乳がん・ピンクリボン関連年表
984 日 丹波康頼編纂『医心方』に「緩疽」という病名として乳がんが記述される。美な※川[2006:33]
1746 伊 イタリアの医師によって『乳がんの手術書』出版。美な※川[2006:33]
1783 仏 ジャン=ルイ・プティが、乳がん手術の際に、一回の切開あるいは二回の切開による腋窩(わきの下)の腺切除を乳房切除とともに行うとする原則を発表する。Darmon [1993=1997:99]
1805ごろ 日 (文化2年)11.13.紀州(現和歌山県)の外科医華山青洲によって全身麻酔による乳がん手術が行われる。美な※川[2006:34-5]
1867 英 チャールズ・モアが「がん外科学の欠陥」という論文で、がんの再発原因は、病巣と周囲の賞結節との不完全な切除にあることを述べる。彼は、皮膚、リンパ管、死亡、胸筋、腋窩の結節腫とともに乳房を切り取ることの必要性を強調する。→この方法は、1882年バンクス、1888年グロスから支持を得る。Darmon [1993=1997:99]
1879 英 物理学者ウィリアム・クルックスが、電気卵を発明する。空気の100万分の1の真空状態を作って、中に2つの電極を通電させると、発行することを発見する。Darmon [1993=1997 :251]
1882 米 Jphns Hopkins大学の初代外科教授Halsted WSが最初の乳がん手術として定型的乳房切除術(standerd radical mastectomy)をする。霞ほか編[1994: 37]
1861-65ごろ 米 エーテル麻酔がアメリカの病院で普及。長時間を要するう手術も比較的苦痛を伴わずに行われる。Moss [1980,1989=1995:T 114]
1882 米 ジョンホプキンスJphns Hopkins大学の初代外科教授ハルステッドHalsted WSが、ビルロートなどに師事して帰国したのち、アメリカで乳房と同時に大胸筋、小胸筋、および脇のリンパ節を切除する術式を考案する。この方法によるはじめての手術。美な※川[2006:36]
1884 米 アメリカで最初の民間がん病院、New York Cander Hospital(後のMemorial Sloan-Kettering Cancer Center)設立。初代所長婦人科医J.マリオン・シムズ。Moss [1980,1989=1995:T 118]
1894 米 ハルステッドが乳がん根治手術方法を発表する。霞ほか編[1994: 23], Moss [1980,1989=1995:T123]
1895 独 ヴルツブルグ大学のレントゲン教授(Rontgen)クルックス管を操作している地にこの電球が目に見えない光線を発生していること、その光線には写真乾板を感光させる特性があること、不透明な数多くの物体を透過させる特性があることを発見する。霞ほか編[1994: 23],Darmon [1993=1997 :251]
1896 Grubbeが乳がん放射線治療経験を行う。霞ほか編[1994: 23]
1897 独 レントゲン線を繰り返し照射すると、皮膚の壊死(放射線皮膚炎)が確認される。このことから、数人の医師が治療を目的として白癬、癌性狼そう、がん治療のアイディアを思いつく。Darmon [1993=1997 :252]
1902 独ドイツの医師がX線の照射によって人間にがんが生じる初めての症例を記録する。Moss [1980,1989=1995:T 149]
1903 仏ドゥボー・マヌワール博士が『パリ医学雑誌』で、皮下にX線を照射することにより、皮膚を損傷することなく乳がん治療できることに関心を持つと述べる。Darmon[1993=1997:253]
1906 英 チャイルド博士がイギリスでがん検診の普及に関する初めての著作『疫病のコントロールあるいはがんはどうすれば治るか』を刊行。25年に再刊。Darmon[1993=1997: 409]
1907 米 ポーターとホワイトが『外科紀要』11月号に放射線によって引き起こされた明確な所見記録を12件発表する。Darmon[1993=1997:256]
1908 日 癌研究会が創立される。初代会頭に青山胤通、副会頭に本田忠夫、翌年に総裁に桂太郎、副総裁に渋澤栄一が就任する。[癌研]
1911 放射線に起因する94件のがん症例のうち、54件が医師ないし技師。 Moss [1980,1989=1995:T 148]
1913 Coolidgeが真空X線管が発明され、線量測定が正確に行われるようになり、外部照射の基準をつくることができるようになる。霞ほか編[1994: 23]
1913 乳がんの診断にはじめてX線が使われる。切除された乳房の標本をX線撮影し、その組織の評価をしたのが始まりとされる。美な※川[2006:65]
1921 米 がんによる死亡率が10万人に86人。[Casamayou [2001=2003: 36]
1922 米 公衆衛生局(Public Health Service: PHS)がはじめてハーバード大学にがん調査研究所(investigation laboratory)を設立する。[Casamayou [2001=2003: 4,36]
1924 英 Keynes Gが、局所再発乳がんに対してラジウム針を刺すことが予想以上に効果があることから乳房の温存を着想した。病巣が大きい場合のみ乳房を切除し、中程度以下の場合にはそのままにして、腫瘍部にラジウム針を差し入れて照射した。放射線単独照射方による乳房温存治療(breast conservation solely by radiotherapy, exclusive radiotherapy, radical radiation therapy)と呼ばれるようになる。霞ほか編[1994: 3,23]
1924 米 Memorial病院が、「患者の治療に用いられる放射性物質ラジウムには特別料金を貸すものとする」という運用規定を制定。年間18,000件以上の放射線治療によって、約7万ドルの収益。Moss [1980,1989=1995:T 154]
1927 米 乳がんのX線撮影が臨床へと応用されたが、撮影されたフィルムでは診断に十分な画質がえられにくいとの判断から中断される。美な※川[2006:65]
1928 米 マシュー・ニーリィ上院議員(民主党・ウエストヴァージニア州)、ウィリアム・J.ハリス(民主党・ジョージア州)それぞれが、がん治療研究における政府の指針を国立科学アカデミーに決定させる権限を付与する法案を提出する。[Casamayou [2001=2003: 36]
1930 仏 国立社会衛生協会とフランス対がん連盟が「ガン防衛習慣」を組織。[Darmon[1993=1997: 410]
1934 米 Memorial病院「年次報告」。「高圧x線の大量証左を行えば患者の皮膚には過度の障害が起きるので、術前照射というこの方法は満足すべきものではない」と結論。Moss [1980,1989=1995:T 156]
1935 米 がんによる死亡率が10万人に116.2人。[Casamayou [2001=2003: 36]
1935 米 NIHのルイス・R.トンプソン所長が、がんなどの慢性病研究への公的支援をえられるように手紙を書くキャンペーンを行う。[Casamayou [2001=2003: 36]
1936 米 トーマス・パーランが公衆衛生局長官に任命され、慢性病、とくにがんの治療と予防に重点を置いた予算配分が行われる。[Casamayou [2001=2003: 36]
1937 米 春と夏に女性野戦軍団(Women's Field Army)と呼ばれる13の専門職女性組織が法案を推進するために「がん撲滅運動」を展開する。全国保健婦組織、女性公衆衛生協会、全国有色人種女性協会、全国女性協議会、女性実業家および女性専門職の国際連盟、全国ユダヤ人女性協議会、アメリカ大学女性協会など。39州にボランティア組織がつくられ、連邦議会に膨大な嘆願書が届けられる。[Casamayou [2001=2003: 38]
1937 米 モーリー・マーバリック下院議員(民主党・テキサス州)がPHSの官僚の助力を得て、年間100万ドルの予算と、先端治療設備が整えられた国立がん研究機関を創設する法案を4月に提出する。ジョン・F.ハンター下院議員(民主党 オハイオ州)、ウォーレン・G.マグヌソン下院議員(民主党 ワシントン州)、ホーマー・T.ボーン上院議員(民主党 ワシントン州)も同様の立法措置を提案する。[Casamayou [2001=2003: 33,35]
1937 米 「がんを撲滅すること、およびがんがもたらす個人や家族、そして、社会全体への惨害を防止すること」を目的として、連邦議会で「国民がん法」が可決される。会計年度ごとに70万ドルの予算が計上される。国立がん研究所(NCI)が国立衛生研究所(NIH)の一組織として設立される。[Casamayou [2001=2003: 38]
1937 米 アメリカ外科医学会が放射線治療を「証明された」治療法として認定。Moss [1980,1989=1995:T 155]
1940ごろ フィンランド フィンランドのMustakallio、カナダのPateyによって乳房温存手術と放射線照射による乳がん治療が行われる。霞ほか編[1994: 41]
1945 日 8月、広島、長崎に原爆投下。
1948 ペイテイPateyが大胸筋を温存し、小胸筋のみを切除することにより、美容面を考慮しつつ乳房前節所とリンパ節を完全郭清する術式を発表する。ハルステッドの定型的乳房切除術と比較して成績に差がないことを報告。霞ほか編[1994: 39]、美な※川[2006:39]
1948 アレキサンダーブランシュウィッグ博士ががんの全面的摘出方法を考案する。Moss [1980,1989=1995:T 120]
1952 アーバンUrbanが、脇のリンパ節と胸骨の傍にあるリンパ節を切除する術式拡大乳房切除術(extended radical mastecotomy)を報告する。美な※川[2006:38]
1954 米 ハーディン・ジョンズ(カリフォルニア大学バークレイ校教授)がニューヨーク科学アカデミーでがんの正統的治療が失敗することについて講演。Moss [1980,1989=1995:T 89]
1955
[Avon Foundation] 米 Avonが女性とその家族の生活を改善することを目的としたAvon Foundationを設立する。400ドルの奨学金の助成を行う。Moss [1980,1989=1995:T 190]
1955 米 Avonが薬物試験の中心がSloan-Kettering Cancer CenterからNCIの「全米がん化学治療サービスセンター」(メリーランド州ベセスダ)に移行。
1956 米 モリブデンによる管球によって低エネルギーによる乳房撮影が行われる。美な※川[2006:66]
1958 日 対がん協会、癌研会頭の塩田廣重が、第16回癌学会総会で提唱し、朝日新聞社が中心となり財団法人日本対がん協会が設立される。現在、全国に46支部をもち、がん検診や広報活動などを行う。[Jcancer][癌研]
1960 英 ロンドンのGuy's Hospitalにおいて全乳切と乳房温存手術の効果を比較する最初の大規模な臨床試験が行われた結果、温存軍に悪い成績が示される。霞ほか編[1994: 44]
1961米 ノバスシコア結核療養所医師イアン・マッケンジー(Ian Mackenzie)が結核のX戦闘し検査と乳がんとの相関に注目する。診断した患者が46ヶ月の結核治療のあいだに少なくとも200回のの透視検査、数千ラドにのぼる被爆を受けていたことを突き止める。Gofman[1981=1991:212]
1962 オーチンクロスAuchinclossが大胸筋、小胸筋の両方を残す術式を考案し、その成績が定型的乳房切除術及び拡大乳房切除術と比較しても10年生存率に差がないことを報告する。美な※川[2006:39]
1965 米 イアン・マッケンジー(Ian Mackenzie)が電離放射線によって誘発される悪性疾患のひとつに乳がんが挙げられるべきだとの論文を発表する。原爆症外調査委員会(ABCC)のワネボー(Wanebo)がこの論文を読み、広島長崎で生き残った女性に放射線による乳がんが増加しているかどうかを調査し始める。
MacKenzie, (1965). "Breast cancer following multiple fluoroscopies," British Journal of Cancer 19, pp.1-8. Gofman[1981=1991:213]
1966 世界初の乳房専用X線撮影装置(マンモグラフ)を発表。
[http://www.gehealthcare.co.jp/rad/xr_shin/mammo/products.html]
1967 フランスCGR社(現ヨーロッパGE社)とフランスGros教授によってセノグラフ(マンモグラフ)が共同開発される。 美な※川[2006:69]
1968 米 原爆症外調査委員会(ABCC)のワネボー(Wanebo)が乳がんと原爆放射線とのあいだに優位な相関がある旨の論文を公表する
Wanebo, C. K., Johnson, K. G., Sato, K., & Thorslund, T. W. (1968). "Breast cancer after exposure to the atomic bombing of Hiroshima and Nagasaki. New England Journal of Medicine 279, pp.667-671.
