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所有
(property / ownership / possession)

私有財産制とは、財産の私有を保障する制度であり、次の3つの原則からなる。すなわち、@財産は原則として個人の所有者に帰属する(所有の原則)、A所有者は自分の所有物を自由に使ったり処分したりできる(支配の原則)、B所有者の利用による結果は自分で責任を持たなければならない(リスク負担の原則)である。(佐久間 編 [2006:93])


◆Cohen, G. A. (1995).Self-Ownership, Freedom, and Equality. Maison des sciences de l'Homme and Cambridge University Press. (= 2005 松井暁・中村宗之 訳 『自己所有権・自由・平等』, 青木書店)

◆Attali, Jaques. (= 1994 山内昶 訳『所有の歴史――本義にも転義にも』, 法政大学出版会)

◆Dewey, John., & Tufts, James H. (1908,1932). Ethics, Henry Holt and Co. New York. (= 1972 久野収 訳 『社会倫理学 (世界の大思想38 デュウイ=タフツ)』, 河出書房新社)

◆Engels. (1891). (= 1954 村井康男・村田陽一 訳 『家族、私有財産および国家の起源』, 大月書店(国民文庫)p244

◆Diósdi, György. (1970). Ownership in Ancient and Preclacical Roman Law. Akadémiai Kiadó, Budapest.(= 1983 佐藤篤士・西村隆誉志・谷口貴都 訳  『ローマ所有権法の理論』, 学陽書房)

◆Jhering, R. V. Der Besitzwille 山内[1953:52]

◆Macpherson, C. B. (1962). The political Theory of Possesive Individualism, Oxford University Press. (= 1980 藤野渉・将積茂・瀬沼長一郎 訳 『所有的個人主義の政治理論』, 合同出版)

◆Marx,Karl.. & Engels Friedrich. (1867,1873,1883,1890) Das Kapital. Kritik der politischen Ökonomie, Erster Band. Buch T:Der produktionsprozeß des kapitals, Institut für marxismus-Leninismus bein ZK der SED, Dietz Verlag, Berlin.(= 1968 大内兵衛・細川嘉六 訳 『資本論』, 大月書店)

◆マルクス 横山正彦 訳 (1865=1953,65) 『新訳 賃金、価格、利潤』大月書店(国民文庫)119p

◆マルクス エンゲルス 著 後藤洋 訳 (=2000) 『ゴータ綱領批判 エルフルト綱領批判』, 新日本出版社

◆Klöcker, Michael., & Udo, Tworuschka. (Eds.). (1986). Ethik der Religionen-Lehre und Leben. Kösel-Verlag GmbH & Co., München und Vandenhoeck & Ruprecht Verlag, Göttingen. (= 2000 石橋孝明 訳 『所有と貧困の倫理 諸宗教の倫理学所有と貧困の倫理 諸宗教の倫理学――その教理と実生活』, 九州大学出版会)

◆リーヴ・アンドリュー 著 生越利昭・竹下公視 訳 (1989). 『所有論』 晃洋書房

◆ランツ (1990). 島本美智男 訳 『所有権論史』, 晃洋書房

◆Parsons, Talcott., & Smelser, Neil, J., (1956). Economy and Society: A Study in the Integration of Economic and Social Theory, London: Routledge an Kegan Paul LTD.,(= 1958 富永健一 訳 『経済と社会 TU』, 岩波書店)

◆Locke, John. (1690). Two Treaties of Government. (= 1968 鵜飼信成 訳 『市民政府論』, 岩波文庫)

◆Ryan, Alan. (1987) Property, Open University Press.(= 1993 森村進・桜井徹 訳 『所有』, 昭和堂)

◆Savigny (1837) Das Recht des Besitzes in 山内 [1953:51]

◆Spinello, Richard A. (2003) Case studies in information technology ethics 2nd ed. Upper Saddle River, N.J. : Prentice Hall. (= 2007 中西輝夫訳 『情報社会の倫理と法――41のケースで学ぶ』, NTT出版)

◆Utz Arthur F. O. P. 1994 . Sozialethik mit internationaler Bibligraphie Politeia Bd. 10 , 4 Teil : Wirtschaftsethik, Bonn 『社会倫理学』第四部「経済倫理」 (= 2002 島本 美智男 『経済社会の倫理』. 晃洋書房)

◆有井行夫 (1991) 『株式会社の正当性と所有理論』, 青木書店 

◆戒能通孝 (1958) 「所有権論研究所説――物財所有の神秘と伝統」 『東京都立大学人文学会 人文学報18』 所収 利谷信義 1977 『戒能通孝著作集4 所有権』 日本評論社

◆川島武宣 (19) 『所有権法の理論』

◆川本隆史 (1998) 「所有」 所収 廣松渉 編著 『岩波 哲学思想辞典』 岩波書店

◆北原勇 (1984) 『現代資本主義における所有と決定――現代資本主義分析3』 岩波書店

◆芝原拓自 (1983) 『所有と生産様式の歴史理論』 青木書店

◆鷹巣信孝 (1996) 『財産法における権利の構造――共有と合有』 成文堂 

◆立岩真也 (1997) 『私的所有論』 青土社

◆立岩真也 (2000) 「所有」 猪口 孝 編『政治学事典』弘文堂 → 2000 『希望について』 青土社 p.195-6.

◆立岩真也 (2000) 「こうもあれることのりくつをいう ――という社会学の計画――」, 『理論と方法特集――変貌する社会学理論』, 27, 日本数理社会学会

◆土屋賢二 (1997) 「所有の概念」,『哲学者かく笑えり』, 講談社

◆利谷信義 (1977) 『戒能通孝著作集4 所有権』, 日本評論社

◆日本法哲学学会 編 (1992) 『法哲学年報――現代所有論』, 有斐閣

◆藤田勇 (1989) 『近代の所有観と現代の所有問題』, 日本評論社

◆山内得立 (1953) 『実存と所有』, 岩波書店

◆中山康雄 (1953)  『共同所有論 法理学論篇 法律学体系 第二部』, 日本評論新社 

◆森村進 編著 (2005) 『リバタリアニズム読本』, 勁草書房

◆森村進 (2001) 『自由はどこまで可能か――リバタリアニズム入門』, 講談社現代新書 1542

◆森村進 (1997) 『ロック所有論の再生――一橋大学法学部研究叢書』, 有斐閣

◆森村進 (1995) 『財産権の理論』, 法哲学叢書6 弘文堂

◆吉田民人 (1991) 『主体性と所有構造の理論』, 東京大学出版会

◆吉野悟 (1972) 『ローマ所有権法史論』, 有斐閣

◆鷲田清一 (1993, Aut.) 「所有と固有――ジョン・ロックの《所有》論をめぐって 上」 『季刊 iichiko』, 29.

◆鷲田清一 (1994, Win.) 「所有と固有――ジョン・ロックの《所有》論をめぐって 下」 『季刊 iichiko』, 30.

◆鷲田清一・大庭健 編著 (2000)『 所有のエチカ――叢書 倫理学のフロンティアV』, ナカニシヤ出版

◆鷲田清一 (2002) 「所有」 所収 永井均・小林康夫・大澤真幸・山本ひろ子・中島隆博・中島義道・河本英夫 編著 2002 『事典 哲学の木』 講談社 pp.544-547

 

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◆エンゲルス 著 村井康男・村田陽一 訳 1891=1954『家族、私有財産および国家の起源』 大月書店(国民文庫)p244

 父権と子による資産の相続―これによって家族における富の累積が促進され、家族が氏族に対立する一つの力となった―、富の差が、世襲貴族と王権との最初の萌芽の形成を媒介としてこの制度に及ぼした反作用、奴隷制―これはさしあたってはまだたんに捕虜の奴隷制であったが、自分の同種族員をさえ奴隷化する展望をすでにひらきつつあった―、古い種族対種族の戦争がすでに、家畜、奴隷、財産を奪取するための海陸における組織的な略奪に、世紀の営利源泉に、変質しつつあったこと、要するに、富が至高の善として賛美尊敬され、古い氏族制度が富の暴力的略奪を正当化するために悪用されたこと、これがそうである。(p.139-40)

 ソロンの革命では、債務者の所有のために債権者の所有がしのばなければならなかった。債務はあっさり無効と宣言された。その詳細はわれわれには精確には知られていないが、ソロンはその詩のなかで、抵当に入れられた地所から抵当の標柱をとりはらい、債務のため外国から売られたものや逃亡したものをつれもどしたと言ってほこっている。こういうことは、所有権の公然たる侵害によってはじめて可能なことであった。そして実際、いわゆる視英二革命は、その最初のものから最後のものまで、すべてなにか一つの種類の擁護のためにおこなわれ、他の種類の所有の没収ー所有の盗奪とも呼ばれるーによって遂行されたのである。こうして、二五〇〇年来、私的所有を擁護することができたのは、ひとえに所有権の侵害によるものだったことはたしかである。(p.149)

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◆マルクス 著 横山 正彦 訳 (1865=1953,65) 『新訳 賃金、価格、利潤』大月書店(国民文庫)119p

 地代、利子、産業利潤は、商品の余剰価値の、つまり商品に体現されている不払労働べつべつの部分にたいするべつべつの名称でしかないのであり、それらは一様にこの源泉から、しかもこの源泉からだけ産まれてくる。それは、土地それ自身からも、資本それ自身からも生まれて気はしないのであって、土地と資本が、それらの所有者にたいして、労働者から事業主=資本家のしぼりとった剰余価値のなかから、それぞれの分けまえをもらうことができるようにするのである。労働者自身にとっては、こうした剰余価値、彼の剰余労働つまり不払労働の成果が、ぜんぶ事業主=資本家が自分の資本だけをつかい、しかも彼自身が地主であるとすれば、全部の剰余価値がかれのふところにはいることになる。(p.64)

 労働力の価値の最低の限界は、生理的要素によって決定される。すなわち、労働者階級は、自分自身を維持し再生産し、その肉体的存在を代々永続させるためには、生存と繁殖を絶対に欠くことのできない生活必需品の価値が、労働の価値の最低の限界になっているのである。(p.81)

