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Economics & "The Social"
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◆木村憲二 (1979) 『経済外部性と社会的費用』, 中央経済社
分配の市場決定理論は”実証的”な理論として開発されたのは事実であるが、それはとうぜん一種の配分上の正義(distributive justice)の基準を提出することになり、その意味で規範的な含意を有している。おそらく”能力に応じての分配”というのがその端的な表現であり、その能力の尺度がたとえば限界生産性なのである。これにたいして、たとえば”能力に応じて稼ぎ、必要に応じて分派する”(from each according to his ability, to each according to his need)という基準で分配上の正義を設定することも”必要”をどう定義するかは別として、十分可能である。おそらく、あとに論じるように、出発点での事前的(ex-ante)な不公平さえ除去され、その意味で機会均等の公正さが保たれておれば、そのあとは能力に応じて報酬をうけるべきであるとい主張が妥当なものであろうが、ともかく、さまざまな分配上の正義の基準を用いて、市場力で決定される分配を批判することが可能である。(p.73) 市場における自由な価格メカニズムの作動によって所得の分配を論じようとする立場にたいして、このようなかたちで決定された分配が不適当なものである、と主張する立場の一つは、市場の不完全性(imperfections)を強調するものである。市場の不完全性が消費者に、所得と厚生の上の損失を与えるということはよく知られている(・・・)(p.85) ”市場の失敗”(market failure)という表現でわれわれが考えているのは、理想化された価格・市場の体系が、社会的公正の極大化の観点からみて’のぞましい’活動を維持し、’のぞましくない’活動を淘汰する能力を欠くようになった状態である。もちろん、そのような能力を全面的に欠いた体系は、存在意義を持たず、いわば市場が存在しないのと同じ寺うから、そのような状態を考えているわけではない。すなわちわれわれは、市場の(non-existence)を考えているのではなく、その部分的な機能障害の存在を考えているのである。 (p.135) 生産の社会的費用(social cost)とは、この外部性を考えに入れた場合の費用のことである。われわれの場合、外部性を市場の失敗=非存在との関連で定義し、これに取引費用に関する考慮を加えた。社会的費用についても同様の方向付けに限った理解をすることが必要である。社会的費用とは外部性の存在によって発生した社会の資源配分のゆがみを表現したものであり、その意味でいわゆる外部効果の別名であるからである。(pp.165-166)、
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◆上村雅彦 (2000) 『民間企業環境・資源問題と社会的費用――K.W.カップの社会的費用』, 大阪府立大学経済学部
実際の生産費の相当部分が私企業の支出(費用)の中に産有されていないことを「費用不払」(unpaid cost)と呼ぶなら、資本主義或は競争的市場システムは「費用不払」の経済ということになること{無統制な競争的市場システムにあっては「費用不払」は多様且つ多量のS.C.の発生という形で現れる-S.C.とは支払われざる費用(unpaid cost)であることに注意されたい-}統制された(regulated)競争的市場システムに移行することで「費用不払」は減少するであろう。(p.4) (・・・)そこで与えられていた規定にはS.B=完全な公共財が提供する便益という考え方が見出されているにもかかわらず、それで一貫していないという一種の混乱や政府以外の主体従って私企業の供給するS.Bが無視されていること、無償で提供されているという従属への明示的言及がないことといった問題を含んでいることを述べておかねばならない。(p.16) ここで注意すべきことは所謂市場の失敗とは理想的な完全競争さえ失敗する問題があるという意味で完全競争の失敗であり、現実の市場の失敗ではないということである。従って市場の失敗の克服ということも完全競争市場成立の諸条件をそのまま残した上で技術的なマイナス、プラスの外部効果の起因する失敗に関しては租税、補助金政策によって克服するということになるのである。(pp.31-32) S.BやS.Cの確認(identification)は形式的な計算の問題ではなく、現実の人間や社会の要求(actiual human and social requirements)或は現実の損害や有害な影響を確かめるという問題である。S.C,S.Bを決定しようとするときわれわれは数的な収益性に係るのでなく、、実質的な社会的必要(substantive soical needs)、現実的な社会的損害は非効率(actiural social damages and inefficiency)の確認を目指しているのである。その様な確認は注意深い経験的信念を要求している。そしてその様な調査は例えば教育施設や住宅の不足といった現代の豊かな社会における公共部門の貧困という問題を見過ごすべきではない(p.50)
◆Kapp, Karl. William. (1950). The Social Costs of Private Enterprise. Cambridge, Mass: Harvard Univ. Press. (= 1981 篠原泰三 訳 『私的企業と社会的費用――現代資本主義における公害の問題』,岩波書店)
本書の主要目的は無統制の競争状態のもとにおいて私的企業がしばしば社会的費用を生ぜしめる事情についての詳細な研究を提示することである。このような社会的費用は企業家の支出のなかには参入せられず、第三者または社会全体に転嫁され且つそれらによって負担される。(p.B) さらに、18世紀の合理主義的前提の影響のもとで、理論経済分析、なかんずく価値理論は市場現象の研究にますます局限されるようになった。事実政治経済学は「経済学」となったのであって、後者は交換価値をもってその重要度が測定されるような諸目的(および手段)のみを扱うと称していた。すなわち、市場価格をもって表現されないような諸目的や手段は「非経済的」であるとみなされ、そのゆえをもって経済分析の本来の領域外にあるとされるようになったのである。かくて合理的行動様式の実が経済分析の目的にかなうものであるとされた。(p.5) 社会的費用や社会的報酬が私的企業の費用=価格計算に取り入れられるようになるのは、法律や社会保険の原理の体系的な適用ー労働者補償法の場合のようにーによって有効な特別の規定が作られた後においてである。したがって基本的には、社会的費用を些細な例外的な撹乱として取り扱って商品経済の特徴的な現象として取り扱わないことは、費用と報酬との経済計算の現在の体系において、これらの費用が非常に不完全な方法で考慮にいらられるにすぎないことの単なる反映にすぎない。(p.8) 或る場合には生産の社会的費用は即時に現われてくる。他の場合には私的生活の悪影響は相当期間隠されていて、損害を受けたひとびとが、その損害を直ちに知ることがない。またある種の社会的費用は限られた集団のひとびとにのみ作用し、他のある種のものは社会の全員によって感知される。事実私的生産活動が惹起する事実上の損失が多数の人々に分散されていて、各人は個人的には比較的少ない損失を分担するにすぎない場合もある。このような場合にはその損失を知っていても、各個人は彼の損失の責めを負うべき特定の企業体に対して防御的行動をとるには値しないと考えるかもしれない。要するに、社会的費用という語は生産の過程の結果、第三者または社会が受け、それに対しては私的企業家に責任を負わせるのが困難な、あらゆる有害な結果や損失について言われるのである。(pp.15-16) 生産費の一部を第三者に転嫁するような経済組織、およびこのような社会費用を無視する一連の学説はわれわれが公言しているヒューマニズムの理想の最も基本的な教義の一つ、すなわち人格の尊重に反している。もしわれわれが生産の人間的費用を考慮することを怠るならば、個人は自ら権利を持つものとしては取り扱われないで、長期的進歩またはその他何らかの「理由」のための単なる道具となってしまう。このような個人の無視が矯正されることはたんに社会的立法の段階において必要であるのみでなく、経済理論の段階においても必要であり、社会的費用の分析と除去とが経済学者に対する挑戦となるのはこの広い関連においてである。