Gofman[1981=1991:213]
1968 ミラノ国立がん研究所Veronesiが、乳房温存治療とHalsted術式との比較臨床試験をWHOに提起する。
霞ほか編[1994: 54]
1968 米 「がん征服市民委員会」(ACS)が意見広告をNew York Times(Dec.9 1969)に掲載する。「ニクソンさん、あなたにはがんの征服が可能です。神の祈りが聞こえるとすれば、その祈りのほとんどは、ああ、神様お願いです、がんには罹らないようにしてください、というものばかりでしょう。にもかかわらず、去年は31万8000人の国民ががんで死亡しました。さあ大統領、今年こそあなたがもっているその権限にものをいわせて、このようなのろいに終止符を打ち始める時なのです」
Moss [1980,1989=1995:T 35]
1969 米 3月、ハーディン・ジョンズ(カリフォルニア大学バークレイ校教授)が第11回科学記者セミナーでがんの正統的治療が失敗することについて講演。「驚くべきことだが、ありふれたタイプの悪性腫瘍の死亡率は治療したかしなかったかを問わず、ほぼ同じ値になる」と述べる。Moss [1980,1989=1995:T 89]
1969 米 ミューデン(Myrden)とヒルツ(Hiltz)がマッケンジーのノバスシコア結核療養所の患者の乳がん発生状況について追跡調査を行い、論文発表する。結果、マッケンジー研究よりも多くの乳がん例が報告される。また調査対象を透視検査被曝後10年後から始める。乳がん死ではなく、乳がん発生が対象とされた。
Myrden, J. A., & Hiltz, j. E. (1969). "Breast cancer following multiple fluoroscopies during artificial pneumothorax treatment of pulmonary tuberculosis," Canadian Medical Association Journal 100, pp.1032-34
Gofman[1981=1991:216]
1969 米 メトラーら(Metteler et al.)が、急性産後乳腺炎(授乳初期に見られる乳房の炎症)でX線治療をうけた606人の女性の乳がん誘発に関する論文を発表する。この研究では、X線治療を受けた女性の乳がん発生率が、ニューヨーク州北部の年齢別発生率から期待される値の2倍であることが示された。
Mettler, F. A. Jr., Hempelmann, L. H., Dutton, A. M., Pifer, J. W., Toyooka, E.T., & Ames, W. R. (1969). "Breast neplasm in women treated with X-rays for acute post-partum mastitis; a pilot study, Journal of the National Cancer institute 43 pp.803-811.
Gofman[1981=1991:216]
1970 米 タンプリンとゴフマンが、マッケンジートワネボーのデータを新しい手法で扱った分析結果をはじめて論文発表する。そこで、X線(マッケンジー)または原爆放射線(ワネボーら)被曝による(自然発生分を超える)ガンの増加を1ラドあたり過剰率という表現を用い、「また少なくとも放射線によるガン誘発に関して、人間は従来考えられていたより感受性が高いということをデータは意味している」と述べる。
Tamplin, A. R., Gofman, J.W. (1970). "Radiation-induced breast cancer," Lancet 1 pp.297
Gofman[1981=1991:214]
1971 米 12月23日、ニクソン大統領、がん関連法案(National Caner法)に署名。「建国200年祭すなわち1976年までに、全米レベルでの征服が達成されるべきものとする」と法案に明記。3年間で10億5900万ドルの予算計上。15の研究、トレーニング、デモンストレーションを行うがんセンター設置。全米がん研究諮問委員会(National Cancer Advisory Board: NCAB)、大統領がん委員会創設。[Casamayou [2001=2003: 5]Moss [1980,1989=1995:T 35]
1971 米 ゼロックス社が、コピーの原理を応用した胸部の画像を描写する「ゼロラジオグラフィ・ゼロックス125」開発。美な※川[2006:70]
1971 米 1971-72年にかけてニューヨーク都市部のがん患者を対象にした調査。治療費5,000-50000ドル。平均21,718ドル。患者の家計平均収入の2.3倍に相当すると指摘(Cancer Care 1973)。Moss [1980,1989=1995:T 48]
1972 米 ACSと国立がん研究所(NCI)による乳がん検査共同プロジェクト。全米27箇所の検査センターで30万人の女性が検査登録し、一回当たり平均2ラドの放射線量の照射を受ける。被爆リスクについては被験者に知らされず、1976に問題となる。(New York Times Mar.28.1976)[がんMoss (1980,1989=1995:T 73]
1973 伊 イタリア・ミラノがんセンターのベロネッシVoronesiが、乳房温存術を行うグループとハルステッド定型的乳房切除術のグループを作り、温存術には放射線療法を併用する試験を開始する。ミラノトライアル→1981年 放射線照射を併用した乳房温存術の安全性を発表。な※川[2006:40-1]
1973 米 ヒスパニックチーズ・クリームのメーカーCacique Inc.が"Fighting Diabetes Together"という名称でCity of Hopeを支援するCRMをはじめる。47すべての商品にCity of Hopeのロゴとキャンペーンリボンが描かれたロゴが印刷される。[City of Hope1]
1973 米 白人のがんの絶対的5年生存率、38.5%。Moss [1980,1989=1995:T 96]
1974 ベティ・フォード大統領夫人、ハッピ・ロックフェラーが、自らの乳がんの診断結果と手術について手記を出版する。
[Casamayou [2001=2003: 59]
1974 米 6月にローズ・クシュナーが乳がんの診断を受けて、乳房の温存療法と女性患者に手術の決定権を認めさせる運動を始める。
[Casamayou [2001=2003: 65]
1974 米 胸部外科医ジョージ・クライル2世がハルステッド法を『乳がん論争で女性が知っておくべきこと』のなかで批判。「根治治療は極度の奇形や醜さのみならず、可能な限り患者に身体障害を負わせてやろうと企てられたものといってよい」。クライルは乳房とそれに隣接するリンパ節の一部だけを切り取る手術法を主張。Moss [1980,1989=1995:T123]
1974 スウェーデン マンモグラフ検診が導入される。美な※川[2006:102]
1974 日 ゼロラジオグラフィ・ゼロックス125が日本に250台あまり設置される。美な※川[2006:70]
1974 日 ワコールが乳癌などで乳房切除を余儀なくされた女性胸のブラジャー下着「リマンマ」発売。
[Crazia0411]
1975 米 乳がん支援センター(Breast Cancer Advisory Center, BCAC)設立。ホットラインと郵便サービスを始める。[Casamayou [2001=2003: 70]
1975 米 がん撲滅プログラム批判。ノーべル賞受賞者ジェイムズ・ワトソンがMITで開かれたシンポジウムで、アメリカ市民がつかまされたのは「がんの空手形である」と発言(New York Times Mar 9,1975)。Moss [1980,1989=1995:T 39]
1976 米 1972年の検診プロジェクトが問題となる。NCI所長フランク・ラウシャが1回のマンモグラフィ検診でがんに罹る確率が1%増加すると述べる。(New York Times, Aug.23,1976)。NCIがレスター・ブレスローを委員長とする専門家委員会を設置。50歳未満の兆候のない女性には、乳がんX線検査を中止すべきものであると勧告(New York Times Jul.15.1976)。NCIは50歳以上、乳がん罹患歴のある35−49歳の女性、母、姉妹に乳がん罹患歴のある40-49歳までの女性に限るべきと勧告。Moss [1980,1989=1995:T]
1976 米 Bailarが病巣の早期発見によって乳がん死を免れる女性の数より、マンモグラフを受けることによって乳がん死する患者の方が多いことを指摘した。また、マンモグラフの使用に恩恵があるか疑わしい50歳以下の女性に付いて使用を制限することを主張する。
Bailar, J. C. V (1976). "Mammography: a contrary view," Ananals of Internal Medicine 84, pp.77-84.
