Organization for Economic Co-operation and Development (ed.). (2006) OECD Employment Outlook 2006 editon : Boosting Jobs and Incomes. OECD. (= 2007 樋口美雄 監訳・戎居皆和 訳 『世界の労働市場改革―― OECD新雇用戦略』 明石書店)
第1部 OECD新雇用戦略
第1章 雇用の拡大と質の向上、所得の増大をめざして――OECD雇用戦略の再評価から得られる政策的示唆
第2章 改定版OECD雇用戦略
第2部 2006年版OECD雇用アウトルック
第1章 労働市場の短期予測およびOECD雇用戦略再評価の公表
第2章 1994年以降の労働市場パフォーマンスと今後の課題
第3章 あらゆる人の就業機会を拡大する一般的な政策
第4章 労働市場における特定労働力層に対する政策
第5章 雇用の増大を目的とする政策の社会的示唆
第6章 政策の相互作用と補完性の把握および改革戦略への示唆
第7章 政策・制度が労働市場パフォーマンスに果たす役割の再評価――定量分析
各国政府は、企業側に解雇コストの一部を負担させるという雇用戦略勧告については、実施に至っていない。これに対し研究者は、解雇に関する使用者側の社会的コスト負担を企業内部化するこ>95>とで、適切に構造化された「解雇」税の効率が向上する可能性を強調する。呼応した研究に頻繁にみられる主要な議論は
雇用保護規制が厳格すぎる国々における規制に対する若干の緩和、解雇税として機能する経験両立に基づく失業保険給付、効果的なALMPsを組み合わせる改革パッケージを策定することで、離職の効率化と雇用保障のより良い調和が図れるというものである。こうした推論を裏付けるものとして、数々の実証研究は、アメリカの失業保険制度における仕様車拠出の経験料率設定が、解雇や摩擦的失業を大幅に削減させたことを明らかにしている。(pp.94-95)
教訓 ・最低賃金 妥当な水準に抑えられた最低賃金に問題はないが、若年層及びその他の脆弱なグループに対しては、別途最低基準を設定する適度な許容性を確保することが肝要である。また、優れた最低賃金制度は、社会保障給付の受給額よりも仕事から得られる報酬を高水準なものに担保し、雇用増大を促進する広範な戦略にプラス効果をもたらし得ることが明らかになった。しかしながら、高すぎる最低賃金と高い労働課税などの政策間のマイナスの相関性がもたらす危険性も同時に確認された。(p.121)
労働時間の柔軟化推進策の一環として、一部の国では、労働時間クレジット制度――労働時間貯蓄口座と称される場合もあるを導入した。この制度では、所定労働時間を超える労働時間が講座に貯蓄され、将来において特定の理由(育児、介護あるいは訓練)で労働時間を短縮した場合に、使用者による合意を前提として貯蓄労働時間の活用が容認される。ドイツやオランダではこの制度を既に10年間実施しており、最近労働時間貯蓄口座を設けたのはベルギーとフランスである。ベルギーの制度は、育児責任の遂行を円滑化する一時的なパートタイム労働へのシフトや段階的引退、サバティカル休暇など、ライフサイクル全体に渡るニーズを積極的に支援する設計になっている。(p.136)
パートタイム就労に対する税制優遇の拡大は女性の就業を促すが、フルタイムで働く女性の一部が労働時間を短縮する原因ともなる。労働力参加の決定や労働時間の選択に鑑みると、第2所得者の相対的限界税率も重要である。パートタイム労働に対する税率が相対的に高い場合、税率が高くなければパートタイムに従事したであろう女性のフルタイム就労を促す。児童手当によって減少するのはパートタイム就労のみで、児童手当から得られる所得効果は、フルタイムで働く女性の就業を減少させるほど大きなものではないだろう。逆に、育児助成金によって就業が促進されるのはフルタイム雇用のみである。最後に、適度な両親育児休業制度は女性のフルタイム就労を奨励するが、育児休業制度が長すぎると、仕事に復帰するさいに女性が困難に直面する可能性が生じ、パートタイム労働の増加をもたらす。推計結果は、教育水準が上がるにつれて、フルタイム労働への女性の参加が拡大することを明らかにしている。(p.169)
>top
◆Marsden, David. (1999) A Theory of Employment systems : Micro-foundations of Societal Diversity. Oxford : Oxford University Press.(= 2007 宮本光晴, 久保 克行 訳 『雇用システムの理論――社会的多様性の比較制度分析』, NTT出版)
第1部 雇用システムの理論
第1章 雇用関係
第2章 経営者権限の限界
第3章 雇用ルールの普及の優位性
第4章 分類のルールと雇用システムの統合
第2部 実証分析の結果と人事管理への含意
第5章 データからみた雇用システムの多様性
第6章 業績管理
第7章 報酬とインセンティブ
第8章 技能と労働市場の構造
第3部 結論 雇用システムと企業の理論――社会的多様性
伝統的な雇用関係の発達によって、多くの困難な経済的問題が解決される。たとえば、労働者と企業のどちらも仕事のある側面について独占的な情報を持っている一方で、協力することで利益が得られるような状況を考える。労働者と企業のどちらも自己の利益を最大化することを考えているときに、どのように協力を実現させることができるのであろうか。もし、仕事の成果が簡単に定義し、観察可能であるならば、下請け契約が最適であろう。しかし、技術が進歩し仕事が複雑になるにつれて、企業は労働者の仕事に対しても直接的なコントロールを行い、組織の変化に対応させる必要を感じるようになった。このために、期限の定めがなく、職務内容を特定化親愛雇用契約が用いられるようになったのである。(p.iv)
雇用関係について考察する有益な方法としては、それを経済関係を組織画する別の方法と比較し、自由に選択する経済主体がどのような条件のもとでどのような方法を選択するのかを問うことができる。そのような代替的方法として、最も一般的には特定の製品やサービスを提供する売買契約があり、別の方法としては、ある一定の条件のもとで契約内容を調整したり再交渉したりする一時的契約がある。そしてこれらと比較して、雇用契約が存在する。>12>最後の形態の特徴は、その契約の内容を前もって定めない点にある。すなわち遂行される業務の範囲に関して、一般的な指示だけが前もってなされ、その正確な決定は後の時点で雇用者が行うものとされる。これが企業の本質に関するその著名な論文で、Coase(1937)によって採用されたアプローチである。
それぞれのタイプの取引には異なるコストが付着する。コースが示唆したように、例えば売買契約には、異なる供給者から見積もりを入手して価格を交渉するように、適切な市場価格を発見するためのコストがかかる。そして最も重要な点は、どのようなサービスがいつ必要になるのかを前もって正確に知ることは困難だということにある。これらと比較することによって、雇用関係が魅力あるものと見なされる。そこでは単一の契約が、個々の業務ごとの契約にとって代わるものとなる。そこには最初の交渉があり、どのような仕事をいつ行うかはのちの決定とすることを、雇用者は従業員と合意する。以上のことからコースは次のように述べる。すなわち雇用取引が、売買契約よりも雇用関係によってより安価に組織化されるとき、企業者にはそのような組織化を行う雇用者としての機能が備わることになる。コースはさらに踏み込み、次のことを指摘する。すなわち雇用契約は、雇用者に対して、従業員の仕事を「ある範囲内」で特定化する権限を与えるものである。しかし彼の主張は、その範囲を契約がどのように定めるのかを説明するものではなかった。というよりも従業員は、ある一定の労働の提供に関しては無関心である、と想定するほうが理に適っているかもしれない。(pp.11-12)
