006)「ヤノマミ論争と科学――『失楽園と研究出版の倫理』を読む」『生物学史研究』76,82-85 ◆田代志門(2011)『研究倫理とは何か――臨床医学研究と生命倫理』勁草書房 ◆田代志門(2014)「社会調査の『利益』とは何か――山口一男の問題提起をめぐって」『社会学研究』93,5-28 ◆田代志門(2014)「研究規制政策の中の社会調査(特集 社会調査とデータの利用をめぐる研究倫理の動向)」『社会と調査』12,5-12 ◆俵木悟(2008)「「フォークロア」は誰のもの?――国際的知的財産制度にみるもう1つの「伝統文化の保護」『日本民俗学』253,84-99 ◆土屋貴志(2000)「ニュルンベルク・コードの誕生(1)」『人文研究 大阪市立大学文学部紀要』52(1):25-42 ◆土屋貴志(2004)「米国のbioethics諮問委員会の系譜――大統領令まで」『人文研究 大阪市立大学文学部紀要』55(1):33-52 ◆上野和男・祖父江孝男(1992)「資料と通信 日本民族学会第一期研究倫理委員会についての報告」『民族學研究』 56(4), 440-451 ◆浮ケ谷幸代(2014)「人類学フィールドで<ローカルな倫理>が生まれるとき」東北大学社会学研究会『社会学研究』93,51-79 ◆若島孔文・孤塚貴博・宇佐美貴章(2009)「日本における心理学書学会の倫理規定の現状とその方向性」『東北だ偽悪大学院教育学研究科研究年報』58(1):122-147 ◆八木透(2008)「民俗学と研究倫理をめぐる諸問題」『日本民俗学』253,57-64 ◆八木橋伸浩(2008)「共同幻想の喪失と「個」への対応」『日本民俗学』253,65- ◆山田慎也(2008)「現代における葬送儀礼調査と倫理」『日本民俗学』253, 100-109 ◆山口一男(2003)「米国より見た社会調査の困難」『社会学評論』53(4):552-565
>top ◆田代志門(2014)「社会調査の『利益』とは何か――山口一男の問題提起をめぐって」『社会学研究』93,5-28 もう一つの視点は、「リスク・ベネフィット評価」と呼ばれる枠組みである。これは「研究対象者の負う様々なリスクや負担を可能なかぎり小さくしたうえで、研究のもたらす社会的な利益(場合によっては、それを加えて研究対象者個人への利益)を比較検討し、最終的に利益が勝るような研究しか行ってはいけない」という考えかたである。日本ではしばしばここでいう「ベネフィット」が、治療法の有効性を検証する研究のように、個人に治する利益を指すものに限定されると誤解されることがあるが、あくまで基本は社会的な利益である。とりわけ、社会調査のように調査に参加することで>17>調査対象者に直接の利益をもたらさない研究の場合には、「利益」は調査から生み出された知識に限定される。これは医学系の研究においても、患者からカルテ情報や献体を提供してもらって実施する、患者本人には直接の利益がない研究においては同様である。(pp.16-17) しかしその一方で、1990年代以降の新しい研究倫理の枠組みを参照してみると、かならずしも上記の立場だけでは研究の倫理性を十分に確保できないという立場が現れていらうことに気づく。それを具体的に言えば、研究者は「一般社会」とは別に、調査に協力してくれた人々に対して、何らかの直接的な利益供与や成果の還元を考えるべきである、という倫理的妖精である。(p.17) 特に本稿が重視してきたのは、本来的に研究対象者に個人的利益をもたらす研究ではないにもかかわらず、研究参加そのものが利益になる、という考え方を採用することの危険性と、しかしそれにもかかわらず研究者には研究に協力してくれた人々に対する何らかの倫理的責務を負うという考え方であった。この点で、社会調査であれ医学系の研究であれ、個別の「利益」を不当な誘因として研究参加の動機を引き出すことは慎まねばならないが、可能なかぎりその結果を研究対象者に還元することや必要とされるサポートを提供することは倫理的に奨励されうる。このように考えれば、倫理的問題への対処に関して、両者は同じ枠組みに沿って判断することが可能となる。
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◆武藤香織(2014)「社会科学とIRB制度――米国での経験から何を学ぶべきか?」『社会学研究』93:29-50 米国では、IRB制度を導入してからそれが定着し、疲労するまでの約40年の歴史がある。連邦政府当局と各IRBと研究者という三社間での様々な攻防を経て、現在、IRBの実施把握や質の標準化に努めようとする動きに至っている。質的研究は、個人研究として実施されることが多いため、フィールドワークやインタビューの対象者の実体験を相対的に把握することは、臨床研究などに比べて困難である。連邦政府による強制力と、医学を中心とした制度設計の中で、米国の社会科学者が対抗している姿が印象的である。社会科学が陥りやすい、あるいは、特有の、対象者への被害リスクを洗い出し、事例を積み重ね、近年、質的研究に特化した研究倫理の書籍が複数刊行されている。この姿勢からは、IRBの権力性に対するクレイム申立てのみならず、IRBをしなやかに乗り切るための志向も伺える。(p.45)
