うまなり[Home]/ 損害賠償責任 (liability)
Liability
★不法行為 違法な加害行為により他人に損害を与えたものは、他人(被害者)に対し損害賠償をしなければならないとする制度。違法な加害行為による被害者は加害者に対し損害賠償を請求できる(乾 徳本[1977:3]) 。 古代ローマ法→結果責任主義。ゲルマン固有法→原因主義。家族員の違法な行為に対する家長に対する結果責任。中世ビザンチン法→古代ローマ法から変容し、過失の概念を確立する。 ★故意・過失 一般には、加害者の心理状態を意味するものとされ、故意は、一定の結果の発生すべきことを知りながら、あえてある行為をするという心理状態であり、過失は、結果発生を知るべきでありながら不注意のために知らないである行為をするという心理状態である。乾 平井 編 [1973,1977,1981:82] ★過失(faute, negligence, breach of duty)責任 故意もしくは過失によって他人に損害を与えたときのみ加害者が損害賠償責任を負う。補会社のほうから加害者の過失を立証しなければならない。被害者側に過失があると、損害賠償額が減らされる恐れがある。注意義務だけでは避けることができない問題に対処できない。→損益分配の判断基準としてふさわしいか?
★過失の推定(res ipsa loquitur) 生じた結果から行為者に過失があったものと推定すること。 ★過失の挙証責任 過失を推断しうる事実の証明。アメリカ不法行為法における事実推量則(res ipsa loquitur) 「事態それ自身が証明している」 ある事実から他の事実の損害を推量するときに適用される。加害行為の立証から、加害者の過失がいちおう推定されるとし、反証のないかぎり加害者は責任を逃れないとする事例(事実上の転換)。民法店における責任無能力者監督義務者(民714条1項但書)、使用者(民715条1項但書)、工作物占有者(民717条1項但書および大判三・六・七民集七巻四四三頁)、動物占有者(民718条但書)は、それぞれ相当の注意をつくしたことを立証しないかぎり、責任を逃れえない。また、自動車損害賠償保障法も運行供用者が一定の反証を挙げない限り責任を負う(乾 徳本[1977:13]) 。
★無過失責任 企業活動から不可避的に生じる事故の被害者を広く救済する目的で課される。 @原因主義 損害を惹起することはそれ自体において損害賠償責任の原因となりうるという考え。原因を備えただけで損害を負担させることの是非について議論がある。原因責任なるものは近世において取引を特に脅かすもの(besondere Gefahrdung des Verkehrs)に対してその責任を加重するために認められたものである。(我妻[1969:200]) A公平主義 損害は公平に従って関係者に分散させるべきであるという主張。過失や損害の惹起を公平の観点から生産者の責任の原因とする。危険責任主義 危険物を管理し、利用するものが事業から生じる損害に対してつねに責任を負う。 B報償責任(利益主義) 自己利益を追求するものはそれにともなう机辺を負担しなければならないという考え。利益を得るものはこれと結合する不利益を受けなければならないという主張にもとづく。事業によって利益を得るものが事業から生じる損害に対してつねに責任を負う。「利益のあるところに損失を帰せしむべし」「利益を享ける者は危険を負う」(cujus commodum, cujus periculum)。利益の帰するところに損害もまた帰属させるのが衡平であるという考え方(乾 徳本[1977:12]) 。 他人を使用して事業を営む者はこれによって自己の活動領域を拡張して多くの利益を収めるのであり、仮に現実に利益を収めなかったにしても、その可能性はあったのであるから、被用者による加害につき使用者に責任を課するのが公平だというものである。こうした見解は報償責任説と呼ばれている。(乾 徳本[1977:22]) 。 C危険主義(危殆主義) 自己利益のために他人の利益を危険状態に陥れたものは、その危険状態から生ずる損害に対して賠償の責任を負わねばならないという考え。勢力範囲説 危険の範囲を危険の所属に限定し、各人は自己の勢力範囲又は干渉範囲内に属する危険に対し責任を負うべきであるという考え。多数の関係者のうちで他人の利益を脅かす決定的影響を及ぼしている人に損害を帰する考え方。危険物を管理する者は危険物から生ずる損害に付いて無条件に賠償責任を負担すべきだという考え方(乾 徳本[1977:12])。
ところで、無過失責任思想の発展は、近代における大企業の発達と密接に関連する。大企業は、膨大な設備を基礎として無限に多様な人間活動によって経営されているが、そこには人間の予想を超える各種の危険を包蔵している。これをすべて過失の有無ということで割り切り過失なければ責任なしとするのでは、甚だ不合理である。他方において、大企業は、その規模の増大に比例して、利潤率を増加し、膨大な利潤を獲得する。このことは、大企業をして過失の有無を問わず結果責任を負担せしむることの観念的及び物質的基礎となる。けだし、利潤だけを得て責任を負わないということは衡平の観念に反するし、また利潤を得ていることは責任の負担を実質的に可能または容易にするからである。この無過失責任を統一的に説明せんとして、危険な施設はこれより生ずる損害について絶対的な責任を負うべしとする危険責任説、或いは、多大の利益が帰するところに損失をも帰せしむべしとする報償責任説などの学説が現れてきたのであるが、いずれにしても、無過失責任論は企業責任ということを中心にしていると見てよい。(服部[1963:140])
★法人格否定の法理(disregarding of corporate fiction) 1969年2月27日。最高裁判決(民集23巻2号511) 「およそ法人格の付与は社会的に存在する団体についてその価値を評価してなされる立法政策によるものであって、これを権利主体として表現せしめるに値すると認めるときに、法的技術に基いて行われるものなのである。」したがって、それに値しないと認められる具体的な事情がある場合には、特定の法律関係において、法人という方形式の背後にある実態を捉えて、法人格がないのと同じ取り扱いをすることが認められなければならない、と述べています。(乾 平井 編 [1973,1977,1981:306-7])
