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正義
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文献

◆Fleischacker Samuel. (2004). A Short Histroy of Distributive Justice. Harvard College.= 中井大介 訳 『分配的正義の歴史』晃洋書房

◆Fraser Nancy. (2008). Scales of Justice. Columbia University Press.(= 2013 向山恭一訳『正義の秤』法政大学出版局

◆Johnston, David. (2011). A Brief History of Justice. Wiley-Blacwell. =押村高ほか訳『正義はどう論じられてきたか――相互性の歴史的展開』みすず書房

◆Walzer, Micheal (1983). Sheres of Justice :A Defrence of a Pluralism and Equality. Basic Boocks Inc. Publishers.(=1999 山口晃一 訳 『正義の領分――多元性と平等の擁護』 而立書房)

◆内藤正典・岡野八代編『グローバル・ジャスティス 新たな正義論への招待』ミネルヴァ書房

◆宇佐美 誠編(2014)『グローバルな正義』勁草書房

◆やなせたかし『わたしが正義について語るなら』ポプラ新書

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引用  

・やなせたかし『わたしが正義について語るなら』ポプラ新書
 スーパーマンにもスパイダーマンにも敵対する悪い奴がいて、それをやっつけると正義が勝ということになる。例えばウルトラマンはカイジュウをやっつけます。怪獣は地球に害を与えるやつだから怪獣をやっつけると正義が勝ったということになる。
それからスーパーマンはやたら派手派手しい服を着てニューヨークを飛び回っています。その姿が変に思えたんだよね。飢えた子供にはなんもやらないで自分のことだけアピールするコマーシャルみたい。
現在も、バングラディシュやエチオピア、ブラジル、いろいろな国にストリートチルドレンや飢え死にしている子どもたちがたくさんいます。どこかの国で戦争が起きると、戦争している国同士は両方正義だ、悪い奴をやっつけると正義が勝ったのだと言って戦っているけれども、子供たちのことは見てやらない。そうして子供たちは次々に死んでいますね。
だから僕が何かをやるとしたら、まず飢えた子どもを助けることが大事だと思った。それが戦争を体験して感じた一番大きなことでした。(p.19)
正義のための戦いなんてどこにもないのです。
正義はある日突然逆転する。
逆転しない正義は献身と愛です。
それは言葉としては難しいかもしれないけれど、例えばもしも目の前で飢えている人がいれば一切れのパンを差し出すこと。それは戦争から戻った後、僕の基本的な考えの中心になりました。(p.21)

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◆Fraser Nancy. (2008). Scales of Justice. Columbia University Press.(= 2013 向山恭一訳『正義の秤』法政大学出版局

 今日議論されているのは対立する主張だけでなく、主張を評価するための対立する基準を内包した、対立する存在論でもある。したがって、いま忍び寄っているのは、不公平性の脅威だけではなく、通約不可能性という亡霊でもある。内容的に雑多な主張が、本当にひとつの天秤で構成に諮られるのか。それができないとすれば、公平性という理念にはなにが残されるのか。
 これらの条件のもとでは公平性の問題系は平常通りにはとらえられない。むしろ、通約不可能性の脅威に立ち向かい、できるならそれを追い払うためには、その問題系は根本的にとらえられなければならない。今日、正義を理論化しようとする人々は、天秤のイメージの通例的な解釈を断念し、こう問われなければならない。それぞれ自前の秤を実際に装備した、正義の内容をめぐって敵対する構想が衝突>7>しているとすれば、いかにしてどの天秤を所与のケースで使うのかを決定すべきなのか。雑多な主張が公正に評価されることを保証するために、公平性の理念をどのように再構築することができるのか。(pp.6-7)

 当時はまだ意識されなかったが、ケインズ的=ウエストファリア的フレームは社会正義を巡る議論を特異な形で組み立てていた。当然のように近代領域国家を適正な単位と見なし、その市民を的確な主体と見なしながら、そうした議論はこれらの市民が互いに追うものに他ならぬ関心を向けてきた。あるものの見方によれば、市民が法の下で形式的に平等であれば十分であった。ほかのものにとっては、機会の平等も必要とされた。さらにほかのものにとっては、正義はすべての市民が政治共同体の正規>21>の成員として、他者と同等に参加するのに必要な資源と尊重を入手することを要求するものであった。いいかえれば、その議論の焦点は、社会の内部では、いったいなにが社会関係の正しい秩序化とみなされるべきなのかにあった。論争者は正義の「なに」を論じることに没頭し、「だれ」を論じる必要を全く感じていなかった。ケインズ的=ウェストファリア的フレームが安定しているかぎり、その「だれ」はいうまでもなく国民であった。(pp.20-21)

 (引用者 正義をめぐる)その論争が分配であれ承認であれ、何が共同体の成員に正義の問題として課されるのかという問いにもっぱら焦点を当ててきた論争は、いまは、だれが成員としてみなされるべきか、どれが関連する共同体なのかを巡る論争に急旋回しつつある。「なに」だけでなく「だれ」もまた、すっかり混乱しているのである。(略)しかし、こうした第一段の問い以上に、今日の正義をめぐる議論は第二段階の、メタ・レヴェルの問いにもかかわっている。第一段階の正義の問いを思考するのに適切なフレームとはいかなるものか。所与のケースで、正しい分配ないし相互的な承認の資格を持つにふさわしい主体とは誰のことか。つまり、正義の内容だけでなく、そのフレームも争われているのだ。(p.23)

 フレーム設定は、取るに足らないどころか、最も重大な政治的決定のひとつである。この決定は成員と非成員を一刀両断し、共同体内部で分配、承認、通常政治的な代表の問題で考慮される資格を持った人々の世界から、後者を事実上排除する。その結果、深刻な不正義が生じる。正義の問題が不当にも一部の人々を考慮から閉め出すようフレーム化されるとき、>29>所与の政治的共同体で第一段階の正義の要求を迫るチャンスが奪われるという特別な種類のメタ不正義がもたらされるのだ。さらには、ある政治共同体から排除された人々が別のところでは正義の主体として包摂されていたとしても、その政治的区分によっていくつかの関連する正義の側面が彼らの及ばないところで遠ざけられているかぎり、この不正義は存続する。もちろん、それ以上に深刻なのは、いかなる政治共同体の成員資格からも排除された場合である。(pp.28-29)
 当面もっとも見込みのある候補は「被害者限定原則」である。この原則は、所与の社会構造か社会制度によって影響をされる人だけが、それに関して正義の主>35>体としての道徳的地位を持つというものである。この見方によれば、ある人間集団を正義の同胞主体に代えるのは、地理的な近接性ではなく、人々の社会的相互行為の基準となるルールを設定し、それによってひとりひとりの生の可能性を利益と不利益のパターンに従って形成する、共通の構造的ないしは制度的なフレームワークでの重なり合いである。(pp.34-35)
 最近まで、政治哲学者たちは、おもに「なに」をめぐって彼ら自身の専門的な問いを議論するのに没頭してきた。これはアマルティア・センが「なにの平等か」と投げかけた問いである。分析的な伝統では、分配的正義の理論家たちは、なにが公正に分配されるべきかについてもっぱら論じ、社会関係の正義を評価するために探りうる測定基準として、権利、資源、基本財、機会、現実の自由、それに潜在能力の優劣を争ってきた。これと同じように、ヘーゲル的な伝統でも、承認の理論家たちは、なにが相互に承認されるべきかについて論じてきた。それは集団アイデンティティか、個人の業績か、それとも自立的な人格性か。文化の独自性か、共通の人間性か、それとも社会的相互行為における要求者のパートオナーとしての地位か。「なにの平等か」に集中するあまり、これらの2つの伝統の哲学者たちはつぎの重要な問いを見過ごしがちであった。それはデボラ・サップが「だれのあいだの平等か」と提起した問いである。(p.46)

 いずれにしろ、重要な点はこういうことである。暫定的に正当なもの意図して現れるいかなる形状のフレームも、排除をめぐる新しい主張が現れ、その形状が異議を申し立てられるにつれて、自らの将来の修正に開かなければならない。批判的=民主的な「いかに」のアプローチは、フレームをめぐる論争はいかなる決定的な、最終的な解決も許されないと想定ながら、それらをグローバル化する世界の政治的な生の永続的な特徴とみなしている。つまり、そのような論争を民主的に立ち上げ、暫定的に解決するための、新しい、恒久的な制度を提唱しているのである。
 たしかに、このアプローチをどう制度化するかについては、困難な、未解答の問いがまだ多くある。ひとつの問題は、所与の争点にたいして地位を主張するが、既存の領域的に基礎づけられたフレームによって排除されている人々に、いかにして十分な代表と平等な発言権を保障するかということである。>62>もうひとつの問題は、たんに採りうるフレームを討論するだけの弱い公衆と、拘束力のある決定を行うことで、そのような討論を暫定的に解決する強い公衆との適切な分業体制を、どのように構想するかということである。また、フレームをめぐる論争を審判するにあたって、公平な、祭壇者的な裁判官や調停者が果たしうる役割に関わる問題もある。さらには、ポストウェストファリア的な「だれ」を擁護する人々との誠実な差岩に入るのを拒む、お決まりのイデオロギー的なナショナリストをどう扱うかという問題さえある。これらの関連した問題を対処するためには、現実主義的なユートピアニズムの精神の制度的想像力が必要である。(pp.61-62)

 しかし、こうした変則性は3つの手法な結節点のまわりに群がっており、まったくのでたらめというわけではない。第一の結節点は、正義の「なに」をめぐって共有された見解の不在を表している。ここで問われるのは、正義の内容、その関心対象となる実態である。正義が比較の関係であるとすれば、それが比較するものはなにか。いかなる社会存在論的な前提条件が、適当な主張と不適当な主張を区別するのか。こうした問題は、通常的正義ではいうまでもないことである。たとえば、すべての当事者が正義を分配的観点から一般的には性質上経済的な、分割可能な財の配分に関わるものと理解している場合が、そうである。これとは対照的に、変則的な文脈では、正義の「なに」が争われる。ここでは共通の存在論を共有しない主張に遭遇する。ある当事者が分配の不正義を認めているところに、ほかの当事者は地位のヒエラルヒーを、さらにほかの当事者は政治的支配をみいだしている。つまり、現状はただしくないということに同意している人々でさえ、それをどう説明するかについては対立しているのである。(p.74)

 変則性の第二の結節点は、正義の「だれ」を巡って共有された理解の欠如を表している。ここで>75>問われるのは、正義の範囲、それが適用されるフレームである。だれが所与の問題で正義の主体とされるのか。誰の利益と必要が考慮に値するのか。だれが平等な関心を払われる資格をもつ人々の集合体に属するのか。これらの問題は、通常的正義ではいうまでもないことである。たとえば、すべての当事者が自分たちの争いを領域国家に内在する問題としてフレーム化し、それによって正義の「だれ」を境界づけられた政体の市民と同一視する場合が、そうである。これとは対照的に、変則的正義では、その「だれ」が混乱している。ここでは、正義論争の対立するフレームに遭遇する。ある当事者が国内的、領域的な「だれ」の観点から問いをフレーム化しているところで、ほかの当事者は地域的、国境横断的、グローバルな「だれ」を前提としている。(pp.74-75)

