うまなり[Home] / 責任 (Responsibility)


 

責任
(Responsibility)

responsible adj
1: able to be called upon to answer for one's acts or decisions: ANSWERABLE.
2: able to fulfill one's obligations: RELIABLE.
3: able to choose for oneself betwwn right and wrong.
4: involving accountability or important duties(〜 position).
(2004) The Merriam Webster Dictionary New Edition Merriam-Webster Inc. ISBN10 0-87779-930-x


◆Dewey, John & Tufts, James H. 1908,1932 Ethics, Henry Holt and Co. New York
=1972 久野収 訳 『社会倫理学 (世界の大思想38 デュウイ=タフツ)』 河出書房新社
◆Drucker, Peter F. 1993. POST-CAPITALIST SOCIETY. Harper Business, A Division of harper Collins Publishers, Inc.
= 1993 上田 惇生・佐々木 実智男・田代 正美 訳 『ポスト資本主義社会 -21世紀の組織と人間はどう変わるか』 ダイヤモンド社
◆Jelinek, G. 1908. Die sozialethische Bedeutung von Recht,Unrecht und Strafe, 2 Aufl.,
=1935,1985 大森 英太郎 訳 『法・不法及刑罰の社会倫理的意義』 岩波文庫1165 p.100
◆Jonas, Hans von. 1979. DAS PRINZIP VERANTWORTUNG Versuch einer Ethik fur die tecnologische Zivilisation. Snsel Verlang Frankfurt an Main.
= 2000 加藤 尚武 監訳 『責任という原理 −科学技術文明のための倫理学の試み』 東信堂
◆Lenk, Hans. 1997. Einführung in die angewandte Ethik - Verantwortlichkeit und Gewissen. Stuttgart ; Kohlhammer GmbH,
=2003 山本 達・盛永 審一郎 訳 『テクノシステム時代の人間の責任と良心 −現代応用倫理学入門』 東信堂
◆Luhmann, N. 1964. Funktionen und Folgen formaler Organization, Duncker & humblot, Berlin.
=1996 沢谷 豊・長谷川 幸一 訳 『公式組織の機能とその派生的問題』 新泉社
◆Shaver, Kelly, G. 1975. AN INTRODUCTION TO ATTRIBUTION PROCESSES, Winthrop Publishers, Inc.
= 1981 稲松 信雄・生熊 譲二 訳 『帰属理論入門 −対人行動の理解と予測』 誠信書房
◆Shaver, Kelly, G. 1985. The attribution of blame: Causality, responsibility, and blameworthiness, Springer-Verlag.
◆ヨンパルト ホセ 2005 『道徳的・法的責任の三つの条件』 成文堂
◆池上 哲司 1997 「責任」 所収 所収 廣松渉 編著 『岩波 哲学思想辞典』 岩波書店
◆石村 善助・所 一彦・西村 春夫 編著 1986 『責任と罪の意識構造』 多賀出版
◆石本 雅男 1949 『法人格の理論と歴史』 日本評論社
◆大谷 実 1972 『人格責任の研究 刑事法叢書@』 慶應通信
◆大庭 健 2002 「責任」 所収 永井 均・小林 康夫・大澤 真幸・山本 ひろ子・中島 隆博・中島 義道・河本 英夫 編著 2002 『事典 哲学の木』 講談社
◆恒藤 恭 「法的範疇としての人格者概念」 『法学論叢』24
◆北田 暁大 2003 『責任と正義 リベラリズムの居場所』 勁草書房
◆瀧川 裕英 2003 『責任の意味と制度 −負担から応答へ』 勁草書房
◆作田 啓一 1972 『価値の社会学』 岩波書店
◆品川 哲彦 2001 「3 組織と責任」,加茂 直樹 編『社会哲学を学ぶ人のために』世界思想社87-97.所収
◆立岩 真也 2004 『ALS不動の身体と息する機械』 医学書院
◆仲正 昌樹 2004 『「みんな」のバカ! 無責任になる構造』 光文社新書152
◆成田 和信 2004 『責任と自由』 勁草書房
◆萩原 滋 1986 『責任判断過程の分析 心理学的アプローチ』 多賀出版
◆藤田 藤雄 1991 『日本における「責任」の概念』 白桃書房
◆古川 祐士 1984 「子ども会活動中の事故と引率者の責任」 『季刊教育法』51
◆丸山 真男 1961 『日本の思想』 岩波新書 C39
◆宮崎 幹朗 2000 「ボランティア活動の責任構造」 『愛媛法学会雑誌』 26巻3.4号
◆蘭 千壽・外山 みどり 1991 『帰属過程の心理学』 ナカニシヤ出版

◇法人の刑事責任 法人には刑事責任を問えない(犯罪能力がない)という立場。倫理的非難を本質とする刑法を自然人と異なって倫理的な自己決定をなしうる主体性のない法人に対して適用することは、その性質上不可能だとされる。乾 平井 編 [1973,1977,1981:137])

◇法人に対する両罰規定 「法人の代表者又は法人もしくは人の代理人、使用人その他の従業員が、その法人又は人の業務に関して○条の罪を犯したときは、行為者を罰するほか、その法人又は人に対してかく本状の罰金刑を科する」という形式をとっています。乾 平井 編 [1973,1977,1981:139]

◇過失推定責任 立証責任が転換されている過失をいう。つまり、「悪魔の証明」と呼ばれる。事実不存在の証明である。戦前は、夫が妻と離婚したいと思えば、裁判所に「浮気した」と訴えればいい。そうすると妻のほうで「浮気をしなかった」と証明をしなければならないことになる。これはきわめてむずかしい。現在では、原告である夫のほうで妻が「不貞を働いた」という事実証明をしなければならないが、戦前の旧民法のもとでは、妻のほうで「私は浮気をしていない」と証明しなければならなかった。(奥島編[1997:66])

   


 

◆石本 雅男 1949 『法人格の理論と歴史』 日本評論社


序言
第一章 法的人格者の理論
 第一節 論理的範疇としての法的人格者
 第二節 歴史的範疇としての法的人格者
 第三節 法的人格者の市民法的性格
 第四節 市民社会の発展と団体主義
 第五節 市民法における団体主義の立場
 第六節 私法における団体の法的性格
  
第二章 団体理論の歴史的発展
 第一節 総説
 第二節 ローマ法における社会の類型
 第三節 collegiumにおける法人格
 第四節 中世ローマ法の性格
 第五節 注釈学派の団体理論
 第六節 教会法学派の団体理論
 第七節 後期注釈学派の団体理論
 第八節 中世ドイツ国法論者の団体理論
 第九節 中世における有機体の理論
 第十節 中世末期における団体理論
 第十一節 自然法学派の団体理論
 第十二節 団体理論に於けるロマニステンとゲルマニステンの対立
 第十三節 ロマニステンとゲルマニステンの立場の止揚
 第十四節 ヘーゲル主義の団体理論
結語(私法関係における団体の主体性)

 今日法律学において人格者(Person)或いは権利主体(Rechtssubjekt)とは権利義務の主体として、即ち権利の帰属者たり得ると同時に義務の帰属者たり得るものとして理解されている。従って何ら権利をも有しないところのもの、従ってまた法的に義務づけられ得ないところのは権利主体でもなく人格者でもない。現在においては人格者或いは権利主体という概念は最早人間(Mensch)の概念と一致しない。人格者概念は一つの法的範疇であり、かつそれは権利主体の概念と一致するものである。(p.9)

 社団と財団とは異質的なものではない。合名会社から株式会社更に財団法人へと連なる方向のうちに、人的結合の要素は層一層希薄になると共に、物的結合の要素は逆に層一層濃厚になる事実は否定し得ない。従って財団法人においてかかる人的要素の希薄の極限を見出すとすれば、合名会社において物的要素の最も希薄なるのを見出すことができるのである。而して法人に於ける人的要素と物的要素の結合関係、換言すれば、人的意思の要素と財産の要素の結合関係は勢位の関係に立つ。しかも法律学的には法的人格者は、かかる要素の結合体自体ではなくして、それが法律関係に入り込む限りにおいて、それに帰属する主体性のうちに、はじめてその存在が一様に肯定されるところの存在者である。(注20p.29)

 法的人格者の現実のあり方は、人間或いは団体、または財産のあり方によって制約されるにもかかわらず、それが人間或いは団体、または財産と一応異る意味において独立的な存在者と思考され得ることに法律学的な意味が存するのである。従って権利が平等であるとか、契約が自由であるとかいうことは、かような法的人格者についていわれるものに他ならない。従って人間が現実には平等の権利を有しない場合、或いは契約締結の自由を有しない場合においても、なおかつ法律上の不平等の権利を有し契約の自由を有するといわれることが出来るのである。ここに事実関係と法律関係との対立がある(p.30)

 貧困な自由民は軍役納税の重い義務の負担のために、その私有となった土地を有力な貴族に献じ、その代わりに終身小作権(Precuium)を受けとることによって自ら農奴と化す当時の習慣をCommendatioという。寺院に対する寄進も同様な経済的意義をもっていた(注6 p.46)

 かくて自由平等は、法的人格者としての自由平等であり、自己決定の形式的自由は、法的人格者においてのも十分にその妥当を主張されるのである。而して売るために買われる商品が、さらに売られる場合において、より大なる貨幣額において交換されることが可能であるためには、商品が自ら増大する場合、換言すればそれの消費が同時に、より大なる価値の創造たる場合でなければならない。而してかかる過程はこの商品が労働力であることを意味する。ところで労働者が商品として、従って労働者がかような労働力による商品所有者として交換過程にあらわれるためには、労働力が労働者にとっては非使用価値でなければならないことである。而してそれは労働者が生産手段を所有しない場合にのみ存する。ところで近代の機械の発達は、はるかに多くの労働者をして、生産手段と乖離した単なる労働力たる商品の所有者たらしめたのである。かような労働者は自己の所有する唯一の商品たる労働力の交換によってのみ自らの生活を支持することが出来るのであり、従ってかかる商品交換において、商品所有者たる労働者は、自己決定の形式的自由と同時に、他人決定ともいうべき実質的不自由につきまとわれるに至ったのである。ここに法的人格者たる労働者の自由な意思表示が、現実には具体的労働者の意思を通じて、いわば社会的制約のもとにゆがめられてあらわれるという関係が生まれるのである。(p.42-3)


