> うまなり[Home] / 有限責任 (Limited liability)


有限責任
Limited liability

商法200条1項

【無限責任】 出資者が自ら財産によって会社の債務に対する賠償をすること。

【文献】

◆Berle, A. A. & Means G. C. (1932). THE MODERN CORPORATION AND PRIVATE PROPERTY. THE MACMILLAN COMPANY.
= 1958 北島 忠男 訳『近代株式会社と私有財産』文雅堂銀行研究社

◆Blumberg. (1986, Summer) "Limited Liability and Croporate Group," Journal of Corporation Law.

◆Cooke, C. A. (1950). Corporation, Trust, and Company ; Manchester University Press,

◆Cooke, C. A. "Corporation, Trust, and Company," Holdsworth, H. E. L. 8; Manchester University Press,

◆Gower, L. C. B. (1969). The Principle of Modern Company Law (2nd ed.); London

◆Dodd, E. Merrick. (1948). "The Evolution of Limited Liagbility in American Industry ; Massachusetts," Harvard Law Review 61. 1351.

◆Easterbrook, F. H., & Fischel, D. R. (1985). Limited Liability and the Corporetion, University of Chicago Law Review, 52.

◆Ehrenbverg, Victor. (1880) Beschränkte Haftung des Schuldners nach See- Und Handelsrecht.

◆Formoy, R. R. (1923). The Historical Foundations of Modern Company Law,

◆Hackeney, and Benson, (1985). "Shareholder Liability for Inadequate CApital," U. Pitt. Law Reviwe 43.

◆Halpern, P., Trebilocock, M., & Turnbull, S. (1980). An Economic Analysis of Limited Liability in Corporation Law, University of Toronto Law Joural, 30.

◆Holdsworth, (1958). History of Engish Law vol3 .

◆Hunt, B C. (1936). The Development of the Business Corporation in England, 1800-1876, = 1969 Reissued Russell & Russell.

◆Jeferys, J. B. (1938) Business Organization, University of London. Reprinted New York, 1977.

◆Leebron, D. W. Limited Liability, Tort Victims, and Creditors, Columbia Law Review, 91.

◆Levi, Leone, (1870) "On Joint Stock Company," Journal of the Statistical Society of London,33.

◆Levi, Leone, (1886) "The Progress of Joint Stock Company with Limited and Unlimitede in the United Kingdom," Journal of the Statistical Society of London,49.

◆Liver-more, Show. (1935). "Unrestirctied Liability in Early American Corporation," Journal of Political Economiy. XLIII ppp.674-87.

◆Presser, S. B. (1992). "Thwarting the Killing of the Coroporetion: Limited Liability, Democracy, and Economics" Northwestern University Law Review, 87.

◆Robert, A., Monks G., & Minow Nell. (1995). Corporate Governance. Bkackwell Publishers.
= 1999 株式会社ビジネスブレイン 太田昭和 澤村 淑郎 米畑 博文 訳 『コーポレート・ガバナンス』 生産性出版

◆Saville, J. (1956) "Sleeping Partnership and Limited Liability 1850-1856," Economic History Review, 2nd ser.8.

◆Shannon, H. A. (1930). "Administrative Law in the Early Company Act," Economica.10.

◆Shannon, H. A. (1931). "The Coming og General Limited Liability," Economic History -A Suupplement of the Economic Jornal. 2(6).

◆Shannon, H. A. (1932, January). "The First Five Thousand Limited Companies and Their Duration," Economic History.2(7).

◆Shannon, H. A. (1933). "The Limited Companies of 1866-1883," Economic History.4(3).

◆Shannon, H. A. (1937). "Joint Stock Companies," Economic History Review.8.

◆Todd, G., (1932) "Some Aspects of Joint Stock Companies 1844-1900," The Economic History Review,4(1).

◆Willson Carus E, M. (ed.)., Esseys in Economic History,

◆Warren. (1923). "Sefe-gurding the Creditors of Corporations," Harbard Law Review 36.

◆Weinstein, M. I. (2003). Share Price Changes and the Arrival of Limited Liability in California, The Journal of Legal Studies, 32.

◆Woodward, S. E. (1985). Limited Liability in the Theory of the Firm, Journal of Institutional & Theoretical Economics,141.

◆伊藤 紀彦 1994,1996 「ニュー・ヨーク州における株主の有限責任制の変遷1・2」 ,『中京法学』29(1) 89-111, 31(1) 1-26.

◆泉 久雄 1963 「相続人の有限責任」,『法学』27(2) 東北大学法学会 pp.62-78.

◆泉田 栄一 1978 「有限責任個人企業に関するピスコの法案とリヒテンシュタインの会社法」『富山大学紀要』24(2) pp.252-274

◆泉田 栄一 1980 「スイスとドイツにおける有限責任個人企業の立法論について」,『富山大学紀要』25(3) pp.457-485

◆泉田 栄一 1980 「有限責任個人企業の立法論の比較法的考察 : フランス,ベルギー,イタリア,ペルーを中心として」,『研究年報』6 富山大学日本海経済研究所 pp.145-211.

◆井上 克洋 2003 「『契約の自由』と株主有限責任の導入 −1855年英国株主有限責任法の成立」,『社学研論集』2 早稲田大学大学院社会科学研究科 pp.79-93.

◆井上 健一 1999 「19世紀イギリス会社法における株主有限責任の導入」 ,『武蔵大学論集』46(3,4) pp.129-139.

◆井上 健一 2000 「19世紀後半の英国諸産業における株主有限責任制度の発展」『武蔵大学論集』47(3,4) pp.525-539. PDF

◆今西 宏次 2004 「株主第一位の規範と株主有限責任制 −コーポレート・ガバナンスと株式会社財務に関する研究との関連で−」『大阪経大論集』55(3) 大阪経済大学, 67-90.

◆今野 裕之 1981 「西ドイツ1980年改正有限責任会社法の概要」,『国際商事法務』9(3) pp.117-27.

◆今野 裕之 1985 「西ドイツ『有限責任会社』制度の立法と展開 −債権者保護の強化を中心として」 ,『旬刊商事法務』1057 pp.654-9.

◆今野 裕之 1985 「<研究ノート>ドイツ「有限責任会社」制度の立法過程 : ドイツ帝国議会議事録および政府草案・理由書を中心として」 ,『成城法学』19 pp.87-104

◆上田 光人 1976 「古典派経済学における株式会社像─スチュアート,スミス,ミル,マルクスの見解」 ,『中京商学論叢』23

◆大隅 健一郎 1953,1987,2001 『株式会社法変遷論』 有斐閣

◆大塚 市助 1956 「株主有限責任の原則」 ,『旬刊商事法務研究』41 pp.42-5.

◆大塚 久雄 1938,1947 『株式会社発生史論』 中央公論社 →1969 『大塚久雄 著作集第1巻』 岩波書店

◆大野 直治 1987 「スイス有限責任会社法」『社会科学論集』62 pp.117

◆大野 直治 1987,1988 「オーストリア有限責任会社法1・2」 ,『社会科学論集』62-3 pp. 147

◆奥村 宏 1996 「21世紀の企業形態」 ,『社会・経済システム』(15) 社会・経済システム学会 pp.65-70.

◆奥隅 栄喜 1967 「パートナーシップとコーパレーションとの間 −イギリスのジョイントストック・カンパニーの歴史的・学説的研究の一節」 ,『明大商学論叢』50(2・3・4号) pp.151-78.

◆尾崎 安央 1995 「小規模株式会社における監査制度 −有限責任制度との関係で」 ,『旬刊商事法務』1402 商事法務研究会 pp.38-43

◆柿崎 栄治 1989 「閉鎖的小規模株式会社の有限責任の論理と政策 : その構造的特質から」,『山形大学紀要 社会科学』19(2) pp.299-318.

◆梶山 純 1985 「ドイツにおける改正有限責任会社法」 ,『八幡大学論集』35(4) 八幡大学法経学会 pp.79-102.

◆片山 伍一 後藤 泰二 編著 1983 「現代株式会社の支配機構」 ミネルヴァ書房

◆河井 健志 1999 「アメリカにおける株主有限責任の論議と金融持株会社」 ,『保険学雑誌』566 日本保険学会 pp.92-117.

◆川井 正彦 1986 「物的会社の倒産と社員の有限責任排除」,『ジュリスト』864 pp.60-7

◆城戸 善和 2005 「株式有限責任に起因する社会的責任」,『北見大学論集』28(1) 北海学園北見大学学術研究会 pp.39-45.

◆木原 高治 2002 「協同組合と組合員有限責任制度」 ,『東京農業大学農学集報』47(3) pp.153-63.

◆久保 欣哉 1972 「株主有限責任原則の限界 −責任制限の競争阻止・独占助長機能をかえりみて」,『青山法学論集』14(1) pp.25-52.

◆窪田 宏 1974 「商法における各種の有限責任制度には合理性があるか」,『第二期法学教室』6

◆小石川 宣照 1972 「株主の有限責任の原則について」,『日本大学文理学部(三島)研究年報』21 pp.90-5.

◆小島 昌太郎 1962 「保険の成立と有限責任企業形態の成立」,『生命保険文化研究所所報』8

◆後藤 泰二 1982 「有限責任と企業形態」,『経済学研究』47(5・6) 九州大学経済学会, 151-163.

◆後藤 泰二 1983 「有限責任と資本家規定−有限責任と擬制資本-1-」 ,『西南学院大学商学論集』29(3・4) pp.1-15.

◆後藤 泰二 1988 「有限責任と資本の動化 有限責任と擬制資本-2-」 ,『名城商学』38(2) pp.1-19.

◆小山 賢一 1971 「英国の有限責任の歴史 : 南海泡沫条例の廃止まで」,『大阪経大論集』83 pp.137-59.

◆小山 賢一 「マサチューセッツ株式会社法形成史」 ,『大阪経大論集』86-92

◆三枝 一雄 1984 「株主有限責任の論理」,『法律時報』56(11) 日本評論社 pp.17-22.

◆三枝 一雄 1984 「株主有限責任 −その正当性と限界」 ,『法律論叢』57(3) (明治大学法律研究所 pp.1-50.

◆佐伯 俊三 1935 『有限責任会社の特性及び其の設立論』 司法省調査課

◆佐賀 卓雄 1973 「イギリスにおける有限責任法の成立 −「泡沫条例」以後の株式会社の発展」 ,『経営研究』127 大阪市立大学経営学会 106-138.

◆佐々 穆 1931 「<研究>瑞西債務法改正案に於ける有限責任會社(G. m. b. H.)に就て」 ,『國民經濟雜誌』51(1) 神戸大学 pp.61-82

◆佐々 穆 1933 『有限責任会社法論』 巖松堂

◆佐々木 重人 1997 「ナショナルバンクオブウェ-ルズ有限責任会社事件(1898-1899年)」 ,『会計学研究』23 専修大学会計学研究所 pp.55-109.

◆鈴木 俊夫 1980 「イギリス近代株式会社の生成過程 3(上・下)」,『金融経済』181,182.

◆鈴木 禄弥 1990 「いわゆる『有限責任』について」,『判例タイムズ』41(6) pp.4-16.

◆鈴木 芳徳 1972 「英国初期の有限責任」,『商経論叢』8(2) 神奈川大学経済学会, 35-63.

◆鈴木 芳徳 1974 『信用制度と株式会社』 新評社

◆鈴木 芳徳 1978 「ジョン・ステュアート・ミルの株式会社論」『金融経済』173

◆鈴木 芳徳 1979 「ジョン・スチュアート・ミルのアソシエーション論──ミル株式会社論の背景」 ,『神奈川大学創立50周年記念論文集』神奈川大学

◆鈴木 芳徳 1983 『株式会社の経済学説』新評論

◆関 俊彦 1995 「株主有限責任制度の未来像」 ,『旬刊商事法務』1402, 22-29.

◆高田 太久吉 1997 「持株会社における株主有限責任の排除」 ,『商学論纂』39(3/4) 中央大学商学研究会 pp.503-557.

◆高田 太久吉 1997 「銀行持株会社の経営責任と有限責任制」 ,『銀行労働調査時報 』573 銀行労働研究会 pp.3-11

◆高橋 和男 1997 「アメリカ経済思想史における株式会社論 −ヘンリー・ケアリーのアソシエーション論を中心に」 ,『立教経済学研究』 pp.53-74.

◆武田 信照 1999 「J.S.ミルのパートナーシップ法改正論」『法制と文化』愛知大学文學會

◆武田 信照 1995 「J.S.ルの株式会社論(上)─株式会社観の転換」『経済論集』138 愛知大学

◆武田 信照 1996 「J.S.ミルの株式会社論(下)─アソシエーションと株式会社」『経済論集』141 愛知大学.

◆武田 信照 1998 『株式会社像の転回』 梓出版社

◆武田 信照 1999 「J.S.ミルとマルクス ─株式会社論と協同組合論」『経済論集』149

◆田中耕太郎 1934 「商法に於ける分業と責任」,『民商法雜誌』1(1) pp.12-30.

◆田中 誠二 1987 「企業の社会的役割と企業についての有限責任の根拠」,『民商法雑誌』96(5) pp.595-616.

◆田村 茂夫 1975 「会社債務に対する有限責任社員の責任 1」 ,『西南学院大学法学論集』8(1) pp.39-51.