 変則性の第三の結節点は、正義の「いかに」をめぐって共有された見解の欠如を表している。ここで問われるのは、本質的に手続き的なものである。所与のケースで、正義について考察するのに適切な文法をどのように決定するのか。いかなる基準や決定手続きによって、「なに」や「だれ」をめぐる論争を解決するのか。通常的正義では、「なに」や「だれ」は争われないので、これらの問いは基本的に生じない。これとは対照的に、変則的正義では、どちらの媒介変数も混乱しており、「いかに」をめぐ>76>る意見の対立が必ず噴出する。ここでは、論争を解決するための対立するシナリオに遭遇するある当事者が国家間条約の権威を引き出すところで、ほかの当事者は国際連合、権力の均衡、あるいはまだ発明されざるコスモポリタン的民主主義の制度化された手続きに訴えている。(pp.75-76)

 分配的な「なに」の支配は、少なくとも2つの陣営から異議を申し立てられている。ひとつは、差異の調停を試みる多文化主義者か>78>らの差異の排除を企てるエスノナショナリストにいたる、承認の政治のさまざまな現場にいる人々である。もうひとつは、選挙人名簿のジェンダークオータ運動を展開するフェミニストから権力の分有を要求する国内マイノリティにいたる、代表の政治のさまざまな現場にいる人々である。その結果、正義の「なに」をめぐっては、今日少なくとも3つの敵対する構想が作動するようになった。すなわち、再配分、承認、代表である。
 他方、ウェストファリア的な「だれ」の支配は、少なくとも3つの方向から異議を申し立てられている。第1は、関心の範囲を下位国家的な単位に位置づけようと試みる、地方主義者や共同体主義者である。第二は、正義の範囲を「ヨーロッパ 」や「イスラーム」といった、完全に普遍的ではないが、より大きな単位と同一視することを提唱する、地域主義者や国境横断主義者である。第三は、すべての人間存在を平等に考慮することを提唱する、グローバリストやコスモポリタンである。その結果、正義の「だれ」をめぐっては、今日、少なくとも4つの敵対する見解が作動するようになった。すなわち、ウェストファリア的、地方的=共同体主義的、国境横断的=地域的、そしてグローバル=コスモポリタン的な見解である。(pp.77-78)

 私の提案は、3つすべての次元の主張を参加の同等性という包括的な規範原則に従わせることである。この原理に従えば、正義は万人が社会生活を同輩として参加することのできる社会的配置を必要とする。参加の同等性としての正義という見解によれば、不正義を克服することは、一部の人々が社会的相互行為の完全なパートナーとして、他者と同等に参加するのを妨げている制度化された障害を解体することを意味する。以下の議論で示すように、そうした障害には少なくとも3つの類型がある。第1に、人々は同輩として他者と相互行為をするのに必要な資源を拒否する経済構造によって、完全な参加を妨げられることがある。その場合、彼らは分配的不正義すなわち悪し>84>き配分を被っている。第2に、人々は必要とされる名声を拒否する文化的価値の制度化されたヒエラルヒーによって、同等性の条件の下で相互行為するのを阻まれることがある。その場合、彼らは地位の不平等すなわち誤った承認を被っている。第三に、人々は公的審議と民主的政策決定での平等な発言権を拒否する決定ルールによって、完全な参加を妨げられることがある。その場合、彼らは政治的不正義すなわち誤った代表を被っている。(pp.83-84)

 再帰的正義という概念は、現在の変則的言説の文脈にうまく適合する。こうした文脈では、「なに」「だれ」「いかに」をめぐる論争は、すぐには解決されそうにない。したがって、これら三つの変則性の結節点を、予期しうる将来にわたって持続する正義の言説の特徴と見なすことには意味がある。とはいえ、今日における第一段階の不正義の重大さを前にして、継続中のメタ議論を免罪符として扱うとすれば、それは想像しうる限りで最悪の対応であろう。つまり、言説の変則性を理由に、不正義をただそうとする試みを先送りしたり、追い払ったりしてはならないのだ。「再帰的正義」という表現は二重の関与を表し、二つの水準で同時に作動する理論家の様式を指し示している。不利な立場にある>101>人々のための緊急の要求を考慮しながら、それらの要求と組み合わされるメタ・レヴェルの意見の対立を分析すること。変則的な時代には、これら二つの水準は説きがたく絡み合っており、再帰的 正義はどちらも無視することができない。そのような正義の理論化は二つの水準の交差点で作用し、それらを往還しながら、たがいの欠点を軽減しうる強制的な能力を動員する。通常的原則と変則的原則はこのようにしてかき混ぜられるのである。(pp.100-101)

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◆内藤正典・岡野八代編『グローバル・ジャスティス 新たな正義論への招待』ミネルヴァ書房

伊藤恭彦「第6章 グローバルジャスティスの可能性−−国境の向こうにいる人々への義務を考える−−」

 すなわち個人、企業(資本)、政府が複雑に連携しながら生産活動を行い、社会的財を生産しているが、生み出された社会的財を生産に携わった主体の間でどのように分割すべきか。
 この分割を規制する規範が市場社会の正義、つまり分配的正義である。分配的正義は、市場では実現できない価値の実現ならびに市場がもたらす公共悪や不正義に対処するように、社会的財の分割を求める。格差や貧困を是正するならば、社会的財の一部をその対策のために使わなくてはならない。このことは個人に直接、分配される財が減少されることを意味している。社会的財の一部を貧困対策として切り取り、これを貧困者に生活保護などの社会保障制度を通して分配することは正当なのだろうか。本章は以下の2点で正義にかなうことだと考えている。
 第2は貧困が端的に人権侵害である点だ。だれもが人間的な生活を送る権利>138>(生存権)を持っているが、現代市場社会では市場の作用によってある人々を極端な貧困状態に置く。とりわけ本人責任に帰すことができない理由(病気、稼ぎ手の死など)で貧困に陥った人々を救うことは最低限の公平さを実現することである。第二は市場社会で暮らすあらゆる人々が貧困という人権侵害状況に転落する可能性があるということである。現在、安定した生活を送っている人も会社の突然の倒産、失業や疾病にかかるリスクなどを抱えている。今、生活保護が支給されていない人にとっても、それは最低限の保険としての役割を果たすだろう。(pp.137-138)

 グローバル市場の倫理的な問題性は少なくともの2点ある。第一はグローバルな制度がないことによって、一部の人々は余剰利益を得ることができている点である。国内市場と国内制度の関係でいえば、国内市場において人々は公共財を提供したり公共悪の拡大を抑制したりする制度に貢献し、そのために社会的財の一部を制度維持のために支出している。もう少し具体的に言えば、社会的財の一部が税として政府制度の維持に使われている。これに対してグローバルな市場においては、市場を規制する制度に貢献するための支出は少額である。・・・
 第二は第一位の倫理的問題以上に深刻である。グローバルな制度が不十分であるために、地球上の一部の地域では混乱が続いている。内戦に伴うジェノサイドなど人道的危機と言われる事態も頻繁に発生している。この種の危機を克服する方法はもちろん単純ではない。ここで注目したいのは、人道的危機をはじめとする個音欄を通して、一部の人々が利益を得ていることである。p.141)

 市場が社会がもたらす格差ならび底辺での深刻な貧困に対処する正義の規範内容は、おおまかにふたつある。ひとつは格差全体を問題にし、格差の解消や緩和をターゲットにする規範である。これは平等主義egalitarianismと呼ばれる。もうひとつは格差それ自体の解消や緩和をターゲットとするのではなく格差の底辺に置かれた人々の状況改善を優先課題とする規範である。これは優先主義prioritarianismと呼ばれる。優先主義について、デレク・パーフィットは「人々の状況が悪ければ悪いほど、その人々に利益を提供することが重視される」と定義している。p.144

 現在、実行されている世界の貧困対策も優先主義に基づくものだと言って良い。たとえば2000年の国連サミットで採択され、現在胃、進行中の「ミレニアム開発目標」(MDGS)は、2015年までに世界の貧困の半減をターゲットのひとつとしている。最底辺に置かれた人々の状況改善を目指し、残る格差を問題にしていない>145>点で「ミレニアム開発目標」の基本的な発送は優先主義である。「ミレニアム開発目標」はグローバルジャスティスを実現する有効な手段であると位置づけることができる。p.146

 グローバルジャスティスがグローバルである理由は、グローバル社会の基本構造をターゲットにしているからだと先に述べた。グローバルジャスティスは、グローバル社会の基本構造、とりわけグローバル市場の問題性を告発し、その是正を求める。グローバルジャスティスをめぐる議論が地球的に広がることは、グローバル市場の問題性と是正方向についての議論が広がることである。その議論は富裕国と貧困国の対立という局面を持つだろうが、同時に、地球に住むすべての人々の運命を翻弄しているグロ−バル市場の問題性を明らかにしていくことになるだろう。わたしたちは共通の何かを持っているときに対立する。対立は共通の何かを明らかにしていくことでもある。 グローバル・ジャスティスは、こうした議論を通して、一見無関係な富裕国内部の問題と貧困国内部の問題の連関を明るみに出していくのである。これは国境を越える連帯の基礎となる。p.149 岡野八代 「第9章 グローバルに正義を考える 日本軍「慰安婦」問題をケースにしながら  ・・・わたしたちはつねに、正義の問いかけ−−不正義にどう答えるか(responsiblity to injustice)−−にさらされていることを指摘してみたい。p.203  わたしたちは、少なくとも理念として、人には全て等しい価値、すなわち尊厳が備わり、等しい配慮を持って遇しないといけないことを知っている。少なくとも西洋の思想史を振り返れば、人は生まれながら等しい価値を持ち、自らの性を自由に生きることができる存在として、18世紀以降市民革命の中で、幾度もその理念gな確認されてきたはずだ。しかしながら他方で、シンガーによれば、わたしたちは「「自分たちの仲間」をひいきしてもよい、という常識も持っている。(p.211)  ・・・この「常識」は、現代に生きる私たちの常識にも強く訴えるものがある。「自分に類似している度合い」が、だれに親切にするべきなのか、だれに配慮し、だらには上記の合衆国市民の振る舞いに見いだされるように、だれの不幸を嘆き、誰の死を慎むべきかをも、決めてしまっているようだ。・・・  以上の議論からわかることは、正義を語ることは、こうした直感レベルの「仲間」を超えた、あるいは私たちの常識を常に批判し、吟味することを要請していると言うことだ・・・そして、18世紀の自然法に由来する近代的な人権思想こそが、仲間意識にとらわれがち−−たほうで、その仲間意識こそがわたしたちの日常の複雑で豊かな性を織りなすことを可能にしているのだが−−な、日々の私たちの生活を少し離れ、社会原理や公正さについての反省を迫るのである。p.212

