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市場経済と公共性

Economics & Publicity

 

【文献】

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◆井堀利宏 (1998) 『公共経済学』, 新世社

◆加藤寛・浜田文雅 編 加藤寛・浜田文雅 編 関屋登・山田太門・大岩雄次郎・横山彰・長峯純一・丸尾直美・山内弘隆・小沢太郎・浜田宏一 (1996) 『公共経済学の基礎』, 有斐閣

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◆西垣泰幸 編 西垣泰幸 編 坂本真子・朝日幸代・中村玲子・藤沢宜広 (2003) 『公共経済学入門』, 八千代出版

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◆坂井昭夫 (1980) 『公共経済学批判』, 中央経済社

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◆田中廣滋・御船洋・横山彰・飯島大邦 (1998) 『公共経済学 エッセンシャル経済学シリーズ』, 中央経済

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◆阪口正二郎 編 (2010) 『公共性――自由が/自由を可能にする秩序 (自由への問い 第3巻) 』, 岩波書店

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◆Stiglitz, Joseph, E. (2000). Economics of the Public Sector, Third Ed. W. W. Norton & Company.(藪下史郎 2003 『スティグリッツ公共経済学 第二版』, 東洋経済新報社)


第1部 イントロダクション
 第1章 混合経済における公共部門
 第2章 アメリカの公共部門
第2部 厚生経済学の基礎
 第3章 市場の効率性
 第4章 市場の失敗
 第5章 効率と公平
第3部 公共支出の理論
 第6章 公共財と公的に供給される私的財
 第7章 公共選択
 第8章 公的生産と官僚制度
 第9章 外部性と環境問題
第4部 支出計画
 第10章 支出政策の分析
 第11章 費用・便益分析
 第12章 医療
 第13章 国防と技術
 第14章 社会保険
 第15章 福祉計画と所得再分配
 第16章 教育
第5部 租税の理論
 第17章 租税・入門
 第18章 租税の帰着
 第19章 租税と経済効率
 第20章 最適課税
 第21章 資本課税
第6部 アメリカの税制
 第22章 個人所得税
 第23章 法人所得税
 第24章 節税の手引
 第25章 税制改革
第7部 地方財政とマクロ財政政策
 第26章 財政連邦制
 第27章 州・地方政府の租税と支出
 第28章 財政赤字

 政府は、計画をきちんと実現しているだろうか。その経済的役割をより効率的に実現できるだろうか。これが、公共部門の経済学(公共経済学)の中心問題である。(pp.4-5)

 アメリカの経済は、混合経済 mixed economyと呼ばれている。多くの経済活動が私企業によって営まれる一方で、政府によって行なわれる経済活動もある。加えて政府は、さまざまな規制、租税や補助金を通して民間部門の行動を変えることになる。(p.5)

 政府の失敗 1 限られた情報 多くの行動が引き起こす結果は、複雑かつ予想しがたいものである。たとえば政府は、メディケアの導入によって高齢者による医療支出が急増することを予想していなかった。しばしば政府は、計画を実現するうえで必要となる情報を持っていないことがある。また政府が身体障害者に援助をすべきであるということは広く意見の一致がある一方で、働くことができない人たちをフリーライド(ただ乗り)させるような公的支出は行なうべきではないということでも意見の一致を見ている。しかし政府はかぎられた情報しかもっていないために、本当に身体障害者である人と身体障害者になりすましている人とを区別することができないかもしれない(pp.11-12)
 2 民間市場の反応に対するコントロールの限界 政府は経済の結果に対して限られた支配力しか持っていない。
 3 官僚に対する支配力の限界 アメリカでは連邦議会および州・地方議会が法律を作るが、その実行はそれぞれ政府機関に委任され、各機関は管理の時間を使って詳細な規則を作成する。(・・・)多くの場合、議会の意向を実現できなかったのは、意図的なものではなく、議会の意向にあいまいさがあるからである。また、議会の意向を実行しようという十分なインセンティヴが、官僚側に欠けているために問題が発生することもあった。たとえば、ある産業の規制を担当している官僚にとっては、将来その産業へ天下る可能性をも考慮すると、消費者の利益を追求するよりもその産業の利益になることをするほうが、得になるのである。(p.12)
 4 政治過程によって課された制約 政府が実行できるすべての活動が引き起こす結果について完全に知っていたとしても、それらの活動に関して決定を行なう政治過程は、さらに困難をもたらす。たとえば議員は、ますます増加する選挙資金を調達するためにも、特殊利益集団の便益のために働こうとするインセンティヴを持つようになる。一方、選挙民側は、複雑な問題に対して簡単な解決策を求める傾向があり、たとえば貧困のような問題をもたらす複雑な原因を理解することはかなり難しいのである。(p.13)

 人々が「政府」と名づける機関は、なにによって民間機関と区別されるのだろうか。そこには二つの重要な差異が存在する。第一に、民主社会においては公的機関を運用する人は直接選挙で選ばれるか、または選挙の当選者によって任命されるか(または当選者によって任命された人に任命されるか…)である。そうした地位を得る「正統性」は、直接あるいは間接の選挙制度によっているのである。対照的に、ゼネラル・モーターズ社(GM)の経営責任者を持つものはGMの株主によって選ばれ、一方(ロックフェラー財団やフォード財団のような)民間財団の管理責任者は、永続的な理事会によって選出される。
 第二に、政府には民間機関にはない強制力がある。たとば政府には国民に納税を強制する権利を持っている(もしそれにしたがわなければ、財産を押収するか、その人を収監するか、または両方を行うことができる)。また政府は、所有者に適正な補償がなされることを前提とするものであるが、公共目的のために私的財産を獲得する収容力を有している。(pp.17-18)

 100年以前には、社会主義者が政府の支配的な役割を提唱していたのに対して、自由主義経済学者は政府に何の役割をも期待していなかった。現代になり政府の役割が再考され、規制緩和 deregulationと民営化という、二つの方針に示されてきた。

 政府の主要な役割は、経済取引のための法的枠組みを提供することである。加えて経済活動は、次の四つの分野からなる。すなわち(a)財・サービスの生産、(b)民間部門の生産に対する規制と補助、(c)ミサイルから道路清掃のサービスにいたるさまざまな財・サービスの購入、(d)所得再分配である。ここで所得再分配とは、失業保険給付のような移転支払いであり、特定のグループの人々にそれがない場合よりも多く支出できるようにするものである。ある人から他の人へお金を移転するための支出は移転支出 transfer paymentと呼ばれるが、それは財・サービスの供給に対する見返りとしての支出ではない(p.37)。

 社会保険social insuranceは、各個人の受給額が、保険料とみなされる自分自身の掛け金に部分的には依存しているという点で、公的扶助とは異なっている。個人の受給額が個々の掛け金に比例しているかぎりでは、社会保険は政府の「生産活動」と見なされて、再分配活動ではない。しかし一部の人たちが受取額が(保険統計的に見て)掛け金を大きく上回っているために、政府の社会保険計画には再分配的要素が大きく含まれている。(p.46)

 他の誰かの状況を悪化させることなしにはだれの状況も改善することができない資源配分をパレート効率的 Pareto efficientまたパレート最適 pareto optimal と呼ぶ。パレート効率性は、経済学者が一般的に効率性について語るときに念頭においていることである。(・・・)パレート効率性についてコメントしなければならない重要な性質が一つある。それが二つの意味で個人主義的だということである。第一に、それは個人の厚生だけに関連したことであり、異なった個人間の相対的な厚生については触れていない。それは不平等を明示的には取り扱っていない。したがって幸福な人をより豊かにするが貧乏な人は貧しいままというような変化は、パレート改善になる。しかしながら富裕層と貧困層のギャップが拡がることは望ましくないと考える人々もいる。それは、望ましくない社会的緊張を引き起こすと考えるのである。多くの発展途上国は、社会のすべての主要分野が改善される行動経済成長期を経験することが多いが、その期間に富裕層の所得は貧困層よりも早く増加する。このような変化を評価する上で、左端にあらゆる人々の状態が改善しているというだけで十分なのだろうか。この質問に対する答えについて経済学者は意見の一致を見ていない。
 第二に重要なのは、各人が認識している自らの厚生である。これは消費者主権 consumer sovereigntyの一般的原理と一致している。この原理では、各個々人が、自らにとって必要かつ欲しいものが何か、なにが自分にとってもっとも利益になるのか、ということをもっとも正しく判断できると主張される。(pp.70-72)

 厚生経済学の第一定理は、ある状況または条件のもとにおいてだけ経済はパレート効率的であるというものである。しかし、市場がパレート効率的にならない重要な条件が六つある。これらは市場の失敗 market failureと呼ばれ、政府活動に理論的根拠を与える。不完全競争、公共財、外部性、不完備市場、不完全情報、失業その他マクロ的経済要因の撹乱(p.95)。

 市場で供給されないか、されたとしても不十分な量しか供給されない財もある。規模の大きなものとしては国防があり、小規模のものには(ブイのような)航路標識がある。これらは純粋公共財 pure public goodsと呼ばれ、二つの重要な性質を持っている。第一の性質は、もう一人追加的にその便益を受けさせるためにはまったく費用がかからないという性質である。(・・・)第二の性質は、公共財を享受することから個人を排除することが、一般には困難であるかまたは不可能であることである。(p.98)

 ある個人の行動が他の人々の損害を及ぼす場合は負の外部性negative exteranalityと呼ばれる。しかしすべての外部性が負(マイナス)の効果を持つわけではない。ある個人の行動型に便益をもたらす、重要な正の外部性positive externalityの例もいくつかある。

 ある財貨サービスを供給する費用が個人が支払おうとする金額を下回っているにもかかわらず、民間市場によって供給されない場合がある。これが不完備市場 incomplete marketsと呼ばれる市場の失敗である(一方、完備市場では、供給費用が個人の支払おうとする金額を下回る財・サービスはすべて供給される)。

 これまで論じてきた市場の失敗は、互いに独立した問題ではない。情報の問題は市場が存在しない理由、すなわち欠落した市場(存在しない市場)の原因の一部を説明する。また外部性は欠落した市場から生じているとしばしば考えられている。たとえば、魚場の利用に料金が課される−漁業権に市場が存在する−ならば、漁師が過剰に魚を獲りすぎることはないであろう。公共財はしばしば、自分の財の生産から自分以外の人々も同じように便益を受けるという、外部性の極端なケースと見なされる。最近の失業に関する研究の多くは、それを他の市場の失敗の一つと関連付けようとしている。

 上述した市場の失敗をもたらす要因があるときに結果的に経済は、政府による介入がないときには経済的非効率に陥る。しかしたとえ経済がパレート効率的であったとしても、政府介入を求める議論がさらに二つある。第一は所得再分配である。経済がパレート効率的であるということと所得分配の間にはなんの関連もない。競争市場が非常に不平等な所得分配をもたらし、何人かの個人には生活するには不十分な資源をもたらさないかもしれない。政府の最も重要な活動の一つは所得を再分配することである。(p.108)

 このように個人が明らかに本人の最善のためになっていないことを行なっている場合には、政府が介入すべきであると考える人々がいる。必要とされる介入は、たんに情報をもたらすものよりも強い種類でなければならない。シートベルトや初等教育のように、政府が個人に強制的に消費させようとする財はメリット財(価値財)merit goodsと呼ばれる。(pp.108-109)

 (個人間の比較) われわれは、個人が多く消費したときには、その効用は上昇すると仮定している。しかし、効用水準や効用の増加を測定することはできない。社会厚生関数は、個人の効用を意味ある方法で図ることができるだけではなく、さまざまな個人の効用を意味ある方法で比較ができると仮定しているようである。たとえば功利主義的社会厚生関数の場合には、社会のさまざまな構成員の効用を合計する。事実、彼らの効用水準を数値化して意味ある方法で何とか比較できると仮定している。しかし、オレンジ1個をロビンソン・クルーソーからフライデーに移転するとき、フライデーの利得とフライデーの損失の価値をどのように客観的に比較することができるのだろうか。(…)
 多くの経済学者は、こうした個人間の効用比較 interprersonal comparison を意味ある方法で行うことはできないと考えている。私は、弟よりもずっと多い所得を得ているが、彼よりも不幸であるというかもしれない。さらに私は、私に1ドルが与えられたならば、弟が1ドルを追加的に受け取った場合にえる効用増加よりも大きな効用増加をえられるように、非常にうまく所得を支出する方法を知っていると主張するかもしれない。私の主張が間違っている(または正しい)ことは、どのように証明できるのだろうか。この質問に答える方法がないため、経済学者は公正比較を行う科学的根拠はありえないと議論するのである。
 このように公正比較を行う「科学的」根拠は何もないため、科学的分析においては、さまざまな政策の帰結を論じ、誰が得をし誰が損をするかを指摘するだけにとどめて、そこで分析をやめるべきである、と多くの経済学者は考えている。彼らは、経済学者が構成上の判断を行うべき唯一の状況は性悪変化がパレート改善であるときであると考えている。しかし残念なことに、すでに学んだようにほとんどの政策変化はパレート改善ではなく、個人間の厚生比較を行うことなしには経済学者はほとんど何もいえないのである。(pp.129-130)

 (社会厚生関数はどこから導出されるのか) 第二の問題点は、社会厚生関数の性質そのものに関するものである。個人は選好を持っている。すなわち、彼らはリンゴとオレンジのある組み合わせを他の組み合わせよりも好むかどうかを決定することができる。社会は多くの個人から構成されているが、社会自身が選好を持っているわけではない。われわれは各個人の選好を描くことはできる。それでは、社会厚生関数は誰の選好を表しているのであろうか。この質問に対する答えは、独裁者の場合には簡単である。社会厚生関数はその独裁者の選好を表しているのである。しかし民主主義社会の場合はそれに対して簡単な答えは存在しない。そこでは、所得再配分をあまり気にしない人(とくに富裕者層)もいえれば、再配分をもっと重視すべきだと主張する人(とくに貧困者層)もいるかもしれない。(pp.130-131)

 非競合的消費の典型的な例は国防である。政府が外国による攻撃から国を守るために軍事施設を設けたならば、すべての国民が守られることになる。もう一人子供が生まれようとも、またもう一人アメリカに移民が雇用とも国防費は基本的には影響を受けない。これが私的財と大いに異なっている点である。リンとフランの両者がリンゴ・ジュースを飲めるようもう一本ジュースを供給するためには、追加的な資源が必要となる。(・・・) 私的財と公共財を区別するために問うべき第二の問題は、排除性 exclusionの性質に関係している。(多額の費用を支払わないで)公共財の便益を享受させないようにある個人を排除することができるだろうか。たとえば灯台の横の航行中の船は、灯台が提供している便益から排除されない。同様に、国が外国の攻撃から守られているならば、すべての国民がなることになり、ある個人をその便益から排除することは難しい。もし排除が不可能であるならば、価格システムを使用することは不可能になることは明らかである。なぜなら消費者はお金を支払おうというインセンティヴをまったく持たないからである(p.160)

 明らかに、特定の財の割り当てるために価格を用いることができないのならば、その財は私的には供給されそうにない。それがまったく供給されなくなると、政府が責任を持って供給しなければならなくなる。排除可能な公共財が私的に供給されるケースもいくつかある。通常このときには、唯一の大規模な消費者がおり、彼の受ける直接的便益が非常に大きいため、自分だけでそれを供給しても得をするためにである。彼は、自分の行動から便益を受けるフリーライダーがいることを知っているが、どれだけ供給するかを決定するとき自分自身が受ける便益だけに注目し、他の人たちが受ける便益を考慮しないのである。(p.166)

 市場の失敗は、何らかの形態での政府介入の理論的根拠になるが、それだけでは政府生産の根拠にはならない。しかし政府生産はある分野では優位な地位を占めており、政府生産が一般的に用いられている分野もある。たとえば、ほとんど例外なく政府が傭兵に依存することはなかった。ほとんどの国は政府が学校制度を管理運営し、またほとんどすべての国では郵便制度も政府によって運営されている。そして数年前までは、ほとんどの国で政府が電気通信を運営していた。これらの例はすべて二つの共通点を持っている。第一に、これらの多くのケースでは、競争が不可能である。市場が競争的であるときには、効率性がもたらされることを思い起こそう。歴史的に1企業だけが郵便サービスを提供し、また1社だけが電話サービスを提供してきた。政府介入がないときには、1社であれ数社であれ、それらの企業は市場支配力を発揮し、消費者から搾取することができる。それに対して、政府は二つの介入を行なってきた。まず、過去にはほとんどの政府は直接その産業の経営に従事し、電話サービスや電力を供給することを選択してきた。また、財そのものを生産する代わりに、たとえば、価格を管理することによって政府は民間企業を規制し、それらの企業が独占力を行使しないようにしてきた。しかし、近年では、公的政府からの規制のともなう私的生産へと変化が起きてきた。この民営化 privatizationの流れはヨーロッパ諸国と日本で、また(ガス、電力、電気通信などの)公益事業や(鉄道や航空などの)運輸業においてとくに著しかった。(pp.237-238)