Bailar, J. C. V (1978). "Radiation hazzards of X-raymammography," In Late Bioligical Effects of Inonizing Radiation, Proceedings of a symposium, March 1978. International Atomic Energy Agency, Vienna. Vol.1 pp.251-261.
Gofman[1981=1991:211]
1977 米 ボイス(Boice)とモンソン(Monson)が、マサチューセッツ州の診療所で結核治療を受けたさいにX線透視検査を受けた情勢の調査を実施した。モバスコシアの秒麗では透視一回あたりの乳房の平均被曝線量は7.5ラドであったのに対し、マサチューセッツでは1.5ラドと推定される。
Boice, J. D., Land, C. E., Shore, R. E., Norman, J. E. & Tokunaga, M. (1979). "Risk of breast cancer following low-dose radiation exposure," Radiology 131. pp.689-697.
Gofman[1981=1991:219]
1977 米 Susan Komenが乳がんと診断される。当時アメリカでは乳がんに関する情報や治療方法がほとんど知られていなかった。[Komen]
1978 日 あけぼの会が、乳がん患者とその家族の支援団体として17人で1978年10月1日に発足。患者間と家族間のネットワーク作りや、電話による悩み相談、ボランティアでの病院訪問、定期刊行物の発行、講演などを行う。2005年現在で全国に、35支部があり、会員約4,000人が在籍。[Akebono][朝日新聞20030906]
1978 米 乳がん患者のMimi KaplanとAnn Marcouが、乳がん患者の支援と情報提供を目的としてY-ME National Breast Cancer Organizationを設立。[Y-ME][Casamayou [2001=2003: 63]
1978 米 白人のがんの絶対的5年生存率、40.1%。Moss [1980,1989=1995:T 96]
1979 イランで捕虜となった夫の帰国を待っていたPenny Laigen が、家の前の庭木に黄色いリボンを結びつける歌を聞いて勇気付けられる。この話が全米で広がり、夫の帰りを待つシグナルとして黄色いリボンの意味が定着。[Frenandez]
1979 米 6月、ハルステッド根治的切除の代替的手術の実行可能性を確定するために召集された合意形成会議(Consensus Development Conference, NIH後援)「初期乳がんの治療に関するコンセンサス会議」開催。患者が診断結果についてのセカンドオピニオンを聞く環境と、乳房の切除手術に変わる方法を聞くための時間が与えられるべきとの見解、つまり検査と手術を分離する手法を採用するべき勧告に合意。局部的乳がんの対象方法としてハルステッド法が選択されるべきでないと決議。
[Casamayou [2001=2003: 68]Moss [1980,1989=1995:T 128]
1979 米 バーナード・フィッシャー(ピッツバーグ大学)が、「根治乳房切除を受けた人と控えめな部分切除を受けた人との間には、生存面における差がなかった」と語る。(New York Times, Jan.29.1979)) Moss [1980,1989=1995:T:126]
1979 米 X線照射装置27万台のうち12万台が医療、医療機関専門家が残りは歯科医が所有。(New York Times Jul.4.1979) Moss [1980,1989=1995:T 51]
1980 Susan Komenが乳がんで死去(享年36歳)。姉妹のNancy Brinkerに乳がん撲滅に向けた活動を託す。 [Komen]
1980 米 カリフォルニア州で初めて、乳がん患者に情報提供をする法律制定。医師は外科治療、放射線治療、がん化学治療を含む治療法について、患者の母国語で書かれた標準文書を作成し、説明すべきことが記される。霞ほか編[1994: 49]
1980 インターフェロン合成成功。Moss [1980,1989=1995:T 177]
1982 米 Nancy Brinkerがthe Susan Komen Breast Cancer Foundation(スーザン・コーメン乳がん基金)をTexas州Dallasで設立する(7月22日)。基金200ドル。[Komen][Casamayou [2001=2003: 63]
1982 米 Susan基金がInternational Women's Polo Tournament(国際女性ポロトーナメント)と茶話会を開催して、3万ドルの寄付を得る。[Komen]
1982 米 Susan基金が DallasのBaylor大学メディカルセンターのM.D. Andersonに総額3万ドルの研究助成を行う。[Komen]
1982 米 BCACの任務がY-MEに引き継がれる。[Casamayou [2001=2003: 71] がんの死亡者数433,000人。Moss [1980,1989=1995:T 95]
1982 仏 インターフェロンの吹く採用で4名の患者死亡。Moss [1980,1989=1995:T 178]
1983 米 第1回Komen Race for Cure(チャリティー・レース)をDallasで開催し、約800人の参加者が集まる。
[Komen]
1983 米 第1回Komen National Awards LuncheonがDallasで開かれ、Betty Ford(元大統領夫人)をゲストに招く。[Komen]
1983 米 アメリカがん協会(ACS)が、乳房X線撮影法による検査ガイドラインを改訂する。40-49歳までの女性については年1回、または隔年、50歳以上の女性への毎年の検診を受けることを奨励する。[Casamayou [2001=2003: 71]
1984 米 加齢に関する下院特別調査委員会(House Select Commitee on Aging)が、「乳がん抑制に向けての前進」という公聴会を開く。乳がん早期発見のために高齢の女性教育の重要性が強調される。[Casamayou [2001=2003: 72]
1985 米 アメリカでIllinois州、Virginia州のみで、乳がんのマンモグラフィー検診の健康保険が適用される。 [nbcom][look smark:1999 Sep.]
1984 米 アメリカ乳がん意識向上月間(The National Breast Cancer Awareness Month :NBCAM)が乳がんの早期発見を啓発することを目的として、Zeneca (現AstraZeneca)財団ほか1財団が主催して週末にキャンペーンを開催する。[ACS]
1984 米 米国保健統計センター調査。がんの総治療費715億ドル。うち、直接的治療費217億ドル。病気によって失われる労働生産性コスト(罹病費用)86億ドル。死亡費用412億ドル。アメリカ総疾病治療費に占めるがんの割合10パーセント。早死総費用に占めるがんの割合18パーセント。いずれも推計。Moss [1980,1989=1995:T 48]
1984 米 放射線科医、外科医による乳房温存手術に関する会合が持たれ、術式用語の定義に関する合意が行われる。霞ほか編[1994: 54]
1986 日 がん研で乳房温存治療開始。霞ほか編[1994: 116]
1986 米 内科医の年平均所得8,300ドル。外科医の年平均所得16,2400ドル。Moss [1980,1989=1995:T 62]
1986 米 5月8日、元Journal of the national cancer institute誌編集長ジョン・C・ベイラーがNew Ingland journal of medicineに論文を投稿。がん治療が大幅には進歩していないことを明らかにする。ベイラー(Harvard大学公衆衛生大学院生物統計学教室)とイレーン・M・スミス(Iowa大学メディカルセンター)がNCIの統計発表をごまかしと批判。
Moss [1980,1989=1995:T 95]
1986 米 チャールズ・モテアルが、米国医師会誌に論説を発表し、インターロイキン(IL2)の価格と有効性を疑問視、その毒性にも言及。Moss [1980,1989=1995:T 180]
1987 日 老人保健法、乳がん検診を視触診のみで開始。乳房健康研究会編著[2004::187]
1987 米 アメリカ会計検査院がNCIの記録方法にゆがみがあり、「『本当の進歩』を示す指標は意図的に膨らみを帯びている」と批判。Moss [1980,1989=1995:T 105:187]
1988 英 全国的なマンモグラフィー検診を開始する。乳房健康研究会編著[2004::22]
1988 米 メディケア高額医療費保障法(Medicare Catastrophic Covrage Act)の一部に高齢女性の乳房X線写真撮影費が加えられたが、高齢者への連邦所得税増税を納得させるための措置だというロビー活動が展開され、撤回を余儀なくされる。[Casamayou [2001=2003: 74]
1988 米 がんの死亡者数494,000人。Moss [1980,1989=1995:T 95]
1989 米 Susan基金、Nancy Brinker がPresident's Cancer Panelに初の乳がん活動支援者としてRonald Reagan当時大統領から賞される。[Komen]
1989 日 宮城トライアル(1989.11-1992.6まで)。視触診単独とマンモグラフィーのよる併用検診とで乳癌の発生率を比較する実験が女性6万2620人を対象に行われる。美な※川[2006:104] 広島大学片岡研究室[pdf]
1989 日 1月1日、乳がん患者支援団体ソレイユ発足。
1989 米 40歳以上のアメリカ人女性の54%がマンモグラフィー診断を受ける。[Komen]
1989 米 Komen National Toll-Free Breast Care Helplineを設立する。毎年約5万件の電話と3500通のE-mailが届く。[Komen]
1989 米 Y-ME、乳がんと乳房の健康管理についての24時間電話相談窓口(Y-ME National Breast Cancer Hotline 1-800-221-2141)を開設する。乳がんを克服した専属スタッフが相談にあたる。(1994年にはスペイン語の窓口も開設される。[Y-ME]