◆寺尾 元彦 1933 「有限責任会社社員責任論」, 『早稲田法学』13(1), 1-75.

◆東京商工會議所 商事關係法規改正準備委員會 1929 「各國有限責任會社制度概説」 東京商工會議所商事關係法規改正準備委員會,

◆東京商工会議所 編 1937 「有限責任会社制度に就いて (4)」,『商工資料』52 pp.31

◆富山 康吉 1951 「合資会社の有限責任社員の業務執行 −判例批評」,『民商法雑誌』26(5) pp.45-7

◆友岡 賛 1993 「株主といわゆる利害関係者と,そして会計と監査と : 『近代会計制度の成立』をみることについての覚え書き」 ,『三田商学研究』36(3) 慶応義塾大学商学会 pp.1-24.

◆中川 和彦 1978 「<論説>ペルー国の有限責任個人企業」,『成城法学』2 pp.1-31

◆中村 雄司 1997 「経営者支配の正当性について」 ,『上武大学経営情報学部紀要』17 pp.19-42.

◆並木 和夫 1986 「アメリカの株主有限責任制度」 ,『企業会計』38(10)

◆並木 和夫 1987 「株主有限責任の原則の検討−過少資本の問題を中心として」 ,『法学研究』60(12) pp.99-120.

◆並木 和夫 1987 「株主有限責任の原則の検討 −過少資本の問題を中心として−」 ,『私法』49 pp.180-86.

◆並木 和夫 2002 「アメリカ会社法における株主至上主義の原則−Smith教授の所説を中心として」 ,『産業経理』62(1) pp.44-5<

◆西村 丈治 2001 「株式、株主有限責任、資本金および株主の危険負担の相互関係についての一考察」 ,『経営情報研究』8(2) 摂南大学経営情報学部, 1-13.

◆西脇 敏男 1976 「一人会社と有限責任」,『中央学院大学論叢. 商経関係』11 pp.279-308.

◆西脇 敏男 1990 「有限責任制度の論拠 −『商法・有限会社法改正試案』を契機として」 ,『法学新報』96(3・4) 中央大学法学会 pp.243-269.

◆新山 雄三 1991 「株式会社企業の『社会的実在性』と政治献金能力 −いわゆる八幡製鉄政治献金事件判決の分析と評価」 ,『岡山大学法学会雑誌』40(3・4) pp.123-156.

◆野田 博 1987 「有限責任原則と親子会社関係」 ,『一橋論叢』98(4) 一橋大学一橋学会 pp.579-600.

◆長谷川 雄一 1971 「合資会社における有限責任社員の地位」 ,『愛知大学法経論集 法律編』65 pp.1-30

◆早川 勝 1989 「商法・有限会社法改正試案における有限責任原則」 ,『産大法学』23(1) 京都産業大学法学会 pp.28-57.

◆林 道義 1967 「イギリスにおける株式会社『有限責任法』成立の経済史的背景」 ,『土地制度史學』9(3) 土地制度史学会 pp.24-44.

◆福井 喬 1958 「ビジネストラストにおける有限責任の問題」 ,『島根大学論集 社会科学』4 pp.22-31.

◆福井 守 1978 「<論説>一人社会と有限責任の個人企業」,『駒澤大學法學部研究紀要』36 pp.65-105

◆福岡 博之 1957 「A.Lehnardt著『フランス,ドイツ有限責任会社制度の若干点の比較研究』1・2」 ,『青山経済論集』8(2) 77-96. 9(2) 123-153.

◆藤田 友敬 1999 「商法 株主の有限責任と債権者保護」,『月刊法学教室』223 有斐閣 pp.21-26.

◆本間 輝雄 1957 「英米会社法に於ける有限責任の発展 −特に米法を中心にして1」 ,『経済理論』39 和歌山大学経済学部 pp.93-

◆本間 輝雄 1960 「英国株式会社法の成立と株主有限責任  2 」 ,『経済理論』57,58,59 和歌山大学経済学部

◆前嶋 京子 1986 「米国における株主の責任」 ,『下関市立大学論集』77 30(2) pp.119-36.

◆前山 誠也 1998 「コースの定理と流動性問題 −有限責任制の論理への一視点」 ,『神戸外大論叢』49(7) 神戸市外国語大学研究所 pp.1-22

◆松崎 良 1994 「ドイツ有限責任会社の経済的意義及び利用の目的並びに存続及び支払不能の危険性 : 有限責任会社の法律実態(II)」 ,『いわき紀要』23 東日本国際大学 pp.125-134.

◆松嶋 隆弘 2000 「民商法講座(2)株式会社法の基本構造 −株式と有限責任を中心に」 ,『民事法情報』166 民事法情報センター pp.56-62.

◆田中 耕太郎 1942 『全訂 会社法概論 上巻』

◆田中 誠二 1987 「企業の社会的役割と企業についての有限責任の根拠」,『民商法雑誌』96(5) pp.595-616.

◆増田 政章 1974 「西ドイツ有限責任会社の実態」,『比較法政』5 近畿大学比較法・政治研究所 pp.242-227

◆丸山 秀平 1981 「株主有限責任制度についての考察 −法人性との関連において-1-」,『法学新報』87(11) 中央大学法学会 pp.51-68.

◆宮田 美智也 1973 「株主の有限責任制と擬制資本の論理」,『金沢大学法文学部論集 経済学編』19, 55-86.

◆向井 貴子 2005 「株主有限責任のモラル・ハザード問題と非任意債権者の保護」,『九大法学』91 pp.267-411

◆村田 和博 1995 「J.S.ミルにおける有限責任と共同組織」 ,『九州経済学会年報』33 pp.1-5

◆門司 政憲 1955 「アメリカに於ける有限責任の展開」,『産業経済研究』1 久留米大学産業経済研究会

◆森脇 貞二 1955 「H.A.シャノン『一般有限責任制の出現』」,『西洋史研究』1 東北大学文学部西洋史研究会

◆諸田 実 1979 「ジョン・ステュアート・ミルのアソシエーション論 −ミル株式会社論の背景」『神奈川大学創立50周年記念論文集』 所収 BN01539495

◆安岡 重明 1969 「財閥形成史における有限責任制 : 試論 (<社会経済史学会近畿部会サマー・シムポジウム>明治期における会社企業の発達」 ,『社會經濟史學』35(2) 社会経済史学会 pp.184-197,235-236.

◆弥永 真生 「責任 −有限責任と不法行為責任・工作物責任 (信託法と民商法の交錯−日本私法学会シンポジウム資料)」,『エヌ・ビー・エル』791 商事法務 pp.37-43.

◆米山 高生 1981 「英国におけるコ-ポレ-ション法の一般的採用 −一八五五年『有限責任法』成立過程に関する一考察」,『一橋論叢』86(1) pp.130-9

◆吉原 和志 1996 「株主有限責任の原則 (特集 会社法の論点再考)」『月刊法学教室』194 pp.14-18

◆楊枝 嗣朗 1977 「<論説> 株式会社の成立 : 法人格、有限責任制確立の必然性」 ,『佐賀大学経済論集』9(1/2/3) pp.171-194.

◆吉田 準三 1997 「わが国の会社制度の展開過程 終章 −会社制度思想史」 ,『論集』31-4 琉球経済大

◆吉田 直 1996 「株主有限責任原則の根拠に関する学説の系譜」,『青山法学論集』37(3・4) ppp.229-43.

>top


【論】

 

◆林 道義 1967 「イギリスにおける株式会社『有限責任法』成立の経済史的背景」,『土地制度史學』9(3) 土地制度史学会 pp.24-44.

 ここで重要なのは、形式上「合名会社形態」に近いpartnershipではどうしても不十分となって、社会的に「合資会社形態」の法認が要求されるようになるという状態、または、「合資会社形態」からさらに進んで「株式会社形態」すなわち「全社員の有限責任」が許可制ではなく登録制(正確には準則制)になるように要求されるという事情である。そして、この問題こそが、以下で私が明らかにしようとするものなのである。(p.25)

 この「合資会社形態」は一つの自己矛盾であり、その意味で非常に過渡的な形態であるといわねばならない。なぜかというに、機能資本家団は、巨大な資本を必要とするからこそ、多数の無機能な中小資本家から有限責任という好条件によって大資本を集め、それに対しうる支配を実現しうるのであり、しかも他方では支配権の代償でありそれを保障するものとして自らは無限責任を負うことになるのであるけれども、ますます巨大となる資本と経営に対して、個人的な無限責任を負うことは個々の機能資本家にとっては耐え難いこととなるであろう。こうして「合資会社形態」は、中心の機能資本家団が無限責任を負わなくても「支配」を続けうる条件が現れてくるや否や、「株式会社形態」へと転化し始めることになる。(p.25)

 さて、この点は、19世紀イギリスにおける一般的株式会社制度の成立にとっても、最も重要な問題点を為すものであった。というのは、1855年の「有限責任法」The Limited Liability Actを成立させた原動力こそ、後述するように、「資本不足」を解決するための「一般的有限責任」general limited liabilityの導入を求める声であったからである。そして、ここのような意味で、有限責任のあり方こそ、19世紀イギリスにおける株式会社発展史の研究にとって、その基礎におかれるべき中心的視点でなければならないと思われる。(p.26)

 彼ら中産階級の最大の関心事は、@元金が保証されること、A配当率の高いこと、の二つであった。企業の経営に参加して、そのうまみを味わうことではなく、なによりも安全確実で、その上にできるだけ利率が高ければよかったのである。優先株はこの要求にぴったりとこたえるものであり、この階層から投資を引き出すにはもってこいの性格を持っていたことになる。(p.34)

 当時、「有限責任」というと、もちろん、「払い込んだ額までの責任」でなくても、「応募署名subscriveした額までの責任」であった。従って、いざという場合には、未払分のcall(追徴)に応じなければならない。(p.37)

 法律によって法人格を与えられていても、charterや特別法によるのでなければ有限責任ではないということを、ここで改めて明文化したことには、それなりの意味があったと考えなければならない。というのも、「1844年以前には、法手続きの複雑さのために、債権者が小株主の責任を追及することは事実上不可能であった。富裕な株主のみが無限責任を引き受けていた」からである。(Todd, op.cit, p.61)

 …「有限責任」の方は「有限」でも「責任」をもたせて」、いざというときには、その分は返さなくてもよいからなのである。ここにこそ、「有限責任」の特殊に現代的な意味が隠されているといわなければならない。もともともうしたことが問題になるのは資本の規模が大きくなって、多くの資本を集めなければならないからなのであるが、そうであればあるほど、その結合された資本をいざというときに返さなければならないか、返さなくてもよいかの違いは、巨大な意義をもつことになる。代案は確かに投資大衆にとっては都合がいい。しかし、そうであればあるほど、清算の場合の機能資本家の負担が増えることになる。ここに代案の不人気の理由があった。ということは、代案は機能資本家とその代弁者にとって不人気であり不利益だということにほかならない。「合資会社形態」の要求は、そして「有限責任」一般への要求は、できるだけ債権の形を社員出資の形に変え、「有限」でも「責任」をもたせるところに、その本質的な意味があったのである。つまり、そこにはすでに、機能投資家の負担を少しでも少なくしようという意図が働いている。有限責任への要求には、それが「合資会社形態」への要求という形をとっているときですら、このようにすでに機能資本家の利害が主要なものとしてはたらいていたのである。

>top


◆鈴木 芳徳 1978 「ジョン・ステュアート・ミルの株式会社論」『金融経済』173

 労働階級にも、めいめいの資金を持ち寄って合本する権利は与えられてよく、そうでなければ少数の富裕の人々に事業が独占されよう。そのさい、利潤分割性を採用するのであれば、無限責任のままでは、参加する労働者の危険負担という問題がある。あるいは、労働階級が中心となって作った会社に、富めるものが資金を提供するという場合にも、有限責任であることが望まれよう。協同組合の内部での論争や持ち逃げを処理するためには、法律や制度の整備が必要であろう。そして、ここに設立される労働者中心のアソシエーションが、かりに失敗に終わるとしても、そのことの教育的価値は莫大なものだ、とミルは考えた。

 1844年法の欠陥はどこにあったか。第一に、煩雑な登記制度があげられよう。仮登記provisional registrationと本登記complete registrationという二重登記制度を含んでいたため、多くの解決困難な煩雑さが生じてきた。たとえば、仮登記をした会社が、必ずしも本登記されるとはかぎらず、そのあいだに消滅するものもまた多かったのである。(p.21)

 ミルは、「有限責任」ということが、いわゆる利潤分割制の採用にとって不可欠な前提であるとし、無限責任のままでは、参加する労働者が

>top


◆松嶋 隆弘 2000 「民商法講座(2)株式会社法の基本構造 −株式と有限責任を中心に」,『民事法情報』166 民事法情報センター pp.56-62.