 

◆北田 暁大 (2003) 『責任と正義 リベラリズムの居場所』 勁草書房


第一部 責任の社会理論 Responsiblity socialized
 第一章 コミュニケーションのなかの責任と道徳
 第二章 構築主義的責任論とその限界
第二部 社会的なるものへの懐疑 skepticism on the social
 第三章 Why be social? 私たちはなぜ責任をとる「べき」なのか?
 第四章 How to be(come) social?
第三部 リベラリズムとその外部 liberalism and its others
 第五章 《リベラル》たちの社会と《自由主義》のあいだ
 第六章 可能なるリベラリズムのために リベラリズムとその外部
第四部 「社会的なるもの」の回帰 the return of the social
 第七章 正義の居場所 社会の自由主義

 

 道徳に限らず、一般に帰責の過程とは、結果とされる出来事E2(「Bが殴られる」と記述されるような何らかの出来事)のある特定の記述(「Bが殴られた」)のもとでの実現について、行為者が何らかの賛同的態度(pro-attitude)−つまり、その実現を望ましいと思う態度−を持ちあわせていたか否かを文脈的情報を鑑みつつ、判断することである。観察者は、文脈と整合的な信念や欲求を行為者に帰属させ、原因とされる出来事E1について「AがBを殴ったこと」と記述することが適切かどうかを折衝しあうわけだ。もし、AにBを殴ろうという意図がなかったことが@外的に観察可能な出来事とA文脈的情報にそくして実証されるなら、出来事E1を「AがBを殴った」という行為として記述することは、事後的に不適切なものとして阻却される。しかしながら、道徳的コミュニケーションにおいては、この阻却可能性を@とAが担保しえないのである。(p.27)

 かかる「強い」責任理論は、たしかに「厳しすぎる」かもしれない。なにしろ、ペスト蔓延の原因として魔女の呪いを見いだすような共同体においては、魔女であると認定された人は、指を動かし、料理をしただけで、「ペストを蔓延させた」ことにもなってしまわないのだから(われわれの責任理論は、魔女裁判を批判することができないのだ)。しかしその一方で、「強い」理論は、行為者の意図如何によって阻却されえない責任についての我々のある種の直感に親しい帰結をも導くことができる。…我々の理論は、住民たちの訴え(「お前たちはウチの子供を殺したんだ!」)がいささかもメタフォリカルな誇張表現などではなく、いたって正当な行為記述でありうることをごく自然に説明することができるのである。(p.39)

 むしろ、他者の声を傾聴することによって鋭く自覚しつつ、それでも何らかの行為遂行を決断していくという息苦しい態度こそが、「正義」としての脱構築を目指すものなのだ。その意味で、「ポストモダン政治学」とは、近代リベラリズムが措定するよりもはるかに「強い」責任主体−ちょうど我々の「強い」責任理論が想定しているような−のあり方を構築するものともいえよう。(p.54)

 ウェーバーから丸山眞男にいたるまで繰り返し参照されてきた「結果責任を引き受ける強い自己」とは、あくまで結果の責任−「したこと」の意図せざる結果−を主体的に引き受ける自己なのであって、己で行為記述を確定する意志と特権を与えられていたといえるのである。しかしもし責任を、行為者が引き受けようが/引き受けまいが生じてしまうものとして捉えるなら、かかる「強い自己」は、勝手に自分の行為を記述し、その「意図せざる結果」への英雄的な対処のあり方に自己陶酔する、誠に身勝手−無責任な主体であるとはいえないだろうか。(p.60-1)

 結局、システム倫理学の突き当たっている壁は、怖ず怖ずとした決断主義が陥った隘路と同種のものといえる。《法》と他者とのあいだで投企される怖ず怖ずとした決断主義、どう転ぶか分からないノイズへの応答可能性を尊重する態度は、決して決断−応答の瞬間を「宙づり」にはできていないのである(ためらうべき瞬間を、どこかしらに想定している)。ここではインフレは収束されていると同時に、全く放置されているとも言える。(p.74)

 

 


 

◆立岩真也 (2004) 『ALS不動の身体と息する機械』 医学書院

 このきまりのわるさ、無責任で調子がよすぎるから逃れるのは簡単ではない。極端に深刻なかたちではALSの人たちをめぐって現れるが、それより小さなかたちではどこでも起こる。他の人が引き受けない時に自分で引き受けるといったら大変なことにある、だからいえない。他方、あらかじめ引き受けないことにしている人がなにか正しそうなことを言う。どう考えればよいか。

まず、この嫌悪は、生きられるのだから生きればよいということ自体に対してではなく、その人が生きるために何をするでもないのにのんきにそんなことを言うことに向けられている。だから、その人は何も言わないこと自体を肯定しているわけではない。実際には公的的であることができないのに、公的的であるかのような言い方をするのがずるいといっているのだ。だからずるいと思う人とは、ALSの人自身が決めることだからこちらは事実を言うだけだという言明が間違っていることも認めるはずである。

 だから時には、私自身だけでは担えないし、担うつもりもないが、しかし、あなたが生きていくことは当然のことだといったほうがよい。そして、両方を認めたうえで、どうにかしていく道を考えるしかない。面倒なことであることは否定できず、否定しないまま、その面倒なことを引き受ける手立てを考えるということである。たしかにわたしたちは無責任であるのだが、それを見越した上で、あまり無責任でないようなあり方を作っていくことは可能だ、そこから考えていけばよいということになるはずである。(p.405-7)

 

 

 


◆Dewey, John & Tufts, James H. 1908,1932 Ethics, Henry Holt and Co. New York
=1972 久野 収 訳 『社会倫理学 (世界の大思想38 デュウイ=タフツ)』 河出書房新社

 

 石が絶壁から落ちて、人を傷つける場合、石に責任があると考えたり、木がたおれて、通行人を汚させる場合、木を非難したりするのは、およそ、ばかげているだろう。ばからしさの理由は、こうしたあつかい方をしても、石なり木なりの将来の行動に、およそ考えうるいかなる影響をもおよぼさないし、また、およぼしえないからである。石や木が自分の周囲の諸条件と相互作用する仕方は、まなび、自分の態度や性向を変える仕方ではない。人間が責任があるとされるのは、彼がまなぶためであり、その学び方も、理論的や大学的ではないかもしれないが、自分の以前の自我をあらため、ある程度、つくりなおすというまなび方をするためである。当人が行動したときに、当人が行動した仕方とは別の仕方で行動しえたであろうかどうかの問題は、ここでは無関係である。問題は当人が、つぎの場合に、別の行動の仕方ができるかどうかである。人間の人柄に変化をもたらすことのもつ実践的重大性こそが、責任を重大な問題に仕あげるのである。(p.290)

 応報的正義という本来的原理があって、それが賞罰の使用を、各々の特別な場合における賞罰の帰結とは無関係に支配し、正当化するということは決してない。罰が、冷淡や反逆や頬かぶりのうまさ、その他を生みだしている場合に、こうした原理に訴えることは、責任を承認することを拒否する一つのやり方にしか過ぎない。(p.290-1)

 責任に関するいろいろな理論がどこであやまりにおちいるかといえば、ある人物に責任を帰することを、その結果、何が生じるかではなく、それにさきだつ事情に基礎づけようと企てるからである。当人に責任があるとされるのは、当人が責任にこたえる、すなわち、他人の必要や要求にこたえ、当人の持ち場にふくまれる義務にこたえるようになるためである。その行為ゆえに、他人に責任を問う人々は、彼ら自身がまた、こうした責任性が発達するように責任を問う責任をおっている。でなければ、彼ら自身は、彼ら自身の行為において無責任である。理想のゴール、あるいは極限は、各人が、自分のあらゆる行動に完全に責任を持つべきだということになるであろう。(p.291)

 健康や幼少年に危険をおよぼす労働条件に対する責任をどうするか、という最初の倫理的問題は、いくつかの地域共同体社会や裁判所が、その確認にどれほど立ち遅れていようとも、原理的には決定されるといわれるだろう。産業が全体としてあげている莫大な利潤が、その利潤を可能にしている労働者の生命や健康にたいして、どのような責任をも拒否しうるなどということは、おおっぴらに通用するには、あまりに無法な言いぐさである。(p.356)

 健康、安全、風紀への関心にたって、就業の諸条件を統制するために政府の権力を行使することは、国家のいわゆる「警察権」として正当化されている。合衆国において、この権力が危険な諸職業を規制するために行使されることを決定した主導的判決は、1897年に出されたホルデン対ハアディのそれである。…「一般的にいえば、警察権は、総ての大きな公共的必要まで拡大される。(167 U.S. 518)すなわち、警察権は、寛容がよろしいというところのもの、または有力な道徳、あるいは、有力な意見が公共の福祉に大きく、また直接的に必要だと判断するものを援助するために発動される場合もある(ノーブル州立銀行ハスケル 219U.S. 111 Oct。1911)」(p.387)

 


 

◆瀧川 裕英 (2003) 『責任の意味と制度 −負担から応答へ』 勁草書房 ISBN4-326-10150-4

 
 第一章 責任の忘却


第一部 責任の意味
 第二章 責任概念の分析
 第三章 決定論問題
 第四章 負担責任論
 第五章 応答責任論


第二部 責任の制度
 第六章 責任保証としての法
 第七章 責任法の危機

 第一類型は規範に対する違反が存在した場合にその結果として生じた事態にいかに対処するかに関わるのに対し、第二類型は未だ生じてはいない事態にいかに対処するかに関わる。したがって、責任実践は第一類型・第二類型のいずれの状況においても、過去−現在−未来の時間性を通じて営まれているという事態に十分留意した上で、第一類型を「過去に関する責任状況」略して「過去責任状況」、第二類型を「未来に関する責任状況」略して「未来責任状況」と呼ぶことにしよう。(p.19)