政府官僚が自らの利益のために行動し、目的とされている市民の利益のために必ずしも働かないかもしれないという、ニスカネンが注意を促した問題は、プリンシパル・エージェント問題 principal-agent problemという一般的な問題の一例である。プリンシパル・エージェント問題は、ある人が自分の望むことを他人にどのようにやってもらうかという、よく知られた問題である。個々での問題は、市民(すなわちプリンシパル(依頼人)がその雇用者である公務員(すなわちエージェント[代理人])をどのように自分たちの利益のために働かせるか、ということである(民間部門での同様な問題は、株主(プリンシパル)が、彼らの所有している企業の雇用者である経営者や従業員(エージェント)をどのように株主の利益のために働かせるかということである)。(p.256)

 大気汚染と水質汚濁の二つは、第4章「市場の失敗」で論じた市場の失敗のケースの一つであり、経済学で外部性 externalityと呼ばれる、より広範に見られる現象の例である。ある個人または企業型の個人か企業に影響をおよぼす行動を起こすが、そのことに対して後者がお金を払ったりまたは払われなかったりするとき、外部性が生じるといわれる。外部性によって影響を受ける市場では、非効率的な資源配分がもたらされることになる。外部性を規制するために費やされる支出のみならず、生産も適切な水準ではなくなる。たとえば、資源の投入によって汚染水準を減少させようとする企業を考えてみよう。企業がもたらす社会的便益は大きいが、企業がそうしたお金を支出しようとする私的インセンティヴは何もないのである。(p.270)

 民間市場が、政府の介入なしに外部性を処理することができる場合もいくつか存在する。最も簡単な方法は、十分大きな規模の経済単位を形成し、そのためどのような行動のもたらす結果もほとんどがその経済単位内で起こるように外部性を内部化する internalizeことである(p.273)。

 すでに指摘したように、個人が自分たちの行動のもたらすあらゆる影響に対して代金を支払う必要がないときに、外部性は発生する。共有の漁場では漁獲は過剰になるが、それは個人が魚を獲る権利のためにお金を支払う必要がないからである。外部性はしばしば所有権 property rightsを適切に割り当てることによって解決される。所有権とは、ある資産を管理しかつその財産使用の手数料を受け取る権利を、ある特定の個人に割り当てることである。(p.274)

 たとえ所有権が完全に規定されていないときでも、司法制度は外部性からの保護を提供することができる。アメリカの慣習法制度では、一人の当事者が他人の権利を侵害することは認められていないが、ここでいう「権利の侵害」とは、他の人に課されたさまざまな経済的費用を含むものである。暗黙のうちに、裁判所は個人にいくつかの所有権(たとえば、個人がつりのために使用できる水域に対する権利)を与えている。また権利を侵害された人々は、その所有権を執行するために裁判所に頼ることが増えてきた。(p.276)

政府介入が必要とされる理由としてはいくつかある。(・・・)(すべてではないが)多くの外部性は、正常な大気や河川のような公共財の提供にともなっている。特に誰かがその様な財の便益を享受するのを排除するには、非常に費用がかかるかもしれない。(・・・)効率的な解に自発的に達成するという問題は、不完全情報によってより困難になる。(・・・)政府介入のもう一つの理由は、取り引き費用に関してである。個人を団結させるこれらの外部性を内部化するためには、かなりの費用を必要とする。その様な組織のためのサービスを提供することも公共財である。実際上政府はまさに、個人が外部性から被る厚生上の損失を減ずるために設立してきたメカニズムであると見なすことができるかもしれない。取り引き費用は、司法手続きを通じて外部性を処理する場合の主たる不利益な点である。多くの外部性については、被る損失額が訴訟をするには小さすぎる。外部性を生じさせる人は、訴訟には費用がかかることを知っているため、ちょうど被害者が訴訟をしたほうが得になると思う直前まで外部性を生じさせようとするかもしれない。(p.280)

 たとえば、企業に大気や河川の汚染を決して認めるべきでないとしばしば主張される。経済学では一般にその様な極端な意見は意味がないとされる。実際には、汚染(または他の負の外部性)に結びついた社会的費用があるが、その費用は無限ではなく有限である。人々は、空気や水の汚れた地域社会に住まなければならないならば、保証金としていくらのお金を受け取りたいと思うだろう。したがってわれわれは、ちょうど他のどのような経済活動についてもその費用と便益を比較考慮しなければならないのと同様に、汚染に結びついた費用と便益を比較考慮しなければならない。市場にかかわる問題は、それが汚染をもたらすということではない。実際、社会的に効率的な汚染基準が存在するのである。問題は、企業が自ら及ぼす外部性(この場合は汚染)による社会的費用を考慮に入れておらず、その結果汚染水準があまりにも高くなりそうであるということである。政府の役割は、民間部門が社会的に効率的な汚染水準を達成するのを助け、個人や企業に彼らの行動が他者に及ぼす効果を考慮に入れるように行動させることである。(pp.281-282)

人命の代替的な評価方法 1 建設的な方法:個人が、生きているならばどれだけ稼いだであろうか。2:顕示選好方法 個人は、死亡確率の増加に対して、より危険な職業の市場賃金に反映されるように、どれだけ追加的な所得保障を必要とするのだろうか。(p.358)

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◆井堀利宏 (1998) 『公共経済学』, 新世社


1 市場と政府
2 国民と投票
3 政党と政策
4 規制
5 外部性
6 公共財
7 公共支出の評価
8 課税
9 財政赤字と公債
10 年金
11 再分配政策

 外部性とは、ある経済主体の活動が市場を通さなくて、別の経済主体の環境(家計であれば効用関数、企業であれば生産あるいは費用関数)に直接影響を与えることである。外部性のうち、他の経済主体に悪い影響を与える外部性を外部不経済と呼び、良い影響を与える外部性を外部経済と呼んでいる。経済活動における外部性は、市場が失敗する代表的な例である。(・・・)企業が生産する際には、x財の生産に要するその企業内の私的なコストは考慮するが、近隣の会計に迷惑をかけているという社会的なコストeは考慮しない。そのために、社会的な最適水準からみると、x財は過大に生産される。これが「市場の失敗」である。(pp.90-92)

 その1つは、関連する2つの経済主体(企業と家計)を合併する方法である。これは、外部経済の内部化として理論的には最も簡単な方法である。しかし、現実的な解決方法としては、合併は容易でない。そこで、それぞれの経済主体が独自性を維持しつつ外部経済を内部化する方法として、古くから主張されてきたのが、政府による外部効果を相殺させる課税(=ピグー課税)である。(・・・) ピグー課税は、外部不経済を出す企業に対して、その外部効果を課税するという形でコストとして認識させることで、市場機構のもとでも最適な資源配分を実現させるものである。ただし、ピグー課税は資源配分の効率性を達成する手段であり、所得配分については何も議論していない。政府はピグー課税にによって税収を確保できるが、その使い道についてはなんら限定されない。たとえば、外部不経済を負っている近隣の家計のためにその税収を使用しないで、当該企業に返還する場合でも、資源配分の効率性は実現される。(p.93-94)

 ピグー課税の政策上の大きな問題点は、適切な税金、補助金の大きさを決定するために、公害発生企業の費用構造や公害の発生による被害状況を政府が完全に認識できるかどうかである。こうした完全情報を政府が保有する場合には、ピグー課税はきわめて有効である。(p.95)

 ピグーの課税では、政府が政策的に介入することで、公害の過大な発生による市場の失敗という弊害が是正された。これに対して、政府が介入しなくて民間の経済主体の自主性に任せておくだけで、ある種の外部性については、市場の失敗が自然に解決できる可能性を強調したのが、コースである。コースは、「交渉による利益が存在する限り、当事者間での自発的交渉が行なわれている動機が存在し、その結果、交渉の利益が消滅するまで資源配分が変更され、最終的には市場の失敗も解決される」ことを明らかにした。さらに、コースの定理は、「当事者間で交渉に経費がかからなければ、どちらに法的な権利を配分しても、当事者間での自発的な交渉は同じ資源配分の状況をもたらし、しかもそれは効率的になる」ことを主張する。市場機構に問題があっても、当事者間の自発的交渉という新しい点を考慮することで、最適な資源配分が達成されること示したのは、理論的にも政策的にも貴重な貢献である。(pp.97-98)

 公害を抑制するひとつの有効な手段は、公害の排出総額を規制する手段とともに、その汚染権(排出許可証)を企業間、あるいは(地球環境問題の場合には)国際間で売買することを法的に認めることである。排出許可商取引制度とも呼ばれている。この制度は、理論的には総量規制課徴金制度を併用したものと見なすことができる。アメリカでは実際に大気保全のためにいくつかの州で実施されている。この制度では、初期の汚染権を企業間(あるいは国際間)でどのように配分するかという問題がある。多くの汚染量を出す権利が配分されれば、それだけ有利であるし、自らが汚染をあまり出さない場合には、この権利を市場価格で他の企業(あるいは外国)に売却することもできる。逆に、当初の排出許可量では不足すると考えられる企業は、市場価格で追加排出許可の権利を購入する。(pp.100-101)

 デポジット制とピグー課税を比較してみよう。デポジット制は、ごみを出すという外部不経済をともなう缶や瓶の消費に対して、デポジット分だけの課税をするとともに、空き缶や空き瓶の回収という外部不経済の減少に対して、デポジット分だけの補助金を出している。ピグー的な補助金と税金を組み合わせて、政府の財政支出を均等させている政策と考えることができよう。(p.104)

 消費における排除不可能性と非競合性は、公共財を特徴付ける2つの大きな性質である。完全にこの2つの性質が並立する公共財は、純粋公共財と呼ばれる。こうした公共財は、国民すべてが等量で消費している。一国全体の防衛や治安、防災、伝染病などの権益はその例であろう。(pp.108-109)

政府が公共財の提供に大きな役割を果たすリンダール方式を説明しよう。これは、私的財と同様に、受益者負担の原則を公共財にも適用するものであり、公共財の評価の高い個人に、より大きな負担を課す。この方式のもとでは、資源配分に効率性が保障されるので、多くの関心を集めてきた。(p.110)

 純粋公共財と私的財との中間的な性質をもつ財が、準公共財である。具体例として、街灯を想定しよう。この経済に複数の人々がいるとし、街灯はいずれかの個人の家の前に設置されるものとする。設置された家のまでの明るさを1とすると、この街灯が他人の家に及ぼす明るさが問題となる。これが0であれば、すなわち、他人の家になんら便益を及ぼさない場合には、街灯は私的財である。逆に、これが1であれば、すなわち、どこの家にも同じ明るさを及ぼす場合には、街灯は純粋公共財である。さらに、これが0と1とのあいだであれば、すなわち、他人の家に多少の明るさはおよぶすけれども、自らの享受する明るさほどではない場合には、この街灯は準公共財とみなされる。(p.121)

 Hの人からどうしても税金を取るためには、平均所得が減少すれば、それに応じて税負担も調整して、つねに平均所得以上の所得のある人から税金を徴収するしかない。しかし、何も稼がなくても、あるいは、いくら稼いでも結果としては同じ平均所得しか手元に残らないのであれば、だれも稼ぐ意欲を失う。モラル・ハザードの現象である。すべての人の所得がゼロになって、所得格差がない悪平等を実現することになる。(pp.215-216)

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◆西垣泰幸 編 坂本真子・朝日幸代・中村玲子・藤沢宜広 (2003) 『公共経済学入門』, 八千代出版


第1章 公共部門の現状と課題
第2章 市場の効率性と市場の失敗
第3章 公共財の理論と現実
第4章 外部性と環境政策
第5章 公共料金と規制緩和
第6章 所得分配と租税、社会保障政策
第7章 公共選択と政治過程
第8章 政府の失敗
第9章 地方分権とニュー・パブリック・マネジメント

(パレート最適) 最も望ましい財の交換―限られた数の生産物の配分の仕方といってよい―などというものは実現できるのだろうか。そのことに対する答えは、イタリアの経済学者パレート(V. Paraeto)が社会的公正の尺度として、「他人の効用を減らすことなく、誰の効用も増加させることができないような資源の生産物間の配分および生産物の個人間の配分」が最適な(効率的な)資源配分であるとした。これはパレート最適あるいはパレート効率の基準といわれる。(p.36)

(市場の失敗) 完全競争市場が、成立する条件として、次の4つをあげた。@売り手と買い手が多数参入し(プライス・テイカー)、A取り引きされる財が同質で、B市場のすべての参加者が完全な情報を持ち、Cその市場への参入と退出が自由である。このような市場を、完全競争市場と定義したのである。しかし、現実の経済は、新たに参入することが非常に困難ないくつもの独占的・寡占的産業が存在し、企業は他社の製品との差別化を図ることを目標に掲げ、不確実で非対称な情報のもとで、取り引きが行われている。このようにさまざまな理由によって、完全競争市場が成立するための条件が満たされていないために、非効率な資源配分になってしまう状況を、市場の失敗と呼ぶ。この市場の失敗を解決する役割を担うのが政府であり、市場の失敗が起こるからこそ、公共政策、公共経済が必要となるのである。(p.40)

(公共財) 公共財は、市場自体が設定できず、したがってパレート最適条件が成立しえないことから、代表的な市場の失敗の例と考えられている。(・・・)公共財とは、公共の機関(広い意味での政府)が供給する財であると考えられがちであるが、厳密にはそうではない。たとえば、私立学校や私立病院などは政府によって供給された財ではないが、公立学校や病院と同じような性質を持つ公共財と考えられる。その性質とは、非排除性(排除不可能性)と非競合性である。(p.45)

 以上のような非排除性と非競合性という2つの性質を完全に備え、すべての人が等量消費することが可能な財を純粋公共財と呼ぶ。古くから言われている例としては灯台の明かり、防衛、免疫、また最近では環境保護、オゾン層の保護なども純粋公共財の例と考えられている。しかし、2つの性質を完全でないとしても、いくらか備えている財も多く存在する。それらは準公共財と呼ばれ、公共財と私的財の中間にあたる財である。(p.46)

 政府や地方自治体が民間企業と大きく異なる点は、民間企業の目的は利潤の追求であるが、政府や地方自治体は国民経済・社会全体に貢献することを目的としている。そのため、政府や地方自治体は本来の目的を踏まえて自ら公共財の供給を決定する必要がある。この決定を可能にする明確な方法を挙げることは難しいが、現実的な指針として用いられているものに費用便益分析がある。(p.54)

 ここでの公共資本と民間資本は資本を整備した主体と整備した資本の所有権を持つ主体という観点で区別することができる。また、利潤の追求や私生活向上のための投資だけを行なうと、社会の必要性からみて著しく不足したり不均等になったりする資本が存在することになる。このような資本こそが社会資本として政府や地方自治体が介入することによって供給されるのである。(p.59)

 (外部性) 実際には公共財のように誰もがその財を利用できる一方で、利用する全ての人に利用料金を徴収することが困難な場合も存在する。そのとき、他人の支払う費用に依存するために需要が増大することから過少供給になる可能性もある。また、私たちの日常生活のなかにはいままで価格評価されていない環境などのように市場で取引されない財が存在する。これらは、実際消費者の財・サービスへの先行や企業の生産活動に影響を及ぼすこともある。この状況が外部性の存在する場合である。このときは完全競争市場が成立しないので、市場による資源配分がパレート最適にはならない。そのために市場の失敗といわれている。(p.65)

 外部性における効果、つまり外部効果には金銭的外部効果技術的外部効果の2つがある。技術的外部効果は以下の例で示すことができる。たとえば自動車の利用を減らした場合、排気ガスの排出量を減少させたり、騒音を減らしたりすることにつながる。また道路における混雑減少を緩和するように、地域経済の便益をもたらすことにも貢献する。この場合、自動車利用の現象による効果は、実際に市場では取引されずに、地域住民に直接影響を与えることになる。このようなケースが技術的外部効果である。
 金銭的な外部効果は地域を開発することによって、土地の付加価値の上昇をもたらすような経済主体の行動が、市場を経由して他の経済主体に影響を与える効果を示す。この場合、土地の所有者の効率水準は高くなる。金銭的外部効果は市場を経由し、価格に反映されるので市場の失敗を起こすことはないのである。(p.67)

 (コースの定理) 政府の介入なしで、民間の経済主体に任せることによって、外部性における市場の失敗を解決することができることを示したのがコース(R. H. Coase)である。コースは外部不経済を発生させる対象に対して所有権と損害賠償責任ルールの2つが適切に設定され、交渉のための取り引き費用が発生しなければ、どちらに法的権利が与えられようとも当事者間の自発的交渉で同じ資源配分がもたらされ、効率性が実現されるとしている。これがコースの定理である。(pp.70-71)

 コースの定理における適用のメリットは、政府が法的な権利を明確に規定する以外は政府の役割を最小限にしていること、そして法的ルールの重要性を明確にしたことである。しかしその一方で、コースの定理の適用可能性はきわめて範囲が限定されているため現実的でないと指摘される場合もある。それは、交渉が円滑に進むとはかぎらないという点である。たとえば、被害者サイドの意見を統一できなければ交渉では解決されない。また貧困な者から富裕な者へ賠償金額が支払われるケースも生じるなど、交渉の過程で実施される補償支払いにおいて所得の不平等が生じる場合もある。つまり所得の移転によって生じる所得効果が資源配分をゆがめるのである。また、問題の解決が交渉にゆだねられることから当事者が自己に有利となる戦略的な行動を行なう可能性もある。(p.73)