 株式会社はスケールメリットを生かした大規模事業経営を目的とする制度である。ただ、そのような大規模事業経営を行なうためには、必然的に巨額の資金を集める必要がある。問題は、どのようにしてそのような資金を調達するかである。(…)つまり、株式会社は、社会的には役に立っていない遊休資本を、その内部にとりこみ、生きたお金として社会に還元しているのである。この性質は銀行に極めて類似している。すなわち、銀行は、遊休資本を預金として受信して、それをまとまった資金として、そのようなお金を必要とする人に貸し付けることで(与信)、お金とお金の仲介をして、社会におけるお金の流れをスムーズにしている。(p.57)

 もしも、この「ツブ」に出資者の無限責任がくっついていたら、投資家はそのようなものを買ってくれるであろうか。答えは明らかに否である。そのような制度であれば、せっかく株式というしくみを採用した意味がなくなってしまう。では、逆に株式という「ツブ」に有限責任をくっつけていたらどうか。これは、要するに「事業が失敗し、会社が倒産した場合、出資したお金は返ってこない。反対に事業が成功し、会社が儲かったら、出資者は配当利益を得ることができる。」ということを意味する。これならば、投資家は、リスクを合理的に判断したうえで、右「ツブ」を買ってくれるかもしれない。(p.58)

 すなわち会社債権者から見ると、有限責任は会社倒産のリスクを会社債権者に転嫁する制度であると把握することが出来る。だからといって、遊休資本終結システムとしての株式会社の基本構造からして、いまさらこの有限責任の原則を放棄することはできない。そこで、商法は、株主の有限責任を維持しつつ、なおもこれより不利益を被るおそれのある会社債権者を別の制度で保護していくという方法をとった。(p.59)

 

>top


◆奥隅 栄喜 1967 「パートナーシップとコーパレーションとの間 −イギリスのジョイントストック・カンパニーの歴史的・学説的研究の一節」,『明大商学論叢』50(2・3・4号) pp.151-78.

 

 第一に「合名会社」(private copartnery)においては、どのような社員も会社の同意がないかぎり自分の持分を別人に譲渡すること、つまり新社員を入社させることが出来ない。各社員は適正な予告をしたうえで退社して、共同の資本についての自分の持分の払い戻しを会社に請求できる。「株式会社」(Joint Stock Company)においては、どのような社員も自分の持分の払い戻しを会社に請求することが出来ないが、各社員は会社の同意がなくても自分の持分を別人に譲渡し、それによって新社員を入社させることが出来ること、この場合株式資本の持ち株の価値は、常にそれが市場でもたらすであろう価格であって、この価格は、株主がこの会社の資本に対してもつ債権の金額よりも、なんらかの割合において大きいこともあるし、小さいこともある。(p.153)

 このようにパートナーシップが本来家族的な性格を持つことから、パートナーシップはそれを構成する人々から別個な存在ではない。構成メンバーは同一の家族を間柄として、各独立した人格を承認しながら、その全人格をもって結合する組織である。それゆえにこそパートナーシップの負債に対してパートナーの全員が無限の人的責任を負うのである。(p.160)

 パートナーシップはいわば長期の固定的投資のための結合企業者であって、商売に関わる共同の危険を負担するものであった。この場合、あるものは資本を提供し、他のものは労働を提供して形成された組合、すなわち一資本家と資本を持たない一職人との単体化によって生れたアソシエーションはコムメンダ(Commenda)と呼ばれて現代の合資会社(Partnership en Commendite)の前身である。合資会社では同じく共同の危険を負担するが、あるものは彼らの資本を危険にさらし、他のものは彼の労働を危険にさらした。この場合利潤の配分は次のようになされた。労働は海上輸送に関する場合には投資した資本の1/3に等しく測定され、地上での取引の場合には半分に等しく測定された。コムメンダにおける資本家はゼネラル・パートナーシップの場合の積極的協働の性格から睡眠資本家に転じ、商売に積極的に参加するというよりは資本の貸し手の地位に変化した。(p.162-3)

 この語はギリシャ語のCumとPanisから引き出されたもので「同じパンを食べた人々と共同に住みそして働いたこと」を意味した。(…)「カンパニー」の語は中世における商人の組合であるマーチャント・アドベンチャラー・カンパニー(fellowship of merchant(s) adventures or merchant(s) adventures company)に用いられており、この商人たちは1550年-1700年にregulated company(規制組合または規制会社と邦訳されている)というマーチャントのアソシエーションを形成し、彼の事業を管理した。(p.163)

 

>top


◆本間 輝雄 1960 「英国株式会社法の成立と株主有限責任 1−3」,『経済理論』57-59 和歌山大学経済学部

 なおカンパニー(Company)という用語は沿革的にみて、必ずしも「会社」なる概念と内容的に一致してはならない。それは15世紀以降、殊に前期スチュアート王朝下に再編成されたギルドをかく呼んでいたこと(Unwin, G., Industrial Organization in the Sixteenth and Seventeenth centuries (1904) pp103 ff and 126 ff)就中輸出商人のギルドと目されている規制組合(regulated comany)に属するもの−たとえば Eastland Company, Company of Merchant Adventure−がやはり Company と呼ばれていた事実からして明らかである。したがって、Companyはそれ自体、直接には会社企業を意味するものではない」(注4 p.12)

 …大法官府は、法人格なき社団といえども、信託という機構を利用し、自己のために特定の財産を信託的に所有することができることを示唆した。かくて共同目的を持った人々が相互に自己の財産を出し合い、それを特定の委託者に委託し、普通法上、そのものの所有に帰属せしめると共に、他方委託者をして、その財産を委託者の共通の目的のために、両者のあいだに締結された信託契約−すなわち団体の統一目的−にしたがって管理せしめ、もって普通法上の制約を回避する道が開けた。したがって人々は会社と同様の目的を達成するために、会社の構成員に相当する人々が、全員一致の契約にもとづき、各自一定の金銭、不動産又はその他の財貨を拠出しこれを各々が選んだ一群の受託者(業務執行者)に寄託し、その人々をして、かかる財貨を資本に各人共通の目的たる事業運営にあたらせ、その利益をその出資に応じて享受するという方式を採用した。この場合資本拠出者(株主に相当する)相互、及びこれらの者と受託者とのあいだにおける信託契約を定めたものがdeel of settlement(設立定款)であった。(p.19)

>top


◆本間 輝雄 1960 「英国株式会社法の成立と株主有限責任 2」,『経済理論』58 和歌山大学経済学部 pp.33-

 信託を利用した法人格なき団体(unincorporated bodies)として古くからイギリスに於いて認められているものに、法曹学院(Inns of Court)(1442年以前における法学教育を目的とする組織)及びロイド海上保険協会(17世紀末以来、主としてロンドン保険業者の集合所にてコーヒー店を経営したことにはじまる)ロンドン株式取引所その他競馬クラブなどがある。(Maitland, (1911). Trust and Corporation, Collected Paper volV pp.369-41: 372 et seq.)(p.39)

 …法人格なき会社が普通法上第三者を相手に訴訟を提起し、又は第三者がこの会社を相手取って訴訟を提起する場合には、株主(または社員)はすべて、或いは共同原告として、或いは、また共同被告として訴訟に加わらなければならない。若し訴状に組合員の中一人でも欠けるか、或いは一人でも不適格な氏名が記載されておれば、かかる訴訟は無効とされ、再度その訂正を強いられる結果となった。当時かかる会社の株主(又は社員)が2000人に達するということがそれほど特別な数ではないと報告されていることからすれば、これらの会社の社員に関する公的記録又はその他必要書類を準備すべき公的な方法が完備されない限り、かかる会社に対する訴訟は技術的にほとんど不可能に近く、会社債権者を不当に害する結果となった(p.35)

>top


◆本間 輝雄 1960 「英国株式会社法の成立と株主有限責任 3」,『経済理論』59 和歌山大学経済学部 pp.45-76.

 ところでこの報告書において、有限責任の純粋な形(pure measure)について、ほとんど論ぜられず、無限責任社員と有限責任社員の両者によって構成せられる混合形態を中心に討議されていることは注意すべきである。そこで以上の委員会その他を通して示された有限責任(主として合資会社の導入に関し、純粋に一般的有限責任を対象としたものはごく稀であった)に関する賛否の意見をまとめてみるに、賛成論者は、その理由として有限責任の制度を認めなければ、多額の資本が有給のままに放置されることを第一の理由においている。年齢、性別又は経験の多少等の理由から積極的に業務執行社員として会社の経営に参加できないか又は参加を欲しない資本家にとって、自己の財産の全てを危険にさらすことなく、生産的企業に自己の富の一部のみを安全に投資する道はたたれている。貧しいが有能な人々も富者の援助をうる道をたたれ、企業と資本とは絶縁されそのいずれもが悩まなければならない。次に第二の理由は国王の特許状や議会の法律により一部の社員には有限責任の保障が与えられていながら、その他の会社(主に登記会社)に対してこれを拒否することは、近代法の衡平の精神に反する。第三に有限責任制度が極端な投機をもたらすとの反対論者の意見に対しては、その事業を否定し、そのことは、これを認める外国の事例に徹しても明らかであるのみならず、イギリスにおいて認めないとすれば、国内資本は海外へと流出するであろう。したがって有限責任の制度は公衆に対し広く投資分野をひらき、ひいては国民的繁栄をもたらすものであると反論する。

 これに対し反対の意見は単純に賛成者のあげている一連の事実や傾向を否定するか、又は何等問題ないとの立場に立ち、かえって有限責任を認めると過度の投機行為とそれに付随して詐欺を導くばかりであると主張している。すなわち、フランスやアメリカなどにおいて合資会社が認められているのは、前者においては資本が浮遊であっても企業心が不活発であり、後者においては企業意欲は旺盛でも資本が少なく、さらにアイルランドにいたっては其の何れもが不足している。したがってこれらの国においては有限責任制度をとることによって資本の集中や企業の創設を奨励し企業の発達を促進する必要が生れるのであって現実に有限責任会社の存在も意義がある。しかしイギリスでは資本も豊富であり、企業心もすぐれて旺盛であるから、その必要はない。(p.68-9)

>top


◆井上 健一 2000 「19世紀後半の英国諸産業における株主有限責任制度の発展」『武蔵大学論集』47(3,4) pp.525-539.

 …飲食業や公共娯楽施設、墓地といった業種においては株主有限責任制度が他の業種に比べて比較的早期に導入された。こうした業種は新規の産業分野であり、パートナーシップや銀行による間接金融を可能にするような企業家の個人的な人的結びつきが少ないために、幅広い階層からの株式による資金調達の必要性があったからである。また、新規分野であるが故に、事業リスクも大きく、これを株主有限責任によって分散する必要があった。

 …特定産業分野で株主会社制度・株主有限責任が導入されたのには、いくつかの要因があった。@技術革新などによって旧来のパートナーシップ制や間接金融では調達しきれない資金需要の発生(海運・綿工業・1860年代に設立された銀行)、A事業リスクの分散(海運・1880年代に株主有限責任を導入した銀行)、B新規事業・新聞屋の立ち上げには新しいタイプの企業組織が適合(海運における不定期航海・綿工業・公共娯楽施設)、C創業者の引退に伴う投資資本の回収の必要(製鉄)といったものである。その一方で、会社制度ないしは株主有限責任に対するある種のアレルギーがなお実業界に存在していたことも事実である。…(p.538)

>top


◆新山 雄三 1991 「株式会社企業の『社会的実在性』と政治献金能力 −いわゆる八幡製鉄政治献金事件判決の分析と評価」,『岡山大学法学会雑誌』40(3・4) pp.123-156.

 株式会社企業の政治献金能力を否定する学説においては、それが自然人たる国民の参政権や政治的活動の自由を侵害するがゆえに、控除違反になるという点がその最も主要な理由付けとなっているように思われる。(p.125)

 いわゆる「社会的義務行為」であるような無償の寄付ないし献金が、果たして定款所定の目的の範囲内であるのか否か、権利能力の範囲内の行為と考えられているのか否か、会社の行為として有効と考えられているのか無効と考えられているかという点自体については、なんら明言されておらず必ずしも定かではない。(p.130-1)

 結論的に言えば、政治献金は、その他の寄付行為と明確に区別されなければならない。すなわち、近代法システムの下における株式会社企業の社会的実在性とは、まさに”私的な”営利追求を目的とした、”経済人 homo economics”としての限定された存在を意味する、規範概念に他ならなかったのである。それゆえに、政治献金を含む政治的活動は、そのような”経済人 homo economicus”としての株式会社企業の、営利社団法人としての社会的実在性を超えた行為であるとしか言いようがなく、それが定款所定の目的の範囲内の行為であるか否かを問題にするまでもなく、およそ法人たる会社の権利能力の性質上の制御による能力外行為として、政治献金を行なうことはできないものと考えられるべきである。(p.148 )

>top


◆長谷川 雄一 1971 「合資会社における有限責任社員の地位」 ,『愛知大学法経論集 法律編』65 pp.1-30

 …かりに出資限度額が対内的にも意味あるものと解し、損失分担は出資額限度にとどまるとする立場をとると、会社が長期にわたって赤字経営を続行し、出資勘定が損失分担の結果、消極となるべき場合において、会社に如何に損失が累積するも、有限責任社員の出資勘定は零以下には下らず、会社が黒字経営に転ずるや、有限責任社員の出資勘定もまた直ちに積極的に転ずることになるが、会社が社団として存在する以上、まず会社債権者の第一次的担保たるべき会社財産を充実さすべしとする立場からすれば、この結果は是認しがたいことになる。(p.4)

 何故に、代表を伴う対外的業務執行には適格性がなく、対内的業務執行には適格性が存しうるのであろうか。実質的理由がない。対外的責任が出資額限度にとどまることは、機関の適格性を、対外的・対内的に区分する理由となりえない。法の規定は一律に有限責任社員の業務遂行を禁ずるものであって、対内的業務ならば有限責任社員に機関適格性を認めてよいとする解釈上の根拠はない。機関的確性の判断の基準として、有限責任と対内的業務執行の組み合わせならよく、有限責任と対外的業務の組合わせなら不可であるとする理由は、何処に存するのであろうか。(p.7)

 共同事業として共通の基盤の上に法律構成がされておっても、他の種類の会社が、一様の社員地位によって構成されているのと異なって、そこでは経済的観点における差異が法律的にも意味あるものとして、二様の社員構成による。この観点から見れば、合資会社は合名会社と共に人的会社であり、社員の直接責任を肯定して物的会社とは異質な構成を示しながらも、なお人的会社にあって合資会社は、その有限責任社員の地位の特異性において、合名会社とはちがった独自の地歩を有するものとみることができる。(p.30)

 前述のように、入江幸男[「ボランティアの思想」内海 成治 水野 義之 入江 幸男 編著 1999 『ボランティア学を学ぶ人のために』 世界思想社]は、ボランティア行為の自発性を「自分で状況を認識し、自分で価値判断を行い、自分の責任で行為すること」と説明している。ここにおける自分の責任が単に道義的な責任にとどまるのか、自己の行為によって生じた法律的責任を意味するのかは不明である。しかし、法律学の常識は、刑事責任や損害賠償責任も含まれると考えることになる。ボランティア活動を自分の意思にもとづいておこなう者はその自己の決定や判断及び行動について自分で責任を負うことを理解した上で、ボランティア活動へのかかわりを決定すべきであることになる。(p.105)

>top


◆井上 健一 1999 「19世紀イギリス会社法における株主有限責任の導入」 ,『武蔵大学論集』46(3,4) pp.129-139.