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◆浮ケ谷幸代(2014)「人類学フィールドで<ローカルな倫理>が生まれるとき」東北大学社会学研究会『社会学研究』93,51-79 しかし、こうした倫理的手続きは調査対象者の人権を守るということだけでは名kう、他方で調査者側にとっての自己防>54>衛として働くことも窺い知ることとなった。何度も繰り返される同意書の煩雑な手続きは、読み方の確度を変えれば、調査者側の自己防衛のための手続きであると解釈可能である。IRBの非倫理的な側面に関して、アメリカにおけるIRBの歴史的経緯から、アメリカの倫理委員会の機能が破たんし、形骸化されてきたことが指摘されている。それは、IRBの現状が「倫理委員会という名の新たな官僚的組織、形式主義、非人間的」になっていること、そして「価値の対立を調整する場ではなく、道徳的なジレンマに苦悩することではなく」なったことが指摘され、倫理委員会それ自体が「倫理的であるのか、果たして効果的なのかと問うものである(中島 2005)。(・・・) 人類学者は、なぜ普遍的な倫理基準を退け、人びとの生活が営まれるローカルな文脈に拘るのだろうか。フィールドワークは、「ある特定の場所、ある特定の時、ある特定の人々」によって構成された関係性の中で生きられる経験の世界に入り込み、「ある特定の場所からの視点」から出発するからである。したがって、そこで得られた知見を人類学的に扱う際には、地域特有の倫理や観念にもとづいて解釈する必要がある。
以上のことから、倫理に関わる人類学的アプローチをまとめると、「相対的」、「ローカル(地域固有の)」、「文脈依存的」な視点が特徴であるといえる。これらの視点は普遍的な規範やグローバルな基準、首尾一貫的な論理とは対極にある特徴であるため、倫理学者が普遍的な倫理基準を生活世界のできごとに当てはめようとするとき、人類学者が抗う根拠となっている。(p.69) 人類学者と倫理学者にできることは、対話が継続できるような場を用意することではないだろうか。そうした顔の見える対話の中で互いに交渉、調停するプロセスから、ローカルな文脈に則した形の「倫理」が生まれると考えるからである(p.72)。 そもそも民族誌的調査では、予見しうる安全策をどれだけ事前に準備しても、予想外の出来事は不可避的に起こる。それは調査それ自体が相手に何らかの影響を与えていることや、フィールドの状況も刻一刻と変化する動態的状況にあるからである。そうした中で受容なことは、利害関係のあいだで明確な態度を表明することではなく、また結論を請求に求めることでもない。むしろ、二者択一的発想を回避し、多義的な立場に居続けることの意味を改めて思いめぐらすことではないだろうか。(p.74) しかし、最後に結語として述べるとすれば、<ローカルな倫理>を模索する営みは、それ自体がフィールドワークを構成し、調査を前提とした社会科学研究を成立させる営みとなる。だからこそ、こうした営みは、問題解決やリスク回避の方途を書類上の正地下にさぐるだけでは見いだせない課題、言い換えれば人類学の主題「いかに対象を描くか、何のために描くか」という他者表彰の問題へと導かれるのである。また、それは人文社会科学系の重要なテーマに向かって扉を開くことになるであろう。(p.74)
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◆杉浦郁子(2014)「「ピア」に対するローカルな研究倫理という課題――日本クィア学会会員有志による活動を通じて考えたこと」『社会学研究』93:79-92 協力者から研究者に対して、性志向・性自認の開示を求められウこともよくある。どこまで開示するのかは各自で判断すべき事柄であるが、開示すると「当事者同士」という関係性が前に出て、「研究者と協力者」という立場の違いが後ろに退いてしまう。
(…) この段階で、研究者はすでに、支援者になっている。しかし、そうした個別の便宜供与は、えkン級の客観性を損ねるかもしれないし、何より研究者が支援スキルを持っていなければ、二次被害を招くこともある。さらに「ピア」としての信頼が強固であればあるほど、その期待が裏切られたときの反応も大きく、研究者個人の手に負えなくなることも考えられる。'p.88(
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◆伊藤敦規(2014)「「先住民の知的財産問題」と文化人類学の関わり」『社会と調査』12:29-37 バイオ・パイラシ一とは、先進国企業が生物多様性の豊富な先住民の居住地域に押し寄せ(green rush)、先住民や先住民を包含する国家から許可を得ずに伝統的医療の知識などを国外に持ち出し、主に先進国内で製薬特許を取得して、製薬製造から発生する商業的利益を先住民に配分せずに特許取得企業が独占する行為を批判的に表現した言葉である。(p.31) すなわちこの意味において,文化人類学はまさに「先住民の知的財産問題」の1つの鍵となるアク夕一といっても差し障りない。そう考えると、文化人類学者は先住民の伝統的知識や「知的財産」をあらゆる者に開かれた世界的共有物として捉えるのではなく、先住民という特定の人々によって管理されている資源として認識し、管理者たる彼らから,許可を得てそれらを部分的に使用させてもらう行為としての学術調査と、それらを学術的に分析し解釈した結果をまとめる研究者の知的財産としての研究成果(管理者による事前の検閲が求められる場合もあり、場合によっては共同成果となる)とを明確に区別して考えていく必要があると思われる。(p.36)
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◆杉森伸吉(2014)「心理学における研究倫理の動向」『社会と調査』12:28-20