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◆Marx,Karl. & Engels Friedrich, (1867,1873,1883,1890) Das Kapital. Kritik der politischen Ökonomie, Erster Band. Buch T:Der produktionsprozeß des kapitals, Institut für marxismus-Leninismus bein ZK der SED, Dietz Verlag, Berlin.
= 1968 大内 兵衛 細川 嘉六 訳著 『資本論』 大月書店

 彼が資本家の作業場に入った瞬間から、彼の労働力の使用価値、つまりその使用、労働は、資本化のものとなったのである。資本家は、労働力を買うことによって、労働そのものを、生きている酵母として、やはり自分のものである死んでいる生産物形成要素に合体したのである。彼の立場からは、労働過程は、ただ自分が買った労働力という商品の消費でしかないのであるが、しかし、彼は、ただそれに生産手段を付け加えることによってのみ、それを消費することができるのである。労働過程は、資本家が買った物と者とのあいだの、彼に属する物と物とのあいだの、一過程である。それゆえ、この過程の生産物が彼のものであるのは、ちょうど、彼のぶどう酒くらいの中の酵母過程の生産物が彼のものであるようなものである。

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◆マルクス エンゲルス 著 後藤 洋 訳 (=2000) 『ゴータ綱領批判 エルフルト綱領批判』 新日本出版社 ISBN4-406-02760-2

 労働はすべての富の源泉ではない。自然は、労働とちょうど同じほど、使用価値の源泉であり(そして確かに、使用価値から物的富は成り立っているのではないか?)、労働そのものが、人間の労働力という、自然力のあらわれに過ぎない。(p.19)

 人間は、あらゆる労働手段と労働対象の第一源泉である自然にたいして、はじめから所有者としてふるまい、それを自分のものとして取り扱うかぎりでのみ、彼の労働は使用価値、したがってまた富の源泉となる。(p.20

 個々で問題に質得るのは、それ自身の基礎のうえで発展した共産主義社会ではなく、逆に、資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会であり、したがって、この共産主義社会は、あらゆる点で、経済的にも、道徳的にも、精神的にも、この共産主義社会が生まれてきた母体である古い社会の母斑をまだつけている。それゆえに、個々の生産者は、彼が社会に与えるものを−控除したあと−同じだけとりもどす。彼が社会に与えたものは、彼の個人的労働量である。(p.27)

 共産主義社会のより高い段階において、すなわち、分業の下への諸個人の奴隷的な従属がなくなり、それとともに、精神的労働と肉体的労働との対立もなくなった跡で、労働が生きるための手段だけでなく、労働そのものが生活の第一欲求となったあとで、諸個人の全面的な発展にともなって彼らの生産書力も増大し、協同組合的富のすべての源泉がいっそうあふれるほど湧き出るようになったあとで、−そのときはじめて、ブルジョア的権利の狭い限界が完全にのりこえられ、そして社会はその旗に次のように書くことができる。各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!(p.30)

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Diósdi, György. (1970). OWNERSHIP IN ANCIENT AND PRECLACICAL ROMAN LAW, Akadémiai Kiadó, Budapest.
= 1983 佐藤 篤士 西村 隆誉志 谷口 貴都 訳 『ローマ所有権法の理論』 学陽書房 ISBN4-313-31002-9

 
第一部 古い時代の法
 第1章 動産に対する私的所有権の起源
 第2章 不動産に対する私的所有権の起源
 第3章 家財産と個人財産
 第4章 所有権をあらわす名称と家父権の同質性
 第5章 握取行為
 第6章 使用取得に先立つもの −USUS ACTORITAS(使用追奪担保)
 第7章 古い時代における所有権の救済
 第8章 役権・信託・質の起源
 第9章 古い時代における所有権の性質 −その一般的な特徴と固有な特徴


第二部 前古典期の法
 第1章 古典期所有概念の形成
 第2章 所有権譲渡の発展
 第3章 所有者救済の展開
 第4章 「財産中にある」と市民法上の虚有権
 第5章 前古典期における所有権の性質
 

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◆立岩 真也 (1997) 『私的所有論』 青土社


第1章 私的所有という主題
第2章 私的所有の無根拠と根拠
第3章 批判はどこまで行けているか
第4章 他者
第5章 線引き問題という問題
第6章 固体への政治
第7章 代わりの道と行き止まり
第8章 能力主義を否定する能力主義の肯定
第9章 正しい優生学とつきあう

 だがその身体が私のもとにあること、また意のままにそれを私が使えること、これらの事実と、その身体を他者に使用させず、私の意のままに動かしてよい、処分してよいという規則・規範とは、全く次元の異なったところにある。(p.27)

 誰もが、一見してこれをずいぶん乱暴な議論だと思うはずである。基本的にこの論理は、結果に対する貢献によってその結果の取得を正当化する論理である。しかし、この世にあるもののどれだけを私たちがつくっただろうか。例えば、私は皮から水を汲んできた。私は牛から父を絞った。確かに私にとってその水や牛乳が利用可能になるためにはそうした行為が必要だった。しかし、その水や牛乳があることに私はいったいどれほど貢献したか。(p.34)

 …一つ確かなことは、身体そのものは自分自身が作り出したものではないということである。私が作り出したものはこの世に何もないのだとさえ言える。それにしても、手足なら制御することもできよう。しかし、私の身体の内部器官は私が作り出したものでも制御できるものでもない。だから、この主張によって身体の所有を正当化することはできない。(p.35)

 言われていることは、結局のところ、「自分がつくったものを自分のものにしたい」ということなのである(p.37)

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◆立岩 真也 (2000) 「所有」 猪口 孝 編『政治学事典』弘文堂 →(2000) 『希望について』 青土社 p.195-6.

 一人一人の個人に財に対する権利が与えられるとは、世界の財を人間の数で分割するということであり、そのあり方は無限にありうる。この一人一人がある範囲の財について権利をもつというあり方の中の一つとして、近代社会における所有、近代の私的所有がある。その特殊なあり方とは、生産者が生産物に対する所有権を有するものとされることである。これは、生まれながらの属性によって受け取るものが定まっている属性主義、帰属原理の社会から、業績主義(能力主義)、業績原理の社会へという移行に対応するものでもある。


◆立岩 真也 (2000) 「こうもあれることのりくつをいう ――という社会学の計画――」 『理論と方法』27(日本数理社会学会、特集:変貌する社会学理論)

 今現に交換が生ずる場では、すでに所有権が設定されている。なにもないところに市場は成立しているのではなく、所有の初期値が決まった上で市場は始まるのである。問題にされるべきは、その初期値の決まり方である。それを設定するのが所有権であり、だからこれを問題にすべきである。


◆北原 勇 (1984) 『現代資本主義における所有と決定 現代資本主義分析3』 岩波書店

 
 序論 本書の課題
 第一篇 資本制企業における所有と決定(原型)
 第1章 資本制個人企業における所有と決定
 第2章 経済法則の支配と企業家の決定
 第3章 株式会社における所有と決定
 第二篇 現代資本主義における所有と決定
 第4章 独占資本主義における資本の運動
 第5章 現代巨大企業における所有と決定T
 第6章 現代巨大企業における所有と決定U −経営管理組織による決定
 第7章 企業集団における所有と決定T −産業資本型企業集団
 第8章 企業集団における所有と決定U −金融資本型企業集団
 第9章 所有と決定への現代国家の介入(覚書)
 補章 わが国巨大企業における所有と決定

 

 これにたいして本書で提起した新しい概念が「会社それ自体」である。すなわち、個人的所有者兼支配者の存在しない現代独占的巨大企業においては、自然人ではなく「会社それ自体」が現実資本の直接的所有主体であり、その所有にもとづく支配力をもつ経済主体であり、それゆえにまた行動主体でもあるのである。そして、この「会社それ自体」と株主と経営者の三者相互の関係と位置づけを正確に認識することによってはじめて、現代における「所有と支配」の真の所在及びそのあり方も、また株主および経営者の階級的性格も、解明できるのである(p.18)。

 ここで想定している個人企業家のばあい、その資本は全額、当初において企業化が所有していた貨幣=貨幣資本であった。彼はこの貨幣に対する所有権(自由な使用・処分の権利)にもとづいて、この貨幣資本によって企業を組織し、その企業の基本方針・重要戦略をすべて自分で自律的に「決定」する。また彼は、この貨幣資本の所有者であるがゆえに、その転態した「生産資本」(生産過程にある生産所手段と労働力)、さらには「商品資本」(剰余価値を含む生産物)の所有者ともなるのである。かくしてこの企業家は、資本所有者であるがゆえに、生産・流通の全過程を自分にまた、他人=労働者が生産した生産物=「商品資本」のすべてを取得し、それを自由に処分する権利をもち、その内にふくまれる剰余価値=利潤をわがものとするのであるし、その利潤の処分ー蓄積と消費ーを通じて生産規模の拡大をも自分の意思のもとにおくのである。このように利潤を自由に処分しうるのも、その根拠は企業家の貨幣資本の「所有」にある。(p.40)

 このように企業家が最高の「決定」者=「支配」者であるということは、彼がこの企業活動にかんするいっさいの権利を持つと同時に義務の全責任を負うということである。企業活動の結果、損失が生じたばあい、彼は自己の責任において弁済する義務を負っている。企業家=機能資本家は、このように自分自身の責任において弁済する義務を負うことによって、借入れた貨幣資本を占有し支配することになるのである。(もっとも、彼自身がその責任において弁済することができるとみなされるということは、一般には彼自身或いは保証人の資産が当てにされていることを意味する。そのかぎりでは、信用にもとづく占有においても、さらにその重要な基礎として彼自身の「所有」があることになる)他方、貸し手は、資本として機能している貨幣価値の所有者であっても、資本としての機能、企業活動にかんする「決定」に能動的に関与することはいっさいできないし、またその企業活動にともなう責任もいっさい負わない。これが原則である。(p。51)

 ある企業がより多くの利益を獲得することは、他の企業にとってより少ない利益獲得可能性をもたらすことを意味し、ある企業がその活動範囲を拡大させることは一般に他の諸企業の活動範囲を制限ないしは侵食することになるからである。私的所有を前提とした私的所企業は、かくして相互にたえず競争し会う関係の中でのみ存在することになる。かかる競争の中では、企業化がそれぞれの自律的な決定において当初意図したことも実現されるとはかぎらず、むしろ「彼らを無意志的に支配する圧倒的な自然法則」として経済法則が支配することになるのである。(p.62-3)