(p.22-23) 特に、上に考察した補助金と租税との体系によって、社会的費用と社会的利得との理論的に弁護可能な推定が与えられるようにすることが可能であることを示すような兆候は全くないように思われるのである。一例をあげるならば、各人が租税を支払ってたとえば空気や水の汚染からのがれたあとと、彼が租税を払わずに空気や水の汚染の結果被害を受けていた以前の状態とを比較したばあいに、各個人が同じだけの(またはより多く或いはより少ない)満足を得ているか否かを認定することはどのような操作によって可能であるか、事実もし保障原理が実際的な適用の可能性を欠くならば、個人の効用の総和と考えた「福祉」の全概念が再び曖昧となり、われわれは結局社会の福祉を効用の個人間の比較の面から考えざるを得ず、社会的費用と社会的利得との社会的評価を科学的な議論の領域内に取り入れざるを得なくなってしまうのである(p.44)。 この種の人的要因の損傷によって生じる損失は、被害労働者が負担するか、或いは医療、入院および救済のための公共支出の増大という形で納税者が負担することとなるであろう。このようにこれらの損失は、事実上適切な社会立法が存在しないために、私的企業の運営費に課されずに主として労働者または社会によって付加されているのであるから、それはこの研究でこの言葉が用いられている意味での社会的費用となる。(p.56)q 労働障害が被害労働者とその家族に及ぼす影響の大部分は企業者の支出に反映せられない。たとえ被害労働者が所得の損失に対する補償を受けたとしても、彼が受け取るのは一般に正常の賃金の何分の一かにすぎない。永久的な完全または部分的能力喪失に対する支払は能力喪失によって起こった実際の所得獲得力の損失よりもはるかに小さいものかもしれないし、また多くの場合に事実上そうなのである。死亡の場合には、もっとも寛大な補償金ですら、労働者の家族の経済的破綻を回避せしめるに足りないのが普通である。さらに、あとで指摘するように、いくつかの範疇の労働者(たとえば小工場の労働者、家庭の召使い、農場労働者、危険のない職業に従事する労働者、その雇用者が保障法が適用されるか否かを自由に選択しうるような労働者)は各種の労働者補償法によって保護せられず、労働障害の全影響を負わねばならない場合がある。(p.605) 事実において、労働保護立法や強制的社会保険がもし存しえなかったならば、これらの生産の人的費用は、個人に転嫁され、個人によって負担されたのみでなく、現在のそれよりもはるかに大きいものとなっていただろう。労働者補償法は、過失の有無と無関係に雇用者に労働障害の経済的負担を負わせることによって、これらの生産の人的費用の中に或る部分を企業支出に転嫁する作用をもつものであった。しかし、最近数十年に労働保護立法のかなりの拡張が行われた事実があるにもかかわらず、すべて入手可能な証拠が結論として示すところによれば、現行の法律の適用範囲とその実施状況のもとでは、なお生産の人件費用の主要部分が被害労働者とその非扶養者者または社会に転嫁されうるのである。(p.72) このような結果が特にはっきりと現れるのは、自然的資源の中でその捕獲が行われるまでは、それが法的に「自由」商品であるようなもの、例えば野生動物や石油のようなものの場合である。これらの資源は、ここの生産者の立場からは「自由材」であるという事実があるために、これらの資源について、特に無駄の多い開発と回復との慣行が行われる。このことは自由財であると共に、自己回復力をもつ動物資源の場合に特に真である。もし野生動物資源の再生産の過程がこの商業的採取によって乱されなかったならば、−すなわち、もし捕獲率が実際上の回復率を超過しなかったならば、−これらの資源の所得形成力、したがってその資本価値は、いつまでも不変に維持されるであろう。しかるに、商品経済の競争的過程は、野生動物の資源の採取が動物の正常な再生産を作用するに必要な枠内に止められるであろうという保証を与えない。(p.111) 以上の分析に徹するならば、もし社会がこれらの資源に関して公的所有権を宣言し、施行して、その競争的採取を防止することがなかったならば、野生動物資源の経済的、非経済的価値や恩恵の相当の部分が破壊されるに至るであろうことは確実である。この政策の目的は、正常の再生産が保証され、もし可能ならば自由且つ無統制な採取によって危殆に瀕するはずであった野生動物が、増殖するように釣魚、狩猟、罠猟を公けのもとで統制することである(pp.118-119)。 技術的改良が全雇用量及び終業の安定度に及ぼすであろう正味の影響を度外視しても、次のことは確実であると思われる。革新と機械の利用増加とは、近代的生産における熟練の必要度を減ずる作用がある、ということがこれである。実際のところ、ある種の熟練は旧式化し、以前は少数の訓練された労働者によってのみ満たされていた職場が、今ではそれほど熟練していない労働者によって満たされうるようになっている。このことは、換言すれば労働者間の競争が激しくなる傾向があること―この事実は必ずや賃金の低下となって現れる――である。この点について顕著な歴史的事実としては、恐らくは産業革命の初期段階における機械の導入の場合がいつでもあげられることになろう。すなわち、製造過程に夫人や子供の労働が用いれうることになって、労働者間の競争が不断に増大し、賃金はしばしば飢餓水準にまで低下したのである。(p.178) しかしながら、技術的改良にともなう最も重要な社会的費用は、他の企業家の資本損失の度外視によるものでなければ、個々の労働者に降りかかって来るかとの費用でもなく、新生産方式の採用にともなってある種の経済的状況のもとでは起こりがちな「技術的」失業の費用である。(p.182) 技術的改良を使用するに際して、個々の企業家は、革新によって生じがちな、次の二つの型の重要な社会的損失を全く度外視する傾向がある。その第一は、新生産技術の結果他の企業が受ける資本損失であり、その第二は、技術的変化が労働者に及ぼしがちな損失である。このような損失は一時的な失業、移動、再訓練、熟練の必要の一般的現象にともなう各種の個人的支出として測られるのであるが、これらより一層重要なのは失業期間の延長の形で現れるものであって、この期間(やがて示すように)労働の社会的間接費は個々の労働者に転嫁されるのである。換言すれば、技術的改良は、それが個人的企業の立場からは(すなわち私的費用と私的報酬で測れば)正当化されるような場合においても、革新の全費用についての一層精密な計算を行えば、その採用が正当でなく、時期尚早で浪費的であることが明らかになる場合がある。(pp.182-183) いうまでもなく、競争的な売り上げ促進の努力が相殺しあう場合においては、それは高価格という形で消費者に転嫁され、彼が負担せねばならない社会的損失となる。広告の経済効果を正しく評価することの困難を増大せしめる第四の要因は、広告や売り上げ促進活動によって得られる私的な報酬を事実上決定する確実な方法が存在しないということである。その販路に用意に引き入れられうるような消費者がいずこのだれであるかを知ることは、広告者にとって不可能であるのみでなく――これより一層重要なことであるが―― ある個別生産者の売り上げ促進活動は、常に他の売り手の報酬的な売り上げ促進活動を誘発する危険をもっており、これによって最初の広告の効果が全面的に、あるいは部分的に無効にされてしまう場合がある。(p.219) 売り上げ促進の制度を正当化しようとしていろいろな議論が今までになされて来た。例えば、広告は消費者に彼らが入手できるいろいろな商品の使途や必要性、その品質と価格とを知らせるという或る種の「教育的」機能を営むものであるということが言われた。同じような考え方に基づいて、経済学者たちは「情報提供的」広告と「競争的」広告とを区別し、前者は消費者の知識を増加する手段であるとしてこれを正当化すると共に、後者は「一定の商品の需要のひとつの供給源から、他の供給源に振り向ける」単なる手段に過ぎないとしておれを非難した。さらに近頃になって、広告に対する批判がますます激しくなってきたのに対して、広告は生産者が生産の規模を拡張することを可能ならしめて生産費を低下せしめる、という理由にもとづいて広告を擁護することが行われた。すなわち、広告は結果的には消費者に低価格と高生活水準という形で帰属であるとして 私的費用と私的報酬のみを尺度として工業立地を決めることは、単に企業家の決定から生ずる多数の重要な社会的費用を度外視することになるのみでなく、社会全体の観点から工業立地の問題の適切な長期的解決策を立てることができないことにもなる。このような解決策は、工業生産の候補地の全費用と全便益を一般的に評価することを基礎として初めて見出されうるのである。