研究の倫理性を追求しようとするとき、多くは「こちらを立てればあちらが立たず」というトレード・オフの問題に直面する。そこが倫理問題の難しいところである。たとえば、インフォームド・コンセントを十分行うなかで、研究の真のH的まで伝えてしまえば、参加者のなかに構えや反応バイアスが生じてしまい、「純粋な」データが得られなくなるというトレード、オフがある。そのため、事後説明(デイブリーフイング〉を行うことを前提に、真ではないH的を伝えるデイセプシヨンを行うことが、認知心理学、発達心理学、社会心理学の実験や調査などでは頻繁にある。また、外国の研究行が作成し公表した尺度を翻訳して使用する際、本人の許可を得る時間的コス卜を節約するために、そのまま訳す場合も多いようだ。この場合も研究速度(における時間的コスト)と研究マナーのトレード、オフの問題が背景にある。事例研究の場合も、詳細な報告は読者に多くの有益な情報を伝えるが、同時に個人が特定される可能性を消すという、プライバシ一保護と公益性のトレード、オフが存在する。研究の客観性確保と参加者の非人格化、研究の有用性と参加者に与える苦痛、などのトレード・オフも存在する。トレード・オフの問題をどう解決するかの判断は、社会的合意に基づくべきであり、社会的合意は、社会の構成構成員の意見分布に影響されるものである。この意見分布も、明らかに非倫理的な場合を除き、時代や文化、成員により異なる相対的なものである。たとえば、倫理的寛容さには、かなり寛容な人からかなり厳格な人まで、大きな個人差があることは経験的にも周知のことであろう。(p、25)
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◆稲葉昭英(2014)「社会調査と利益相反問題」『社会と調査』12:13-19
ところで、社会調査においても利益相反的行為をもたらすような利害は存在するのだろうか。まず想起されるのは企業からの委託研究であるこの点は「F1本社会学会倫理綱領にもとづく研究指針」にも言及があるが、そこでの言及は研究者と委託者の問のトラブルに関する注意が主であるようだ。しかし、私は、近年ではいわゆる政策と連携した研究、政策推進を目的とした研究(政策誘導型研究というべきか)が最も憂慮すべき対象ではないかと考えている。とくに目につくのは、一般化が難しいようなモニター調査などの有意抽出標本を使って、あたかも示された結果が一般的であるかのように語る言説や論稿の多さである(これらに社会学や経済学の専門研究者が閲与していることも多い)。場合によっては「無作為抽出標本といっても回収率が低く、非標本誤差が大きいため、モニター調査などの有意抽出標本に対して優位性は認められない」といった類の主張が展開される(いうまでもなく、だからといって有意拙出標本の結果が一般化できることにはならない)。そして、そうした分析結果が特定の政策を導人することの付効性を主張するために用いられることが少なからずある。
>top ◆田代志門(2014)「研究規制政策の中の社会調査(特集 社会調査とデータの利用をめぐる研究倫理の動向)」『社会と調査』12,5-12 とりわけ、1990年代以降に、国による人を対象とする研究への監視体制が強化されるなかで、社会科学系の研究の倫理審査が拡大していった(武藤、
2014)。それに伴い、次第に各研究機関での対応が厳格になり、社会調奔であっても医学系の研究と同様に研究機関内の倫理審査委員会にかけられるようになったのである。
しかしその一方で、こうした現状は2000年代以降、自由な研究を阻害するものとして、間連学会や専門家から強く批判されるようになってきた(Schrag、 2011)。とりわけ問題になっているのが、これらの規制制定に関わる手続き上の不公正である。1970年代に規制を定める際に関与したのは、医学系の研究者>9>と哲学・倫理学の研究者であり、一部の心理学者は関わっているものの、その他の社会科学分野の研究者はこの過程に関わっていない。というのも、規制が策定された当初、規制対象に社会調奔が含まれるかどうかは曖味だったからである。それがいつの間にか規制対象が拡大されたため、社会科学者には、 一方的に他分野の研究者からルールを押し付けられているという不満がある。
こうした現状を踏まえ、私は会議当日に以下のような提案を行った。第一に必要なのは、人文・社会科学分野の学会対応や研究機関の倫理審杳に関する全国的な現状把握である
また同時に、社会調査や実験心理の関連学会や専門家から体系的なインプットを得ることも必要であろう。アメリカで問題になったのは、こうしたインプットがないままに一方的にルールを決めたことにあった。
日本では、「研究倫理」という用語からは不正行為の問題が連想されることが多いが、通常英語圈では不正行為を念頭におく場合は、「研究の公正さ(research integrity)」ないしは「責任のある研究の実施(responsible conduct of research)」という表現が一般的である。これに対して本稿では、主として人を対象とする研究において、研究者と研究対象?や社会との問で生じる倫理的問題を扱っている。(p.11; 注7)
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◆宮内洋(2014)「フィールドワークにおける葛藤(小特集 フィールドワークにおける倫理問題)」『社会と調査』11,48-55