 労働者はその労働力商品を、どの労働力市場でどの購買者=資本家に販売するかは自由に選択できるので、一見したところ、労働力商品の取引は、他の一般商品のそれとまったく同様の、対等の商品所有者の間における取引関係のようにみえる。しかし、労働者は生存のためにその価格(賃金)のいかんにかかわらず労働力商品の販売を反復することを強制されているのであって、その価格(賃金)が低いからといって販売を止め供給を減少することはできない。(p.76-7)

 機械制大工業では、問うか総資本のうち、この耐久的な機会に投下される固定資本の比重が高くなる。この固定資本では、耐久的な機械を設置するさい一挙に資本が投下され、機械の価値は漸次的に生産物に移転し、実現されて(資本価値は漸次的に実現され貨幣形態をとって)いくが、機械そのものは長い耐用期間のあいだ中機能し続け、機械の価値のすべてが生産物に移転し実現され、投下された資本価値すべてが貨幣形態をとるようになるのは、長い耐久期間の終わったときである。(p.88)

 …結合資本が結合資本として継続的に自己増殖活動を遂行していくことができるためには、合名会社や合資会社のような出資払い戻しによる結合資本の分解の可能性が廃絶されなければならない。株式会社においてはじめて、出資者の出資した貨幣(資本)は会社自体の資産として出資者の資産から分離・独立し、出資者の出資払い戻し請求から自由となったのであり、そのことによって、株式会社は先にみてきた大規模資本の自己増殖活動の永劫性の要求に最高度に応えることができるのである(p.90-1)

 すなわち、会社資産の管理において、株主は直接それを行なう権利を持たず、株主団体=株主総会の決定に参加する権利=間接的権利(いわゆる「共益権」)をもつ。また会社の運営から発生した利益・損失については、株主は直接の権利・義務をもっておらず、会社に対し利益配当請求権、残余財産分配請求権など(いわゆる「自益権」)をもつ。(p.93)

 合名会社や合資会社では、出資者たちはこのような完全な所有権を基本的に保持したうえで、相互に結合している。したがって、そこでは前節で指摘したように、彼らは個々人の意思によって出資払い戻しを請求し出資引き上げを行なうこともできるのである。また個人企業において利潤が実現できなかった時に企業家は従来資本として運用していた企業資産の一部を自らの消費のために転用することができたのと同じく、合名会社や合資会社でも全社員の合意の上で、利益がない場合に企業資産の分配・とりくずし→私的用途への転用ができるのである。(p.97)

 いわゆる株式会社財団説とは、所有と経営の分離、株主総会の権限の制限、議決権のない株式の承認などに注目し、株式会社はもはや人的結合とは言えず、営利財団法人と見るべきだと主張するものである(代表的なものとして八木弘『株式会社財団論 −株式会社の財団的構成』有斐閣 1963年)この説によれば、株式の引き受けは出資行為という単なる債権契約であり、株式引受人は寄付行為者に該当し、株式は純然たる金銭債権だとされる(p.113-4)。

 企業合同の後に、従来の諸企業の第株主をもふくめて、キャピタル・ゲイン実現のための株式の「放出」が行なわれる傾向が強い。…いまひとつ、大株主の株式「放出」には、支配領域の拡大という意図によるばあいがある。ある会社を自己の支配のもとにおこうとするばあい、当該会社の株式のうちどれだけの比率を所有する必要があるかということは次節で検討するが、会社の大規模化により、上位大株主以外の持株が分散的になればなるだけ、その比率は低下していく。そのようなばあいには、大株主はその持株の一部を放出して、それによって得た貨幣を他の会社に投資することによって、事故の支配領域を拡大することができるようになる。(p.169-70)

 …株式所有のみにもとづく、純粋な「少数持株コントロール」ともいうべきものは、その確認は相対的に容易であるが、それは一部分であってむしろ減少傾向にある。他方、株式所有にもとづかない「マネジメント・コントロール」も、その確認は相対的に容易であるが、それは増加傾向にあるとはいえなお一部分である。そして現実には右の二つの中間に、「少数持株」の力と経営管理能力にともなう力とを合体して会社をコントロールしているものが、両者のいろいろの比重・組み合わせをもって、存在しているのである。(p.185)

 …巨大企業において、株式所有の極度の分散と経営管理機能の複雑化の進展にともなって株主が失っていく力は、まずもって、その巨大企業の「会社それ自体」に移転・凝集し、それによる所有の内容充実を結果するのである。マネジメント・コントロールとは、実は、この実質的所有主体として成熟した「会社それ自体」による会社資産→現実資本( =生産所手段と労働力、および両者の結合)に対するコントロールの現象形態にほかならない。(p.191)

 いわんや経営者は会社資産の事実上の所有者になるはずはない。次項で見るように、たしかに一定限度内では彼は会社資産を私的に利用したり取得したりできるが、それは部分的・一時的であって、基本的には彼は会社資産を自分のために自由に消費したり譲渡したりする権利も力ももつものではない。では、個々の株主達が喪失する力はどこに行くのであろうか。それはほかでもなく「会社それ自体」である。(p.191)

 近代的所有の典型である個人所有が厳重な排他的支配によって特徴付けられているのにたいし、「会社それ自体」による所有は、その点やや寛容な性格をもっている。すなわち、そこでは、何者かによってその所有=支配の一部が侵害されるようなことがあっても−その侵害が次項で見るような一定範囲をこえないかぎり-、それを<自己の所有に対する侵害として抵抗し取り戻すべく即座に反撃する個人が存在しない、そういう構造的性格だからである。(p.194)

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◆Cohen, G. A. (1995). Self-Ownership, Freedom, and Equality Maison des sciences de l'Homme and Cambridge University Press.
= 2005 松井 暁 中村 宗之 訳『自己所有権・自由・平等』 青木書店)

 プロレタリア階級が成し遂げうるし、成し遂げることになる革命− それが平和的であれ流血を伴うものであれ、合法であれ違法であれ、急速であれ緩慢であれーのの後に、不平等が新たな形態で再現するであろうという指摘に対しては、この約束された将来の浮遊が反論の根拠となっていた。マルクスが『ゴーダ綱領批判』で描写した共産主義の低次の段階であれば、若干の不平等が残る暫定的な機関が存在するであろう。しかし、「社会の富のあらゆる泉がいっそうこんこんと湧き出る[ようになった]」ときには、誰も何でもほしいものを手に入れられるのだから、こうした若干の不平等も消滅するであろう。(p.8)

 平等を要求する新しい根拠は、全人類にとっての機器であるエコロジー的危機に関連している。(…)一つは、われわれの環境はすでにかなり悪化していることであり、もう一つは、危機から抜け出す方法があるとすれば、それは現状よりもはるかに少ない物質的総消費量と、その結果として、何億人という人々にとっては生活スタイルの好まざる変更を織り込んだものでなければならないことである。(p.11)

 (…)自己所有権に訴える見地は、標準的マルクス主義による搾取への批判にも潜在しており、それゆえマルクス主義者が自らの基本的立場を問題とせずに、リバタリアニズムを拒否することは困難であるからこそ、リバタリアニズムは一部のマルクス主義者たちを困惑させているのだ(…)(p.13)

 自己所有権原理は、各人は自分自身に対する完全な主権を有するとしているが、人間以外の資源への権利については、表面上何も語っておらず、特に、人々が欲するものを生産するのに不可欠な資源の物質や諸力については、何も語っていない。人間の自分自身に対する所有権のみに関わり、その所有権については各人を他のいかなる人間とも同等に扱う。このような原理を実行すると、人々が欲するものの分配における不平等が、なぜ必然的帰結として導かれるのであろうか。(p.15)

 そのような富裕がもはやとうてい不可能であるとするならば、他者のために自分のしたくないことをせざるをえない者が誰一人として存在しないような平等主義的社会は不可能である。マルクス主義者は、かの富裕がもたらすという万人の無限の自由を賛美することで問題を回避するのではなく、自己所有権を規制しなければならないのである。(p.19)

 

 ウィルト・チェンバレンの取引について検討する際には、この点を想起すべきである。なぜなら、この例話の中で広く行われているこうした契約は、将来世代に属する人々の状況を悪化させてしまうという深刻な影響を持ちうるからである。(p.29)

 取引の当事者たち(ないしその一部の人々)が取引からえられると考えているものがわれわれにわからない場合には、(たとえそれが)まったく正しいとしても? 取引には不安がつきまとう。(…)取引に同意している各人について、われわれは次のように尋ねることができよう。彼がその結果がいかなるものであるかを知っていたとしたら、彼はそれに同意したであろうか。答えは否定的であろうから、上述のように取引が正義にかなっているからといって、その結果にまで正義が引き継がれるとは限らないのである。 (p.30-1)

 だが、ある人が自らと他の100万人が各々二十五セントを払ってウィルトの競技を観戦できるような社会を歓迎しながら、それと同時に、ウィルトが二十五万ドルという巨額を追加分として設けているような社会を嫌悪することはありえる(p.34)

 だがさらに、ノージックは、資本化のための労働をZが強制されていることを認めながら、次のように述べることで、自らの立場を回復しようとしていると想像することもできる。すなわち、Zは確かにそのように強制されたのだが、彼が共生される事態をもたらしたのは正当な一連の取引であるから、彼がそのように強制されていることを道徳的に問題とすることはできないし、そこには何の不正も存在しないのである。(p.48)

 麺棒の例では正しい状態は、不正な手順がないのに不正な状態へと変形されている。(…)にもかかわらず、どうしてそこに起こる何らかの不運な出来事の結果から不正な状態が生じることはありえないと言えるのか。(p.62-3)

 もし誰もが自分の将来の取引を予測できたとしたら、将来に取引を行う必要はなくなるであろう。市場過程にかわって、あらゆる将来の交換を盛り込んだ一回かつ永遠の巨大な多面的な契約が登場することになろう。(p.73)