1989 日 乳房温存療法を開始するために、厚生省に「乳がん温存療法の検討」班発足。霞ほか編[1994: 209]
1989 日 11月11日、 東京霞ヶ関・東海クラブで第1回総会。乳がん患者の支援市民団体イデアフォー発足。
1990代初頭 米 Charlotte Haleyが乳がん患者への支援を求めるために手製のピンクリボンをメッセージカードにつけて配布する。カードには、 「アメリカのがん研究所には年間18億ドルの予算がありますが、そのうちがんの予防にはたった5パーセントしか充てられていません。このリボンを身につけて国会議員とアメリカを目覚めさせるよう、どうか私たちを支援してください」と記されていた。 "The National Cancer Institute annual budget is $1.8 billion, only 5 percent goes for cancer prevention. Help us wake up our legislators and America by wearing this ribbon." [Fernandez][Personalized Cause][A1-Awareness-Braceltes.com]
1990 米 Komen Race for Cure Washinton, D.C.大会で乳がんの克服者がレースに参加する際にピンクリボンが配られる。[Komen][Fernandez]
1990 米 National Institutes Health (NIH)が、ステージT、Uの乳がんの大多数に対して、乳房温存療法が適切な治療法であると声明を発表する。美な※川[2006:41-2]
1990 米 湾岸戦争に行った戦士たちの生還を祈ってふたたび黄色いリボンが注目される。AIDS撲滅の文芸活動集団(Visual AIDS)が、赤色のリボンに情熱の意味をこめて活動のシンボルとして使い始める。[Fernandez]
1990 米 アメリカ議会がアメリカ疾病管理・予防センター(the U.S. Centers for Disease Control and Prevention :CDC)に、がん検診の国家プログラムを作成するように指示する。1991年以降、アメリカ乳がん・子宮ガン早期発見プログラム(The National Breast and Cervical Cancer Early Detection Program :NBCCEDP)が460万回検診を未経験者を対象として行い、1万7000人が乳がんと診断される。また、6万1400人が前癌性の病巣を持ち、1,100人以上が子宮ガンと診断される。[MBCAM]
1990 米 7月、12人の女性が乳がんアクション(BCA)の結成に向けて会議を開く。
[Casamayou [2001=2003: 92]
1990 米 治療の決定権が患者側にあることが連邦政府の法律に定められる。霞ほか編[1994: 49]
1990 米 NIHが、大部分のステージ1,2の乳がんが乳房温存療法の対象となることを合意文書で明らかにする。 霞ほか編[1994: 56]
1990 日 日本乳癌検診学会(Japan Association of Breast Cancer Screening; J.Jpn.Assoc.Breast Cancer Screen.)設立。
1991 米 Susan基金。単年度あたりの研究プロジェクト助成額が100万ドルを超える。
[Komen]
1991 米 国立がん研究所(NCI)における乳がん研究の財政援助額が1170万ドルに増額される。(前年度まで9年間の平均は520万ドル) [Casamayou [2001=2003: 6]
1991 米 春、「乳がんの流行を根絶する」ことを目標に掲げ、アメリカ全土の草の根支援組織、「乳がん連合」(BCC)が発足する。後に、全米乳がん連合(NBCC)と改称する。10月に17万5000通の手紙を連邦議会とジョージ・ブッシュ大統領にあてて「手紙を書こう」(Do the write thing)キャンペーンを企画し、最終的に42万5000通にものぼる手紙が送られる。
[Casamayou [2001=2003: 8、157]
1991 米 乳がんのアドボカシーグループ、Save Ourselves(SOS)設立。
[Casamayou [2001=2003: 96]
1991 米 Visual AIDS、ニューヨークを拠点とする芸術家集団が、AIDSで死去した友人や同僚を思い出すために、レッドリボンをAIDS/HIV患者支援のシンボルとして使い、チャリティー活動を行う。[Jasewells.com]
1992 米 New York timesが1992年を"The Year of the Ribbon"と表現する。[Fernandez]
1992 米 Evelyn Lauder(Estee Lauder副社長)とAlexandra Penny(編集者)が女性向け健康雑誌SELFのBreast Cancer Awareness Month(乳がん意識向上月間)特集のデザインについて相談する。そのなかでPenneyがピンクリボンをNew Yorkの店舗で配布することを思いつく。[Fernandez]
1992 米 Estee Lauder、適切に乳がんの自己診断をできるためのカードとピンクリボン150万枚をEstee Lauderの店舗で配布する。 [Fernandez]
1992 英 The Avon Breast Cancer Crusade(乳がん撲滅運動)をイギリスではじめる。[Avon Foundation]
1992 米 アメリカ議会がマンモグラフィー品質基準法(the Mammography Quality Standards Act)を制定し、すべてのマンモグラフィーで一定水準の精度が保たれるよう義務付ける。 [MBCAM]
1992 米 5月、31州で開かれた第38回母の日イベントを契機として「さらに3億ドルを」キャンペーンが始められる。ピンクのリボンがTシャツやバッチにつけられる。[Casamayou [2001=2003: 157]
1992 米 国立がん研究所(NCI)における乳がん研究の財政援助額が6650万ドルに増額される。[Casamayou [2001=2003: 6]
1992 日 日本乳癌学会設立。
1993 米 Evelyn H. Lauderがアメリカでthe Breast Cancer Research Foundation(BCRF:乳がん研究基金)を設立。BCRF
1993 米 Estee Lauder、ピンクリボンをデザインした「寄付つき化粧品」販売開始。[Fernandez]
1993 米 The Avon Breast Cancer Crusade(乳がん撲滅運動)をアメリカではじめる。 [Avon Foundation]
1993 米 10月18日、全米乳がん連合の創設者スーザン・ラヴと代表者フラン・ビスコが、当時のクリントン大統領に、乳がんを根絶するための国家戦略開発を求める260万人分の署名を手渡す。毎年10月の第3金曜日が "National Mammography Day"と定められ、マンモグラフィーの割引または無料検診が行われる。[Casamayou [2001=2003: 1,166]
1993 米 国立がん研究所(NCI)における乳がん研究の財政援助額5610万ドル。 [Casamayou [2001=2003: 6]
1994 米 インパクト21ラルフローレン、アメリカファッション デザイナー協議会(CFDA)とFTBC (Fashion Targets Breast Cancer) を主催。
1995 米 FordがSusan基金と乳がんに関する意識の向上活動や基金への支援などを含めた提携関係を結ぶ。
[Ford]
1995 日 宮城トライアルの結果を受けて、厚生労働省による研究班が組織される。(広島大学片岡研究室[pdf])
1995 米 乳がんで死亡する割合が1989-85年のあいだ年を追うごとに1.4パーセントずつ減少する。95-98年のあいだには3.2パーセント減少した。[nbcom]
1995 米 National Office Products Industryが"Partners in Hope - Office Products industry Fights Cancer"キャンペーンを始める。[City of Hope1]
1997 米 Susan基金、ウェブサイトを開設する。乳がんと健康に関する情報を提供する。[Komen]
1997 米 Fordがスポンサーとなった乳がんについてのテレビ番組(Murphy Brownの2つの物語)が反響を呼ぶ。Susan基金の無料乳がんヘルプラインに1900件以上の相談が寄せられた。[Ford]
1997 米 乳製品メーカーのYoplaitが"Save lids to Save Lives"(宇和豚を集めて命を救おう)キャンペーンを始める。期間中にピンクリボンの書かれた上ぶたを一枚Yoplaitに送るごとにSusan基金にYoplaitによって10セントが寄付される。
[Yoplait]
1997 日 (-1998) 「マンモグラフィを導入した乳癌検診システムの確立に関する研究」において撮影施設、読影と撮影に関する教育プログラムが開発される。広島大学片岡研究室[pdf])
[Ford]
1997 米 BMWが"the BMW Ultimate Drive"(最高の乗り心地)キャンペーンを始める。キャンペーン中にBMWの特定車種を顧客が1マイル試乗するごとにBMWによってSusan基金に1ドルが寄付される。[Autointell 2003.11.13]
1997 日 日本乳癌検診学会の理事会によって、マンモグラフィ検診制度管理中央委員会が発足する。美な※川[2006:83]
1998 米 The U.S. Postal Service(アメリカ郵政省)がはじめての寄付つき記念切手「乳がん切手」を発売する。4億6400万枚以上が購入され、3280万ドルが乳がん研究に寄付される。[Komen]
1998 米 40歳以上のアメリカ人女性の71%がマンモグラフィー検診を受診する。[Komen]
1998 日 老人保健法検診費の国庫補助が一般財源化され、検診の実施が自治体の判断にゆだねられる。
乳房健康研究会編著[2004::204]
1998 米 ウィルソン社長ジム・ボウがBreast Cancer Research Foundationとパートナーシップを結ぶ。
1999 米 十代の若者を対象とした乳がん教育プログラムを国内で始める。[Y-ME]
1999 米 家族や恋人に乳がん患者のいる男性の教育啓発を目的としたNPO団体Men Against Breast Cancer(mabc)が設立される。[mabc]