研究活動を行うフィールドワーカーは研究成果の公表をめぐる問題から逃れられない可能性に先に触れた。この問題について、1つの解決策が論じられている。「調査対象者」と取り交わす誓約書である。誓約書を取り交わしさえすれば、この問題は解決するといわれるが、果たしてそうだろうか。上述のように、問題の渦中にある<当事者>はひどく混乱しているものである。誓約書を交わした際においても、非常に混乱していることも考えられる。後日、講評をめぐるトラブルが持ち上がるかもしれない。その際に、誓約書にはサインがあるのだから、この羊肉レイムが生じても、それは「ルール違反」だと突っぱねることも可能かもしれない。しかし、果たしてそれでよいのだろうか。私たちが行っているのは研究活動であり、ビジネスではない。誓約書をたてにして突っぱねてよいのだろうか。こう書きながら、フィールドワークからすっかり遠ざかってしまった私は考えあぐねている。いったいどう視すればよいのだろうかと。
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◆石川良子(2014)「調査倫理の一歩目――調査する側とされる側の関係から考える」『社会と調査』11,56-62
(調査者としての倫理と“ひと”としての倫理 “ひと”同士であることを起点にする)私自身が現場で気を付けていることを述べるならば、それは「相手の嫌がることはしない」という一言に尽きる、繰り返しになるが、調査といえども“ひと”同市の関わり合いであることは他のいかなる人間関係ともなんら変わらないと考えているたんである。したがって、調査倫理も人付き合いにおけるマナーや常識に連続するものとして捉えておいたほうが、よほど間違いがないと思っている。たとえば被調査者のプライバシ一保護に関しては、「人から聴いたことを誰彼かまわず,言い触らすべきではない」という日常的な感覚の延長線上で考えればいいのではないだろうか。(p.60)
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◆佐藤恵(2014)「支援現場における調査と調査倫理」『社会と調査』11:63-69
この事例に限らず、結果の公表後に生じうる問題については(調査者が直接インフォ一ンマントに二次被害を与えうるかどうかを問わず)、調査者のマネジメント能力を超える部分かあることは否めない。そのように結果公表後に生じたトラブルに関しては、ただちに受け入れられてもらえなくとも、研究者という以前に、人として、誠実に謝罪するしかないように思われる。(p.66)
また、インフォーマントである支援者との関係性に関して、たとえば犯罪被尨者のセルフヘルプ・グループにおける三々五々の語り合い、聴き合いで、被害者の方々とともに涙を流すといった経験の中に身を置き続けるということは、確かに調査者―被調査者という枠を抜きにすることはできないけれども、社会学者も支持者も、ともに「自分に何ができるのか」と絶えず悩みながら自らを問い直し続けるという点で、互いにヴァルネラビリティを有する人同士の出会いと気づき合いの関係性があるのではないか,そこにこそ,社会学的な仮説(理論)生成の可能性があるのではないかとも思っている。(pp.67-68)
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◆Nagy, Thomas, F. (2005). Ethics in Plan English :An Illusitarive Case book for Psychologist, Second Edition. Washington, D C. American Psychological Association. (村本詔司 監訳・浦谷計子訳 2007 『APA倫理基準による心理学倫理問題事例集』,創元社)
具体的制裁(訓戒・譴責・除名・条件付退会)
命令(停止命令・その他の是正措置・スーパーヴィジョン義務づけ・教育、訓練、個別指導の義務付け・評価および治療の義務づけ)
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◆安藤寿康・安藤典明 編著 (2005) 『事例に学ぶ 心理学研究者のための研究倫理』,ナカニシヤ出版
研究者はともすれば研究者側からの視点だけで研究状況を捉えがちである。実験に参加してくれる人たちのことを、かつてはもっぱら「被験者」subject(s)と呼んでいた。subは「下に」、jectは「投げる」の意味で、相手を対象化し操作するという研究者側からの都合があらわれている。それを近年になって「協力者」「参加者」(participants)と呼ぶ傾向が高まってきたのは、視点の転換のひとつの現われである。(p.30 安藤長康)
事前に同意が取れない問題 社会心理学などの研究では、この事例のような援助行動のほかにも、現実問題の改善を図るアクションリサーチや、ロスとレターテクニック(未投函の落し物の手紙を、どれくらい投函してくれるかを調べることで、あて先になっている人や差出人への態度を見る方法)、該当での同調実験(何人が立ち止まって上を見上げると通行人も同調するか、身なりのよい人や悪い人が信号無視をして横断歩道を渡るとき、どのくらいの人が同調するか、など)をはじめ、一般人や学生などが、知らず知らずに研究参加者となっている場合がある。
同様に、もし「知る権利」が重要で、自分が今どのような立場に置かれているか、実験中であっても知っていたいと考えるなら、盲検犬法の対象にはなれない。だから知る権利の少なくとも一時的な停止も、実験研究の対象を勤めるための必要条件となる。