★免責借款 契約の当事者が、契約上の義務の不履行や履行の遅滞についての債権者の責任を免除したり軽減したりする条項。過失約款、不知約款、賠償額制限約款、特定損害免責約款。 ★ 求償権
民法第44条(法人の不法行為能力等)
民法709条 不法行為に関する一般的規定「故意又は過失に因りて他人の権利を侵害したる者は、之に因りて生じたる損害を賠償する責任に任ず」 民法714条 監督責任 民法715条 使用者責任 ある事業のために他人を使用する者は、被用者がその事業の執行について第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、使用者が被用者の選任及びその事業の監督について相当の注意をしたとき、又は相当の注意をしても損害が生ずべきであったときは、この限りでない。
民法716条 注文者責任 民法717条 土地の工作物責任→無過失責任
民法718条 動物占有者責任 民法719条 共同不法行為の責任
鉱業法109条 (賠償義務) 鉱業の稼業にともなう一定の事業災害(鉱害)について、鉱業権者に無過失損害賠償責任を負わせることを定め、さらに通常の不法行為の場合と違って、必要に応じて金銭による損害賠償のほか原状回復方法による損害賠償も裁判で命じることが出来ると定める。乾 平井 編 [1973,1977,1981:37-] ★責任保険
★同一自己同一賠償額の原則 被害者救済 ★代位責任(vicarious liability) 国家賠償法第一条 公務員の不法行為につき国又は地方公共団体の無過失責任を認める。 ★表見代理 相手方の善意の取引を保護するために、代理権がないものが代理人と称して法律行為をした場合につき、一定の要件のもとで本人に責任を負わせる制度。
民法709条「故意又ハ過失ニヨリテ他人ノ権利ヲ侵害シタル者ハ之ニ因リテ生シタル損害ヲ賠償スル責に任ス」
◆岡松参太郎 (1916→1953) 『無過失損害賠償責任論』 有斐閣
序 我妻榮 すなわち、損害賠償制度の目的は、@損害の予防(心理的効用)と、A損害の填補(経済的効用)とであるが、法律は、あくまでも前者を中心とすべきである。けだし、予防的効果のない場合(以下に注意しても避け得ない損害)について、一律に賠償責任を認めることは、社会経済の発展を阻害し、社会制度として不当だからである。(p.3)
◆中山康雄 (1957) 「刑事責任と比較してみた不法行為責任論」 所収 川島武宜 編著『損害賠償責任法の研究 上 我妻栄先生還暦記念』 有斐閣 p.1-24 すべて人は本項でのべた注意義務をおうているが故に、そのなした不法行為から生じた損害につき責任を認められる。不法行為の責任を負うためには原則として、注意義務を怠ることが必要と競られるが(過失責任の原則)、しかし非常に高度の注意義務を負うために、注意義務を怠らなかったということを主張しても、違法行為から生じた損害につき賠償の責をまぬがれることを許されぬとされる場合(無過失責任の原則)もありうる。注意義務は、行為の責任を弁護するにたる知能をそなえた人についてのみ、これを期待しうるのだから、右の知能(注意能力)をそなえぬものは不法行為につき責任能力を認められr内。もっとも責任能力があるとされる以上は、幼少のものでも、心神耗弱者でも、聾者、唖者、盲者でもその注意義務の程度は大人の一般普通人のそれと同一であると介すべきは、だれしも異論のないことである。(p.24)
◆石本雅男 (1957) 「過失責任主義と無過失責任主義の統一」 所収 川島武宜 編著『損害賠償責任法の研究 上 我妻栄先生還暦記念』 有斐閣 p.65-107 無過失責任を純理論的に継承しようとする前者の見解によれば、かような近代的大企業のおけるような無過失による加害は、近代市民法の立法者のよく予測しなかったところであるから、法は当然のその規律について欠陥を有している。だから条理によってこれを補うべきであるとするのである。即ち、故意または過失による加害であれば、いかに些細な加害であっても、すべて賠償の責任が帰属するのであるが、たとえ無過失の加害であっても、大企業に伴う予見しがたい災害は、その加害の程度が大きいことが通例であるのであるから、かような加害にあたっては、常に加害に対して、過失の有無にかかわらず賠償責任をみとめてしかるべきであるとするのが今日の社会における一般的規範意識乃至法感情であり、また条理であるとする根本的立場に立つ。(…)そしてまた、その流れを汲む泳法の古い原理「人は自己の危険において行動する」(A man acts at his peril)という観念である。そしてかような無過失主義を理論的に体系づけたもっとも顕著なものはいわゆる危険責任論である。危険責任論によれば、危険を内蔵するものの管理者は、それによってもたらされた損害については、それが事故の過失にもとづくか否かに論なく、つねに賠償の責任を負うべきであるというのである。(p.72-3) 例えば馬を御することが拙劣であったために他人に損害を与えた場合に、かような加害の結果については通常人の弁護力をもってしては予見することができない場合であっても、乗馬術について多少の技術的知識があればその結果の発生の可能性を予見することができる限り、従来もそこに過失有りと認定されるのである。即ち、その場合には、過失の有無を判断すべき標準人は、馬を御することについての多少の専門的ないしは技術的知識を有するものが標準人として想定されるからである。人々はもちろん馬を御する技術を習得する義務はない。だが馬を御する以上はその技術的知識を心得るべきは当然であり通例であって、その場合想定される標準人は「馬を御する一般人」であって、通常一般のものよりみれば多少技術的知識を備えたものとしての一般的標準人である。だから一般人からみれば予測し得ない損害の惹起も、この技術的知識をもった者の標準人からみれば予見可能である限りは過失ありとされるのである。(p.76) そこで市民法本来の原理の貫徹のためには、即ち各人の利益の公平な擁護のためには、過失のない被害者は、単にたまたま加害者が過失によって損害を与えた場合のみならず、無過失によって損害を与えた相手にも、換言すれば、加害者に過失があったか否かに関係なく、つねに損害が与えられた以上必ずその賠償請求が認められばならないということになるのである。かくてこそ、被害者もまた加害者と同等に権利が保護されるのであって、それは被害者の権利の保護が、ひとえに他者である加害者の主観的容態すなわち故意過失の有無によって左右されるべきではないからである。これが企業にともなう無過失の加害の増大するに至った現段階の社会において、いまや無過失責任の原理を承認しなければならぬ理論的根拠である。(p.83-4)