 「問責者」とは、責任を問う存在のことである。例えば、「社会的責任」といわれる場合には、特定の個人に還元できない社会が問いうる責任、あるいは社会に対して負うべき責任が意味されており、個人に還元不可能な社会が問責者として現れている。(p.24)

「負担責任(Liability-Responsibility)」は、上記の例では「刑事的責任がある」・「民事訴訟において法的責任を負わされた」・「道徳的責任がある」という用法でそれに該当する。具体的には、刑罰を科されること・損害賠償をすること・道徳的非難を受けることを意味する。法的責任と道徳的責任の相違は、ルールのないように関する相違であり、責任の意味における差異ではない。このような負担責任が認定されるのに必要な要件は通常、@精神的・心理的条件、A行為と損害との因果的その他の関連性、B行為者との関連性の三つに分類できる(p.27)

 この出来事生成責任の探求は無限にさかのぼることが可能である。たとえば、自動車事後の原因はブレーキの故障である、ブレーキの故障の原因は部品の劣化である、部品の劣化の原因は劣悪な環境である、というように限りなく探求することができる。ここに見られるように、出来事生成責任の探求は原因の探求と重なり合う。(p.32)

例えば、「この自動車事故の責任は運転者の前方不注意である」という場合にはこの意味で用いられている。この意味での責任を、出来事生成責任との対比で「行為生成責任」と呼ぶことができる。。この出来事生成責任特別された行為生成責任は、つぎに述べる有責責任と密接な関係を持つ。この行為生成責任の追求は無限にさかのぼることはできず、追求の帰着点は行為者である。逆に言えば、あることの原因を行為者をさかのぼる場合には、行為生成責任ではなく出来事生成責任が問題になっているといえる。(p.32)

 「事前責任(pre-event responsibility)」は「予防基底的責任(prevention-based resonsibility)」とも呼ばれ、何かの出来事の前に観念されうる概念であり、権限概念と密接な関係を持つ。つまり、何かが起こったときに責任を負うべきなのは誰かをあらかじめ支持するのが事前責任概念であり、事前責任を負うものはそのようなことが起こらないように予防措置をとることが期待される。「事後責任(post-event responsibility)」は「応答基底的責任(resonse-based resonsibility)」とも呼ばれ、何かの出来事の後に観念される概念であり、この出来事に事前責任があるものに対して要求される責任概念である。この事後責任は、保障(making amendes)の要素と配慮(caregiving)の要素から成るとされる。このように、責務責任と負担責任をそれぞれ、一定の事態の前と後の責任であると位置づけることによって、いかなる事態に着目するかによって、同一対象が責務責任でありかつ負担責任であるということが可能であることを説明できるようになる。(p.38)

 概念上は、有責責任は転嫁不可能であるのに対し負債責任は転嫁可能であり、両概念は転嫁可能性に関連して明確に区別される。しかしながら、実践上は、転嫁可能性は有責責任と負担責任を区別する基準とはなっていない。すなわち、負担責任は常に転嫁可能であるわけではない。例えば、先に挙げた第二の場合において、未成年者の監督義務者に対して損害賠償責任を負わせることは正当であると考えられているが、他方で、刑罰を負わせることは不当であると考えられている。このような負担責任の中でも、損害賠償責任であるか刑罰であるかによって転嫁可能性は異なると考えられている。この負担責任の転嫁可能性に関する制約は、概念上のものではなく実践上のものである。(pp.40-1)

 「集団的責任(collective responsibility)」とは、個人が有責責任がないにも拘らず、ある集合体に属するという理由で、個人が負う負担責任のことである。集合的責任においては、集団レベルでは自己責任は成立しているが、個人レベルでは自己責任は成立していない。ここでいう集合体とは、家族・学校・会社・近隣関係・国家・民族・人種・性・出生地など、なんらかの関係を有する存在者の結びつき又は同じ属性を共有する存在者の集まりといった非常に広い意味で用いられている。このように定義された集合的責任には、未成年者の監督義務者の責任・使用者責任・国家賠償に際する国民の責任など様々なものが含まれうる。(p.42)

 「責任保険」とは、被保険者が第三者に賠償責任のような負担責任を負う場合に、その不当の填補を目的とする保険である。例えば、自賠責保険がその典型である。これに対し、ここでいう「非難保険」とは、被保険者が社会的非難あるいは刑事責任を受ける場合に、被保険者に代わって保険者又は保険者が提供するものが社会的非難あるいは刑事責任を受けることを目的とする保険である。例えば、自動車事故で運転者が刑事責任に問われた場合に、運転手に代わって保険会社の職員が刑事責任を負うような保険である。(p.45)

 非難保険が不当であるのは、社会的非難や刑事責任を規範違反者たる行為者から他人に転嫁することが不当だからである。つまり、社会的責任や刑事責任は、直接責任であり、加害者を離れると意味を失い、したがって他人に転嫁するのが不当な責任なのである。(p.45)

 例えば、他人によって強制された場合や催眠術をかけられていた場合の行為に対しては、通常責任を問われない。その理由は、その行為が決定されていて避けられなかったからであり、このことは他行為可能性が責任の条件であることを含意している。しかし、決定論が正しいと、未来は幾重にも分岐した「フォーク型の未来(開かれた未来)」ではなく、一義的に決定された「ナイフ型未来(閉じた未来)」となってしまい、別様に行為する可能性が閉ざされてしまう。そのため、すべての行為はいわば強制されたものとなってしまい、責任を問うことができなくなる。したがって、決定論は責任実践とは両立しない。(p.57-8)

 コンピューターや自動車などの機械が期待通りに動作しない場合に、その機械に対して腹が立つことはあっても責任を問うことはない。また、動物が悪さをした場合に制裁を加えることは合っても責任を問うことはない。…このように、人間であるか人間でないかは、責任実践にとって根源的区別である。すなわち、答責者としての的確性を有するのはただ人間のみであり、その他の存在者は答責者としては不適格である。(p.58)

 フランクファートによれば、フランクファート流の判例において明らかになるのは、たとえ行為者に他行為可能性がなかったとしても、他行為可能性がなかったということが行為の理由であるとは限らないということである。他行為可能性がない状況において、ある行為を自ら望んで行う者は、たとえ他行為可能性があったしても同じ行為を行うであろう。要するに他行為不可能性は、必ずしも行為理由として作用しないのである。(p.79)

 仮に行為が性格や環境によって決定されているとしても、その行為を決定する人格を形成した責任を問いうると主張することで、責任の最終的帰属点である「行為者」を規定しようとする。…人格形成責任論は、ある行為に対して責任を問うことは、たとえ当該行為が決定されていたとしても、行為を決定した人格を形成した責任があるならば可能であると主張するが、その主張が妥当であるためには、当該行為以前の人格形成過程自体が自由であり、その人格形成過程に対して行為者が責任あると主張できることが必要である。しかし、行為者がその人格形成過程自体に責任があると主張するためには、その人格形成責任論は、無限退進に陥ることになり、結局生後間もない乳児が最も自由であり、その自由によってその後のすべての行為の責任が基礎づけされるという奇妙な結論に陥ってしまう。人格形成責任論がこのような問題を抱えてしまうのは、人格形成責任論が時間的な理論であり、時間的な遡行を理論的に内在させているからである(p.105-6)

 負担責任を課すことのない責任実践も、現に営まれており、固有の意義を有している。責任負担を課す意図なく問責する者は、無意味なことをしているわけではない。例えば、処罰を求めたり賠償を要求せずに、単になにが起きたのかという事実を究明するために責任を問うような実践は、現に営まれている。そのような実践は、仮に事実究明の結果として責任負担を課すことがないとしても、責任実践としての意義を有しているのであり、無意味な実践ではない。また、負担責任を課す意図なく説明を求める実践も同様である。(p.125)

 応答責任論は、その意味とは証し立てであるという答えを与えることで、転嫁可能性の問題を解明する。社会的非難・道徳的責任・刑事的責任といった直接責任は、問責とそれに対する理由応答という責任実践の中心的理念の延長線上にある。つまり、直接責任とは有責責任ある者が問責され、それに対して証し立てを行い、その明かしたてが十全でない場合に課されるものである。このような直接責任は、加害者と被害者が直接的対面性の下で問責と応答を行うことと不可分であるため、有責責任ある者以外に転嫁されるとその意味を失ってしまうのである。これに対して、補償のような間接責任は、加害者と被害者の直接的対面性とは内在的連関を持たず、被害者の被害の救済のみを目的とする枠組みで捉えられた責任であり、加害者と被害者は直接的対面性によってではなく、それぞれ分離された枠組みで扱われるため、有責責任のない第三者が担っても意味を持つ。したがって、例えば損害賠償責任は有責責任のあるものが担わなければ、意味を失ってしまうと考えるのであるとすれば、この場合の「賠償」は「補償」とは区別された意味を帯びているのであり、間接責任としてではなく直接責任として捉えられていることにある。(p.144)

 刑罰を科して自由を剥奪することが、どのようにして責任をとることにつながるか、という点について応報論は明らかではない。修復的司法は正義の回復をより具体的・実践的なレベルで語る。すなわち、加害者の具体的な行為によって、被害を金銭的のみならず精神的にも修復し、関係を修復することを強調する。この点で、正義の回復を抽象的に捉える応報論とは異なっている。(p.187)

 不法行為訴訟における金銭賠償は、単なる負担としての金銭ではなく、応答としての謝罪であることになる。訴訟当事者は、単に金銭を巡って争っているのではなく、コミュニケーションを巡って争っている。例えば、戦後補償訴訟などでしばしば聴かれる「わたしたちが求めているのはお金ではない」という言葉は、このように捉えて初めて理解可能となる。あるいは、このように捉えなければ正確に理解することは不可能である。こうした事態は、戦後補償という特殊な事例にのみ当てはまるのではなく、交通事故を巡る損害賠償のような日常的な事例でも、同様の事態が当てはまる。要するに、損害賠償責任とは加害者による謝罪の応答である。不法行為訴訟における損害賠償責任を、発生した金銭的負担の帰属として捉えることは、事態の精確な記述でない。損害賠償責任とは、被害者に対する謝罪の応答であり、このような理解は応答責任論によってのみ与えられる。(p.206-7)