コースの理論と同様、サイモンの議論における決定的な要素は、不確実性にある。企業者にとって、売買契約ではなく雇用契約を採用することの利点は、契約の締結時にはどのような業務が必要となるか正確には分からないという点にある。(…)>17>以上のことをまとめると、子尾容赦と労働者にとって、売買取引よりも雇用取引を選択することが有利になる理由は3点ある。まず雇用者は、それによって柔軟性を獲得し、どのような仕事が必要であるかが正確に分かった時点で労働力が利用可能であることから利益を得る。次に労働者は、活動の継続性から利益を得る。労働を販売することが所得の主要な源泉であるとき、これは重大な利益となる。最後に雇用者と労働者の双方は、コースが強調したように、多くの取引を行うことに代えて単一の取引を選択することから利益を得る。(pp.16-17)
このように、雇用取引における未決定の性格が詳細な職務記述書によって>>25>閉じられる、という考えは明らかに誤っている。詳細な職務記述書はそのような機能を持ち得ない。なぜなら職務内容を構成する業務の多くは文書化できるわけではなく、それを行うためには非常に大きなコストがかかり、そして多くの場合、生産性に反するからである。実際には、企業によって詳細な職務記述書が用いられるとき、それは異なる目的のためである。ゆえに、コースとサイモンのモデルが雇用取引の理解に役立つものであるなら、経営者の権限を制約する別の方法を見出す必要がある。でなければ、これほど多くの労働者が他の形態の取引と比べて雇用関係を魅力的と考えていることを理解するのは困難となる。(pp.24-25)
経営者の権限を制約する含意は、仕事のリストや異なる状態の複雑な記述ではなく、仕事のタイプを確定することによって可能となる。ゆえに、職務の定義がうまく行くためには、それぞれの職務に生まれ変わるかもしれない業務の一覧を作り上げることではなく、業務を配分する少数の単純なルールを確定することが必要となる。この意味で、適切な取引ルールを発見することは、売買契約に対する雇用契約の利点を確保するための最も重要な条件となる。
この数十年来、ここで述べたような業務の配分ルールは非効率性の原因として批判されてきた。そのようなルールの適用によって労働の利用が制約されることは間違いない。(…)つまり。そのようなルールは現実に効率性を損なうものだったとしても、それは経営者の権限を制約するという労働者の精神の所産というものであり、そして多くの雇用者は、この代償として予測可能性と秩序が獲得できると考えたのである。(p.28)
労働請負のシステムは、雇用関係との比較に置いてその地位を低下させたのであるが、それが支配的であった状況においては、多くの者によって高度に効率的なシステムと見なされてきた。事実,モテは、請負契約がもたらす有形無形>37>の利点を強く認識するに至った19世紀の多くの経済学者やその他の観察者を列挙する。とりわけ彼ら驚嘆させたのは、効率的な監督のためのインセンティブを与える点でのシステムの柔軟性と効率性にあった。それは市場の変動に対処するために労働力の迅速な調整を可能とするシステムであった。それは企業者と請負契約者の間でリスクを分散するメカニズムでもあり、一方では金融のリスクの大半を、他方は生産のリスクの大半を引き受けるのであった。それはまた、コストをコントロールする初歩的な段階の時代において、コスト計算の中の確実性の要素を与えるものであった。最後に、それらは仕事の各段階での監督のための高度に効率的なシステムと見なされた。なぜなら労働者のボスは仕事を行う秘訣を握り、配下の労働者を駆り立てるというインセンティブを持つからである。これによって「監督者の目は細分され、増殖され、あらゆるグループの中につねに存在することになる」のだった。(pp.36-37)
労働請負システムの衰退の理由は、売買契約に対する雇用関係の利点を多くを反映してのことである。それは何よりも労働供給の予測可能性と質の問題に関係する。これらの問題は20世紀の工業化の新たな性質とともに、ますます重大になると考えられた。第1に、労働請負制もドライブ・システムも、雇用者が必要とするときに労働力が利用可能であることを保証するものではなかった。離職や無断欠勤や一般的な不安定性の問題は日常茶飯事であり、とりわけ労働需要が高まるときにそうであった。(…)(p.37)
労働者にとって労働請負システムは、短期の不安定な雇用とそれに伴う収入の頻繁な途絶えを意味していた。技能の向上を図るインセンティブが損なわれることによって、自らの状態を改善するための機会もまた奪われることになった。最後に、雇用者と労働者の双方にとって、定着の欠如のためにある種の取引コストが増大することとなった。とりわけ新しい契約のために交渉コストや取引相手に関する情報コストが増大し、さらに利用可能な労働力の不足化所得の不足のいずれかのリスクが増大することとなった。(p.40)
「職務」ルールは2つの側面から成り立っている。すなわちひとまとまりの補完的な業務を確定し、それらをその遂行し責任を負った職務担当社に割り当てる、と同時にこのことは、仕事の領域は分離され、重複することの内容に分割され、それぞれに対して労働者は個人的に責任を負うことを意味している。(p.59)
職務ルールのシステムを用いることによって、コース=サイモンのモデルによって生まれる問題の多くが解決される。まず、その遂行が要求される業務は、職務の間で明確に区別されているため雇用されるにあたって従業員は、どのような業務の遂行が要求されているのかをかなり正確にすることができる。事前には、職務の要求に関して従業員は漠然と知るだけであるとしても仕事の持ち場ごとに正確な職務記述書所が備わることを従業員は認識している。何よりも労働者は、このようなルールによって、1人の労働者に対する経営者の権限は、別の労働者の職務が始まるところで停止することを理解する。仕事の持ち場の中で業務が割り当てられるのであるが、労働者は別の持ち場に属する仕事を行うことは通常は予定されていないことを認識している。同じく経営者は、だれがどの仕事を行う責任があるのかに関して了解があること、それは個々の職務担当社ごとに確定され、これによって仕事の満たせ性はは立ちに判明することを認識している。(p.60)
業務中心ルールの第2のタイプは、特定の職務領域との関連において業務を確定するものであり、そのための基準を確立することによって経営者の権限の範囲を確定する。一般にブルーカラー労働者に関して、歴史上重要な事例は、使用する工具や取り扱う原材料の種類によって仕事を確定するというものであった。イギリスの労働組合の内部では、これらのことが一般に「職種」として認識されてきた。ある職種の労働者は、彼らが使用する工具によって定義された範囲内で、その業務を指定する経営者の権限を受け入れるのであるが、しかしそれを超えた権限を受け入れることはない。加えてこの方式には、電気工のねじまわしのように、必要とされる工具は行使される能力と密接に関係するという利点がある。ゆえに、業務と能力は同じルールを用いて同時に決定されることになる。それに対してホワイトカラーと専門職の事後とでは、明確な工具の使用はまれであるために、「職域」のルールは異なった形態をとるかもしれない。そのようなものとして、たとえば特定のタイプの管理業務や専門業務を挙げることができる。それらの業務は通常1つの職種のコアとなる技能との関係に基づいて選択され、これによってブルーカラーの技能を定義するための工具の特定化と同じ論理に従うことになる。(p.61)