◆野田良之 (1957) 「フランス民法におけるFauteの概念」 所収 川島武宜 編著『損害賠償責任法の研究 上 我妻栄先生還暦記念』 有斐閣 p.111-146107 リトレの辞書によればfauteという語はラテン語のfallereと言う動詞から転化したものであり、ラテン語のfallereは落とす・誤る・ある事を果たさぬなどの意味があり、最も広く解すれば、《あった(又はあるべき)ものが現に欠けている》という様な意味である。フランス語のfauteも最も広い意味では《manquement contre…》(・・・が欠けていること)と定義されている。(p.118) この《帰責性》についてはかれは《民事責任論》の第一篇、第二章で詳細に論じているが、要約すると次のようなものである。《fauteは一個の義務の違反を前提しているのみならず、又行為者がこれを遵守しうる可能性を前提にしている。fauteとは行為者が義務に従いえたにも拘わらず、この義務を破ったということである。》だからfauteと言う概念は人間の自由ということを要請として含んでおり、この自由という要素を入れて定義すれば、《fauteとは債務に違反するような危険に身をおくことができる》。(p.138)
◆松坂佐一 (1957) 「責任無能力を監督するものの責任」 所収 川島武宜 編著『損害賠償責任法の研究 上 我妻栄先生還暦記念』 有斐閣 p.149-168 …行為者自身に責任能力があるかどうか不明の場合には、被害者に、行為者と監督義務者とのいずれを訴うべきか判断に苦しむことになる。行為者が責任能力を有する場合にも、自己固有の財産を有しない場合から、これを訴えても実行が得られない。外国ではこのことが監督責任を認める一つの理由として挙げられている。そして監督義務者を訴えた場合には、行為者の責任無能力なることを被害者において挙証しなければならず、監督義務者は責任能力を挙証して、賠償義務を免れることができる。これは被害者の保護に甚だかけるので…(p.162) …戒能博士の説は、無能力者に法律上の責任のある場合でも、その行為を常に家長自身の行為に準ぜられるべきものとする点で、末弘博士の説よりも家長の責任を強化するものである。しかし、戒能博士の家団法理論をもってすれば、成年者である家団構成員の行為に対しても、家長は責任を負うべきこととなる。たとえば、妻の不法行為に対しても夫は責任を負うことになるのではないだろうか。もしそうだとすると、家長の責任は重きに失する。(p.164) …監督義務者は、無能力者が外部に対して加害行為をしないように監督すべき義務を負担しているのであるから、監督義務懈怠の結果無能力者の加害行為が発生した場合に、その責任を免れしむべき理由は存しない。無能力者に法律上の責任がある場合でも、監督義務者に責任を負わしめるのが至当である。(p.165) ドイツ民法は第一次的に原状回復(損害賠償を生ぜしめる事実が発生しなかったならば、存したであろう状態を作り出すこと)を請求しうることとし(民249-1)、原状回復が不能又は賠償として不十分な場合および限度において金銭賠償を認めている。(p.200)
◆戒能通孝 (1957) 「不法行為における因果関係とコンスピラシー」 所収 川島武宜 編著『損害賠償責任法の研究 上 我妻栄先生還暦記念』 有斐閣 p.283-310 下請け制度がこのようになっている以上、業者の利己性ないし近所迷惑な無神経さは、ある意味で全く必然的である。だがそれによって災害を受けた人々は、下請け業者だけを被告として、不法行為による損害賠償の請求をしなければならないのだろうか。疑問はここにも確かにある。けだし労働災害もしくは第三者に対する加害の起こったとき、そのような状況を余儀なくさせられた下請け業者だけに不法行為責任をかぶせるべきか、それとも下請け制を利用することによって、新設備の建設や、その施設を作るための資金を節約することのできた新工場の責任を、少なくともある部分において認めるのが正当か、決して一律的断定はできないからである。(p.289) 法学上の因果関係が、本質的には「勘」であることは、その歴史によっても明らかにされている。たとえば第十三世紀代のイギリスでは、甲が乙を誘って気狂いや動物を視に連れ出したとき、乙がその気狂いに切られたりその動物にかまれたりしたならば、甲は不法行為責任があるとされていた。…彼らの素朴な方感情は、現代人の考え方よりも、事件を一つの流れとして意識していたようである。これは必ずしも嘲笑に値することとはいえない。なぜならば、それ自身一つの考え方であるという限度では、決して不合理ではないからである。(p.291) 現行英法上の判決のうち、最も基礎的であるとされるのは、1773年のスコット事件(Scott v. Shepherd, 1773)だったとされている。この事件は被告が乱暴にも火のついた花火を雑踏した市場に投げ、それを自分の屋台店前に落とされたAがあわててBのまえ二歩織り出し、Bがさらにこれをやみくもに投げとばしたところ、花火は原告の前で爆発し、原告の目を傷けたという事件であった。判決は被告の行為と原告の負傷の間には、「直接の因果関係」があったことを認めている。いいかえれば、中間に入ったABの行動は、被告の行為から衝動的に引き出された行為であって、被告は原告に対する賠償義務を負わねばならないというのであった。(p.293) コンスピラシーは、かくしてイギリス系裁判官に、因果関係の拡大について、一種の精神的な「慣れ」を提供した。けれどもこれと同種の観念を持たない日本の法曹は、安全性デザインの設計に失敗した大機械の製造者、労働者・隣人に迷惑を及ぼす下請け業者を使用し、下請部品製造のため必要な自己の建設資金を節約する大企業、あるいは新聞その他の報道機関に過早に被害者の名を知らせ、当該事件以外に不利益な報道をさせた警察官庁等々の責任を考慮する場合、イギリスの裁判官ならば伝統的に培われていたであろう「慣れ」をまだ身につけていないのではあるまいか。(p.310)