1999 米 アメリカ政府は、1991-99のあいだに乳がん研究のための予算を6倍に増加させる(1991年の9270万ドルから1999年6億6000万ドル)。[nbcom]
1999 日 「平成10年 人口動態統計」より。平成10年度に乳がん(02112 乳房の悪性新生物)で死亡した日本人は、8,665人(うち男性76人、女性8,589人)。[nhlw]
1999 日 平成12年度厚生労働省老人保健事業推進費(老人保健健康増進等事業分)「新たながん検診手法の有効性の評価」報告書発表。視触診のみによる乳がん検診には死亡率減少効果がなく、マンモグラフィとの併用によって50歳以上について死亡減少効果があると結論付ける。[東北大学大学院社会医学講座公衆衛生分野]
1999 米 NBCCが、乳がん投票キャンペーン(CVBC)をはじめる。アメリカの有権者に乳がんの研究治療が重要であることをアメリカの有権者に説明する投票運動を組織する。[Casamayou [2001=2003: 210]
1999 日 第一回マンモグラフィ技術講習会開催。美な※川[2006:58]
2000 日 厚生省がスローガン「健康日本21」を掲げる。2010年までにがん検診を1割強から5割以上に増加させると発表。
2000 日 Komen Race for Cureの単年度参加者が100万人を越える。[Komen]
2000 日 Estee Lauderが、Global Landmarks Illumination Initiative開始。10月1-3週のあいだに世界40カ国200箇所でランドマーク(10月2日、東京タワー)をピンク色にライトアップ。また、日本ではピンクリボンのリップグロスを2,500円が販売され、総売上をあけぼの会に寄付。
2000 日 5月、乳房健康研究会発足。乳がん患者の治療に携わってきた専門医ら30人が中心となる。9月16日、第1回セミナー「もっと乳がんを知ろう」を東京プラザエフで開催。[brestcare][BC:76][福田 [2002:436]
2000 日 厚生省(当時)が、「がん予防重点健康教育及びがん検診実施のための指針」(老健65号)50歳以上の女性に、2年に1度、斜位方向によるマンモグラフィー検診をはじめて勧告する。乳房健康研究会編著[2004::26,48,207]
2000 日 NBCOM
アメリカ議会が乳がん・子宮ガン予防治療法(the Breast and Cervical Cancer Prevention and Treatment Act)を可決する。この法律によって、CDCのNBCCEDPでがんが疑われる健康保険未加入者の65歳以下の女性に医療行為が完全に保障される。2001年には法改正され、アメリカ人乳がん・子宮がん治療技術改正法(the Native American Breast and Cervical Treatment Technical Amendment Act, an amendment)、医療が保証される範囲が、アメリカ国籍を持つ女性(native American Women)に拡張される。[nbcom]
2000 日 「平成11年 人口動態統計」より。平成11年度に乳がん(02112 乳房の悪性新生物)で死亡した日本人は、8,949人(うち男性67人、女性8,882人)。[nhlw]
2000 日 ウィルソンジャパンが乳がん啓発支援活動を開始。
2000 日 10月27日、乳がん患者の支援団体Re-vid設立。[Re-vid、福田 [2002:435]
2001 英 英医学雑誌『ランセット』(358号2001.10.20号)に、デンマークの研究者が「乳がん検診が死亡率を検証させるという信頼できる科学的根拠が存在しない」という論文を発表する。美な※川[2006:112-3]
2001 米 MRIで映し出したがんの病巣を超音波で死滅させるMRIガイド下集束超音波手術(Focused Ultrasound Surgery: FUS)が、はじめて臨床試験される。GE社とハーバード大学放射線科ヨーレスJolesz教授によって機器が開発される。美な※川[2006:38]
2001 米 1997年から4万2500枚以上のBreast Self-Examination(BSE:乳がん自己検診)カードを配布する。[Komen]
2001 米 U.S. Food and Drag Administoration(FDA:アメリカ食糧医薬品局)が電子式マンモグラフィー機器の使用をはじめて承認する。[Komen]
2001 米 Susan基金開設以来、112万ドルを乳がんの研究や治療に助成する。Komen Race for Cureが年間でアメリカ国内で112レース、国外で2レース開催され、延べ150万人が参加する。[Komen]
2001 米 Ford's Breast Cancer Awareness Celebrity Scarf campaignを開催。Megan Mullally, Courteney Cox Arquette, David Arquette, Banessa l. Williams, Rick Fox, Marcia Gay harden, Renee Zellweger, Nanci Ryder pose などがFord製のスカーフを巻いて広告活動に参加する。[Ford]
2001 米 Hansen'sが、"Save lives Send Tabs"キャンペーンを始める。[City of Hope1]
2001 米 Avonが"the Kiss Goodbye to Breast Cancer global campaign"(乳がんにさよならキャンペーン)を始める。寄付つき限定商品の販売、イベントの開催ほか、乳がん撲滅に貢献した人々を表彰する。
2001 日 Estee Lauserが"Look Good Feel Better"プログラム。化学療法を受ける乳がん患者を美容技術の技術指導を通じて支援する。
2001 日 乳房健康研究会が7月20-22日の乳がん最新情報カンファレンスでピンクリボンバッジ運動を始める。[BC:76]
2001 日 3月、がん検診の適正化に関する調査研究事業「新たながん検診手法の有効性評価」報告書(東北大学・久道班)が、視触診単独の乳がん検診では、死亡率減少の効果がないとする相応の根拠があるとの報告を行う。[BC:48]、広島大学片岡研究室[pdf])
2001 日 「平成12年 人口動態統計」より。平成12年度に乳がん(02112 乳房の悪性新生物)で死亡した日本人は、9,248人(うち男性77人、女性9,171人)。[nhlw]
2001 日 10月30日、「にゅうらいふの会」で「ほっとマンマの日」運動の実施を決定。[ほっとマンマの日]
2001 日 10月6日夜、東京タワーをピンク色がライトアップ。主催 あけぼの会[朝日新聞20011007,毎日新聞20011007]
2002 日 デザイナーのKate Spadeが乳がん意識向上のためのスカーフを製作する。数量限定のシルクスカーフが発売され、その売上がSusan基金とThe Breast Cancer Reserch Foudation(乳がん研究基金)に寄付される。また、award-winning in-depth breast cancer awarness websiteを開設して、乳がんの闘病記や患者の家族の支援方法など乳がんに関する情報を提供する。[Ford]
2002 日 Breast Cancer Action Montreal(BCAM)がThink before You Pink campainを企画。新聞や広告に掃除機がピンクリボンを吸い上げる場面と"Who's really clearning up here?"とキャッチコピー掲載。[BCAM]
2002 日 3月31日、「第1回 ミニウォーク&ラン フォー ブレストケア」。東京、国営昭和記念公園で開催。参加者3,150人。マンモグラフィによる乳がん検診、骨量測定などのイベント。主催 乳房健康研究会。特別協賛 Kodak。 協賛 ジョンソン・エンド・ジョンソン、GE横河メディカルシステム、ユコー。[Nyubo][BC:76]
2002 日 ほっとマンマの日 大分合同新聞20020402,0404
日本
4月2日、別府市内旅館、ホテル業界が「第1回ほっとマンマの日」別府市竹の井ホテルで開催。大浴場を乳がん患者専用として開放。料金は通常と同じ。他の旅館ホテルもつき一度のペースで平日に乳がん患者専用の入浴時間を設ける。
2002 日 7月16日に「ブレストケアセミナー2002」が東京・荏原文化会館で開催される。すこやかかながわ一万人健康ウォーク会場で、乳房の健康相談・ピンクリボンバッジ運動に出展する。[BC:76]
2002 日 7月25日第33回「全国ママさんバレーボール大会」の開会式で、選手・役員約1,000人がピンクリボンバッチをつけて入場行進する。バッチ提供 あけぼの会。[朝日新聞20020723夕]
2002 日 9月21日、「ウォーク フォー ブレストケア 2002」お台場潮風公園で開催。主催 乳房健康研究会。特別後援 日本ウオーキング協会。特別協賛 AVON。協賛 コダック、ジョンソン・エンド・ジョンソン、大塚製薬、GE横河メディカルシステム、ワコール。[Asahi][bc:76]
2002 日 9月22日にシンポジウム「ピンクリボンって何?〜乳がんから命を守ろう〜」「ピンクリボンは何のため?」東京国際フォーラムで開催。定員1,000人。主催 朝日新聞社。後援 日本医師会、日本看護協会。特別協賛エイボン・プロダクツ、ジョンソン・エンド・ジョンソン。協賛ワコール、アストラゼネカ、ナラ、カミーチェ・ジャパン。協力 コダック、エスティローダーグループオブカンパニーズ。[Asahi][bc:76]
2002 日 エイボンが寄付金つきリップスティック(1本690円うち70円の寄付)をカタログ販売。9-11月のあいだに約33万本を売り上げ、2300万円以上の寄付を集める。[Avon J]
2002 日 「平成13年 人口動態統計」より。平成13年度に乳がん(02112 乳房の悪性新生物)で死亡した日本人は、9,720人(うち男性66人、女性9,654人)。
[nhlw]
2002 日 J・POSH(日本乳がんピンクリボン運動)設立。[朝日新聞041015]
2003 日 デザイナーのLilly Pulitzerが2003年の乳がん意識向上のためのピンクとグリーンのバンダナとスカーフを製作する。数量限定商品として販売され、100万ドル以上がSusan基金に寄付される。Sarah Michelle Gellar, Helen Hunt, Peter Krause, Rosario Dawson, Serena Williams, Regina King, Marg Helgenberger, Natalia Livingston, Leslie Charlesonが協力する。[Ford]