 21世紀に入り注目を集めるようになった「修復的正義」は、制度論を中心とする正義論とその前提を共有していない。正義になかった社会制度を構築する際に、通常の正義論では、社会は健常者である、平等な男性成人を中心として構成されることを前提としている。他方で修復的正義は、この社会は強者と弱者、権力者と無力な者、社会的に烙印を押され続けた者が存在すること、つまり社会は不平等で、不正義を強要してきたという事実から出発する。修復的正義は、組織的犯罪・国家病力の被害者の多くは、そもそも歴史的に無視され、政治的声を持たない存在であり、平等な存在としては認められてこなかったという事実を直視せよと命じているのだ。したがって、甚大な被害に遭いながらも声を奪われてきた、あるいは声を奪われてきた存在だからこそ被害にあった、といった事実が理解されれば、暴力的禍害を引き起こした土壌である、現在の社会そのものを作り替えるためにも、被害者の>222>声を聴く必要性がいっそう理解されるようになる。

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◆Marie Duru-Ballat. (2014). Pur Une Planete Equitable L'urgence D'une Justice Lgolbale. Seul et la Republique des Idess.= 林昌宏訳『世界正義の時代 格差削減をあきらめない』吉田書店

 だが、「無知のヴェール」における熟慮は不条理な試みではない。「無知のヴェール」を全世界に通用する観点では、天然資源の不均衡かつ偶然による国家の配分は、正義の問題を提起するだろう。全世界の住民全員が、自分はどの国で暮らす運命にあるのかを知らないとしよう。そのとき、彼らは、天然資源は均等に配分されているので正義にかなっていると思うだろうか(ほとんど想像できないケース)、あるいはもっとも恵まれた者他者の利用がもっとも恵まれない者たちの利益になっているので、正義にかなっていると思うだろうか。この問いはかならず国際的な問題提起にいたる(どのように再分配するのか、どのような協力体制が必要なのか、という問い。)>50>
 というのは、フランスで生まれた子どもよりも、より多くの権利と機会をもつことは正当化できないからだ。その人がもつ権利に地理的な国境など関係ないのだ。格差は能力では説明がつかず、ほとんどの国では、自分たちの国の内部に存在する格差を解消させるのは当然だと見なされているだけに、ブランコ・ミラノヴィッチが主張する「バース・プレミアム」の概念 (自分が生まれた国から授けられるおまけ)を正当化するのは難しい。出生地という偶然性の強い要素がその人の運命に大きく作用する原則を、擁護できるだろうか。(pp.50-51)

 コスモポリティシャンは、外国人よりも身近な人々(あるいは同王国人)を特別扱いすることは当然だという論証についても異議を述べる。たしかに、身近な人々を特別扱いする気持ちは、直感的に理解できる。国の共同体では、そのような感情は日常生活によって強まるだろ>52>う。しかし、国への帰属意識が生み出す連帯感を過大評価してはならない。
 今日、アイデンティティやその形成方法は多様であり、個人の連帯意識は、必ずしも国籍や個人の帰属する集団によって制限されるのではない。個人の帰属意識を培い、運命や永遠とは無縁の心理を生み出すのは、世界の現状、各国の政策、さらにはナショナリズムそのものであるといえる(pp.51-52)

 コスモポリティシャンは抜本的な制度改革を主張するだろう。もっとも恵まれない人たちは絶対的権利を持つだけでなく、国際的な格差は、グローバルな正義に関する塚にどころのない問題も提起する。最貧困国の経済発展を支援するだけでは不十分なのだ。すなわち、グローバルな制度改革にも取り組まなければならないのである。グローバルな制度改革(そしてグローバルな制度改革を国家主義者に提示すること)にとって、世界レベルでの倫理面における問題は、極貧そのもの(絶対的格差)だけでなく、資源と機会のグロ−バルな配分なのだ。すなわち、相対的格差である。そこにあるのは運命ではない。つまり、出生地と地球資源の分配の双方が偶然にあるのなら、そうした偶然が人々の人生に多大な影響を及ぼすことこそ不公正である。
 だからこそ、天然資源のような格差を社会的利益や不利益に変える国内および国際的>70>な規則、そしてグローバルな制度を最高すべきなのだ。さらには、天然資源の概念自体、議論の余地がある。というのは、もう豊富にあるとはいえない世界の天然資源は、グローバルな規律や機構によって規制されているからだ。こうした確固たる政治的観点は、次のような考えに基づく。すなわち、正義は我々は同じ地球を共有しているという事実にしっかりと根ざしていると考えるのである。(p.70)

 こうしたことの実現のためには、ガバナンスを改善しなければならない。資本主義の原則でもある、私的利益を追求するための個人の自由というルールが支配する自由な領域は、放置できなったのだ。グローバルな市場が国に残された政治力に(ますます)勝利するようになれば、いったいだれが本質的にグロ−バルな問題を扱い、それらの解決に適した制度的条件を整えるのだろうか。両親の抵抗も重要だが、それらの制度的条件こそ絶対に必要なのだ。
 この点について、2つの疑問が生じる。1つは人々をどのように説得し、納得した彼らが今後は自分たちの代表者(そして国)をどう説得すれば良いのかという問題だ。もう1つは、(すべての変革の最終的原動力である)市民社会において、グローバルな正義の概念、すなわち、普遍的人権だけでなく、世界格差の削減も擁護するコスモポリティズムを、どうやって推進していけばよいのかという疑問だ。
 個人の倫理観についてイマヌエル・カントやアマルティア・センをはじめとする多くの哲学者は、公正な社会にするためには公正な機関(そこでは、人々は自分たちが公正な社会と思うような振る舞いをする)が必要なだけでなく、個人の日常的な行動を律する平等な精神が養われなければならないと指摘する。(後略)
 一部の哲学者や経済学者は、人々の寄付するように呼びかけている。少額であっても世界全体では効果的だという。されに、哲学者ピーター・シンガーが指摘するように、給付という善行によって寄付する側も幸福感が得られるので、給付は全員にとって有益だという・・・。 (pp.124-125)

裕福な個人に寄付するように促すのは、象徴的な意味を持つだけでなく財源を確保するためにも有効な方法かもしれないが、慈善事業だけでは不十分だろう。なぜなら、寄付によって貧困や格差の根底にある構造的な問題が、どのように解決されるのかは判然としないからだ。さらに、倫理観だけに依拠するのは脆弱である。というのは、我々自身(あるいは他者)が明確な価値があると考えることであってもそうした価値観を人々に押しつけることはできないからだ。(p.126)

 西洋社会では、それはだれにでも何か取り柄があると示唆する能力主義というイデオロギーである。なぜ一部の人々が貧しいのかを説明する際に、能力主義というイデオロギーは貧し>128>い人々自身に責任があると説明しようとする。たしかに、貧困の原因は、経済情勢(大量の失業の発生は、貧困の社会的原因をより明確にする)やイデオロギー的背景(たとえば、南アメリカ人は、格差の問題にきわめて敏感である)によって変化する。そうはいっても、貧困が最も重要な世界的問題であるという点ではコンセンサスがある。(pp.127-128)

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◆Johnston, David. (2011). A Brief History of Justice. Wiley-Blacwell. =押村高ほか訳『正義はどう論じられてきたか――相互性の歴史的展開』みすず書房

 正義の中心目的は、強者が弱者を虐げないようにすることにある。そして、この目的を達成する際に中心となる手段は、暴力的な報復で脅すことであり、それは弱者につけ込みかねないような人々に向けられる
 正義の目的をこのように表現すると、それは少なくとも身振りとしては、現代の社会正義の構想でおなじみの平等主義的な関心に向かっているように見えるかもしれない。実はその種のことは何もしていない。バビロニアおよびその他この時代の諸々の社会から現代に伝わる書物に組み込まれている社会正義の概念――このフレーズは待ったの場違いでこそないものの、この時代背景においてはアナクロニズムである――は、平等性とは無関係であるし、ましてや貧困からの救済とも無関係である。社会正義は、弱者に払われるべき者、すなわち、規制の改装における立場からその権限が与えられる法的身分や財産権、政治状況を不公平に奪われないよう、弱者を保護することとして構想されていた。弱者の権利ないし条件は社会の中でより高い身分にある他者が持つそれと平等、あるいはひけをとらないようであるべきだという示唆はない。(略)
 貴族が自分より身分の劣る者に対して振る舞う場合、貴族は刑罰を逃れることはできない。身分の劣るものは権利を持っているからである。しかし、彼らが身分の劣る者の権利を侵害した場合の刑罰は、同等の者の権利を侵した場合の刑罰に比べると、遙かに軽い。(pp.14-15)

 こうした著述によれば、正義がなされるのは法を犯す者に報復が加えられるときである。報復は概して過酷であり、場合によっては、親をののしることに対して死の覚悟が加えられるというように、少なくとも現代の感覚からすれば不釣り合いなまでに過酷である。
 人々が直接神に対して関与する犯罪への刑罰として神が加える、あるいは認める報復もあれば、人間型外に対して行う犯罪のために人間が加える報復もある。しかしまた、こうした報復に加えて、ヘブライ語聖書は第三のカテゴリーを描いている。すなわち、貧しい者や弱い者のために正義を守ることをし損じる人々ないし支配者たちに対して神が加える報復である。このテーマは予言者の書に顕著である。(p.22)

 バビロニア法と同様に、ヘブライ語聖書は、アルカイックなものとはいえ、一種の社会正義の構想として認識できる社会秩序のヴィジョンをはっきりと表している。そして、これまたバビロニア法と同様に、この構想は平等性よりも、弱く抑圧された人の権利を含め、権利に章典を与えている。こうした権利の保護をめぐる多くの箇所で、寡婦、孤児、異邦人その他がひときわ目立つのは、こうした人々の法が大多数の人々よりも自分の権利を侵害される大きなリスクを負っているからである。彼らの権利がなしているのは、慈悲ではなく正義の主張である。しかし、それらは平等性の主張をなしてはいない。古代のヘブライの立法およびその他の著述は不平等な社会秩序の文脈の中で書き残されており、この秩序の不平等性は防いであるとの示唆は、これらの著述には存在しない。(p.25)

 それゆえ、相互性の観念はこれらすべての古代の正義の構想において中心的な役割を演じているように見える事実、諸々の異文化比較研究が示唆するところでは、知られているすべての社会が相互性に妥当する価値にかなりの重きを置いている。そのため、我々が期待すべきは、事実の世界における諸々の慣行を綿密につなぎ止められているほとんどありとあらゆる正義の構想に組み込まれているこの正義の観念を見いだすことである。人々には受けた利益(恩恵benefit)に報いる(reciprocate)という一般的な義務があるという主張を、複数の世紀をまたぐ多くの哲学者が裏書きしている。(p.30)

 一般に、相互性は似たものに似たものを、あるいは少なくとも等しい価値に等しい価値を交換することを伴うと想定されている。しかしながら、社会学者や人類学者が長くしてきたように、実のところ相互性の観念の適用範囲は等しい者から決定的に等しくない者への交換にまで及ぶ。(等しい者から等しくない者までの)連続のうちの極端なところでは、ある集団は、受けた利益のお返しに何も与えないでも良いのである。関与ルするすべての比とが、自分が授けるものと投下の利益を受け取る交換のことを、バランスのとれた相互性の事例と呼ぶことにしよう。(交換は2つ以上の集団を伴いうると言うこと、また交換される「もの」は利益でも害でもあり得るということを念頭に置いて)。この投下という条件を満たさないあらゆる呼応感については、バランスを欠いた相互性というフレーズを採用しよう。