生産アプローチでの一般的>64>な解決法は、労働者をランク付けるためのある種の年功システムの採用であった。これによって協力関係の妨げとなるかもしれない。職場のメンバー間の競争を抑制することが可能となる。純粋の年功ルールは、経営者が調整の役割を引き受けることが前もって決められているときに有効に作用する。しかし集団内での協力が、そのメンバーあの積極的行動に依存するとき、その有効性は低下する。
これに対して能力のランク付けのシステムでは、労働者の地位はそれぞれが習得した能力の幅と深さに依存する。業務の割り当てに関する労働者の期待は、より困難で高度な仕事はより高いランクの労働者に振り向けられるというルールに従うものとなる。そして上位のランクの労働者は下位の労働者の訓練を助け、後者は後日上位のランクに昇進することを期待してその地位を受け入れる。このように、ランクは訓練が期待通りになされるための指針としても役立つ。このとき仕事の割り当てが公正かどうかを労働者が判断するにあたって、2つの目に見える指標が役立つ。1つは年功であり、それは平均的な能力水準と相関する。もう1つはランクであり、この承認された能力に照らして、現実の業務の割り当てを判断することができる。このように能力ランクのシステムは、齟齬との機能に対してある安定した構造と予測可能性を与えると同時に、業務の割り当てに対しては、職務ルールよりもより大きな柔軟性を可能とする。(pp.63-64)
「資格」ルールは、訓練アプローチにおける機能中心ルールの事例を示すものとなる。それはある一定の仕事に必要とされる能力を確定し、認知された資格をもとにしてそれらの能力を労働者に振り分け、これによって義務を割り当てる。そのような認知は、公式の証明書や慣行によって与えられる場合もあれば、仲間内の慣習に基づく場合もある。(p.65)
目的は、実際の法や教育システムの重要性を無視することではなく、企業と労働者の自由な選択からどのような制度が生まれるのかを理解することにある。その上で、これらの制度が実際に観察できる証拠とどれほど対応するのかを示すことにある。第5章で見たように、国際比較から得られる証拠は、各国の産業においてどのようなタイプの雇用関係が形成され、普及するのかに関する議論を支持するものであり、かつそれぞれの社会ごとの差異を示すものでもある。本書は、労働市場の複雑な制度の中心に企業が位置することを結論とする。それは複合的な制度を統合する役割を担い、そしてこれらの制度によってラインの管理と人的資源管理が具体化される。(p.310)
雇用システムは、企業と労働者が協働し合うと同時に、互いに相手のある種の機会主義的行動から自らを守ることを可能とする制度的枠組みであり、それは2つのレベルの制度として考察される。第1に、たとえ集合的な代表制度が不在の部門であったとしても、企業と労働者にとって、現在支配的である契約の形式に従う圧力は非常に大きなものとなる。この意味で、たとえある企業とその労働者によってなされる決定が、それぞれ別個のものであったとしても、そこには一致に向かう強い圧力が存在する。このようなものとして現行の雇用規範が制度化されるプロセスをみることができる。これらの圧力は必ずしも当事者に対する直接の制約から生まれるわけではなく、第3章で論じたように、共通に適用されるルールを用いることからの利点に基づいてのことである。そのためには、人々が自らを拘束するルールに対して信頼することが重要となる。すなわち、それらのルールが異なった環境においてどのように機能するのか。そして日常の機会主義的行動をどのように抑制できるのかに関して、人々が確信することが必要になる。ゆえに党外のルールは、たとえそれが特定のタイプの労働に最も適合するものではなかったとしても、それが採用にされるようになる。なぜなら人々は自分たちが熟知し、信頼するルールを好むからである。(p.340)
かくして雇用システムは、企業の中核的な制度と見なされる。その多様性は雇用システムを支える取引ルールの選択に基づいている。それは雇用契約のための代替的な選択肢としてというよりも、それが生み出す一様性の圧力のゆえに、社会的制度としての性格となる。すでに指摘したように、これらのルールは広範囲に普及した規範を採用することからの利点と、それらの規範を指させる労働の制度が生み出す利点の2つに基づく。このような制度化は現代の営利企業内部の諸関係の本質に深く浸透し、まさしく経営者の権限の性格を形作る。これらの影響は公式のものであるだけではなく、いくつかの章で説明したように、企業による人的資源と雇用政策の中心的部分に置いてきわめて具体的な影響を及ぼす。それらは何よりも職務の分類、業績管理、賃金、技能、そして労働移動と関連したものとなる。(p.341)
「国」の多様性から「社会」の多様性を区別すべき最後の理由が存在する。すなわち社会のパターンは国の境界を越えて広がることが可能である。現実には雇用システムを支える制度の多くは国の境界に対応したものであるため、このことが頻繁に起きるわけではない。しかしPiore(1994)が観察したように、アメリカでは週間の取引が、1つの州から別の州へと雇用規範が広がるにあたって大きな役割を果たした。とりわけ鉄道会社がこの点で重要な役割を果たした。なぜなら労働者は州の境界を超えて働く必要があったからである。(…)それらは雇用関係にあるいていのメニューの中で行う必要がある。この結果、生み出される解決は、国境を越えた社会的規範として漸進的に拡張することが考えられる。最終的にそ>345>の成功は、それらの企業を支える補完的な制度が整備されることに依存する。(pp.344-345)
>top
◆佐藤俊樹 編 (2010) 『労働――働くことの自由と制度 自由への問い6』,岩波書店
対論 働くことの自由と制度 佐藤俊樹・広田照幸
1 考察 「働くこと」の二極化と自由
現代の“労働・仕事・活動”―ハンナ・アレントの余白から 佐藤俊樹
戦後日本における「会社からの自由」の両義性―「自由放任主義」「新自由主義」との相違を中心に 高原基彰
「正社員」体制の制度論 濱口桂一郎
2 問題状況 観念と制度の歴史的形成
仕事と価値と運動と―一八二〇年代におけるもうひとつの抽象的労働 宇城輝人
労働における自由とジェンダー―性秩序の新しい構想のために 金野美奈子
就職空間の成立 福井康貴
3 構想 現代的な「働くこと」の現場から
コンビニエンス・ストアの自律と管理 居郷至伸
ケア労働の組織―今後のあり方を考える 三井さよ
学校に行かない子ども・働かない若者には「社会性」がないのか 貴戸理恵
十九世紀以降のいわゆる産業社会の成立とともに、働くことの様相は大きく変わった。本書の宇城論文によれば、それはたんなる機械の導入や労働力の商品化ではなく、何よりも、働くことを機械の作動によって構想するという、創造力の転換であった。この転換によって、人間世界を特徴づける主な人工物は、職人的に製作される作品から、制度と知識というソフトウェアへ移って行った。とりわけこの数十年で爆発的に進んだコンピュータ化の進展は、モノとサーヴィスの両面において、機械化できる分野を大幅に拡げた。さらに、情報処理を効率的に支援するツールを提供することで、制度の構築と運営の自由度と可能性をも大きく拡張した。