◆仲正 昌樹 (2004) 『「みんな」のバカ! 無責任になる構造』 光文社新書152

 
はじめに 「みんな」の「物語」
一章 「みんな」って誰?
二章 「みんな」の西欧思想史
三章 「みんなの責任」をどうするか?
四章 「みんな」と「わたし」の物語
五章 そして、「みんな」いなくなった!
エピローグ 「みんな」が見えなくなった時に

 このように「赤信号」の「みんな」には、責任回避の論理として引き合いに出される「みんな」と、自分自身を安心させる基準としての「みんな」という二つの意味が含まれているわけだが、「いかにも日本的な組織や制度のダメさ加減」が論じられる文脈では、この二つがしばしば表裏一体となる。つまり、「みんながやっていること」だから「わたし」も大丈夫だと思ってタカをくくっていたら、いつの間にか「みんな一緒にしくじってしまった」ことが分かり、「わたし」も責任を問われそうになったので、「みんながやっているのに、何故わたしだけ?」と開き直るわけである。それによって、「自分一人で危険を冒したのなら、自分一人で責任を取らねばならない」という西洋的な個人主義の倫理の裏返しとして、「みんあが安心して一緒にやったことだから、自分一人で責任を取る必要はない(取るのなら、みんなで)」という「みんな」の非倫理が成立する(p.23)

 重要なのは、「こちらのみんな」の考えと、「それ以外のみんな」の考えが違っているかもしれないことをきちんと把握したうえで、自己の立場を捉えなおしているか否かである。「私たち」にとっての「みんなの意見」が、「他のみんなの意見」とは異なることを承知のうえで、敢えて「(こっちの)みんなの主張」を貫くのであれば、それなりに潔い立派な態度かもしれないが、それが分かっていなくて、「こっちのみんな」=「『みんな』一般」と錯覚しているのであれば、東京に住んでいようと、金沢に住んでいようと、”ただの田舎者”である…(p.35-6)

 政治思想におけるルソーの最大の功績は、「どこかよく分からないところにいるえらい他人様が決めてくれた掟に従う」というイメージがどうしても付きまとう「法」を、「(その政治共同体を構成する)みんなの意志によって正しいと判断されていることに、みんなが自発的に従う」という形に定式化し直して、「国家」運営の基礎となるべき「法」を「みんなのもの」にしたことである。(p.62-3)

 デリダの「無限の他者に対する応答可能性=責任」論は、実は、キリスト教文化圏における「告白」を通しての「無限なる神」に対する「責任」という制度を前提にしているのではないか、と「私」には思われる。超越者である「神」が「応答」関係の最終的な宛先になっていれば、「応答可能性」がどこかに雲散霧消してしまう歯止めになるので、少しだけ安心して、「無限の応答可能性」について語ることができる。(p.101)


◆成田 和信 (2004) 『責任と自由』 勁草書房 ISBN4-326-19907-5


 T 責任
第一章 ストローソンの責任概念
第二章 責任とは何か


 U 自由をめぐって
第三章 「別の行為もおこなうことができた」ということ
第四章 意志の実現
第五章 「別の意志ももつことができた」ということ
第六章 本心の実現
第七章 通時的コントロール


 V 合理的<実践>能力と自由
第八章 合理的<実践>能力と自由
第九章 自由(コントロ−ル)の解明

 

 われわれは、カラスを責めたり、風邪に感謝したり、草木や犬猫をうらんだりすることがある。さらに運命とか境遇といったものにまで恨みや感謝の念を向けることがある。だから、これらの心情が人だけに向けられるというのは誤りである。この反論に対しては次のように答えておきたい。たしかに、われわれは人ではないものにも、責め、恨み、憤り、軽蔑、あるいは、感謝、賞賛、尊敬といった心情を向けることがあるかもしれない。だが、そのような場合には、カラスや風、草木や犬猫、運命や境遇などを「擬人化」しているのである。すなわち、それらが実際には人間ではないことを認めつつも、あたかも人であるかのようにみなしているのである。(p.8-9)


◆Luhmann, N. (1964). Funktionen und Folgen formaler Organization, Duncker & humblot, Berlin.
=1996 沢谷 豊・長谷川 幸一 訳 『公式組織の機能とその派生的問題 上下
』 新泉社 ISBN4-7877-6911-9

 責任は、釈明義務やときにはいくぶん狭く、失敗に対して保障する義務であると理解されている。このことは社会学的な組織研究についてさえあてはまる。これによって、責任概念は規範科学に組み入れられることになる。すなわち、責任は、規定された規範にそって誤りなく行為することを義務として前提し、この前提のもとに規範とサンクションを結びつけるものなのである。…責任ということばの意味が、釈明義務で完全に尽くされるものではないということがはっきりと認識されている場合でさえ、通常は、規範的な意味関連が放棄されることはなく、釈明義務に課題概念をつけ加えることで責任を説明しようとする方法がとられている。そうなると、組織内で責任をもたせるということは、ある種の課題について権限を委譲することと同じことになる。それは同一の現象に異なる二つの概念を与えることになるか−ちなみにこれは回避可能である−、望ましい行為を賞賛するかのいずれになるであろう。しかしながら、こうした方法によって概念の欠如部分をうまく補えるかといえば、それは極めて疑わしい。さらに責任という概念に内包されているものが、規範的な行為期待の遵守ということで尽くされるのかどうかも疑問である。それ以外にも、責任には、思い切った行為とか不確かな状況下での判断とかいった、ただ規範にしたがうことよりもはるかに困難な何ものかが含まれていないだろうか。(下巻p.29-30)

 …あることがらについて自分の考えを述べたり、もしくはその考えをはっきりと自らの行為の基礎にしたりすることが必要になるものである。断片的な事柄を解釈しながらつなぎ合わせたり、単なる仮定を事実であるとしたり、希望を予言に変えたりするといったことは、原初的な意味で、責任の大きな行為である。そのさい、責任は、リスクを引き受けるということばかりでなく、他者のリスクを肩代わりするということをも意味している。…責任は、不確実さを吸収するとともに他者の意識にかかる負担をも軽減するような、情報処理の社会的な仮定であるとすることができる。この仮定のなかで、責任は不十分な情報に取って代わることによって、確実な情報がある場合と機能的に等しい働きをするのである。(下巻p.30-1)

 システムの存続が決定を必要とするようになると −そしてこれは、行政というその行為が決定以外の何ものでもないシステムでは、もっとも典型的な形であらわれるが−、ただちに不確実性の吸収は、役割形式の自然仮定庭や、個別の個人的名声、ないしは社会的好奇心の圧力といったものにゆだねておけないようになってしまう。決定が一定の場所で、そしてとりわけ一定の時期に下されることが保障されていなければならないし、さらに、その決定は完全な情報がないときでも下されるという保証がなければならない。こうしたことにならざるをえないのは、とりわけ次のような事情があるからである。すなわち、決定がシステムの維持に欠くことのできない手段になってしまったときからは、決定を下さないこともひとつの決定になってしまうのである。なぜならば、決定を下さないということがシステムの存続に影響を及ぼし、そしてそれゆえ、責任があると判断されなければならないからである。こうなると、情報が不十分だからといって決定を自粛したり、決定に消極的になったりすることは、もはや弁護できなくなってしまう。(下巻p.34)

 …公式組織は、必要不可欠なこの不確実性の吸収ということにおおよそのところ成功する。それも二通りの方法で。すなわち、排他的な権限にしたがって決定の管轄権を分化させることと、責任を責任事項、すなわち失敗に対する釈明義務として解釈することによって。

 情報のセンターができることにより、同時に、全システム内の責任状況を一挙に変えてしまうような重大な影響が現れる。すなわち、組織内である種の情報を持っている可能性がある特定の位置に集中することによって、すべての照会者は、情報源を選択するという責任から解放され、それによって、もっともよい情報源をみつけだしたり、ないしはさまざまな情報源から情報を比較考慮したりするという責任から解放され、それゆえ、情報そのものにまでふみこんで調べる必要もほとんどなくなってしまうのである。それゆえ、分化したシステムでは、ある情報が権限のある位置からやってきた場合には、その情報は正しいという擬制的な前提のもとに仕事をすることができる。受け手には、受け取った情報を自分自身で検証する知識もなければ時間もない。かれにできることはそれを受けるか拒絶するかのいずれかを選択することだけである。(下巻p.36-7)

 責任事項が組織に確定されるべきであるとするならば、−そしてこれは、古典的組織論の中心的関心事であるわけだが−正確に公式化された期待のシステムや判断基準の体系があることに加え、成功や失敗の責任をはっきり特定できるということがその前提となる。責任は必然的に個人に関係付けられ、それをもとにシステム内に配分される。指揮系統の統一性という周知の組織原理には責任事項の統一性という原理が対応していなければならない。この二つのことは、基本的には同じことがらをさしている。(下巻p.38)

 責任事項のヒエラルヒー的秩序は、同時に、一定の制度的な欠陥のもとになっている。ヒエラルヒーの上にいけばいくほど、それだけいっそう行動基準は否定形的になり、地位にふさわしい特徴も一般的になっていく。すなわち、責任事項が増大するにしたがって、それを実際に遂行するための基本前提が欠落していくのである。責任事項が最も大きいのは最も高い地位の担い手である。すなわち、釈明要求からもっとも強力に守られている地位の責任事項が最も大きいことになる。…さらに、システムの管理職にある人々はシステムを外部に対して代表するわけなので、システムに対して害をおよぼすことがないように、過ちはかれらの個人的責任にされることがある。しかし、とりわけ、包括的な責任事項が上司にあるということは、上司自らが部下に釈明を求める妨げとなっている。詳しく言うと、責任事項の譲渡不可能性という原理の結果として、上司と部下とのあいだには、責任事項についてはっきりとした排他的な強化を保つことができないのである。責任の所在については非公式的な規則に根づくこともある。こうして、行政においては、たとえば、計算の誤りは担当者の、めんどうな資料に対する法的判断の誤りは法律関係者の、そして政治的措置の誤りは部局の長の責任になるわけである。しかし、それは関係者間でとりかわされる一種の紳士協定であり、これによって、所有していなければならない情報やチェック活動を特殊な領域に限定することができるのであるが、公式的にはそうした配分が認められることはない。(下巻p.40-1)、