◆服部栄三 (1957) 「法人の不法行為能力」 所収 川島武宜 編著『損害賠償責任法の研究 中 我妻栄先生還暦記念』 有斐閣 p.529-554
無過失責任が認められる範囲内では一般に責任能力を問題にする必要がないことは、すでに述べた通りである。ところで、保険制度が無過失責任の適用範囲を拡大して行く作用を有するとすれば、保険制度の発達は責任能力の問題をなお一層背後に押しやり、責任能力と損害賠償責任との結び付きを更に希薄なものたらしめるといわねばならない。(p.532)
◆伊沢孝平 (1957) 「責任保険の発展とその止揚」 所収 川島武宜 編著『損害賠償責任法の研究 中 我妻栄先生還暦記念』 有斐閣 p.555-580
惟うに故意の招致事故は保険しえずとしてのは、専ら、これを保険することが多くの場合公序良俗に反するからである。すなわち自ら故意に損害を惹起しておき乍ら、その損害を他に転嫁して自らは何ら痛痒を感じないのみか、場合によっては利得さえもなしうるかの可能性をうるということは、信義誠実の立場から、これを許すことができないからである。然るに翻って、上述の第三者のためにする保険においては、事故の発生の結果、損害を填補を受ける者は、保険契約者とは別人の第三者である被保険者であるし(更にもし故意に事故を招致したものに過怠金を課しうることとなったなら)、保険契約者は、強いて事故を招致しようとする誘惑に駆られないし、また被保険者と雖も、故意によって事故を招致したならば、同じく過怠金を課せられるとせば、故意の事故招致を犯すことはまれであろう。ゆえに、このような保険にあっては、保険契約者又は被保険者の招致した事故について、損害を填補することとしても、上述の商法第641条の立法趣旨に反することはないと思う(p.577)
★森村進 (1987) 「行為責任・性格責任・人格形成責任」 所収 ホセ・ヨンパルト 三島淑臣 編 『法の理論 8』 成文堂 ISBN4-7923-0134-3 pp.51-110 むしろ無過失責任の根拠は、単にぼんやりしていたということではなしに、外部的動作としてある程度特定しうる注意義務を怠った結果、意識せずに違法な状態を生じさせるところにあると考えるべきである。何を行うべきだったのかを示さずに、不注意だったのはけしからぬと非難するだけでは、被告人は納得しがたいだろうし、世人にも行動の指針を与えられないだろう。こう考えると過失責任は「なすべき行為義務の不作為」として把握された行為についての責任だから、故意と過失の両方を含む統一的な責任論の名称として「意志責任論」でなく「行為責任論」が適当である。…この説では、帰責の対象たる人は、犯行との関係を強調して「犯人」と呼ぶのがふさわしく、行為者の属性に関心を持たせる「犯罪者」は不適当である。(p.58) 問題はそもそも、因果的決定が非難可能性と相いれないという自由意志論者の両立不可能論の前提にある。われわれの多くは、人が悪しき行為をそれと知りつつ行ったことに注目して批判はしても、因果律によっては説明できない行為をしたからという理由で非難できるとは考えていないのではないか。(p.68) 性格(論的)責任論や人格形成責任論も、われわれの責任判断にとって説得的な要素を持っているからである。私はそのような要素を刑事責任に持ち込むことが論理的に不可能だといっているわけではない。しかしそれらを持ち込もうとするならば、純粋の行為責任にはとどまれず、性格責任あるいは人格形成責任に至らざるをえないのである。(p.100-1)
★石井照久 有泉亨 金沢良雄 (1968) 『経営法学全集18 企業責任』 ダイヤモンド社
使用者責任の根本には、次のような政策的考慮が働いていることに注意しなければなるまい。すなわち、第一に、被用者よりも使用者の方がより大きな賠償の資力を備えているのが普通であり、したがって、使用者に責任を認めるほうが被害者の保護に役立つということである。とくに近代的大企業においては、企業は巨大な利益を得ているのに対し、被用者はわずかな賃金を得ているにすぎない。そのような被用者に対していくら高額の賠償支払い義務を課してみたところで、とうてい実現できるものではない。そこで使用者に責任を課する必要性が出てくるわけである。第二に、賠償義務を使用者に課するほうが、損失より広い範囲に分散することができる、ということである。これは、損得転嫁の問題である。たとえば、鉄道、自動車、航空機などの運送事業においては、使用者に責任を課しても、使用者はそれを料金の中に含めて一般の利用者に転嫁することができる。また、製造業者であれば、商品の価格を通じて、一般消費者への責任を転嫁することができる。だから被用者個人よりも使用者に責任を認めるほうが、損失の社会的分担の見地からいって望ましいのである。(p.38)
債務不履行では、…債務者の側で債務不履行が債務者の「責に帰すべからざる事由」にもとづくことを立証しないかぎり損害賠償を負わなければならないのに対して、不法行為では、不法行為が債務者の故意・過失によることを債務者の側で立証しなければならない。(p.245) ★石本雅男 (1950) 『過失責任と無過失責任 法学理論編72 法律学体系第二部』 日本評論社版