 そうしたジョイント・ストック形態の採用された現実的な産業の例としては、2つの分野がある。一つは、鉄道・航路。運河・港湾などの運輸事業であり、もう一つは水道・ガス・住宅などの資本主義の都市化に伴う事業である。第一のタイプである運輸事業は資本主義発展の必須条件としての運輸システムを担うものであり、またそれは個人資本家もしくは少人数の資本家グループの供出資本でまかないきれる規模の事業ではなかった。こうした分野の事業は、それまでの時代にはなかった新興産業であり、個人企業という形ではほとんど発展してこなかったものであった。大量の資本を得るためにはジョイント・ストック組織によって多数の投資家を参加させる必要があり、1840年代のRailway Maniaと呼ばれる鉄道株ブームへとつながっていくのである。第二のタイプの産業は、資本主義の都市化に伴って社会的に受容される財の供給を担うものであるが、こうしたいわば公共財を供給する分野に関しては英国ではパブリックな企業が存在していなかった。その意味で私的企業がこうした財の供給を担う必要があったのであるが、運輸事業と同様にこうした分野に関しても個人投資家ないし少人数の投資家グループによって資本供給が足りるものではなかった。やはり大規模に事業を展開・維持していくために株式によって多数の投資家から資金を得る必要があったのである。(p.132)

>top

◆並木 和夫 1987 「株主有限責任の原則の検討−過少資本の問題を中心として」 ,『法学研究』60(12) pp.99-120.

 「(企業の)損失は、各共同経営者の事業関与の程度によって影響をうけ、企業者が一定金額を超えて損失を分担しない場合が存する。これ有限責任の法制度である。およそ人は債務を自己の全財産をもって弁済する責任(無限責任)を負うことを原則とし、共同企業者といえどもこの例に漏れない。しかし共同企業者中の一部のものと同じ程度に事業に関与することを欲せず、そうして事業関与の程度に差があるのにかかわらず、この差異を無視して一様に危険責任を負担せしめることは、これ法の一理念である正義に反することになる。ことに近代的大企業においてはその性質上、企業所有者といえでも自己の企業の各部分を詳に統括、監督するを得ず、止むなくして他人をして経営を分掌せしめなければならない。経営上必要である業務上の活動の分散は法的責任の分散を伴わざるをえない。これ分業の原理が法的責任の分散にいたらしめたものである。会社社員の有限責任はその法的責任において必ずしも機を一つにしないが、しかしその基礎は一様に企業経営の分散に存するということができる(田中[1942:23])」 (p.109-10)

 有限責任制度が企業倒産のリスクを株主と債権者とに等しく配分する制度であって、その機能が法によって有益なものとして承認されているとすると、株主が会社のリスクを増加させた場合には、その株主が有限責任の利権を受けられなくなるのは当然である。その一発現形態が、過小資本の場合における有限責任の否認である。(p.114)

 有限責任制度は、正にリスク配分の良き制度であるが、有限責任制度の大きな問題点は、個人営業または無限責任制度においては選択されないようなリスクが大きな事業を企業が選択し、債権者に不当な損害を被らせ、Social cost を増大させることである。有限責任の下においては、企業の資本の額が小さくなればなるほど、企業がリスキィーな事業に従事する度合いが大きくなる。したがって、有限責任の原則から生じる債権者の不利益から債権者を保護するには、企業が危険な事業を選択する可能性を減少させる必要があり、そのためには、企業に十分な資本を保有させること、すなわち、株主に責任財産として相応な金額を会社に対して拠出するようなインセンティヴを株主に与える制度を設けることである。(p.116)

 最低資本金は、少なくともその額だけは株主が出損しなければ、企業経営の失敗リスクの一部を債権者に移転する結果を伴う株主有限責任の利益を、株主が享受することができない、という金額であり、最低資本金制度を事前の救済制度とすれば、その事後の救済制度として、その事業に応じた相当な資本が拠出されていない過小資本の会社については、過小資本の原因を与え、かつ、現に過小資本のまま事業活動を継続することに参加した大株主に対して、有限責任の利用を剥奪して、未払い債務につき責任を負わせる制度を設けるとともに、裁判所としては、過小資本を会社形態の濫用の一場合として捉え、その他の要件と相俟って、株主の有限責任を否認する法理を発展させていくべきである。(pp.116-7)

>top


◆並木 和夫 1987 「株主有限責任の原則の検討 −過少資本の問題を中心として−」,『私法』49 pp.180-86.

 株式有限責任についての初期の問題点は、株式の水割であったが、これは、無額面株式の出現と定額面株式の発行によって、次第に意義を失い、それに代わって、今日では、過小資本が問題となり、株主の責任追及という事後救済から、責任の最低額を定めるという事前救済に重点が移って来た。(p.181)

 有限責任は、正にリスク配分のよき制度であるが、有限責任制度の大きな問題は、個人営業または無限責任制度においては選択されないようなリスクが大きな事業を、企業が選択し、債権者に不当な損害をこうむらせ、social costを増大させることである。有限責任の下においては、企業の資本の額が小さくなればなるほど、企業がリスキィーな事業に従事する度合いが大きくなる。(p.184)

>top


◆佐々 穆 1931 「<研究>瑞西債務法改正案に於ける有限責任會社(G. m. b. H.)に就て」 ,『國民經濟雜誌』51(1) 神戸大学 pp.61-82.

 瑞西に於ける基本出資義務に関する規定は大体に於いて独墺両方と同一である。即ち現物出資に関する規定の場合を除き定款に別段の定めなき限り、社員はその出資に対し其の額面に応じて金銭を以て払い込みを為す義務を負うのであって、此の義務は資本減少の場合を除き其の免除又は延期を許さない(第794條)

 瑞西債権法改正の専門委員会が新たに本会社制を採用するに際しても最も顧慮したる点は会社債権者保護の問題であったと言われて居る。瑞西が社員の責任に関して従来の他の立法例には見えざる新たなる原則を立案するに至ったものも全く此の債権者保護という法目的の達成に着眼したる結果に他ならぬものと解せられる。即ち第798條規定であって、其の第一項は有限責任会社の社員は会社の資本総額を限度として会社会社の債権者に対して直接にして且連帯の責任を負担すべき旨を明定して居る。是れ正に有限責任会社をして人的会社化せしめたものである。唯、人的会社のテイピカルなものとして合名会社員の責任と異なる点は会社の基本資本額を限度としたる点であって、其所に有限責任会社の色彩は尚ほ依然として之を見出し得るも、債権者に対する直接連帯の責任を負う点においては二者全く同一である。右の如く瑞西有限責任会社の社員は会社の基本資本額を限度としてのみ直接且連帯の関に任ずるのであるが、此の責任は会社の基本資本が全部払込まれ、払戻又は利息若しくは不当の利益配当に因り減少したものにあらざる場合には之を免るることを得る(p.79)

 

>top


◆本間 輝雄 1957 「英米会社法に於ける有限責任の発展 −特に米法を中心にして1」 ,『経済理論』39 和歌山大学経済学部 pp.93-

 しかしこの法律[1844年イギリス登記法]に於いても商人が最も強く要求していた株主の有限責任はついに認められなかった。それどころかこの法律は会社の債務に対し、株主は人的無限の責任を負う旨を明定している。即ち株主の責任は株主がその株式を譲渡し、その旨を登録した後3年間は消滅しないのである。(p.98)

 しかるに米合衆国における有限責任の発展は全く英国とは異なった過程をたどった。特にこのことは東北諸州に妥当する。東北諸州は革命後重大時期に工業形態による生産が相当程度まで発展をした州の中に含まれるがこれら殆んどの州の19世紀初頭における、有限責任付与に関する立法政策を眺めるに製造企業とその他の型の企業との間の取り扱いに根本的な差異を持っていた。少なくともそれらの州の一つ −ペンシルバニヤ州において立法者は、一方において銀行、通行税取り扱い門(turn-pikes)、有料橋梁(toll bridge)、運河等の事業には有限責任特許を与えながらも、他面製造を目的とする事業に対しては、おしなべて会社設立を認め法人たる資格を付与することを積極的に認めようとはしなかった。(p.106)

 営利会社はそれが法人格を有するにせよ、有しないにせよ、営利事業を経営するための資本(fund)を集める目的で、多くの自然人によって結合された所の機構(Mechanism)である。或いは国内運輸の弁を改良するために、或いは市町村に水を供給するために、或いは更には銀行や保険を運営するために資本を集中せしめるという要求は、独立戦争終結後直ちに痛感させられるに至った。そこで多くの州議会はこの需要に急速応ずる姿勢をとるに至った。このことはこの世紀の終りまで、少なくとも66の運河会社、72の通行税取立門会社、69の橋梁会社、33の水道会社、29の銀行、33の保険会社が設立の特許を与えられたことからしても明らかである。(p.109)

 …会社の債務につき社員が人的責任を負わさるべき性質のものではない。少なくとも債権者はかかる債務について株主個人に直接執行を為すべきものでないという事が暗示せられておいたのも明らかであった。また株主の人的責任の免除を意味する用語が、早いころのイギリス判例の中に見られることも事実であり、1784年迄に会社が勅許または国会の制定法(paliament)によって設立される場合、その法人付与たる設立行為(incorporation)には、当然株主の人的責任免除を内包していることを主張した法務長官もいたことも断言できる。しかし既述のように英国においてすら18世紀に人々がこの問題を真剣に考えていた証拠は非常に不十分であり合衆国において殆んどみあたらない。(p.111)

 Trunpike companyは土地所有者の土地を収用権(eminent domain)によって取りあげることができることを判示した。この際下級裁判所はもし会社が6ヶ月以内に財産を支払うことを怠った場合には差し押さえ執行令状(distress warrant)によって株主の人的財産を差し押さえてもよい旨の指図をなした。所が上訴裁判所は土地所有者が土地を取り上げられることによってうける損害を賠償する責任は会社のみが負うべきものとして上の命令を取り消した。この理由は会社の設立に関する法律規定からして、上述の責任は会社が単純に負担すべきで、株主がこれに代わって負担すべきものではないことが明らかであるからというにある。これから考えられることは、立法府がほかに特別の規定を設けない限り、負債を持つ能力を会社に与えたときはいつでも、その負債に対しては会社みずからが責任を負うべきであるという広い通則を裁判所が認めたわけである。(p.114)

 …有限責任の原則を新たに立法府が受け入れたからといって現実に新しい製造会社の設立特許の比率が直接たかめられたかというに必ずしもそうではなかった。…1830年以降に組織された若干の製造会社は大変その規模が小さな企業体であった。この事実は小資本の企業主が、以前に会社設立のための特許をうるに当って、必要な経費の出費を余儀なくせられたために遠慮したからであるという見方もできるが、それよりも、今や設立特許をうることが即ち有限責任を意味するということのほうを喜んでいると考えることが妥当であろう。人々は有限責任に関する新たな原則が株式の流動力を増加し、したがって大規模な企業の設立が助長せられるものと予期するだろう。ある程度そのような効果があったことを示す証拠はある。しかしマサチューセッツ州における大綿織物工場は本来会社設立の自由を認める立法政策にもとづくためのものというよりは、簡易な装置によって、強力な紡織機械と、協力な動力を結びつけることができた新たな生産方式によって齎されたものとみるべきであろう。…しかしながらない古い会社の中で、より大きな若干の会社は、新法の規定の採用後、資本増加(aditional capital)の権限を議会によって与えられた。かくて、有限責任は大企業の創設と本質的な要素とするものではないけれども、このような営利企業を設立するにつき実質的な刺戟となった。(p.94)

 …アメリカに於いては各州によってその経済的基盤の異なるに従って圧巻の差異はあるが、1850年以降生産企業に関する限り株主の有限責任の原則は、一般に認められさらに今日においては憲法、成文法または原始定款においてこれに反する明示の規定なき限り普通法上のみならず、衡平法上の原則として一般に承認せられるところとなった。更にある州においては絶対的に有限責任の原則を変更することはできない旨憲法や会社法によって規定したところもある。しかるに信用を最も重要視する銀行に対しては、イギリスの場合と同様、この原則が承認せられるに至ったのはずっと後であった。(p.104)

 有限責任の発展史をながめて感ずることは、この制度が一方に於て投資家の危険責任を軽減してその投資欲を助長せしめる機能をもつが、他面会社債権者にとっては、その利益を犠牲にせられるという不安を伴う。従ってこの両者を調和を如何にするか、乃至はそのいづれに重点をおくかによって諸種の立法政策が展開され、歴史的発展の背景をつくりあげてきたということである。従って有限責任の問題は結極、反面からみれば会社債権者の保護の問題と切り離して、人的会社から物的乃至は資本団体へと変貌せしめる機能をもっており、有限責任制度の発展史は正にこのことを物語っていると見るべきであろう。(p.110)

>top


◆吉田 直 1996 「株主有限責任原則の根拠に関する学説の系譜」,『青山法学論集』37(3・4) pp.229-43.