 あらゆる巨大システムでは、膨大な数に上る外部との接触はトップが関係することなく、いやそもそもトップに知らせることもなく進行している。したがって、ある案件が重要になってくると、トップは下から、しかもその案件の本質的でない部分をすべてふるいにかけてしまったあとで教えてもらわなければならない、ということになる。そのさい伝えられるのは、トップに知らせるためにわざわざ用意した、高度に濃縮され、不確実性がおおよそそのところすでに吸収されてしまった情報なのである。したがって、本来的な意味での責任は下のほうにあることになる。システム内の情報経路やその情報に対する責任は、外部との接触をもつさいの秩序によって、あらかじめ広範にわたり支持されている。したがって、それが異なる観点から構築されている職務上のヒエラルヒー秩序と完全に一致することは不可能なのである。責任の分配と責任事項の分配は、組織化された巨大システムでは構造的に分裂している。会社の序列では不確実性が吸収され、トップでは毀誉褒貶が吸収されるのである。責任と責任事項の不一致が組織構造によって調整されることはない。というのは、組織構造は常に公式的な構図だからである。(下巻 p.41-2)

 経験をつんだ実務の専門家は、原則で対処できるあらゆる場合には不確実な状況を克服して、自ら責任を引き受けることができる。しかし、やっかいな行為については責任事項から遠ざかり釈明義務を回避するか、もしくはそれを予測できる結果にうまく制限するのである。すなわち、あらゆる場合に、かんれいにしたがうかもしくは責任を転嫁することができるのである。とりわけ、高度の分業を用いれば、成功ないしは失敗の原因がだれにあるかを確定することが難しくなる。…たとえば、かれは他者に決定に参加させることによって責任事項を分散させることができる。ことに専門家に意見を求めたり、会議や委員会を開いたりといった、要するにはじめからヒエラルヒー的な配列を組み込まれていない制度が風除けとして好んで用いられる。(下巻 p.42-3)


◆丸山 真男 (1961) 『日本の思想』 岩波新書C39

 明治憲法において「殆ど他の諸国の法律には類例を見ない」大権中心主義(美濃部達吉の言葉)や皇室自律主義をとりながら、というよりも、まさにそれ故に、元老・重臣など憲法的存在の媒介によらないでは国家意思が一元化されないような体制がつくられたことも、決断主体(成人の帰属)を明確化することを避け、「もちつもたれつ」の曖昧な行為連関(神輿担ぎに象徴される!)を好む行動様式が冥々に作用している。「輔弼」とはつまるところ、統治の唯一の正当性の源泉である天皇の意思を押しはかると同時に天皇への助言を通じてその意思に具体的内容を与えることにほかならない。さきにのべた無責任への転落の可能性をつねに内包している。(p.38-9)


◆Drucker, Peter F. (1993). POST-CAPITALIST SOCIETY. Harper Business, A Division of harper Collins Publishers, Inc.
= 1993 上田 惇生・佐々木 実智男・田代正美 訳 『ポスト資本主義社会 -21世紀の組織と人間はどう変わるか』 ダイヤモンド社)

 組織の中の人間全員が、自らの貢献を徹底的に考える責任を負う。すなわち、知識労働者としての自らの責任について徹底的に考える責任を負う。これは、知識社会において、仕事のいかんにかかわらず、あらゆる人間の責任である。…彼ら働く人間が、他の誰よりも、自分の仕事を「知って」いる。そして責任を負わされることによって、事実、彼らは責任ある人間として行動する。…責任なき力は、力ではない。責任なき力は、無責任にすぎない(p.193-4)


◆Shaver, Kelly, G. (1975) AN INTRODUCTION TO ATTRIBUTION PROCESSES, Winthrop Publishers, Inc.


= 1981 稲松 信雄・生熊 譲二 訳 『
帰属理論入門 −対人行動の理解と予測』 誠信書房

 


第一章 序論
第二章 帰属の基礎 −対人知覚
第三章 帰属の構成要素
第四章 3つの帰属理論
第五章 諸理論の比較
第六章 自己帰属
第七章 他者帰属 −因果関係と責任性
第八章 他者帰属 −個人的諸属性
第九章 帰属の対人的・社会的意義

 シェーバー[Shaver,1970]は、知覚者の帰属には少なくとも2つの要因が含まれていると結論づけた。まず、引き起こされるどの程度の自己にも状況の可能性があるにちがいない。言い換えれば、刺激となる人物を取り巻く環境と類似の環境にある自分を見出す可能性がある、と知覚者は考えるにちがいないということである(p.169-70) 

 もしあなたがその状況にあったなら、同じ過ちを犯したであろう機会は相当あったと言うことを意味している。今度もしあなたが刺激となる人物に責任(これは多分道義的責任の意味であることを思い出して欲しい)があるとしたら、あなたは自分自身の未来の行動を判断する基準を大変厳格なものと設定していることになる。悪いことに、ある事故にあなたが関係しており、さらに悪いその事態にだれもがあなたを非難しているとしよう。これがもしどちらか[偶然か責任か]であるならば、この特別な事態では「偶然」への帰属が好んで選ばれるだろう。

 この一連の推論はシェーバー[Shaver,1970]が防衛帰属と呼んだ方法に従っている。つまり、知覚者の立場では、状況によって設定された脅威をできる限り軽減させるように、どんな帰属でもそのようにしたいという欲求がある。もしあなたにとって脅威になりそうな帰属状況でも、個人的類似性を否定し同時に責任帰属させることによって脅威が減少するような状況であれば、当然そのようにするであろう。もし人格的類似性を否定しえないなら、否定的結果は偶然によって帰属させやすい。この防衛帰属の考え方は、いくつかの研究によって支持されてきたし[Chaikin & Darley, 1973; Shaver, Turnbull & Sterling, 1973]…。(p.170)、

 個人的原因を強調しすぎることは、社会問題にも個人的問題と同じくよくあることであるが、問題となっている集団にたまたま入ることになった人びとにとっては、とくに気の毒なことである。行動が場を巻き込んでいる事態は簡単ではないし、社会問題に対して個人的帰属をさせることが知覚者に納得がいく場合でも、事態は決して簡単なことにはならない。社会状況に知覚者は、個々の人びとに対するほど影響を及ぼし難く、建設的変化を与え難い。(p.203)

 

 個人的帰属を強調することは、その問題ばかりでなく、その解決(たとえば、その人を変容させること)を明確にするという付加的利点を持つ。犯人を罰する(そrとも、社会から犯人を追放する)と犯罪問題はなくなる。…しかし、仮定された個人的属性を修正することで社会問題の解決をはかることは、多分、効果がないだろうと、と確信する理由がある。その環境条件が持続するかぎり、その条件は、多分、他の人びとにも類似の「個人的属性」を引き出すことになるからである。環境条件と個人的属性とのこの種の相互作用は、社会的レベルというより、対人関係に関する自己成就的予言によって実証される。(p.203-4)

 

 


 


◆藤田 藤雄 (1991) 『日本における「責任」の概念 経営倫理の本質』 白桃書房 ISBN4-561-16081-7

 
第1部 日本的経営の源流
 T 日本的経営論 序説 −集団主義−
 U 集団主義の本質 −集団主義とは何か、その意味するもの
 V東と西;その思考の相違 −ベネディクト女子の『菊と刀』を中心として


第2部 責任・権限の問題
 T 経営管理論における責任と権限の問題
 U 日本における「責任の概念」

 アンリー・ファイヨールは「一般管理と産業管理」の中で、権限と責任について、責任は権限から生じるもので、その関係は原本と副本の如きものであるとして、権限に重点を置きながらも、責任との同一性について、次のように述べている。「権限は責任と別のものと考えられるべきものではない。権限は力の行使であり、単に賞罰の如き制裁ではない。責任(responsibility)は権限から生ずるもの、権限の系であり、権限の当然の帰結である。責任は権限の本質的対応物である。権限が行使されるところ、必ず責任が生ずる」(Henri Fayol, General and Industrial Management, p.21)(p.119)

…したがって販売部長の違法行為は、いかなる責任の委譲によっても、社長の責任に帰することは当然である。 「責任の委譲」ということは、理論的にも、法律的にもまた実際的にも存在しうるものではない。それにも拘らずdelegation of responsibilityが主張されるのは、それが「職務の委譲」「職能の委譲」だからである。その本質は上司の仕事の一部を部下に移し、職能の一部を上司の担当から部下に変更することに他ならない。職務の委譲は、本来仕事の委譲であり、それは仕事の割り当て替えであるから、命令の変更、規定の変更とその性質を同じくし、トップの考え、上司の方針によっていかようにも変更しうるものである。仕事が委譲されれば、それを行う権限、正当な力も当然仕事の変更を伴って移動する。

 アレンは、「アカウンタビリティーとは、定められた業務基準にしたがって職務を遂行し、権限を行使する義務である。金銭を借用したものがその借用条件にしたがってその貸主に返済の義務を負うように、職務、権限を委譲された人は、定められた標準にしたがってそれを遂行する義務がある。求められれば、報告を行わなければならず、その業務活動の成否について答えなければならない。アカウンタビリティは、業務の標準が事前に設定され、それを部下が完全に理解し、受容したときに最も意味のあるものである。アカウンタビリティーは仕事を遂行する義務と、権限を行使する義務との双方に適用されることは注意されなければならない」(Louis A. Allen. 1958. Management and Organization, McGraw-Hill New York. = 高宮晋訳 『管理と組織』ダイヤモンド社 p.120)

 

 