 「自己」という言葉は、自己所有権命題の名の下にまさしく再帰的な意味での重要性をもっている。それは所有するものと所有されるものが同一であり、人間全体であることを示している。その結果、自己所有命題によってバスケットボールを巧みにこなす私の腕や能力に対する主権を要求するためには、私の腕と能力とが私という自己の適正な一部分であることを確証する必要はなくなる。(p.97)

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◆土屋 賢二 (1997) 「所有の概念」 『哲学者かく笑えり』 講談社 ISBN4-06-208578-X

 どうしても所有したいのなら、美術館の絵画や公共の庭園や大自然を自分のものだと見てはどうだろうか。管理は他人にやらせていると考えればよい。このように簡単な思いちがいをするだけで、所有欲は十分に満たされるのだ。自動車にしてもそうだ。高価な自動車を見たら、面倒な管理を無料でやってもらい、その上、無料で使ってもらっていると考えればいいのだ。あるいは、その持ち主に車をプレゼントしたのだと思ってもよい。自分の身内や恋人にならプレゼントすることができるのだから、心を広くもてば、赤の他人にプレゼントした、と思い込むことも不可能ではないだろう。(p.34)

 しかし物欲を断念せざるをえないような状況(戦争になってすべてが空襲で破壊されるような場合)では、そんなこだわりはふっとんでしまうだろう。そうなったら、当然ショックを受けるにちがいないが、所有に起因するさまざまな心配から解放されたという喜びも少しは混じるのではなかろうか。このような場合、とくに望ましいのは、だれにも破壊の責任をとってもらえない、という状況である。責任者がいたら、損害賠償を請求しなくてはならないし、未練を振り切ることは難しいだろうが、責任者がいなければあきらめるしかなく、執着心から解き放たれて、かえってせいせいするのではなかろうか。逆に、所有を求めていくと、所有の憂鬱がつきまとい、果てしない欲望の奴隷になって、こせこせした人生を送ることになる。このことに気がついて、所有欲を断ち切るという考えを実践した先覚者もいた(物への執着を断ち切ることに執着心を燃やしたともいえる)。キリストや仏陀もそうだが、有名なのは一遍上人やディオゲネスである。われわれもこういう人にならって、いさぎよく捨てる喜びを味わいたいものである。なお、貴重なものを捨てる時はぜひわたしに一報していただきたい。(p.35-6)

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◆Dewey, John & Tufts, James H. (1908,1932) Ethics, Henry Holt and Co. New York.
=1972 久野 収 訳 『社会倫理学 (世界の大思想38 デュウイ=タフツ)』 河出書房新社

 ふつうの訴訟の場合には、適当な法的救済手続きが設けられていないところの所有権にたいするある損害を防止するために、いろいろな差し止め命令が裁判所からだされている。たとえば、判事タフトTaftの引例をとると、私が所有権を主張するある木を他人が切り倒そうとする場合、その気が切り倒されたのちでは、その損害を賠償されても、ほとんど、もしくは全然私に満足を与えないであろう。私のその木への愛着は、いかなる賠償も、それにかわらないであろう。だから、その木がだれのものかが決定されるまでは、その木を切るのを防止することが平衡法の一部である。 (Dewey & Tufts [1908,1932=1972:373-4])

 一人一人がどれだけ生産に寄与するかを知ることは、はなはだ困難であり、おそらく不可能であろう。したがって、生産の大貯水池の中から、一人一人がどれだけ分けまえにあずかるに価いするかを決定することも、実行不可能である。この大貯水池の中には、過去のいく世代もの蓄積された知識や熟練、発見と発明の天才、科学者の辛抱強い労働、平和的生産に必要な社会秩序や平穏さや社会的標準、過去からの遺産である色彩や形態や音響への趣味や感受性が、流れこんでいるのである。…見通しのきく企業家の一部が、はじめたように、消費者の数を殖やすために高賃銀を払う運動は、賢明な方向を目指すものとして、経済学者からも推奨されている (Dewey & Tufts [1908,1932=1972:404-5 ])

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◆山内 得立 1953 『実存と所有』 岩波書店

 
第一 存在と所有
第二 所有の諸形態
第三 所有に於ける精神と物質
第四 所有と習慣
第五 所有と認識
第六 所有欲
第七 儘所有と如所有

 

 我々が身体をもつ、肉体が我の身体であるというのは、我がそれを我の身体として自由に動かし、使用しえることを意味している。手が杖を持つことは、杖が身体の一部をなすことをあらわす。…何故に与えられたかを問うよりもとにかく我々に与えられていることが基本的事実なのである。そして我々に与えられているのは、事実が単にそこにあるのみでなく、我々にとって、又は我々に対してある所のものとして、即ち我々の所有としてあるものでなければならぬ。(p.35)

 所有の最初の概念、即ちdominusは家畜化(domare)の概念に由来するといわれる。ドミヌスは主人、又は支配者である。戦争によって他人種をほろとしてこれを奴隷とするとき。人間が人間を所有することが行なわれる。…ソロンはそれ故に「法なくて所有はない」といったと伝えられ、ザレウコスも「法的なる決定はその所有する人の手によってなされる」と言明したという。(p.38)

 メーンも記しているように、罠で捕らえられ或いは猟人によって殺された野生の動物、河川の気づかない程度の堆積物によって田畑にたまった土壌、土地に根を張る樹木はそれぞれローマの法律家によって「自然的に」取得されたものと考えられた。それは自然を先占することであってoccupatioとよばれた。それは人間によって手の中に入れられた事物(res mancipi)である。事物の所有は先ずこのマンキパティオに始まり、これを占有することによって、他人の侵略から守ること、即ち「占有の排他性」がおこり、さらにこの排他的占有を障害なく継続せんとして時效praescriptioの思想が起ったのである。(p.39-40)

 自然の原野は即ちphysisであり、未だ境界なく所有主なきものであったが、それが人間によってoccupyせられるようになったとき、所有nomosの世界が現れた。ノモスとは前述の如く分かたれるものの謂いである。自然は分割せられることによって人間のものとなる。分かつということは単に全体が部分に分かたれるということだけで華kう、分かたれることによってその性格を一変する。分かたれる自然はもはや単なるphysisではなく、人間的なるnomosとなるのである。法とは分かたれ、所有せられるものについてその秩序と公正を分明にし、又は維持するものに外ならない。(p.64)

 この主体はマルセルによれば時として或る物であり、時として或る者であり、そして前者の場合にはavoir-implicationがなり立ち後者の場合にはavoir-possessionが構成されるというのであるが、主体が単なる物であるということが果してあり得るか。所有に於いて対象を持つものは常に或る意味に於いてpersonでなければならぬ。作用といえども単なる心的存在で無くしてすでに一つの人格でならぬ。(p.106)

 habitusは習慣であるが、それは文字通りに所有せられたものであり、単にそこにあるものではなく、我々にとって所有せられた或るものでなければならぬ。単なる事物の状態ではなく、人間によって所有せられたる有態でなければならない。アリストテレスはこの所有を範疇の一つに数えていたことは有名である。それは存在の一つの形態であった。(p.1

 我々は先ず事故の身体を持っている。身体を持つことによって存在している。しかし身体性は単に自然に与えられたものではなくして、我々によって所有せられたものでなければならぬ。なぜならば身体はまさに私の身体であり私のものであり、私のもつところのものであるのだから。…精神は身体の中にあるのではなく、身体を持っているのである。賑t内は精神の容器ではなくして、精神によって所有せられたものである。(p.169-70)

 資本主義というものが、最少の経費によって最大の利潤を獲得せんとする人間の努力であるとするならば産業経営の孰れがそれならざるものがあり得ようかという意味に於いて、それは人間の生活とともに古くそして根づよく人間を支配するものであったにちがいない。資本主義が特に近代に於ける産業組織に限定されるならばいざしらず、広く以上の如き利欲追求を意味するとすれば、それはブレンターノを俟つまでもなく大凡経済史家の遍く承認せざるを得ぬ所であろう。(p.220)

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◆戒能 通孝 (1958) 「所有権論研究所説 −物財所有の神秘と伝統」 『東京都立大学人文学会 人文学報18』 所収 利谷 信義 (1977)『戒能通孝著作集4 所有権』 日本評論社

 財産の保護は、このようにしてみると、まず物質的財貨だけに集中されている。それを基礎づけているのが「所有権」であって、「所有権」が物財に対する支配とその保護のみを意味することは、法的に確定しているだけでなく、社会的にも確定したものとして通用せせられているのである。それは真実の必要から言えば、明らかに誤っている。なぜならば人が「パンと水のみにて生くるものにあらず」ということを認める以上、生きるに値する精神が、まず外からの強制命令に対し、保護されなけらbならないことは当然だからである。また、人が生きるに当って「パンと水」とを所有するこというまでもない以上、どこかから「パンと水」を得なければならないのも、当然だからである。パンと水の源泉は、半ば自然に負っているというものの、他の一半は労働(人間の労働時間)ニ依存する。だとしたら、どうして人間の労働や精神が財貨として尊重されないで、自然及び自然の加工成果たる物財のみが、財貨としての保護を受けているのだろうか。私は資本主義的私所有制度の最も基本的な問題を、むしろここに見いだしたく思うのである。(p.233)

 けだしある人の支配する物財が、もっぱら先祖伝来のものに過ぎない場合には、大事なのはその物財自体よりも先祖である。だが農業であれ、商業であれ、あるいはサラリーマンの貯蓄であれ、自分の才覚で作り出し、自分の節約で貯蓄した財産は、いってみれば、客観かされた自己自身にちがいない。自己の支配する物財にはその意味で自己の精神も肉体(時間)もは言っている。それはいうまでもなく小資産者意識である。従って物財に対する支配権を、とくに「所有権」として、これに特別な立場を与えることを好み、または目的とする社会を維持するには、勤勉と貯蓄心とによって財産が作られたのであるとする小資産家伝説を絶対化し、これ尾w宗教的信仰の段階まで引き上げることが必要でもあったのである。(p.238)