 当事者相互の交渉を成立させることによって社会的に最適な生産量を実現することができる一方で、当事者の数が多い場合や膨大な交渉費用を必要とする場合は自発的に交渉を成立することができない。このようなときには政府による介入によって解決することになる。ここでは、直接規制と課税と補助金による政策、排出権取引市場について解説する。
達成すべき最適汚染排出量がわかっているケースはそれ以上の排出を法律で禁止して、違反者には厳しい罰則を与える法律を用いる方策がある。これが直接規制である。直接規制の問題点はあらかじめ最適汚染排出量を知っている必要があり、そのために限界費用や限界被害に対する情報が必要になる。また汚染源が複数ある場合に、排出量の割合ですべての汚染源を均等にし、汚染物質の処理の限界費用も均等にする必要がある。(p.75)

 政府が税を用いてこの外部効果を相殺させる効果を示したのがピグー(A. C. Pigou)であり、その税をピグー税という。これは企業に対して外部費用をコストと認識させることによって、市場の下で最適な生産水準を効率的に達成することを目的にしている。(p.76)

 生産活動の中で環境汚染物質を作り出す財は、環境汚染物質というマイナスの財であると本来生産目的であった財の2つを結合した財であると考える。排出権取引とは、環境汚染物質であるマイナスの財に対して市場をつくり、外部性を市場メカニズムに取り入れることである。その市場は環境汚染物質を排出する権利を取引する市場であるため排出権取引市場と呼ばれる。(p.79)

 政府の失敗(pp.153-155) 不完全情報 政府が必要な情報をすべて持つことは不可能であり、もし可能であったとしても情報の収集には膨大な費用がかかる。政府が公的サービスの供給にともなう費用を熟知していなければ費用最小化を図ることはできないし、消費者の選好を正確に把握していなければ公的なサービスの最適供給を行なう基準を持たないことになる。
 インセンティヴ 政府の実行する政策に対して人々がどのように反応し、それが社会に及ぼす影響を政府が正確に予想できない。
 公共選択の需要要因:利益集団 利益集団は、自分たちの既得権益を守るためや自分たちに有利な政策を実行させるため、政党に組織票や政治資金を提供したり、官僚に天下り先を用意するといった行動をとる。利益集団の行動が政府の規模や政策に大きな影響をもたらす場合には、政府の実行する政策は厚生(総余剰)を最大化するよりも、特定の利益集団に利益をもたらすような方向に歪むかもしれない。
 公共選択の供給要因:官僚制度 公共選択論では、これまで何度か触れてきたように、官僚についても合理的で利己的な政治主体であるという想定をおく。

 もともとレントとは、地主に支払われる地代を意味する。土地や免許など、その供給量外制限されている財・サービスについては、企業の参入がその希少性によって制限されているために競争メカニズムが働かず、供給者には超過利潤が発生する。この超過利潤のことを一般にレントといい、このレントの獲得を目指して政治過程に働きかけることをレントシーキングという。とくに、政治による規制など何らかの参入障壁の存在によって独占企業にもたらされるレントを独占レントという。(p.157)

 ニスカネンは官僚が予算規模最大化行動をとると想定した。ただ、彼自身が指摘しているように、官僚が自らの利益のみを追求しているわけではないということは強調に値する。彼らが公のために自らが信じる行動をとることも多い。ただ、業績は測定することが難しく、政策目標は複数にわたり、企業のように技術関係が明確ではないため、自らの裁量権を拡大し、不要な危険を避けたいと考えているのである。(p.165)

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◆岸本哲也 (1998) 『新版 公共経済学』, 有斐閣


第1章 自由市場経済の帰結
第2章 市場の失敗
第3章 公共財
第4章 外部効果
第5章 費用逓減産業
第6章 所得分配
第7章 政治過程と効率性
第8章 政府の失敗

 しかし、この命題[パレート最適]が成り立つためには、非常に厳しい条件が要る。その条件が現実の経済では満たされる見込みが小さいために、放任された自由市場経済が必ずしも効率性(パレート最適)を達成できないことになる。これが「市場の失敗」(marketi failure)と呼ばれるものである。効率性を修復するためには、自由市場経済の資源配分に何らかの変更あるいは補足をすることが必要となる。政府による自由市場経済への介入が正当化され、ここに混合経済に対する理論的根拠が与えられることになる。(p.A)

 前章では、自由市場経済における市場均衡において決まる資源配分がパレート最適であることを見た。しかし、そのためには3つの条件が満たされていなければならない。完全情報、広範生、完全競争の各条件がそれであった。本章では、それらの条件に詳しく立ち入り、それが自由市場経済において満たされてる可能性があるか否かを見る。それが満たされていないことが証明すれば、パレート最適は達成されず、ここに狭義の市場の失敗が確認される。更に、自由市場経済のパフォーマンスを評価するに当たって考慮されるいま1つの視点として、分配の公平性についても触れる。(p.13)

 ある主体が自己の最大化を求めて起こした行動が、市場における財の需給、そして価格形成に影響を及ぼすにとどまらず、直接的に他の主体の状況に影響を及ぼすことがある。影響を受ける側から見て望ましいものを「外部経済」、望ましくないものを「外部不経済」と呼ぶ。
 外部不経済の典型である公害を例に取ろう。重油を燃やして電力を起こしてそれを売る企業を想定する。企業は、重油や電力の市場において取引することによって、市場における財の需給量を変化させ、他の主体の状態に影響を及ぼす。それと同時に、重油を燃やしたときに生じる有毒ガスによって、周辺の企業や家計に被害を及ぼす。前者の影響は市場の中に取り込まれて調整され、第1章で見たように、パレート最適を達するのに妨げとならない。ところが、後者は市場に取りこまれないのである。それはなぜだろうか。取引を成立するための費用が妨げるのである。有毒ガスによる加害・被害の当事者の数が少なく、取引の対象となる有毒ガス排出量とそれによる被害が容易に測定されるなら、有毒ガス排出について、何らかの対価支払いを伴う交渉が成立する場合がある。この場合には、問題になっている有毒ガスによる被害者は、市場取引の中に取り込まれたと見なすことができる。
 しかし、多くの外部効果、特に大規模な公害においては、このような取引を成立させることは非常に難しい。汚染者と被害者の確定、被害の程度の確定など技術的な問題のために取引が妨げられる場合が多くあるが、それが解決されてもなお困難は残る。それは当事者が多いことによる交渉費用の問題である。(pp.17-18)

 自由市場経済においては、経済主体が市場価格に基づく取引によって財を調達して消費や生産活動を行なっている。それらの活動は必然的に他の主体に影響をおよぼすその影響の主要な部分は市場における財の需給を通しての影響であり、他の部分は市場を通さずに及ぶ影響である。前者は金銭的外部効果、後者は技術的外部効果と呼ばれる。また、影響を受ける主体から見て望ましいものを「外部経済」、望ましくないものを「外部不経済」と呼ぶ。(p.47)

 しかし、生産活動は市場での取引当事者の範囲を超えてその影響を及ぼす場合がある。生産活動の結果として大気汚染、水質汚染、騒音、振動、悪臭などが生じて、それについては市場価格にもとづく対価の授受が行われない場合がある。これが技術的外部不経済である。逆に、近隣農家が都市周辺に緑の多い田園の光景を残して、周辺の住宅地に住む人に好ましい影響を与える場合がある。農家の生産する野菜は市場で価格を通して取引されるが、緑の景観が与える快適さについては対価の授受は行われず、ここに技術的外部経済が生じているのである。(p.48)

 外部不経済があっても、当事者の数が比較的少なくて、交渉費用が(得られる利益に比べて)無視できるほどに小さい場合には、当事者間での交渉によって外部効果を調整し、パレート最適を達成できる可能性がある。この場合に政府がするべきことは、資源配分に対す私的決定に直接仲介することではなく、ルールを確定することにとどまる。このような状況において、コース(Coase [1960])は次のような命題が成立すると主張した。コースの定理 交渉費用が無視できるほど小さければ、汚染者権利、被害者権利のいずれのルールの下でも、当事者間交渉の結果パレート最適達成され、しかも、所得の大きさにかかわる差異が無視できるのなら、どちらのルールのもとでも同じ解決が得られる。(p.52)

 現実においては、一般的に当事者間交渉の費用は高く、したがって、裁判や政府規制によって外部不経済が調整されることが多いので、裁判や政府規制がよりよい結果を生むように設計されることが重要になる(p.57)。

 一般に、自由市場経済において公平性が達成されるという期待は、効率性が達成されるという期待ほどには大きくはない。それで、狭義の市場の失敗に比べて、所得分配に関する市場の失敗は自由市場経済のパフォーマンス評価へのより弱い減点を与えるにとどまる。たとえば、所得均等分配が最も「公平」な分配であるという価値基準を持ってみる限りは、自由市場経済は明らかにそれを満たさないので、直ちに「失敗」が生じることになるが、しかし、この種の議論は特定の強い価値判断に基づいているために、自由市場経済の欠陥に対する非常に弱い指摘にとどまる。(p.117)

政府の失敗 有権者の情報不足は、情報を得ることの便益と費用を比較した結果選び取られたものなので、それは「合理的無知」(rational ignorance)と呼ばれている。合理的無知を遂行する有権者は、自己の厚生にとって重大な影響をおよぼすと思える問題については十分な情報収集を行ない、そうでない問題については不完全な情報のままに決断する。こうして、不完全情報に基づく行動から厚生損失はそれほど大きなものではないと予想される。(pp.174-175)

 企業のアナロジーでいえば、50%以上のシェアをとらなければ自己の商品を売って利潤を獲得することができないということになる。そうであれば、50%未満のシェアにとどまっている政党が50%を越すシェアを持つと協調してシェアを固定することを選ぶはずがない。ただ1つ協調が生じるのは、ある少数党が少数党と組んで50%を越える議席を目指すというものであるが、もちろんこの提携は、それらすべての間で提示する政策に関して協調が成立することはないという主張に根拠が与えられる。こうして、有権者からより多くの票を得ることができる政策が存在する限り、政党はそれを提示するという想定は十分に正当化される。(p.177)

 利益団体は、政党に対して無視できないほどの確実な票や政治資金を提供するのと引き換えに、共通利益を促進する特定の政策を支持することを要求する。さらに、つぎの5で扱う官僚に対しても、何らかの情報や役得と引き換えに、その様な政策実現の促進を要求することもある。なお、利益集団という用語以外に、利益団体、圧力団体という用語が使われることもある。(p.184)

 放任された自由市場経済が望ましいとされる根拠に2つのものがある。1つはそこにおいて実現する資源配分が効率的(パレート最適)であるというものであり、いま1つはそこに生じる所得分配が各人による生産への貢献に応じた分配という意味で公平であるというものである。
 第1の効率性に関する根拠は公共財、外部効果、費用逓減産業の存在によって崩される。ここに狭義の市場の失敗が生じる。阻害された効率性を回復するためには、政府による適切な政策が必要になるのであるが、それらの政策が実現するためには政治過程を通過しなければならない。官僚の介在に起因する障害を除けば、基本的に政治過程の帰結は効率的である。政治過程による効率性の修復についてはかなり楽観的になれる根拠が与えられているのである。ただし、それらの修復策を導入するに際して、市場経済における強者が政治における強者と一致して、効率性をもたらす幾多の修復策の中でも、強者に有利なものが選べるという意味での不公平が生じる傾向がある。
 第2の根拠である分配の公平性については、それが達成されるためには競争の完全性、生産要素の獲得の機会均等などの条件が満たされなければならないが、後者については自由市場経済において満たされる傾向はない。ここに分配に関する市場の失敗が生じる。それを修復するためにはふたたび政府による政策が必要になるが、教育機会均等化の一部(公的に供給される初等中学教育)については政治過程を通過することが期待されるものの、資産の無償の引渡しによる生産要素獲得機会の不均等を除くような政策が政治過程から生み出されることは望めない。分配の公平性に関する市場の失敗の修復については、政府に多くを期待することはできないのである。
自由市場経済と代議制民主主義を組み合わせたシステムは効率性の達成については比較適用パフォーマンスを示し、分配さえも効率的に奉仕するような形になっている一方、分配の公平性については高い評価を与えられるものではないというわけである。(pp.205-206)

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◆坂井昭夫 (1980) 『公共経済学批判』, 中央経済社


 第1章 本書の課題と構成
第T部 公共経済学登場の背景
 第2章 新古典派理論の虚構
 第3章 新古典派理論の破綻と公共経済学の誕生
 第4章 公共経済学の2つの潮流
第U部 公共経済学の基本的性格
 第5章 公共経済学の基本的視座に見る一面性
 第6章 外部効果論の新しい動向
 第7章 公共財理論の論理構造
第V部 公共経済学の展開
 第8章 公共経済学による費用・便益分析、PPBSの援用
 第9章 公共経済学の対象領域の拡張
 第10章 公共経済学とシビル・ミニマム
第W部 公共経済学の財政・経済政策
 第11章 「ライフサイクル計画」の本質
 第12章 公共経済性悪の概観
 第13章 公共経済学と「小さな政府」

 完全競争市場の存在を仮定したとしても(この想定自体がおそらく現実にそぐわないのであるが)最適資源配分が必ずしも達成されるとはかぎらない、市場機構がうまく作動しない問題領域が残る―公害、過密・過疎、住宅問題、医療問題等の噴出は、正統派の近代経済学者達にこの意味での市場経済の限界を痛切に認識させずにはおかなかった。(p.35)

 ピグーは、こうした市場の失敗に注目して、その元凶をなす外部効果(外部経済の事例としては、灯台や天気予報、下流域を水害から守る上流産地の植林、等があげられている)を政府の課税や補助金によって解決する考えを明らかにしたのだった(p.37)

 ちなみに、マーシャルは、個々の企業の効率の改善ではなしに産業全般の発展にもとづく生産規模の拡大に伴う生産費の節減、具体的には交通・輸送機関の発展によってもたらされる経費節減、特定企業の発展に資する技術や知識の発展等を外部経済と呼び、その租税もしくは補助金を通じる調整政策のあり方を定式化しようと努めたのである。結論的にいえば、公共経済学にあっては、このマーシャルの指摘した外部効果が「金銭的外部効果」(「技術的外部効果」=ある経済活動が本来その活動とは無関係の第三者に市場取引を経ることなく直接かつ付随的に影響を与える現象)と区別され、市場の内在的欠陥とは見なしがたいとの理由で積極的な究明対象からはずされてしまうことになる。いわば、外部効果論が技術的外部効果論に純化されるわけである。(p.67)

 金銭的外部経済の顕著な事例は大都市や工場地帯における集積の利益であるし、技術的外部不経済の筆頭には公害や都市問題をあげられようが、この両者の内的関連を度外視して後者だけを取り上げるのが適切かどうか、答えは1つである。かりにそうした扱いがなされるとすれば、たとえば公害は、生産に直接寄与しない経費を節約しての資本の強蓄積という背後関係から解き放たれ、社会的に克服されなければならない社会的害悪としてのみ描かれるのであるが(公害を「マイナスの公共財」とみる見方が最終的な到達点である)、それこそが前章で述べた財の属性の見地から市場の失敗を掴む立場に他ならないことは、念押しするまでもなく明らかであろう(p.68)

 市場化によって外部効果を処理しようとするうえの見解に関して一言すれば、それは、外部効果それ自体を根絶しようとするものではなく、その存在を追認した上での対症療法を説いているにすぎない。しかも、そのモデルでは、当事者双方の交渉力の対等性が暗黙の前提となっている。したがって、そうした主張が無批判に外部不経済に(それも当事者間の交渉力の差異を不問に付して)適用されれば、公害企業の過小な保証金支払いを免罪符として公害を流し続ける行為でさえも正当化されることになってしまいかねない。補償金による被害者の救済は、確かに現に発生している公害問題の解決にとって重要であるが、それが新たな公害を抑制する効力を持つかどうかは疑問であるし、前者にしても当事者間の交渉にすべて委ねてよいわけではなく、少なくとも人間の生存と生活の権利を保障する法律の制定と司法権の活用までをも展望するような交渉ルールの設定についての提起が同時になされないかぎり、強者の利害が優先する結果を避けるのは難しかろう。(pp.71-72)

 若干補足しておくと、公共経済学流の理解では、外部不経済の発生者ないし受け取り手のいずれが補償をなうべきか、は環境権が誰に帰属するかに依存する。環境権が住民のものであるとすれば公害企業が補償の義務を負うし、逆に環境権が企業に帰属する場合には住民の側が補償を行わなければならない、とみなされるのであるが(後者が優先するのは前段の通り)、これほどあからさまな強盗の論理はそうざらにはみあたらない。そもそも公害が社会問題化したのは、企業が剰余価値を生む直接的生産過程以外の部面で必要となる経費を空費とみなして節減してきた結果であり(外部不経済を出すことが個別資本の利益に適っていたのであり、市場の失敗はその意味では「市場の成功」の証しなのである)、企業の環境汚染によって住民の環境権が奪われているといった現実に直面し足ればこそ、住民の生命と生活を守る権利概念として環境権の思想が生まれたのであった。(p.72)

 加えて、ほとんどの財・サービスは、その性質とは無関係に供給形態を決定されうる、という事情がある。米は純粋私的財であるが、食管制度を通じて供給される場合にはその性質を失う。下駄にしても旅館の共同下駄になると純粋私的財とはちがってくる。つまり、財を供給する制度によって財の性質が規定される側面がある、制度というサービスが公共財の性質を多く含んでいる、というわけで、これは制度的側面を捨象した対照的な公共財定義の有効性を揺るがす力となる。(p.89)