◆蘭 千壽・外山 みどり (1991) 『帰属過程の心理学』 ナカニシヤ出版 ISBN4-88848-135-0  


第T部 帰属理論の基礎
 第1章 帰属理論 浦光博
 第2章 帰属研究の発展 外山みどり


第U部 帰属理論の応用
 第3章 教育と帰属 坂西友秀 蘭千壽
 第4章 事故と帰属 内藤哲雄
 第5章 法と帰属 黒澤香 萩原滋
 第6章 情緒の帰属と不適応行動 鎌原雅彦 安藤清志

 

帰属 何らかの出来事の生じた原因や理由を、自分の周りにある種々の情報を検討することによって推論していく過程を「帰属過程」と呼ぶ(p.10)。

 …実際われわれの周りにいるものが事故を起こしたとき、「あの人は駄目だ」「彼ならやりかねない」「私ならうまくやるのに」と感じてしまうことが多い。このように安直lに個人の占有傾向に結びついて判断してしまうと、設備や作業方法の問題に眼が向かなくなってしまう。たとえ個人の能力に問題があるとしても、制度や仕事の分担を変えることで再発を防止できる場合もあるのである。医療現場での例だが、ある病院の中央手術部での看護婦の感染事故の70%近くは、経験2年未満であった。(p.112)

 他者の行動は内的・個人的要因に、自身の行動は外的・状況的要因に帰属する傾向がある。こうのような行為者と観察者との差異は、おもに以下の2つの観点から説明される(古城 1986 「原因帰属とバイアス」 所収 対人行動学研究会編 『対人行動の心理学』誠信書房 p.121-221)。その第一は、視覚的な見通しとそれに対応した注意の集中化の違いによるものである。行為者は、自分自身の行動を他人がするようにはつぶさに観察することができない。それゆえ状況的要因の方へ目を向け、注意を払うことになる。他方観察者にとっては、場面の中で最大の注意を引くのは苦手であり、行為者の行動自体に注意を向ける。したがって、行為者の占有傾向の影響を強調し、状況的要因を見過ごしがちになるのである。第二は、行為者の行動に関する両者の情報の質と量の違いによるものである。いうまでもなく行為者は、自身の行動に関してより多くの知識を持っており、過去の行動・感情および思考内容についても知っている。つまり、行為者自身は、状況が異なれば異なった行動をとるであろうことを承知しているのである。これに対し観察者は、行為者の過去の行動に関する十分な情報を持たないので、過去においても同様な行動をとったと想定してしまう。したがって観察された行動は、その人の一貫的・持続的な占有傾向にもとづいていると感じるのである。(p.112-3)

 責任の拡散 …こうした中でラタネとダーレイ(Latané, B. & Darley, J. M. 1968. "Group inhibition of bystander intervention in emergencies," Journal of Personality and Social Psychology, 10. p.215-221.)が提唱したのが、責任拡散説である。これは、援助すべき人が多くなるほど責任が分散し、実際に援助する人の出現率が低下していく減少を説明する理論である。この説から推論されるのは、事故に関与する人の数が多くなるほど事故に対する個人の、さらには人間の側全体の責任が少なく判断されてしまうことである。事故の発生を傍観することにもなる。また原因の究明や予防策の検討に際しても、参加者が多くなるほど提案をすることが無くなりがちであるといえよう。

 シェーバーは、『非難の帰属』(Shaver, K. G. 1985. The attribution of blame; Causality, Responsibility and Bameworthiness. New York; Sringer-Verlag.)という書籍の中で、次のような理論的展開を行っている。何か悪いこと、否定的なことが起きたとき、人は原因帰属を行い、その結果によって責任帰属を行う。最終的には非難の帰属が起こるが、これは責任帰属の結果による。つまり、シェーバーは原因帰属→責任帰属→非難帰属の、整然たる順序の認知処理的なプロセスを想定した規範的モデル(a prescriptive model)を提唱したわけである。そして、彼の考え方の特徴は、原因(causality)、責任(responsibility)、それに非難(blame)の帰属が、それぞれ別個のものであるという主張である。特に重要なのは、因果関係の帰属は、責任の帰属と同じものではないし、それは責任帰属の1要因でしかないということである。意図がなくとも、責任が割り当てられることがあるし、意図があっても、責任が割り当てられないこともある。因果関係が責任帰属に不可欠であるともいえないし、原因の帰属がなされると、いつでも責任の帰属が起こるともいえない。だれに責任があるのか明確にしたいという欲求があることが、責任帰属の起こる要因であるといえよう。(p.135-6)

 具体的には、シェーバーはこれらの別々の帰属についての質問が次のようなものであるとしている。
@何がこれの原因なのか(What was the cause)だれがこの結果を惹き起こしたのか。特定の人”A”がこの結果を惹き起こしたのか。
Aこの結果について、誰かに責任があるのか(Is anyone responsible?)あるとすれば誰か。特定の人”A”はこの結果について責任があるのか。そのときの状況を考慮すると、その人に、どれだけの責任があるといえるのか。
Bこの結果について、だれを非難すべきか(Who is to blame?)特定の人”A”を、この結果について非難すべきか。どれだけ非難すべきか。

 原因は客観的なもので、実在が想定されるが、責任は社会的なものであるから、原因は人でなくともよいが、責任を負うのは人でなければならない。それゆえ、責任を前提とした原因は、必ず人の行為を含んだ条件の集合体でなければならない。そして、原因は観察者のこころの中に表象されるのが普通であるが、それはまた、観察者とは独立した存在である。対照的に、帰属とは観察者の心の中だけにそれ以上のものではない。つまり、原因には観察者がなくてもよいが、原因帰属や責任帰属には観察者を必要とする。非難の帰属のためには、たんなる観察者の存在でなく、非難する人とされる人との両者間の関係を前提としている、とシェーバーは主張する。(p.136-7)

 


◆作田 啓一 (1972) 『価値の社会学』 岩波書店 ISBN4-00-000269-4

 
第一編 社会的価値の理論
 T 行為の概念
 U 社会体系のモデル
 V 価値の制度化と内面化
 W 責任の進化
 X アノミーの概念
 Y 市民社会と大衆社会


第二編 日本社会の価値体系
 Z 価値体系の戦前と戦後
 [ 恥と羞恥
 \ 同調の諸形態
 ] 戦犯受刑者の死生観
 ]T 戦後日本におけるアメリカニゼイション
 ]U 日本人の連続観

 

 特に未開社会や古生社会においては、文明人の立場からは成熟した障礎のない精神をもつとは見えない存在(小児・精神病者・集団・屍骸・動物・植物・物)が、責任能力者と認められ、制裁を蒙ることがある。またそれらの社会においては過失が偶然から十分に区別されているようには見えず、したがって過失の範囲が非常に広くなっていると同時に、過失(おそらくは偶然を含む)の責任と故意の責任の重さの差異は、文明社会におけるその差異よりも、はるかに小さいように見える。まれにではあるが、その差異は全然なくなり、過失ないし偶然の行為者が故意の行為者と同量の刑を蒙ることさえある。最後に推知されるように、未開社会や古生社会においては「期待可能性」の概念はほとんど発達していない。この種の判断がないわけではないが、それは文明社会の概念とは極めて質をことにしたものである。(p.125-6)

 デュルケームは刑罰と世論による制裁を併せて「禁圧的制裁」(sanction repressive)と呼び、民法・相続法・商法・行政法等に現れている「回復的制裁」(sanction restitute)に対立させた。禁圧的制裁の目的は「本質的に行為者に加える苦痛に存する」。これに反して回復的制裁の目的は「物事を単に原状回復せしめる事に存する」。このように二つの制裁の動機は質的に深く区別されるので、…(p.126-7)

 したがって責任の規則とは、与えられた社会意識に従って、犯罪をもっともよく象徴するものを選択する一体系である。われわれにとっては完全に無責任と思われる存在が受刑者としてえらばれることがあっても、それはウェスターマークの言うように「誤って責任を問われた」(responsabilite aberrante)のではない。それはやはり、その社会にとっては、責任の規則に従って正当に宣告されたものである。社会構造や心的構造の違いは、責任者の選択の方法に相違をもたらすであろう。しかしいずれの場合でも、社会の集合表象に従って、最もよく犯罪を表象しうるものが選ばれることには変わりはない。(p.143)

 そこから、未開社会においてはなぜ数かずの奇妙な責任が問われたかが理解される。責任を問う者は、出来事の原因を何者かに帰属せしめる作用である。それは、一種の説明である。ただそれが科学の経験的・因果的説明と異なるのは、原因と結果との媒介に制裁者の願望ないし意思が不可欠だという点である。我々にとって未開社会の責任が奇妙に神秘的に見えるのは、彼らが我々の断念した範囲にまでその願望を拡げるからである。彼らにとっては、自然的世界でさえ約束と期待によって束縛された世界に見える。約束を裏切れば罰せられる。自然は約束しなかった、と人は言うだろうか?しかし文明社会においてさえ、国家は出生と同時に我々の国籍を認める。契約が成立しうる条件である意志をもたない時、我々は既に国家の一員に編入されるのである。(p.161)

 責任の帰属はこのように先駆的な説明の一形態である。この説明の作用は、人間の意味において納得しうる原因を想像することにある。合理的・実証的知識の進歩に伴って、物・植物は行動を惹き起こしうるいかなる意志ももちえないことが明らかとなる。これらはまず、約束によって結ばれる人間的世界から除外されねばならない。動物・小児・精神病者は、多かれ少なかれ意志をもちうる存在である。けれども彼らは約束を知らない。彼らは知らぬ間に約束に参加させられていたのであり、しかも制約の違反が、被害者・社会および彼ら自身にとってどんな意志をもつかを了解していない(刑法学者の言う事実の認識および違法の認識の欠如)。そこで彼らの行動は、人間的な世界とは異った世界の諸現象の契機の中に移されねばならない。(p.165)