その結果、人間の生きる世界を構築する重要な要素として、制度作りが大きな比重を占めるようになった。そしてそれに関わる仕事として、知識を扱う専門職と制度をあつかう管理職が制度化され、労働人口のなかで一定の割合を占めるようになってきた。そのなかで、<労働>的な労働は質の低い、劣った働き方として、<仕事>的な労働は質の高い優れた働き方として、<活動>的な労働は誰もが夢見る理想の働き方として位置づけられるようになった。
要するに、現代の労働では、本来異質な三つの種類の営為が一元化された上で、序列化されている。この一元化と序列化はたんに歴史的起源を同じくしているだけでなく、それ自体で裏表の関係にある。<労働/仕事/活動>が異質なものだからこそ、一元化されても違いは消去されない。むしろ本来とはちがうあり方でそおのちがいが出現してきてしまう。それが序列化だと考える。
アレンとは<仕事>を古代ギリシア語の"poiesis"、<活動>を"praxis"に対応づけた。そのため、彼女の議論は古代ギリシアのポリス社会を理想化したかのようにもいわれる。こうしたとらえ方はたんなる短絡だが、この一元化が右で述べたような二重の帰結を持つとすれば、こういう形で労働を見ていくことでポリス社会が連想されること自体は、決して的外れではない。ただし、それは、アレントが古代ポリス社会を理想化した、といういみではなく、この一次元かと序列化によって、現代社会は現実のポリス社会に近づいている、という意味でだが。
市民(ポリタイ)/それ以外の差別に見られるように、古代のポリスでも、三つの間の違いは人間を序列化する原理に使われていた(櫻井 一九九七など)。だとすれば、現代の先進国の労働は、アレントが望んだ>36>のとは全く違ったあり方で、おそらくはむしろ彼女が危惧していたようなあり方で、現実の古代ポリス社会に似てきていることになる。(pp.35-36)
専門職や管理職が事務職や工場労働者になるのも容易ではない。実際、大学教員というのは最もつぶしのきかない職業である。マスメディア産業で働く人たちも大学教育や文筆業にはなりたがるが、工場労働者や営業職にほとんどなろうとしない。たとえ経済的には不安定でも、<仕事>に近い職種にとどまろうとする。
それは、やや旧くさい表現だが、働くことは身体化されているからだ。だから、仕事の内容を簡単には変えられない。経済学的にいえば、労働市場は取引費用が特に高い。<労働>的職種の間や<仕事>的職種の間でも転換は容易ではないが、特に<労働>と<仕事>の間でもむずしい。どちらの方向にせ>39>よ、移動には多大な困難がともなう。
労働力商品という世界観は、こうした異質性をのっぺりと平板化してしまう。あたかも取引費用ゼロで、市場の需要に合わせて商品が供給できるかのように語る。だから、労働市場の需要に合わせられないのは、当人に原因があることになってしまう。選択できないことにまで責任を取らせてしまう。
いや、これは本当は経済学に不当な言い方だろう。取引費用の問題であれば、市場の内部できちんと考えられるし、考えてある。働き方が身体化されるということは、その働き方を変えた場合、人格の同一性も影響を受けることを意味する。つまり、選択という形で形式化できるかどうかが自明でなくなる。親の職業と同種の仕事に就く、就いた職業に家族による連続性が見られるという、世代間職業継承性が最も解き難くなる地点もそこにある(佐藤 二〇〇六)。(pp.38-39)
私がいいたいのは、<仕事>と<労働>が異質なものだとしたら、それを一元化せず、異質なもの同>50>士としてバランスをとるしかない、ということだ。労働力商品という定式化が悪いわけではない。だが、1つの定式化で世界を全て割り切ろうとするのは、誠実さの装いを借りた知的怠慢だろう。(中略)
「すべてを市場化すればよい」「市場化すればなんでもうまくいく」――そうした市場原理主義がしばしば強い者の論理だといわれる。しかし、私が市場原理主義の根底に感じるのは、強さではない。むしろ弱さだ。複数の異質な働くことがきしみあうことから目をそらしたい、自分の現在の地位が本当に正当なものであるかどうかを問い直したくない。そんなひ弱さと、そのひ弱さを自分自身からも隠ぺいするための疑似強者同士が市場原理主義を支えている。(pp.49-50)
さて、個人企業が「会社」という形をとる際、資本と労働の間に法制上の扱いの差が生じた。資本の側では実質的な他人資本を自己資本に擬制する株式会社制度という発明があったが、労働の側では少なくとも法制的にはそのような発明が行われず、雇用契約に基づき労務を提供し賃金を得る労働者は依然として外部の存在であり、会計学上賃金はコストでしかない。しかし、現実の企業は資本ととともに労働を組織することによって生産活動を行っているのであるから、他人労働についてもある程度自己労働に近づけようとする動きが生じてくる。法制度としてこれに取り組んだのはゲルマン諸国である。監査役会や取締役会への労働者代表の参加はまさに会社法そのものの原理の修正であるし、労働者代表の情報提供や労使協議制度はアカウンタビリティという面における調整と言えよう。ここに>99>ヨーロッパ型コーポレートガバナンスの特徴がある。
これに対して、日本の「正社員」体制は実に興味深い位置を占めている。そこには法制度上は他人労働にすぎない雇用労働者を、あたかも自己労働たる会社への労務出資者であるかのように扱おうとする考えが顕れている。そこでは理念的には、経営者の行動様式は株主債権者ひっくるめた資本コストを最小化しつつ、中長期的な企業の成長を最大化するという目標の中で、正社員の利益をできるだけ大きくすることに向けられる。それを資本主義的コーポレートガバナンスに対して人本主義的コーポレートガバナンスと呼ぶならば、主権者たる株主の受託者として経営者に対して主権者たる「正社員」の受託者としての経営者、配当を高くするかそれとも内部留保を厚くして将来の配当を高くするかの選択が対置されることになろう。(pp.98-99)
この戦後「正社員」体制は、もともと戦時下に国家の一分肢としての企業に求められた労働者の生活保障を、市場経済下の独立経営体たる企業に求めるものである。それを企業にとって合理的なものとして維持するには、近代的社会政策の根拠たるネーション国家のメンバーシップに相当する会社メンバーシップを前提とする必要がある。会社は正社員の雇用を維持し、生活を保障する。その代わりに正社員は職務、時間、場所などに制限なく会社の命令に従って働く。この社会的交換が戦後段階的に確立していき、行動成長終了後の一九七〇年代にはほぼマクロ社会的に現実のものとなった。
このことが逆に、先進諸国共通の同時代的課題であった福祉国家の確立という目標を二次的なものとしていった。会社がそのメンバーに福祉を提供するのであれば、国が福祉を提供するのは屋上屋を重ねることとなる。子供の教育費も住宅費も、正社員は会社メンバーとして会社に要求すればよいのであって、国に要求する必要はなかった。(p.104)