 有限責任の原則は、種々の問題を抱えることを承知で、立法者が法政策的に導入を決断したものであるが、その根拠に関する学説は、対立していると見るよりは、各説相補って株主有限責任を一般原則たらしめているといえるのではないか。だが、株主有限責任のメリットをその不法行為の被害者保護を調和させるという本稿の目的からみると、社会的有用説にも魅力を感じるが、市民法の枠内で自己責任を軸に論理を組み立てるべきであろう。危険の分散・資本の集中・「支配力」の喪失に根拠を求め、市民法の自己責任をベースに有限責任を特権と理解し、支配あるところに責任ありの原則の再確認を求め、有限責任という特権には制限的解釈が適当であるとの方向付けが妥当であろう。(p.239-40)

>top


◆田中 誠二 1987 「企業の社会的役割と企業についての有限責任の根拠」,『民商法雑誌』96(5) pp.595-616.

 このように有限責任法の成立は、世論がこれを支持するように変わってきたことによるが、この世論の基礎には、@19世紀中葉の産業革命の進展には、資本を集めやすいことを必要とし、このためには、株主の有限責任を認めることが必要であったこと、A英国で株主の有限責任を認めないと、国内資本は有限責任を認める国外へ流出し英国産業の衰退をきたす恐れがあったこと、B当時の経済思想の中心が自由放任主義であり、会社の設立および経営についての関係者の自由を十分に認めることが適当であると考えられたことの三つの理由が存在した。

 株主の有限責任の限界として企業の社会的役割の重視から立法上および解釈上考慮すべきものとして第一には、会社に対する労働債権(被用者の給料債権)又は不法行為債権に対し、会社が弁済することができない場合にその会社の実質的支配株主が有限責任を負うとすることである。(…)株主の有限責任の限界として企業の社会的役割重視の立場から立法上又は解釈上考慮すべき第二のものとして、親会社の子会社に対する責任がある。親会社は子会社の支配的株主であるが、親会社が子会社の債権に対して株主の有限責任を主張することは、相当多くの場合において企業の社会的役割を果たさないものとしてこれを認めるべきではない。ことに子会社の労働債権者および不法行為債権者に対しては、これらの債権者は、いわゆる非任意的債権者(involunatary creditors)であるから、株主の有限責任の対抗を認めずその全額の支払いを認めるべきである。(pp.612-3)

>top


◆久保 欣哉 1972 「株主有限責任原則の限界 −責任制限の競争阻止・独占助長機能をかえりみて」,『青山法学論集』14(1) pp.25-52.

 すなわち株主有限責任原則は、競争阻止・独占助長という現実機能を有する。ここに資本の集中を要請することに利害を感ずる立場 −とりわけ産業革命以後の産業資本家の立場と、資本の集中が自由・平等の理念を基礎とする近代市民社会の理念的構図に対する脅威となることを感ずる立場との対立は、当然予見される。株主有限責任原則は、かかる背景で生成展開した。私は、自由の確保を法秩序の基本理念とするところでは、責任制限は例外であり、特権である、と考える。それ故、この原則の射程距離には、おのづから限界がある、と考える。(p.25)

 …特定経済活動の社会的有用性に、責任制限承認の根拠を求める見解が見られる。そしてたしかにこれが現実に勝利を占める見解であった。しかしこの見解は、われわれのフィロソフィーの下では、適切ではないように思われる。けだし社会的有用性なる責任制限承認の根拠は、自由の確保を基本理念とする法秩序とは調和しがたいからである。こうである。もし社会的有用性の故を持って責任制限を容認するならば、競争阻止・独占助長という結果もまた社会的有用性の故に是認されることとなる。社会的有用性の故に、人間の尊厳、自由、平等は打ち破られることとなる。われわれの見解の下では、責任制限は例外であり、特権である以上、その射程距離の限界は厳格に守られなければならない。しかるに社会的有用性なる根拠はきわめてあいまいであって、責任制限の再現のない拡大→一般化の口実となるであろう。今日支配資本の論理はしばしば、企業の社会的有用性を藉口として、本来水kら負担すべき危険を他人に転嫁する。支配すれど責任なしの現象というべきであろう。これは責任制度の本来のあり方を著しく逸脱したものといわなければならない。(p.31-2)

 …今日の株主有限責任原則は、外在的な負担不能の過大な危険の点についても、内発的機器の支配可能性の欠乏という点についても、深刻な反省を迫られる、という認識に到達する。第一のこの原則の承認の根拠は、今日ほとんど説得力を喪失してしまったのであろう。また第二の根拠は、大衆無機能株主に対してますます妥当sる受けれども、支配株主には妥当しない。(p.432)

>top


◆宮田 美智也 1973 「株主の有限責任制と擬制資本の論理」,『金沢大学法文学部論集 経済学編』19, 55-86.

 このように、企業損失の支払い責任者として、独立の「人格」たる企業体が強く前面に出てくることのない合資会社にたいし、株式会社では、その資本の「所有主体」たる「企業自体」が究極的な「責任主体」とみなされるのである。「会社所有」の資本(「自己資本」)は同時に企業債務の「担保資本」ということになるわけである。したがって、有限責任制ということの持つ責任転嫁制は、株式会社においては、「企業自体」にたいする責任「転嫁」という擬制関係的意味を持つことになる。このように考えくると、全株主の有限責任制の一面たる「企業自体」範疇の成立とは、一方では「所有主体」・「自己資本」範疇の確立ということであり、他方責任の引き受けという問題視点からは、株主が肩代わりしてもらうことになる、企業債務にたいする「担保資本」の範疇化ともいえるのである。こうして合資会社的有限責任出資者が、結合資本の強い人的性格のゆえに、無限責任的出資者への擬制関係によ(・・・)のないいわば素面の人的責任転嫁しか行えないのにたいし、株式会社の有限責任出資とは、株主による「会社自体」への責任「転嫁」関係的な出資にほかならないのである。擬制関係的責任の限定・「転嫁」という出資関係の展開が株式会社という企業形態を生み出すことになったのである。(p.63)

 機能関係からさえ責任分担形態を説くのではなく、責任分担・その引き受け関係を根拠に機能分化が説明された合資会社の段階から、全社員の有限責任という、責任分担関係に質的差異のない株式会社において、それではなぜ、機能分化が進行し、経営権を逃れる株主とそうでない株主とが生まれるのか。(p.76)

 株式会社の資本リスク「転嫁」制の意味を出資・回収にかかわらせてみると、出資とは「会社資本」へのリスク「転嫁」として、これは上に展開してきたものである。それにたいし、株式の売却・手放しという出資資本の回収行為のもつ意味はその買い手に対する「会社資本」リスクの現実具体的な転嫁・肩代わり代位ということ以外のものではありえないことがわかる。資本は無限責任的にリスクを負担するのがほんらいであるとするならば、有限責任制とはいわば無責任体制ということになるわけであるが、そのことは、出資証としての株式の売却・譲渡→資本の回収の連続的反復行為が株式の流通運動として展開されるところにおいて、すぐれて資本リスク「転嫁」制的な有限責任は現実機能的となるのである。いいかえると、株主の有限責任制の持つ責任「転嫁」制としての経済的意義は株式の流通体系論の導入規定においてはじめて現実機能性をえるのである。(pp.77-8)

 株式会社は有限責任制であるから資本集中が容易なのである、という場合、それはうえのような擬制資本関係に基いて機能運動する責任「転嫁」体系の論理を踏まえたうえでそういうのでなければならない。そのような理解によってはじめて、株主の有限責任制の経済的内容たることを主張することができるものといえる。(pp.78-9)

 われわれによれば、「客観化された会社機関と会社財産とに責任を負わしめる」という責任「転嫁」ということにこそ有限責任制の本質が認められた。そして、資本結合規模の拡大のもとにおける少数者による無限責任負担制という形態よりも、全社員の有限責任制が「一層確実かつ有意義である」のは、最大限利潤獲得を完遂しようとする資本にとって、その運動過程に伴う損失リスクを可及的最大限に回避するために、それを「他者」に「転嫁」することは、いわばその本性に適うことであるからである。(p.80)

 つまり、大株主は「会社所有」ということを媒介としてはじめて「会社資本」を支配することができるのであった。このような所有構造の二重化のもとに株主の機能分化が進行するのであるが、その過程は、中小株主から見れば形式的には会社の「自己資本」を形成するみづからの出資資本部分が、「会社自体」にとっては「意思」決定過程から疎外されたものとして事実上の他人資本(「他人資本」)に転嫁する過程に他ならない。これはいわば、「自己資本」の「他人資本」化過程として、株式会社の支配集中の側面を表すものである。株式会社における有限責任制の持つ資本リスクの「転嫁」制とはこのように、二重の転化過程を内包するものであることが明記されなければならない。(p.85)

>top


◆中川 和彦 1978 「<論説>ペルー国の有限責任個人企業」,『成城法学』2 pp.1-31

 ペルー固有のものとしてあげるべき第一点は、有限責任個人企業の形態をとりうる企業の事業規模につき、上限が設けられ、小規模の企業にこの形態を独占させようとしていることであり、この点、他の立法例あるいは立法論に上限がなく、むしろ、アルゼンチンの立法論には加減があるのと対照的である。さらに、第二点は立法の経過である。ペルーが現在推進しつつある経済政策の一環としての経済主体の複雑化の路線に沿って、民間小企業が設定され、その選択すべき企業形態のひとつとして、有限責任個人企業が予定され、その後で立法化が行われたという事情である。(p.30)

>top


◆西脇 敏男 1990 「有限責任制度の論拠 −『商法・有限会社法改正試案』を契機として」 ,『法学新報』96(3・4) 中央大学法学会 pp.243〜269.

 そもそも株式会社という組織形態が必要とされたのは、個人資本の域を越えて資本を集中し結合しなければならないからである。そしてそうした個別資本の集中・結合を容易ならしめるために、株主の有限責任制度が生まれたものと把えるべきである。大規模な資本集中の要請が構成員でありながら経営への参画を必然的に拒むのである。所有と経営の分離ということは、資本集中要請の結果にすぎず、資本集中への要請こそが有限責任を生み出す基源とすべきである。(p.246)

 元来、会社形態なるものが考え出されたのは、個人資本のみによる企業形態では個別資本相互間の競争に打ち勝って生きられないところに起因する。そこで、よりいっそう大規模な資本を集中させるために、資本結合の最初のもっとも素朴な企業形態が「合名会社」である。ところが、競争は、各個人資本がひとつの会社資本として結合した後も、会社内の支配権を目指して競争は存続する。しかも出資者の数が増加すればますます激しくなる。そして、ついに会社の内部において支配する資本家と支配される資本家とに分離される。この分離された会社形態が「合資会社」である。ここにおいて、会社において支配権を失った資本家に資本を継続して出資させるとともに、いっそう多額の資本を集めるために、出資額を限度としてしか責任を負わないとする技術が考え出されたのである。それが有限責任制度の生まれである。ところが、「合資会社」というのは、多数の無む機能資本家から有限責任という条件によって大資本を集めるが、他方、機能資本家は、会社における支配権の獲得の代償として自らは無限責任を負わなければならない会社形態である。しかし、企業の巨大化とともにその活動範囲が拡大されてくると、資本集中化と支配権に対応して機能資本家に無限責任を認めることが、会社債権者にとってもなんら担保的意味を成さなくなるとともに、機能資本家にとっても個人的無限責任を負わされること払えられなくなってきた。そこで、機能資本化が無限責任を負わなくても「支配権」を保持しながら、かつ、会社に資本が集中されるような会社形態としての「株式会社」が生まれてくる。ここに、はじめて、「全社員の有限責任」の会社形態が生まれてくる(pp.250-1)

 「実質的所有者」とされている株主は、株主総会という機関を通じて支配参加ができるのみで、実質的所有者として「支配力」を行使し得るのは発行済み株式の過半数を有している株主のみであることが明らかになった。その他の株主が会社の実質的所有者として、会社に対して有する権利というのは、なきに等しく、ほとんどが「法形式的所有者」にすぎないとされる「会社法人」がその権利を有していることが明らかになった。ここに、株主有限責任が一般的に容認される論拠がある。株主が実質的に会社の所有者とされていながら、実はなんら所有者として権利が有していないということになれば、”所有による支配なきところに責任なし”ということにせねばならないからである。しかし、例外として「支配株主」には、実質的所有者としての権利が確保されているから、その者には個人企業者の場合と同様に会社債権に対して、個人的責任を負わせられるべきである。(pp.265-6)

>top


◆西脇 敏男 1976 「一人会社と有限責任」,『中央学院大学論叢 商経関係』11 pp.279-308.