(p.260) すなわち、私的生産の社会的費用のうちの或る種のものは、特定の産業に特殊な生産慣行(すなわち、防止的手段の等閑視)に由来するのに対して、他の社会的損失は、むしろ現存の法的・政治的諸制度の枠内における、競争的過程の作用の結果生ずるものであることが明らかとなった。また、上に述べた私的生産の社会的損失の相当部分が計測可能であり、貨幣をもって表示することすら可能であることが明らかにせられた。事実繰り返し述べてきたように、社会的損失のうち相当の割合の者が、個人または政府当局の直接の貨幣支出に反映せられている。これらの社会的費用が、結局は貨幣的損失や公的支出に反映せられるという事実は、−−新古典派の価値観で社会的費用という言葉が用いられた狭い意味においてすら−−それらが「経済的」性質のものであることを強調するものである。しかし他の社会的費用、たとえば美的価値やレクリエーション上の価値の損傷や人間の健康の損傷のうちの或る部分のごときは、以上のものほどは有形的でなく、これらは市場価値以外の尺度を用いて初めて計測しうる。(pp.264-265) 事実、例えば富が私的利用に供されうる、すなわち交換可能な効用、−−市場価格で測られうるところの−−の面からのみ考えられていることを証明するためには詳細な分析を要しない。正確に言えば、近代的な富の概念は、排他的な所有の対象となりえ、したがって交換価値をもって測られるような財貨やサーヴィスの性質に関係した効用の意味にかかっているのである。このような性質を持たない財貨やサーヴィスは、価値理論によれば効用をもたず、したがって富とは考えられない。実際のところ効用は、単に物的および経済的な使用の可能性と技術的な交換可能性の関数であるのみでなく、有効需要にも依存している。換言すれば、需要の存しない商品は効用をもたない、すなわち富ではない、と言われるのである。(p.275) 同様に、すでに指摘したように、経済の原理(すなわち(経済的))の概念は、今までのものよりより一層包括的なものとなさねばならない。「経済的」ということを交換価値の面から定義することを止めて、経済の原理(および<経済的的生>の概念)を社会的費用と社会的報酬とを考慮に入れるようなやりかたで定義せねばならない。換言すれば、もし「経済」と「経済的適正」の両概念が経済上の議論においてなんらかの位置を占めるべきものとすれば、それらは全利得と犠牲(利用の機会を失わしめたという意味での)の評価の面から定義されねばならない。このように社会的費用と社会的報酬とを含ましめることによって、富、生産および、「経済的」の意味を拡張すれば、交換不可能な社会的費用を創造する諸活動が恣意的・規範的に不生産的であることから逃れうることになるであろう(pp.290-291)。 租税は生産のための支出として明白に認識されるようになるであろう。このことは、空気や水の汚染、浸蝕、森林の濫伐、失業等が惹き起こした損失の救済の目的で課せられる租税の場合には容易に理解される。このような目的に費やされる公的収入は、生産費の中で私的企業が社会に転嫁しうる部分の大きさを表している。その他の政府収入や支出に関しても全く同じことが真である。これらは二重の意味で、生産費を表している。第一に、それらは、私的企業が社会に転嫁した費用の大きさを表すものである。第二にそれらは、私的企業が、それを生産することが不利であることを知っている、財貨やサーヴィスを生産するのに必要な支出である。それらは、直接の効用を持つ財貨やサーヴィスの生産に充てられる、消費的支出である場合もあるし、長期にわたって社会的便益を与える輸送手段の改良、住居の改善、医療のような耐久財の建設のための投資支出である場合もある。(p.291)
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◆Kotler, Philip, & Lee, Nancy. (2007). MARKETING IN THE PUBLIC SECTOR A Roadmap for Improved Performance. Pearson Education. Inc. (= 2007 スカイライトコンサルティング 訳 『民間企業の知恵を公共サービスに活かす 社会が変わるマーケティング』, 英治出版
第三の役割は、社会にとって必要だが、民間企業や非営利部門がやりたがらない、あるいは実施が困難なサービスの提供である。そこで政府が単独で、あるいは非営利部門と連携して実施する。典型例としては、貧しい人々への援助である。(p.30) ソーシャル・マーケティングは、マーケティングの原理と手法を使って、個人やグループ、社会全体のベネフィットのために、ターゲット・オーディエンスに影響を及ぼして、ある「行動」を自発的に取らせたり、拒否させたり、修正させたり、放棄させることである。その目的は、生活の質を向上させることにある。(p.270) ごく簡単に言うと、ソーシャルマーケティングの担当者の仕事は、人々に望ましいことをさせる、あるいは望ましくないことをさせないように影響を与えることである。したがって、努力と資源を集中するべきなのは、最も買う見込みのある人々(いわば、手の届くところに垂れ下がっている果物)であって、最も買いそうでない人々(声をかけたり、動かすのが最も難しそうな人)ではない。(p.276) 「関心の段階」にある人に、ペットの糞の後始末をしなさいと言う必要はない。彼らが必要なのは手助け(公園にペット用の糞袋を備えつけておく)だけである。「準備/行動の段階」にある人は、おそらく変容を妨げる障害にころ超えることができるだろう。彼らに必要なのは、注意喚起や約束されたベネフィットを現実のものにしてくれる支援策や、望ましい行動レベルにもうすぐ手が届くという励ましである。(p.277)
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◆Murphy, Lian., & Nagel, Thomas. (2002). THE Myth of Ownership Taxes and Justice. Oxford University Press.(= 2006 伊藤恭彦 訳『税と正義』, 名古屋大学出版会)
所有の本質が慣習であるという性格は、全く明白であるが容易に忘れ去れてしまうものである。私たちは全員、所有権の獲得、交換、譲渡を統制する精巧に組み立てられた法システムのもとに生まれ、所有というものがこの世界でもっとも自然なものであると思うようになる。しかし、私たちが給料を稼ぎ、家を所有し、銀行鋼材に預金をし、老後の蓄えをし、個人的な財産を保有する現代経済、そして私たちが自分の資源を消費や投資のために使う現代経済、それは租税によってっさえられた生不が提供する枠組みなしには存立することができないであろう。このことは租税が評価を超える問題だということを意味していない。それが意味しているのは評価の狙いどころが租税によって可能となっている所有権の体系でなければならないということだけである。(pp.6-7) 社会正義に関する説明では、ほとんど場合、政府の目標の一つは(少なくとも)最小限の所得保障と保健サーヴィスを、もしそれがなければ困窮してしまう人々に提供することだと考える以上、混乱はとりわけ明らかである。もしそれが正しい政府の目標の一つであれば、利益原理と対立することになる。というのは、非常に貧しい人は金持ちよりも政府からわずかなしか利益を得ていないが、それでも貧しい人は、万人の万人に対する闘争という基準に比較すれば大きな利益を得ている−最小の福祉システムしかもたない国でもそういえる。したがって、利益原理に従えば、貧しい人はこの利益の大きさに応じて利益にたいする支払いをしなくてはならない。最小限の所得保障を提供し、その上で、このサーヴィスに対する支払いを要求することは、完全に無意味なことであろう。(pp.18-19)