 もし生じた出来事が人間にとって無関係か或いはとるに足らないものであったなら、不幸や災難が生じなかったなら、人は責任を創造しようと決意しない。すべては因果的系列の一環に収まる。これに対し、もし出来事が重要であるなら、そして重要であればあるほど、人は別種の説明体系に頼ろうとする。この際、熟慮は有責を証明するために活動するのである。(p.168)

 イェリネックは言う、犯罪は「慢性の社会的疾患」であり、「社会及びそれを制御する自然に根差せる諸々の力に依って規定される。犯罪は社会の所産である。実に社会体の全存在の中にこそ、社会から発生する諸原因の総体の中にこそ、犯罪なる社会現象の根拠が存在する。若し責任の概念が、人格的な、責任を負うべき存在を前提とせず、非人格的集合体に適用される」ならば、「社会はその中で行なわれた不法に就いて責任を負うということが出来よう」と。ここで逆転された集団責任がある。人間社会の本性上、人は約束ないし期待の世界をゼロにまで縮小することはできないから、社会が自らを責任者として選ぶ。集団責任を負うのは、犯罪者の集団ではなくて制裁者の集団である。犯罪の生じた状況の検討や、犯罪者の遺伝的及び後天的性格の形成に参与した諸因子の無限の追求の結果、責任の諸要素は現在及び過去の無名の人々の群れの中に消え失せる。そこでプロクルステスの寝台である「平均人」の枠を縮小すると共に、報復に代わる別の刑罰の理論が登場しなければならなかった。イタリーの犯罪学派の理論がそれである。極めて危険な改悛の見込みのない者、たとえば生来の犯罪者、治療不能の犯罪狂、矯正不能の常習者は死または終身拘留によって社会から隔離しなければならない。もし生理的・道徳的治療が可能なら、一時的に隔離を行なうべきである。社会はもはやこれらの犯罪者に報復を加え、それによって精神的エネルギーの衰退を回復しようとするのではなく、純粋に合理的見地から、再び社会秩序の混乱の起こらないように、彼らの自由を束縛するに過ぎない。この原理から治療刑は復讐ではなく合理的処置となる。(p.169-70)。

 

 


◆萩原 滋 1986 『責任判断過程の分析 心理学的アプローチ』 多賀出版 ISBN4-8115-4159-9  

 
第1部 研究の背景
−責任判断におけるバイアス
 第1章 防衛的帰属 −事故に対する責任判断
 第2章 公正性の信奉 −因果応報の思想
 第3章 加害者の責任 −当事者の個人的属性によるバイアス
 第4章 加害者の責任 −当事者の個人的属性によるバイアス
 第5章 責任判断の個人差 −認知者の個人的属性によるバイアス

−責任判断の基準と概念
 第6章 因果性と責任判断 ーHeiderの提言
 第7章 客観的責任と主観的責任 −Piagetの発達理論
 第8章 責任概念の解明に向けて −社会心理学におけるいくつかのモデル
 第9章 責任概念の解明に向けて −刑法理論の関連性


第2部 実証研究
 第10章 日常的使用例に基づく責任概念の分析
 第11章 責任判断の規定要因の分析 −刑法理論に基づく特殊事例を用いて
 第12章 責任判断の論理 −プロトコルのないよう分析

結語

 


◆Jonas, Hans von. 1979. DAS PRINZIP VERANTWORTUNG Versuch einer Ethik fur die tecnologische Zivilisation. Snsel Verlang Frankfurt an Main.
= 2000 加藤 尚武 監訳 『責任という原理 −科学技術文明のための倫理学の試み
』 東信堂 ISBN4-88713-354-5  

 
第1章 人間の行為の本質は変わった
 T 古代の例
 U 従来の倫理学の特徴
 V 責任をもつさまざまな新しい次元
 W 人間の「使命」としての科学技術
 X 古い命令と新しい命令
 Y 「未来倫理」の従来のさまざまな形
 Z 技術の対象としての人間
 [ 技術の進歩が持つ「ユートピア的な」力学と、過度の責任
 \ 倫理的な真空状態

第2章 基礎問題と方法問題
 「未来倫理」における理念知と現実知
 U 好ましい予測よりも好ましくない予測を優先しなければならない
 V 行為の中にある賭の要素
 W 未来に対する義務
 X 存在(ある)と当為(べし)
 
第3章 目的と「存在の中での目的の位置」について
 T ハンマー
 U 法定
 V 歩行
 W 消化器官
 X 自然現実性と妥当性 −目的問題から価値問題へ
 
第4章 善(良さ)、当為、存在 −責任の理論
 T 存在(ある)と当為(べし)
 U 責任の理論 −さし当りの区別
 V 責任の理論 −際立った範例としての、親と政治家
 W 責任の理論 −未来の地平
 X 政治的責任はどの程度まで未来へと及んでいるか
 Y 「責任」はなぜこれまで倫理学説の中心に据えられなかったか
 Z 子ども ー責任の原初的対象
 
第5章 今日の責任 −危機にさらされる未来と進歩思想
 T 人類の未来と自然の未来
 U ベーコンの理想には不吉な脅威がある
 V 危機によく対処できるのはマルクス主義か資本主義か
 W 抽象的な見込みの具体的吟味
 X これから現れる「本来の人間」というユートピア
 Y ユートピアと進歩思想

第6章 ユートピア批判と責任の倫理
 T 地に呪われた者と世界革命
 U マルクス主義的ユートピア主義の批判
 V ユートピア批判から責任の倫理へ

 現在の世代とそのすぐ後に続く世代の幸福の代償が、遠い将来の世代の不幸であり、それどころか遠い将来が実在しなくなることであると思い描いても、そこに自己矛盾はない。逆に、遠い将来の世代が実在し幸福であることの代償が、現在世代の不幸であり、それどころか現在の世代の一部を抹殺することであると思い描いても、自己矛盾はない。(p.21)

 新しいタイプの人間の行為に適した命法、新しいタイプの行為主体に向けられた命法は、次のようになるだろう。「汝の行為のもたらす因果的結果が、地球上で真に人間の名に値する生命が永続することと折り合うように、行為せよ」。否定形で表現すると、「こうした生命が将来も可能であることが、汝の行為がもたらす因果的結果によって破壊されないように、行為せよ」。或いは簡単に言うと、「人類が地球上でいつまでも存在できる条件を危険にさらすな」。あるいは、再び否定形を使えば、「汝が現在選択する際に、人間が未来も無償であることを、汝の欲する対象に含み入れよ」(p.22)

 


◆大谷 実 1972 『人格責任の研究 刑事法叢書@』 慶應通信 


第一部 人格責任論の準備的考察
 第一章 現代責任論の問題状況
 第二章 人格責任論の意義とその背景
 第三章 行為主義と人格に対する刑法的評価の問題
 第四章 性格論的責任感の意義と課題

第二部 人格責任論の展開
 第一章 E・ウォルフの行為者本質論とその周辺
 第二章 行状責任論の系譜
 第三章 ボッケルマンの行為者責任論
 第四章 行状責任論のふたつの発展形態 −ランゲとウェルツェル
 第五章 人格形成責任論 −わが国における展開を中心として
 第六章 人格形成責任論に対する批判

第三部 行為主義と人格責任論
 第一章 第二次大戦後におけるメッガーとボッケルマン
 第二章 人格責任論の再生
 第三章 性格責任論からの接近
 第四章 人格責任論と幅の理論(Spielraumtheorie)
 第五章 わが国の最近の責任理論
 第六章 刑事責任の機能
 第七章 解決への道

 

 道義的責任論は、意思自由論を前提とし、自由意志を有するものが、違法行為を避け、適法行為を選択すべきなのに違法行為に出たことにつき、倫理的・道義的な非難が行為者に向けられるものと解するのである。その結果、ここでは、行為者は理性的な自由意思の主体として抽象化され、行為者が持っている特性は捨象されて、個々の行為に対する意思が、責任非難の対象となる。…これに対して、社会的責任説は、自然的決定論の立場から、犯罪者は素質と環境によって決定付けられているとし、したがって、犯罪人を同義的な批判の対称にすることは不可能であり、犯罪人は社会に対して有害な行為を成す性格、つまり性格の危険性を有するものであり、刑罰は、この危険な性格に対して社会を防衛する手段として課されるから、かかる刑罰処分を受ける地位が責任だということになる。(p.6)

 人格責任論は、このようにほぼ三つの類型に分類することができるが、ここですべてに共通している要素を引きだすと、第一に、いずれの場合においても、個別行為に対する責任を問題としながら、行為の背後にある人格ないし性格をもあわせて考慮し、そうして責任非難の対象を、かかる人格の存在におこうとしている点である。次に、いずれの立場も、責任の本質を非難可能性におき、いわゆる社会的責任論の立場を否定している点が、あげられよう。結局、人格責任とは、「刑法における責任は、単なる個別的行為にだけみとめることはできないのであって、その背後における行為者人格の意味をあわせて考慮しなければならず」、この行為の背後にある行為者人格という人間的にかくあること(Menschliches-So-Sein)を行為者みずから主体的に形成したものとして非難を向ける点では、いずれも共通するのであって、一応、こうした責任論の立場を人格責任の理論と称することにしたい。(p.26)

 従来、責任は非難それ自体を目的とするものであり、それに直接結びつくものは、応報目的のみであるとされてきた。したがって刑罰の目的刑は、この応報の範囲内で考慮されるべきであるとされたのである。これに対して、近代学派の主張や、責任を展望的に更正する見解は、責任が、行為者および一般人に対し、いかなる刑罰手段を用いれば犯罪防止に役立つかとする内容を提供するものとして、実質的に構成してきたのであって、これを西ドイツの学者達に習って、責任の刑罰構成的機能と呼ぶことができよう。(p;.349)

 犯罪原因には大きく分けてみると、環境と人格があることは、今や、なんぴととも否定しない。この環境と人格とは、相互に影響しあって、犯因性人格と犯因性環境にまで高められる。特定の犯罪は、この両者が合致して生ずるのであって、極限の場合を除いては、いずれが欠けても犯罪には達しない、という関係に立っている。…現行刑法が、故意・過失を責任形式として要求しているのは、かかる心理的関係がなければ、行為が人格の表現とみられないからである。かようにして、動機(環境)と人格とを対置することは許されないが、行為の原因となった人格を把握することは可能である。しかし、この段階では、確かに人格が行為の原因であったとはなしえても、それが、どの程度行為の実現力となったか、いいかえれば、行為と人格とがどの程度親和性を持っていたかは判明しない。(p.360-1)