 ここで言う第2の種類の定義とは、ごく通俗的に「公共的に供給される財・サービスを公共財と規定する」というだけの内容であり、その立場からすると、財の属性を基準とする第1の種類の定義は「公共財候補」の規定だ、という扱いになる。また、第2の定義では、「財そのものの物理的性質が背後にあるとはいえ、その財の供給を”公共的”に行うほうが望ましいとする社会的な価値判断が公共財を公共財たらしめる十分条件」であって、純粋公共財とは別にして準公共財の範囲は国と時代により多種多様にならざるをえない、との理解になる。(p.90)

 所得配分のいかんが公共財の最適供給水準を左右するものである以上、公共経済学が現実的な資源配分政策を立案するところまで行き着こうとする場合には、好むと好まざるとにかかわらず所得分配点の特定(これは何らかの厚生基準の定位に依存する)に迫られることにならざるをえないのである。むろん、外部効果の処理策にしても同じであり、たとえば外部不経済の市場化が問題になる場合に加害者と被害者のどちらが補償を行うのか、また国家が外部不経済の内部化を期するさいに課税と補助金のいずれを用いるのか、その選択は配分の厚生についての明示的な価値判断の導入を待たなければならない。(p.118)

 政府欠陥の究明は、その欠陥の是正策の検討へとつながるのではない。そうではなくて、政府欠陥と市場欠陥を天秤にかけて我慢できる方をとれ、というのが政府欠陥論の本旨なのである。かりに市場欠陥のほうが非効率の度合いが少ないとすれば、当該領域についての政府活動の正当性は否認される。政治過程の改革へと向かうべき道が市場への回帰に力づくで捻じ曲げられる―現存政治機構の容認と市場機構への執着、公共経済学の本性の発露と評すべきであろう。(p.129)

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◆田中廣滋・御船洋・横山彰・飯島大邦 (1998) 『公共経済学 エッセンシャル経済学シリーズ』, 中央経済社


第T部 市場の失敗
 第1章 価格機構と資源配分
 第2章 価格機構の不完全性
 第3章 外部性
 第4章 公共財の理論
第U部 政府の適正化行動
 第5章 公共部門の範囲
 第6章 最適課税と公共料金
 第7章 公債と資源配分
第V部 政府の失敗
 第8章 投票と集合的意思決定
 第9章 代議制民主主義の経済理論
 第10章 官僚制
第W部 応用公共経済学
 第11章 都市の公共政策
 第12章 地球環境と温暖化防止
 第13章 規制と規制緩和

 このように市場機構が良好に機能しない場合は「市場の失敗」(market failure)と呼ばれる。市場の失敗が発生しないときには、政府の役割が重要になる。公共経済学の第1の課題は、市場の失敗に対応する適正の政策手段を明示することにある。(・・・)市場の失敗の例として次の3つの例が挙げられる。第一に、成案者や消費者などの経済主体の行動が、市場を経由しないで、他の主体の効用や生産の水準に影響を及ぼすとき、外部性(externalities)が存在するといわれる。特に、外部性は、影響を受ける主体にとってその効果が望ましければ、外部経済(external economies)、望ましくなければ、外部不経済(external diseconomies)と呼ばれる。外部不経済あるいは外部不経済が発生する生産・消費活動においては、市場機構がうまく機能しないので、その活動の結果が社会的にみて最適な水準に達するという保障はないであろう。(・・・)第2に、生産規模に関する収穫逓増(increasing returns to scale)が生じる産業がある。この産業においては、完全競争の条件が満たされて、企業の供給水準に関わらず価格が一定であれば、ある企業の生産が拡大するにつれ、平均費用が逓減し、その企業の利潤が増大する。この利潤を求めて、企業は生産を拡大し続け、結果として、完全競争とは相反する独占的供給の状態が発生する。結果的には完全競争の条件が成立しないので、市場機構において効率的な資源配分は達成されない可能性がある。(・・・)第三に、天候によって左右される農作物の生育や夏の海水浴などのように、不確実性が生じる生産や消費活動が存在する。あるいは、完全競争の条件として、生産・消費活動の各主体は完全な情報を知ることが要求されるが、現実には、各消費者が商品に関して完全な情報を持ってマーケットでショッピングをするとは考えにくい。不確実性や情報の完全性などの市場における不完全性が存在するとき、市場機構は良好に機能しないおそれがあるが・・・(pp.6-7)

(パレート最適) 効用における個人間比較の可能性は直接的に観察不可能であり、検証不可能な価値判断であり、このような価値判断は不必要である。功利主義的な厚生評価に代わって、個人間の効用比較を回避する基準としてパレート原理(Pareto Principle)が用いられる。ある資源配分に関する変更において、他のどんな個人の効用を悪化させることなしに、ある個人の効用を増すことができるならば、その変化はパレート原理に基づいて望ましいと判定される。もちろん、このパレート原理は、次のような場合には何の判定も下せないことは明らかである。ある変化にともない、ある多くの個人の状態が改善される一方で、社会の一部には、その変化によっておかれる状態が悪化する個人が含まれる。このパレート原理に従ってもっとも望ましい資源配分はパレート最適(Pareto optimal)な配分といわれるが、より厳密には、次のように定義される。「パレート最適な資源配分においては、他のいかなる個人の状態も悪化させることなしには、ある個人の状態が改善されることはない。(p.20)

(外部性) このような理論的な前提に反して、日当たりや高速道路をはじめとして、現実には、多くの外部効果の発生が経験される。外部効果という用語は、論者によってかなり違った内容に用いられることがあり、このことから外部効果の議論における混乱が生じる可能性がある。外部効果が明確に定義される前に、外部効果に関する議論を少し整理する必要がある。外部効果は市場の価格機構を通じてもたらされる場合と市場を経由しないで生じる場合がある。前者は金銭的外部効果(Pecuniary external effects)、後者は技術的外部効果(technological external effects)と呼ばれる。
 金銭的な外部効果の存在はよく利される関係である。ある投入財あるいは産出財の価格の上昇は、経済に金銭的な外部経済を発生させるが、経済学の教科書に登場する古典的な例でそれをみてみよう。靴の需要が増加した場合、その材料である革の需要が増大し、革の価格が上昇することにより、皮を加工して生産されるカバンが手に入りにくくなり、カバンの購入者の効用が低下する。(pp.50-51)

 外部性が存在するとき、われわれは、資源配分の問題を市場機構だけに委ねることができない。このことから、最適な資源配分が達成されるためには、価格機構に変わるあるいは補完する手段が検討されなければならない。1920年にイギリスの経済学者ピグー(A. C. Pigou)は、外部経済あるいは外部不経済の発生主体に課税や補助金を課すことによって、社会的費用と私的費用を一致させる解決法を提案した。(p.55)

ピグー的な解決法に関して以下の問題点があることが知られている。第1に、政府など市場以外に存在する第3者機関が課税の税率や補助資金の給付率を決定しなければならない。これらの第3者機関が課税などの基礎となる限界費用を正確に把握することは容易ではない。(・・・)第2に、政府による課税や補助金などの政策には、現実の権利・義務の関係を修正する法律の整備など制度の変更を必要とすることが多く、短期間に個別的な問題を有効に解決することは容易ではないであろう。特に、新規の環境税の導入には立法段階で、関連産業を中心として存在する大きな抵抗は、ピグー課税が理論どおり実現されることに対する障害となる。第3に、外部経済や外部不経済が独占企業によって引き起こされる場合には、企業が独占価格を設定するのであるから、課税や補助金によって政府が意図するような効果をもたらすためには特別な工夫が講じられなければならない。第4に、所得の適正な再分配が実施されなければ、間接税のように、課税額が価格の上昇として、所得額に無関係に消費者に負担される。この意味で、一種の逆進的な課税となるおそれがある。(p.57)

(公共財) 文房具やレストランでの料理など市場での取引の対象となる多くの財は、特定の個人による占有あるいは消費が可能である。これらの財は、その消費に余って特定の個人の効用が高められるだけであることから、私的財(private goods)に分類される。これに対して、外交、治安、消防および一般行政サービスなど公共財と呼ばれる財の供給は、安全や利便性などの点で全ての国民にとって生活水準の向上に役立ち、その効用を高めると考えられる。公共財の供給が不特定多数の個人に便益を与えることが多く観察されており、一種の外部経済が発生することが知られている。(p.79)

このような私的財の性質に対比させて、1954年にサミュエルソン(P.A.Samuelson)は、公共財のうち国防や外交など次の2つの性質を持つ財を純粋公共財と名づけ、その理論的分析を展開する。第一の性質は、これらの財が、国民全員によって共同消費されることである。(・・・)特定の消費型の個人の消費を制限しないことから、この性質は消費に関する非競合性(non-rivalness)と呼ばれる。政府がある特定の国民を国防サービスから排除できない。あるいは、警察や消防は、生命の危機にさらされている個人に対してパトロールカーや救急車などによる治安や人命救助の活動を拒めない。この第2の性質は排除不可能性と呼ばれる(non-excludability)。(pp.79-80)

このような一般の公共財のほかにも、共通の放牧地や海洋の漁場などの共有地を意味するコモンズ(commons)あるいはコモンプール(common pool resources, 略してCPRs)の利用において、このような排除不可能性と競合性が同時に発生することは、1968年にハーディング(G. Harding)によって「共有地の悲劇」として指摘された。その内容は次のように述べられる。共有地への利用に制限が設けられなければ、利用者はその資源を過剰に利用する。その結果として資源が枯渇して、共有地の共同利用という本来の利益は達成されない。漁場から魚が消えたり、放牧地から草がなくなったり、あるいは近くの山から家庭の日常生活に欠かせない薪の原料となる木がみあたらなくなる。このような事態は次のような場合に発生すると考えられる。多くの個人が同じ共有地から資源を利用するが、これらの個人のあいだでのお互いの話し合いやあらかじめ合意されたルールがなく、また効率的な資源の利用がなされるための強制力のあるルールを実施する機関が存在しない。(pp.80-81)

 政府は市場の失敗を是正するために所得再配分を目指して、低所得者向けの公的住宅サービスや福祉サービスを実施する。1959年、マスグレイブ(R. A. Musgrave)は財政的に補助すべき財を価値財あるいはメリット財(merit goods)と呼ぶ。メリット財が存在する理由は次のように考えられている。私的財が広告によって需要が拡大されるのに対して、価値財には広告がないので需要が高まらず、それに対応する供給も伸びない。結果として郊外の宅地化が進んだが、下水や道路などの社会資本の整備が立ち遅れるなど、私的財と価値財との供給バランスが崩れる。このような公的サービスはその供給の対象者の資格や地域が限定されているために、非競合で排除可能な性質を有する。(pp.81-82)

 (政府の失敗) 「市場の失敗」で明らかにされたことは、市場の価格機構ではうまく解決できないケースにはどのようなものがあるのか、その解決に対し政府はどのような政策対応をなすべきか、であった。そのとき、政府は失敗することなく市場を補完調整できる、と暗黙のうちに想定されていた。たとえば、外部性を内部化するピグー的解決法は、政府が市場の需給に関する情報を持ち、外部便益なり外部費用についても正しく認識しているという条件が満たされて、はじめて有効な解決となる。さらに、たとえこうした条件が満たされていたとしても、現実にピグー的解決法が政府の公共政策として実施されるとはかぎらないのである。
(投票と集合的意思決定) 民主主義社会では、どのような公共政策であれ、現実の政策として実施されるためには、一定の集合的意思決定のルールに基づき、提案され審議されて決定される必要がある。集合的意思決定のルールとは、社会を構成する個々人の政治的な選択を集計し社会全体の政治的な選択を決定する一連の手続きや規則である。一般に、このような集計は、個々人の投票を通して行われる。つまり、個々人は政治的な選択ないし選好を投票で表明し、社会は投票を集計することで社会全体の意思を決定することになる。(p.180)

(代議制民主主義の経済理論) この2つの代議制概念の相違は、有権者と議員の関係の違いにある。直接民主主義の擬制としての代議制においては、議員は有権者の代理人にすぎず、有権者の意思を政治に反映させることが求められる。憲法の研究領域では、これは「半代表」といわれる。これに対し、選挙が一般国民に代わり意思決定を行う制度としての代議制では、議員は有権者から白紙委任状を受けており、選任された後は有権者とは独立に自らの判断で政治決定を行うことが期待されている。この考え方による代表は、「純粋代表」といわれ「半代表」に対比される。半代表と純粋代表は、それぞれ人民代表と国民代表といわれることもある。現代の代議制民主主義は、半代表と純粋代表とを併せ持った制度となっている。(p.196)

(官僚制) 政府が大きな役割を果たす現代社会において、その政策を実際に実施する官僚機構は必要不可欠なものである。そのような役割を担う官僚は、公正無私にいわゆる公僕として行動することが要請される。しかしながら公共部門の規模は急速に拡大し、その非効率性が指摘されるようになり、その原因が官僚機構になるとさえ主張されている。ところで、公共部門がいかなる状態にあるときに効率的であると判断されるのであろうか。もし公共部門が非効率的であるならば、いかなる方法によって効率性が実現されるのであろうか。(p.213)

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◆麻生良文 (1998) 『公共経済学』, 新世社


第1章 政府の役割
第2章 価格メカニズムの役割
第3章 公共財
第4章 外部性
第5章 自然独占
第6章 租税の理論:入門
第7章 個別物品税の帰着
第8章 労働所得税の効果
第9章 利子課税の効果
第10章 課税の効果:まとめ
第11章 財政政策の効果(ケインジアン・モデル)
第12章 減税の効果
第13章 公債の負担

(政府の失敗) 選挙に当選するために、政治家は一般消費者の利益よりも特殊利益団体(ある特定の業界、労働組合等)の利益を優先させるだろう。また、官僚は公共の利益に奉仕するよりも、自らの利権を拡大したり、権力や影響力の増大を望むだろう、というのである。現実の政治過程では、一般の有権者、特殊利益団体、政治家、官僚等の相互作用で自ら政策が形成されていく。そこで形成される政策は理想的な政策とは程遠いものになる可能性が高い。これが政府の失敗である。したがって、市場が失敗したからといって、すぐに政府が介入するのではく、市場の失敗と政府の失敗のどちらがよりましかで判断すべきである。そして、政府の失敗がどのくらい深刻であると考えるかは、大きな政府と小さな政府のどちらを支持するかという問題と密接に関わっているのである。(p.17)

(パレート効率性 Pareto efficiency) パレート効率性とは、「ほかの誰かの状態を悪化させることなしには、もはや誰の状態も改善できないような状態」のことを指す。(・・・)パレート効率的でない状態とは、「誰かの状態を悪化させることなしに、誰かの状態を改善できる状態」である。つまり、少なくとも1人の状態は改善でき、残りの全員は最低でも以前より悪くならないような状態は、パレート効率的ではない。このようなときに、パレート改善の余地があるという。したがって、パレート効率的な状態とは、『パレート改善の余地がないような状態」のことである。
 1つのパイを2人で分配するとき、パレート効率的な状態とは、パイを残さず分配した状態に過ぎない。分配し尽くされなければパレート改善の余地があるからである。2人のうちの一方がパイの全てを与え、他の1人はパイにありつけない状態もパレート効率的な状態である。このようにパレート効率的とは資源が無駄なく使われている状態を示したもので、分配上の公平性とは無関係な概念である(p.34)

(厚生経済学の基本定理 Fundamental Theorem of Welfare Economics) 
第1定理 市場の失敗が存在しない場合、市場で達成される資源配分はある意味において望ましい(パレート効率的な)状態である。
第2定理 任意のパレート効率的な資源配分は、適切な所得再配分政策を行うことで、市場メカニズムのもとで達成できる。(p.34)

(ただ乗り問題) 純粋公共財の供給を市場に任せようとしてもうまくいかないのは、ただ乗り問題(free rider problem)が発生するからである。非競合性、排除不可能性の両方の性質を持った財に対して対価を支払う人がいるとしよう。非競合性の性質のため、財が供給される限り、他の人もその財を消費することができる。しかも、排除不可能性のために彼らから利用料金を徴収することができない。このような状況では対価を支払わずに、他人の消費にただ乗りすることが合理的な行動かもしれない。しかし、もし、全ての消費者がこのような行動を取るならば、社会的観点からは供給されることが望ましいにもかかわらず、このような財が全く供給されない可能性がある。(pp.45-46)

(外部性) ・・・外部性を解決する第1の方法は、当事者間の所有権割り当てを適切なものに変更することである。共有地の悲劇の例だけでなく、例えば、養蜂業者と果樹園の例でも1人の経営者が養蜂業とか果実園経営を同時に行うことで外部性の問題は解決できるのである。第2に、同一経営者が経営を行わなくても、当事者間の交渉によっても同じように解決できる。これらの2つの方法は、いわば私的解決方法である。(・・・)さて、外部性が私的解決方法に任せられない場合には、何らかの公的な解決策が要請される。これに対して経済学者は2つの解決方法が好ましいと考えている。1つは、ピグー税(Pigouvian tax)を課す方法である。汚染や騒音のような負の外部性をもたらす活動には課税をして(正の外部性の場合には補助金を出して)、当事者が真の限界費用に直面するようにさせるという方法である。ところで、外部性が存在するときに市場が失敗するのは、外部性を発生させるような活動に対する市場が存在しないことに原因があった。したがって、外部性のもう1つの解決方法は、存在しなかった市場を作ってしまうことである。(pp.80-81)