 正義がなされたかどうかを確かめること、あるいは正義がいかにしてなされうるかを決定することに対して、バランスのとれた相互性の原理が当てはまりうるのは、ある基準が交換される利益ないし害を比較する差異の基礎として利用可能である場合だけである。そのもっとも単純なケースが見いだされるのは、等の利益ないし害が同種のものである場合である。たとえば、同害応報においては、命じられる刑罰−−目を損なう、骨を折られる、等など−−は、こうした刑罰が科されるところの同害同一の種類のものである
 等の利益ないし害の種類が異なるとき、バランスのとれた相互性の考えが当てはまりうるのは、それらの利益ないし害が共通の物差しで測られうる場合だけである。多くのケースでは、できるのはせいぜいおおよその比較、おおざっぱな比較である。(略)
 この問題に対する最も重要な応答は共通通貨の導入である。もちろん、通過には複合的な目的がある。(p.35)

害を受けやすい者のために正義を擁護し、それに失敗する者を脅すことを約束する古代のバビロニアやヘブライのテキストは、のブレス・オブリー寿の原則に従ってこうした約束を拡大する。こうした約束では、貧しい者の諸権利の保護は強い者から弱い者への贈り物である。だがこの贈り物は階層関係を強くし、それゆえ強い者の特権的地位の維持を助長する。強度に中央集権化した権威が再配分をおこなう社会においては、物資の流れは一般的に貧しい者や弱い者を益し、そのため、厳密に物質的な意味では相互性の関係は貧しい者に味方する形でバランスを欠いた者となる。だが、中央集権化された再配分のプロセスそのものは中央の権威と交わり、それに従属する儀礼としてはたらき、支配者の重要性と権力を強くするのである。(p.37)

 『国家』は、魂に関する仮定的な二分割理論−−そこでは栄光の気概的追求が支配している−−によってその主要な特徴を捉えることができる戦士−英雄という理想を、哲学者−英雄といいうりそうに置き換える。この哲学者−英雄は、魂の理性的な部分によって支配され動機づけられた、よく秩序づけられた魂に関するプラトンの三分割理論によって描写される。この理論はプラントンの正義の構想の核である。彼の正義の構想は、世俗の事柄にまつわる現実的な行為にはほとんどかかわらず、性格的に究極的真理を追究するための生来の能力を持つ、少数の個人によるそうした真理の追及によりいっそうかかわっている。(略)たとえもし、哲学的性格を涵養するために企図された都市が地上のどこにも存在しなくても、あるいは存在しないであろうとも、そうした都市像は哲学適性が可能な者たちにとっての実際的な理想としてそれでもなお屹立しうるのである。(p.58)

 彼にとって、正義の第一の目的は正しく秩序づけられた魂の涵養であり、第二の目的は、正しく秩序づけられた魂を涵養するために、秩序づけられた都市を建設し維持することである。このような都市は、最も重要なことに、平等な者たちの契約的諸関係ではなく、素質と徳の点で不平等な者たちの階層的な諸関係に基礎をおいている。(略)プラトンの構想にとって中心的な人間たちの正義の関係は、不平等な者たちの命令と服従の関係である。この関係は当事者すべての性格に有益である場合にのみ正しいのであるが、強調して言うならば、それらは相互性の関係ではない。(.62)

 プラトンにとって、鍵を握る正義の形式は、よく秩序づけられた魂の諸部分の、そして異なる才能を持った人々からなる都市の諸階級の階層的な関係である。(略)正義を体現すると彼が考えた関係は命令と服従の関係であって、不平等な間柄であったとしても相互的な交換ではない。正義に関する初期の著作は決まって、平等者間のバランスのとれた相互性という考えを適用できる余地を残していた。他方プラトンは、バランスのとれた相互性には関心を示さないし、さらにはいかなる意味でも相互性には関心を持っていない。(pp.62−63)

 それゆえアリストテレスにとって、正義の−−つまり、個々人の公正な割り当てを扱う種類の正義の−−考えは、だれもが自然本性的に他の誰にたいしても命令する権限を持っていないという意味で、自由で平等な人々の関係に中心的にかかわっている。この考えは、個々人が受け取る割り当てに焦点を当てる−−そのような割り当てには、名誉、物質財、安全などといった利益の割り当てだけでなく、負担や損害などの割り当ても含まれる。そしてどの妥当な正義の理論も相互性の概念につなぎ止められている。(p.70)

 第一の前提として、アリストテレスは、当時のギリシャにおいてポリスとして知られる特殊な形態の政治共同地だけが、正義が意味を持つ唯一の場であると考えていた。彼の著作が提供するのは、正義の概念はポリスの外側にある人同士の関係に適用されうるという最小限の示唆だけであり、それがギリシャ世界を超えて適用されうる、あるいは通用されるべきだという示唆は全くない。第二の前提として、アリストテレスは、プラトンをはじめ、彼以前の多くの思想家たちとお堂用に、人間が自然に持つ能力のさまざまな違いは絶対的なまで大きいと信じていた。そこで次のようなことが帰結するとアリストテレスには思われた。すなわち、他の人々と絶対的に異なる能力を持つ人々は社会の中でそれぞれはっきり異なる社会的役割を割り当てられるべきであり、その役割にはそれぞれ異なる責任や権限がむず美つけられるべきであるし、またそれが社会秩序の中での様々異なる、平等でない地位を伴ったのだ、と。(p.93 )

 キケロによれば、人間は自然によってお互いから正義の理解を獲得し、その理解をすべての人々と共有すべく設計されていると言うことになる。人間は理性を用いることで、正義の諸々の指針の理解を獲得する。人々は皆理性の能力に預かっている。この能力は自然によって我々に与えられている。それゆえ、正義は自然的なものである−−キケロはこう結論づける。それはまた、人間の間で普遍的に通じるものである。それゆえ、一方では、すべての人間−−同国人だけでなく−−との関係は、正義の諸処の基準似従属する。言い換えれば、政治的なつながりや国籍といった中退を共有しているかどうかに関係なく、われwれは他者とのかかわりにおいて正しくある個とぉお自然によって余儀なくされているのであり、他者の法もまた同様に、われわれに対して正しくあることを余儀なくされている。他方また、諸々の個別的な制度や法律の如何を問わず、すべての人間に等しくあてはまるただひとつの正義、ひとつのまとまりとしての正義の指針ないし規則だけがあるのである。森諸の個別的な法律は人の意見なりkんしゅうなりの産物であるかもしれないが、一方、正義は反対に自然に根ざしている。それゆえ、正義は人間たちの間で普遍的なものなのである。(p.100)

 ホッブズが個々で政治的ないし社会的平等を擁護していたわけではないのは、まったく疑いない。彼の議論はむしろ、政治的、社会的不平等は人間の法理いつは制度の産物であって、前提条件ではないというものである。おのおのの人間は他のあらゆる人間の持つ権利と同等の自然権を有しており、したがってすべての人々を統治することになるコモンウェルスを設立するためには、すべての人々の同意が求められるが、とはいえコモンウェルスがひとたび設立されてしまえば、その諸々の制度や慣行は強度に不平等であるかもしれないのである。
 それでも、正義についての考え方の歴史の文脈のなかで、ホッブズの主張は重要なものであった。というのも、ホッブズの議論はひとつの世界から別の世界へとわれわれを運び出したからである。すなわち、人間が自然によって付与された素質において強度に(また通常は絶対的に)不平等であると想定した世界−−したがってバランスを欠いた相互性に基づいて裁きを割り当てるべく法律で成文化された地位や権利の不平等を、それ以上の議論を要することなく正当化できる−−から、一方では法的、政治的、社会的な不平等が、これら諸処の不平等の間での緊張関係故に正当化を要求し、他方では、どんな人間もし善によって、他のすべての人間が同じく自然によって賦与される諸権利と同等の諸権利を有するという小売りがあるという世界へと、われわれを運び出したからである。 (p.112)

 正義について考え方をめぐるこうした思考法が持つもっとも決定的な衝撃は、新たな問いを示唆することになった。すなわち、人間はいかにすれば、社会的世界の地勢図そのものを正しいものとするように、その地勢図を再設計し再建することができるのか、という問いである。この問いは正義をめぐる考察の主要素として十八世紀に現れはじめ、以来そうあり続けてきた。この問いが提起されてからずっと後になっても、正義の概念は社会的世界全体の地勢図に当てはまりうるということを否定することも、あるいは人間は熟慮に基づくいかなる設計に合わせて手でもこの世知製図の形を変えることができるということを否定することさえも、著作かあたちにとって可能なことであり続けたのは真実である。(p.122)

社会の階層構造は人間にそれぞれそなわった自然的目的の所産ではなく、人間観集の所産である。ここで考察している思想家たちは、その点で同意している。そして、その階層構造を想定する要因が、人間の意図に備わって行われる改革である点にも同意しているとしよう。その場合に彼らは、その計画の目的を何であるべきだと考えていたのか。>133>(略)
 人間が市民社会で結合することの根本目的は、平和の確保、そして生活を満喫するの必要な財の入手である。自然は、その「開かれた自由な手」を働かせても、これらの財をごくわずかしか与えてくれない。かわりにわれわれは、意識的な労働を通じてそれらを手に入れるべきなのだ。そして、その労働を通じてわれわれは、自然が与えてくれた材料を消費に適した財に作り替える。とはいえ、労働により利益が約束されるのでなければ、多くの人々は財の生産へ時間や労力を割くことに躊躇いを感ずるであろう。そこで私有財産の制度が、この保証を提供してくれる。獲得した財に対する、また占有している土地に対する権利を人々が得るとき、さらに政府が設立され、政府によってそれらの人々の諸権利が効果的に執行されるとき、彼らは、勤勉な人間、生産的な人間になろうというインセンティブを抱く。(pp.132-133)

 ヒューム、ベッカリア、スミス、そしてベンサムは、基本的正義を右のような目的に照らして定義した。ヒュームにおいて正義の本質は、私有財産の尊重であった。しかし、私有財産それ自体が正当化される理由は、その制度を採用すれば人間社会の生産性が高まるからであった。ベンサムがその定義をことのほか大きく拡張した点を除けば、スミスもベンサムも、ヒュームのこの正義観念から離脱したりしなかった。
 さらにスミスは、生産性や富の第一源泉が高度に発展した分業であると主張することで、その定義の信憑性を補完した。生産者たちはその分業に身を置いて、高度な専門的技能と高い能率を手に入れるのである。(略)スミスは、正義を私的財産権や契約の失効と同一視したのである。しかしながら、私有財産権や約束の履行が商業社会の成立以降に必要な基盤である、という認識を共有したが故にヒュームに賛同を寄せたスミスも、発展した分業から富がわき出てくるという点を示唆することで、やがてヒュームを超えていった。(p.145)