まず、間接差別についての均等法の立場を改めて確認してみよう。「指針」によれば、一見、性別に中立な何らかのそ9地が間接的な性差別だとされるのは、その措置が合理的な理由なしに「他の生の構成員と比較して、一方の性の構成員に相当程度の不利益を与える」場合であり、ここで「他の生の構成員と比較して、一方の性の構成員に相当程度の不利益を与える」場合とは、基準を見たさ得る者の比率が「男女で相当程度異なる」場合だとされていた。しかしなぜ、たとえば男性で基準を満たせる人の男性全体に占める割合と比べて、女性が基準を満たせる人の全体に占める割合が少ないことが、個々の女性労働者に通っての不利益となるというのだろうか。そもそも、間接差別の理論が想定しているような事態で不利益を被っているのは誰だろうか。素直に考えれば、それは男女にかかわらず、合理性のない基準を設定されてしかもその基準を満たせないため実質的不利益を被っている人ということになるだろう。しかし「指針」は、不利益を被っているのは「(基準を満たせる人が相対的に少ない)一方の性の構成員」だというのである(p.141)。
この論理をどのように理解できるだろうか。1つ考えられるのは、ここで「性」とよバrている男性の集合と女性の集合のそれぞれが、不利益を被る単位となり得るようなまとまりと考えられていることである。つまりそこでは、女性の集合の中で基準を満たせる人の割合が男性の集合の場合に比べて少ないことが、ちょうど二人の人を比較して一方が他方より恵まれていないというときと同じように考えられているのではないか。ただ男性の集合や助成の集合は法的な実体ではなく、法がその利益を守ろうとしているのはあくまでも個人としての女性労働者、男性労働者である。そこで、「指針」は「性の構成員」という言葉でこの二つを媒介する。個々の女性労働者や男性労働者はそれぞれの性の>141>一部(=「構成員」)であり、自分の属す性がこうむる不利益を自分自身の不利益と感じるのだ、と。
このように考えれば、間接差別の論理も理解できるものになる。しかし、だとすればその問題もまた明らかだ。性別の意味するもの――ここでは集合としての女性や男性、あるいは集合的性と個々の労働者との関係――についての均等法の考えかたは、ただちに誰もが共有できるものではないからである。雇用の場において、集合的にみた男性と集合的に見た女性が相互に比較対象となり得ると考えるかどうか。あるいは自分の属する集合が他の集合と比べてどんな状況にあるかということが自分自身の利益や不利益とどうつながるのかと考えるかについては、多様な見方がありうる。にもかかわらず、なぜそのうち特定の見方が前提とされなければならないのだろうか。(pp.141-142)
>top
◆大野正和 (2005) 『まなざしに管理される職場』, 青弓社
第1章 グローバル化する職場のストレス
第2章 日本的経営とピア・プレッシャー
1 ジャパナイゼーションの時代
2 日本的経営に学んだ欧米
3 ピア・プレッシャーをどう考えるか
4 仲間・同僚の目に見える管理
第3章 職場でのピア・プレッシャーの実際
1 職場のまなざしによる規律化
2 仲間に迷惑をかけるという罪悪感
3 チームワークの職場集団性
4 伝統的欧米型労働を超えて
第4章 ピア・プレッシャーとパノプティコン
1 顧客志向性とピア・プレッシャー
2 協奏的統制としてのピア・プレッシャー
3 水平と垂直のキメラ的統制
第5章 キメラ的混成のグローバリゼーション
1 〈垂直的管理〉と〈水平的管理〉の原理
2 パノプティコンと〈垂直的管理〉
3 ピア・プレッシャーと「配慮の倫理」
4 監視と配慮のまなざしの相互作用
ところで、スラック資源を除去することによって相互依存性が高まるのはなぜだろうか。構成要素間の緩衝(バッファ)がなくなることで、お互いの依存関係が強まるというのだ。そこでは人的要素=“ひと”そのものが生産過程を円滑に連結する「あいだ」としての役割を果たす。物的な余裕がないことは、人間同士が柔軟にコミュニケーションをとることによって鑑賞機能を担うように迫る。
日本的経営は、自己充足的なチームワークによって情報処理の必要性を減らし、いっぽんでカンバン、QCなどの水平的コミュニケーションを導入して、情報処理能力を上げた。このように日本的特徴を表現するために、本書では<水平的管理>と<職場集団>という概念を用いる。これに対して、伝統的欧米間の特徴づけのためには、<垂直的管理>と<労働者集団>という概念を使用する。
(…>39>…)
これに対して、日本的経営では働く者の間に<職場集団>が形成される。スラックのない余裕のないチーム編成が相互依存性を高める。場合によっては、管理者と労働者の役割があいまいになった従業員という意味での<職場集団>である。そこでは、労使の対立構造が弱まるない氏は自覚されないといった状況が生まれてくる。日本的経営を導入した現場では、<労働者集団>を不断に<職場集団>へと安定的に編成していく力学が作用するのである。(pp.38-39)
欧米の企業、あるいはそれをささえる学者たちが日本的経営に学び始めた時に気が付いたのは、>43>彼らはいままで、”ひと”というものについて特別の注意を払ってこなかった問い負うことだった。アメリカのウィリアム・G・オオウチもそのひとりである。彼は、働く人たちを管理し組織するにはどうするべきかという研究を、日本的経営の人間関係の機微を詳しく調べることによって果たそうとした。
企業組織のような集団的人間関係が大切なことのひとつは、仲間・同僚とのかかわりである。一九八一年に出版されてべストセラーになった『セオリーZ』で、オオウチは、集団の一員が仲間・同僚のまなざしを規範として受け止める様子を次のように述べている。(pp.42-43)
ナントは、相互依存性やさらには運命共同体といった集団意識を培うために、日本企業が行う宗教的熱狂ともいえる行事についても指摘している。また、前日の欠勤者の名前を毎朝読み上げる企業の事例も紹介している。こういった集団性のあり方は、バブル崩壊後の一九九〇年代に大きな変貌を遂げるのだが、それ以前には、日本的経営の大きな特徴の一つだったことは間違いない。
ピア・プレッシャーには、「他人に負担(迷惑)をかけたものに制裁を加える」という傾向だけでなく、「他人の負担を軽減しよう(助けよう)」という積極的態度を称賛する機能がある。それは「仲間に迷惑をかけない」という消極的な意味合いを超えて、「みんなで助け合って頑張ろう」という集団的な連帯感や高揚感に支えられた働き方を生み出すのである。相互監視というお互いの仕事チェックと同時に、相互扶助による仕事の強調が図られる。(p.51)
仕事とは次の担当者のことを考えて遂行すべきものだというのが、日本流の働き方のきわめて基本的な要素である。西欧流では、自分は自分の担当の仕事をやる、次の人や他の人のことは考える必要がないということになる。他人のことを気にして働くという仕組みでは、仕事中に彼らのまなざしを常に意識せざるをえなくなる。他人からミスを指摘されることによって、いつまでも自分の仕事を完ぺきにやり遂げなくてはという強迫観念さえ生まれてくる。
このような生産システムの創始者によって「後工程はお客さま」といわれるように、作業者は引き続く作業者のために「ミスを犯さない」ことを最大の課題とする。「不良品」を捨てたり安易に作り直したりするのではなく、「不良の原因」を作業者自らがつきとめて、製造の無駄を極力排除するしくみになっている。
だが、ここで言っているのは、ラインの作業者が検査工の役割をも担当するととか、それによる「創造と実行の統合」といいう問題ではない。ライン労働に限らず日本的な仕事のやり方が、いかに「人のため」という態度を要請するかということなのである。そこでは、相互扶助のための相互監視がごくあたりまえのこととして機能する。助け合うためには見はり合わなくてはならないのだ。(p.58)