例えば、一つの結果に対して、その結果の発生するために何らか役立ったあらゆる事実のすべてを以て、この結果に対する原因たるべき事実と法的に判断することが妥当であるという立場にたつものや、これ等の諸の原因たるべき事実のうち最後のものが、法的価値判断の上からみて、この結果に対する原因たるものとする立場に立つものがある。前者の場合においては、あらゆる事実の原因たる事実をすべて同価値にみることにその特徴があるが、一つの損害惹起という結果に対して、これ等のすべての事実を同価値な原因とみることは、必然的に、これ等の事実を到来せしめたすべての人々に、この結果についてひとしく責任を負担せしめることになるわけであって、民事責任即ち司法上の非難の対象として考える場合にはあまりにもその範囲が広すぎることとなるのであり、極言すれば、かような事実はさらに原因に遡ってゆけば無限に原因たる事実を求めることが可能となるのであって、かような遠い原因たる事実乃至は容態を到来せしめたる者が、はるかに遠い間接的な結果に対して責に任ずるということは、事実の関係があるという点ではとも角も正しいとしても、司法上の非難に値するか否かという責任の問題としては、帰って妥当ではないということができるのである。これに対して後者の立場は、恰もこの点に留意し、結果に対して最も近い原因たる事実こそ法的判断においてまさに原因たるべきものと認められるべきであるとするのである。しかしながら、一つの結果に対して法的価値判断の上からみれば、最も近い直接的な原因たる事実乃至は容態を以て唯一の非難の対象とすることは、必ずしもつねに妥当であるとはいえないのである。むしろ時としてはそれに時間的に先立つ原因たる事実が却ってかようなものとしてみとめられなければならぬ場合もあるのである。(p.21) …法的因果関係とは、結果に対して原因たるべき事実を発見するための基準ではなくして、一般に結果即ち損害の発生引退して、法的評価の立場から、何を原因たるべき事実として承認するかということの基準なのである。そこで法的因果関係というのは、或る一つの結果即ち損害の発生があった場合に、ある事実乃至は容態があった場合には通常の場合このような結果が発生するということが客観的に社会観念の上から認められる場合には、その範囲の原因たる事実を以て当該損害発生の原因たるものとみとめようとする法的価値判断の表現なのである。…たまたまその加害者が故意又は過失によってこの容態をとったのでない場合には、そこに法的因果関係はないとすることはできないのである。「法的」であることは単なる事実関係ではなくして価値関係であることを意味するが、法的「因果関係」はあくまでかような価値判断のもとに立つ事実と事実の間の因果関係である。そして、かような立場から損害惹起という結果に対して原因たる事実とみられる加害者の容態が何人の如何なる容態であるかが決定されたのちに、この加害者が故意又は過失によってこの加害の容態をとったか否かということが吟味され、故意又は過失のない場合には法的にこれを非難しないというのが過失責任の原則なのである。(p.23) ところで過失責任主義に立てば、故意又は過失があれば責任があるが、故意過失がなければ責任がないというのであるが、それは一面から言えば法的に非難されるべき重点は加害者の主観的容態にあるということである。…そして、故意過失ある場合にも、その結果を予見し、又は予見すべきであった範囲においてのみ責任ありとして、たとえん何らかの損害が発生するとは予見し、また予見し得べきであったとしても、現実に発生した損害がその予見し、また予見し得べき範囲を超えているような場合には、その範囲を超えた程度においては最早責任を負担すべきではなくj、無過失の場合と同様に考えるのである。従って、たとえ無責任であっても、その場合直ちに無責任とみることなく、そこには何らかのべつの非難原因があるか否かという問題は、もはやそれを惹起する余地がないといってもよいのである。(p.24-5) かような無過失責任というものは、だから、責任を問う場合に、加害者の故意過失という主観的容態の上に非難の目を向けないで、むしろ結果の上に、即ち発生した損害(被害)の上にのみ、そしてそれが何人科の行為によって惹起されたことにのみ穂何の目を向けるのである。その意味において、また結果責任と呼ばれることもある。(p.25-6) …無過失責任主義のもとにおいては、かような加害者の故意又は過失の有無ということは、違法か適法かを判定すべき標準となるのではなくして、他人の利益を侵害し損害を与えたということがらのうちに異邦があるとして加害者が非難されるのである。(p.29) …かような非難原因は、最早法によって認められた適法の容態そのものの中にないざいするのではなくて、その容態が損害という結果の原因となったといいことのうちにあるのである。換言すれば、かような容態そのものが非難されるのではなくして、その容態の担い手が損害を惹起せしめた主体であるkとによって非難されるのである。そうだとすれば、かような場合、違法とはいったい何を意味するかといえば、それは最早容態に最終的な根拠をもたないのであって、むしろ損害惹起という他人の利益侵害の事実のうちに損するのである。さらに別言すれば、損害が惹起したことによって、その損害を惹起せしめた適法な容態そのものが法的非難性を帯びるのである。即ち論理的に損害惹起以前の容態そのもののうちにこの非難性があるのではなくして、損害惹起という法の許容しがたい状態(違法状態)の発生によって、適法な行為者が法的に非難されるのである。違法性とはその意味において、損害即ち他人の利益の侵害そのものにおいて表彰する方の非難性である。これが無過失性人のおける帰責原因たる非難性、違法性である。だからかような違法性は、故意過失に基く損害惹起の場合には、故意過失というより一層大きな非難性のうちに吸収され、独自の非難性として認識されることがむづかしいのである。それ故に従来過失責任の原理の下では、この法的非難性はしばしばむしされたのである。だが無過失責任の原理のもとでは、却ってそれは唯一の且最も典型的な法的非難性として把えられるのである(p.32) もともと罰金訴訟は、古い時代の復讐の名残であるところの贖罪金の支払いから漸次制度化されてきたものである。古い時代においては、個人間において不法な侵害行為があった場合には、被害者側は加害者側に対して復讐、血讐をもって報復したことは、どの民族の古い時代においてもほとんど共通の事実であった。そしてそれは芳情もまた唯一の法的非難の形式として妥当なものとして是認されたのである。だが復讐が単に無秩序に行われていた時代から、それが芳情いろいろの制限を与えられて、その方法なり制度なりが法上確定されたときに至って、復讐は単なる事実でなく、法的概念となったのである。この段階にすたちいたったときに、すでにそこには刑事責任と民事責任の観念上の区別が存在しているのである。