 ところが、「合資会社形態」というのは、多数の無機能な中小資本家から有限責任という条件によって大資本を集めるが、他方、機能資本家は、会社における支配権獲得の代償として自らは無限責任を負わねばならない会社形態である。しかし、企業における巨大な資本の要請と経営に対しては、機能資本家による個人的な無限責任は第三者にとって意味をなさなくなってくるとともに、機能資本家にとっても好ましいことではなくなってくる。そこで、機能資本家が無限責任を負わなくても「支配権」保持しえ、かつ、会社に資本が集中されうるような会社形態、「株式会社形態」へと転化してくる。ここにはじめて、「全社員の有限責任」の会社形態が発生するのである。(p.302)

>top


◆丸山 秀平 1981 「株主有限責任制度についての考察 −法人性との関連において-1-」,『法学新報』87(11) 中央大学法学会 pp.51-68.

 企業家にとってまず重要なのは株式制度を利用することによる大衆資本の調達であり、法人組織がその企業にあてがわれるべきか否かは二次的な意味しか有していなかったということなのである。さらに、以上の歴史上の展開及びその評価を一般化してみると、株式会社における株式制度は多量資本の調達及びそれに伴う投資し本会集の要請に応ずるために創設せられた本来的な制度として理解せられ、法人性の問題は、大衆から醵出された財産設備を基礎として経営者が企業運営をなす段階にいたって始めて、人的信用の希薄化、取引上の債務に対する責任財産の確保、訴訟技術上の便宜差に相応ずるための制度として理解される。(p.57)

 先ず明らかにされるのは、初期の段階にあっては近代的意味における有限責任制の意義はあまり意識されておらず、株式会社制度にとって重要なものとされていたのは資本調達の直接的制度としての株式制度及び取引活動の円滑化の制度としての法人制度であったといえる。しかし資金調達にともなう危険分散の保障的制度としての有限責任制度の利点が次第に意識されるようになるにつれ、それは株式制度とならんで、株式会社にとって必要不可欠なものとされるようになった。ただこの両制度を十分に機能させるためには法人化に際しての特許主義から準則主義への移行が要請されなければならなかった。そこで取引活動の円滑化のために機能する法人性の利益を会社が自由に享受することができる設立段階における準則主義へ移行することによって、右の両制度は近代株式会社における基本的な要素たるべきものとされたのである。ただ、そこで注意しなければならないのは、特許主義の段階にある両制度の実効性のさいである。すなわちその段階にあっては信託の手続きに訴えることによって、法人化されていない会社にあっても株式制度はある程度機能しえたのに対し、有限責任制度は対内的にしか機能し得なかったのである。(p.66)

>top


◆三枝 一雄 1984 「株主有限責任 −その正当性と限界」 ,『法律論叢』57(3) 明治大学法律研究所 pp.1-50.

 株主数が増大したために、株主が自ら企業経営にタッチすることが事実上不可能となり、これを他人である経営専門家にゆだねざるを得なくなったとしても、それは、企業規模の巨大化・企業経営の複雑専門家に対する企業所有の技術的対応であって、企業経営者の選任・解任権を留保するかぎり、企業の所有と経営の分離ということからだけでは、株主有限責任を合理的に説明することは困難である。(p.18)

 株主の有限責任制は、資本集中機構としての株式会社において、過大な企業危険・損失と株主のこれに対する支配力・負担能力との矛盾を、株主の企業危険・損失に対する支配力・危険負担喪失に着目し、これを契機として、株主の責任を限定することによって解決し、資本集中の阻害要因を除去し、これを促進するために認められたものである。ここに、これを正当化する根拠がある。(p.33)

 株主有限責任制は、自己責任の原則に立つ自由主義経済体制下にあっては、本来あくまで例外であり、特権であるということも留意されるべきである。自由主義経済下にあって、自由な経済活動を行うものは、その活動に由来する危険を覚悟しなければならない。経済的な機会を利用し、その成果を享受しようとするものは、当然に危険の負担を覚悟しなければならない。経済的な機会を利用し、その成果を享受しようとする者は、当然の危険の負担を覚悟しなければならない。(中略)しかし、それにもかかわらず、株主有限責任制は、第一に、資本集中という株式会社の基本的経済的要請のために、第二に、過大な企業危険・損失の存在と社員のこれに対する支配力・負担能力の喪失・希薄化を契機に、第三に、資本金制、会社の計算関係の分離・明確化を前提として、承認されたものである。(p.38)

>top

◆三枝 一雄 1984 「株主有限責任の論理」,『法律時報』56(11) 日本評論社 pp.17-22.

 このように、株式譲渡の自由は、企業における資本の固定化・長期化と投資家における資本の流動化の矛盾を解決するためのものであるが、株主の責任が有限であることによって、その譲渡の自由がいっそう促進されるものであることは言うまでもない、その意味において、またその限りにおいてではあれ、ここにおいてすでに株主有限責任は要請されている。(p.11)

 株主有限責任制は、資本集中機構としての株式会社において、過大な企業危険・損失と株主のこれに対する支配力・負担能力の矛盾を、株主の企業危険・損失に対する支配力・負担能力の喪失、希薄化の事実にかんがみ、近代私法の大原則である自己責任の原則の例外として、その責任を有限化することによって解決し、もって資本集中の阻害要因を除去し、これを促進するために認められたものである。株主有限責任を正当化する根拠はここにある。株主有限責任は、私法的衡平の観点から企業活動から生ずる損失・危険を社員・債権者間で分担せしめるというような抽象的・一般条項的なものではない。(pp.18-9)

 さらに、商法は、会社の決済手続き等計算関係につき多数の強制規定を設け、計算の分離・明確化を図るとともに、会社の営業成績と財政状態を公開する手段を定め、一般投資家および会社債権者の利益保護に努めている。このように、株式会社の場合、会社債権者保護のため、資本金制および会社の計算関係の分離・明確化が制度として確立されていること、そしてこれが現実に会社によって遵守されていることが、株主有限責任承認のための必須の前提条件である。(p.20)

>top



◆前嶋 京子 1986 「米国における株主の責任」 ,『下関市立大学論集』77 30(2) pp.119-36.

 また、責任を負うべき株主としては、現実に経営に参加していない場合に大株主には責任を課すべきであるとの見解がある一方で、具体的事例においては、株式の保有の割合にはあまり関係なく、実際に会社を支配し、経営に参加していたものが考えられており、株式を有していないものに対しても、現実に会社を支配していた場合には責任が課されもしている。さらに、株主が責任を追及される債権の内容に関しては、契約上の債権であって、会社債権者が契約前に会社の状況を調査すること等もでき、当該債権を取得するか否かを決定しえた様な債権(任意的債権)については、債権者は契約上のリスクをも負担すべきであるとして、株主に対する責任追及は認めがたいものとされる。(pp.131-2)

>top


◆武田 信照 1998 『株式会社像の転回』 梓出版社 ISBN4-87262-413-0


序章 本書の課題
第1章 アダム・スミスの株式会社論 −重商主義批判と株式会社否定論
第2章 J.S.ミルの株式会社論(上) −株式会社間の転換
第3章 J.S.ミルの株式会社論(下) −アソシエーションと株式会社
第4章 K・マルクスの株式会社論 −資本所有と機能の完全な分離

 スミスは外国貿易会社を分析して、実質的に合名会社に近い小規模のハドソン湾会社や初期の東インド会社は成功を収めたが、南海会社やロイヤル・アフリカ会社や後の東インド会社のような大貿易会社になればなるほどその経営は非効率的になっているという。この非効率の原因として彼があげるのは、株主の支配を離れて会社の運営を担う取締役=経営者の放漫経営なのであるが、この経営者の無責任性が彼ら「自身の貨幣」ではなく「他の人々の貨幣」を管理していることに起因する。大組織である株式会社ではこのような所有者=株主と実務者=経営者の分化が生じざるを得ないし、この分化は他人の財産を管理する経営者の無責任性と非効率な経営を将来するという認識こそ、彼[アダム・スミス]の株式会社論を特徴付ける核心部分だった。自分の財産ではなく、他人の財産の管理運営には熱意と責任とがかけがちであるということは、株式会社論の場合に限らない彼の動かしがたい信念であったように思われる。ここでの指摘と同趣旨のことが、大土地所有制についてもいわれている。「もし地主の大部分のものが自分自身の土地全部を経営したいという気にさせられようものなら、いなかは…怠惰で放らつな土地管理人(balliffs)で充満するようになるであろうし、しかもかれらのでたらめな管理は、まもなく耕作を堕落させ、土地の年々の生産物を減少させ、ついにはかれらの主人たちの収入ばかりでなく、全社会の収入の最重要部分をも縮減させてしまうであろう」(smith, p.784/(4) 253頁)(p.48)

 ミルは分業にもとづく協業が労働効率を飛躍的に高めることを明らかにした上で、大規模生産制度によってこの種の協業が実現できること、この生産制度の下ではじめて高度な分業の展開、高価な機械を必要とする工程の採用、資本家たち自身の労働の節約が可能になり、経済効率を高める利益が生まれることを指摘している。株式会社形態で大規模生産が行われるとすれば、これらの利益は要因のあるなしにかかわらず、すべての株式会社で実現可能なはずである。かりに株式経営に放漫経営という短所が伴うとしても、このような大規模生産の利益はそれ自体がその短所に対抗する重要な要因といってよい。(p.67)

 ミルは先ず、フランス法を引き合いに出しながら有限責任会社を二種類に分類する。ひとつは全構成員の責任が有限である株式会社(societe anonyme)であり、いま一つは一部分の構成員の責任だけが有限である合資会社(commandite)である。この二種類の会社のうち、彼は最初に株式会社を取り上げ、その設立の自由を主張している。ミルは会社の構成員が出資額以上の責任を負わないことを互いに申し合わせ、また取り引き相手にもそれを知らせるとした場合、法律がこの行為に反対する理由はないはずだという。会社構成員は、責任の制限によって利益と保護を受ける。問題は会社と取引し、出資された額以上の債権を会社に対して持つこともある第三者である。この人々について、彼は次のように言う。「けれども、その会社と取引をするよう強制されている人は、1人もいない。さらにそれに無制限の信用を与えるよう強制されている人は、なおさらいない。このような会社が取引をする相手方となる種類の人々は、一般に完全に自分で自分を守ることのできる人であって、したがって虚偽の宣伝がなされるのでなく、またその人々がなにを信用すべきかを最初から知っている限り、その人々が自分たちの利益を自分たちで守る以上に、法律がその人々の利益を守らなければならない理由は、何もないように思われる」(CW(3). p.898/(5)210頁)

 レッセ・フェール原則はこの認識を前提として、有限責任導入に批判的な議論への反論=立法上の教義として持ち出されている。有限責任の法定を要請する機動力が、この原則の内部に求められているわけではないのである。このようにみれば、ミルの有限責任法論は次のような二重の構造=二重の根拠を持っているといってよい。基底に経済的必然性の実現という視点からのいわば経済的根拠があり、その上層に法としての制定の合理性という視点からのいわば立法的根拠がある。このようなミルの議論は、経済と法との関係一般を考察する上で示唆的な視点を提供するものといってよい。たしかにここでは有限責任の法定という目的から後者が前面に出てはいるが、それに幻惑されてあたかもミルが、もっぱらレッセ・フェール原則を実現するために有限責任法の制定を主張したかのように誤解してはならない。(pp.92-3)

 株式会社の危険性についての懸念は、営業状態の完全な公開さえあればまったく根拠のないものであって、株式会社設立の自由がこれまで「非常に不当に警戒」されていたのは多くの国の法律のおかしてきた「誤謬」であることが明言されている。株式会社設立の自由に積極的に賛成し、これ を擁護する姿勢は明らかである。これに対して、彼は「証言」では合資会社には「無条件に賛成」だが、株式会社には態度を「決めかねている」という。(p.93)

 …ミルが共同組合の普及の主たる障害になっていると考えるのは、一つは組合員の間での詐欺を防止することが困難なこと、二つは彼ら自身で作った規則が大審院での手続きを経ずには施行できなことの二点だということである。互いに顔見知りでない、数多くのメンバーの集まりである協同組合では、「彼らの論争を解決し詐欺を防止する何らかの簡便な手段なしには」、それを「永く維持することはまず困難です」(CW(5), p.104)というのが彼の強い主張であった。これらの問題の解決には、協同組合が法人格を取得し、これによって組合名義による不動産の所有や役員の名による訴訟が可能とならなければならない。したがってまた法人格の容易な取得をはじめとするこれらの措置が、法的に保障されなければならない。こうして彼は、協同組合の普及の障害を除去するための法改正について、「現在の社会の状態と現在の労働階級の感情の状態の下で、立法府がなしうる、それ以上に有用なことはまずないと考えます」(CW(5),p.408)と証言したのであった。