仲間が仲間を管理的に律する。われわれ日本人はこういう<水平的管理>の要素をごく自然なものとして受け入れてきたはずだ。学校でも職場でも、生徒同士、仲間同士がサボったりよくないことをしたりしないようにお互いにチェックし合う。これは、教師や上司の立ての管理のまなざしを内面化したものだろうか。だが、この事例で描かれているような職場の「ルール」は<垂直的管理>によって強制的に押し付けられたものではなく、作業現場で自発的に広がっていったものなのだ。
顧客のためにいいものを納期に間に合わせて完成させようという目標は、決して経営側だけの要請ではなく作業現場で十分に含意できる事柄である。仕事をする、働くというおkとが、雇われて報酬のために仕方なくやるだけの消極的な意味合いではなく、顧客に良品を提供する強い使命感を伴って行われる。ここに経営と労働の対立はない。これが、日本的経営を採用したときに労働組合が弱体化する1つの理由である。(p.77)
伝統的欧米型の古いアセンブリ・ラインでの働き方は、「自分の仕事」以外は「責任がない」ので「自分のせい」ではなく「誰かほかの人の仕事」だというおkとになる。他人の仕事に「かかわらなくていい」ことが「楽」で「いいところ」だった。明確な責務と責任の分担のしくみについては、いまでも欧米の職場の主流なのかもしれないが、「チームワーク」の導入はそれを大きく変えつつあるようだ。柔軟な職務分担でフレキシブルに働くことが、経営側の要請だけではなく労働者の要求にもかなうのである。
昔の働き方は楽だったが、「それでおしまい」である。仕事上の責任がないことは、気楽なことであるがどこか物足りなくて働きがいを生み出さない。ここにかなり強制的な<垂直的管理>のイhつようが出てくるのである。一方で労働者たちは、その管理の強制力が強くなることへの抵抗の砦として<労働者集団>を形作る。「考える」ための仕事とラインで「働く」こととが人的に分離するのだ。これが、「構想と実行の分離」と呼ばれるものである。(p.98)
日本的経営から学んだことの1つは、職場をひとつの共同体として労働者が価値を共有することである。それこそが<職場集団>なのだといえるだろう。職場の共同体に自ら同一化させ自分自身を監督する。仲間同士が互いに監視し合い力づけ会うのが、ピア・プレッシャーの世界である。バーカーは、その相互監視と相互扶助の統制システムを正当にも「規範のまなざし」とよんでいる。>112>
この「まなざし」が、職場をはじめとする生活の多方面にわたって「権力」になるとはどういうことだろうか。従来の古典的な権力観では、資本が労働を、国家が人民を支配下におくという構成がなされていた。それを覆したのが、フーコーをはじめとするポストモダンの思想家たちだったことはよく知られている。ここでそれに深く立ち入った議論をすることができないが、その権力観を労使関係論や労働問題の分野に応用することは、日本の学問世界ではそれほど一般的なことではない。(…)
そうではなくて、見る/見られるという日常的な「まなざし」そのものがもつ権力を冠会えなくてはならないのだ。ピア・プレッシャーは、労働者同士が監視し統制しあう規律のシステムである。>113>だがそれは、資本の支配のもとでの出来事ではなく、逆にこの水平的関係が新たな労使関係のありかたを形成する力を持つのである。労働の世界が資本を規定する状況がここにある。(pp.111-113)
伝統的欧米型の官僚制的統制では、権力とは自分の外部に上司(ボス)や経営側として目に見える明快な存在であった。凍れ似大して、日本的経営を源泉とする協奏的統制では、権力を行使するものとされるものとが同一のチーム・メンバーとなる。いわゆる「強制された自発性」の本当の意味は、強制の主体と自発的な事故とが同じ人間によって担われていることにある。自分たちで強制し、自分たちで自発的に働く。これは、会社側が共生し、それに応えて自発的に働くという従来の理解とは根本的に違うのだ。
そして、ストレスの度合いが高いにもかかわらずそこに自己の存在意義をかけるという競争的規律の「究極矛盾」をどう説明するのか。そこでは、権力のまなざしは自分たちから発し、自分たち自身に向けられる。見る/見られるという関係が、チーム・メンバーのなかでいつでも相互に反転する。さらに、このまなざしには、「様子を見る」=監視という面と「面倒を見る」=配慮という面の二つがある。監視と配慮の両面が、チームワークの相互依存性を形成する。相互依存のネットワークでの緊張関係が、「しんどくてもがんばる」という仕事ぶりを生み出すのである。(p.120)
>top
◆橘木俊詔 編 (2010) 『働くことの意味――叢書・働くということ〈1〉』,岩波書店
第1部 人にとって「働く」とはどういうことか
働くということ―偉人はどう考えたか 橘木俊詔
人間にとって労働とは―「働くことは生きること」 杉村芳美
人間にとって余暇とは―余暇の大切さと日本人の思い 橘木俊詔
仕事意欲―やる気を自己調整する 金井壽宏
第2部 働く人を取り巻く諸問題
職業の倫理―専門職倫理に関する基礎的考察 田中朋弘
21世紀における「よい仕事」とは何か―企業倫理学からの応答 梅津光弘
ベーシック・インカム―働くということが当たり前ではない時代の生活保障 武川正吾
ソーシャルファイナンスに見る、これからの「働き方」―育てつつ事業を行う可能性 金子郁容・田中清隆
経済と倫理―公正でより善い社会のために 山脇直司
別の言葉でいえば、なにも労働から得られる喜びを、すべての人があえて求める必要はない。人によっては労働からの苦痛を正直に認めたうえで、働くことは食べるための糧を得るための手段にすぎないと、ある意味において開き直りをすることがあってもよいのではないか、という気がする。無理して労働に生きがいを認めるのではなく、先ほど述べ超に、労働から得られた所得を必要最低減の生活費に充てられればそれで十分で、残された余暇に生きがいを求める人生もまた、褒められてしかるべき人生なのではないだろうか。
世の中の仕事には、労働から喜びを感じることが困難な仕事が存在することを認めざるを得ないからである。さらに、労働から得ることのできる仕事に従事している人であっても、長時間労働にコミットしてへとへとになるまで働くことをせずに、できるだけ労働時間を短くして、余暇の時間を多く求める生活があってよいからである。(p.23 橘木論考)
近代において、労働は人間の生産活動を担う主体的で創造的な行為と見なされることになる。近代的な自我概念の確立とともに、人間は自然という客体に対して向き合う存在となる。主体である人間が自然に働きかける制作・生産の行為は人間に固有の行為であり、自己を表現する行為になった。人間の精神活動そのものが、生産的労働をモデルとして捉えられることとなった。
こうして労働の価値観は、西洋近代において、それまでの古代・中世の社会に対し逆転する。労働は人間にとって価値あるものを作り出す力として肯定と称賛の対象となった。人間の労働は、人類の想像力、生産力、自然に対する支配を象徴する活動となった。人間は工作人(ホモ・ファーベル)であることにおいて動物と区別される特別の存在とされ、労働は人間の本質的活動と見なされた。(p.35 杉村論文)
市場を前提とした現代の経済活動は、今日の労働にとって、人間的現実すなわち現代に生きる人間として避けられない現実的条件である。市場との関わり、資本主義的活動との関わりは不可避であり、雇用労働か自己雇用かなど労働の形態や享楽的か清貧を旨とするかなど生活の信条に無関係である。労働のほとんどは企業組織そして他の多くの人間と関わりながらの活動であり、また、機械装置・コンピューター・情報通信など絶えず発展する技術環境のもとでの活動であることも、変わらない現実である。