上述のAPA基準は、インフォームド・コンセントを必要としない状況をいくつか挙げているが、その中に「自然な観察」というカテゴリーがある。社会心理学における「現場実験」研究がこれにあたると思われる。ただしどう基準では、研究対象の反応を明らかにしても、そのことで本人に刑事・民事の責任や、金銭的、職業的、名誉的なリスクが生じないこと、匿名性が守られることを、この種の研究を行う前提としている。(p.56)
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◆Steneck, H. Nicholas. (2003). ORI Insroducition to The Responsible Conduct of Research. Office of Research Integrity. (山崎茂明 訳 2007 『ORI 研究倫理入門 責任ある研究者になるために』,丸善)
研究の不正行為・FFP(捏造:fabrication/ 偽造:falsification/ 盗用:plagiarism)(p.21)
◆八木橋伸浩(2008)「共同幻想の喪失と「個」への対応」『日本民俗学』253,65-74
一方、乱暴な言い方になるが、民俗学は共同体という伝承母体に固執し、共同体において三世代以上にわたり伝承され共通理解されるものを民俗と規定する「共同幻想」によって支えられてきた。これを古典的と解するのは簡単であるが、この共同幻想を喪失したとき、民俗は単なる「生活文化」の用語でしか規定されなくなる。共同体が共通理解していれば、それを構成する個の要素である「個人」はあまり重要視されてこなかったきらいがある。ムラ社会が普遍的に均質性を帯びたものでないことは自明であるが、しかし、突出した個、変則的な個は共同幻想のなかから除外されてきたのである。現在も、共同体で伝承される民俗を見出し、これを書きとめ分析・検討する作業は進められているし、民俗学が民俗学である限り、ましてや民俗学の看板に身を寄せている者として、この作業を頭から否定するつもりはない。しかし、現実はすでに幻想支持の状況から乖離している。(p.68)
数年前、久々にお邪魔した際、お母さんは筆者にこんなことを語った。最近、某大学の先生や学生たちがやってきて昔話や伝説を教えて欲しいといわれ、一所懸命思い出して間違えないよう丁寧にお話ししたのだという。その後、報告書が完成し送られてきたので喜んで自分が語った部分を読んでみた。筆者もそれを拝見したのだが、内容はテープを起こして語りを忠実に再現する手法に基づいた採話形式によるものと思われた。お母さんが語りの合間等で発する意味をなさない言葉、たとえば「あー」「うーん」などといつたものがそのまま文字起こしされており、また、同じ話(箇所)を何度か繰り返しても、そのまま再現されている。お母さんは読んでいて自分の話し方はこれほど聞きづらいものなのかと自分に自信がなくなったという。小学生の孫が来て、学校の宿題でこの土地の昔のことを調べるのだというので、この本をみせたところ、おばあちゃん同じこと何度もしつこく喋るし、あーうーとか言つてて何だか変なの、少しボケてきたんじやないのと言われ、それ以来、この本(報告書)は決して開かないしみたくもないという。
島で最も親しくしている男性の一人に、この報告書のことを尋ねたことがある。その男性日く、焼き捨てた、と言葉を荒げたのには驚いた。内容は語り手が実名で併記掲載されたもので、この男性は事例@同様、語ったすべてを再現されてしまったことにより、著しく立場を傷つけられたという。一読して不愉快になり、ごみと一緒に焼いてしまったそうだ。ただ、島に住む他の人々がすべて同様の反応をしたわけではなく、大切に保管していた家ももちろんある。
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◆飯倉義之(2008)「現地の<声>と研究倫理」日本民俗学』253,74-83
研究倫理という問いは、常に最新の問題でありうる。かつて研究倫理の主問題とされていたのは大きくニつ。一つは被調査者に対し暴力的ともいえる調査を行なう研究者の、いわゆる「調査地被害」。そしてもう一つは、地域からの借用という名の史資料収奪であった。それは〈現地〉において「失われた資料の語り」となって現れる。……ここの
縁起は学者先生が「貸してくれ、必ず返す」というから貸したら、そのまま連絡もつかなくなった。だからもう、お見せするのはご遠慮したい。……フィールドワークをするわれわれは、そんな語りをしばしば耳にしてきたはずだ。
ここで行われているのは、民俗の解釈の正統性を巡る争いであり、語る/聴く価値を巡る争いでもある。「郷土史家」という存在は、〈語る話者〉と〈解釈する研究者〉という関係を脱臼させる〈解釈する話者〉として現れる。研究者は「ご高説」をとうとうと述べる郷土史家と出会って初めて、自らが探訪の場で「よい話者」「悪いインフォーマント」などの、語る価値/聴く価値の判断を不断に行っていたことを自覚させられる。そうして乱暴に言えば、現在、すべての話者がかつての郷土史家と同等以上の発信の欲望と、それをなしうるメディア能力を備えている。
こうしたことを、採訪における話者との信頼関係、心構えの問題と取る研究者も多いかと思う。だがこれは研究倫>77>理の問題なのである。なぜならばこれは「研究者は他者を語る権利を持ちうるのか」という問いかけにほかならないからだ。話者と研究者の間に働く、採訪の場における権力性の自覚こそが、研究倫理の今日的な問題となるはずだ。(p.77)