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◆Smith, A. (1791). An Inquiry into The Nation and Cause of The Wealth of nations. (= 2007 山岡洋一 訳 『国富論――国の豊かさの本質と原因についての研究 上・下』, 日本経済新聞社) 国を防衛するための経費と元首の権威を支えるための経費はともに、社会全体の利益のために支出されている。したがって、これらの経費は社会全体の負担によって、すべての国民ができるかぎり各人の能力に比例して負担する形で賄われるのが適切である。司法の経費も疑いなく、社会全体の利益のために支出されていると考えることができる。このため、社会全体の負担によって賄っても、不適切ではない。しかし、司法費が必要になるのは、何らかの点で不正を働く人がいて、被害を受けた人が裁判所に救済過保護を求めるからである。司法費によって直接に利益を得るのは、裁判所に権利を回復されるか権利の維持を求められた人である。したがって、司法の経費は個々の裁判の状況に応じて、当事者の一方か両方が裁判手数料によって負担するのが適当だといえよう。裁判手数料を支払うだけの資産も資金もない犯罪者を裁くとき以外には、社会全体が経費を負担すべきだとはいえない。(下, p.403) 社会全体の利益になる公共機関や公共施設が、それによって直接に利益を売る人の負担では維持しきれないか、維持されていない場合には、不足分はほとんどの場合、社会全体が負担しなければならない。社会全体の一般財政収入のうち、社会の防衛に必要な経費と、元首の権威を支えるために必要な経費を支出して残る部分は、多数の個別部門の収入で不足する部分を埋めるのに使わなければならない。(下, p.404)
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◆Kotler, Philip, & Roberto, L. Eduard. (1989). Social Marketing. New York: The Free Press.(井関利明 訳 2007 『ソーシャル・マーケティング――行動変革のための戦略』, ダイヤモンド社
「社会変革キャンペーン」とは何か。それは、ある集団(変革推進者)が、他の集団(標的採用者)に、あるアイディア・態度・習慣を受け入れさせ、変更させ、あるいは放棄させようとして計画的に実行する組織的な努力のことである(p.6)。 社会的キャンペーンが成功するかどうかは、ある目的なり変革なりを受け入れようとする態勢が社会のなかにあるかどうかにかかっている。その様な社会的受容性は時代とともに変化する。たとえば、ラルフ・ネーダーが1950年代後半にコンシューマリズムのキャンペーンを行っていたとしたら、彼は”売り込み”に失敗しただろう。キャンペーン実施のための環境条件がすべて熟していた1960年半ばにこのキャンペーンを開始したからこそ、彼は成功したのである。このような条件には、構造的促進背景、構造的緊張要因、一般化された信念の増大、促進的要因、行動への起動、社会的統制などが含まれる。(pp.15-16) このようなキャンペーンには費用がかかるかもしれない。キャンペーンが勧めるとおりに行動したいと考えた人でも、時間がない、経費がかかる、不便である、面倒であるという理由を挙げて、実際には行動しないかもしれない。したがって、変革推進者は、行為変革のために要するコストをはっきり上回るような報酬、あるいはインセンティブを用意しなければならない(p.21)。 「ソーシャル・マーケティング」という用語は、社会的目的、社会的メディア、社会的行動を浸透させるためにマーケティングの原理と技術を活用するという意味で、1971年にはじめて用いられた。それ以降、この用語は、単一あるいは複数の標的採用者集団に対して、社会的アイディアや社会的習慣をもっと受け入れてもらうためのプログラムの企画・実施・管理に関連した、社会変革のためのマネジメント技術を意味するようになった。(p.27) 特定の社会的プロダクトの価格を決定する際に、ソーシャル・マーケターは、価格というものが果たすいくつかの機能に留意すべきである。 アクセス調整機能 価格は標的採用者が社会的プロダクトを入手する能力に影響をおよぼす。一般に、科アックが高いほど社会的プロダクトは手に入れにくくなり、反対に、価格が低ければそれだけ手に入れやすくなる。 ポジショニング機能 価格はプロダクトの品質のシンボルや代用として作用しうる。社会的プロダクトの品質を判断するのが難しい場合、標的採用者はしばしば価格を判断基準として用いる。価格が高ければそのプロダクトの品質とプレステージが高いと判断されることがあり、価格が低ければ品質が低いと思われることがある。無料のプロダクトに対する標的採用者の関心は気まぐれである。公的医療サービスや法律相談所など、”無料のもの”の多くは、最大の需要を生みあしているとはいえない。そのプロダクトが”安物”であるということぉお暗示するからである。(・・・) デマーケティング機能 価格がもたらすもう一つの機能は、需要が高すぎたり、望ましくないといった場合に、それを抑制することである。デマーケティング(抑制的マーケティング)がなされるのは、ソーシャルプログラムの容量を超える需要があるときや、反喫煙・反飲酒キャンペーンでのタバコヤアルコールなどのように、ソーシャル・マーケターがその価格を引き上げることによって商品の使用を思いとどまらせたいと考えているときである。(pp.198-199)
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◆財団法人トラスト60 編 (2007) 『ソーシャル・ファイナンス −ヨーロッパの事例に学ぶ”草の根金融”の挑戦』, 金融財務事情研究会
ここでまず興味深いのは、「社会的問題解決のための寄付」という考え方が否定的に位置づけられていることである。すなわち寄付という「資金の流れ」はソーシャル・ファイナンスではないというわけだ。この意味は、世の中に慈善的寄付の意義を否定するというものではないが、社会的問題解決を継続的に行っていこうとすると、寄付を財源にしている活動は必ずしも持続可能ではないという認識に基づいている。寄付を財源にしている活動は、自律性を確立したり、活動の改善を図る動機に乏しくなったりするという反省の雰囲気が、近年、ヨーロッパには強く見られる。この点は、アメリカの雰囲気とは対照的な違いをみせている点であろう。社会的問題解決に資する活動であっても、受益者負担を求める等それが事業として性質していることが、むしろ望ましく、そうした活動に対する資金提供も、金銭的収益、社会的収益もしくは社会的配当といった「見返り」を求めることは是認されるという考え方である。(pp.10-11) 最大の課題は、ソーシャル・ファイナンスの担い手が持続的に事業を継続できるかという点にかかっている。そもそもソーシャル・ファイナンスは既存の金融機関のニッチに生まれてきたことは、本書でも繰り返し触れた。しかし、たとえば、既存の銀行が貸さないところに化すという行為は、たまたま既存の銀行が見過ごしていた顧客を獲得するか、銀行では(リスク要因も含めて)収益性に会わない顧客と取引するかのどちらかを意味するはずである。(p.134)
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◆Kotler, Philip, & Lee, Nancy. (2005). Corporate Social Responsibility: Doing the Most Good for Your Comapny and Your Cause. John Wiley & Sons International Rights Inc. (= 2007 恩蔵直人 監訳・早稲田大学大学院恩蔵研究室 訳『社会的責任のマーケティング――「事業の成功」と「CSR」を両立する』,東洋経済新報社)
つまり企業のためにも、社会的課題の解決のためにも、最良と思われるものを選び、成功に導くプランを策定し、実践する。そしてプログラムの成果を測定する。本書では、ほぼすべての営利企業が機会さえあれば、何らかの社会的コーズの解決に向けて貢献したいと考えていることを前提としている。(p.3) 本書では企業が社会的責任を果たすために行う主たる取り組みを表現するとき「企業時の社会的取り組み」という言葉を使い、次のように定義する。企業の社会的取り組みとは、社会的コーズへの取り組みを支援し、社会的責任を果たすために企業が行う必要な活動のことである。(p.4) デルの「ダイレクト・ギビング」プログラムは、給与の天引きによって従業員が選択するNPOに寄付をする仕組みである。ここ数年にわたって寄付を受けている企業のひとつにテキサスのアース・シェア(Earth Share)がある。同社は、さまざまな問題に携わるさまざまなプロジェクトや組織に資金を提供している組織である。(p.44) 成功への鍵となるアドバイスは以下のような点である。自社製品や企業価値に結び付けられるような(アップフロントな)課題を慎重に選ぶ。主張は、長期的に取り組めるもの、すなわち、顧客と標的市場にとって関心があるもの、従業員を動機付けるもの、そしてメディアに露出するチャンスが多いものとする。