その現実状況にあって、労働をより人間化する制度やシステムの工夫がなされたり、労働自家が短縮されたりすることはもちろんある。しかし、現代の労働の存立条件そのものが変わることはない。つまり労働からの解放も労働の解放も、人間的な現実とともにはない。今日の人間の労働は、この現実の下に>51>ある労働である。(pp.50-51 杉村論文)
労働は、それ自体としては手段的活動であったとしても、現実の下での人間の活動であり、他者とともにある活動であり、さまざまな意味を生み出し組み出すことができる活動得ある。それは、労働の内容が物質的であるか非物質的であるか、労働の場が企業であるか否かには無関係である。人間にとっての労働は、本来的な意味のある/なし野活動ではなく、意味そのものを生む活動であり、さまざまな意味を帯びうる意味の乗りものというべき活動である。生の充実は、労働の外においてだけ可能というのではなく、労働のうちにおいてもあるということである。(p.53 杉村論考)
フリーライダーの禁止を謳った「働かざる者食うべからず」という格言は、新約聖書にまで遡る。「テサロニケの信徒への手紙(二)」のなかでは、怠惰を戒めて、次のように期されている。(引用略)
この規範や洋の東西を問わず、現在人にもあまねく共有されている。これは互酬性(reciprocity)の規範に由来する。つまり、ある人が他の人から何かをしてもらったならば、その人はその行為に対して返礼をしなければならない、という規範である。この規範はわれわれの日常生活の中でも貫かれている。例えば、お世話になった人に対して感謝の気持ちを込めてお中元やお歳暮を贈るという習慣は、互酬性の表れである。BIに即して言えば、社会からBIを受>187>け取るのであれば、社会に対してお返しをしなければならない。多くの人は、有給であるか無給であるかは別として、社会的に有意義な活動をすることによって、社会の好意に報いることになる。ところがフリーライダーはそれをしない。これは多くの人々が共有する規範を犯す許しがたい行為である。したがって少数の例外であるとはいえ、フリーライダーを誘発するBIは導入すべきでないということになる。言い換えると、かりにBIの導入が財政的に可能であったとしても、それは道徳的に好ましいことではないということになる。(pp.187-188 武川論考)
>top
◆濱本真男 (2011) 『「労働」の哲学――人を労働させる権力について』, 河出書房新社
第1章 労働を巡る闘争を不可視化するもの
労働の過少な定義と過剰な定義
イタリア・フェミニズム
「青い芝の会」
理論的前提としての小括
第2章 労働の「政治」性
「労動」(labor)と労働(job)の概念的区別
社会的生命の必要と余暇の時間)
第3章 「労動」の政治性
社会的統治と自己統治の関係にみる思考の政治性
「労動」=芸術=「犯罪」
第4章 「過労死」―労働権力の場
社会の諸層で作用する労働権力と力同士の葛藤
社会的労働としての「過労」自殺
現代の潮流から「過労死」問題を読み解こうとしている論者たちは、しばしばもっとも単純な見解を正当化する努力を怠るばかりか、それを試みさえしない。すなわち、死ぬまでは他rくぁ化されるのが嫌なら労働をやめてしまえばよい、ということをほとんど念頭に置かない。念頭に置かないのは、党の論者たちが「人を労働させること」を目的とする社会の理論につき従っているからであろうか。いや、おそらくそうではなく、労働をやめてしまえば生きることができない、というなかば自明の事実を受け容れているだけなのだろう。しかし、その事実もまた社会の論理の産物である、と疑ってみるべきではないだろうか。少なくとも、社会的生活と「生そのもの」や指摘生命の必要を満たす活動とは区別されなければならない。この単純な区別ができないということは、社会的生活の喪失が「生そのもの」の喪失よりも深刻なものであると考えられているとまでは言いきれないとしても、社会的生活の喪失可能性が生死の境界に位置づく極限的な労働条件を許すほどには十分に強迫的であるというおことの証明であろうように思う。確かに言えることは、この強迫による「人に労働を止めさせないこと」を、「人を>128>労働させること」と表裏一帯をなして社会に作用する労働権力として捉えなければならないということである。(pp.127-128)
なるほど過程レベルにおいても「人を労働させる」力は働いている。そして、それが裏返って「人に労働を止めさせない」力となるのは、基本的に同じ理由から明らかであろう。つまり、労働が家族という社会的生命の必要によって据え付けられた義務だからである。さらに、異能終えが期待しているようなことを想定すれば、労働者には家庭生活を充実させる役割をも担わされていると考えることがで>139>きよう。何でもよいが、「家族サービス」という言葉で表現されるようなあらゆる役割を想定すればよいのだ。すると、課程は労働者を、家庭生活の充足と充実という二重の意味での労働へとしばりつけているといえるのである。(pp.138-139)
「過労死」裁判の場で決定されること、すなわち、加害者でもありうる日当事者に対して賠償がなされるというある意味で倒錯した帰結は、日当事者の社会的生命がまったくもって当事者の方に担われていたこと、それゆえ、当事者は労働しなければならなかったし、労働を止めることができなかったということの遠回しな証明であると言えよう。このような観点からいって、「過労死」裁判における司法言説に見る目的の別の側面を見逃すわけにはいかない。いうまでもなく「過労死」
裁判の目的は、「過>145?>労死」問題の責任を問うものであることに尽きないのだ。それと同じくらい似重要な目的として、「過労死」した当事者が果たしていた日当事者の社会的生命の充足と充実という役割を、当事者が死してなお、いかに滞りなく果たせるかという問題を解決することが目指されるのである。実際に、企業に対する「損害賠償請求事件」の場合には、慰謝料という根拠不明(なぜその金額なのかということ)なものに加え、それとは対照的に、当事者が「当然のように生涯働き続け、得られたであろう賃金」に相当する金銭については詳細に計算され打ち出された者が、賠償金の総額を決定するのだから。(pp.144-145)
>top
◆Becker, Gary Stanley., & Nashat, Guity, (1997).The Economics of Life : From Baseball to Affirmative to Immigration : How Real-world Issues Affect Our Everyday Life. (=1998 鞍谷雅敏・岡田滋行 訳『ベッカー教授の経済学ではこう考える――教育・結婚から税金・通貨問題まで』, 東洋経済新報社)
象牙の塔からコラムニストへ
規制と民営化
労働市場と移民
人的資本と学校教育
家族
差別
犯罪と中毒
反トラストとカルテル
特殊利益と政治
政府と税金〔ほか〕
時計の針を逆にして、多くの州が不義・遺棄・虐待の立証なしには離婚を認めなかった1960年代に戻ることは、望ましいことではなく、可能でもない。それではどうすれば、こうした家族の状況を改善できるだろうか。無責離婚の試みを止め、その代わりに夫と妻の双方が合意するときにのみ離婚を認める法制度(相互承諾による離婚制度)にすべきである。