ニ〇〇七年の日本民俗学会年会(大谷大学)で行われた、山ロ正博の発表「「宗教」と「民俗」のあいだ」での質疑応答のすれ違いは、この指摘にぴたりと当てはまる。山ロは等覚寺(福岡県)の松会の調査から、民俗学者はその柱松を「依代」と説明するが、実際に演じる山伏の子孫は柱松を歴史的にも今日的にも「儀礼の場」とのみ理解し、依代という意識はもつていない、という〈解釈〉の差を指摘した。対するフロアの質疑は開口一番「でも柱松は依代ですよね?」というものであった。〈現地〉の解釈を無意味なものとして排除し、学問の解釈を正統として記述する態度が、このやりとりには明白である。(p.77)
民俗(族)誌的に描かれることは、自己像の決定権を他者(研究者)に委ねることである。前述のように、これまでは〈話者〉として他者(主に研究者)に描かれる他なかった〈現地〉が、潜在的であれ顕在的であれ自らの〈解釈〉をメディア発信する能力を備えた現在、民俗学者が知らず用意していた「語りえぬ常民を代弁する」という論理は限界を迎えている。その問題は今日、民俗(族)誌の記述に限定されてはいない。探訪の場で語る価値/聴く価値の判断を為すことも、民俗(族)誌を「書く」のと同様研究者の〈解釈〉を現地のそれに優先させるという、「ローカルシステム」に基づく権力の行使なのである。
この問題は、研究者が話者に「寄り添う」――今まで以上に注意深く〈声〉を聴き、表現や記述に配慮を払う――ことでは解決しない。それは、研究者は充分に気を配れば話者を十全に代弁し表象しうるという優越的な態度にほかならない。何者であろうと、他者を十全に表象し得ることはない。充分な配慮は問題を周到に回避することであり、採訪や研究活動の上で絶対に必要かつ有効ではあるけれども、それでも「ローカルシステム」の権力は依然として存在し続ける。その自覚こそが、研究倫理の今日的問題なのである。(p.80)
現在の研究倫理の問題は、話者が自らを語ろうとする〈声〉を排除してきた学問の仕組み(ローカルスシテム)をいかに自覚し、いかに話者の〈声〉に向き合うかということにある。これは「研究者の〈解釈〉を捨てて話者の〈解釈〉に着け」ということではない。〈現地〉では幾つもの(話者の数だけの)〈解釈〉が不断の衝突を続けている。そこに研究者が持ち込むのは新たな〈解釈〉の一つに過ぎない。そうした重層的な〈解釈〉が争う場として探訪の現場を描き出すこと。それが「ローカルシステム」を越えるための作法だと考える。
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◆俵木悟(2008)「「フォークロア」は誰のもの?――国際的知的財産制度にみるもう1つの「伝統文化の保護」『日本民俗学』253,84-99
国際的な知的財産制度において、伝統文化は三つの領域で保護されると考えられている。それは、遺伝資源(Genetic Resources: GR)、伝統的知識(Traditional Knowledge: TK)およびフォークロア(Folklore)である。
そして何より一番の問題は、この権利による受益者は誰であり、どのよぅにその受益が実現されるのかである。知的財産権が一義的に創作者や発明者に帰されることを考えれば、フォークロアの権利の受益者は、間違いなくその伝承者たちである。にもかかわらず、議論の中ではそれが必ずしも自明ではない。とくにこの権利の財産権的側面が問題になるときに、それが国家的な文化の資源化の戦略に組み込まれてはいないかといぅ懸念がある。(p.93)
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◆山田慎也(2008)「現代における葬送儀礼調査と倫理」『日本民俗学』253, 100-109
葬儀への調査が、他の民俗調査と異なり特殊な問題として浮上するのは調査対象に死者が含まれていることである。葬儀は死者が儀礼の主役である一方で客体でもある〔内堀 一九九九 八一ー八ニ〕。もちろん死者は意思表示をしない点で、生者とは大きく異なってくる。つまり死者の尊厳という、人の持つ尊厳性が死後にも及んでいるというよう
に多くの場合理解されている。葬儀という民俗自体は、むしろこうした死後の人格を認めていくことによって成立し>102>ているものと考えられる。
こうしてみると、葬儀への調査における倫理を明確に示すことは困難である。極端にいえば、葬儀の調査を行うことは不謹慎であるという立場も十分に考えられる。人の最期の時間に関係ない者が立ち入る必要はないという態度もありえよう。
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◆安藤寿康、福士珠美、佐倉統(2009)「人を対象とした研究の倫理」 『日本音響学会誌』 65(6), 324-330
このヘルシンキ宣言では「ヒトを対象とする医学研究においては,被験者の福利に対する配慮が科学的及び社会的利益よりも優先されなければならない」「ヒトを対象とする医学研究の第一の目的は,予防,診断及び治療方法の改善並びに疾病原因及び病理の理解の向上にある」などと謳われている。しかしこの姿勢が,より侵襲性の低い心理学や工学などの研究にも,果してそのままあてはまるだろうか。