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◆Macpherson, C. B. (1962) The Political Theory of Possessive Individualism -Hobbes to Locke, Oxford University Press
=1980 藤野 渉 将積 茂 瀬沼 長一郎 訳『所有的個人主義の政治理論』 合同出版 348P


第一部 序論
第二部 ホッブズ 市場の政治的義務
第三部 平等派 選挙権と自由
第四部 ハリントン 機会[平等の]国家
第五部 ロック 領有の政治理論
第六部 所有的個人主義と自由民主主義

 その所有的性質は、個人は本質的に、自分自身の身体(person)ないし諸能力の所有主(proprietor)であって、それらのために何ものをも社会に負うことはないという、その見解の中に見いだされるのである。個人はひとつの道徳的全体としてでもなければ、なおまた、より大きな社会的全体の部分としてでもなくて、自己自身の所有者(owner)であるとみなされた。所有(ownership)の関係は、ますます多くの人たちにとって、彼らの全可能性を実現する現実的自由と現実的見通しとを決定するところの、きわめて重要な関係となったので、個人の本章の中に遡って読み込まれた。個人は、自己の身体と諸能力の所有者であるゆえに自由であると考えられた。人間の本質は他人の意志への依存からの自由であって、自由は所有(possession)の函数である。社会は、諸個人自身の諸能力の、および彼らがそれらを使用して獲得したものの所有主として、相互に関係させられた無数の自由平等な諸個人となる。社会は所有主間の交換関係から成り立つ。政治的社会は、この所有の保護のためと、秩序だった交換関係の維持のためのとの、計算された装置となる。(p.13)

 ここでいう平等派は、「自由のみに生まれたすべての人民」の権利を、「すべてのイギリス人の生得権」と同等視し、しかもそれを未成年者や刑事犯にたいしてと同様に使用人と乞食にたいして否定することになんら不条理なものを見ない。生得県kは、われわれが推定してよかろうように、反社会的行為のために没収されうるだけではなくて、その物の年齢あるいは使用人とか乞食であるという身分が、合理的意志の自由な行使と矛盾するとみなされた人々にたいしてもまた没収された、いやそもそもその所有権すら認められなかった。いずれにしても、平等派が、使用人とか乞食になった人びとはそれによって選挙で投票する生得権を喪失すると仮定したということを、これ以上はっきり指示するものはほとんど存在しえないであろう。(p.139-40)

 この所有主たることは、注目されなくてはいけないが、受動的享受として考えられたのではなかった。平等派は、人の自分自身の身体に対するこの多様な所有権を人の諸能力の能動的な使用と享受の必要条件として要求した。人間たちは、彼らの諸能力を活用するように、そして活用することによってそれらを享受するように創造された。彼らの彼ら自身にたいする所有権は、他人をすべて排除したが、しかし彼らの創造者と彼ら自身にたいする彼らの義務を排除したのではなかった。(p.157)

所有の二つの形態は、何か共通する基本的なものをもっていた。それらが共通して持ってたものは、二つの仕方で知られよう。第一に、平等派の見解では労働は一つの人間的な属性であったが、それはまた商品でもあった。それはその自然的な所有者(owner)によって譲渡されえたのであって、そのときはそれの価格は他のどんな商品の価格とも同様に、市場によって決定された。平等派はこのことに反対しなかった。彼らには、賃金がそのように決定されることは当然のことと思えた。彼らは過酷なほどに低い賃金に対してしばしば反対したのだが、その時には彼らは、その責を商人的独占家ないし国内消費税の働きに帰して、その救済策をいっそう自由な取引のうちに見た。土地とかたのどんな商品の場合にもと同様に、労働の場合にも、売られることのできたものは、まさしく、労働の所有権を包摂していたところの労働の使用、利益、産物にたいするあの排他的権利であった。こうして、平等派が労働を商品として考えた範囲で、彼らは労働を物質的事物の所有権と同じ種類の一つの所有権と考えた。(p.163)

 領有されていない土地がまだ多量に存在するところでは、これはその権利を満足させるすっきりとする仕方である。なぜならだれも制限によって不便をこうむらないからである。そしてロックが制限を主張するのはただ、まだ十分に土地があるという文脈の中においてのみである。しかし生存への自然的権利がそれにおいて満たされうるもう一つの仕方、もはや十分な土地がない場合に作用しうる仕方が存在する。すなわち、それは土地を持たぬ人びとが彼らの労働によって生計をうることを保証するような協定を、約定ないし仮定することによってである。そうした協定をロックは、貨幣導入への自然的結果であると認めた。こうして、貨幣導入後、人びとは他人たちによって十分に残すより以上に多くの土地にたいする権利を持つ、と語っても、ロックは、生存の手段にたいする万人の自然権についての彼の原初の主張と矛盾はしないのである。(p.241-2)

 ホッブズにとっては、労働が商品であったばかりでなく、生命それ自身が結局は商品に還元された。ロックにとっては、労働、および人の労働する能力とみなされた「身体」は商品であったけれども、生命はなお神聖であり、譲渡するわけにはいかないものであった。ロックの行う生命と労働の区分は彼が伝統的諸価値をある程度保持していることを示すものである。所有の定義にかんして、ある時は士え名と自由とを含め、ある時は含めない彼の混乱は、伝統的な価値の異物と新しいブルジョア的価値が彼の心の中で混乱していることに帰因させられよう。これこそ、疑いもなくホッブズの非妥協的な教説に比して、彼の理論を現代の読者により同意しやすいものにしているのである。ロックが賃金労働者たちの生涯にわたる必然的境遇であると主張するところの、最低の生活にたるだけの賃金のための労働の永続的な譲渡が、ひっきょう生命と自由との譲渡であることを彼は認識しようとはしなかった。(p.247)

 われわれは、単一の国民国家だけにたいする個人の義務についての、妥当的な理論をえようと望むことはできない。しかし、政治的義務のいかなる道徳理論のためにもそれを公準とすることがつねに必要であった程度の合理的な知性を、われわれが公準とすることだけでも、より広大な支持的権威にたいする個人の義務についての受け入れられうる理論が今や可能となるはずである。この程度の合理性が与えられているならば、自己利益的な個人は、たとえ彼の所有物が何であろうと、またたとえ彼の所有的市場社会に対する愛着新がどんなものであろうと、市場社会の諸関係は次のような圧倒的な要求に屈服しなければならないことを知ることができる。その要求とは、今日新しい意義を獲得しているオルヴァートンの語を借りれば、「人間的な社会、共同生活ないし生存は、…すべての現実的な事物を超えていじされなければならない」ということである。(p.310)

 危険の新しい平等が、こうしてわれわれの問題の条件を変えた。20世紀の技術は、いわばホッブズと平等派とをいっしょにしてしまった。所有的個人主義によって提起された問題は収縮してしまった。それはおそらく今や処理されうる大きさにもたさされうるが、ただしそれは、もしそれらが明白に確認され、そして社会的諸事実における現実的諸変化と性格に関連付けられるならばである。それらの変化はわれわれを再び、新しい水準においてホッブズ的危険へと駆り立てた。問題は今や、果たして新しいわく組みのなかで、ホッブズが再び修正されるるかどうかであり、今回は、彼がロックによってなされたよりいっそう明瞭に修正されうるかどうかということである。(p.310-1)

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◆中山 康雄 (1953) 『共同所有論 法理学論篇 法律学体系 第二部』 日本評論新社 

ローマ法 市民社会が単に商品交換社会であったにとどまったあいだは、市民社会は、全体社会の生産関係を担当することができず、それを非市民社会的な生産関係−奴隷制社会、封建制社会−であり、市民社会は、その流通部面の一隅を占める部分社会たるにとどまっていた。(p.21)

 ローマ法においては、自由(livertas)と市民性(civitas)といえ(familia)の三つの観点から、各人のしめるちい(status)をけって下が、自由の観点からは奴隷が「人」たるちいを否定せられて、「物」−奴隷は手中物、有体物の代表的なものとせられる−とされ、市民権の観点からは外人が「人」たるちいを否定せられ、家の観点からは家長−自権者(sui iuris)−のみが「人」とせられ、家長の権力に伏するものすなわち家族員は、「人」ではないとせられた。すなわちローマでは、奴隷生産の社会であったために、全ての人が「人」であるとはせられず、ローマ自由人の家長だけが「人」であるとせられるにとどまったけれども、しかし「人」とみとめられたものにかんするかぎりは、私のいう市民社会的自由平等独立の存在であったことがみとめられたのである。(p.22-3)

 古くは、家長権に服する人および物は、すべて一様に絶対的統一的な家長権の客体として考えられたが、次第に家長権の諸方面相互に区別が現れるようになり、その最初の区分は人と物との区別にあらわれ、家長権のなかで物にたいするものはdominiumとして所有権の萌芽となった(人については、自由人と奴隷の区別による主人権、自由人については夫権と父権と手権の区別があらわれた)といいわれる。すなわち所有権は、家長権の一般的総括的完全な支配権の発展的延長であり、物における完全な権利(plena in re postestas)として、使用(uti)、収益(frui)、処分(abuti)、等の諸権能がそれから流出するが、しかしこれらの権限の総和が少雨権なのではない。少雨宇検を制限するものとして用益権が設定せられても、客体のぜんぶが所有者のものであり、用益権が消滅すれば、その弾力性によって、右設定以前の円満の状態に復帰する。(p.23)

 ローマ法上の共有が近代法上の共有と異なる重要な特色は、共有者間のアナルヒーの状−他共有者の金試験に服するとはいえ、各共有者は単独に使用収益をなしえ、それは共有物の事実的変更におよびえた−というkとおにあり、このことは、わが民法が共有物の管理につき共有者の道文による過半数決議という仕方を採用して、共有者の相互間を組織づけていることと対比すれば、明瞭である。…ローマ法におけるkょ烏有車間のアナルヒーの状態は、共有は紛争の母(mater vixarum)だといわれるくらいであり、いやならば各共有者はいつでも共有物分割を請求すればよいというのが、ローマ法の態度であった。(p)