2003 日 4月から9月、週末2日間でマラソンの距離を歩く「Avon wark for breast cancer」を8都市で開催して、660万ドルの基金を集める。乳房健康研究会編著[2004::259]
2003 日 厚生労働省「乳がん検診の精度および効率の向上に関する研究」において40歳代へのマンモグラフィ導入に関する基本方針が示される。(広島大学片岡研究室[pdf])
2003 日 内閣府から2月3日に特定非営利活動法人(NPO法人)の認証を受ける。3月30日、東京国営昭和記念公園で「第2回ミニウォーク&ラン フォー ブレストケア」、5月8日大阪城公園で開催。4月19日、第3回セミナー東京・ヤマハホールで「なぜ検診に行かないの?乳がん検診のバリアをなくそう」開催。[BC:76]
2003 米 アイスクリームメーカーのDreyer's/Edy'sが、”Inducge in Great Taste. Support a Great Cause”キャンペーンを始める。[City of Hope1]
2003 日 9月20日「ピンクリボンをあなたの胸に −乳がんに負けない」シンポジウム 有楽町朝日ホールで開催。定員780人 応募者約1600人。主催 朝日新聞社、対がん協会。後援 日本医師会、日本看護協会。特別協賛 エイボン・プロダクツ。協賛 アストラゼネカ、ジョンソン・エンド・ジョンソン。協力 明治製菓、日立製作所、ヨード卵・光(日本農産工業) [朝日新聞20031011]
2003 日 10月4日、「第1回ハッピーマンマフェスタ」大丸パサージュ広場で開催。マンモグラフィ検診、パネル展示、専門医による相談コーナー。
2003 日 10月11-13日に「ピンクリボン・フェスティバル」開催。9企業と1大学が協賛。有楽町マリオンのからくり時計にピンクリボンオブジェ設置。11,12日の2日間、六本木ヒルズテレビ朝日新本社ビルをピンクリボンでライトアップ。丸の内仲通りを80本のバナーで装飾。マンモグラフィー装置展示。主催 ピンクリボンフェスティバル運営委員会(日本対がん協会、大手町・丸の内・有楽町地区再開発推進協議会、六本木ヒルズ、日本音楽事業者協会、朝日新聞社など)[朝日新聞20030822朝夕,0831朝,0924朝夕,0930夕…]
2003 日 10月11、12「ピンクリボン・スマイルウォーク」開催。六本木ヒルズアリーナを発着点に15キロを歩く。参加費事前予約1,500円 当日2,000円。一部を対がん協会「乳がんをなくすほほえみ基金」へ寄付。参加者にピンクリボンバッチ、バンダナ、ゼッケン、啓発パンフレット、プレゼント。トークショー。骨密度測定。両日で参加者約3,300人。主催 テレビ朝日、朝日新聞社、日本ウォーキング協会。後援 日本対がん協会、日本医師会、東京都、健康づくり都民会議。特別後援 ワコール、富士写真フイルム。協賛 GE in Japan ウィル・コーポレーション。[朝日新聞20030815夕,902朝刊…]
2003 日 10月6-30日、Yahoo! Japanがピンクリボンキャンペーンの特別ページを開設。11日にスマイルウォークのトークイベントを中継、インターネットでの質問受付。11日にトップページ背景をピンク色に変える。マンモグラフィが設置されている全国医療機関一覧や乳がんに関する情報を提供する。ウェブ上でオークション、Tシャツデザインコンテストと共同購入方式による販売、アバターなどを利用して「ほほえみ基金」への寄付金を集める。
2003 日 10月3日、東京タワーイルミネーション。午後6時から9時半まで東京タワーをピンク色にライトアップ。 主催 エスティローダーグループ、協賛 あけぼの会。[朝日新聞20030924夕]
2003 日 10月10-16日、乳がんの早期発見と早期治療の啓発ポスター、JR山手線原宿駅構内の大型ボード(ファッションジョイボード 3×4m)16面に展示。主催 日本交通文化協会、日本対がん協会。[交通新聞20031010,総合報道20031015]
2003 日 10月12日、銀座と数寄屋橋公園でマンモグラフィの展示・見学会。主催 FTBC(FASHION TARGETS BREAST CANCER)JAPANと日本対がん協会、乳がんをなくすほほえみ基金。自己点検の方法を指導する。[朝日新聞20031011夕]
2003 日 視触診のみによる検診は効果がないとして、市町村に対して廃止を求める。乳房健康研究会編著[2004::53]
2003 日 第156回国会衆議院厚生労働委員会(7月16日)で、乳房健康研究会による調査報告や日本乳がん検診学会制度管理中央委員会の資料に基づいて、乳がん検診に対する施策の必要性が質疑の対象となる。乳房健康研究会編著[2004::196]
2003 日 乳がんと乳房管理に関する24時間電話相談窓口の対応を150ヶ国語に増やす。[Y-ME]
2003 日 「平成14年 人口動態統計」より。平成14年度に乳がん(02112 乳房の悪性新生物)で死亡した日本人は、9,676人(うち男性72人、女性9,604人)。[nhlw]
2003 日 対がん協会内に乳がんの啓発、治療活動支援に特化した「乳がんをなくす ほほえみ基金」設立。[月刊新医療200411]
2004 日 昨年同様、FordがデザイナーLilly Pulizerと提携。スカーフ販売。総額240万ドルをSusan基金に寄付。乳がん意識向上キャンペーンには、Claire Danes, Demi Moore, Jennifer Connelly, Mary J. Blige, Patti Labelleが協力する。Los Angelesで、さらに多くの著名人がLilly Pulitzerのファッションショーつき会食とオークションに参加。8万ドルをSusan基金に寄付。
2004 日 "World's largest Pink Ribbon"開催。工業製品メーカー3Mの専用サイトに閲覧者が氏名とメッセージを書くと、一人につき3Mが1ドルをCity of Hopeに寄付をするイベント。約7万5000人のメッセージが書かれたPost-note it(ポストイット:3Mの製品)が巨大なピンクリボンに一枚ずつ貼り付けられる。巨大リボンが11月にNew York Times Squareの外壁を装飾。[3M]
2004 日 The Avon Breast Cancer Crusade(乳がん撲滅運動)を通じて1992年以来、累計で3億5000万ドルが乳がんの治療、研究、教育のために助成。日本のAvonは2002‐04年までのあいだにCRMを通じて8300万円の寄付金を集める。[Avon Foundation]
2004 日 Estee Lauser、乳がんと自己検診についての講演とメイクアップ教室を一体化させた「ピンクリボン・クリニークビューティセミナー」 開催。参加費の全額を乳がんの患者とその家族の支援団体「あけぼの会」寄付。
2004 日 NPO法人Japan Pink-ribbon of Smile and Happiness(J.POSH)とシールや買い物バッグなどを共同開発する また、視聴覚障害者に乳がんについての啓発活動を行うための資料(字版リーフレット、朗読CD・テープなど)の作成に助成。全国94ケ所の点字図書館・盲学校・盲老人ホーム等に寄贈。[ATTENIR]
2004 日 2月13日、特定非営利活動法人マンモグラフィ検診精度管理中央委員会の設立。
2004 日 乳房健康研究会
3月27日「第3回ミニウォーク&ランフォーブレストケア」が東京国営昭和記念公園で、4月10日ピンクリボンウォーク福岡、10月3日ピンクリボンウォーク関空2004開催。[BC:76] 大阪日日新聞041004<
2004日 NBCCEDPによって、500万回以上の乳がん検診が行われる。結果、約50パーセントのマイノリティーの女性が検診を受診。うち、18,839が乳がんと診断。66,295人に高い確率で治療可能な前癌性の腫瘍を発見。1,262人が子宮がんと診断。[nbcom]
2004 日 4月10日、「ピンクリボンウォーク2004福岡」舞鶴公園・大濠公園で開催。主催 ハッピーマンマ。マンモグラフィ検診、触診模型体験など。
2004 日 月27日厚生労働省が、視触診単独による検診廃止。40歳以上に対してはマンモグラフィ併用検診を2年に1回行うとするとの通達。10月5日、「有限責任中間法人 日本乳癌学会」発足。「乳腺専門医」の広告認可。[bc:48]
2004 日 「平成15年 人口動態統計」より。平成15年度に乳がん(02112 乳房の悪性新生物)で死亡した日本人は、9,885人(うち男性79人、女性9,806人)。[nhlw]
2004 日 東京都、ピンクリボン記念バス共通カード(ハローキティの記念バスカード)発売。台紙付1,000円。交通局。
2004 日 10月1-10日、都庁舎をピンク色にライトアップ。18-22時。財務局、福祉保険局
2004 日 10月3-28日、東京都第一本庁舎32階食堂に「ピンクリボンランチ」都庁舎をピンク色にライトアップ。福祉厚生事業団[東京都]
2004 日 10月23日、Run for The Cure開催。出発地 東京丸の内ビル前。
[ミセス0411]
2004 日 10月28日、「第2回ピンクリボンレディーステニス大会」神奈川県荏原湖南スポーツセンターで決勝大会。主催 日本女子テニス連盟。[T.Tennis0410,0411]
2004 日 9月21日、「青森市男女共同参画社会づくりをすすめる会」が青森市新町一丁目で約200個のピンクリボンと検診啓発のチラシ配布。[東奥新報041022 岩手日報041024]
2004 日 主催 朝日新聞社、日本対がん協会、六本木ヒルズ、大手町・丸の内・有楽町地区開発計画推進協議会、有楽町マリオン、大丸有エリアマネジメント協会、日本音楽事業者協会、神戸市役所、神戸商工会議所、テレビ朝日。後援 東京都、日本医師会、日本看護協会。 特別協賛、ワコール、コニカミノルタエムジー。協賛 東芝、聖徳大学・聖徳大学短期大学部、GE in Japan、サンリオ、王子ネピア、セコム損害保険、シスメックス、日本化薬、アメアスポーツジャパン、ブルームバーグ、ファイザー、エスティローダーグループオブカンパニーズ、アストラゼネカ、ピーシーエー生命保険、日立製作所、インパクト21。協力 西日本旅客鉄道、キンキ日本ツーリスト、リコーリース、島津製作所、エイボン・プロダクツ、ジョンソン・エンド・ジョンソン、ヨード卵・光(日本農産工業)。提携 ヤフージャパン。