 ミルは出資者の有限化は、協同組合にとって「きわめて重要」だという。ただそれは有限責任によって、資本をもつ富める人々の労働階級のための出資が促進されるという意味で重要なのである。すでに前章で指摘したことだが、有限責任は多くの貴人や紳士が地方公共事業や労働者のための住宅建設事業などへ出資するのを促進する効果を持つことが強調されていた。その論理と同じ論理がここでは労働階級をメンバーとする協同組合への出資に関してのべられている。(p.135)

>top

◆福井 守 1978 「<論説>一人社会と有限責任の個人企業」,『駒澤大學法學部研究紀要』36 pp.65-105

 一人会社における一人社員は、これを経済的に見れば当該企業の所有者であり、したがって会社企業および会社の全財産は一人社員の支配に服することになる。しかし、この一人社員の個人企業が会社という法人のマスクをかむることにより、法律上は一人社員とは別位の権利主体として人格化され、会社財産は個人財産と分別される。その結果、会社債務は会社自身の債務となり、これに対して、一人社員の個人財産はなんら影響を受ける危険がないので、資本会社の形態を一人会社として利用することになり、きわめて容易に経済上有限責任体制の個人企業を創造しうるのである。(p.66-7)

 一人会社においては社員および資本の集合は問題とならず、一人会社に対して法人法人格を認める最大の意味は単独の株主に物的有限責任を認めること、つまり責任財産の独立を認めることにあるといってよいからである。(…)このように考えるとき、一人会社は社団性が欠如しているとか、所有と経営の分離が認められない企業であるということの理由のみをもって、単独社員の有限責任を否定し去ることは、個人企業者が自己の企業を有限責任制の下におきたいとする現代の社会的要求を無視するものであって疑問である。(p.70)

 思うに、企業規模の拡大が要請され、その反面、企業経営それ自体が複雑化、専門家の様相を呈する傾向のある今日において、個人企業者が自己の企業を有限責任制の下におきたいとの欲求を抱くことは、まさに現代における正当な経済的要求であり、この要求を無視或いは否定することは、個人企業の健全な発達を阻害する虞がある。(p.84)

>top

◆吉原 和志 1996 「株主有限責任の原則 (特集 会社法の論点再考)」『月刊法学教室』194 pp.14-18

 株主有限責任原則の下では、会社の事業が失敗して、会社の財産だけでは会社の債務を弁済し得ない場合には、会社の事業者が損失を負担するが、会社の事業が成功して、大きな収益を得られた場合には、会社債権者に対して約定の元利金を支払った後に残る利益はすべて株主が享受する。したがって、社会全体としてみれば損失が利益を上回るような危険の高い事業であっても、株主としてみれば有利な事業であるとして、投資がなされるおそれもあるのである。(p.15)

 大雑把にまとめるならば、株主有限責任原則を批判する者は、この原則は、会社の事業活動に伴う危険を株主から会社債権者に不当に転嫁することを可能にし、危険性の高い事業への過大投資をもたらしかねないと主張し、株主有限責任制度を支持する者は、この原則を否定すると、株式への投資を阻害し、株式市場の機能を損なうことになり、また株主や債権者が負担する関し費用が増大すると主張する。(p.18)

>top

◆中村 雄司 1997 「経営者支配の正当性について」 ,『上武大学経営情報学部紀要』17 pp.19-42.

 主君がふさわしい身分のものとして承認するかぎりにおいて付与される特殊法人の段階では、近代的法人企業とはいえない。従って特許主義から準則主義へ移行し、形式的なほうによる支配が貫徹することによってはじめて近代と言える。すなわち法の外部から正当性を付与する存在は認められないとされるのである。近代において法システムの外部に正当性を有する権力は存在しないのである。(p.25)

 「近代」株式会社の成立は資本出資者が企業システムの外部者となる(環境に属する)契機となったのであり、社会の人々は誰でも法人会社を法の手続きに従うことによって設立できる株式会社の自由(準則主義)を獲得できる。そのことはすなわち「法による支配」の構造に服することにより自由(権利)を獲得でき、その範囲で責任を負う近代の原理そのものである。これを近代市民法として「営業の自由」(職業選択の自由)を否定し独占を擁護するとの批判は、技術革新に基づく大量生産型経済の意味と、反独占法という「法による自由」の可能性を軽視している。従って近代社会の株式会社における「近代」はその準則主義(株式会社の設立自由)の形成にあるといえる。(p.26)

 本来経営者支配の正統性はその任免が「法的手続き」にしたがっているかいないかの問題であり、経営者の権力の発動の仕方(経営)の問題ではないのである。本来経営者支配の「正当性」は法的正当性であって、基本権として承認される所有権の正当性、従って株主権の根拠づけと等価なものである。経営者支配企業の経営者は法的手続きを通じて選任されているのであれば、その正当性に何の嫌疑も生じないのである。問題は、経営者支配企業においては株主の付託(意向)に応えない場合に、彼を解任することができないということである。すなわち倫理的には問題はなくとも経営能力がない経営者だけでなく、経営を私物化する経営者をも解任することができないということである。(p.32)

>top

◆藤田 友敬 1999 「商法 株主の有限責任と債権者保護」,『月刊法学教室』223 有斐閣 pp.21-26.

 この疑問は、従来の教科書的な説明が債権者の側から見て引当財産が限られていることのみを強調していることに向けられたものである。しかし引き当て財産が限られているという点だけなら、実は個人債務者であっても同じなのである。有限責任の本当の問題点は別のところにある。むしろ問題の核心は、有限責任が、会社のとるべき行動に関して株主と債権者のあいだに深刻な利害対立をもたらすこと、その結果個人債務者や社員が無限責任を負う会社ならばとることのない行動がとられるインセンティヴを構造的に生み出してしまうことにある。(p.21)

 より感覚的な表現で言えば、ことの本質は次の通りである。株主はプロジェクトから利益があがった場合それを独占できる(債権者には固定額を返せばよい)。他方、上の例のように会社財産が十分でなく失敗すれば倒産するような場合には、プロジェクト失敗のリスクは債権者とシェアすることになる。有限責任のもとでは、株主にとっては成功のうまみを独占し失敗の痛みを他人にも共有させることが可能になる。したがって有限責任制度のもとでは、過度なリスクのある事業を選択するインセンティブが株主に構造的に生じることになる。(p.22)

 配当規制の観点からは、たとえば現実の拠出財産が一億円であるのに資本金が二億円となったとしても、配当がしにくくなるだけ債権者が害されるわけではない。むしろ、資本充実のための規制は、資本金の額を見れば過去に最低それだけの財産が出資されたということが分かることを保証するためにあるのであろう。しかし、そのそも資本金(法定資本)の額から生じるこのような信頼をどれだけ守る必要があるか、その強制のための費用を上回るだけの社会的な便益が存在するかどうかについては議論が分かれうる(このような規制のない国もある)。(p.25)


>top

◆福井 喬 1958 「ビジネストラストにおける有限責任の問題」 ,『島根大学論集 社会科学』4 pp.22-31.

 合衆国の経済が19世紀初頭における勃興期から南北戦争を契機とする19世紀中期以降の工業の急激な発展へ、更に第一次大戦後の飛躍的発展へと移行する過程において、会社形態の企業はその構造的変革を遂げる。即ち、当初の組合的、共同企業的性格から次第に企業の所有と経営の明確な分離へと構造を変革し、特許主義から準則主義へと移行する。そのことはまた株主の地位の変遷とも相関連しておるのであって、株主権の保護は積極的な段階から次第に会社の自由奔放な活動を重んじ、株主の権利は株主の自己防衛に任せる傾向に、更には所有と経営の分離に伴う株主の投資家に応ずる一般投資家保護の傾向に向かう。実際において会社と異ならず、受託者は会社における取締役の機能を果し、受益者また投資家たる株主と差異ないビジネストラストが、会社の構造的変革、株主保護に対する法理念の変化と無関係にその圏外に依然としてとどまることが不可能であったことはいうまでもない。(p.26)

 信託は英国における封建的負担、死手法といって古い拘束を回避する手段として考えられたものであり、衡平裁判所を通じて紳士的協定から次第にひとつの法的権利として確立せられたものである。Baconのいう如く”信託はFearとFraudを良心と良心裁判所を助産婦として生まれた子供”であり、長い歴史を通じて”次第に強く信頼すべきものとなった”のである。(pp.29-30)

 歴史的に信託はユースとして13世紀より英国に発達するが、そもそもユースが用いられた原因の一つは、相続人がないばあい相続財産が永久に領主に帰属するという当時の封建的負担を免れるために、ユースの譲受人を複数とし、これに土地を含有(joint tenanccy)せしめ、生残者原理によって半永久的に譲受人が土地を所有しうる如くするにあった。信託が永久継続性を有する法人に変わるものとして英法の中に特異な地位を占めていることは周知のことである。(p.30)

>top


◆鈴木 芳徳 1974 『信用制度と株式会社』 新評社


第一章 資本集中と株式会社
第二章 信用制度と株式会社
第三章 利子つき資本と株式会社
第四章 創業利得の二重性
第五章 社会的資本としての株式会社
第六章 個別資本と株式会社
第七章 株式会社論の史的展開
第八章 『金融資本論』における株式会社と銀行
第九章 英国初期の有限責任
第十章 英国初期鉄道会社の創業と金融

 有限責任制度の根底にあるものは、資本の動化による譲渡可能な等額株券の成立という事態であり、その法制上の外化表現として有限責任制度はとらえられねばならない。すなわち、株式会社制度は、資本集中のための方法であり、これを基礎として、資本の商品化、譲渡可能株券の成立、譲渡の社会的規模での広範化がこれにつらなり、株式擬制資本の成立と株式証券市場の成立に至る。こうした経済的諸条件の法律的な成果・結実として有限責任制度は成立する。(p.216)

 第一に、1662年の条例をもって有限責任の成立を説くスコットの見解は誤りである。かれは、この条例が<会社の損失についての株主の責任>に関するものと理解しているが、これは誤った解釈である。第二に、1662年の条例は、直接には破産法に係わるものであるが、それは結果的には、<株主の債務は法人の債務ではない>という意味での、つまり特殊な意味での有限責任を規定したものとなっている。しかしこれは、<法人の債務は株主の債務ではない>という、今日ふつうにいう有限責任の問題とは区別されねばならない。第三に、今日一般にいう有限責任の法制的一般化は、17世紀当時にあってはまだみることはできないが、事実関係における漸次的発展は見逃すことができない。(p.235)

>top

◆Michlethwait, John., & Wooldridge, Adrian. (2003). The Company. Modern Library. 
= 2006 高尾 義明・日置 弘一郎 監修, 鈴木 泰雄 訳 『株式会社』 ランダムハウス講談社

 

 多くの自由主義者が、相変わらず有限責任を忌み嫌っていた。アダム・スミスは、所有者が自らの経営にあたるような事業体の方が株式会社よりも純粋な経済単位で、株式会社は、有限責任という「助成」がなければまともに競争できない代物だと頑強に主張し続けていた。穀物法の廃止に力を貸した産業資本家の中にも、株式会社に懐疑的なものがいた。企業家は会社の内部留保と一族の貯蓄だけで、必要な事業資金を実際に調達してきたではないか。有限責任は、事業リスクを納入業者や顧客や融資者に転嫁するだけではないか(のちに近代経済学者も同様に批判した)。そして、有限責任に引き寄せられて、ろくでもない人間が事業に参入してこないだろうか。こうした理由から、既存の製造業者−殆どはロンドンから遠く離れた場所で事業を行っていた−の大半は、この改革に反対した。ウォルター・バジェットによれば、貧しいものが最大の恩恵を受けると考えた富裕層も同様に反対した。
 これとは逆の意見もあった。有限責任のような事業手段を持つことを実業家に許さないこと自体が反自由主義的だと論じる改革論者もいた。ロバート・ロウは、「投資家を一定金額以上の損失から免責する内容の契約を結びたい人がいるならば、当然の道義に照らしてそれを阻むものは何もない」と「商事法に関する王立委員会」の場で述べている。ジョン・ステュアート・ミルとリチャード・コブデンは有限責任は貧しい人々が事業を起こす一助になるだろうと主張した。ミルは、専門経営者が所有経営者に匹敵する熱意を保てるかどうかを依然として心配していたが、大規模な事業に関しては、政府管理以外には株式会社しか選択肢はないという結論に達した。キリスト教社会主義者も、貧しいものに富をもたらし、階級間の対立を緩和する方策として、有限責任会社をこぞって支持した。
 政府は政府で、目の前の問題として、外国に事業が流出することを懸念していた。1850年代の初めには、4,000ポンドもの費用を支払ってフランスで設立されるイギリス系の株式合資会社が、約20社あった。商務員副総裁のエドワード・プレイデル−ブーヴェリーは、1855年に、「有限責任への需要は非常に大きく、パリやアメリカで設立される会社がたくさんある」と述べている。これを論拠に、この年、彼は有限責任法を強行可決させた。この法律により、煩雑な資本要件さえ満たせば、1844年法の定義による株式会社に有限責任の特権が与えられることになった。この法案がどうやって議会をうまく通過できたのか、全容は明らかになっていないが、一説には、パーマストン政権がクリミア戦争の戦費拡大以外にも功績を挙げたがっていたことを利用したといわれている。(p.81-82)

>top

◆Robert, A., Monks G., & Minow Nell. (1995). Corporate Governance. Bkackwell Publishers.
= 1999 株式会社ビジネスブレイン 太田昭和 澤村 淑郎 米畑 博文 訳 『コーポレート・ガバナンス』 生産性出版

 有限責任の発想は、商人が海洋貿易船に資産を提供していた紀元前2000年にまでさかのぼることができる。しかしその概念が明文化されたのは15世紀、イギリスの裁判所においてである。企業はその所有者と従業員からは切り離された存在であり、企業が負う義務は、企業を構成する集団内の個人は問わず、集団が負う義務もそれを構成する個人は負わないというのが、その内容である。従って、企業が破産し、債権回収のため債権者に訴えられても、企業を構成する個人に責任はないということになる。1886年に合衆国最高裁判所で争われたサンタ・クララ郡対サザン・パシフィック鉄道の裁判では、この概念をさらに改善して、企業を一人格とみなすと判断した。
 大勢の人間が資金を出し合って作るパートナーシップの場合、参加者は自分の出資金のみならず、会社全体としての資産も失う危険がある。レストランを経営するパートナーシップたちは、債権者や銀行員の未払い債務、店の階段から落ちて怪我をした顧客による告訴、仲間のパートナーの職権乱用などについて、当人があずかり知らない、管理者権限がない場合でも、パートナーは賠償責任を負わねばならない。(略)
 賠償責任が有限であるということは、権限も有限なのである。パートナーであれば、当事者が特別に契約で定めていない限り、全員が会社経営に同等の権利を有している。権限が大きいからこそ、パートナーは大きな責任を受け入れているのであり、株主のリスクは低いからこそ、権限は小さくても受け入れられているのである。(pp.30-31)

>top


◆伊藤 紀彦 1994,1996 「ニュー・ヨーク州における株主の有限責任制の変遷1・2」,『中京法学』29(1) 89-111, 31(1) 1-26.

