◆池上 哲司 1997 「責任」 所収 廣松 渉 編著 『岩波 哲学思想辞典』 岩波書店 pp.938
応答としての責任を考える場合、問題になるのは<誰>が、なに<に対して>、なに<の前で>という点である。(a)<誰>とは責任を負う主体のことであるが、この主体の条件としては自由であることが前提とされる。アウグスティヌスにおいて見られるように、人間が自由であるからこそ悪をなすことも、その悪に対する責任も可能となる。つまり自由な意思決定による行為でなければ責任は問われえない。さらに、自らの行為がいかなる結果をもたらすかを弁別する能力、いわゆる<責任能力>(Zurechnungsfähigkeit)も責任主体に不可欠な条件である。(b)<に対して>ということで通常問題になるのは、行なわれた行為、その行為がもたらした結果、あるいは行なわれるべきだったのに行なわれなかった行為である。…
さらに責任が成立するための基礎条件として価値と人格の同一性とが前提とされねばならない。ある行為の責任が問われるためには、その行為の価値がすでに判定されているはずであり、その判定が責任を問う者と問われる者によって認められていなければならない。また、行為をなしたものの人格の同一性が確保されていなければ、なされた行為の責任を問うということ自体がそもそも不可能になってしまうからである。
◆Lenk, Hans. 1997. Einführung in die angewandte Ethik - Verantwortlichkeit und Gewissen. Stuttgart ; Kohlhammer GmbH,
=2003 山本 達・盛永 審一郎 訳 『テクノシステム時代の人間の責任と良心 −現代応用倫理学入門』 東信堂 ISBN4-88713-518-1
1.序論 倫理学の構想について見通しをもつこと
2.良心の呼び声 良心概念の外観
3.自己責任性としての人間性 −具体的な人間性の哲学について
4.自己責任と社会的責任
5.ボパール 無責任性と責任の喪失:ケーススタディ
6.責任のさまざまなタイプ(類型)と次元
7.科学者の責任へ向けて
二つの責任性がある。ひとつは、私が責任のある立場に立たされているような、自分で選ぶことができない責任性である。そうしてまた、私が自分自身に与えるような責任性である。このばあいにはわたしが自ら責任性に応じるのであって、私が自分の責任をある立場に立たせたり、自分に責任性を課題として課し、かつ受け入れたりする。事実、こうしたパラフレーズは一種の対比のように見える。対比することで、もしかするとこれら責任性の二つの見方、変種の特徴がよく示されるのかもしれない。この二つは、責任性の副次的なタイプとみなしてよいであろう。社会的な責任性の状況、身に降りかかるという状況では、わたしは責任ある状況の中へと立たされている。いわばわたしは何よりも受身の立場で、出会いや他者の呼びかけに圧倒される。他者の呼びかけは、共感、同感、共苦の気持ちをわたしに起こさせることができるし、またそのはずでもある。これに対し、別の場合でもある自己責任にあっては、わたしは積極的に決断する者として自ら自分自身に要求を掲げ、あるいはそうしなければならない。少なくとも、品性とか人間性とかフマニテートとかの典型というものを持って自己に義務を課すという視点にしたがってそうすべきである。第二の場合には、私は私の責任を自分自身で「負う」。私は責任を身につけることによりわたしの自己を「練り上げ」たり、自己に自ら要求を掲げることで自己を下書きし構成する。この第二の場合には、自己像や自己規定が、また自己規定への自由が大きな役割を演じるのは言うまでもない。自己規定とは、自律であり、自己自身の人格形成の自由である。自己形成とはまた、わたしがそうするように自己に対して拘束されているとみなすようなことがら、私がそうするように決断するようなことがらでもある。(p.105-6)
すなわち、責任性は一面で自己責任性として、他面で他者責任性、つまり他人から突きつけられる責任性として捉えられ、双方が実践的にも基礎的本質的にも同等の役割を演じるのであって、こうした二つが相互に排他的に対比できるのは抽象的にだけである。二つの形態の責任性は、通常の場合には、責任ある行為とか「身に降りかかる」責任存在とかの各具体的状況の中で生じてくる。だから、責任性を(二重の意味で)「引き受けること」に具体的な人間性が実際に結びついているということができる。逆に次のようにも言える。すなわち人間性は、具体的な人間性とか具体的な人間性の倫理(倫理学)とか言えるものがあるとすれば、そうしたものを解明し規定するために役立つような概念である。具体的な人間性は、責任ある交わりのなかで、つまり他人および自己自身とのかかわりで責任を認識し継承し引き受けるなかで表示・形成・構成される。その都度、状況に適合しているということ、人格の問題や人格の対応に関して釣り合いが取れているということが考慮されなければならない。(p.109)
わたしは、この意味で[責任の]諸対象と行動を整理すると10個の類型に区別することが出来ると考える。0.(単なる)「因果的」責任。1.因果的行為責任。2.ラッドとボーデンハイマーに従って責任の類型を挙げると、負い目責任と、それに応じて、3.つぎに賞賛責任という肯定的変形がある。4.ラッドが言うように、未来に行為すべきものへと向けられている事前の配慮責任あるいは用心のための行為責任は予防的である。…5.われわれは身に降りかかる責任を上げることができる。…。それと密接に結びつくのが、ハンス・ヨナスが存在責任と名づけたものである。…。7.ヘイドンの意味での誠実責任、あるいは徳責任。…8.最後に状況倫理との関連では、そしてハートへの結びつきでは、能力責任がある。…。9.役割責任tの課題責任、あるいは、契約責任は、実際それぞれの職業に見いだされているが、…。10.メタ責任、あるいは超責任と名づけることができるような責任のタイプがある。(p.143-5)
◆宮崎 幹朗 2000 「ボランティア活動の責任構造」 『愛媛法学会雑誌』 26巻3.4号
この判決[津地裁昭和58年4月21日判決]においては、ボランティア活動であっても、活動に伴う注意義務の存在を認めた上で、具体的な注意義務の懈怠があったかどうかを判断している。そして、活動の責任者としての立場にある者に具体的な注意義務の懈怠を認めている。しかし、賠償額の算定に際に、賠償額を減額している。法技術的には、過失相殺という手法を用いたわけだが、実際には、活動の無償性を考慮して「損害の衡平な分担」という一般論を通して、違法性の程度を縮減したものといえる。判決では、ボランティア活動の無償性が重要なポイントと考えられたことがはっきりとうかがえる。(p.78)
この判決[福岡地裁小倉支部昭和59年2月23日]では、Y1の指導活動が奉仕活動であることを認めたものの、奉仕活動とはいえ、指導上の監督義務が存在していることを認めたものである。監督義務違反の有無の判断を左右したのは、事故を引き起こしたAの行動を監督し、注意することができる位置にY1がいたという事実である。個別的な監督指導が可能であったという判断が判決の結論に大きく影響したように思われる。(p.82)
060525作成 060812,060914,061003,061025,061216,070211更新