即ち不法な侵害行為そのものを非難し、これに報復し、同時に社会がかような侵害行為から自らの安全を保護しようとする意味の法的非難と、被害者が与えられた損害を填補しようという意味の法的避難が区別されるのである。(p.38) 違法適法という法的評価は、行為の結果から切り離された行為自体に向けられる判断ではなくして、結果に対する判断から逆にその結果をみちびき出した諸条件(行為)のうちに何が非難を受けるべきかということの法的法的判断なのである。そこに法的因果関係の問題が生ずるのであって、その非難を受けるべき行為として>、とりあげられた行為の担い手に非難が向けられ、責任が問われるわけである。…だから不法行為の成立するためには、行為の結果の違法状態即ち損害の発生を要件とするのである。これが不法行為成立のために、主観主義、過失主義の下においても、客観的要件として、損害の発生を認めることの意味である。(p.43-4) …損害発生の原因たる行為とその結果たる損害発生に対する責任を関連せしめる契機として、法的非難原因の反省がなされるようになると、法的因果関係はもはや自然必然的な法則的関係ではなく、むしろ帰責の理由として把えられる価値関係であることが承認されるようになり、結果の発生を回避しえなかった行為が、その損害発生に対する直接的な原因であるというだけの理由から、その行為に一律に責任を帰属せしめるべきではなく、その行為者が「何故に」その行為を回避しなかったかという観点から、その主観的容態をもって帰責の原因とみるべきか否かという反省がなされるようになるのである。だからこのような主観的容態が存在しない以上、損害発生という結果は、事実としては原因を有するにもかかわらず、帰責の問題としてはその原因は原因と認められない場合が生ずるのであり、それ故にまたその原因たる行為者は帰責者たる理由を欠くことになるのである。(p.50) …ゲルマンにおいては、損害の発生に対する責任は、その最も特徴的なものとして、加害者並びにその属する氏族共同体全体に帰せしめられていたから、それはもともと全員の責任における行為であるのであって、その損害発生の原因たるに値する個人の主観的帰責の観点より反省するという自覚の生まれるべき必然的契機を蔵していなかった。そこでは結果として損害発生は、つねに悪意の表現として見られていたというものの、それは故意過失という主観的容態の十分の反省を伴わない極めて素朴な観念即ち悪行は悪意を伴うという観念であった。(p.51) …ところが資本主義社会の高度の発展に伴って、漸次増大した諸種の大企業経営の出現によって、この過失責任を原則とすることの妥当性に対して、暫く疑惑の眼がむけられるようになったのである。即ち、精密複雑な機械を使用する大企業においては、企業主の予測し得ない損害の結果を惹起することは少しくないし、または大工場から発散する煤煙が予測し得ない損害を、付近の、或は双頭遠距離の農作物に与える場合とか、工場から流出する一種の排水が地下に浸透して付近の地下水を変質せしめてその地方の住人の健康を害するとかいうような場合が生ずるようになったのである。(p.53) 過失責任の原則のもとに無過失責任の領域を拡大しようとする解釈上の企てにおいて、いちばんはやく最も優れた進展を示したのはフランスの学説である。これは危険責任論との対立のうちに伝統的過失責任主義の理論構成を極端にまで押しすすめたところに特徴があるのである。その根本的動機を与えたのは1896年の破毀院の判決である。この判決は、従来建造物の荒廃に基く所有者の責任を規定した仏民法第1386条の拡張解釈によって何ほど過去の傾向を示していた学説の見解に対して、むしろ「ひとは彼が自己の管理化に有するものの所為についても責任あり」ということを規定する第1834条第1項の適用を主張し、自己の保管の下にある物を原因として損害を発生した以上は、その物の保管者は過失あるものと推定され、被害者によってその過失が立証されない場合にも、一応その損害に対して賠償の責任があるとみとめられたのである。(p.54-5) …この論者(危険責任)の根拠とするところは、加害者がかような危険な企業行為によって莫大な利益を収めつつある以上、その経営にあたって他人に損害を与えた場合には、かような利益に対する代償補として、当然に賠償責任があるというのである。即ち危険を包蔵する行為それ自体は常に責任の原因となるというわけである。だからこの見解によれば、損害が発生した場合、その加害者に故意又は過失があったかなかったかということは問題ではないのであって、かような行為をなすことそれ自体、はじめから抽象的に賠償責任の根拠があるのであり、たまたま損害が発生しないあいだは、具体的にその責任を負う状態に立ち入らないのだという考えがその基礎をなしているのである。(p.55-6) …過失というものは通常人の注意力を持ってすれば当然院その行為の結果が予見できるはずである場合には、是を予見しなかったということばかりでなく、何等か自己が保管するものが他人に損害を与えた場合、そのものの保管者には常に過失があるというべきである、というのである。その理由は、物の保管はhその物が常に他人に危害を与えないようにこれを保管する義務があるのであるから、換言すれば、その物が彼の保管から逸脱して他人に損害を与えないように十分注意すべきであるから、もしひとたびこの物から損害が惹起された以上は、たとえその保管者が保管に関して十分の注意をなしたことを立証することができても、すでにそれが損害を惹起したということ、即ち保管を逸脱したことによって、そこには過失があると見られるのである。(p.57)
★淺井C信 (1952) 『危険負担論 法理学理論74 法律学体系第二部』 日本評論新社版