 組合財産はすべて組合の共同事業の経営のために処分せられ、使用収益せられ、管理せられ、共同物を分割せずして維持せられ、費用や負担が支出される。これは組合の共同所有においては、共有の場合の管理共同体より一歩すすめて、経営共同体が成立しているのであり、全組合員が共同して一個の経営財産を総手的に所有している状態が成立しているのである。組合は、法形式上は権利の帰属共同体であること−法人格−を否定せられているにかかわらず、実質的には権利の帰属共同体であるために、法形式上は組合の共同所有であるとせられつつ、共有持分にもとづく諸権能が否定せられるのである。(p.74)

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◆吉野 悟 (1972) 『ローマ所有権法史論』 有斐閣


第一章 ローマ法における相対的所有権について
第二章 古代ローマ法におけるusus-auctristasの規定について
第三章 causa usucaptonis(使用取得の原因)の成立過程
第四章 ローマ法における「絶対的」所有権概念成立の一側面
第五章 ローマ法におけるプブリキアーナ訴訟(actio Publiciana)
第六章 ローマ卑俗法における所有法秩序の相対化

 所有権訴訟における《meum esse》(《私のものである》)の立証が、はじめ被告の責任であったということは、この訴訟が、ほんらい、技術的な所有権の争ではなくて、どちらがより強い所有を有するか、より前の占有を有したか、ということの争であった事実を示すものである…Rabelは、このように説明した。(p.12)

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◆Utz Arthur F. O. P. (1994). Sozialethik mit internationaler Bibligraphie (Politeia Bd. 10), 4 Teil : Wirtschaftsethik, Bonn (『社会倫理学』第四部「経済倫理」)
=2002 島本 美智男 『経済社会の倫理
』 晃洋書房 ISBN4-7710-1327-6

 
第一章 経済の学的探求
第二章 経済倫理の編成
第三章 経済合理性
第四章 必要と欲求
第五章 生産要素
第六章 私的所有権
第七章 経済体制
第八章 需要と供給
第九章 通貨制度と信用制度
第十章 価格とその公正性
第十一章 賃金
第十二章 利潤

 自然にたいするいかなる権能が神から人間に授けられたのか。トマスは答えて言う、自らの自然本性にふさわしい目的のために世界をもちいるよう、人間一般がその理性的性質にもとづいて世界の支配者に選ばれた、と。…ここで問題となっているのは、外的自然にたいする人間的自然本姓の関係についての形而上学的言明なのである。「神は諸物にたいして枢要的支配権を有する。神自体がその摂理に基づき、なんらかの諸仏を人間の身体医事のために指定したのである。このゆえに、人間は諸物にたいして、それらを使用する権能に関しては、自然本性的支配権を有する」。この記述をもって、トマスは、物財は人間つまり全人類のように供されねばならない、というキリスト教的伝統の基本関心に連なるのである。(p.114)

 前半部分(取得と管理または配分)にかんして、彼は私有秩序の実際的必要性を以下の諸点に見る。一、勤勉の奨励のため、つまり労働生産性の向上のために、二、より周到で明快な管理のため、つまり資本生産性の確保と責任主体の明示のために、三、権利区分による抗争回避のため、つまり社会平和の実現のために、である。明らかにトマスは、アリストテレスに依拠している。区分の後半部分(使用)の観点のもとでは、個人の手中にある財も含めて、すべての財はそれ本来の目的規定、すなわち万人のためニッ用いるという規定を持っている。(p.115)

 トマス・アクィナスの所有権論は、その全体的な観方に即応して地上の財とじんるおとの関係を把握するところから始まるのであって、自己の幸福とか感性とかかを求める行為的個人としての人格から始まるのではない。地上の財、あるいは経済学でいう自然資源は、経済的に、つまり可能なかぎり生産的にいかなる浪費も避けつつ管理されねばならないから、いかにしてこの目標は人間によって最も確実に実現されるかという問題が生じる。人間は一般に自己関心によって動機づけられるときに自然資源をより経済的に処理するのだから、相対経済の生産力のためには私的所有秩序が不可能になる。ただし、どのように占有が行われるのか、ろうどうによってか、それとも端的に占有におってか、それはまだ決まっていない。(p.120-1)

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◆Parsons, Talcott. and Smelser, Neil, J. 1956. Economy and Society: A Study in the Integration of Economic and Social Theory, London: Routledge an Kegan Paul LTD.,
= 1958 富永 健一 訳 『経済と社会TU』 岩波書店

 財産とは、所有(ポゼッション)の対象、いいかえれば生産の過程において用具(facilities)としての機能をもち、かつ生産要素にたいして報酬としての機能をもつ非社会的対象について、その権利を制度化したものである。

 …所有権は、財産権の保持者(或る意味では「所有主」prorietor)と組織との間の契約関係であって、これによって所有主の財産が組織の生産機能に委託される。この委託は、所有主と組織のあいだに交わされる明示的なもしくは暗黙の投資契約によって確立され、ないしは維持される。職業と同じく、所有権というのは典型的には、代理人としての役割において行為している個人もしくは集合体と、性差に従事している組織との間で行なわれる、契約上の交換である。主たる"quid"は、所有権を自我が企業に委託することである。主たる"quo"は、自我の財産(すなわちかれの所有権)の価値を、流動状態のまま手元においた場合の価値より以上に増殖するということである. (p.186)

 最後に、共通の価値体系は、投資契約における組織と所有主に関係をもつ。組織のがわでは、これは組織目的の受諾、生産目標にたいする委託、ならびに生産をより有効にするための手段としての生産力にたいする権益をふくんでいる。また政治のがわからすれば、これは所有の責煮に対する委託を意味する。この場合、所有の責任と言うのは単に特定企業に対するもののみならず、資本およびそれの管理という『公共の責任』をもふくめたものである。さらにまた、この価値体系は一般社会の体系および政治に関する下位の価値体系を特殊化する。アメリカの価値体系−適応の機能一般を特に重視する−についていうなら、投資は、それが生産力に貢献すると考えられているかぎり、「よいこと」だとみなされる傾向がある。(T p.192)

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◆川本 隆史 1998 「所有」 所収 廣松 渉 編著 『岩波 哲学思想辞典』 岩波書店 ISBN4000800892 p.796

 狭義には、人間が自分の身体と能力を行使して外界との事物に働きかけ、その成果を正当にわがモノとし、これを全面的・包括的・排他的に支配する自体を指し、「財産」とほぼ動議に用いられる。講義には、<生命、自由、財産に対する自然権>の総称で、「固有権」とも訳すことができる。すなわち、<それをなくしてしまうと自分が自分でなくなるほど掛け替えのないことがら>のこと。歴史的には、まずアメリカ独立戦争期の「ヴァジニアの権利章典」[1776]において「財産を取得所有し、幸福と安寧とを追求獲得する手段をともなって、生命と自由とを享受する権利」として定式化され、「フランス人権宣言」[1776]においては「自由、所有、安全および圧制への抵抗」に対する自然権を保証することが「あらゆる政治的団結の目的である」と謳われた。

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◆Klöcker, Michael., & Udo, Tworuschka. (Eds.). (1986). Ethik der Religionen-Lehre und Leben Band 4. (Besitz und Armut). Kösel-Verlag GmbH & Co., München und Vandenhoeck & Ruprecht Verlag, Göttingen. (石橋孝明 訳 2000 『所有と貧困の倫理 諸宗教の倫理学−その教理と実生活−』, 九州大学出版会)


一 ユダヤの宗教
二 カトリシズム
三 プロテスタンティズム
四 イスラム教
五 仏教
六 儒教
七 アフリカの部族宗教
八 宗教的伝統における所有と貧困:要旨

三 プロテスタンティズム (b)物質的な貧困と所有についてのルターの解釈

 物質的な貧困についての基礎はルターにとって多義的である。彼は外的財の贈り物は神からの贈り物であるということについて語ることができる。しかしそれとともに同時に「自明なあるいは恣意的な所有権もしくは処分権」は所有者ないし持ち主に認められない。人間はこの贈り物を与えたものに、責任を持ち続けている。財産ないし富の乱用は規律と秩序に対する侮辱を意味し、それとともに結局最初の掟に対する違反を意味する。ルターはその労働間と職業観に関連して、人間は怠惰ということに気をつけなければならないと指摘する。なぜなら、労働は世俗的そして宗教的な職業として委任されているからである。真の職業従事、それはルターによれば正しい神への奉仕である。もちろん仕事ができない者、たとえば、寡婦、孤児、病人、そして老人は、ルターに寄れば、キリスト教徒の世話を考慮に入れることができる。なぜなら、キリストの愛は、自分の責任で物質的な機器や生存の境地に陥ったのではないものに向けられているからである。このような場合、貧しい人々に対する喜捨による付与は自明である。貧しい人々は、物乞いする必要がないように、援助を受けるべきである。(p.60)

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◆森村進 1995 『財産権の理論』法哲学叢書6 弘文堂 IA+216P 四六  ISBN4-335-30086-7


序文 −読者への手紙
第一章 「財産(権)」、「所有(権)」、その他の言葉
第二章 自己所有から私的財産権論
第三章 その他の論拠からの私的財産権論
第四章 「二重の基準」論の廃棄のために
第五章 著作権の権利 −過保護の権利
第六章 土地所有権
第七章 法人の財産権 −個人還元説の観点から
第八章 税制

 私的財産権の多くは自然権だという私の主張に対しては、<自然権としての財産権も国家による保護がなければ絵に描いたもちに留まり、実際に成立しない>と反論されるかもしれない。しかし私は、右の例からも分かるように国家的保護がなくとも財産権が社会的に存在することはありうると考えるが、かりに今あげた反論が正当だとしても、財産権の自然権としての性質には代わりがない。人身の自由はホッブズ的無政府状態では実現されないだろうが、だからといって国家が国民の人身の自由を恣意的に制限してよいということにはならない。逆に、国家が国民の人身の自由と言う道徳的な権利を保障するということが、国家を正当化する理由(の一つ)なのである。同じことが財産権についてもいえる(p..4)