 しかしながら、それらの思想家は、幸福の増進という目的にしっかりと焦点を合わせることで、相互性の位置を正義の思考の中心からずらしてしまった。なるほど、正義という考え方は、アリストテレスの時代以前より長い間私有財産権の保護と結びつけられていた。しかし、当初正義がいずれの形に定着されたにせよ、その定義においては、実際上相互性の概念が常に中心にあった。矯正的正義は、「矯正のために」考え出されたものであり、「改善のために」考え出されたものではなかった。その目的は、幸福の増進ではなく、福利(当時の福利は現在とは異なった形で構想されていたが)の改良でさえなかった。相互性を中心に据える矯正的正義の目的は、不当に取得した財を返還するよう犯罪者を矯正すること、あるいは、犠牲者へ加えられた危害に相当する危害を加害者に課すことでありなお、それらによって攪乱された秩序を回復することであった。(p.146)

 カントの正義の理論は、したがって、彼の形而上学全体を支えているのと同じに言論に基礎をおいている。現象人本体人の間のこの二元論が、キリスト教の思考においてその最も早い時代から中心的な役割を果たしてきた身体と霊魂の間の二元論とよく似ていることは、指摘しておく価値がある。身体は目に見える自己である。霊魂は目に見えない。男女の本当の人格がそこに宿る自己である。この2つのペアのうち、キリスト教の思想では、霊魂のほうが遙かに重要なパートナーである。同じように、カントの思想でも本体人のほうが遙かに大きな役割を果たす。本体人の持つ物質的でない(「超感性的な」)属性こそが、カントの正義の理論の基礎なのである。(p.160)

 したがってカントの正義の理論とは、人々の外的行為に制限を、それも強制的に執行可能な制限を課すようなさまざまな道徳法則ないし自由の法則についての理論である。この理論の基礎は、正しい普遍的原理にある。(略)(P。166)

 彼らは、正義についてのさまざまな理想的尺度を利用するという考えを持っており、この考えを社会の制度全体の全面的な再評価のための基盤と考えた。その全面的な再評価とは、社会のさまざまな利用と負担が分配される仕方に焦点を合わせたものであり、それは社会を丸ごと返信させることを主張するために引き合いに出される者だった。この新しい視点に立って彼らが創りあげた広範囲に及ぶ想像力に富んだ構築物の数々は、究極的には彼らが見渡していた地勢図そのものを再構成する助けになったのである。(p.181)

 (略)ヘンリーシジウィックは、その新しい考え方が到達した問いのもっとも明瞭な陳述を提供した。(略)シジウィックは彼の『倫理学の方法』の中で、正義との関係における自然的な者の観念を手短に論じたのち、次の問いを発した。「現に存在するとおりの人間の間における、権利と特権、負担と苦痛の、理想的に正義に適った配分をそれらに基づいて成し遂げることができるような、何らかの明快な諸原理というものは存在するのか」(P.89)

 権利と特権、負担と苦痛の理想的に正義に適った配分をそれらに基づいて成し遂げることができるような、さらに全体としてのいち社会の諸制度を判定し、もしそれらにかけたところがあれば変革を求めるために利用されうるような一連の諸原理という観念。この観念は、社会的正義という考えに他ならない。この考えの明確化を可能にした準備作業は、アダムスミスによって遂行されていたし、イマヌエル・カントはそれが育つことになる領域にたまたま足を踏み入れていた。(p.189)

 功績の原理は、社会主義的な原理としても、リベラルな原理としても理解することが可能である。社会主義的な原理として理解された場合、有能でバイアスを持たない権威が、何らかの集合的に決定された功績の構想に従って報酬を分配するときにそれは実現される。リベラルな原理として理解された場合、諸個人が可能な限り自由に他者との取引を行い、個人として考えられたそれらの他人が進んで支払う気があるだけの報酬を受け取るとき、それは実現される。どちらの仕方で解釈されたとしても、功績の原理は、(略)旧体制の実践からの、それどころか過去に知らせたすべてかほとんどすべての社会で支配的だった実践からの、根本的な断絶を表しているように見えた。(p.197)

 19世紀において、社会正義の尺度という照合を巡って功績の原理に対抗する主要な選択肢となったのはニーズの原理である。この世紀の間に有名となった定式、「各人からは各人の能力に応じて、各人に対しては各人のニーズに応じて」は、19世紀の思想家で活動家でもあったルイ・ブランが作ったとされているが、その定式の背後にある中心的な考えは早ければ少なくとも18世紀の中頃には見いだされることが示唆されてきた。(p.197)

 すなわち、「各人からは各人の能力に応じて、各人に対しては各人のニーズに応じて」という定式は、功績の原理がそうであるように、二つの部分を持つということである。功績原理が述べているのは、その本質を取り出すなら、人々が受け取る利益(あるいは彼らが被る害悪)は、その価値において彼らがおこなう貢献に対して(あるいは彼らが引き起こす害悪に対して)等しくあるべきだということである。ニーズの原理(略)も同様に、人々が受け取るべき利益に関してばかりではく人々が行うべき貢献に関しても指示を与えている。しかしながら、ニーズの原理は、貢献の原理によって主張されている貢献と利益の間の結びつきを断ち切るのである。(略)
 ニーズの原理を相互性に基づく原理と考えるよりも、それを1つの目的論的原理と考えることの方が最もらしいこの原理の貢献の側、すなわち「各人からは各人の能力におうじて」の部分は、利益の側、すなわち「各人に足しいては各人のニーズに応じて」の部分から独立して規定されている。この原理の2つの部分はいずれも、それ自身の(部分的な)テロスがあることを示唆している。そして、貢献が全くなければ利益も存在しないことは明らかではあるが、ニーズの原理のどちらの部分も、他方の部分の基礎にある原理に影響を与えることなく変更されうる。(たとえば、「各人からは各人の能力に応じて、各人に対しては各人の交渉力に応じて」という原理を提案することもできる)(p.203)

 ゲームの評価というものは、こうした媒介変数によって定義された枠組みの内部でのみ、可能なものなのである。
 以上と同じ点が、社会正義の文脈における貢献と功績の観念についても当てはまる。それらが集合的に規定されるにせよ、ある活動が貢献としてカウントされるのは、ひとつの、あるいは一連の、定めたれた目的に照らしてのことでしかない。それらの目的は集合的に規定されることもあれば、社会の個別的に成員たちの何人かによって規定されることもあるだろう。そして、個人が貢献をおこなうのを可能にするのは、特定の規則や条件の集合であるが、そうした集合はその社会において社会的活動を形作るさまざまな規則と条件に依存する。たしかに功績は、私たちの功績を、人に対して、特定の規則や制度的枠組みからは独立して帰属させるという意味で、自然的な(あるいは「前政治的」な)ものであると主張されることもある。しかし功績の中には、それがまっとうなや>207>り方で稼がれることが、あるいはそうは言わないまでも獲得されることが、その意味が観衆や社会制度によって形作られるような行為を通じてであるような種類の者がある。こうした種類の攻勢期に関しては、その主張は説得力を持たない社会正義に関係してくる功績の要求のほとんどはこの種のものである。(pp.206-207)

 平等の基準の主要な難点の一つは、社会的生産物の分配が社会の成員たちに対して(基本的ニーズが満たされた後は)平等なだけおこなわれるとしたら、その配分は、その生産高に対してもっとも貢献した成員たちの側に>210>おける重大な自己抑制を必要とするだろうということである。人々は一般的に、彼らのお互いに対する関係をそれらが少なくとも広い意味で相互的であるときに正義に適っているとと耐える。彼らが自分たちの労働から報酬を得ることを期待するのは理に適っている。平等の基準によって補足されたニーズの原理はそうした報酬を彼らに拒絶することになるだろう。というのも、その原理が宣言するのは、社会的生産物は人々が彼らの社会とその成員たちに足しいておこなう貢献を度外視して分配されるべきだと言うことだからである。平等の基準によって補足されたニーズの原理は、それが社会的正義の唯一の原理となるならば、人々から彼らの労働の成果を奪うことになるだろうし、共通の社会的積算物に対して人々が貢献するものと、結果的に人々の生産となるその生産物の取り分との間のあらゆる結びつきを切断することになるであろうし、そして相互性の観念を正義の領域から追い出すことになるだろう。(pp.209-210)
 バランスのとれた相互性の概念においては、他人に押しつけられたどんな害悪も同等の害悪によって返礼される。功績の原理は、この概念を正義のあらゆる側面に無差別に拡大する。けれどもバランスのとれた相互性の概念は、社会正義という考えが負わせる重荷を背負うことはできない。(略)正義という勢力図を全体として構築しなおすという目的のためには、もっと重たい道具が必要とされる。バランスのとれた相互性の概念は人と人との間の正義に適った関係を形づくりには重要な役割を演じる。しかし、少なくともその単純な形態においては、それは社会的正義という勢力図全体を評価するのには不適切である。

 ニーズの原理は相互性の概念をまったくなしですませてしまう。この原理は、いかなる説得力ある正義の着想にとっても根本的である前提−−どんな人間も価値を持つという前提−−を体現する一方で、そうするためには人と人との間の関係における正義を掘り崩してしまうという対価を払っている。
 これら2つの原理によって提起されるいくつもの困難に対処するひとつのやり方は、社会正義という観念から完全に退却することだろう。正義の概念は人と人との間の個別的な関係のために仕立てられるのであって、全体としての社会の制度や社会の取り決めに対して意味ある仕方で通用することはできないのだ、と論じることもできるかもしれない。あるいは、次のように論じることもできるかもしれない。すなわち、私たちは確かに社会の制度や社会の取り決めの正義または不正義について評価することができはするが、この種の評価が意味をなすのは、それが問題になっている取り決めにあらかじめ内在している尺度に基づくものである場合のみであり、しかたがって理想的で独立した社会正義の尺度という考えは意味をなさないのだと。(pp.211-212)

 彼のトピックは社会正義であり、そして彼の見解では社会正義の理論の適切な主題は社会の基本構造なのである。
 なぜ社会の基本構造に焦点を合わせるのだろうか。ロールズの主要な論拠は、ある社会の基本構造をなす制度と実践こそ、その社会の成員たちが、絶対的な尺度においても他人との比較においても、人生においてどれだけ良い暮らし向きができるかを決定する者なのだということである。実際には、彼の理論の真の対象であるのは、基本構造そのものというよりも基本構造から帰結するさまざまな利益の分割である。ロールズにとって正義の観念は、主として、人と人との関係を持つ性格にではな>220>く、社会における特権と剥奪の所在を決定する地形に当てはまるのである。(Pp.219-220)

 ロールズが主張したいのは、完全に正義に適った社会(略)という者の特徴を理解することによってのみ、私たちは、現実世界における正義をめぐる問いにアプローチするための基礎となる、体系的な把握を獲得しうるのだということである。ロールズが理想理論を非理総理論よりもいっそう根本的だと考えるのは、理想的な状況で適用されるであろう正義の原理についての健全な構想を最初に展開したならば、非理想的な社会で生じる正義の問題に対する解決をもっともよく考案することができると彼が信じているからである。(p.222) 