 行状責任論において見逃してはならないのは、過去の人格形成について「何かをなしえた」点に力点があるのではなく、問題は、「行為者の経験的人格の中から様々な人格要素に区別しうる」としていることにあり、たとえば生来的・精神病的人格は行為者の何ともなしえなかった人格要素であるから非難を向けえないとしたことが重要なのである。(p.365)

 行為が環境と人格の所産であるという前提から、行為を人格に帰属させるだけでは、帰責性の観念は説明しえても、答責性、非難性を根拠づけることはできない。責任非難は、帰属が確定したとこから始まるのである。責任非難は、行為はまさに自分が原因であった、この一回限りの行為は、偶然や単なるエピソードではなく、自分という身体と精神との統一的人格が原因であった、という主体の側の責任感上を前提とする。しかし、この行為時の人格が、因果の支配に属しているとすれば、どうして責任非難を向けることができようか。(p.366)

 故意・過失は、持続的な人格と行為および結果との連結点としての意義をもつ。故意が原則として罰せられるのも犯因性環境の開示あする余地が少なく、人格の自律性が自己統制機能を通して客観化するからである。過失はその点、外部の因果の一つの要因として結果に作用するにすぎず、人格と結果との相当性は、一般的に低く、これが、責任を軽くしているのである。(p.376-7)



◆大庭 健 2002 「責任」 
所収 永井 均・小林 康夫・大澤 真幸・山本 ひろ子・中島 隆博・中島 義道・河本 英夫 編著 2002 『事典 哲学の木』 講談社 ISBN4062110806 pp.645-646.

 「責任」というと、通常「過去の悪行・過ちを償う義務」といった意味合いが強い。すなわち、ある人pに・あることxの責任があるということは、pは(積極的にであれ消極的にであれ)自分の行為によって悪しき事実xを招来したという点で、「非難に値する」とともに、xの関係者とりわけ被害者に対して謝罪し、所定の手続きに従って「償う義務」がある、というわけである。このように理解される責任は、@過去の行為を、A現行の規範によって評価し、Bその結果、所定の手続きに従って償う義務が生じる、という過去思考的な「義務」のひとつにすぎない。しかし、哲学的とりわけ倫理学的に考えるとき、こうした法的な責任概念だけではすまない。

 たとえば、親は用事に対して、夫婦は相手に対して、チームのメンバーは仲間に対して、それぞれ相互の間柄のありようをも込みにして、「責任を負っている」。こうした責任は、過去の悪事・過失を弁済する義務ではない。これらはむしろ、現に相対しているという事実から発する「招来へのコミットメント」である。このように@将来へと志向し、Aなすべきことにコミットする、という意味での責任は、個別的な出会いにもとづく共生へのコミットメントなのだから、B所定の手続きにしたがって行為しさえすれば完遂できる義務ではない。

 


◆池上 哲司 1997 「責任」 所収 廣松 渉 編著 『岩波 哲学思想辞典』 岩波書店 pp.938

 応答としての責任を考える場合、問題になるのは<誰>が、なに<に対して>、なに<の前で>という点である。(a)<誰>とは責任を負う主体のことであるが、この主体の条件としては自由であることが前提とされる。アウグスティヌスにおいて見られるように、人間が自由であるからこそ悪をなすことも、その悪に対する責任も可能となる。つまり自由な意思決定による行為でなければ責任は問われえない。さらに、自らの行為がいかなる結果をもたらすかを弁別する能力、いわゆる<責任能力>(Zurechnungsfähigkeit)も責任主体に不可欠な条件である。(b)<に対して>ということで通常問題になるのは、行なわれた行為、その行為がもたらした結果、あるいは行なわれるべきだったのに行なわれなかった行為である。…

 さらに責任が成立するための基礎条件として価値と人格の同一性とが前提とされねばならない。ある行為の責任が問われるためには、その行為の価値がすでに判定されているはずであり、その判定が責任を問う者と問われる者によって認められていなければならない。また、行為をなしたものの人格の同一性が確保されていなければ、なされた行為の責任を問うということ自体がそもそも不可能になってしまうからである。

◆Lenk, Hans. 1997. Einführung in die angewandte Ethik - Verantwortlichkeit und Gewissen. Stuttgart ; Kohlhammer GmbH,
=2003 山本 達・盛永 審一郎 訳 『テクノシステム時代の人間の責任と良心 −現代応用倫理学入門』 東信堂 ISBN4-88713-518-1


1.序論 倫理学の構想について見通しをもつこと
2.良心の呼び声 良心概念の外観
3.自己責任性としての人間性 −具体的な人間性の哲学について
4.自己責任と社会的責任
5.ボパール 無責任性と責任の喪失:ケーススタディ
6.責任のさまざまなタイプ(類型)と次元
7.科学者の責任へ向けて

 

 二つの責任性がある。ひとつは、私が責任のある立場に立たされているような、自分で選ぶことができない責任性である。そうしてまた、私が自分自身に与えるような責任性である。このばあいにはわたしが自ら責任性に応じるのであって、私が自分の責任をある立場に立たせたり、自分に責任性を課題として課し、かつ受け入れたりする。事実、こうしたパラフレーズは一種の対比のように見える。対比することで、もしかするとこれら責任性の二つの見方、変種の特徴がよく示されるのかもしれない。この二つは、責任性の副次的なタイプとみなしてよいであろう。社会的な責任性の状況、身に降りかかるという状況では、わたしは責任ある状況の中へと立たされている。いわばわたしは何よりも受身の立場で、出会いや他者の呼びかけに圧倒される。他者の呼びかけは、共感、同感、共苦の気持ちをわたしに起こさせることができるし、またそのはずでもある。これに対し、別の場合でもある自己責任にあっては、わたしは積極的に決断する者として自ら自分自身に要求を掲げ、あるいはそうしなければならない。少なくとも、品性とか人間性とかフマニテートとかの典型というものを持って自己に義務を課すという視点にしたがってそうすべきである。第二の場合には、私は私の責任を自分自身で「負う」。私は責任を身につけることによりわたしの自己を「練り上げ」たり、自己に自ら要求を掲げることで自己を下書きし構成する。この第二の場合には、自己像や自己規定が、また自己規定への自由が大きな役割を演じるのは言うまでもない。自己規定とは、自律であり、自己自身の人格形成の自由である。自己形成とはまた、わたしがそうするように自己に対して拘束されているとみなすようなことがら、私がそうするように決断するようなことがらでもある。(p.105-6)

 すなわち、責任性は一面で自己責任性として、他面で他者責任性、つまり他人から突きつけられる責任性として捉えられ、双方が実践的にも基礎的本質的にも同等の役割を演じるのであって、こうした二つが相互に排他的に対比できるのは抽象的にだけである。二つの形態の責任性は、通常の場合には、責任ある行為とか「身に降りかかる」責任存在とかの各具体的状況の中で生じてくる。だから、責任性を(二重の意味で)「引き受けること」に具体的な人間性が実際に結びついているということができる。逆に次のようにも言える。すなわち人間性は、具体的な人間性とか具体的な人間性の倫理(倫理学)とか言えるものがあるとすれば、そうしたものを解明し規定するために役立つような概念である。具体的な人間性は、責任ある交わりのなかで、つまり他人および自己自身とのかかわりで責任を認識し継承し引き受けるなかで表示・形成・構成される。その都度、状況に適合しているということ、人格の問題や人格の対応に関して釣り合いが取れているということが考慮されなければならない。(p.109)

 わたしは、この意味で[責任の]諸対象と行動を整理すると10個の類型に区別することが出来ると考える。0.(単なる)「因果的」責任。1.因果的行為責任。2.ラッドとボーデンハイマーに従って責任の類型を挙げると、負い目責任と、それに応じて、3.つぎに賞賛責任という肯定的変形がある。4.ラッドが言うように、未来に行為すべきものへと向けられている事前の配慮責任あるいは用心のための行為責任は予防的である。…5.われわれは身に降りかかる責任を上げることができる。…。それと密接に結びつくのが、ハンス・ヨナスが存在責任と名づけたものである。…。7.ヘイドンの意味での誠実責任、あるいは徳責任。…8.最後に状況倫理との関連では、そしてハートへの結びつきでは、能力責任がある。…。9.役割責任tの課題責任、あるいは、契約責任は、実際それぞれの職業に見いだされているが、…。10.メタ責任、あるいは超責任と名づけることができるような責任のタイプがある。(p.143-5)

 



◆宮崎 幹朗 2000 「ボランティア活動の責任構造
」 『愛媛法学会雑誌』 26巻3.4号

 この判決[津地裁昭和58年4月21日判決]においては、ボランティア活動であっても、活動に伴う注意義務の存在を認めた上で、具体的な注意義務の懈怠があったかどうかを判断している。そして、活動の責任者としての立場にある者に具体的な注意義務の懈怠を認めている。しかし、賠償額の算定に際に、賠償額を減額している。法技術的には、過失相殺という手法を用いたわけだが、実際には、活動の無償性を考慮して「損害の衡平な分担」という一般論を通して、違法性の程度を縮減したものといえる。判決では、ボランティア活動の無償性が重要なポイントと考えられたことがはっきりとうかがえる。(p.78)

 この判決[福岡地裁小倉支部昭和59年2月23日]では、Y1の指導活動が奉仕活動であることを認めたものの、奉仕活動とはいえ、指導上の監督義務が存在していることを認めたものである。監督義務違反の有無の判断を左右したのは、事故を引き起こしたAの行動を監督し、注意することができる位置にY1がいたという事実である。個別的な監督指導が可能であったという判断が判決の結論に大きく影響したように思われる。(p.82)

 

060525作成 060812,060914,061003,061025,061216,070211更新