2004 日 10月1日、「ピンクリボンをあなたの胸に −乳がんに負けない」シンポジウム、記者会見。東京有楽町朝日ホールで開催。昼夜二部制参加者約1,500人。
2004 日 ピンクリボンバナー掲示。東京丸の内仲通約80本、神戸三宮フラワーロード約300本。9月27日−10月2日乳がん電話相談。JR車体広告(10月3日-31日JR埼京線、10月10日-11月6日京浜東北線)
2004 日 10月2日、「ピンクリボンスマイルウォーク」開催。六本木ヒルズから丸の内方面11キロコース、表参道方面6キロコース。参加者約3,000人。10月23日、神戸で開催。参加者約2,500人。主催 朝日新聞社、特別協賛 エイボン・プロダクツ、富士写真フイルム。[AERA20041115]
2004 日 ランドマークライトアップ。10月3,23日、東京タワー(主催 エスティローダーグループ、協賛 青山メインランド、クラブメッド、GE横河メディカルシステム、フンダイモータージャパン、ファイザー)。10月1-3日、23日レインボーブリッジ。23日神戸ポートタワー、明石海峡大橋、モザイク観覧車。
2004 日 9月22日-10月31日、Yahoo Japanピンクリボンフェスティバルサイト開設。10月1日-30日までのあいだにすべてのサービス、すべてのページにおいて、ページ右上にピンクリボンロゴを掲載。
2004 日 10月2日、「ピンクリボンフェスタ in 城崎」大分県城崎後楽園で開催。「癒しの音色とメッセージ」、健康ウォーク、マンモグラフィー検診体験(定員60名)、”ほっとマンマの日”。大分合同新聞041003 [ほっとマンマの日]
2004 日 10月10日、「2004 ピンクリボンin Kagoshima〜乳がん撲滅の思いを南の風に乗せて〜」にかごしま県民交流センター内外にてを開催。主催ピンクリボンin Kagoshima実行委員会
2004 日 10月30日、「第2回ハッピーマンマフェスタ」大丸パサージュ広場で開催。マンモグラフィ検診、クイズラリー、乳がん触診模型体験など。主催 ハッピーマンマ。後援 福岡県・福岡市、福岡県対がん協会 。
2004 日 老人健康局、05年度老人保健福祉関係予算概算要求発表。「健康フロンティア戦略の推進」(753億円)うち、「女性のがん緊急対策による女性の健康支援対策の推進」「女性のがん」への挑戦 82億円を要求。マンモグラフィ500台整備。平成17年度厚生労働省所管概算要求関係
2004 日 「女性のがん」への挑戦 42億円。マンモグラフィ250台の整備。
平成17年度 厚生労働省予算案の主要事項
2005 日 3月29日、日本乳がん情報ネットワーク(Japan Comprehensive Cancer Network, Breast)設立総会。
2005 日 「第2回サラサーティ ハッピースマイル プレゼント」。-11月まで。キャンペーン応募はがき1枚あたりにつき小林製薬が10円を乳房健康研究会に寄付。 [小林製薬]
2005 日 「ピンクリボンクリッククイズ」実施。10月3日から11月30日までウェブサイト上で公開。乳がんに関する選択式のクイズを出題。正解するごとに5円、不正解でも1円をAIGスター生命が乳房健康研究会に寄付。
[AIG]
2005 日 Utah州を除くアメリカのすべての州でマンモグラフィーによる乳がん検診費用に健康保険を適用。さらにいくつかの州では、乳房摘出手術後の乳房復元手術、化学療法、脊髄移植の費用にも保険を適用。[nbcom]
2005 日 「平成16年 人口動態統計」より。平成16年度に乳がん(02112 乳房の悪性新生物)で死亡した日本人は、10,609人(うち男性85人、女性10,524人)。[nhlw]
2005 日 4月2日、「つくばピンクリボンフェスティバル2005」、つくば国際会議場で開催。主催 つくばピンクリボン実行委員会。講演「乳がんを知ろう」、乳がんクイズ、ウォーキング、テニスクリニック、乳がん検診、バルーンパフォーマンス、患者会のコーナー。
[ピンクリボンつくば]
2005 日 4月23日「第2回 ピンクリボン ハッピーマンマウオーク」舞鶴公園・大濠公園で開催。
2005 日 5月8日、ピンクリボンオフィシャルサイトをアサヒコムに開設。乳がん・ピンクリボン関連情報、専門医の連載コラム、患者手記を掲載。「見落とされた乳がん」ダイジェスト版掲載。
2005 日 7月7日 特定非営利活動(NPO)法人 ピンクリボンかごしま」として認証を受ける。
2005 日 9月20日、ピンクリボンフェスティバル記者会見。主催 日本対がん協会、森ビル、大手町・丸の内有楽町地区開発計画推進協議会、有楽町マリオン、大丸有エリアマネジメント協会、日本音楽事業者協会、花キューピッド協同組合、神戸市、神戸商工会議所、テレビ朝日、朝日放送、朝日新聞社。後援 厚生労働省、日本看護協会、東京都。支援 三菱地所、森ビル、原宿表参道欅会、J.POSH、あけぼの会、乳房健康研究会、首都高速道路。提携 ヤフー。協賛 富士フイルム、AIGスター生命、中外製薬、GE in Japan、シャルレ、エイボン・プロダクツ、聖徳大学・聖徳大学短期大学部、東芝、アストラゼネカ、ワコール、コニカミノルタエムジー、ピクセン、ジュピターショップチャンネル、王子ネピア、住友信託銀行、リコーリース、ピーシーエー生命保険、桃屋順天堂グループ、ニューバランスジャパン、インパクト21、イトキン、ブルームバーグ、ジェイティービー、セコム損害保険、サンリオ、エクスプレス、日本化薬、エスティローダーグループオブカンパニーズ。協力 東日本旅客鉄道。
2005 日 9月20日、PRキャンペーン。東京丸ビルアトリウムでハローキティー、日本看護協会スタッフ約20名がピンクの看護服を着て、ピンクのガーベラや啓発グッズを配布(ガーベラ提供 花キューピット協同組合)。
2005 日 GE横河メディカル、30歳以上の全女性社員を対象に乳がん検診の実施。
[GE2005年9月26日プレスリリース]
2005 日 9月30日、PRキャンペーン。神戸三ノ宮駅周辺でNPO法人J.POSH、あけぼの会兵庫支部、花キューピッド協同組合が啓発グッズを配布。
2005 日 10月、Bae Jongjun(ペ・ヨンジュン)のサイン入りリップスティックを発売。(1本税込1200円。うち70円がAvon基金に寄付される)
[Avon J]
2005 日 10月1日、六本木ヒルズ52階東京シティビューでピンクリボンキャンペーンイベント開催。総入館者数9,415名。エスティーローダーグループの各ブランドによるイベント。東京タワーライトアップ。主催 あけぼの会 協賛 エスティローダーグループオブカンパニーズ、アストラゼネカ、アメア スポーツ ジャパン、三菱UFJ信託銀行、Kプレス。
[Estee Lauder J]
2005 日 ランドマーク、ライトアップ。東京タワー(10月1日)。レインボーブリッジ(10月1日、2日、10日)、神戸ポートタワー(10月1日)。
2005 日 10月1日、「ピンクリボン・スマイルウォーク神戸大会」開催。神戸東遊園地発着。
2005 日 10月2日、シンポジウム「ピンクリボン あなたの笑顔のために −乳癌に負けない」有楽町朝日ホール、スクエアで開催。2部構成。定員各700名。
2005 日 0月2日、「ピンクリボン活動みやざき2005」開催。キャンペーンパレード ボンベルタ橘ポケットパークから宮崎市民プラザまで。市民プラザイベント 参加者約500人。10月2日 乳がん検診車による無料検診。9月28日−10月8日まで橘通り、一番街、若草通り ピンクリボンバナーの掲揚 ピンクリボンステッカーの掲示。
[宮崎県]
2005 日 10月2日、PR活動。東京有楽町マリオンでNPO法人J.POSHほか40名がピンクリボンティッシュ、啓発グッズを配布。
2005 日 ピンクリボンバナー装飾。東京丸の内仲通(10月3-中旬)、原宿表参道ケヤキ並木(10月7日)、神戸フラワーロード(9月末-10月初旬)。ピンクリボン装飾 有楽町マリオン(10月1日-末日)。花時計 神戸フラワーロード(9亜gつ下旬10月末日。
2005 日 乳がん電話相談(10月3-8日)。日本対がん協会。
2005 日 10月9日、エスティーローダー、クリニーク、ボビイブラウンが「ルックグッド フィール ベター プログラム」開催。 あけぼの会の病院訪問ボランティア50人を対象としてメイキャップ講習。
[Estee Lauder J]
2005 日 10月10日、「ピンクリボン・スマイルウォーク東京大会」開催。六本木ヒルズ・アリーナ発着。
2005 日 10月16日、「2005ピンクリボンin Kagoshima」開催。「ピンクリボンウォーク2005」開催。「ピンクリボン・フェスタ」。主催 ピンクリボンかごしま
2005 日 10月22日、Run for the Cure2005開催。日比谷から皇居のまわりを1周
[RCF]
2005 日 10月2日、シンポジウム「ピンクリボン あなたの笑顔のために −乳癌に負けない」神戸ポートピアホール。1部構成。定員1,000名。
2005 日 10月28日、Pink Ball2005開催。[RCF]
2005 日 10月27、28日、第3回ピンクリボンレディーステニス大会決勝。主催 日本女子テニス連盟。後援 朝日新聞社。特別協賛 アメアスポーツジャパン。協賛 エイボン・プロダクツ、ワインバズ、ウイダーinゼリー、キヤノン販売。特別協力 島津製作所。協力 ヒットユニオン。 [Willson J]
2005 日 11月6日、「第1回 京都ピンクリボンフェスティバル」都国際会館、宝ヶ池プリンスホテル で開催。乳がん無料検診(先着200名)。市民公開講座(定員200名)主催 第15回日本乳癌検診学会総会事務局 。共催 NPO法人乳房健康研究会、NPO法人Re-vid。
[第15回日本乳癌検診学会総会]
◆参照ウェブサイト
[3M] 3M
[ACS] America Cancer Society
[Akebono] あけぼの会(乳がん患者とその家族のための支援団体)
[ATTENIR] ATTENIR
[Autointell] Autointell news com
[Avon Foundation] Avon Foundation
[Avon J] Avon Japan
[BCAM] BCAM
[brestcare] NPO法人 乳房健康研究会
[City of Hope1] City of Hope
[Estee Lauder J] Estee Lauder Japan
[Festival] ピンクリボン・フェスティバル(アサヒ・コム)2003/2004/2005
[find article look smart find article / 1999 Sep.