 ロールズの鍵となる問いは、ほぼ1世紀前にシジウィックが提起した社会正義についての問いの、すなわちそれをもとにして私たちが権利、特権、負担、そして苦痛の理想的に正義に適った配分を発見できるような何かの明確な原理を見つけることはできるかという問いのひとつのヴァリエーションである。しかしながら、次の点に注意しよう。すなわち、シジウィックはこの問いを「現に存在するとおりの人間の間」でのこれらの物事の分配に関して提起したのに対し、ロールズはその問いを、相互利益のための協働の企てとして考えられた所与の社会の成員たちの間での利益の配分をめぐる問いに狭めたという点である。私たちが社会正義についての一連の受け入れざるをえないような原理を見つけることができるのは、私たちの探求の射程を全人類にまで拡大するのではなくてそれを特定の(仮説的であったとしても)社会に限定することによってのみであると、ロールズは考えていたように思われる(p.227)

ロールズは人間は価値においては互いに平等だと想定している。この想定は、自由で平等な人格間の社会的協働の公正な体型としての社会という根本的な直感的考えから彼が出発していることによって明らかにされる点のひとつである。けれども彼は、社会の全成員は複雑な分業を通じてのみ獲得される利益から益を被るということ、そして数々の不平等はそうした分業の避けがたい副産物出ることも想定していた。ロールズの前提は平等主義的なものであるが、しかし彼が到達する社会正義の原理はそうした全員の利益のために働く(と彼が信じた)不平等を正当化するために設計されている。(p.231)

 社会正義についての健全な考えがバランスのとれた相互性の規範に根ざすものであるとしたら、そのとき、ロールズがおざなりに片付けてしまった功績の概念も、結局のところ社会正義も含めて私たちが正義について考えるときの仕方のうちでひとつの役割を演じることになるかもしれない。AとBという2人の人たちがいて、相対的に平等であるとしよう。このときAがBに利益を与えたなら、次のように言うことには意味がある。すなわち、Aは彼女が与えた利益と価値において等しい利益を見返りとして受け取るに値するし、Bは彼が受け取った利益のお返しとしてAに利益を与える正義の義務があると。同じように、もしQがRに対して害悪をおよび押したとしたら、そのとき、いかなる特定の社会正義の構想からも独立して、Qはその見返りとして害悪を受け取るに値すると言うことには意味がある。
 もちろん、そのもっとも単純な形−−相対的に人に等しいものたちの間の双方向的な関係に当てはまる形−−におけるバランスのとれた相互性の規範は、複雑な状況での人と人との間の関係における正義に対する導きとしては不適切である。多方向的な状況や、人々が不平等に位置づけられている状況では、、非土地人との快打の関係における正義へと通じるであろう社会的取り決めは平等な者同士の間の単純な双方向的関係に対しててはまるものとは劇的に違うことになるかもしれない。こうした状況をも受け入れるためには、重大な調整が必要となるであろう。(略)
 それゆえ、どうして次のような結論にいたるのかを見て取ることができる。すなわち、功績の概念は正義について考えるしかたのうちで重要な役割を果たすけれども、だからと言って私たちが功績の原理(貢献原理)を支持することにも、そのもっとも古典的な形(平等だと想定された者同士の間の厳密なバランスのとれた相互性に基礎をおく形)での応報主義的な考え方を支持することにもならないのである。社会の基本構造に当てはまる正義の原理が人と人との間の単純な方向的関係に当てはまる正義の規則とは区別されるということを見て取った点で、ロールズは正しかった。事実、彼の洞察は社会の基本構造に加えて多くの主題に一般化することが可能である。けれども正義の原理がそのために設計されている固有の主題を答えようとしたときにもそれらの原理が人間にとって認識し受け入れることが可能であるとしたら、それらは正義の感覚に根ざしたものでなければならない−−相互性および功績の概念を通じてもっともよく表現され感覚に。(pp.241-242)

 ニーズの原理は、人間がこれまで抱いた願望のうち、もっとも交渉で寛大なもののいくつかを表している。とはいえ、ニーズの原理もまた、欠陥を持っていた。というのもそれは、一者が他者になす貢献と、彼らが受け取るべき利益との連関を切断してしまったからである。ニーズの原理は、正義の感覚について説明してくれない。しかし、人間関係における相互性の感覚が組み込まれているのは、正義の感覚のうちなのである。(略)

 ニーズの原理と同様、公正としての正義は、人間社会の公器で寛大な観方を表している。しかしながら、整理されたものであるにもかかわらず、また、創始者が善良な意図を持っていたにもかかわらず、公正としての正義の理論もまた、正義の感覚を無視し、その感覚の中核にある人間関係の相互性と正義とが不可分だという利点を理解しようとしない。社会正義の近年の理論は、その高尚さにもかかわらず、相互性の概念と密接なつながりを持つ正義思想のルーツと接点を保つことができないでいる。(pp.243-244)

 正義の概念は洗練、改良、(潜在的に)変容を経験している。しかし一般に道具に対してそう願うように、正義の概念に対してもわれわれの役に立つように願ったとしても、その概念は無限に柔軟であるわけではない。なお、われわれの望む形にそれを発明しなおすことなどできない。もし、正義の思想が、恣意的な創作としてではなく、「正義の」思想として認識され受容されることを望むのであれば、われわれは、正義の感覚にとって根本的に重要な本能にも注目を払わねばならない。(p.246)

 グローバルな関係における、この持続する組織的な不正義は、世界人口の多くが悲惨な状況に置かれていることの実質的な責任の一端を担っている。グローバル正義の中心的な問題は、そして今日の世界の不正義の喫緊の問題は、第一に、もっとも力の強い者が、以下のことを躊躇っていることに由来し、多くの不公正な国際的取引の堆積された不正義を矯正する体系的な手段が欠如していることに起因する。すなわちもっとも力の強いものは、弱者と関わる際に相互尊重や相互性という条件に従おうとしない。もとよりその問題の原因は、その裕福な国>252>家が、その社会的生産物を貧しい国の人々の分け与えようとしないことではない。グローバル不正義という問題は、裕福な社会の社会生産物を不公正に配分していることともあまり関わりを持たない。むしろその原因は、多くの人々が考えている以上に、相互尊重や国境を越える相互性の不在とかかわっている。(pp.251-252)

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◆Fleischacker Samuel. (2004). A Short Histroy of Distributive Justice. Harvard College. = 中井大介『分配的正義の歴史』晃洋書房

 近代の「分配的正義」が国家に求める保障とは、社会全体での財産の分配によって、一定の物的手段がすべての人間に提供されることである。分配的正義に関する論争で注目されるのは、保障されるべき手段の総量と、分配されるべき手段を確保するうえで必要な国家介入の程度である。この2つは関連し合う問題である。すべての比とが手に入れるべき財の水準が低めに設定されていれば、適切な分配が市場で保証されるかもしれない。すべての人間が福祉的保護という十分なバスケットを手に入れるべきだとすれば、市場の不完全性を修正するために国家が財を再配分しなければならないかもしれない。すべての人間があらゆる財を均等に手に入れるべきだとすれば、私有財産制と市場は財を分配する国家制度に取って代わられる必要があるだろう。このように分配的正義は、財産権を正当化するさいに避けがたいものの、また、私有財産を拒絶することさえ必要としうるものと考えられている。(p.6)

 しかしながら、功績に応じた報償を求めるアリストテレスの「分配的正義」は、主に政治的地位の分配に関わる言葉であって、財産権に関わる言葉と見なされていなかった。古代と近代の分配的正義の意味は、一見観ただけでも大きく異なるのである。さらに、古代の原理には功績に応じた分配に関わるのに対し、近代の原理は功績とは無縁の分配を要求する。近代の考え方の場合、すべての人は功績とは無関係に一定の財に値すると想定されている。つまり、すべての人間に基本財(家屋、医療、教育)が分配されてからでなければ、功績に応じた分配は始まらないのである。政治的地位は社会的・道徳的地位に応じて分配されるとアリステレスが記したさい、彼がこのような問題−−功績とは無縁の分配−−を想定していなかったのは明らかである。(p.7)

 アリストテレスは分配的正義を物質的な財ではなく政治的な財に適用する場合に、たんに構想の点で我々と異なっているのだと指摘するのは容易い。そのとき我々は、分配的正義という概念を異なる対象領域に適用しているのだが、その同じ概念がいずれの適用でも機能すると言うことになる。しかしながら、アリストテレスが分配的正義を功績と結びつけるとき、きわめて大きな相違が存在するように思われる。アリストテレスにとって、報償は本質的に功績と結びつけられている。人間はそれが必要だからそれを受け取るに値するという考え方は、アリストテレスの枠組みでは不条理なのである。アリストテレスの駆使する「分配的正義」という概念でさえ、単に「正義や衡平に適用されうる」ではなく、「正義や衡平は人々が功績に値する財の分配に適用される」という考え方として、もっとも首尾良く定義されるように思われる。アリストテレスの分配的正義という概念にとって、功績という考え方−−人間は優れた性質や優れた行為故に何かを受け取るに値する−−が機能するのは、偶然ではなく本質的なのである。同様にして、人々は自分が備>19>えた性質上の特徴や果たした行為とは無関係に一定の必要な者を受け取るに値するという考え方は、近代の分配的正義にとって本質的なのである。(pp.19-20)

 近代の見解の1つに次のようなものがある。労働者たちは、彼らの果たす過酷な仕事に対して、あるいは共通善に向けた彼らの労働という貢献に対して、十分に埋め合わされていないのだと。これが頼りにするのは、働くと言うことは功績である−−おそらく経済的報償に該当する唯一の功績である−−という仮説である。アリストテレスは、働くと言うことが特別功績に値すると考えていなかった。それでも、これは我々との間にある小さな相違かもしれない。それより問題なのは、近代の考え方が労働という功績に対する請求権を頼りにできないという事実である。近代になって分配的正義の旗を掲げて行進する人々は、分配的正義という考え方を次のように位置づけてきた。すなわち、労働市場に参入する前のことどもや若者のために穏当な「出発地点」を要求するもの、障がい者と構造的失業者のために支援を要求するもの、あるいは社会主義的計画の一環として用いられる場合には、「彼の貢献に応じた」分配よりも「彼の必要に応じた」分配を要求する者なのだと。これらの見解は、人間は労働への報酬として物質的な財を受け取るに値するという主張によって正当化されるものではない。(p.20)

 スミスにとって「分配的正義」は、単に貧者への慈悲ではなく、「あらゆる社会的美徳」に結びつけられているのである。そこで維持されている意味合いとは、近代の分配主義者が想定するような、功績とは無関係に財が手渡されるように要求するということではなく、むしろアリストテレスが想定したような、財を功績に釣り合うようにさせるということなのである。(p.40)

 むしろスミスは用語の問題として、「交換的正義」が危害からの保護を意味し、「分配的正義」があらゆる社会的美徳のための包括的な語彙とされるところの、歴史的区分を受け入れている。そしてこのような区分に従ってきた伝統からすれば、分配的正義は財産の配分とほとんど関係ないものである。スミス以前の法思想家(略)において、分配的正義の名のもとに財産権を正当化するものは誰一人いなかった。財産に対する請求権は、財産の侵害のような交換的正義の問題であって、分配的正義によって財産を請求する権利などだれにも与えられていなかった。(pp.40-41)