危険負担とは、…危険を特定の人に帰属せしめることをいう。この帰属は特定の人の債権喪失という形で行われるが、履行危険と対価危険とは必ずしもおなじようなかたちで負担されるものではない。(p.11) 本来の危険責任負担問題は過失責任の観点から負担の帰属を決定しえないところの危険をいずれの当事者に負担せしむべきかに関する。 ドイツ民法第276条は、特約のない限り債務者は故意・過失の責任を負わねばならぬと規定し、その第278条は、債務者は自己の法定代理人の過失及び自己の義務を履行するために使用したところの人の過失について事故の過失と同じ範囲で責を負わねばならぬと規定している。そして、是に関連して債務者の故意責任をあらかじめ免除することは出来ないとし(独民276条2項)、また、自己の財産における同一の注意のみについて責任を負う者は重過失の責任を免れないとしている(独民277条)。双務契約における危険責任に関しては、いずれの当事者の責にも帰すべからざる事由による給付不能の危険を債務者が負担すべき旨を規定している(独民323条)。ここにいう責に帰すべき事由があるか否かは前示の債務者の履行上の責任条件が標準となっていることには争いがない。そこでドイツ民法ではサム不履行の条件並みに危険負担を規定する契機たる債務者の帰責事由が原則として濃い過失であることには疑いがない。(p.24-5) がんらいわが国の民法は双務契約上の各債務の成立については両債務間の原因的ないしは条件的かつ対価的な内的連絡を認めているけれども一旦成立したところの各債務は独立に存在し独立に履行さるべきものとしている。すなわち、一方の債権の実現によってのみ他方の債権は実現さるべきであり、一方の債権の実現が存在しなくなることによって他方の債権の実現は当然にその意味を喪うというような両債権間の内的結合は民法上認められない。(p.43) 無過失損害賠償責任の基調も損害の発生という客観的事実にあるが、一旦発生した損害をその発生について過失のないものをして賠償せしめるようとするところに特色がある。これに対して危険負担は、すでに述べたように、債権関係を前提とし、その侵害たる給付不能を基調とし、この給付不能の効果として債権を喪失し或いは再建を依然として負担している状態を指していうのである。(p.45) さらに、危険負担は「責任なき損害の負担」といわれ、ここにおいて免責事由は考えられない。いわば、本来的に危険負担は天災地変による損害或は人の容態とは全然関係のない損害の当然負担を、債権者又は債務者について、予定している。ところが、無過失損害賠償責任においては免責事由画考えられ、暫定法秩序のうちにも免責事由が限定されている場合が散見される。(p.45-6) 労働法は、根本においては民法と同じような市民社会を基盤とするが、この市民社会に実在する資本家たる使用者とこれに従属する無産者としての労働者との二つの対立する法的人格者の認識から出発し、慮車間の勢力の規整を目的とする。休業手当を規定する労働基準法は、かかる労働法のうちにあって、隷属せる労働者の地位の向上を目ざして直接に国家権力を持って労働関係の規律に鑑賞することを意図するものである。(p.79)
★我妻榮 (1969)「損害賠償理論における『具体的衡平主義』」 所収 『民法研究 W 債権各論』 有斐閣
是の如くして19世紀に成立した法典はことごとく過失責任の支配の下に立つ。換言すれば、それらの法典中には、各人はただその過失の限界として自由に活動することができる、との思想が張っているのである。然し、それも固より当然で、一歩進めて考えうれば、(・・・)過失は責任の限界たるのみならず、立法者の理解力の限界だったとさえいいうる。なぜなら、彼らはたまたま論理上の問題としては過失責任に止まるべきものにあらざるが如き説を述べても、実際上是を具体化することはついに考え至っていなかったのである。(p.201) 1838年プロイセン鉄道法が鉄道企業者の責任に関し過失責任を著しく制限し、「鉄道会社は、鉄道運送に付て、運送中の人もしくは貨物、又は第三者もしくはその物の貨物に生じたる総ての損害を賠償すべき義務を負う。但し、損害が被害者の過失又は予防せざる外部的事変によって生じたることを証明すればこの限りに非ず。企業の性質上当然是に伴う危険は免責事由とならず」と規定したのが、あたかもこの時間に関する序幕だった。… プロイセン鉄道法の精神は是の如く地理的に伝播したるのみならず、内容的にもいちじるしい拡張をした。先ずその例を見、その後次第に汽船、郵便、電車と拡張子、自動車の如きは生るるや否やこの責任を負わされた。(p.204-5) これに反して、フランスおよび初年のスイスは、忠実に司法的進路を開拓することによって、ほぼ同一の目的に到達した。そは過失主義から「危険責任」("resque professionnel")の観念への推移であった。この観念は1898年4月9日フランス労働者災害法の骨子をなすもので、損害賠償に関する従来の観念を根本から改造したものである。(p.206)
★我妻榮 (1969)「"Negligence without Fault" アメリカ法における一つの無過失責任論」 所収 『民法研究 W 債権各論』 有斐閣
ネグリゼンスは、行為の結果(損害の発生)に対する予見可能性(foreseeability)を含んでいる。しかし、この予見可能性は、たとい合理人(reasonable man)を標準とすることによって客観化されているにしても、なお、個々の行為をなす際に行為者が当該の結果(損害の発生)を予見すべきであった(合理人ならば予見しえた)かどうかという標準による場合と、その企業を運営すること自体によってかような結果(損害の発生)を生ずることが合理人によって予見することができるものであるかどうかという標準による場合とでは、全く違った結果となる。(p.270) さて、ネグリゼンスの意味を右のように解してよいとすると、最も重要なことは、「合理人ならば予見しえたはずだ」とか、行為者の行為が「法の要求する客観的な基準に達しないものだ」というなかには、合理人ならば、予見してその行為を避けるはずであった、合理人ならばその基準に達するような行為をすることを法が期待した、という観念が当然に含まれていることである。そうだとすると、…「合理人」が損害の生ずることを予見しえたとしても、その原因たる行為を避けることができない場合、または、その行為が合法的なもの、もしくは、許されるものである場合(いいかえれば、損害発生の危険が不合理に生ずるのではなく、正当視されるものである場合)には、−行為者は、それを避けることを「合理的に」期待されはしないのだから−責任を生じない、といわねばならない。(p.275) もっとも、企業を通じて危険を分散することは、結局において、企業者が危険の利益だけを収めて、損害は他人におしつけることになって不都合だとまで論ずるなら、話は全く別である。しかし、それは私有財産制度ないし私企業を肯定する現代私法の機構そのものに触れなければならないことであって、…(p.290)