コーズ・プロモーションの企画を立てる際には、キャンペーンを自社製品と結びつけ、パートナーシップを築き、自社ブランドの認知がどうあるべきかを明瞭にし、そして成果を測定し評価する方法を見出すよう心がける。(p.92) コー刷りレイティっド・キャンペーンはフィランソロピー活動と違い、売り上げに連動した寄付を行う。そのため、売り上げに対して何割の利益が慈善団体に寄付されるか、あるいは活動で集められる予想金額はいくらかといった情報が提供されていないとき、消費者はキャンペーンに対して疑いを抱くだろう。消費者の多くは、寄付の合計金額がおそらく小さいため、大きな貢献にならないだろうと感じ、企業が利益目的で慈善団体を利用しているのではないかと考えている。したがって、合計額が公開されない場合、消費者の疑いが生じるはずである。しかし、たとえ公開されたとしても、売り上げあたりの寄付金額が企業の寄付可能と思われる金額に比べてあまりにも小さい場合、消費者に疑問を持たれるというジレンマに陥るだろう。(p.114) 企業のソーシャル・マーケティングは、行動改革に焦点を当てるということによって、企業の他の社会的活動とは明確に区別される。キャンペーンには、意識構築や教育的意味合い、あるいは心情や態度を見直すといった項目が含まれるかもしれないが、キャンペーン自体は本来、たとえば「車中にゴミ袋を常備しよう」といった一種の公共運動や、選挙のような公的活動を支援し、それらを促進するために企画される。(p.132) ソーシャル・マーケティングの取り組みを考える企業にとってもっとも大きなベネフィットとは、おそらく製品の売上増加である。売上の増加は企業の製品と望ましい活動を支援する企業の姿勢とが自然にフィットする場合に実現可能となる。(p.142) コーポレート・フィランソロピーとは、企業が慈善団体やコーズに対して行う直接的な寄付行為であり、多くの場合、現金、製品、サービスなどの寄付という形で実施される。コーポレート・フィランソロピーは、企業が実施するすべての社会的取り組みの中で最も伝統的であり、古くから地域の保健福祉機関、教育機関、美術館、環境保護団体は、主にコーポレート・フィランソロピーによって支えられてきた。(p.168) 本書から出てくるケースや事例の提供に協力してくれた責任者によると、これらの活動から得る多くのベネフィットは、地域コミュニティとの間に、協力かつ真の関係を構築できることにあるという。また、これらの活動に満足し、モチベーションの高い従業員の勤続年数を長くするという独特な効力も確認されている。また、これらの活動が、いまかかわっている、あるいは、すでに投資をしている社会的取り組みの効果を最大化する取り組みのひとつである。また、その他の取り組みと同じように、企業目標への貢献や、企業イメージの向上、商品やサービスを紹介する機会の増加などといった潜在的な付加価値があることも理解されている。(p.205) 社会的責任に基づく事業に取り組んでいる企業は、幅広いベネフィットを教授してきた。それらの企業は、自社の取り組みを財務成果に結びつける能力をますます高めているように思われる。財務的なベネフィットとしては、オペレーション費用の削減、監督官庁による金銭的インセンティブ、従業員の生産性の向上や離職率の低下などが挙げられる。同様にマーケティング上のベネフィットも地域社会における評判の向上、ブランド選好の形成、ブランド・ポジションの確率、製品品質の改良、人々からの賞賛の獲得など多岐にわたる。また、他の社会的取り組みと同じように、社会的責任に基づく事業も監督官庁、供給業者、非営利団体といった外部パートナーとの関係を構築するきっかけとなる(p.245)。 要約すると、企業のマネージャーは、人々からの疑いや批判を減らすよう全力で努力すべきだということである。例えば、ふた外や批判を受ける前に取り組むこと、社会的ニーズだけでなく、ビジネス・ニーズとも適合した課題を選ぶこと、長期的なコミットメントにすること、従業員の熱烈な支持を得ること、約束を達成するための体制作りをすること、オープンで直接的なコミュニケーションを正直に行うこと、などが重要である。(p.256) (訳者あとがき) 品揃えやサービス面において同じような2つの店舗がある。価格もほとんど同じだったとしよう。ひとつだけ違う点があるとすれば、一方の店舗は地域や社会への貢献を積極的に果たしていることである。このようなとき、皆さんはどちらの店舗を選ぶ打洗おうか。どうせなら、地域や社会への貢献に積極的な店舗を応援してあげたいと思うのではないだろうか。(p.323)
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◆横田澄司 編 (1976) 『ソーシャル・マーケティング――環境変化への対応』, 産業能率短期大学出版部
デ・マーケティングという耳慣れないコンセプトが取りざたされたのもこの時期であった。P.コトラー(1971)が述べていたのは、”顧客創造、販売拡大”という考え方をとるかぎり、モノ不足には対応できない。そこで商品に適合しない層に対しては、その購買意欲を減退させること、また適正な供給のうちには流通の縮小も含むべきであるとする考え方で、いわば従来のマーケティングの拡販しそうにアンチ・テーゼを突きつけたのである。 このようにパブリシティーは元来、PR(Public Relation)の手段の一つであるにもかかわらず、その目的とするところは広告ときわめて近似しているといわねばならない。ところが最近、ソーシャルマーケティングという考え方が登場するに及んで、今度はマーケティングの側から、どんどんPR的手法を取り入れる傾向が出てきている。たとえば従来は明らかにPR手段のひとつとされてきた起業広告(Patronage Institutional Ad., Pbulic Relations Institutional Ad. Public Service Instituitonal Ad.)がマーケティングの領域の中にどんどん取り込まれつつある。これはマーケティングがその利潤獲得の原理を社会的コストの最小化−フリクション・ミニマムの原理にまで拡大したために起こったことで、いまやGood Willの獲得は間接的利潤の獲得であるとまで言われるようになったのである。(p.148) つまりは阻止尾・エコロジカル・マーケティングはコストをより多く必要とし、商品は一般的に高価になるはずである。したがって、これを企業的立場からすれば競争に勝てる手段とは一般的にならない。が、総資本・全産業の立場からすれば、おそらく利潤拡大の手段となりうると考えられる。つまり競争論不在の阻止オ・エコロジカル・マーケティングは、企業的立場と総資本的・全産業的立場との混同の上に成立しているといえるのである。(p.2739
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◆三上富三郎 (1982) 『ソーシャル・マーケティング――21世紀に向けての新しいマーケティング』, 同文舘
ソーシャル・マーケティング(social marketing)は、その発生のオリジンであるアメリカにおいて、はっきり2つの流れがあることが分かる。第1の流れは社会的に仕事をしている組織や個人の主張、アイディアをより効果的に遂行するために、木y号経営を通じて培われてきたマーティングのコンセプトや技法を導入するという、いわば伝統的マーケティングの社会一般の組織への適用である。もう1つの流れは、企業の対市場活動であるマーケティングに、プロフィットシーキングという利潤追求だけでなく、より多くの社会的責任を貸し、社会価値追求の考え方を導入していこうという考えかたである。この流れは、企業の対市場活動における社会責任と社会倫理のあり方、コンシューマリズムへの対応、新しい社会価値や生活の質追求のあり方など、マーケティングの根底からそのあり方を洗い直す、かなり幅広い領域をカバーしている。(p.201) 在来伝統的なマーケティング・コンセプトやその技術を、企業以外の非営利組織(病院、教会、大学など)荷まで適用すべきだとし、いわゆるマーケティング概念の拡張論を唱え、これをソーシャルマーケティングと証するのだといったコトラーにしてみれば、レーザーのようにそれ以外の違った意味に用いられら他のは心外であったかもしれない。コトラー流のソーシャルマーケティングに対し、レーザーは「ソーシャル・マーケティングは、カーケティングのインパクトを生活の質、地域社会の出来事、社会的なもんだい、人間の資源をフルに発展させる機会、健康維持、教育と訓練、郊外の現象と環境保護、仲間により多くの考慮を払うことなどに強く向けるのである」といっている。(p.202) そこで、結論としてのソーシャル・マーケティング概念を、次のように規定したいと思う。すなわち、ソーシャル・マーケティングとは、利益を得て消費者の満足を提供するといった在来のマーケティングから、非消費者を含む生活者(消費者・市民)の利益、さらには社会全体の利益と調和し、また資源・エネルギー・生態系といった環境とのあいだの調和まで達成しながら、企業としての適正な利潤を確保すべきマーケティングである。したがって、ソーシャル・マーケティングはマネジリアル・マーケティングを乗り越えて実現されねばならない。(p.206)