 現実の世界では、コースの定理の前提条件が満たされない。交渉のための費用が大きくなる原因として、次の3つが考えられる。
1.外部性の程度に関する正確な情報が存在しない。
2.所有権の不明確さ。 
3.交渉の成果は公共財的性格を持つため。
 まず、実際の交渉では、被害の因果関係やその程度に関して正確に分からないことが多い。例えば、工場と漁師の例で、漁師がわが工場に補償を請求する場合、工場の排出物と漁業被害の因果関係と被害の程度(金銭換算価値)を明らかにしなければならない。調査のためには多くの時間と費用が必要だし、調査結果は当然、当事者間の利潤の配分に影響を与えるから、最終的に交渉が妥結するまでに多くの労力と時間が費やされるのが普通である。(p.89)
 第2に、現実の世界では所有権が不確かなため、所有権の帰属をめぐって交渉が紛糾することが多い。工場と漁師の例では、川の所有権がどちらにあるのかで、最終的な利潤の配分が異なる。さらに交渉の成果は公共財であるという問題がある。漁師が多数いるとき、何人かが代表して工場との交渉に当たらなければならない。代表者は交渉のために多くの時間をさき、自分の仕事を犠牲にしなければならないかもしれない。(p.90)

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◆加藤寛・浜田文雅 編 関屋登・山田太門・大岩雄次郎・横山彰・長峯純一・丸尾直美・山内弘隆・小沢太郎・浜田宏一 (1996) 『公共経済学の基礎』, 有斐閣


 序説
第T部 公共経済学の方法
 第1章 市場と政府
 第2章 非市場(公共)の経済
 第3章 非市場の経済:具体的事例の検討
第U部 公共部門の役割
 第4章 租税と公債
 第5章 公共支出論
 第6章 社会保障の経済学
第V部 市場と規制
 第7章 規制の経済理論
 第8章自由競争と規制

第W部 公企業の民営化

 第9章 民営化の論理

 経済学は、1つのものの見方であって、経済という対象を扱うから経済学なのではない。つまり、経済学を経済学たら占めている最も中心的特長は、その方法論(方法論的個人主義)にある。それゆえ、たとえ分析の対象が経済以外の領域であったとしても、この方法論に立つかぎり経済学として分類することができる(上述した社会的選択理論ももちろん同様の立場に立っている)。ただ、社会的選択理論は、もっぱら投票過程の公理的分析に焦点を当てている一方、公共選択は政治過程全体の実証的・規範的分析を意図しているという点で、扱われている問題は大きく異なっている)公共選択を経済学であるというのにはこの意味である。
 しかしもちろん重要なのはそうした形式的問題ではない。そのことの含意である。繰り返し強調してきたように、市場の失敗が明らかになった後、われわれに問われているのは、制度の選択である。しかもしれは、現実(市場)と理想(政治)との比較ではなく、現実レベルでの比較である。そのためには、同じ次元で比較できる分析の方法が必要となる。経済学者は、方法論的個人主義に立って(ホモ・エコノミクスとしての個人から出発して)市場過程を分析し、そこから市場の失敗の可能性を導いた。同じ方法論にたって政治過程における相互作用の結果を予測する必要がある(公共選択の立場では、政治過程も市場と同様一種の交換作用と見なされる)(pp.16-17)

 経済学者が純粋な経済ゲームの結果として理解し、説明してきた事柄は、実は市場と経済との相互作用の結果に他ならないということである。市場取引がいかに公正を欠いているようにみえても、またパレート基準に照らしていかに非効率的にみえようとも、それらはともに市場・政治ゲームのプレイヤーの合理的選択の結果以外のなにものでもない。その意味では、それらは経済学者が想定するある理論的基準に照らせば「失敗」と判断されるとしても、プレイヤー自身にとっては彼らがおいている制度的枠組み(つまり市場・政治ゲームのルール)の中で最適な選択の結果であり、「失敗」を意味するものはどこにもない。(p.22)

 つまり、政治ゲームを通して選択されたルールが市場ゲームをパレート最適に導くとは限らない。そうすることが自分たちの利益になると予想する場合には、彼らがむしろ非効率を作り出すルールを選択することがありうる。
 市場過程と政治過程をこのように解釈するならば、市場ゲームの結果を強制する(例えば、市場の失敗を是正する)には、市場ゲームのルールを選択する政治過程を制約するルールそれ自体を変更することが必要となる。最近立憲的政治経済学として経済学の1つの分野を形成しつつある研究は、この段階の選択を対象とする。どんな立憲的条件の中で、どのようなルールが選択される可能性があるのか。また選択されたルールが政治過程においてどのような誘引構造を作り出し、それがまたどのような結果をもたらすかを理論的・実証的に明らかにすることがその課題である。公共経済学が「政府の役割はなにか」を中心的なテーマとするならば、公共経済学はこの課題を避けて通ることはできない。(p.24)

 ところが、民主主義のルールによる政府の決定が市場の完全な代替的役割を果たせるかというと、答えは否である。市場は各消費者の選好のそれぞれに合致するという形で均衡をもたらした。この点、民主主義の決め方は、大まかに言えば、各消費者の選好の平均を取って一律な決定を下すものであるといえよう。そのために民主主義のルールで完全に満足されるのは、過半数で決定する単純多数決の場合には、両極端の選好の真中に位置するいわゆる中位投票者だけである。
 この事実はしばしば中位投票者の定理と呼ばれるが、言いかえれば、民主主義のルールでは中位投票者以外の個人は多かれ少なかれ政府の決定に不満を持つことを意味する。もちろん民主主義のルールといっても若干バラエティーがあるわけで、単純多数決のほかに3分の2多数決や、満場一致ルールなどがある。採決に必要な投票数が増えるにしたがって中位投票者の定理における投票者の不満(これを決定の外部費用という)は減少する。そして満場一致のルールの問いにこの外部費用はゼロになる。(pp.38-39)

 コースの定理の重要な点は、市場が失敗し政府もまた失敗する外部効果が存在する場合でも当事者間に市場取引に類似した自発的双方取引が発生し、それが社会的に最適な解決をもたらすという点である。これは双方間の取引という非市場的決定プロセスの一例である。市場での取引と似ている面もあるが厳密に見れば価格を通じた取引ではなく、したがって取引条件は当事者の交渉能力に依存しており、その意味で政治的な側面も持っている。しかし、政府の介入との決定的な差異は、当事者間取引の自発性である。この自発性は政府の介入に比べて、情報のコストと正確さにおいて明らかに優れている。
 しかし、コースの定理はあくまで理論であって、現実に適用すると多くの問題を持っている。第1の問題は、取引費用税路の仮定は非現実的であり、とくに経済活動の当事者の数が増えるに従ってこの仮定は妥当しなくなる。したがって、不特定多数の住民に外部不経済を与える公害や環境破壊の問題の解決策にはなりにくい。また第2の問題点は、分配や最適性については何もいえていないことである。コースの定理は資源配分上の最適は保障するものの分配に関して不決定であることはしばしば指摘されている。したがって、たとえコースの定理のように当事者間の交渉が解を得る場合でも、分配面の公正さについて政府その他の第三者が公平な判断にもとづいてなんらかの調整を行う必要があろう。(p.47)

 (市場の失敗) すなわち、市場が最適な資源配分に「失敗する」のであり、この「市場の失敗」要因こそ政府が市場に介入する根拠である。「市場の失敗」要因は、一般に@情報の不完全性と不確実性、A規模の経済(自然独占)、B外部効果、C公共財、の4つに分類される。また、これらとは別に、市場では保障されないという観点から、D所得分配の問題が市場介入の根拠として取り上げられることも多い。(p.196)

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◆Stockey, Edith., & Zeckhauser, Richard. (1978). A Primer for Policy Analysis. New York: W. W. Norton & Company. (= 1998 佐藤隆三・加藤寛 監訳 『政策分析入門』, 勁草書房)


第T部 基礎
 第1章 政策選択の考察
 第2章 モデル:概論
 第3章 選択のモデル
第U部 基本的技法
 第4章 差分方程式
 第5章 待ち行列
 第6章 シュミレーション
 第7章 マルコフ・モデル
 第8章 選好の定義
 第9章 プロジェクト評価:便益・費用分析
 第10章 将来の結果の評価:割引
 第11章 線形計画法
 第12章 決定分析
第V部 目的と手段
 第13章 公共選択―何の目的のためにか?
 第14章 望ましい結果の達成
 第15章 分析の適用

 何もしないこと 何もしないことが最善であると判明するかもしれない。さきに指摘したように、私的行為にとってかわる政府の計画は、全体的にはほとんど成果を達成しないかもしれない。1つの主要な問題は、われわれが実際に実行しうる政策がある理想的な世界においては最善である政策と鋭く比較される可能性があることである。われわれが達成することを正当に期待しうる介入の形態は、結局事態を悪化させるかもしれない。われわれは皆、禁酒法の歴史を知っている。アルコールの消費は負の外部性を生み出し、それが政府の販売禁止に導いた。その純効果は法破りのかなりの増加であり、飲酒の減少は予想されたよりも少ない結果を伴った。禁酒法は廃止された。今やわれわれは、たとえば課税、年齢制限酒類許可、そして販売の諸法律によってアルコールの外部性に対処している。しばしば主張されることは、売春やマリファナの使用を禁ずる法律は、禁酒法の現代版であり、どちらの場合にもまったく何もしないことが現行の規制計画よりも選好されるかもしれない。(p,309)

私的な個人や企業の決定に影響を与える政府の誘因   政府が私的行動に強制を加えようと試みるとき、主要な2種類の逆の帰結が生じる。1)それは個人の行動の自由を制限し、多分まれではあるだろうが他の自由権にも間接的な脅威となる。そして:2)政府は非効率的であるか不適切である行動を要求するかもしれない。これらの逆の帰結が示唆するものは、市場の不適切な働きを補完しようという政府の努力と、基本的自由を侵すことなく効率的な方法で社会の資源を配分しようという願望との間の緊張である。もし政府が、個人の行動をこまごま指令するよりもむしろ行動に影響を与える誘因を利用するならば、その緊張は多くの重要な事態で緩和されるか回避されることが可能である。
 政府による誘因メカニズムの背後にある原理はすぐに理解される。若干の種類の私的な行為は社会的便益をもたらしたり社会的費用を課したりする。個人と社会は自己の利益の最大化の過程において、それらの社会的収益を考慮に入れない。要するに、外部性が存在する。そのような自体を修正する誘因は、個人がもし正の外部性を創り出すならば彼への支払いという形態をとり、もし彼が有害な外部性を生み出すならば彼に対する課税という形態をとる。(p.314)

 公共財。財の集合的供給に対する理論的根拠は何であろうか。公共財の顕著な特徴は、その供給が共通の目的であることである。その目的は、コロラドのグリーレーの公園や、アメリカ合衆国の国防や、あるいは貧者に対する所得の増加でありうる。共通の目的が達成される限りにおいて、その目的を分かち持つあらゆる人々は便益を得る――それを達成するための彼の努力には関係なくである。(p.317)

 すでに見たように、政府の特徴的な産出、すなわち市民の共通の利益に影響を与える財やサービスは公共財である。それらは広範な方向の活動を含んでおり、国防から橋や燈台、法と秩序の維持から所得配分にまでわたっている。公共財の効果的な産出基準を達成するためには集合的活動が必要とされる。大部分の状況において、政府は公共財が供給されることを保障する論理的な集合的単位である。競争的な自由企業体制の利点を強調する社会では、われわれの社会もおそらくそのようであるが、政府の活動の重要な範囲、また政府が直接的に財やサービスを供給する活動の全部ではなくても大部分に対して、公共財はその正当化となる。(p.318)

公共財としての所得分配。 ある集団の個人のいかなる共通の目的も公共財として考えられうることをわれわれは見てきた。このような目的の中には、グリーレーの公園や、アメリカ合衆国の国防、そして貧者に対する所得の追加があった。3つの場合における「公衆」は、グリーレーの住居者、アメリカ合衆国市民、そして所得の増加を提供する中流所得の居住者である。
 所得分配問題を定式化しよう。すべての中流所得の市民が―彼らのなかの1万人が―町の東部に住んでおり、町の西部には5,000人の貧しい人が住んでいる。すべての東部の人々はより貧しい彼らの町仲間が改善されることを願っていおり、そしてその目的が達成されるために何がしかを支払うであろう。実際、現在の所得分配の下では、各人は西部の居住者のための1,000ドルの便益を保障するために、彼自身の1ドル紙幣を提供するであろう。ゆえに、各人はなぜ直接的に紙幣を与えないのだろうか。まったく単純に、1人の1ドルの移転は西部の人々のためにただ1ドルの便益を生むのみであろう。換言すれば、移転を価値あるものにするのに必要と見なされる1,000ドルのたった1,000分の1に過ぎない。東部の各個人は自発的に何も拠出しないであろう。
 この事例における所得分配は公共財である。(より正確には、資源の西部への再分配は公共財である。)西部のために拠出されたあらゆる1ドルは、その差出人が誰であろうと、10分の1セント(すなわち1ドルの1,000分の1)の便益を生む。かくて、スミス1ドル拠出するときに、彼は10分の1セントの便益と等価なものを得るが、彼の隣人のジョンとハリスそして他の9,997人の頭部の人々も同様である。1ドルの移転からの東部の純利益は、かくて(0,001×10,000)−1ドル=9ドルである。このような魅力的な計画を捨てることは愚行であろう。その問題から逃れる道は東部の住民の市民に集合的に拠出してもらうことである。もし全員が自分たちに各自200ドルの課税をすることに同意するならば、西部の人々に合計400ドル提供することができる。(p.320)

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◆井堀利宏 (1996) 『公共経済の基礎』, 有斐閣


第1章 市場機構と公的介入
第2章 自然独占産業と公的役割
第3章 最適課税の理論
第4章 公共財の理論
第5章 公共選択の理論
第6章 政党と官僚の経済分析
第7章 公債の負担
第8章 公債発行と財政運営
第9章 高齢化と年金改革
第10章 政府支出政策のマクロ効果
第11章 公共投資
第12章 開放経済での公共政策

 しかし、市場に失敗がある場合でも、必ずしも政府が公共財を供給する必要はない。第1章でも説明したように、外部性の場合には、その外部性をうまく相殺するようなピグー的課税、補助金政策を使うことにより、市場の失敗を回避できる。公共財の場合でも、負担すなわち税金の面で政府の介入は考えられる。しかし、それを政府が自分で供給する必要はなく、民間部門に供給させ、政府が最高水準になるように補助金制度、規制でコントロールすることは可能である。
 政府が直接供給するほうがよいか、あるいは基本的には民間部門に任せ、それに対しては政府が何らかの間接的介入をするほうがいいのかについての判断は、難しい。このことは、政府の失敗と市場の失敗のどちらを重くみるのか、あるいは、政府の行動をどう考えるかという原理的な問題に関わってくる。(p.109)

現実の政府が多少とも失敗しているという実感は、多くの人々の感じるところであろう.このような見方を背景として、政府が失敗するのは、上述したような政府決定のメカニズムに問題があるばかりでなく、政府の目的それ自体が社会厚生の最大化とは異なるからだという議論が生じてきた。すなわち、政府の目的は、現実には、公共のためにその社会の構成員の経済厚生を最大にすると言う理想主義的なものではなく、利害の異なる各経済主体の対立を反映したり、政府を構成する政党や、政治家、官僚などのそれぞれ異なった集団の自らの利益の追求の産物であるという考え方が最近、有力になってきている。このような現実主義的な立場で、政府の行動を説明しようとするのが、「政府の経済理論」である。この立場では当然、政府の行動は理想的なものではなく、市場メカニズムが完全であっても、政府の失敗による非効率は避けられない。(pp.110-111 )

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◆中村慎助・小澤太郎・クレーヴァ香子 編 (2003) 『公共経済学の理論と実際』, 東洋経済新報社


第T部 公共経済学のパースペクティブ
 第1章 ミクロ経済学と市場の失敗
 第2章 新しいマクロ経済学と金融・財政政策の機能
 第3章 社会的選択と投票システム
 第4章 政策科学と公共選択論へのアプローチ
第U部 ゲーム理論と公共経済学への応用
 第5章 ゲーム理論の概観
 第6章 ゲーム理論と経済政策
 第7章 ゲーム理論と政治過程
第V部 公共経済学の実践
 第8章 金融市場における公共政策
 第9章 インターネット金融取引・電子商取引の安全性
 第10章 中小企業金融における公共部門の役割
 第11章 生活保護システムの経済学
第W部 公共経済学の系譜――個人主義と公共政策

 前節においては完全競争市場の優れた点を挙げてきたが、もちろん市場は万能ではない。市場においてパレート効率性が達成されないことを「市場の失敗」と呼ぶ。市場の失敗には大きく分けて2つのケースがある。1つは、市場が完全競争でないために、パレート効率性が実現できないケースである。もう1つは、完全競争市場において、パレート効率性が実現できないケースである。前者は例えば、独占、寡占といったケースやあるいは市場の不完備性による。後者は、公共財、外部性、不確実性、収穫逓増の問題等が主な要因である。(p.20)