[Ford] Ford
[Fernandez] Frenandez M. Sandy. 'Pretty in Pink'
[nhlw] 厚生労働省
[Jcancer] 財団法人日本対がん協会
[Komen] Susan Komen Foundation
[mabc] Men Against Breast Cancer
[N] National Breast Cancer Awareness Month
[RCF] Run for the Cure Foundation
{Willson J}Willson Japan
[Yoplait] Yoplait
[Y-ME] Y-ME National Breast Cancer Organization[東京都] ピンクリボン運動 in 東京!!
日本乳癌学会
日本乳癌検診学会
特定非営利活動法人 マンモグラフィ検診精度管理中央委員会
日本乳がん情報ネットワーク
特定非営利活動法人 ピンクリボンかごしま
イデアフォー(乳がん患者の支援市民団体)
Fashion Target Breasts Cancer(ラルフローレンが主催する乳がん啓発キャンペーン、Bulls eye Tシャツの販売)
ソレイユ(乳がん患者の支援団体)
NPO法人 J.POSH(日本乳がん ピンクリボン運動)
ハッピーマンマ(九州のピンクリボン運動組織)
ほっとマンマの日(大分県での温泉入浴を通じた乳がん患者支援運動。)
えるこみ 大切な乳房と命のために「ピンクリボンを胸に」
谷野裕一の乳癌と抗がん剤治療のページ内 「日本の乳がんニーズ・アセスメント」[PDF]
gooリサーチ結果 (No.88)「乳がんに関する2万人女性の意識調査」調査結果
参考文献
Casamayou, Hogan, Maureen. (2001=2003). The Politics of Breast Cancer. Georgetown University Press. (久塚純一 監訳 『乳がんの政治学』 早稲田大学出版部)
Darmon, Pierre. (1993). LES CELLEULES FOLLES La Librire Plon, Paris.
= 1997 河原誠三郎 鈴木秀治 田川光照 訳『癌の歴史』 新評社 ISBN4-7948-0369-9
Gofman, John W. (1981). RADIATION AND HUMAN HELTH, John Brackman Associates, Inc.
= 1991 今中哲二ほか訳 『人間と放射線』 社会思想社 ISBN4-390-50185-2
NPO法人乳房健康研究会編著 (2004)『すべての女性に「ブレストケア」 −なぜ乳がん検診に行かないの?」日本医療企画
Moss, W. Ralph. (1980,1989=1995). Cancer Industry The Classic Expose on the Cancer Establishment. Equinox Press New York. (蔵本喜久・桜井民子 訳『がんMoss (1980,1989=1995:1 がん治療をめぐる政治的力関係の構図』『がんMoss (1980,1989=1995:2 予防の妨害と科学の抑圧』学樹書院)
霞富士雄 大川智彦 坂元吾偉 編 (1994) 『乳房温存療法』 医学書院
福田譲 編著 (2002)『乳がん福田 [2002:』法研
美な※川由紀 (2006) 『マンモグラフィってなに? 乳がんが気になるあなたへ』 日本評論社
奈≒木+示
年 |
死亡総数 |
うち男性 |
うち女性 |
1998 | 8,665 | 76 | 8,589 |
1999 | 8,949 | 67 | 8,882 |
2000 | 9,248 | 77 | 9,171 |
2001 | 9,720 | 66 | 9,654 |
2002 | 9,676 | 72 | 9,604 |
2003 | 9,885 | 79 | 9,806 |
2004 | 10,609 | 85 | 10,524 |
乳がんによる死亡者数
厚生労働省『人口動態統計(平成10-16年度)』より作成。
Casamayou, Hogan, Maureen. 2001. The Politics of Breast Cancer. Georgetown University Press.
=2003久塚純一 監訳 『乳がんの政治学』 早稲田大学出版部
ISBN4-657-03414-6 \2800+税
目次
はじめに
序章
1 乳がんの問題 個人の健康と公衆の健康
2 政治と政府の対応 1920年代から70年代まで
3 政策企業家 研究アドボカシー(1975〜1990年)
4 組織的な乳がんアドボカシーの出現
5 乳がんアドボカシーの動員 さまざまな資源と発展(1990〜1993年)
6 全米乳がん連合 政治の場への影響力行使
7 政治の場と機会の窓(1991〜1993年)
8 結論
アフリカ系アメリカ人女性の乳がん発生率は低く現れているにもかかわらず、死亡率は非ヒスパニック系の女性よりもかなり高い。事実、乳がんで死亡する黒人女性の数は白人女性の2倍以上に上っている。その主な理由は、白人女性と比べた場合、黒人女性が(例えば乳房の臨床検査や、年に1度の乳房X線撮影などの)予防医学にアクセスする機会に恵まれていないということと大きく関係している。(p.20)
1989年から1993年に欠けて、乳がんの年齢法制死亡率は約6%さがった。アフリカ系アメリカ人女性については、1.1%増加した。(p.22)
乳がんの患者は感情的・心理的な副作用も経験しやすい。これは乳房を手術で喪失した女性に当てはまる。そのようなケースで乳房切除がなされたときには、セクシャリティと慈しみのシンボルとして今日でも文化的に有効性を発揮しているものの喪失に、女性は耐えなければならない。(p.27)
(…)がんは政府が対処すべき問題であると考えるようになるまでにはかなりの時間がかかった。その主な理由は公衆衛生の政策課題として対応を迫られていたその他の疾病−特に、感染しやすい疾病の存在によって、長期にわたり、がんという病期の存在の影が薄かったことである。(p.34)
(…)保健医療の専門家と一般の人々が予防的ケアを重要視するようになったこと、そしてライフスタイルの変化による影響を注視するようになり、さらには環境が健康にもたらす影響に注目するようになったことなどによって、彼らの疑問が補強されたのであった。(p.49)
(…)病院の手術室の外で行われた外科的処置に対しては、保険による給付がなされないので、「当たり前のように手術に取り掛かっている」のではないかと思うといった。さらにいえることは、診療報酬の体系が、がん組織の複雑さではなく、組織の大きさに基づいて外科処置の費用を算出することになっているので、修正切除手術よりもハルステッド根治的切除をするほう医師は高い報酬を得られたということである。(p.68)
実際、多くの乳がんの活動家にとって、これはさまざまな精神的苦痛を紛らわす機会となった。精神的苦痛とは、深い悲しみ、欲求不満、選択肢が少なく苦痛をともなう治療法への怒り、大切な乳房の喪失への怒り、そして無力な専門家への怒り、さらには、乳がん患者の健康悪化や死亡することになるかもしれないという苦悩、というものであった。(p.124)
運動の政治的な目標を進展させるメディアの力を十分に心得ていたので、彼女たちは準備を整え、メディアに支持を求めることをいとわなかった。もうひとつの動機は、全国レベルであれ、地方レベルであれ、メディアは、乳がん団体の行動を報道するときには常に好意的であり、批判的ではなかったということである。(p.134)
先生方も、雇用創出によってこの国の経済を立て直そうとお考えになるならば、数百万ドルの予算を対外援助から交通機関整備の方に転換させる方法を思いつかれるでしょう。乳がんがもたらす経済への影響がどれほどのものかお考えください。わが国では治療費および生産力の喪失として80万ドルの乳がん費用がかかっています。
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