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◆Marris, Robin. (ed.). (1974). THE CORPORATE SOCIETY. The Macmillan Press.(= 1976 今井賢一 監訳 『企業と社会の理論』, 日本経済新聞社)
理想的な世界では、われわれのふたつの目的−資源の効率的利用と産出物の公正な分配−は、同時的に達成可能である。しかし現実の世界の諸所の制約を所与とすると、右の同時達成は必ずしも可能ではなくなる。まず経済政策は新たに社会設計を行なうわけではなく。現状を所与として受け継ぐものである。したがって問題は、六日の後に七日目を追加することにより公正な分配の初期状態をつくることではなく、六日目の夜までに起こったことを再整理することである。こうした再整理(特に分配上の変化)は、それ自体、パレート効率を妨げるかもしれない。経済学者の用語で言うと、経済的な選択を妨げることによって「過剰負担」を課すかもしれないのである。かくして、効率と公正との間のトレード・オフが必要となろう。経済学や倫理学は、いちど限りのトランスファ(移転)による再分配調整を仮定することによって、このディレンマを回避しようとしてきたのだが、これは有用ではない。動いている経済においては、分配上の調整は、連続的な基準にもとづかねばならず、また経済活動の性質そのものにかかわるものでなければならない。いちど限りの移転による再分配は、言葉としても矛盾している。(p.261,マスグレイブ) 市場の欠陥の主な原因と本稿の中心課題は、外部的な費用・便益の存在にかかわる。市場が機能するためには、生産と消費は、すべて費用・便益が「内部化」されるような性質を持たなくてはならない。生産ないし消費活動の一方だけに関係する「外部性」があってはならない。そうした外部性が存在すれば、市場はそれを看過し、非効率的な結果が生ずる。コスト面の生産の外部性は、企業が内部化されていないコストを他のものに課す場合、つまり企業がそれに支払いをしない場合に生ずる。化学物質やガスのはいしゅつによる空気や水の汚染が、このケースである。この場合の社会的費用は、内部化された費用すなわち私的費用(資本、労働、私財への支払い)と他者に与えた損害についての徴収し得ない外部費用の両方を含むと定義されなければならない。企業は私的ないし内部的な費用しか考えていないので、製品は本来よりも低価格で供給され、産出量は効率的な水準を超えてしまう。便益面の生産の外部性は、企業が外部的な便益を生み出し、それから収益を得ることができない場合に生ずる(p.267)。 ここであるひとつの製品についての極端なケースを考えてみよう。この製品をAもBも消費でき、Aの消費はBの便益を低下させないとする(その逆も同様)。たとえば、燈台の便益は、そこを通るすべての船が「非競合」的に消費で起用し、混雑していない道路をAはBに負担をかけずに利用できるし、国防設備は社会全員を防衛する等々である。この種の財・サービスは、ここで社会財と呼ぶもので、特定の消費者が占有するものではない。(pp.269-270) 結論は、市場の排除メカニズムが適用できない場合には、公的な供給が必要とされるということである。その理由は@消費が非効率的なために、排除は可能であっても非効率的となる。A排除の適用は不可能であるか、高価につきすぎる、ということである。(p.271) こうした再分配は、贈与者と受贈者恩双方の福祉を高めるので、伝統的な意味で効率的となろう。贈与の理論へと発展するこの種の論理は、再分配に社会的前項という性質を与えることになる。いまかりにAが単にBの個人的な福祉に寄与するだけではなく、全体の分配状態の変化という社会的政策目的に関心を持つならば、昔のその行為の有効性、したがってそれを行なおうとする意欲は、上位、中位の所得層の他の人々による同様な贈与に依存することになろう。かくしてAは、政治的プロセスを介して(社会財の供給のサイに含まれていたと同時に)、そうした保証を得ようと試みるであろう。自発的な再分配は重要であるが、その範囲は、そうし分配も依然として初期状態(自発的調整以前の)に依存しているという事実によって制約される。社会問題としての再分配は、そうした自発的調整に限るものではなく、「根源的な」再分配とも呼びうるもの、つまり「贈与者」の側は非自発的であり、その福祉を十分低下させることもありうるプロセスを含むのである。(p.281)
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◆Coase, Ronald. Harry. (1988). Teh Firm, The Market, and The Law. Illinois, U. S. A. The University of Chicago Press.(宮沢健一・後藤晃・藤垣芳文 訳 『企業・市場・法』, 東洋経済新報社)
経済学者がこのようにのっぱら選択の理論の問題にばかりとらわれているということは、一方では法学、政治学、社会学の活性化に最終的には貢献するかもしれないが、しかしそれにもかかわらず経済学それ自体は、深刻なマイナスの影響をおよぼしてきた。これが私の見方である。このように理論がその研究対象と切り離されていることの一帰結として、経済学者がその意思決定を分析しているところの主体が研究の対象とはなってこず、そうしてそのために、実態を欠いたものとなってしまったという結果をもたらした。消費者は人間としてではなく整合的な選好の集合として取り扱われる。(p.5) 現在の経済理論は取引費用の概念を大方欠いているが、私の主張するところは、それでは経済システムの動きを理解し、その諸問題を有用な方法で分析し、あるいは政策決定の基礎を確立するのは不可能である、というにある。取引費用が存在すると、取引を行おうとする人々をして、常に取引費用の低下をもたらすような慣行に従うように導く。これは、その慣行を用いる場合、他の形で発生する損失が取引費用の節約より少ない場合にはどこでも起こる。交渉相手となる人、締結する契約のタイプ、供給される財ないしサービスの種類、これらすべてが影響を受ける。しかしおそらく、取引費用の存在に対するもっとも重要な適応は、企業の発生であろう。「企業の本質」と題した論文において、私は次のように論じた。生産は個人間の契約という手段によって全く分権化した方法でなされうるが、その生産物の取引に入るや、なんらかの程度の費用が発生する。そのため市場を通じて取引を実行するための費用に比べて、それが少ない費用で済む時には、市場でなされていた取引を組織化するために企業が生まれるのである。企業の規模の限界がどこで隠されるかといえば、それは、取引を組織化する費用が、それを市場を通じて実行する場合の費用と等しくなるところである。このことが、企業が何を買い、生産し、販売するかを決定するのである。(p.9) 取引費用のない世界は、とても奇妙な性質をもつ。スティグラーが「コースの定理」について述べたように「取り引き費用がゼロの正解は、摩擦のない世界のように、奇妙といえるものである。独占は、保障されることによって競争的企業のように行動する。そうして保険会社は、存在しないであろう。私が「企業の本質」で示したところは、取引費用が存在しない場合には、企業が存在する経済的理由はない、ということである。また「社会的費用の問題」で私が示したことは、取り引き費用が存在しない場合には、法律がどのようなものであるかは問題とならない、ということである。というのは後者の場合、人々は生産物の価値を増加させることができる場合にはいつでも、費>16>用なしで交渉して、権利を獲得し、分割し、結合させることができるからである。このような世界では、経済システムを構成する制度は、実態もなければ目的ももたない。チャン(Cheung)は、もし取引価格がゼロであれば、「私有財産権の仮定は、コースの定理を少しも否定することなく取り除くことができる」とすれば述べているが、彼は言うまでもなく正しい。また、取り引き費用がゼロという仮定のもうひとつの帰結は、通常気づかれないのであるが、取り引きを行うのに費用がかからないのであるから、それをスピードアップするのにも費用がかからないということになり、永遠が一瞬のうちに経験されることになるのである。