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◆Miller, Roger, LeRoy., Benjamin, Daniel, K., North, Douglass. C. (1993). The Economics of Public Issues, (9th ed). Harper Collins College Publishers. (= 1995 赤羽隆夫 『経済学で現代社会を読む』, 日本経済新聞社)


第T部 経済分析の基礎
 1 生と死を分ける――新薬認可の経済学
 2 事実は小説より奇なり――航空安全の経済学
 3 犯罪を選択する――犯罪防止の経済学
第U部 供給と需要
 4 美徳の不幸と悪徳の栄えと――売春、酒、麻薬禁止法の経済学
 5 過剰の中の不足または不足の中の浪費――水利権の経済学
 6 減反が招く蟻地獄――農業保護の”不”経済学
 7 善事は省事に如かず――高医療費の経済学
 8 中絶の権利か胎児の生きる権利か――妊娠中絶の経済学
 9 都市破壊の現況を暴く――家賃規制の経済学
第V部 都市構造
 10 ウォール街の千鳥足――証券価格の経済学
 11 共産主義キャビア・カルテルの崩壊――カルテルの経済学
 12 価格介入の失敗――自動車保険の経済学
 13 遅くなくともしないよりはいい――航空規制撤廃の経済学
 14 丁ならオレの勝ち、半ならお前の負け――預金保険の”負”経済学
第W部 社会問題
 15 麻薬戦争の社会的費用――マフィアの掟の経済学
 16 黄金の老後は夢のまた夢?――高齢化の経済学
 17 目には目を――死刑の経済学
 18 アメリカの貧困――福祉の経済学
第X部 外部性と環境
 19 清掃車はキットやってくる――廃棄物処理の経済学
 20 バイ、バイ、バイソン!――希少動物反故の経済学
 21 汚染売ります――公害防止の経済学
 22 地球温暖化の常識と非常識――温室の経済学
第Y部 政治経済学
 23 経済政策版マーフィーの法則?――燃料規制の政治経済学
 24 教育と選択――教育改革の政治経済学
 25 アメリカの夢を殺す――住宅規制の政治”不”経済学
 26 紫煙くゆるところに火種は消えず――喫煙の政治経済学
第Z部 国際経済
 27 巨人たちの戦い――国際分業の経済学
 28 750,000ドルの雇用――保護主義の”負”経済学
 29 単一の世界――経済統合の経済学

解説編

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◆丸尾直美 (1965) 『福祉国家の経済政策――混合経済の政策原理』, 中央経済社

 サミュエルソンのいう混合経済は、私企業と同時に公的機関も経済統制をおこなう「混合」資本主義制度ないし、「混合」自由企業経済体制のことであり、それは少なくとも2つの意味において混合的であるという。すなわち、第1に「政府が私的イニシアチブを修正する」からであり、第2に「独占的要素が完全競争の働きを制約する」からであるという。(p.46) Paul A. Samuelson. (1961) Economics, 5th ed., p.57

 混合経済という言葉はこのように、資本主義経済に社会主義経済的要素が混在している場合にばくぜんと用いられるのが普通であるが、理論的に明快な概念規定をするために、完全競争と完全独占の中間形態としての独占的競争ないし不完全競争の概念規定をする方法をアナロジカルに用いよう。(p.47)

 資本主義経済と社会主義経済の中間形態としての混合経済の概念も、一方の極の「純」資本主義経済と他方の極の「純」社会主義経済の中間形態としてとらえることができる。こう考えると、現実には「純」資本主義経済も「純」社会主義経済というものは存在しないし、これまでも存在したことはない。したがって現実の経済は何らかの形で混合経済であるといえる。(p.48)

 先にも述べたように普通にいわれる混合経済機構とは、私有と公有が、そして集権的計画経済と分権的市場機構がそれぞれかなりの比重で混合している経済機構である。(…)
 まず経済機構の構造面についてみると、第1に財産、そのうち、生産手段の所有形態は、私有制を基調としながらも、公有財産や公有の生産手段がかなりの比重を占めていること、第2に、経済資源の配分や経済活動は自由競争市場を基調として行われるが、自由競争市場の不備が中央政府の行う経済計画や経済政策によって補われる点がその特徴である。
 機能面では、(a)私的経済部門の経済活動は私的利潤の追求を目的として行われるが、併存する公的経済部門での経済活動は単なる私的利益の追求を目的としなくなる。また、私的経済部門における私的利潤の追求活動も、その経済体制の政策主体によっていろいろ制約を課される。(b)経済発展のための資本蓄積は、私的利潤からの私的蓄積だけからではなく、公的蓄積からも行われる。この公的蓄積の一部は公的利潤によって賄われ、他の部分は私的利潤から税金の形で徴収される。資本形成ないし投資も私的投資と公的投資によって行われる。(c)かくて各部門で資産が行われ、それぞれの部門の純所得から賃金が支払われる。得られた私的部門の利潤は一応私的利潤の形態をとるが、一部は税金として公的機関に徴収され、一部は社内留保利潤として企業に留保され、残余の部分が私的財産所有者に私的に領有される。(p.64)

 このような観点からみると、資本主義を「基調とする」経済機構(広義の資本主義経済機構)とは、私的経済部門が公的経済部門に対して生産、雇用、投資、賃金、利潤、価格等々の面で主導的な立場にあり,前者が後者の標準を画するような経済機構であるといえる。他方、社会主義を「基調とする」経済機構(広義の社会主義経済機構)とは、逆に公的および半公的経済部門が私的経済部門に対して主導的な地位に立って、後者の標準を画するような経済機構である。(pp.69-70)

市場機能の不完全性 市場機能の不完全性は、さらに2つの異なる性質の理由から生ずる。1つは経済発展段階が低くて、市場機構が未発達の場合であり、もう1つは資本主義が十分に発展してから一般化する独占および制限的慣行のためである。経済発展段階の低い国では、政治面において議会民主主義が未発達であると同時に、経済面では市場機構が未発達である。この種の社会では市場機構を発達されることによって、経済資源配分の合理性を高めることができるが、市場機構を早急に発達させることはできない。したがって、中央計画や政府自ら経済活動(官営事業など)によって資源配分や生産活動を行うことが必要になる。工業化の初期段階(テイク・オフ期)に混合経済化あるいは場合によっては社会主義化する国が多いことを説明する経済面の理由はここにある。(p.97)

 独占による市場機構の歪み 市場機構が成立してから後に生ずる市場機構の不完全性は、独占ないし制限慣行によって生ずる。市場機構のこの種の歪みを是正するために公的介入が必要となる。つまり自由市場機構そのものを維持するために公的介入が必要とされるのである。しかし、後に10章で詳しく説明するうように、市場機構の不完全性を是正するといっても完全競争的状態に近づけることが必ずしも適切とはいえない。殊に大規模化の利益が顕著な費用逓減型産業では多数の小規模企業による競争秩序を再現することは経済能率(国民所得の増大)の見地からみても好ましくない。その種の産業は国有化するか、あるいは私的独占の弊害を除去するために公的政策をとる必要がある。その場合、企業の大規模化やある程度集中化を阻止することは能率上好ましくない。しかし、他方、集中化を認めておいてこれを単に規制する方法で独占の弊害ないし独占力の乱用を十分に阻止することは期待できない。従って残されたことは方法は、その産業における独占的競争を有効化することであるが、オリゴホリー的産業において有効競争を行わせるためには、独占力に対する体効力が利用する以外に効果的な方法は期待できない。(p.98)

 第一に国民所得(および効用)の増大のためには、現存の経済資源の最適配分を行うことが必要であるが、完全競争はたとえそれが十分に行われていないとしても次のようないくつかの理由のため、最適配分(パレート最適)を達成できない。したがって最適配分状態により接近するために混合経済化が必要とされる。
 第一に、外部経済または外部不経済がある場合である。別の言葉でいえば、A.C.ピグーのいう私的限界生産物(または限界費用)と社会的限界生産物とがかい離する場合である。最近、わが国でよく問題とされる公害は外部不経済の著しい例である。例えばある工場で排出する汚水が下流の川を汚して魚介類の収穫を少なくしたり、工場のばい煙による空気の汚染によってクリーニング代が大きくなったりする場合、その工場の負担にする私的限界費用は、工場の汚水やばい煙の被害によって生じた費用を含む社会的限界費用よりも小さい。あるいはその企業の私的純生産物とそこから、汚水やばい煙によって被る犠牲の評価額を差し引いた社会的純生産物とを比べると後者のほうが小さくなるといってもよい。
 逆にある企業の生産活動が外部経済効果を有することもあり、その場合には社会的限界生産物が私的限界生産物を上回る。
 以上のような意味での外部経済または外部不経済がある場合には、完全競争が資源の最適配分(国民所得を最大にするという観点からみて最適の配分)を保障しない。消費者の欲求もそれだけゆがんだ形で社会的評価に反映されることになる。従って、この場合には、政府介入が必要となる。たとえば、外部不経済をもたらす企業に税金を課し、外部経済を生む企業に補助金を与えればよいと言われるが、外部経済または外部不経済が著しい経済活動を政府自身または公企業が行うのも1つの方法である。(p.100)

 しかし、経済民主主義にはもう1つの面がある。それは産業組織の運営の民主主義化である。すなわち、産業組織が一部のものによって専制的に運営されることを排し、その構成員(従業員)および利害関係者(消費者)の意思および欲求をで>287>きる限り反映して運営されるようにすることである。これが産業民主主義化であるが、通常、産業民主主義(Industrial Demoncracy)という言葉は、産業組織の経営者と従業員との関係(労使関係:Indstiriacl Relations)の民主主義化であると解されているが、広く解せば、対消費者関係ないし対公衆関係(Public Relations )の民主主義化をも含むものと考えてよい。このように解すると、独占対策は、一方では市場機構の歪みを是正し、他方では、産業組織における経済権力の集中化及びそれに伴いがちな独占力の乱用を排して、対消費者関係をも改善するのに役立つし、分配の平等化にも役立つので二重三重の意味において、経済民主主義化のための重要な政策であると言える。(p.288)

 有効競争(workable competition or effictive competition)の考え方は、独占擁護論的色彩をもつものとみなされやすいし、事実、有効競争論の主張の中にはその種の論もみられるが、独占対策と>289>して完全競争化と完全公有化が妥当でないとすれば、有効競争こそ独占対策にとっての唯一の現実的方向であるといえる。問題は果たして有効競争が行われるか否かである。かくて有効競争が行われているかどうかを判定する基準が問題となる。
有効競争が行われ地得るかどうかを判定する基準として性格の異なる2つの観点からの基準があるといわれる。1つは当該産業の市場のあり方でもって、その産業の有効競争が行われているかを判定しようとする考え方であり、この考えに立つ基準を構想基準という。その場合、具体的に挙げられる基準の内容は次のようなものである。(a)相当多数の売手と買手が存在すること、(b)そのいずれもが市場の大きな割合(share)を占め占めること、(c)いずれのグループ間にも共謀(collection)がないこと、(d)新企業が市場に参入(entry)する可能性が存在すること。容易に理解されるように、この構造基準は市場構造を可能な限り完全競争に近づけることが望ましいとの判断に立っている。つまり、完全競争化に近い有効競争化論といえる。
 他方、もう1つの考え方は、市場構造よりもむしろそのパーフォーマンスに重点をおいて、有効競争が行われているか否かを判定しようとする論である。つまり、たとえ当該企業または産業が構造基準を十分満たしていなくても、その機能結果が満足のいくものであれば有効競争が行われ地得るとみなすという考えである。その場合、ファーフォーマンスあるいは機能及び結果が満足のいくものかどうかを判定する基準としては通常、次のような項目が挙げられる。(a)製品>290>および生産過程の改善のための絶えざる圧力があること、(b)コストの大幅な切り下げに伴って価格が引き下げられることがあること、(c)低コストで操業できるもっとも能率的な規模の企業に生産単位が集中していること。ここにあげられる基準からも示唆されるように。パフォーマンス基準は、大いぼ生産の能率性を重視した立場といえる。事実、この基準を用いて独占規制を行えば、大規模生産の利益を生かすことが可能であろうが、その半面、規制が事後的に行われることになるし、判断の基礎となる資料を十分得られないなどの問題があるので、結果的には独占や制限的慣行を十分に規制できないといわれる。(pp.289-291)

 しかし、それだけに、直接的経営参加には、いくつかの困難な問題が伴い、この困難のゆえに、直接的経営参加を安易に進めがたい状態にある。次にその種の困難を検討しよう。
 まず第1に、経済面ないし経営上の諸決定は政治問題の場合の意思決定の時に比して、ずっと専門的技術的なものである上に、敏速な決定を必要とするので、労働者が経営権を使用者と分かつようになれば、経営参加によって労働者のモラールを高めて能率を上げるという利益は次に述べるような理由によって相殺され、かえって経営の効率が阻害されはしないかと懸念される。その理由の一つとして労働代表者には経営能力と経営経験が乏しいという点が指摘されることがある。(・・・)
 しかし、それだからといって労働者がそうした能力や経験を得るまでに経営に直接的に参加させるのが好ましくないという「泳げるようになるまで水に入ってはいけない」式の議論を支持しないということは言うまでもない。能力のある労働者がその産業についての専門的能力と経験を養っていけるような制度が備わっていさえすれば、有能な労働者は十分な経営能力と経験を売ることができるだろう。(p.328)

 しかし、労働者代表を経営決定に直接参加させることは他の点でも難がある。それは、経営決定に労働者とか消費者などを参加させれば、それぞれの利害の対立のためスムーズな経営ができないからである。(…)労使双方の代表による共同経営の場合にもやはり、利益代表である以上、利害の対立は大きいので同様の難は逃れ難い。そこで、労使の利害の対立する問題は労使の団体交渉期間に任せて協同決定を行う問題は利害の共通する問題に限定する方法がとられることになる。(p.329)

 しかし、直接的経営参加に伴う、より重要な難点は別のところにある。すなわち、その難点とは労働者が直接的に経営に参加して協同決定を行えば、その決定に対して責任をもなたなければならなくなるので、産業民主主義のもう1つの面であり、労組のもっとも重要な機能ともいえる「使用者に対する反対機能」がそこなわれるおそれがあることである。(…)労使間の利害対立というものが存在する以上、労組の反対機能を放棄したり抑制したりすることは、産業民主化の見地からみてむしろ好ましくないことになりやすい。(p.330)

 労組代表の経営参加への直接参加に伴う第3の難点は―上述したことと関連するが―経営機関に入った労働者側の者が、結局において経営者化あるいは使用者化してしまい、労組に対してよりも使用者に対して忠実になるおそれがあることである。特に一般労組員はこの点を強く懸念し、経営機関に入ったものをもはや「われら」の仲間でなく「かれら」(経営者)の仲間とみなすようになる。(p.332)

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◆Mattick, Paul. (1969). Marx and Keynes. The Limits of the Mixed Economy. Boston : P. Sargent. (=1971 佐藤武男 訳 『マルクスとケインズ――混合経済の限界』, 学文社)


1 ケインズ革命
2 マルクスとケインズ
3 マルクスの労働価値論
4 価値と価格
5 価値法則と均衡メカニズム
6 蓄積と利潤率低下の法則
7 景気循環
8 剰余価値の実現
9 資本主義の危機
10 資本の剥奪
11 資本主義の救済
12 逆転せるケインズ主義
13 資本主義の転型
14 混合経済
15 貨幣と資本
16 テクノロジーと混合経済
17 資本形成と外国貿易
18 経済発展
19 帝国主義の至上命令
20 国家資本主義と混合経済
21 マルクス主義と社会主義
22 価値と社会主義
エピローグ

 自由放任のイデオロギーに象徴されているように、政府の管理ということに対してはこれまで常に反対があった。だが今日、政府と企業の間にみられる客観的な対立は、資本の全般的な拡張過程のなかで政府誘導の生産が急速な成長を遂げていることのために、これまでの対立とは異なった性質のものになっている。政府生産の拡大はたんに量的な変化にとどまるものでなく、それは将来の好ましくない、しかし避けられない質的な変化を暗示するものになっている。というのは、広範な経済の国家管理は私企業体制の終焉を予告するものだからである。しかし、国家管理と民間資本との対立状態は今のところまだ客観的に表面化されてはいないのであって、名ばかりの市場メカニズムが支配する経済において両者が主観的には協力し合っているという形をとってあらわれている。資本は政府の政策をビックビジネスの利益に奉仕するよう従属せしめているために、これと協力することが一応可能である。けれどもビックビジネスの利益は社会全体の要求とは矛盾するものであるので、そこから生まれる社会的軋轢はやがて経済問題における政府の役割に関する闘争に転化する。すなわち、政府の介入を制限すべきか、あるいは拡大すべきかをめぐって政府の管理権を奪い合う政治闘争に転化するのである。(p.165)