 だが彼の労働所有論は、身体や生命と財産との間の相違をなくしはしないが緩和する。なぜならそれによると、身体や自由に対する権利と外物の財産権とは基本的に異質のものではないからである。私も本書でこの発送を展開するが、私はロックよりも厳密な用語法を使いたい。私は自己の身体や自由への権利を「狭義の自己所有権」と呼び、そして狭義の自己所有権とそこから導出される財産権とを総称して「広義の所有権」と呼ぶことにする。(p.19) <--! Becker (1977) Ryan(1984a)(1987) Grunebaum(1987) Reeve(1986) Waldron(1988) Carter(1989) Munzer(1990) Christman(1994) 竹下公視(1988)(1989)(1991)(1994a) 森村進(1994a)(1994b) -->

 たとえ平等な分割であっても、資源が共有で話に分割されて私有化されてしまったら、個々人の能力のあいだに差があるために、人々の状態には大幅な相違が生ずるだろう。コーエン風の平等主義者にはそれが耐えられないのである。(p.26)

 (・・・)自己の身体の直接の支配から得られる利益はある意味では自然なものだが、他者との取引から生ずる利益は市場という精度に依存する規約的・人工的なものだから基本権の対象ではなく、平等といった価値に従うべきだ、という観念である。(・・・)その説への反論をあらかじめ簡単に述べておくと、市場取引は確かに規約的なものといえるが、強制的な再配分とは違って、誰の何の自由の制限もなしに成立しうるという点で、それは自己の身体の支配権と共通の自然権的な性質を持っているのである。(p.27)

 だがわれわれの大部分がその制度を直感的に拒絶することには十分な理由がある。(・・・)というのは、人々は自分の身体への排他的な支配権をもっていると信じられているからである。(・・・)各人の身体に相違があり、それによって健康状態にも相違があるということは、病人にとっては不運としてあきらめるかもしれない自然な不平等である。Xが心臓病で死ぬことは自然だが、くじの犠牲者が殺されることは不自然である。(p.31)

 さてロールズの平等主義的な格差原理に対してノージックがおこなった批判の核心を敷衍していえば、次のようなものになろう。−もしロールズのように、人間の行為への「外的」影響があるというだけで行為への責任を否定するならば、人はいかなる行為にも責任を負わなくなってしまうだろう。またロールズは、われわれは自分の資質に値するわけではないから、不平等な資質の配分は道徳的な観点からは恣意的だという。(p.40)

 自己所有権テーゼは議論の相手が現に持っている信念に訴えかけることによって正当化できるからである。このテーゼは、私が前の説であげたような例を持ち出して「あなたもそれを信じているではないか」と気づかせることによって正当化されるのであって、さらに根本的な基本命題に訴えかけて正当化されているのではない。そして自己の進退の物理的支配と自己所有との関係は、論理的に正当化の関係ではなくて、心理的なものである。つまり前者は後者の理由ではなくて、われわれが後者を信じていることの原因なのである。(p.40-1)

 この感覚は例えば資格が持つような客観性を書いているが、だからといってそれなしに規範的議論はできない。あらゆる規範的議論は究極的には何らかの道徳的直感に訴えかけざるをえない。それゆえ全面的な規範的議論は論証だけでなくて説得という要素も含むことになる。(・・・)自己所有権のテーゼは、<理由のない苦痛は避けられるべきである>といった直観と同様に、われわれにとって最も自然な、捨てにくい直観のひとつなのである(p.43-4)

 この倫理的直観は、私の思うに、狭義の自己所有権テーゼと同様、それ以上正当化を必要としないような根本的な直感の一つである。われわれの大部分は自分を偽らない限りこの直観を否定できないだろう。(・・・)その生み出された産物をさらにどのように利用するか−自分で利用するか、人に売るか、それとも無償で与えるか−は、産物への支配権が認められるからこそ決められる。それなのに労働の産物を強制的に取り上げられたら、労働は本人にとってはただ働きになってしまう。人が労働の課程に意味を見出せるためには、その産物への権利が本人に認められなければならないだろう。(p.47-8)

 強制労働は狭義の自己所有権を侵害する。だが収入への課税は、狭義の自己所有権を侵害するかもしれないが、必ずしも狭義のそれを侵害するとはいえない。このことは所得税は公的な共生両道よりも正当化しやすいという、われわれの多くがもっている直感と符合する。(p.48)

 (・・・)所有権の手段としての性質を強調すると、<あらゆる人に自立的な生活を実質的に可能ならしめるような財産を与えるべきだ>という、財産の再配分への主張につながりかねないが、それはリバタリアンよりも福祉国家論者や平等主義者が熱心におこなう主張だからである。(p.52)

 元来の資源は誰でも正当に利用できるはずだったのに、ある人がそれを自分の活動の対象とするとその人の排他的支配の対象になるならば、他の人々にはその資源を利用する自由がなくなってしまう。したがって、<自由からの議論>は万人の自由を尊重するような見せかけをしていても実際には占有者の自由を拡張させる代わりにその他の人々の自由を減少させるのであって、看板倒れに終わる。(・・・)(cf.Brown[1990])(p.54)

 彼らにそのような自由がありながらその自由を行使しなかったのならば、他の人がその資源を利用した後になってから彼らがその自由を主張するのは虫がよすぎる。もっとも彼らが生まれる前からその資源は占有されていたのかもしれない。だがこの場合彼らははじめからその資源を利用する自由を持っていなかった。いずれの場合でも、彼らは占有者による無主物の獲得が自分の自由を不当に制約したと主張することはできない。その自由は事実上のものではなく規範的なものであって、対象ガム主物であるあいだだけ認められて、専有後は消滅すべきものだからであるー。(p.55)

 個人的自由の領域は排他的でなければならないし、また人間活動の中には時間を通じて継続するものも多い以上、財産権が一時的な利用の自由に留まらないのも当然である。そして活動の自由を守りながら領域の衝突を避けるためには「早い者勝ち」よりもよい方法はない。(p.57)

 私は自分の庭が外から見えないようにしたり、庭の手入れを止めたりすることはできるが、自分の庭が他の人々に与える利益についてまでは権利を持たない。一般的にいって、価値創造者がその価値を体現した対象への権利を持つための条件として、その対象が所有者の物理的な活動領域の中にあるということを付け加えるべきである。その条件が満たされない場合、価値創造者に所有権を与えいることは、科和えって受益者のほうの活動領域に侵入することになってしまう。(p.59

 しかしわれわれは所有権において<十分性の制約>をそれほど厳格に適用する必要はない。<十分性の制約>になぜ説得力があるかといえば、それは占有者以外の人にも占有以前と比べて悪化していない生活水準を保証しようとするからである。(・・・)ここで重要なのは、ロック自身の表現が示唆していたような、特定の(種類の)資源を占有する機会ではなくて、全体的な生活水準である。(p.70)

 右の例が示唆したのは、能力の行使の果実のすべてが−非市場的な利益をも含めて−再配分の対象となりうるならば、自己所有権テーゼの最も狭い解釈は自己所有権の否認ともはや区別しにくくなるということである。(p.78)

 民主制は政治的決定に関しては現実的に最善の手段だろう。しかし政治的な決定は基本的人権を制約してはならない。(・・・)財産権に話を戻すと、自己所有権の一部である自然権的財産権は、他の人権によって制約されることはあってもそれ以外の理由で政治的決定によって制約されてはならない。(p.82)

 だが生存権の主張はそのようにして自己所有権テーゼに結びつけるよりも、むしろ極端に人道主義的考慮によって正当化するほうが自然だろう。人道主義的考慮は、人情とも惻隠の譲渡も呼ぶことができる。(p.90)

 しかし経済学の教えるところでは、情報費用も取引費用もかからない理想名的な市場ではそれが実現しうるはずである。自己所有権の対象も取引可能なのだから、パレート最適は理想的な市場では自己所有権を侵害するわけではない。(・・・)市場的所有権の強制的再分配はそれらの費用を削減するだろうか?(p.92)

 人道主義的考慮も、経済的不平等を嘆かわしいと見なすことが多い。しかしそれは、>/a?人々の相対的な関係である経済的不平等それ自体として悪いからではなくて、経済的な平等化を結果としてともなう手段によって絶対的困窮を救うことができるのに、それを怠っているから。である。(p.95)

 嫉妬という感情は合理性がないだけではなく、その持ち主も相手も不幸にして、社会を画一的で苦しいものにして、才能の芽を摘み、文化と経済の発展を妨げるものだから、社会的な意思決定に当たっては嫉妬による心理的苦痛や満足を考慮すべきでない。(p.98)

 経済的利益の平準化をして「結果の平等0を実現しようとすることは、人々の自由への侵害と経済的成功者の搾取をともなわざるを得ない。(p.100)」

 しかし生きている人と死んだ人とは、道徳上大違いである。後者にはもはや感覚も志向も、まして行為も不可能である。その死者が道徳的な権利主体と見なされないのは当然である。(・・・)生存権と家族制度の尊重の尊重からすると、遺産の生活を最低限保障する程度の相続も認めるべきだろう(しかしこの考慮は、遺族が遺産なしにも十分な生活を送れる場合にはあてはまらない)。(p.112)

 今日でも占有が重要な役割を果たす領域がある。それは魚介類の収穫である。(・・・)そこには典型的な無主物の先占と同様の考慮が働いている。(・・・)なぜなら取得者は前の所有者の権利を継承するわけではないからである。(p.118)

 ところで不正な侵害者がその財産をまだ保持しちているが被害者は死んでしまった(そして遺族はその財産がなくても十分に豊かである)場合はどうすべきだろうか?(・・・) 国はこれらの財産に対する権限を本来道徳的に持っているわけではないのだが、必要最低限の公共財の提供をおこなうためにも財源は必要であり、そしてこれらの財産は正当な権限を持った人がいないので、他の財源に比べると没収を正当化しやすいというだけの理由である。(p.120)

第三章 その他の論拠からの私的財産権論

 おそらくここでは、社会への貢献といった実利的理由とは別に、われわれが価値あると見なす性質への感嘆(admiration)や憧れの念が受賞という行為によって具体的に表現されているのである。(・・・)生まれつきそのような美質に恵まれている人と恵まれていない人がいることは、ロールズの表現を使えば「恣意的(arbitary)」である。(・・・)しかしこのように社会的な功績とは独立した<功績>の観念は、本書で問題にしている財産権の正当化とは関係が薄い。詩人がそのような<功績>の考慮によって行動することは自由だが、公機関がそうする理由は見出しにくい。(p.126)