この変革は、多くの人々、特に無責主義で苦しめられている女性の交渉力を大幅に強めよう。離婚を切望しており、しかも妻や子供の不幸を招くことを気にかけない夫を想定してみよう。現行法の下では、妻には離婚を止める手段がほとんどない。しかし妻の承諾が必要ということになれば、妻は強力な武器を手にする。手厚い子供養育費の支払いや気前のよい資産分割などの条件に夫が同意しないかぎり、妻は離婚を拒否できるからだ。子供の養育に関する約束はきちんと実行すrとの夫の決意を確信できない間は、妻は同意しなくてよい。離婚するぞとの脅しの下で夫が理結婚生活を思い通りにすることを許す必要もない。(p.98)
私が育った1930年代や40年代の当時は、黒人、女性、ユダヤ人、およびその他のマイノリティ・グループ出身の医者、弁護士、会社役員は平均より優れているものと一般に思われていた。マイノリティ・グループに開かれたわずかな割当量の下で、それを志望するもののなかから最良のものだけが受け入れられていたからだ。しかし差別撤廃プログラムは、資質に関するこのような判断を逆転させてしまった。いまでは、マイノリティ・グループ出身の専門的職業人や女性実業家は、同等な地位にいる白人男性に比べ資質が低いとみなされることが通常である。このような受け止められ方は、様々な障害を克服して今日の地位を築き上げてきたマイノリティー・グループの成功者のあいだにも相当な憤りを引き起こしている。たぶんそれが理由で、黒人実業家のワード・コナリーは、公立大学のマイノリティ入学に関する差別撤廃プログラムを、カリフォルニア州は廃止すべきであると提案したのである。
たしかにいまや、数量割り当てや特別留保枠をなくすべきときである。しかし米国人は、貧しい生い立ちのマイノリティ・グループ出身の子どもなどによりよい機会を提供するために、社会として努力をなお一層傾けるべきだ。(p.118)
>top
◆礫川全次(2014) 『日本人はいつから働き過ぎになったのか』,平凡社新書
(前略) 明治一〇年代の日本では、松方デフレ等の影響によって、自作農から小作農に転落する農民が続出していたからである。すなわち、右の教材は、当時の小農民が置
かれていた苦境を、「道徳」上の問題として処理しようとしていることになる。おそらくこうした傾向は、修身の一教材のみに見られるものではなかったはずである。当時、小作
農に転落した農民に対して、「怠け者」、「道楽者」等の評価が下されたであろうことは、想像にかたくない。(p.145)
ちなみに大塚久雄は、岩波文庫旧版、梶山力・大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』上巻(1955)に付した「解説」において、おおむね次のようなことを述べている。
ウェーパーのいう「資本主義の精神」の担い手は、まずは「産業的中間層」であり、さらには、その母胎から分化した「資本家」と「賃金労働者」の双方である。「資本主義の精神」の語は、このように風変りな意味に用いられているので、本書を読まれる読者は、注意してほしい。特に、この語を「資本家を動かしている精神」と捉えることのないよう>196>に。
この注意書きは、右のニ論文ニ九四四年一月論文、同年七月論文)と呼応する。ウェーバーが「資本主義の精神Iという言葉を「風変り」な意味で用いていることを知っていた
からこそ、大塚は、戦中、時局を論じる際に、ウェーバーの所説を右のような形で援用することができたのである。(pp.195-196)
すなわち、「最高度の自発性」とは、「新しい経済倫理」を支える重要な要素で、それは、生産責任を自覚すると同時に、十分に目的合理性を満たしているもの、ということになる。これをさらに言い換えると、「全体」から自分に与えられた「生産カ拡充の要請」(生産責任)に対して、みずからそこに「目的合理性」を見出し、みずから進んで、強力かつ積極的に、その要請に応えるような「高度の自発性」ということになるだろう。
要するにこれは、「被強制」を「自発性」と思い込ませるためのマヤシンの論理である。言い方を換えれば、労働者を「自発的隸従」へと導こうとする論理である。
大塚は、なぜ労働者に対し、「最高度の自発性」を説いたのか。理由は簡単である。当時、「最高度の自発性」=「自発的隸従の論理」を説きうる対象は、労働者以外になかったからである。
この「最高度"自発性"の発揚」という論文、あるいは、そこで示した「最高度の自発性」という概念は、大塚が当時、戦時体制が抱えていた諸矛盾に、目を向けようとしてい>198>なかった事実を物訪語るものである。労慟者に対し、「最高度の自発性を説く前に、彼は、欠陥部品を出荷して恥じないメー力ーの「自発性」、物資の隠匿に励む軍人の「自発性」、
あるいは、食糧をヤミに流す農民の「自発性」を告発すべきだったのではないか。戦時下のそうした諸矛盾に目を向けることなく、もっばら強制される立場にある労働者に「自発性」を説くというのは、思想家・言論人としては、あまりに安易だったのではないか。(pp。197-198)
日高普は、前掲の『日本経済のトボス』において、日本の企業が採用した「日本的経営」は、高度経済成長期に、労働者の「参加意識」を高めることに成功したと指摘してい>216>る。「日本的経営」の本質は、従業員の「参加意識」の形成にあったといぅ。これは、きわめて重要な視点だと思う。
(引用中略)
こうして、企業への「参加意識」を高めた労働者は、みずから進んで労働し、会社のために働くことを「生きがい」と感ずるようになってくる。「我が家は楽し」ならぬ「我が社は楽し」の世界である。日本の高度経済成長を支えたのは、このように、働くことを「生きがい」と感ずる労働者の存在であったと言ってよいだろう。しかし、そうした中で、日本の労働者は、次第に「働きすぎる」ようになり、その結果、全国の家庭からも次第に、「家族揃っての夕食」という光景が失われていったのである。(pp.215-216)
ところで、日高普のいう「参加意識」であるが、要するにこれは「自発性」ということになろう。労働者の「参加意識」を形成するということは、言い換えれば、仕事に対する
労働者の「自発性・自主性」の調達に成功したということである。すなわち、戦後の「日本的経営」というのは、戦後民主主義における「内発性・自主性」の精神を前提とし、その精神と深く結びついた経営手法だったと捉えられる。
つねに厳しい競争の下にある企業においては、「従順で勤勉なだけ」の労働者は役に立たない。自分で考え、自分で決断し、自分でおこない、その結果について責任を負うような、自主的、自立的、主体的、自発的な労働者が求められる。そのような労慟者の「創意工夫」なしには、企業は、その繁栄を維持できない。戦後の「日本的経営」というのは、労働者の「自発性」を調達すると同時に、労働者の「自発性」に依拠するような経営だったということができるだろう。その経営手法の中に、労働者の「自己責任」を問う一面もあったわけだが、このことは、やがて、過労死・過労自殺の問題の重要な要因として浮上してくる。(pp.216-217)
言いたいのはこういうことである。私たちは、「勤勉性」ということに、なお、価値を見出そうとしているが、それを支えているものが、何であるかについて、熟考すべきではないのか。それを支えているものが「非合理的」なものである事実に、向きあうべきではないのか。さらに、日本人の「勤勉性」が、過労死・過労自殺を生み出しているという事態を直視すべきではないのか。ここで、最後の仮説、仮説14「日本人は、みずからの勤勉性を支えるものが何であるか>243>について深く考えようとはしていない」を示しておこう。(pp.242-243)
>top
>top
>top
◆UP:100602,100901,1020,110523,20150813