外部性はもっともふつうには、ある人の意思決定が、その人の意思決定にはかかわってはいない誰かに影響を与えること、と定義される。そこで、もしAがBから何かを買うと、Aの買うという意思決定はBに影響を与えるが、これは「外部性」とはみなされない。しかし、AのBとの取引が、取引の当事者ではないC,D,Eに、たとえば騒音や煙といった形で影響を与える結果となった場合には、、C,D,Eへの影響は「外部性」と呼ばれる。このように補正すると、ピグーのアプローチを包摂したハーンの文章は、現代経済学の主流をなす考え方をあらわしているといえよう。また、次の点も指摘しておかねばならない。現代の経済学者が政治介入について語るとき、彼らが通常念頭に置いているのは、関連する企業ないし個人の活動に対する、課税、もしくはより少ない程度で、直接の規制、であるようにみえる。このアプローチは深刻な欠陥をもっている。それは、政府の介入が望ましいか否か、どのような種類の介入が望ましいか、といった点を決定する要因を明らかにしておらず、また他の可能な対策を無視している。結果とs知恵これは、経済学者を経済政策に対して助言を行なう際に、誤った方向へ導くことになってしまっている。とりわけ、「外部性」の存在そのものは、一見して明白な政府介入の根拠となるとはいえないのであって、もし「外部性が見出されたとき、他のとりうる諸対策(なにもしないこと、従来の政府の行動を放棄すること、あるいは市場の取り引きを促進すること、を含む)ではなくて、政府の介入(課税ないし規制)が求められあると想定されているのであれば、まさにそうだといわねばならない。(p.26) すでにみたように、単に「外部性」が存在しているというだけでは、それ自体では、何ら政府の介入の理由とはならないことは容易にわかる。実際のところ、取引費用が存在し、それが大きな額に上るという事実は、人々の行動のもたらすいろいろな影響のうち、その多くのものが市場の取引でカバーされないだろうということを示している。その結果、「外部性」はあまねく存在することとなる。政府の介入もまた費用を要するという事実は、もし生産物の価値の最大化をねらうのなら、「外部性」の多くのものはそのままにしておくべきだ、ということを意味することになろう。政府が、ピグーの想定する理想的な政府ではなく、無知で圧力に弱く腐敗した普通の公的機関であるとするならば、この結論は、いっそう強いものとあなる。「外部性」が見出されたとき政府の介入が望ましいとの想定を立てうるか否かは、その経済における費用条件に依存する。政府の介入が望ましいと言える費用条件を想定することもできるし、そうでない費用条件を想定することもできる。経済理論が、そうした想定を立てることができると主張するのは誤っている。(p.28) 「外部性」の概念は厚生経済学で中心的な役割を演ずるようになり、これはきわめて不幸な結果をもたらしてきた。人々の行動型の人々(あるいは自分自身にさえ)に影響を与えるが、それをその人々は意思決定に際して考慮に入れていないということは疑いもなくありうる。しかし、この言葉の使われ方は、今日そのあ銀意図して、「外部性」が見出されると政府がそれを除去するよう手段を講じるべきだ、という意味がこめられている。すでに示したように、個人や私的な組織がそれを除去しようとしないのは、まさしく、そうすることで得られる利益がそうすることで失われるもの(これには、そのために必要な取り決めをする費用を含んでいる)によって、帳消しにされてしまうからである。もし政府が介入することによる損失もまた「外部性」の除去による利益を上回るなら、明らかにそのままにしておくことが望ましい。一般的な見方に私が組していると思われることを避けるため、私は「社会的費用の問題」のなかで「外部性」という言葉を決して用いなかった。代わりに、意思決定者がそれを考慮に入れているか否かを特定せずに、「有害な影響」(farmful effects)という言葉を用いた。実際、その論文のねらいのなかの一つは、以下のことを示すことにあった。すなわち、そのような「有害な影響」は他の生産要素と常陽に取り扱えること、それらを除去するほうが望ましい場合もそうではない場合もあること、正しい帰結を得るために分析のなかで「外部性」といった概念を用いる必要はないこと、である。 (pp.28-29) 私は、次のように主張している。つまりイングランドのケースでは、燈台のサービスに料金が課されるが、この場合、原稿のようなシステムのもとでのほうが、一般的な税で賄われるであろう場合よりも、選手のニーズに灯台のサービスがよりよく叶えることができている、と。私のこの結論が正しいか否か、別である。とはいえ、私の結論を否定するには、まず私のような比較を行い、重要な要素を私が考慮に入れていないとか、あるいは考慮してはいるがその影響を誤って評価しているといった点を示さねばならない。(p.32) 企業を設立することがなぜ有利化という主要な理由は、価格メカニズムを利用するための費用が存在する、ということにあるように思われる。生産を価格メカニズムを通じて「組織する」ことにともなう費用のうち明白なものは、関連する諸価格を見つけ出すための費用である。この費用は、この情報を販売する専門化が現れることによって削減されようが、完全になくなってしまうわけではない。また、市場で生ずる各々の交換取引の際に、それぞれについて交渉を行い契約を結ぶための費用も考慮されねばならない。ここでも、たとえば農作物の取引所のようなある種の市場では、このような契約費用を最小にとどめるため方法が工夫されるが、しかし、この費用が完全になくなるわけではない。これは間違いのないところだが、企業が存在する場合には、契約はなくなるのではないが、大幅に減少する。生産要素(あるいはその所有者)は、同じ企業のなかで協働する場合には、この協働が価格メカニズムの作業の直接の結果としてなされる場合に当然に必要となる一連の契約を、他の生産要素とのあいだに結ぶ必要はない。この一連の契約は、1つの契約に置き換えられる。この段階で重要となるのは、企業のなかで雇用される生産要素が結ぶ契約の性格に注目しておくことである。その契約とは、生産要素がある範囲のなかで、ある報酬の高いとして(それが固定給であれ変動給であれ)企業家の指示に従うことに同意する、というものである。(p.44) 市場が機能するには、何らかの費用が発生する。そして組織を形成し、資源の指示監督を、ある権限を持つ人(「企業家」)に与えることによって、市場利用の費用をなにほどか節約することができる。企業家がその機能を果たすにあたっては、企業家は自らがそれにとって代わった市場の取り引きよりは低い価格で生産要素を入手できるという点を考慮に入れると、より低い費用でその機会を果たさねばならない。というのは、企業家がこれに失敗するときはいつでも、公開の市場をふたたび利用することができるからである。(p.45) 限界において、企業の内部に組織化する費用は、次のいずれかと等しくなる。他の企業の内部に組織化する費用、ないしは取引を価格メカニズムによって「組織化」させるにまかせる際の費用である。事業化は、調整を大なり小なり試みながら絶えず実施に移しているのであって、このようにして均衡は維持されることになる。(p.58) 企業を持つことにより生ずる利益の源泉は、市場が機能するには何らかの費用を必要とするというところにあり、また、組織を結成し資源の配分を経営管理的に決定することでこれらの費用を節約できるというところにある。しかし、もちろん企業は、市場でなされていた取り引きを、市場取り引きに要する費用よりも低い費用でとり行わなければならない。というのま、もしそうでなければ、企業は質でも市場に頼ることができるからである。そうしてまた、ことわるまでもなく、個々の企業にとっては、もしより低い費用でこれを執り行うことができる他の企業が存在すれば、その企業が取って代わるという途も存在しているのである。(p.71) つまり、責任は両者のいずれにもあったこと、両者のいずれとも、煙を発生させる活動を続けるかどうかを決定する際に、煙の生む生活面での快適さの損失を費用として参入すべきであったこと、である。そして、市場取り引きが可能な場合には、まさにこのことが実現されたはずである。煙突をくすぶらせている男は、煙が無くなることで教授できるようになった便益の貨幣価値に相当する金額を、おそらく喜んで支払ってもよいだろうと考えただろう。したがあって、たとえば壁を築いた男に煙突に対する法的責任がなかったとしても、この金額は、この男にとって、高い壁を築き上げ、屋根に材木を積み重ねる行為をとり続けることの費用となったはずである。