 外部不経済の内部化にあたって、効率の観点から重要なことは、ともかく誰かが当該の利益について財産権を持つということである。誰かがその財産権を持つかは二次的な問題である。実際、もし当事者間の取引コストが存在しなければ、誰に財産権が与えられ量が、効率的な解決がなされるだろう。(p.141)

(・・・)私的所有権は財の利用に関する意思決定を分散する制度として正当化される。各所有者が自分の在を自由に処分できるため、在は市場における取引の対象となる。(p.143)

 政府が環境への財産権を持つという発送は日常的なものではない。また工場が排気ガスや排水を排出するのは、常識的に考えると工場の所有権の行使だから、そそれを制約するのも私的所有権の制約と見なされる。つまりマイナスの外部性を内部化することは、通常の用語法では所有権の設定というよりもその制約として記述されているのである。(p.144)

 所有権の経済分析は、財の利用法を基本的にその所有者の任意に委ねてしまうが、それでは社会全体の利益が軽視されてしまう可能性がある。(・・・) 地主による土地売却の拒否が「ゴネ得」をえるための戦術ではなく真摯なものである可能性が残る限り、公用収用は経済的効率だけでは正当化できない。しかしだからといって公用収用ができなくなったら、政府は公園も道路も空港も、すべて提供できなくなってしまうかもしれない。(・・・)(p.147-8)

 ここでは共有者が共有地を疲弊させてしまうだろうと考えられたのだが、もし有用な土地利用方法が明らかで、共有者間のまとまりが強いためのその方法を実現しやすく、そして土地を分割したりするとかえって協会の設定や維持に費用がかかるならば、雌雄よりも教諭のほうが効率的である。

第四章 「二重の基準」論の廃棄のために

 伝統的に支持されてきた理由は、精神的自由は民主的政治過程にとって不可欠だというものである。精神的自由、特に表現の自由が制約されている場合、国民が十分な情報を得られないために、その政治的意思が政治過程に正しく反映されなくなってしまい、政治過程における自浄作用を期待できない。(p.154)

 いずれにせよ道徳的理由から脅迫や詐欺はきんじっれるべきだと信じているからである。しかし精神的自由や経済的自由の規制として現実に問題になっているのは、脅迫や詐欺の禁止のように自然なものではない。それはもっと政策的な目標による規制である。(p.157)

 自由市場経済の批判者の中には、広告が消費者の志向を形成しているから消費者主催は神話に過ぎないと主張する人がいる。しかし広告がなかったならば消費者が持ったであろう嗜好が、広告に接したおかげでもつ嗜好よりも立派だとか自立的だとか考えるべき理由は示されていない。(p.160)

第五章 著作権の権利 −過保護の権利

 確かに本書の海賊版を印刷する人は、本書から生じる経済的利益(・・・)を独占する機会を私から奪うことになる。しかし問題は、<本書を私に無断で複製しても私の他の人の人格的権利や財産権を侵害するわけではない場合に、なぜ私がそれを禁止する法的権利を持つことが許されるべきなのか?>である(p.169)

 ところで多くの人は、ある著作者が別人の著作物とよく似たものを発表するとそれを「盗作」と呼ぶが、ある著作者が続けて同じような作品ばかりを発表するとそれを「作風」と呼ぶ。(・・・)作品の価値だけを考えるならば、著作者が誰であるかはどうでも良い問題のはずである。また『縛られたプロメテウス』や『平家物語』の作者が誰か不明だからといって、その芸術的価値が低下するわけではない。(p.171)

 著作物に経済的な価値があるからそれを法律で保護すべきだというのは論点の先取りである。それはちょうど、空気を公有化すれば政府が各人から空気の使用量を徴収できて大きな財源になるから、その経済的価値を保護するために空気を公有化せよ、と主張するようなものである。

 というのは、それらの行為が許されるべきではないのは、死んだ著作者の利益を守るためではなくて、公衆の文化的利益を守るためだからである。(p.182)

第六章 土地所有権
 

第七章 法人の財産権 −個人還元説の観点から

 そこで私の結論は、所有と経営とが分離した会社では、会社の持つ財産権は自己所有権から導き出すことができず、したがって基本的人権ではないというものである。(p.195)

 会社のために価値を創造したり汗水たらしたりする会社員は、はじめから給料と引き換えに自分の会社のために働くという契約をしているのであって、自分の名の下に財産取引しているのではない。(p.196)

第八章 税制

 いやしくも国が何らかの財源を必要とするならば、生きている人の所得や消費に課税するよりは、もう存在しなくなった人の財産を取り上げるほうがよほどましである。(p.201-2)

 贈与は生きている贈与者の財産を減らすだけの行為である。その行為は市場取引でないから、国のサーヴィスのおかげでもない。<利益に応じた負担>という考え方からは贈与税を正当化できない。(p.202-3)

 しかしそれにもかかわらず累進課税が公正だと考えられるのは、累進課税は所得の金額には比例しないが所得から得られる効用にはほぼ比例すると考えられているからである。このような比例性は「垂直的公正」とよばれている。(p.204)

 気心の知れた仲間うちならば効用に応じた負担にも理由があるが、国や地方自治体のように、数え切れないほどの多種多様な価値観や生き方の人々を含む場合には、それは不適切である。これに対して金額はまったく客観的なものだから、税額をそれに比例させることは、各人の金銭使用方法を等しく尊重することになる。(p.206)

 (・・・)オウ人は課税されているのに選挙権がない。これは法人が確かに「社会的な実体」ではあっても、構成員から独立した道徳的な権利主体とは見なされていないからである。(p.208)

 したがって、所得税だけでは不当に回避されてしまう利益への課税として法人税を正当化することはできる。(p.210)

 しかし法人税を負担するのはいったい誰だろうか?それは株主だけではなく、消費者や従業員にも添加されうる。だが誰がどれだけ法人税を負担しているかを知ることは難しい。(p.210)

 高齢者にストックの余裕があるならば自分で面倒を見られるから、高齢社会になっても公的福祉給付の必要が増加する必然性はない。(p.213)

 (・・・)消費に回される分も貯蓄に回される分も一緒にして所得に課税することは、貯蓄の結果将来得られるであろう利益から税kんを先取りすることになるので、消費に対して貯蓄を不利に扱っているということになる。もしこの説が妥当ならば、比例税率の所得税のかわりに消費税されあればよいということになるだろう。(p.214)

 ただしこのように貯蓄自体が利益だと考えると、資産保有税の対象を不動産に限定する(つまり、固定資産税だけにする)理由はなく、動産や金融資産も含めるべきだということになるだろう。(p.214) 

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◆Spinello, Richard A. (2003) Case studies in information technology ethics 2nd ed. Upper Saddle River, N.J. : Prentice Hall. (= 2007 中西輝夫訳 『情報社会の倫理と法――41のケースで学ぶ』, NTT出版)



第1章 倫理上および政策分析のための枠組み
第2章 サイバー空間における表現の自由
第3章 知的財産権問題1――ソフトウェアの財産権
第4章 知的財産権問題2――デジタル音楽、相互接続性、不法侵入
第5章 プライバシーと情報アクセス
第6章 セキュリティとサイバー犯罪
第7章 法的責任、信頼性と安全性の問題
第8章 公正な競争とインターネットアクセス

 現在、多くの解釈では、「所有権」を「財産権」と同等に扱っています。そのため「私はあの家を所有している」というのと、「あの家は私の財産です」というのは、どちらも同じ情報を伝えており、同じ意味をあらわしていることになります。
 さらに、このような解釈は、所有権を「あるものに対する可能な限り最大の権利であり、これは成熟した法体系に置いて認められている」と定義しています。もっと簡単にいうと財物の所有権は、所有者が財物について一定の権利及び義務を有するということで、その人には、所有する、管理する、保有する、除去する、およびそこから収入を得る権利が含まれています。
 「知的財産権」という単語は、人がある概念、知識、アイデアに対して一定の権利を持つことができることを意味しているようにみえます。しかし、アイデアについて財産権を有するという考えには、1つの重要な問題点が存在します。というのは、これは、他人がそのアイデアを使用したり、そのアイデアをさらに発展させることを排除できる権利を有することになるからです。一般的に理解されているのは、個人は、本、演劇、あるいはソフトウェア・プログラムというように形式が異なることはありますが、自分のアイデアを表現する方法に財産権を有するというものです。こうして、アイデアとそれを表現することを区別することが、知的財産権の保護について、法的および道徳的な判断を行う際の基本的なベースとなるのです。
 知的財産権保護には大きく、4種類の書式が存在します。
・文学作品に対する著作権保護:原稿著さっけん法によれば、権利は「原作者のオリジナルで有形物に固定された表現様式の作品」に対して生ずる。
・機械、発明、プロセスに対する特許権保護
・ブランドや商標に対する商標権保護
・会社の機密情報に対する営業秘密の保護(p.60)

 労働への報酬説はジョン・ロックの影響を受けていますが、労働と努力は何らかの財産権を生み出すべきだという主張です。ある事業のために働いた人、いわば自分の時間と労力を投資した人は、労働の成果に対して何らかの権利を有しています。ソフトウェア会社が製品を作り出すために、大々的に資材と労力を投資した場合、その投資がもたらす成果について、製品の使い方を管理できるという一定の権利を有するべきだという主張です。
 アメリカの著作権法と特許法は、このロックの唱えた財産の考え方に基づいているといえます。これらの法律は、新しい製品に対して一定期間、独占的な保護を与え、競合他社が保護された製品のクローンや模造品を作ること>61>を禁じているのです。一方、功利主義的な考え方、が知的財産権の保護の理由づけにも取り入れられています。「知的財産権は、この法律による保護が及ばない場合には、取り組むことができないであろう開発を創作者が進めるように仕向けるのです。そうしてこれは、社会全体の役に立つのです」。
 最後に見逃してならないのは、著さっけんは絶対的な存在ではないことです。米国の著さっけん法は、ニュース報道や文学作品の批評のような特定の理由に限って、著作権のある著作物のコピーを許しています。これは「フェア・ユース」と呼ばれています。(pp.61-62 )

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