「世の中の役に立たない研究」の存在意義については,研究成果の社会的還元ができないような研究は断じてすべきでないという最左翼から,科学的営為は本来世の中の役に立つことなど考えてはならないという最右翼まで,様々な意見と立場があり,それぞれの正当性があると思われる。だが医療における倫理のように,被験者に対する直接的なメリット(治療による疾患の治癒のような)を,研究を目的とした心理実験で研究者側から謳うこと(実験・調査を受けることでかくかくしかじかの経験をすることができる,科学への貢献ができるなど)は適切とは言えないと思われる。「良心的な」研究者の中は,被験者個人の経験に寄り添い,何か教育的あるいは臨床的な関わりを持っことが倫理的に望ましいことと考える人がいる。むろん被験者になったことでその人が肉体的にも精神的にも傷つくようなことがあってはならない。しかしこの研究が,学術のためだけでなく被験者のためにもなるという過剰な思い人れを持つことは,本来避けるべきであろう。研究者は被験者に対し「何かをしてあげている」のではなく,あくまでも「させてもらっている」関係がボトムラインにあることを忘れてはならない。(p.326)
(前略)研究者が明らかにしたいことがらを立証するために,人が許容できる最低限にして,研究者が欲しい最大限の条件を考案し,それが両者の条件を満たしてい
ることを明示化する必要がある。これは統計的推論における第1種のエラーと第2種のエラーと論理的には同じ葛藤と言えるだろう。つまり一つは「学問的価値を追究することを優先したために,倫理的に許容できないことをしてしまうエラー」(第1種のエラ一),もう一つは「倫理に抵触しないことを優先したために,学問的に明らかにできることを明らかにしないエラ一」(第2種のエラー)の間の葛藤である。難しいのは統計的検定の場合と異なり,学問的価値も倫理的許容度も,いずれも>325>客観的に得られるものでないばかりでなく,更に同じ次元で比べることも難しい場合が少なくないということである。それでもなお,学問的意義と被験者に対する負担や苦痛を考量し,前者が後者に優先させる正当性があるかどうかを,社会に対して説得できなければならないのである。(pp.324-325)
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◆片岡栄美(1997)「<フォーラム 研究の倫理とルール>学問的誠実性(Academic Integrity)の基準と共同研究の心得――アメリカの事例にみる学問的倫理」『理論と方法』12(1), 85-95
学問的誠実性の基準に違反する行為として、アメリカの大学が公表しているパンフレットでは、次のような項目が該当するとして、詳しい説明がなされている。内容を要約して、下記に列記した。
とくに日本人は予想していなかった相手の態度や行動(明らかに間違っていることは自明なのに絶対にあやまらない相手)hこ接して、「話が違うではないか。裏切られた」といってあとからクレームをつけても、相手側はそのような態度や感情を理解しない。アメリ力人や他の西欧諸国の人々の多くは、トラブルが生じた後は、簡単にあやまったり非を認めたりしないのが普通である。それが相手側の一般的な態度のひとつであることを理解し、>92>契約社会のルールにのっとって交渉を行なわねば消耗するばかりになる。そればかりか、感情にとらわれて、相手の気持ちを知ろうと努力している間に、相手側は攻撃された場合の防御の方法や言い訳を考える十分な時間を与えられることになり、あとで交渉が不利になる場合もある。感情や情緒に訴えて、相手に「わかってもらおう」とか、「あやまってほしい」ということでは、まったく問題の解決にはいたらない。まず消耗するだけである。むしろ「こちらの感情をわかってほしい」と、相手に伝えることはマイナスになる場合もある。たとえば、過去に日本人の研究グループと共同研究を行なった経験のあるアメリカ人研究者は、「日本人研究者はしばしばあとから感情的になって文句をつけてくる」と、かなり軽蔑的な言葉を残していた。感情で解決しようとするのは、かなり日本的な態度であり、文化的に理解されないと考えたほうがよいだろう。そこが文化の違いである。
繰り返しになるが、共同研究の場合は、さまざまな場合を想定し、研究プロセスの細部にいたるまで文書化して契約をかわすべきである。それがないと、共同作業でない個人の
オリジナルなデ一夕や、独自のアイデアでさえも共同研究の成果として、すべて共有化され、早く出版した者の勝ちという事態も起こり得る。(p.93)
学問研究の国際化が進むなかで、今後、学問的な倫理や学問的誠実性の基準を作成し、守っていく必要性があるだろう。とくに共同研究プロジェクトを実施する場合は、国内、国外を問わず、研究が始まる前に、参加するメンバ一の権利と義務を明確化し文章化しておく必要がある。すなわち、研究上のトラブルを人間関係の問題としてとらえて、個別に処理するのではなく、学問倫理の問題として扱う視点が必要である。そして大学教育のなかでも、正式な教育プログラムとして学問的誠実性の基準が示され、実践されることを期待したい。たとえばレポ一卜を書く場合の注意といったM体的なことから始まるものでよいのだと思う。
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◆宮野勝(1997)「<フォーラム 研究の倫理とルール>国際共同研究の問題点と注意点」『理論と方法』 12(1), 97-102
これに対し、国際共同研究では、そもそも「お互いの暗黙の了解」に期待するには無理がある。共有するはずの「国際」言語を通して必死に語り合ってさえ、なおかつ共通理解に到達するのが必ずしも容易でない。集まった研究者の各々が明示的に、また、暗黙のうちに、それぞれの国内ル一ルを持ち込みがちであり、一人一人個性も異なるため、「暗黙の期待」は裏切られることも少なくない。意思疎通を試みるうちに、お互いに対する「暗黙の期待」が異なることも推定されるに至るのが通例であろう。