 アクィナスによると、私有財産は神の法によって人類に許可されるものである。なぜなら、通常すべての人が自らの必要を満たすのを可能とすると同時に、貧者への支援を可能とする優れた方法だからである。しかしながら、必要性が「きわめて差し迫った深刻なものであり、・・・当面の必需品を手近な場所から調達しなければならない」場合には、財産を管理する通常の規則よりも、財産の根本目的が優先権を得ることになる。そして「個人は、自らの必要を合法的に他者の財産から供するだろう。・・そのような状況では、厳密な意味での窃盗や強盗は存在しない」のである。それゆえアクィナスにとって、このような絶望的状況にある人が必要なものを手に入れるのは、正当化される窃盗−−財産権に優先する必要性によって合法化される財産の侵害−−ではなく、財産の体系の内部に収まる合法的行為−−財産権に関する正常ではなくとも正当な事例−−なのである。通常、財産への請求権は必要性によって決定されるのではないが、極端な欠乏や生存のための必要性は、財産への正当な請求権を生み出しうる。緊急時を生き抜くために必要な財産を人々に与えるという場合に、分配>43>的正義ではなく、交換的正義の題目の下にアクィナスが必要性という権利を捉えている点は注目に値するのであり、それはグロティウスとその追従者の議論に受け継がれることになる。(pp.42-43)

 全体として彼の中心的な関心は、物質的な財の私的所有がキリストとの真の霊的交流を妨げると主張するような、極端な宗教的禁欲主義に対して異議を唱えることにあった。(略)アクィナス発議のように主張する。神は「外的な者に対知る自然的支配」をわれわれに授けるのであり、そのような支配をもっとも平和的かつ効率的に行使する方法こそが、個人の財産権という形態なのであると。(p.52)

 一連の科学的・政治的発展と平行したこのような態度の変化を通じて、貧困の撲滅が可能だという見通しが立つようになり、近代の分配的正義という概念は、ここから生まれることになった。18世紀末までに、国家こそは人々を貧困から救い出すことができる存在であり、そうすべき存在なのだ。貧困にふさわしい者などだれも存在しないし、誰も貧しくなる必要などないのだから、財を分配内資産分配することは、少なくとも部分的には国家の仕事なのだ、という信条が明瞭に見いだされるようになる。このような信条は、広く浸透していなかったが、フランス革命末期に「グラックス」バブーフに先導されながらも失敗に終わった反乱を通じて表面化し、19世紀を通じてさらに一般的なものとなった。ただし19世紀においても、財の再分配は公正なものにはなり得ないし、貧しい人間が飢餓の淵に暮らすのは良いことなのだとする、強く敵対する信条−−18世紀の所産でもあったもの−−とかく等しなければならなかったのだが。(p.81)

 ルソーにとって、社会の問題は社会の手で解決できるのであり、我々が自らもたらしている疥癬にはホメオパシー療法が効くのである。よき国家−−つまり献身的な市民からなる民主的国家−−は、実質的にすべての悪を克服できる。国家ができること、国家がなすべきことに関する、このような非常に大きな構想は、後年の改革者や急進形に大きな影響を与えることになった。貧困を最小化したり排除したりする財産の再分配は実行可能である。このような信条こそが、近代の分配的正義の概念へとたどり着くためには、不可分な前提のひとつであると思い起こす必要がある。p.86

 第一に、重要性こそ劣るものであるが、彼は『国富論』で分配主義的な提言を行ったということである。少なくとも次の3つの方法を通じて、富は再分配されうる。@富者から貧者へと財産を直接移転させること。A富者には貧者よりも効率の税を課すこと。B大半が貧者の利益となる公的資源を提供するために、富者と貧者の両方から集めた税収を用いることである。スミスは、この2番目と3番目に該当する提言を行ったのである。
 このなかで最も重要なものが、公立学校の推奨である。スミスは、ある種の労働に認められる精神を鈍磨させる性質こそが、先進経済におけるもっとも危険の1つであると述べている。そして、道徳的・政治的な判断力を授ける教育を労働貧民が受けられるようにするためには、国家が対策を講じるべきだと論じている。(略)>95>

 スミスは、年季奉公制の撤廃、貧しい労働者のための住居案件、奢多禁止令を提唱しているが、これらは消極的な提案であり、物質的な財を人々に提供することよりも、人々の自由に対する障害を取り除くことを目指すものである。我々の目から見た場合に、スミスの消極的な提案が物足りなく感じられるとすれば、次のことを思い起こす必要がある。貧しいものたちは、貧しいままにおかれる必要があり、でなければ働くなくなってしまうだろう。貧しいものたちは、そもそも怠惰な人間であり、必要性だけが飲酒や放蕩によって彼らが無駄な時間を費やすのを防ぐだろう。スミスが著述活動を行っていたのは、このような考え方が一派的な見識であった時代なのである。(pp.94-95)

 スミスの描く貧民像は、現代の我々が当然視するかもしれないが、それはかなりの部分が、彼の著作の与えた影響である。それは、彼の時代の態度を確実に転換させた。スミスは、「貧困問題」とは何であるのかという我々の考え方を変化させた。彼の先人たちの間で「貧困問題」は、主に低い階級の人々の悪徳と犯罪行為をいかに対処すべきか、という問題であった。>97>(略)
 貧者は暮らし向きの良い人々よりも劣っているという考え方を、スミスは辛らつに批判する。貧者が有する美徳と技能を軽蔑的に描写しようとする虚栄心を、スミスは『国富論』で繰り返し攻撃する。彼は、他の全員と同様に本来的な能力を備えた人間として貧者を描き出しており、「異なる人々の間にある生まれつきの能力の差異は、実際に我々が認識しているよりもはるかに小さい」と述べている。(略)両者の間にあるとされる大きな乖離は、その大部分は習慣と教育がもたらしたものであるという。(p.96-97)

 むろん、個人的にはそれぞれ善人であったり悪人であったりするのだが、スミスは自著の読者(大半は暮らし向きの良い人々)に対して、標準的な貧しい人々を自分の友人や親戚や自分自身の代表に見なすべきだと促す。貧しい人々は、知性、美徳、野心、利害関心において他の人間と変わるところが泣く、だからこそ、権利、報償、尊厳においても等しいのである。このように、貧者は尊厳の点で他のすべての人と等しいからこそ、我々が自分の友人や知人に与えるものに値する存在であると描写することによって、貧困それ自体を気概と見なすことが可能になるのである。そして我々が好意を持ち、尊厳を抱いている人物に対して、我々は貧困を負わせようとしないだろうからこそ、貧困それ自体をだれに対しても負わせるべきでないと考えることが可能になるのである。国家は、人権を強く擁護していくなかで貧困の廃絶を試みるに違いない。このように考えることができるようになったのは、貧困は単に運による違いに伴うものではなく、人々の家柄に伴うものだという、何世紀も疑問に付されずに君臨してきた見解に対して、スミスによる気品に満ちた貧者の描写が取って代わられたそのときであった。(p.99)

 近代的な考え方にとっては、貧者は一定の援助を受けるに値する存在である、と信じ込まれていることが不可欠である。とはいえ貧しい人間が、自然や神によって社会階層の底辺に指名されているとか、本質的に不道徳で怠惰な存在であるとか思われているようでは、そのようなことは信じ込まれていそうにない。(略)おそらく我々が望むのは、自分の友人や知人が、必要に迫られてではなく自ら好んでは働くこと飢餓や無著に対する緩衝材を手に入れること、そして悲惨な社会状態の回避を可能にするような十分な教育、健康、財源を手にすることである。(p.100)

 教育、医療、失業保険などが、すべての人に行き届いていないのはなぜか。このように問いかけることが、自然なことになる。一度このような問いが発せられるようになりさえすれば、>101>とりわけすべての人間を雇用するというスミスが抱いた自由経済に関する楽観論を手放してしまいさえすれば、何らかの形式の福祉国家が道徳的に必要である、と考えられるようになる。(pp.100-101)

 しかしながら、現代のリバタリアンとは違って、私有財産権と課税の間に生じる全般的な緊張関係について、あるいは再分配のための税金の使用が全員の財産権の保持という国家の義務と衝突しうる可能性について、カントは懸念を示していない。それどころか彼は国家に対して、病人や孤児のために、学校、病院、その他の施設を××するように、さらに納税者の負担で直接貧困救済を提供するように促すのである。実際のところ、このような施設のための支援は、自発的なものではなく、全市民の義務とされるべきものであり、公営の宝くじよりも課税を通じて果たされるべきである、と彼は明言している。だからこそ、今日の政治領域におけるもっとも極端なリバタリアン右派に対して、カントは価値ある議論を提供するのかもしれないが、その政策提言によっては、多くの福祉自由主義者よりもカントは左派と見なされるのである。(p.104)

 他のものとは、慈善という美徳に関する非常に興味深い着目なのであって、施しを与えることは、施しを受ける人の「品位を汚す」一方で、「与える人のプライドを褒めそやす」、とカントは述べている。カントによれば「施しを認めることで貧者の存在を汚すような方法ではない、何かほかの方法で貧者が救われえないかを検討する「ほうがよい」とされる。カントの見解によると、国家による貧者への支援は、私的慈善>107>よりも道徳的に有益である。カントが懸念するのは、暮らし向きの良い人間が気前よく貧者に授ける場合の私的関係に内在する道徳的な堕落である。そして彼が期待を寄せるのは、貧者と富者が互いにもっと尊敬される関係を、国家が提供することである。(pp.106-107)

 私は、自分が他者よりも優れていると考えるとき、道徳における根本的なものを犯すことになる。そうではなくすべての他の人間は、彼ないし彼女自身の目的を持つ存在、まさに私と同様に良き生活への十分な権利を持つ存在であると見なされなければならない。だからカントは、他者の必要よりも権利に着目する方が良いのであり、そのような権利への適切な尊重こそが慈恵の主要な義務になると考えたのであった。(p.108)

 貧者の世話は、特別な美徳の表明というよりも、互いに対するすべての人間の義務の一部であって、道徳的に等しい人々が違い抱く義務の一部に違いないという見解にとって、このような議論はうまく適合する。貧者のための国家の支給を正当化するカントの疑問によれば、すべての人間は、自らが他者を支援する共同体の一員であることを、等しく認識すべきなのである。また互いの権利の尊重は、このような相互支援の基礎として、一方では感謝に、他方では慈善によって変わるべきなのである。今日でさえ福祉国家を支援する多くの人々が、インスピレーションの源泉の一つとしてカントを回顧することは、決して驚くに値しないのである。(p.109)

 このような主張を踏まえれば、アリストテレス的な見解では著しく解明が困難であった分配的正義に関する前提を、我々は用意することができる。今や人間に価値があるのは、単にアリストテレス的な意味での卓越を示す「諸美徳」をそなえているからではない。人間は彼ら自身に価値があり、そして合理性を備えているという点において、すべての人間に等しく価値があるのである。(略)根本的な水準において、すべての人間に等しい価値があり、すべての人間が等しくよき生活に値するのである。そのようなよき生活を実現できるようにするために人々を援助すること、合理的意志を行使できるようにするために人々が最低限必要な財を持てるように援助することは、いまやたんなる親切な行為というよりも、むしろ義務となるのである。(p.110)