 国民経済全体が公共部門と私的部門とに区分されているかのようであるが、もちろん実際に存在するのは唯一つの経済であって、そこに政府が介入しているのである。混合経済を特徴づけるものは、政府所有ではなく、政府管理なのである。もちろん、自由放任の資本主義にあってもそうであったように、直接の政府所有もまた存在し、巨大で次第に成長する姿を見せている。しかし、たとえ政府企業のあるものが独立していて利益を上げているとしても、政府は民間で生産する富のますます増大する部分を要求し続けるものである。
 このように現代資本主義では、政府誘導の生産が経済全体を刺激するという構造になっているのであって、<混合>とは外観上のみせかけにすぎない。公共事業や廃物の生産が機械、原料、労働などを雇用することは明らかである。政府のイニシアティブではじめられる事業は、そこに入り込んでくる財貨――雇用される労働者の消費財をも含めて――の生産に関係をもっている一切の資本にたいして新たな市場を作り出すのであるから、生産は全体として増大する。しかし政府誘導生産の<最終生産物>は――中間的生産段階の長い系列の結果として出てくる――市場での売却で利潤を実現することのできる<商品>形態をとっていない。この生産分野に投入されるものは、すべて生産費としてのみ、評価され、販売価格の中から全部が回収されることがない。というのは公共施設や廃物生産の購入者なるものはいないからである。
 にもかかわらず、公共部門と私的部門とをあわせもつ二重経済は広く民間資本と社会との両方に利益を与えるところの混合経済としてあらわれている。各部門は、一方が収益を上げても他方はそうでないというように、それぞれの道を歩むけれども、現実の生産と販売の過程の中では分かちがたくからみあっている。それゆえ、たとえ政府主導の生産は社会的生産の総利潤の中から価値をくみ取るのみで何ら付加するところがないものだとしても、国民経済は、やはり混合経済となっているのである。(p.166)

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◆後藤玲子 (2006) 「混合経済」(辞書項目), (大庭健 代表編集 『現代倫理学事典』, 弘文堂, p.314)

混合経済(mixed economy) 従来、経済体制は2つの観点によって分類されてきた。1つは、土地や資本設備など生産手段の所有形態であり、他の1つは資源配分に関する意思決定の方法である。生産手段が公的に所有されている制度が社会主義、生産手段が私的に所有されている制度が資本主義と呼ばれる。また、集権的な意思決定がなされている体制が計画経済、市場機構を通じて分権的な意思決定がなされている体制が市場経済と呼ばれる。これら2つの観点をクロスさせることによって、社会主義計画経済と資本主義市場経済という2つの典型と、市場的社会主義あるいは政府統制型資本主義(福祉資本主義とも呼ばれる)という形態が抽出される。また公的所有と私的所有の混在の仕方、あるいは市場的な意思決定と政府による計画経済の混合の仕方を変えることによってさまざまなヴァリエーションが抽出される。混合経済とは、社会主義計画経済と資本主義市場経済の両極として、その間に位置する経済体制を総称する概念である。より一般的には、市場経済と私的所有体制に依拠しながらも、政府による統制や公共部門を占める比重が高まっている体制を指して混合経済と呼ぶ。定義からすれば、ニューディール以降の資本主義諸国はすべて混合経済であるともいわれる。(…)

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◆(2005) 「混合経済」(辞書項目),(金森久雄・荒憲次郎・森口親司 編 『有斐閣 経済事典 第4版』, 有斐閣, p.433)

 混合経済(mixed economy) 経済体制としては資本主義市場経済であるが、国営企業、政府開発事業、財政による所得再配分など、政府の経済介入が強まった結果、民間部門と公共部門が混在するようになった経済。現在の資本主義国はほとんどがこれに当たる。他方、社会主義計画経済も市場を導入し民間部門の存在を認め、混合経済となる場合もあった。(p.433c)

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◆熊谷尚夫 (1964) 『経済政策原理――混合経済の理論』, 岩波書店


第1部 経済政策の理論的基礎
 第1章 経済問題と経済政策
 第2章 経済政策の目標
 第3章 政策主体としての国家
第2部 経済発展
 第4章 経済発展の意義
 第5章 経済発展の基礎条件
 第6章 経済発展のプロセス
 第7章 自由企業制度
 第8章 政府の役割
第3部 経済成長と安定
 第9章 経済成長と景気変動1
 第10章 経済成長と景気変動2
 第11章 経済安定政策の課題
 第12章 安定政策の理論的基礎――ケインズ体系
 第13章 金融政策
 第14章 財政政策
 第15章 安定政策の総合評価と国際経済的側面
 第16章 完全雇用政策の長期的側面
第4部 資源配分と価格機構
 第17章 資源配分政策の基準
 第18章 厚生経済学の基本定理
 第19章 国民所得と経済的厚生
 第20章 不完全競争化の資源配分
 第21章 独占の統制と<効果的競争>
 第22章 外部経済と公共財の問題
 第5部 所得の分配
 第23章 分配問題の地位と性格
 第24章 資本主義下の所得分配
 第25章 所得再分配政策

 ところで、分権制をたてまえとする経済組織における公共的経済政策の役割については、あらかじめ若干の一般的考察を加えておくことが適当であろう。もし純粋に中央集権的な計画経済を想定するならば、このようなシステムでは一切の経済活動が政府の経済政策にもとづいて運営され、private policyとpublic policyとの区別すらもありえないはずである。損点では、事情はあたかもロビンソン・クルーソーの経済におけると同じであろう。これに反して現在の資本主義諸国に見られるように分権制を基調とする経済体制においては、経済活動の主要部分はやはり個々の経済主体の自主的計画決定にもとづいて展開されているのであって、公共政策における規制が加えられるとしても、それはけっして経済過程のすべての方向付けを与え得ようとするわけではない。むしろ公共政策は民間経済の特定の部面に対する干渉(intervention)もしくは統制(control)として受け取られる場合が多い。<経済統制>(economic control)ということばがしばしば経済政策の同義語としてつかわれるのは、この間の事情をよく示しているとおもわれる。民間経済に公共的統制が加えられるかぎりにおいて、これは経済運営における集権制の部分的導入を意味しているということは言うまでもない。経済的自由主義の立場からは、民間企業経済に対する政府の干渉をできるだけミニマムにとどめることが理想とされ、逆に一部の社会主義者は、集権的計画経済の制度それ自体に固有な価値を認めようとする傾向>10>がある。けれども、経済活動に対する公共政策の介入の手段や方向や範囲に関して、あらかじめ一定の原則を設定し、それをどこまでも墨守しなければならぬと考えるべき理由はない。むしろわれわれの見地からすればどのような社会にとっても、日々に解決していかなければならない経済問題の本質的性格は共通であって、これらの問題の解決のためにどのような経済組織が最も適しているかは、いわばケース・バイ・ケースの便宜(expediency)に照らして判定されるべきだろう。自由企業経済も計画経済も、総じて経済機構はそれ自体が目的ではない。すくなくとも経済学の立場においては、経済機構はなによりもまずわれわれの「欲求充足」の手段としての効率性を問われなければならない。なんらか特定の経済体制を目的の地位にまつりあげて神聖視するかぎり、ドグマヤイデオロギーの闘争はあり得ても、経済学的な政策論の余地はありえないだろう。(pp.10-11)

 (…)わけても景気変動に伴う経済的不安定、市場の不完全性や独占力によって引き起こされる資源配分の非効率性、所得配分の不満足な状態などは、衆目の一致して指摘するところである。すべてこの州の欠陥を是正するために経済施策の必要性が見いだされるのであって、じじつ、経済全体の運営において国家の経済政策の果たしつつある役割を増大してきたことは最近のいちじるしい現象である。現代の資本主義諸国の経済は純然たる民間企業の経済というよりも、むしろ<混合経済>(mixed private and public system)とよばれるのにふさわしい変貌を示しているといえよう。(p.12)

 およそ経済活動に関連して、国家の「なすべきこと」と「なすべからざること」(ジェレミー・ベンサムのいわゆる"agenda"と"non agenda ")との分界線をいかに引くべきかということが古典経済学における政策理論の中心問題を形成していたといってよいが、この点について、国家の活動をミニマムにとどめること(いわゆる「夜警国家観」)がドグマとして主張されたことはなく、市場経済の万能が信ぜられていたわけでもない。むしろ実際上の「有用性原則」(the principle of utility)に照らして、市場経済のユニークな利用を活用するとともに、その欠陥を国家の政策によって補充しようとするのが古典経済学の基本的な立場であった。(p.81)

 じっさい、近代的な経済発展は国家主権(national sovereignty)の確立とともに始まっていると言えるが、これは決して偶然ではない。というのは、国家主権の確立によって初めて、統一的な法の支配のもとにおける社会秩序と治安の維持が可能となり、また共通な取引週間と貨幣制度とをもつ広範囲の市場経済の成立が可能とされるにいたったからである。またとくに、経済発展の中核をなすのは資本の蓄積であるが、これは多少とも遠い将来を見通しての耐久的な資本設備の建設を含まざるを得ないのであって、蓄積の成果に対する「所有権」(property)が確立し、またそれを収奪や破壊から保護するに足るだけの社会的・政治的な安定が予測されうるのでなければ、積極的な投資活動を期待することはできないであろう。(p.82)

 「所有権」は必ずしも私有財産権と同じではなく、固有その他の集産的所有(collectivist ownership)もまた所有権の別な形態であるに違いないが、すくなくとも自由き企業制度は、財産の私的所有をもっとも肝心な不レイムワークの一部にしているといえよう。>82>(…)もし経済発展が望ましいものと判断され、自由企業体制によってそれを促進するという基本方針が決定されているとするならば、この体制に固有なルールを尊重した制度的安定が何よりも肝心であることを、あらかじめ確認しておかなえればならない(p.83)

 社会的共通資本の多くのものについては、それの便益を広く社会全般に及び、サービス価格の形で費用を回収することが難しいという上記の特徴が認められるほかに、長い建設及び回収期間を要し、かつ当初に巨額の一括的投資を必要とするのが通例であって、これを整理することは政府のもっとも重要な政治的機能の1つである。(p.84)

 けれどもすくなくとも民主的社会理念のもとにおいては、個々人が何を欲し、何を望ましいと考えるかは原則として当該個人自らの自主的な判断に待つべきところであって、中央当局がいかに人民の福祉を念頭にしているとしても、個々人の欲する、あるいは欲すべき選択についての判断を代行して、これを個人に付加するという「温情的干渉主義」(paternalism)は許容されないであろう。したがって、このような経済においては、それおれに独自性と「主権」(sovereingty)とをもつところの、多数の個人的選好スケールが相並んで存立しているというほかなく、資源配分の基準となるような単一の社会的選好スケールを直接見出すことは不可能である。(p.195)

 パレート最適の概念は、一定の経済的変化によって損失を受ける人が皆無であるかぎり、すくなくとも一部の人々の経済的地位が改善されることは社会にとって望ましい変化であるとみる価値判断を背景にしている。所得配分の良否についての明示的な態度決定を留保したうえで、しかも「消費者主権」の趣旨を生かした資源配分効率の評価基準を求めようとするかぎり、われわれは少なくとも暫定的に、この制度の「ゆるやか」な価値判断を容認する必要がなくてはならないだろう。
 しかし、もし消費者の選好パターンへの対応という点にまで視野を広げようとするならば、われわれはなおいっそう「ゆるやか」な価値判断を導入するにとどめることもできる。すなわち、パレート最適の概念が効用ベクトル比較に立脚しているのに対し、われわれは様々な財の産出量を成分とする物量ベクトルの比較に視野を極限することも可能である。(p.197)

 というのは、最適化政策のもたらす利益を個人間に適当に分配すればすべての個人をベター・オフにすることが可能であるような場合においても、政策措置の直接的効果としては一部の個人に不利が及ぶことを避けなければならないかもしれないからである。たとえば、強度の独占的生産性を排除することは資源配分の改善をもたらし、それのよって経済全体がベター・オフにされうる余地を与えるとはいえ、直接的効果の一部として独占者の利潤が減少することはさけられない。それゆえ、パレート最適概念が立脚している考えかたを厳格に解して、いやしくも社会の何人かの損失が及ぶかぎり、そのような政策措置の是非は当面の基準の射程外に属すると考えなければならないとすれば、実際上、この基準の適用によって処理されうるケースはまれであると言わざるを得ない。
 その点で困難を理論的に回避する途をひらいたのは、いわゆる<補償原理>(compensation Principle)の適用である。ある政策の直接的効果が社会の多くの人々に利益をもたらす反面、他の一部の人々は損失をこうむるという事態が生じた場合、前者から租税を徴収して後者の損失を補償するという措置が考えられる。そうして完全な損失補償を行ったあとでもなお一部の人々の経済的地位は以前よりも改善され、そこに純利益が残されているとすれば、こうした政策は資源利用の効率性ないし生産性の上昇をもたらしたものとして判定される。この考えかたをはじめて明示したのはカルドアであるが、相次>200>いでヒックスをはじめとする多くの経済学者がこれを受け入れ、補償原理はいわゆる「新厚生経済学」(New Welfare Economics)の理論的支柱の一つとみなされるようになった。それは要するに、利害当事者間における保障的所得移転(compensation transfers)という理論上の中間項を導入することによって、パレート最適概念の適用可能範囲を拡張しようとする趣向にほかならない。(p.201)

 価格機構による資源配分の調整が及びえないもう一つ重要な領域は、一般に<公共財>または<共同財>とよばれているところの、独特な性質をもつしsてうないしサービスの供給及び利用に関係している。それは国防・警察・消防などをはじめ、橋・道路・港湾など産業基盤施設、あるいは公園・図書館・下水道など生活環境施設の便益の大部分を包括するものと考えてよい。一般の<私的財>(private goods)については、各自がそれらの一定量をそれぞれ個別的に購入し、これを排他的に利用ないし消費するという手順がとられるのに反して、<公共財>(public goods)の利用はその社会のすべての人々によって「共同的」に行われざるを得ないところに重要な特殊性が見いだされる。(p.278)

 個人間の所得分配、したがってまたその間の格差は、個人が生産過程に向けて供給しうる様々な用延期の質及び量と、それらの用途の市場における価格形成とに依存して決定されるから、所得配分の変更を目的とする政策は、(1)それらの所得決定要因のいずれかに手を加えるか、それとも、(2)市場過程の結果として成立する分配状態を一応与えられたものとして、政府財政の媒介による事後的な移転を実現するか、このどちらかの方法によらなければならない。このうち前者の方法は、さらに(1・a)人的能力それ自体をも含めた広義の「資産」所有方法に重きを置くか、それとも、(1・b)価格形成に対する直接干渉をくわだてるかによって、政策の経済的効果に重要な差異を生ずるであろう。もし市場構造が競争の効果を有効におさめうる状態におかれて>337>いるとするならば、価格形成に対する直接干渉は経済の生産効率を阻害し、分配の「公正」の要求と経済的効率性との間に重大な食い違いが生ずるかもしれない。これに反して資産所有の分配は市場機構にとっての「与件」であるから、これの変更が適当な方法によって行われたとすれば、市場機構のメカニカルな効率性に対する影響は一応中立的でありうる。(pp.227-228)

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◆Keynes, John Maynard. (1926). "The End of Laissez-Faire," London. (=1980 宮崎義一 訳 「新自由の終焉」 宮崎義儀・一伊東光晴 責任編集 『世界の名著69 中央公論社』, pp.131-158)

 そのときどきに自由放任の論拠とされてきた形而上学ないしは一般的原理は、これをことごとく一掃してしまおうではないか。個々人が、その経済活動において、長い間の慣習によって「自然的自由」を所有しているというのは本当ではない。持てる者に、あるいは取得せる者に永久の権利を授ける「契約」など一つもない。世界は、私的利害と社会的利害とがつねに一致するように天から統治されているわけではない。世界は、事実のうえでも、両者が一致するように、この地上で管理されているわけでもない。啓発された利己心は、つねに社会全体の利益になるように働くというのは、経済学原理からの正確な演繹ではない。また、利己心が一般に啓発された状態にあるというのも本当ではない。個々人は、各自別々に自分の目的を促進するために行動しているが、そのような個々人は、あまりにも無知であるか、あるいはあまりにも無力であるために、たいてい自分自身の目的すら達成しえない状態にある。経験によれば、個々人が一つの社会単位にまとまっているときのほうが、つねに各自別々に行動する時よりも明敏感さを欠くというおkとは証明されていない(p.151)。

今では忘れされているけれども、ベンサムの有益な命名法によって、しばしばなすべきこと AgendaとなすべからざることNon-Agendaと名付けられているものを我々は区別しなければならない。しかも、その区別に当たっては、ベンサムがそれに先立って想定したこと、すなわち、干渉は「一般的に不要で」、かつ、「一般に有害」であるとする想定は、これを捨てなければならない。今日の経済学者た>151>ちに課されている主要な問題は、おそらく、政府のなすべきこと政府のなすべからざることとを改めて区別しなおすことであろう。これに伴う政治学の課題は民主制度の枠内で、なすべからざることを遂行する政府の形態を、いろいろと工夫することにある。(p.152)

 しかし、俺らの例よりも興味深いのは株式会社組織の動向である。一定の年数と規模に達すると、それは個人主義的私企業の段階にとどまらずして、むしろ「公法人」public corporationに近づいていく傾向にある。最初の数十年間の変化のうちの最も興味をそそる、しかし、あまり注目されていない発展は、大企業がそれ自身を社会化しようとする傾向である。大会社、わけても大鉄道会社ないし大公益事業会社、さらに大銀行ないし大保険会社などが成長してある一定点に到達すると、資本の所有者すなわち株主が経営からほとんど完全に分離され、その結果、多額の利潤を得ようとして個人が直接経営に示す>152>関心は、まったく副次的なものになってしまう。この段階になると、経営によって払われる考慮は、株主のための利潤の最大化よりも、組織の一般的安定と名声のほうにずっと傾くことになる。株主は、慣例上妥当とみなされる配当に甘んじざるを得なくなる。しかし、ひとたび、この配当が確保されるとなると、経営の直接的関心は、社会からの批判と会社の顧客からの批判を回避することに向けられるのがしばしばである。とりわけ、会社の規模が大きいか、ないしは反独占的地位を占める場合には、公衆の目に付きやすく、また、社会から攻撃を受けやすいため、なおさらそうである。(p.153)