 (略)コモン・ローでは、制定法の明示の規定を欠く場合には、株主は有限責任を負うという原則が南北戦争時までには確立されていたという見解が有力である。しかし、実際には、殆どの州において、支払い不能の会社の株主はその保有する株主の価格以上の責任{例えば二重責任}を負う旨を制定法ないし州憲法により定めるのが普通であり、1900年になってさえ、真の株主有限責任が確立しているとは言えない旨をHorwitzは述べている。(p.21)

>top


◆鈴木 芳徳 1972 「英国初期の有限責任」,『商経論叢』8(2) 神奈川大学経済学会, 35-63.

 (・・・)英国における株式会社の発生史に関する議論には、二つの異なった系譜がある。第一は、十七世紀の東印度会社等の特許独占的性格の濃い、前期的商業資本とその発展形態を内実とするものを中心にすえての議論であり、第二は、十八世紀以降の法人格なき会社に端を発し、漸次その権益を獲得してゆき、ついには特許会社における法人と実質上かわらぬだけの権益を得て、最後には、1844年法以降の一連の会社法を獲得する、いわば近代的産業資本をその内実とするものに焦点を合わせての議論である。前者と後者とは、特許主義と準則主義、独占と自由などの対立点を持ちながらも、他面では、いずれにあっても、ひとしく株式会社と一般に呼ばれる企業形態をとり、資本の集中が行われていることにかわりはない。また、前者において示された法制上の手続きや制度が、後者に大きく影響したこともまたたしかである。(p.38)

 1662年の条例は、今日、われわれがいうところの有限責任、すなわち<会社が負う債務についての株主の>責任を問題にしているのではない。(…)株主個人が破産状態に陥り、株主個人に対する債権者が株主の持分たる会社財産からの支払いを求めることができるかどうかという点である。(略)ガワーによる次のような整理は、ほぼ適確な結論といってよい。「法人の個々の構成員が法人の債務に責任を負わないということは、早くも15世紀に、非営利法人のケースで承認された。そして若干の疑念を残しつつも17世紀の終わりに商事会社のケースについて承認された。しかし、そのことが認められていたとはいえ、はじめのころは、法人は、会社の債務にたいする構成員の責任を免除する方法としてよりは、会社の財産が構成員の個々の債務支払いのために差し押さえられる危険を避けるといういみで評価されたようである」(p.47-9)

>top


◆今西 宏次 2004 「株主第一位の規範と株主有限責任制 −コーポレート・ガバナンスと株式会社財務に関する研究との関連で−」『大阪経大論集』55(3) 大阪経済大学, 67-90.

 株式会社の歴史的起源は、中世イギリスの宗教法人や都市自治団体(ecclesiastical and municipal corporetions)、さらにはローマ時代にさかのぼることができるといわれている。そして、商取引を行う株式会社は、歴史的に見ればイギリスにおいて古くから存在していたが、1710年代に有名な南海泡沫会社事件が起こったこともあり、同国ではあまり発展しなかった。株式会社発展の中心は、株式会社王国と呼ばれるアメリカにおいて起こったのである。しかし、商取引を行うさいに株式会社形態を用いることは、アメリカにおいても19世紀においては一般的なことではなかった。20世紀初めまでに、株式会社は資金を調達し、商取引を行う手段として確立されてきたのである。(p.72)

 ニューヨーク州の場合、製造業以外の会社の会社設立許可書はまったく異なっている。ニューヨーク銀行を含む初期の銀行会社設立許可書や運河、橋梁、水道、有料道路のような公的な役割を担う会社の会社設立許可書は有限責任制を規定していたが、その後の保険会社や銀行の設立許可書は、典型的には二重責任[double liability(当該株主が所有している株式の額面と等しい額の会社債務を負うという責任)]を規定していたのである。(p.75)

 (略)アメリカにおいては、株主有限責任は株式会社の本質的な特性であるとは理解されていなかった。株主有限責任を容認することは、決して当たり前のことではなかった。株主有限責任制度は、工業化の原初期頃に出現し、企業実体概念の必然的な帰結としてではなく、経済的・政治的圧力に対する政治的な対応として生じたものであるといえるのである。(p.79)

 まず第一に、株式会社は、株主有限責任により数多くの小口投資家から多額の資本を集めることが可能になる点である。そして、広範囲に及ぶ公衆の参加を伴う巨大な株式会社システムにとって、株主有限責任制は、おそらく必要不可欠な要素であると考えられる。(略)第二には、株主有限責任制は、過度に危険な企業行動から株主を保護するものであるため、株主の立場から見てもコストを節約するものであるといえる点である。つまり、有限責任により、株主は企業経営を監視するコストを低下させることができるのである。(p.81)

 では、このような株主有限責任制を用いるという政策は、株主に利益を与えるという目的のために採用されたのであろうか。筆者は、アメリカにおいて株式会社が多く用いられ、株主有限責任制が採用されたのは、株式会社制度を利用して社会全体の富を大きくし、社会全体を豊かにすることを目的としていたのではないかと考えている。(略)したがって、今日では株主第一意図して株主のために利益を上げることが至上命題のように主張している論者も多いが、株主のための利益は手段であって、目的ではないのである。そして株主有限責任制についても、この目的を追求するための手段であると考えられるのである。(p.86-87)

 株主有限責任制には有益な点も多い。これは、株主有限責任制によりビジネスへの投資が促進され、それによって社会全体も恩恵を受けるからである。したがって、株主有限責任制は維持したほうがいいように思われる。では、株主第一位の規範についてはどうであろうか。筆者は株主有限責任制を維持し続けていくためには、会社は株主第一位の規範に代えて利害関係者志向的な規範に従って経営されていく必要があると考えている。すでに述べたように、株主有限責任制は政治的・政策的に採用することにより、株式会社制度全体のバランスが取れるように思われるのである。(p.90)

>top


◆後藤 泰二 1982 「有限責任と企業形態」,『経済学研究』47(5・6) 九州大学経済学会, 151-163.

 見られるように、ここでは、(・・・・)のために多額の追加出資を求められた自己資本が、必ずしも全員その他無限責任を果たしえたわけではなかったために、未払額は結局、経営を担当する幹部社員の負担するところとなり、つまり引き続き有限責任を果たしえたであろう社員に転化されることとなり、全出資者無限責任を原則とする自己資本の結合のなかに、無限責任を果たさない事実上の無機能化資本を生ぜしめるに至った過程が鮮明に描かれている。(p.158)

>top


◆佐賀 卓雄 1973 「イギリスにおける有限責任法の成立 −「泡沫条例」以後の株式会社の発展」 ,『経営研究』127 大阪市立大学経営学会 106-138.

 ところで、会社形態を取る資本家たちが特許状の請願を求めた主要な理由は、十八世紀前半までは訴訟能力、法人格の認可であって、この頃にはまだ有限責任の利点には言及されていない。それに対する言及は、1768年のウォムリー会社(Warmley Comapnys、1746年非法人会社として創業)の特許状請願にはじめて見られ、それ以後有限責任が特許状請願の主要な動機になった、といわれる。これは法人格が個別資本としては独立した価値の運動体であらねばならないことから、売買契約、貸し付け契約といった日常的業務の過程で必要とされるのにたいして、無限責任の弊害は会社の清算時や財政的困難時にはじめて感じられるものであり、資本運動にとっては前者のほうがより直接的な障害と感じられることの発現に他ならない。19世紀における会社法の形成過程もこの順序を踏んでいるのは同様の根拠にもとづいている。(p.110)

 泡沫条例を契機に、会社の活動が特許状で明記された目的と権限に限定されるという教義(ultra vires)が明確に打ち立てられた。泡沫条例が取り除こうとした諸悪の一つは、特許状を認可された以外の目的に利用することであった。(p.111 注釈)

 泡沫条例の核心をなす規定は「株式譲渡の制限」であり、結局会社の合法制をめぐる問題の判断基準がこの規定におかれるようになるのは必然であった。しかも、政府当局の「株式譲渡の制限」に関する態度は非常に厳しいものであり、法人会社の場合でさえ、特許状や議会の認可令の中に株式譲渡制限の規定を挿入させることになった。たとえば、1749年のFree British Fisheryの法人認可では五年経過後まで株式譲渡は禁止され、その後の法令で期間が延長されたため、結局12年間株式譲渡が禁止されることになる。(p.117 注釈)

 同法のもとで登記された会社の社員は原則的には無限責任を負った。但し、同法において会社とその構成員とが別個のものとみなされた(法人格=「会社」それ自体の確立)ため、「会社の破産は必ずしも株主の破産を意味しない」とされたのである・従って、社員が無限責任を負うといっても、それは会社自身の責任の次位に置かれていた。言い換えれば、債権者が会社から支払いえないということが明らかになったときにのみ、社員は債権者に対して私的に責任をもたなければならなかったのである。
 このような規定は確かに「全社員有限責任制」にたいする一つの前進であったといえるだろう。なぜなら、「全社員有限責任制」とは、債権・債務契約の前提たる担保問題に資格をすえるかぎり、社員財産に代えて会社自身の財産が明確に規定されることを絶対的な必要条件とする。(p.125)

 50,51年各委員会の基調をなしているものは社会改良的論調であり、投資家の側からの発想である。それに対して、55年議会での議論は投資機会の欠如といったそれまで支配的であった論調はまったくみられず、「反独占=契約の一般的自由」が前面に押し出されている。この賛成論の基調の変化こそ投資家層の利害から機能資本家か、資本家(=無機能資本家)の利害はともに「全社員有限責任制」によって保障されるものであって、こうした法律の審議過程におけるラジカルな動きは、一つには「合資会社」形態が法的承認を与えられていないという特殊イギリス的事情に起因している。(p.136)

 会社構成員の財産と「会社」自体のそれとの区別を前提として社員の有限責任が問題となる。いうまでもなく、この基底を貫くものは蓄積過程における資本規模の増大=社会的資金の集中の必要性であるが、具体的には再建形態の出資形態への転換(=返済義務からの解放)という方向において、そのかぎりでは投資層の利害の後退の方向においてすすめられる。ここにこそ有限責任制の持つ特殊に現代的意義が見出されるべきであろう。
 イギリスにおける有限責任法の成立過程は特殊イギリス的事情に大きく影響を受けていると思われる。全社員の有限責任制を要請する蓄積過程での根拠は一般に認められるけれど、「暴挙」の形で成立せしめられるような理由は当然ながらそこにはない。沿うした特殊イギリス的事情といわれるものの中でこの問題に決定的重要性をもっ[つ]と思われるのは合資会社形態の不在(但し、法律上の)という事情であると思われる。それによって、有限責任論争における「責任」問題の混乱が生じているからである。(p.138)

>top


◆関 俊彦 1995 「株主有限責任制度の未来像」 ,『旬刊商事法務』1402, 22-29.

 個人株主を法人株主よりも優遇する方向はどうであろうか。単純な例としては、個人株主は有限責任の利用を享受することができるが、法人株主は無限責任とする方法である。そうすると法人株主と個人株主との間で株主平等の原則を否定する立法をすることになる。現行法のもとでも、法人株主は株式の相互保有によって出資を相殺した形で相互的な協調行動が可能であるが、個人株主にはそのような手段が認められていない。すでに個人株主と法人株主との実質的差異は存在する。有限責任は個人株主の権利であるという19世紀への回帰である。(p.27)

>top

◆UP:070204/REV:0208,0212,0215,0216,0217,0223,0309,0329,0402,0531