★西埜章 (1975) 『公法上の危険責任論 ー公法上の保障体系に占める危険責任の地位』 東洋館出版社
基本思想においては、司法上の危険責任と公法上の危険責任とはそれ程相違するとは思われない。ラレンツが、この種の責任は不法をなしたことの中に基礎付けられるのではなくて、許容された活動に結びついている加害の危険を、その危険の源泉を支配し、そこから利益を得ている者が負担することが配分的正義にかなうことであるということの中に根拠づけられる、と述べているとき、このことは公法上の危険責任にも少なからず妥当しよう。エッサーもすでに早くから、危険責任の帰責事由は、主観的要件、非難可能性にあるのではなく、事故の共有する特別の権利に対し、その行使の際に生じたUngluckの引き受けによって責任を負わなければならない、と説いてきたが、これも司法上の理論であるとして単純に無視することはできないであろう。(p.172) 国は、事情によっては、危険であることを承知の上で、一定の危険状態を形成しなければならないこともありうる。危険状態の形成によって何らかの公益が追求され、しかも、その公益の追求が客観的にみて重大であると思慮されるときには、たとえそれによって個人の権利・利益が危険に曝されることになったとしても、危険状態の形成は止むを得ないものとして承認されよう(しかし、その場合であっても、具体的に危険の現実化が確実であって、国の側においてそれを意識しているかぎりにおいては、ここでいう公法上の危険責任に該当しない)。基本的には、第三者に対して一定の蓋然性をもって損害を惹起せしめるような危険状態の形成は禁止されるべきであるとしても、より優位する利益が危険状態の形成あるいは維持を要求するときには、それが許容されなければならないこともあり得るのである。しかし、公共のために形成され、維持される危険状態から生じた損害は、しばしば、全員ではなくて一部のもののみが被る。不幸にして、その危険が現実化し、個人に損害が発生したときは、それをそのまま放置し、被害者個人に損害を負担せしめることは許されない。なぜならば、いいふるされた言葉を借りれば、危険状態を形成し、支配し、それによって利益を得る者は、そこから生じる損害に対して責任を負うのが公平であるからである。そして、危険状態を形成し、支配し、そこから利益を得る者は国であり国民全体であるから、国が責任を負うことによって、損害は全国民に平等に配分されなければならない。ただ、このことが妥当するためには、危険状態の形成が一部の利益のためではなく、全体の利益のためになされていることを前提条件にすることは、いうまでもない。このようにして、危険責任の原理は公の負担のまえの平等の原理と密接に結合し、公法上の危険責任を基礎付けている。そして、このように考えることは、また、現代国家における個人との関係にも適合するであろう。(p.182-3) 公法上の補償体系は、補償を要請する原因より分類するときには、適法行為にもとづく損失の補償、違法行為にもとづく損害の賠償及び危険状態から生じた損害の補償(公法上の危険責任)に区分されるものと考える。公法上の危険責任における補償原因は危険責任原理の中に表現されている。それは、元来は私法の所産であるかもしれないが、基本的には公法も等しく適用され得るであろう。公権力により形成された危険状態に基づいて損害が発生した場合に国または公共団体が責任を負うべきことは、危険責任原理より導かれる。危険な活動をなす者は、そこから生じる損害に対して責任を負わねばならないことは、正義の要請であって、私法に特有なものではない。また、違法行為の場合における補償原因は、違法行為に対する保証責任である。国民が国家権力に服従することを要求されるときは、反面において、国は瑕疵のない国家行為を国民に保証したものと理解される(p.291) より広い意味において、危険状態の形成は公法上の必要にもとづくものだからであり、違法行為もそれを全面的に排除することが不可能であることを承知の上で国の活動を認めることは、公法上の必要から出たものと考えられるからである。公益のための特別の損失は、全体が平等に負担すべきである。高負担平等の原理は、従って、全公法上の保養を指導する原理であるといってよいが、しかし、適法行為に基づく損失の補填の場合を除いては、第二次的保証原因であって、補充的なものである。それは、公法上の危険責任や違法行為に基く損害の賠償にあっては抽象的原理であり、国の責任を直接具体的に基礎付けることができない。(p.293)
★乾昭三 徳本鎮編 (1977) 『不法行為法の基礎 実用編』 青林書院新社
過失責任の原則は、第一に、違法行為者は自己の行為の結果に対してのみ損害賠償責任を負うことを意味する(自己責任)。他人の違法行為に付いて責任を負わされることはない。自己責任の原則は、積極的には、自己の違法行為の結果に対して責任を負担するのは自分自身でなければならず、他人に責任を転嫁することは許されない、という個人主義にもとづいている。しかし消極的には他人がどんなに自分と密接な関係にあっても、違法行為者が他人であれば、すべて責任はその他人が負担すべきであって自分に責任が及ぶことはない、という利己主義にも通ずる。過失責任の原則は、第二に、違法行為者は自己の行為の結果について、自分に故意または過失が認められる場合にかぎり、損害賠償責任を負うことを意味する(狭義の過失責任)。自分の違法行為により他人に損害を生じても、自分の故意過失が立証されなければ、他人に対し損害賠償を支払う必要がない。(p.10) 加害者に過失がないとき、たまたま加害者に過失がないからといって、損害をすべて被害者が感受しなければならないとするのは、はたして正当であろうか。過失なき加害者に責任を負担させることが酷とすれば、過失なき被害者に損害を感受させることも同様に酷であろう。(p.11)
★060723,0905作成
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