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◆池田光穂(1996)「「健康の開発」史――医療援助と応用人類学」『文学部論叢(地域科学篇)』, 52: 41-72
ロックフェラー財団による支援計画には、熱帯病対策を通して低開発国における生産性を高め、慈善事業を通して米国に対する排外的な敵意を鎮めるとともに、かつ現地の人びとを工業会に従順な人間に育てることが意図されており、それは内部文書でも確かめられている。ブラウンによると、コスタリカにおけるWHO十二指腸虫キャンペーンの1918年の財団の報告書には次のような文言がある。「コスタリカの2つのプランテーションの320名の労働者が十二指腸虫感染より治癒し、生産性が劇的に増加したことで、この治療の経済的価値は立証される。ひとつのプランテーションはほとんど50パーセントの作付面積が増加したが、余計な労働無しに、またより少ない作付コスト負担によるものである。各々の労働者はより低い労働単価で、しかし増加した労働強度により、より強くより長く働けるようになり、多くの給金を受け取った」と(Brown1976 :900).ロックフェラー財団は、フィリピンにおいて中央政府に“反抗的”なモロの人びとに「文明の恩恵」を教授してもらうために病院船を派遣している(Brown 1979:124)。このような活動は結果として公衆衛生事業を通じて低開発地域の人びとの文化的自立性を低下させることになった。財団の活動は、1920年代前半には、60ヶ国以上の地域で10年近くの活動をおこなっていた。しかし、プログラムは必ずしも成功したとは限らなかった。セイロンでは便所を利用する習慣は根づかなかったし、ラテンアメリカでは米国による内政干渉として現地の人びとから否定的な評価を受けていた。この教訓がやがて財団をして文化人類学理論の社会応用に関する関心へと向かわせることになる。(p.46)
しかしながら、機能主義人類学の旗手として1930年代には財団からの積極的な支援を受け、マリノフスキーはアフリカにおいて、彼の実用人類学の実現を可能にした。植民地統治に関する調査を通して、彼は「原住民Jの栄養問題に関心を寄せている。彼によると、現地の人びとの栄養状態はすでに西欧文化との接触によって文化変容を受けている。そのために、現地の政治的、文化的状況にあわせて栄養状態を改善してゆくためには、人類学的な現地の情報の収集がなされ、またそれが栄養改善計画のなかに積極的に活用されなければならない(Mahhnowski 1945)。このような「実用的な傾向」(practical bent)は、後には30年代から40代のR ・ファースやA ・リチャーズなどの英国の植民地人類学者にみられる一般的な態度になってゆく(eg. Fhrthh934)。彼らは、文化相対主義的な眼をもって対象を知らなくては植民地行政は円滑に進まないと主張したが、とくに食事と衛生の問題に関心をもった(キーシング1975)。英国では人類学理論そのものが植民地統治の科学として組み込まれていると同時に、>47>研究援助したこともまたよく知られている。(pp.46-47)
ウィルソンの後押しもあって米国の国家研究会議(National Research Council)は R ・ベネディクト、J ・クーパー、M・ミードなどからなる食習慣委員会(Commhteeon Food Habits>を1942年に召集した。この委貝会は、異なった土地において米国人が新しい食習憤の受容や栄養学的に有用な食物受容に関する答申をおこなったほかに、人類学的な理論にもとづく食習愼研究マニュアルを作成した。日本の敗歌後の1946年10月にGHQが学校給食の実旛を指示し、迅速に計画を実行できたのは、このような研究成果があったからである。占領政策では、ほかに保健所法の1947年全面改正によって衛生行政を内務省から厚生省に移管したり、保健所を全国に設置した(サムス1986)。(p.49)
人類学者の仕亊は、計画に参加するとともに、保健センターの評価をおこなうことであった。米国ラテン・アメリ力でとった保健計画は、それまでの植民地における保健施策とは根本的に異なっていた。植民地は宗主国から保護される従属的な対象とされていたのだが、米国がおこなったことは軍事力を背景にしながら人類学者が現地の人と「協力」するという先駆的モデルをつくりあげ>50>たことにある。(pp。49-50)。
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◆ウォルフ・シェルドン 「個人情報保護に関する米国の観点 (PDF)」
◆日本医師会 「医師の職業倫理既定(案)パブリックコメント」「3. 人を対象とする研究と先端医療の倫理」
◆土屋貴志 「土屋 貴志(つちや たかし)のホームページ 」
◆文部科学省 「 生命倫理・安全に対する取組」
◆厚生労働省「厚生科学審議会 (科学技術部会疫学研究に関する倫理指針の見直しに係る専門委員会・臨床研究に関する倫理指針の見直しに係る専門委員会) 」
◆「機関内倫理委員会の在り方について PDF」
◆「丸山英二 医と法の ホームページ 」 「研究報告」
◆日本学術会議・研究倫理教育プログラム検討分科会
◆UP:071226,140808,150208,0218
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