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◆Olson, Mancur. (1965). The Logic of Collecitve Acition. Harvard University Press. (=1983 依田博・森脇俊雅訳 『集合行為論――公共財と集団理論』, ミネルヴァ書房)


第1章 集団と組織の理論的考察
第2章 集団規模と集団行動
第3章 労働組合と経済的自由
第4章 国家と階級の伝統理論
第5章 伝統的な圧力団体論
第6章 「副産物」理論と「特殊利益」理論

 国家は自発的負担あるいは納付では生存しえず租税に依存しなければならないが、その理由は、民族国家の提供するもっとも基本的なサービスが、ある時点で競争市場においては高価格になることに似ている。それらは、もしだれにでも入手可能であるならば、すべての人のも入手可能でなければならない。国防や警察の保護及び法の秩序体系全般のように、政府によって提供される基礎的で、そしてきわめて基本的な財あるいはサービスは、国家のなかのほとんどすべての人に利用できなければならない。政府費用の分担を自発的に支払わない人々に、軍隊、警察、司法による保護を与えないことは、不可能ではないとしても、明らかにありえないことであろう。ゆえに、租税が必要となるのである。政府によって供給される共通のあるいは集合的な便益は、通常、経済学者たちによって「公共財」と呼ばれる。公共財の概念は、政府財政の研究のなかでもっとも古く、かつもっとも重要な考えの1つである。(・・・)
 しかしながら、政府財政の研究者は共通目的の達成あるいは共通利益の充足は、公共財あるいは集合財が当該集団のために供給されてきたことを意味するという事実を見落としてきた。目的あるいは意図が集団に共通しているという事実そのものは、集団内のいずれの個人も集団目的達成によってもたらされる便益あるいは充足から>13>排除されないことを意味する。今章の冒頭で指摘したように、ほとんどすべての集団と組織は、構成員の共通利益に役立つことを目的としている。(p.14)

 しかしながら、小規模の集団においてさえ、集合財は、普通、最適規模では供給されないであろう。つまり、集団成員たちは、かれらの共通の利益になる量の集合財を供給しないであろう。ある特定の制度的な仕組みのみが、全体としての集団にもっとも利益になるような量にまで集合財を購入する誘因を個別成員に与えるであろう。このような集合財供給の過少傾向は、集合財が、定義によって、ある個人がいったん自らのために入手するや、集団内の他の個人をその消費から排除することができない財であるという事実に起因する。かくしてある個人成員は、集合財をより多く得るために支払う支出からの便益のうちのごく一部だけしか得られないので、かれは、全体としての集団によって最適量に達する前に、自らの集合財購入をやめるであろう。その上、集団のある成員が他の成員から無料で受け取る集合財の量は、自らの費用でその財をより多く提供しようとする誘因を減少させるであろう。したがって集団が大きければ大木ほど、それは集合財の最適供給量には達しないであろう(p.30)

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◆Buchanan, James, M. (1971). The Demand and Supply of Publc Goods.Rand Mcnally & Company. (=1974 山之内光躬・日向寺純雄 訳 「公共財の理論――公共財の需要と供給」 文眞堂)


1 方法についての序論
2 同等な人々の社会での単純な交換
3 同等でない人々の社会での単純な交換
4 純粋公共財と純粋でない公共財
5 多数私的財、多数個人――<フリー・ライダー>問題
6 多数公共財、多数個人――共通価値尺度財をともなわない状況
7 政治的決定の公共性
8 財政選択の制度
9 どの財が公共的であるべきか
10 実証的財政理論への道

 もしグループのために選択することを強いられるならば、個人は確かに自分たちの考慮の領域を広げるであろうということである。しかしながら、この二つの他場合の行動に対して予想される動機づけにおけるなんらかの際について認識することは、範疇上の差異について認識することと同じではない。事実、もし人々が個人的な利益よりもグループの利益について自分たちの自>151>身の解釈にもとづいて<公共的な>選択対象の間を選択すると予想されうるならば、われわれは公共財の理論と厚生経済学を、大部分、放棄し、そして7章と8章に含まれる類の分析にもっぱら時間を割くことができるだろう。グループの利益について個人的な定義が違うかぎり、意見の対立が生じるだろうし、そしてまた標準的な種類の効用関数はまったく存在しないであろう。(p.152)

 その質問はいいかえるとつぎのようになる:どのような状況のもとで、集合的・政府的供給が私的あるいは非集合的供給よりも効率的であろうか。ここでは標準的な答えはもう当てはまらない。だから経済学者は代表的な制度との比較分析にもとづいて回答しなければならない。公的に組織された供給から生じてくることが予想される結果は、おのおののケースで、非集合的な自発的に組織された市場供給から出てくることが予想される結果と比較されなければならない。(p.178)

財は、大部分、最初から衆参化されてしまっていたので、<公共>財の<公的>供給についての問題はほとんど前提されなかった。このセクターは経済的分析に従わないものと考えられていた。したがって、社会主義者からも社会主義者でないものからも、それにはほとんど注意がはらわれなかった。このセクターにおける決定は<政治的>におこなわれると考えられており、だから私的財が市場において供給されようと、政治により供給されようと、その需要と供給についての決定に適用される分析には従わないものと考えられてきた。
 政治的分野においては、アウトカムを個人的価値に結びつける試みはなんおこなわれず、また政策の分析は慈悲深い専制君主を<あたかも>仮定したかのような設定により、進められてきた。おどろくことに、このような政策上の過程は、参政権の拡張が民主主義的選択を誰の目にも明白にさせた、歴史上のこの時期を通じてさえ、維持されていた。(p.198)

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◆Hillman, Arye L. (2003). Public finance and public policy : responsibilities and limitations of government. Cambridge, U.K. : Cambridge University Press. (=2006 井堀利宏 訳 『入門財政・公共政策――政府の責任と限界 』, 勁草書房)


第1章 市場と所有権
第2章 集団の利益
第3章 投票と公共財
第4章 市場の補正
第5章 社会正義
第6章 政治と再分配
第7章 課税
第8章 利用者料金
第9章 政府はどのくらいの規模であるべきなのか
第10章 健康、教育、退職

 他の別の財の生産をいくばくか断念しなければ、どの財の生産量をもそれ以上増やすことができないとき、生産のパレート効率性は達成される。人々の間で財や所得を配分するとき、他の誰かの状態を悪化させずには、誰かの状態を改善することができていないとき、消費のパレート効率性が達成される。
 したがって、パレート効率性は、無駄がないということを定義したものである。何かを断念せずには、それ以上生産を増やすことができない。他の誰かを犠牲にせずには、社会の誰の状態も改善できない。(p.13)

 便益を受けたものは、損失をこうむった者の損失を補償し、なおかつその状態を改善できる。損失をこうむったものへの損失が保障された後には、以前より状態が改善した人々がいる一方で誰の状態も以前より悪化していないので、パレート効率性が満たされることになる。(p.14)

 このように個人による補償には、莫大な行政費用がかかる。その家のあったところに家の所有者が料金所や監視装置を設置するということも期待できない。政府が、課税によって調達された所得を移転することによって家の所有者の保障を行なうであろう。(p.15)

 集団所有制の基礎となっている考え方は、私有財産を無くすことによって妬みが取り除かれるだろうということであった。しかし、集団所有制のもとで、もしだれかが自分たち以上のものを所有しているならば、それは十中八九、特権に関わっているということを人々は知っていた。集団所有制のもとでも妬みは存続し、おそらく、市場や私有財産制の存在する場合よりも、その程度は大きかったであろう。特権は人々の受け取るものに影響を与えるので、社会による所有の狙いであった。平等による社会正義は達成されなかった。(p.65)

 公共財は公共政策によって提供されるために、そう呼ばれるのではない。公によって費用が負担されるために公共財といわれるわけでもない。公共財が公共財であると言われる理由は個人が費用を負担するか公共が費用を負担するかに関わっているのでもない。そうではなくて、1人の個人のみがその財から便益を受けるか、多くの人がその財から同時に便益を受けるかに関わっている。私的財からは一度に一人の人が便益を受けるにすぎないが、公共財はたくさんの人が便益を受ける。(p.70)

 純粋でない公共財から得られる便益は、使用者の数が多くなると、混雑現象を起こすため、低下する。ある特定の公共財を考えると、時間によって純粋であったり、純粋でなかったりする。午前3時の道路は純粋公共財であろうが、午前8時になればピーク時の交通が道路をふさいでしまい、同じ道路とといえども純粋公共財ではなくなる。(p.71)

誰かが灯台のなかに駐在し、彼らの船が近くに寄ってきたなればライトを消すといった方法である。しかしながら灯台がいったん作られると、彼らをは維持することは大変非効率的である。純粋公共財から人々を排除するのはパレート非効率である。なぜならば、使用人数を増やしても、誰にも害を及ぼさないからである。彼らを排除するためには労働力を使わなくてはならず、灯台のなかでフリーライドか否かをずっと監視している人の労働力は、他のより生産的なところに使うことができる。
 その島のすべての人々がフリーライドしたいと考えるならば、もちろん灯台は建設されない。建設されないならフリーライドはできない。すべての人々がフリーライドしようとするときには、公共財は供給されることはないので、フリーライドされることもない。(p.73)

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◆阪口正二郎 編 (2010) 『公共性――自由が/自由を可能にする秩序 (自由への問い 第3巻) 』, 岩波書店


対論 自由が/自由を可能にする秩序
1 考察―自由が可能にする秩序とは
 異論の窮境と異論の公共性
 自由「濫用」の許容性について
2 問題状況―公共性をめぐる問題の諸相
 プライバシー権とは何のための権利なのか
 憲法九条と自由;政治過程における自由と公共
3 構想―自由を可能にする秩序へ
 福祉国家の公序―日本国憲法は「最低限度の生活」しか保障しないのか
 暴力・リスク・公共圏―国家の暴力/社会の暴力と折り合うための技法

 自由と追う矯正の関係は、自由が公共的なものの邪魔だとする議論が近年>4>さかんに行われています。オウム事件や9・11以降はとくに、テロ対策をやる場合にいちいち個人の自由を守っていたら十分な対策はできないとか、学校での日の丸・君が代問題についても、先生に個人的な信教の自由や思想の自由を持ち出されても困るとか・・・。(・・・)
 どうもわれわれは伝統的に、公共性が持ち出されると「私」のほうが弱いと考えてしまう傾向がある。しかし、本当は「私」敵なるものが公共性をきちんと支えるような側面があるのではないか。たとえば憲法学の自由論だと、表現の自由が民主主義を可能にするという考え方があります。また考えてみれば、テロ対策というのも、人間は誤りうる存在である以上、政府の政策に対する異論も含めた多様な言論が存在していることが懸命なテロ対策をとらせることにつながるとも言える。つまり私的な自由が公共性をもたらすという側面が、一方ではあるわけです。
 ただ、他方で、今度は北田さんが言われたように公私区分の問題が出てきます。リベラリズム自身が公私を区別して、私的な自由を保障すると同時に公共空間においては始めて公共的な理由付けをするよう迫ってくるわけです。私的な空間把握まで私的な言説でかまわない。だから自由なのであり、そのかわり公共空間に入ってくる時は公共的な物言いをしなさい、という公私の区分です。(pp.3-4,対談坂口氏の発言)

 もともと「異論」は、「異論」が向けられる対象との間で微妙なポジションにある。「異論」はその対象に抗しながらも、そこから「退出」することを選択せず、その場にとどまり続けて「発言」している。「異論」は「中間」のポジションをとる。しかし、対象が通常の組織なら「退出」という選択肢はありうるが、対象が国家である場合には「国籍離脱」という形での「退出」という選択肢はそもそも現実ではない。だからこそ、この場合表現の自由を保障することで「発言」という選択肢を国家は必ず提供しなければならないのではないか。
このように考えれば、国家にとって「異論」を許容することは、そもそも国家が国民に対して「忠誠」を要求しうる最低限の条件であると考えることができる。「異論」は「公共的なるもの」に貢献するから許容されなければならないのではない。「異論」を許容することは国家が公共性を標榜しうるための条件なのである。もともとリベラル・デモクラシーは、互いに異なっていて、対立する可能>41>性の有る多様な生き方を人々がなすような社会を前提に、そうした人々が平和的に矯正しうる社会的枠組みを提供しようとするものである。人々が互いに異なった生き方を選択する以上、異論が生じるのは自然であり、たとえ異論を許容することが不自然でも、われわれは異論を許容せざるを得ない。リベラル・デモクラシーにおいては、「異論」は、「私的なるもの」の資格のままで国家に対して主張できるはずである。「すべて国民は、個人として尊重される」との日本国憲法第十三条はその旨を確認したものである。たしかに、危機の時代や、コンフォーミズムが蔓延する社会では、「異論」の公共性を協調せざるを得ないが、リベラルな社会で「異論」が保護されるべき原点を見失うべきではない。(pp.40-41, 坂口論文)

 ただしこの「公」と「私」との境界線は自然で本質的なものというよりも、構成的なものであることに注意が必要である。自由で民主的な国家にあっては、その線引き自体が公共の討議の対象となることが想定されているからである。実際、かつては社会経済問題への国家の介入は拒否されていたが、今日ではむしろ当然のことと解されるようになっている。また以前は当然に私的なことと利器あされていた雇用や労働をめぐる分野に現在では数多くの法律が制定され、政府の関与が図られてきている。>81>したがってプライバシーは、人為的に構成される「公」「私」の区別における「私」の側に属する概念であり、その意味で相対的に把握されるものである。
 この相対性の認識はプライバシーを実際に検討する際、肝要である。プライバシーの保護はそのコンテクストを無視しては考えられない。(・・・)プライバシーの保護といったときに、人々は私的な侵害を思い描いていることが通例であることは、法務省人権擁護局への相談件数によく現れている。区別される「公」「私」を貫いて侵害が発生し対応を迫られるという意味でもプライバシーは相対的である。(pp.80-81, 川岸論文)

 そもそも個人情報やプライバシーの保護がなぜ重要であるのか、それは個人が社会の中で人間らしく主体的に生きていくためである。個人は他者とさまざまな関係を構築しながら生活している。有るひとに対して自己の弱点までをもさらけ出すほど親密に付き合うが、別の人とは表面的で事務的な態様で関係を持つだけである、というように社会に生きる個人は人間関係を使い分けているのである。それは、あるひとりの個人がさまざまな役割を果たす中で当然に生じることである。その人間関係は関係する、しないの二者択一的であるよりはむしろ、人に応じて時に応じてあるいは対象事項に応じてグラデーションを持って構成される。そして他者との関係の制御を自らに留保できる場合に、個人は主体的に生きていけるのである。プライバシーを保護することが重要なのは、まさにこの他者との関係を主体的に統御する手がかりを個人に認めるからである。まったく孤立して生活する個人がいるとすれば、その人はプライバシーを想定する必要はない。秘匿しておきたい情報を暴露されないこと、事故についての誤ったイメージの流布を阻止することは、あくまでも人々の集団の課で生きる場合に問題となる。そしてそのことは社会における他者との関係の持ち>105>方に決定的に影響を及ぼすがゆえに、われわれの関心事になるのである。個人情報そしてプライバシーの保護は、個人がどのように社会的に生存していくかと言う構想と密接に関連している。その意味で本来的に公共的な事柄を前提としているのである。もちろんすべての人が完全に他者との関係を主体的に制御できるわけではない。プライバシーは規範的な要請でもある(pp.104-105, 川岸論文)

 アメリカを例にとれば、大恐慌からの脱却を実現させたのはニューディール政策ではなく、第二次大戦への参戦だった。しかも、共和党のドワイト・D・アイゼンハワー大統領が退任演説で警告したように、戦時下で軍産合体が形成されたために、戦争経済体制の維持は至上命題となっていた。アメリカの福祉国家は軍需産業への多額の財政支出と、雇用の場となる巨大常備軍の維持により有効需要を創出する「軍事ケインズ主義」(Johnson 2008)と分かちがたく結びついてしまったのである。
 言葉は悪いが、その意味で、戦争はアメリカにとって「公共事業」にほかならず、戦後の冷戦構造は、実践なしにこれを実施する仕組みであった。しかし、その冷戦かで繰り広げた軍拡競争が政府の肥大化と財政危機を招き、六十年代からの管理国家批判と、市場の自由を強調するリバタリアンらの議論が、福祉国家を挟み撃ちにする。一九七〇年代の「大きな政府」批判が、それであった。(p.168, 中島論文)

 水が個人の生命を維持し、自立的選択を行う上で基本条件のひとつなら、それは「必要に応じて」分配されなければならない。これを個人の自律性からみれば、自律の概念の中に自律を可能にする条件を組み込むことが必要であることを意味する。もっとも、それは諸刃の剣でもある。というのも、必要とされる条件の内容を政府の一方的認定に委ねるなら、給付を受ける者の自由と自律性が損なわれる可能性が、依然として残るからである。(p.185, 中島論文)

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◆UP:080305/REV:080310,080903,080929,090719,090721,0729