(p.127) 市場取り引きを実行するときの費用右派かからない、と仮定したうえで進められてきた。この仮定は、もちろん、きわめて非現実的な仮定である。市場取り引きを実行するためには、次のことが必要になる。つまり、交渉をしようとする相手がだれであるのかを見つけ出すこと、交渉をしたいこと、およびどのような条件で取り引きをしようとしているのかを人々に伝えること、制約にいたるまでにさまざまな駆け引きを行うこと、契約を結ぶこと、契約の条項が守られているかを確かめるための点検を行なうこと、、などなどの事柄が必要となるのである。こうした作業はしばしば膨大な費用を必要とする。その費用があまりにも高いため価格システムがコストなしで機能する世界では実行されるはずの多くの取り引きを実行不可能にしてしまうほどになることもまれではない。(p.131) 政府は、管理的決定によって、生産要素の利用者に影響を与えることができる。そういう意味で、政府は超企業(super-firm)である(ただし、かなり特殊な種類のものであるが)。しかし、普通の企業は、その活動がつねにチェックにさらされている。というのは、より少ない費用で同じ活動を遂行するかもしれない他企業との競争があるからである。また、管理費用があまりに大きいときには、企業内での組織化に変えて、いつでも市場取り引きという代替手段をとることができるからである。政府は、財産を徴収したり差し押さえたりできるだけでなく、特定の用役以外には生産要素の使用を禁じるといった見麗を下すこともできる。こうした権威主義的方法は、(組織化を行なう人々にとって)かなりの程度まで、わずらわしさをめっさつする。しかも、政府は、その規制の遂行を確実にするための警察、その他の法観察機関を、掌中に有している。(p.134) 有害な影響を与える活動を取り扱うときに直面する問題は、たんに、こうした活動に責任を持つ人々を制止しさえすれば済むというものではない。決定しなければならないのは、その危害の防止で獲得される利得が、危険を生む行為の中止の結果として他のどこかで負担されることになる損害よりも、大きいかどうかである。法制度によって定められた諸権利を再分配することに費用が必要となる場合は、不法妨害に関する訴訟において、裁判所が、事実上、この経済問題の決定を行ない、かつ、資源をいかに使用すべきかを裁定している。この節では以下のことが論じられた。すなわち、裁判所は、いま述べた点を認識しているということ、および、裁判所は、必ずしも常にはっきりと明示する形をとるわけではないが、有害な影響を持つ行動を禁じることによって、何が得られ、何が失われるかを、しばしば比較検討しているということ、である(p.149)。 代替的な社会制度を比較する際、経済学者が用いるべき適切な手続きは、それぞれの制度のもとで生み出される社会的総生産物を比較秤量することである。私的生産物と社会的生産物との比較などでは断じてない。この点は簡単な例で説明できる。交通信号のある町を考える。ある乗用車が交差点に近づいてきたが、信号が赤なので止まる。もう一方の道路には、交差点に近づいてくる自動車は一台もない。この乗用車のドライバーがたとえ赤信号を無視しても事故は起こらないし、そうした車は一台もない。この乗用車のドライー場がたとえ赤信号を無視しても事故は起こらないし、しかもそうていればドライバーは目的地に早く到着できるのだから、そう生産物は増加する。なぜどらーバーは信号無視をしないのか。理由はこうである。つまり、信号無視をすれば、罰金を取られるからである。道路を横切ることの私的生産物は、社会的生産物を下回る。(p.158)
有害な影響を生み出す企業は、損害を被る人々を補償するように強制されるべきことが望ましいとみる信念(これは、ピグーの鉄道の火の粉の例との関連でもっぱら第八節で議論したものだが)が、代表的な社会的配置のもとで得られるそう生産物と比較せず、導き出されたものであることは、疑いえないところである。(p.167) 税の額は、生み出された損害の額に等しくなければならず、したがって、有害な影響の大きさに応じて変化するのでなければならない。ところが、その際、提案として、この税の収入を損害をこうむった人々に対して振り向けるべきだとはされていない。したがってこの解決策は、次の解決策、つまりある企業の行為で損害を受けた人々に補償を支払うようにその企業に強制するという解決策とおなじものではない。ただし、一般的にみて、経済学者たちはこの点に注意を払ってきたとは思われず、むしろこれら二つの解決策を同じとみなす傾向がある。(p.167)
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◆恒川恵市 (1996) 『企業と国家――現代政治学叢書16』, 東京大学出版会
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◆梅澤正 (2000) 『企業と社会――社会学からのアプローチ』, ミネルヴァ書房
「社会的」の意味について: 現代社会にはさまざまな団体や組織があり、それぞれ独自の目的を持って活動している。つまり多元的な社会構成になっているわけであるが、ここから2つの認識が枝分かれする。一つは、したがって企業は経済機関に徹し、経済制度として自らを位置づけ、財とサービスの供給に機能を絞ることになるという認識である。だからこそ企業は他の主体との矯正に勤め、独自性を堅持しながらも全体社会の存続にかかわることにになるというのが、もう一つの認識である。企業は、社会に有効な存在になることを通して、その社会的役割はますます大きくなった。社会的な期待に答え、その社会宛気地位にふさわしい行動様式をとることが要請され、企業の社会的責任概念もまた拡大してきたといえる。(p.249)
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◆惣宇利紀男 (2003) 『公共部門の経済学――政府の失敗−』, 阿吽社
市場の不備にかかわる問題は公正は公平性の確保に関してである。市場経済は、本来、構成や公平性に関して帰依財を一定の方向に導くような固有の力を有していないといわれている。通常、ここに公共部門が公権力を背景として、税制やその他の制度を利用して市場制度に介入し、公正や公平性を担保すべき根拠があるとされている。(p.13) 通常「政府の失敗」は、次の4つに分類される。第1は、個別的便益と社会的便益の乖離である。政府は、じつは単一の意思決定主体ではなく、各政党や官僚機構など複数の主体から成立しており、各主体は個別的便益を追及し、それらのせめぎあいの結果実行される政府活動は、本来追求されるべき社会的便益とは一致しない。第2は、政治的外部性の存在である。政策の実施は予期しない副次的な効果を誘発する。これは、不確実性によりいずれの政策にも付随するものである。第3は、権力ないし影響力の分配の不公平性である。所得分配の不公平性に付随して政策にゆがみが生じ、そのゆがみが政治家や官僚の間に権力や影響力に格差を生み、それによって構成は社会的便益がゆがめられているというものである。第4は、情報の偏在である。政府活動の供給にかかる情報は完了に集中する一方、予算をつけ政府活動を推進する政治家は、公平な需要者としてではなく、選挙区の利害に影響された需要者として行動する。このような需給関係(予算市場)によって決まる政府活動は最適水準から乖離するというものである。(p.159)
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◆Michalski, Wolfgang. (1965). Graundlegung Eines Operationalen Konzepts Der "Social Costs" (= 1969 尾上久雄 飯尾要 訳 『社会的費用論』, 日本評論社)
しかし、目下の研究にとっては、マーシャルがその内部経済・外部経済の概念によって、工業生産における”収益逓増の法則”の方法論的に正確で内容的に充実した根拠づけをみ出すのに、事実上成功したかどうかは、重要ではない。同時にまた、競争市場形態が長期趨勢としての平均費用低下現象と一致するかどうか、ということも、ここでは関心の対象ではない。ただ、マーシャルが、それまでは少なくとも古典派理論の体系ではなんの顧慮もはらわれなかったところの一定の経済的相互依存現象にたいして、外部経済のカテゴリーによって注意を向けた、その事実だけが、目下の分析に意味をもっている。(p.19)
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