 バブーフはさらに一歩進んで、平等な富という自然権から、社会が富を平等化するという要求に目がけて、まっすぐに線を結ぶ。自然はすべて人間に対して、「あらゆる富を享受する等しい権利」を授けるというのが、バブーフの見解が世に広められたさいの12あるうちの第1原理であった。また「社>117>会の目的は、しばsびあ自然状態において強者と不道徳な人間によって攻撃されるこのような平等を守り、すべての人間の協力を通じてこの平等の享受を増大させることである」というのが第2原理であった。だからこそ、あらゆる国家の目的に関するロックの基本的な議論−−国家は我々が自然状態で手にする権利を強化し首尾良く保全することができる−−は、個々でロック自身が理想とすることのなかった権利へと適用される。すなわち、等しい経済状態に対する権利である。正統な政府に関するロック的な見解を前提とすれば、共産主義的な国家だけが正当化されうる、とおいうわけである。それ以前の西洋の政治的伝統に連なるいかなる著作においても、このような議論を見いだすことは不可能である。(pp.116-117)

 むしろ問題になるのは、貧困生活に陥らないということをバブーフが政治的権利に繰り入れたこと、さらに一定の社会経済的地位に対するすべての人の権利をバブーフが初めて政治的課題に載せたことである。−−それは貧困が良き市民となる人々の能力を妨げるからではなく、人間としての人々にとっての貧困が侮辱であって、実際裁判にかけられるべき損害だからである。−−(p.118)

 これは、フランス革命の勃発後に次のようなイデオロギーが急拡大してゆく兆候の傍証に過ぎない。すなわち貧者が持つべき権利とは、単に富者の事前への道徳的寄席遺丘を頼りに生き残る権利ではなく、経済条件の改善に対する法的権利なのだというイデオロギーである。(p.121)

 というのも救貧法が廃止されるべきだという理念や、貧者の飢餓が歓迎されるべきだという理念は、実に新規で非伝統的なものだったからである。前近代版の貧者例外主義は、次のような切りそうと今日の信条にそうものであった。すなわち、全人類は「必ずしも互いの目から見ればそうではないが、神の目から見れば」等しいからこそ、「キリストの慈善に値する」のだと。だから貧者の上を祝福するのは、不適切なのであった。また、そのような上を緩和するための支援を国家が事前の名の下に実施することは、過ちではなかった。(p.125)

 したがって、後年のリバタリアン的な人々の主張に踏み込む際には、分配主義に反発するスペンサーの事例に注目しなければならない。以上を要約すれば、スペンサーは次の理由から貧者への指示を国家が差し控えるべきだと信じたのであった。@貧者は生存に適さぬ集団から構成されており、いずれに>137>せよ助かり得ない。A不適者が死に絶える社会進化の過程は、そのままに放置されれば貧困を克服することになる。B社会を制御するのは不可能であり、貧困問題を克服しようとする政府の試みは失敗に終わる。Cそのような政府の試みは慈善という美徳を蝕む。Dそのような試みはその目標が必然的に不明瞭であるため、さまざまな法的問題を引き起こす。Eそのような試みは詩的財産権−−この保護は政府の主要目標である−−を覆すことになる。(pp.136−137)

 マルクスが述べているように、18世紀のアメリカやフランスにおけるさまざまな権利の宣言(マルクスは合衆国憲法だけでなく、複数のアメリカ種上kんぽうの宣言も考察している)は、「人間と人間との分離のうえ」に構築されている。実際それは、各人を「他者および共同体から分離されたもの」と見なす方法を、格率ないし擁護しようと試みるものである。これらの宣言における「隔離された個人」という考え方は、実際「18世紀の個人こそが理想であるかのように想像力を働かせた18世紀の提唱者」の道徳・政治思想の所産なのである。(p.146)

 社会には、それ自体が抱え込んでいる病癖を実質的に治癒する力があるのだ。このような見解は、ヘ>156>ンリー・シジウィックが正義の基本問題を次のように提示する際に暗示されている。「人類の間での権利や特権、負担を苦痛に関して完全に公正な分配を成し遂げる明確な原理は存在するのか?」と。個々で前提とされているのは、我々はそのような分配を実行しうるし、そのようなプロセスへと導く原理を必要としている、ということである。シジウィックが前提としているのは、明らかに次の点であることに注意を要する。すなわち正義が種に関連するのは、すでに分配された権利を保護することや、自然や神によって定められた社会秩序を保持することよりも、むしろ分配にまつわる問題だということである。(pp.155−156)。

 1940年代以>158>降、西洋民主主義野本で暮らす大多数の人々は、きわめて安定的な生活を送るようになった。そこで飢餓という問題は、苦難を被る少人数の人々に対して、多数派の人々が自分たちの財をいかにして与えうるのかという問題へと変容してしまった。このような状況下では、富者から貧者への財の移転を通じて、果たして社会のそう幸福や平均的幸福が増大しうるか否かが必ずしも判然としないのである。
 再配分を選考する委員代の功利主義者は、そのような反論に対して次のように応酬する。大半の財の限界効用逓減を前提とすれば、――そして多くの人間から求められる所在の全体的なパッケージの減秋効用逓減を全体とすれば―、一般に財――特に必需品や必需品のために交換されうるもの――1単位の追加は、もっとも蒸らし向きの悪比との幸福をもっとも増大させることになるはずなのだと。だから財の分配に関しては、いかなる時点においても貧しい人に与えるべきであり、さらに彼ないし彼女の限界効用が次に貧しい人間の減秋効用よりも少なくなるまで、(略)分配し続けるべきなのである。甲s理主義はこのようにして平等に向かうというわけである。(p.158)

 アリストテレスにおいて分配的正義を定義し、それを矯正的正義から切り離した報償は、いまや分配的正義という概念から完全に消失してしまっている。ロールズによると、応報的正義の対極にある分配的正義において、「必要性という教訓が強調され」、また「道徳的価値が無視されている」という。まさしくこれは、アリストテレスが二種類の正義を分類した方法を逆転させている。そしてカントが人間の価値を説明し、絶対的価値−−それゆえ等しい価値−−をすべての人間に帰属させる際、このような措置は暗示的に表明されているのだが、ロールズにとってそのような問題に決着をつけるのは、性格の大部分が社会の産物であるとするマルクスの議論なのである。我々の能力と道徳的なエネルギーが我々の社会の産物に過ぎないとすれば、われわれには個人としてそれらを備えているかどうかに責任があるというのは、ばかげているのである。(p.166)

 彼は複数の箇所で次のように述べている。「各人の能力に応じて各人へから、各人の必要に応じて各人へ」というスローガンのように、非常に異なる形式で引き合いに出される分配的正義の昇降順は、それ自体完全な正義の理論として役立ち得ない単なる不当な直感であり、それらが互いに競合する場合、我々はそえらを合理的に調停することはできないのだと。炉オールズが正義の「理論」を提示しようとする主な理由の一つは、正義に関する常識的な初公準をいっそう強力な知的枠組みの中へと位置づけるために、まさにそのような論争の解決に貢献することなのである。
(中略)対照的にロールズの二原理は、それらに関する議論とともに、(1)>170>分配されるべき財とは何か、(2)そのような財を満たす必要とは何か、(3)貢献よりも必要が優先させるべきはなぜか、さらに(4)自由に対して分配がどのように調整されるべきかについて、包括的な説明を与えるものである。(pp.169-170) 

 ロールズ以来、分配的正義に取り組む政治理論家たちは、(1)どの財が分配されるべきか、(2)すべての人間がこれらの財をどれくらい持つべきか、という2つの問題に専念してきた。これは互いに関連し合う問題である。すべての人間が何らかの財を等しい割合で持つべきこと(例えば市民権)、あるいは何らかの財の等しい分配を求めるのが理に適っていないことは(たとえばチョコレートーバー)、まず明らかである。分配されるべき財が一定の方法で特定されるとしても、−−効用の単位、基本財、あるいはその他について−−格差原理が分配的正義の要求を適切に補足できるのか、という問題が残る。そうではなく、誰しも一定水準を下回りはしないが、格差原理を認めるよりも社会における不平等が広がるかもしれないような、これらの財に関するより厳密な平等性や「保証された最小限」といったものを、目標とすべきなのかもしれない。(p.172)

 懸命に働く人間が実質的にも持たないというのに、守銭奴や悪党が大量の財産を請求できるようにすべきだというのは、スミスやヒュームからすればばかげているだけでなく、不道徳でさえあると思われたのであった。全体として厳密な財産権の体系は、社会のすべての人間の自由を保障し、さらに長期的には−−財の平等的分配のもとにおけるよりも−−すべての人間の暮らしを改善する。我々はこの点を理解できるようになって初めて、そのような権利をもっともなものとして受け入れることになるのであるヒュームとスミスの両者にとって、貧者が確実に苦労する一方で富者がその財を保護されるというのは、まさしく我々が正義のパラドックスと呼ぶ者なのであり、彼らはそのようなパラドックスを隠蔽したり無視したりするどころか、それを可能な限り完全に晒し出したうえで財産権の用途を立案するのである。(略)「富者を保護する一方で貧者を悲惨な状態に貶めるとすれば、いったいどのように私有財産権は正当化されるのか?」(略)自然法の伝統に連なる先人たちのだれにもまして、このような問いを投げかけるように教えたのは、ヒュームとスミスだったのである。(pp.58-59)

 1601年のイギリス救貧法では、のちに数世紀にわたって同国で実施されることになったのと同様の要件が正式に定められた。貧者への援助の用件として、働く代わりに援助を求める労働可能な人々に対する厳しい罰則が添えられているのは小さな問題ではない。少なくとも救貧法は、貧者を助けようとするのと同じくらい、貧者を支配しようとする試みであった。それは境界を支配しようとする個尾k路もでもあった。これらの処置が宗教改革を取り巻く逃走の最中で発生したのは決して偶然ではなく、チャールズ5世に対するオランダ教会の抵抗が如実に示しているように、それは部分t値期には国家が教会を支配下に置こうとする試みであった。だから貧困救済が宗教的権利から市民権へと移行していくうえでの、重要な一歩だったのである。(p.75)

 私の議論が正しいとすれば、前近代の慣行や著作の中にはそのような理念が存在していたことを暗示させる者など、ほとんど存在しないことになる。貧しい人々は貧しいままであるというのがふさわしいというのが、もっとも有力な−−ほとんど疑いようもない−−見解であった。人間は貧困から抜け出す権利を持ち合わせているのだという理念を見いだすためには、我々は18世紀に目を向けなければならない。(P.177)

 

 センは、人間が抱く目的の異質性を認めることが重要であるという点でロールズに同意しうる、基本財に注力するだけでは不十分であると論じる。さらにセンによると、何らかの種類の財に注力sルウことは、そのような財で人間がなすことは何かという中心的問題からの乖離を招くという。()

 略 ロールズがそうしたように人間の行為主体性を強行したいのであれば、人々の行為する能力ほどには、人々のもつ財に関心を向ける全てというわけにはゆかない。このような洞察を通じて立ち現れるのが、「基本的な潜在能力の平等」渡船が名付ける分派へのアプローチである。(p.174)

 近年、さまざまなタイプの思想家が、権利や物質的なものとまったく異なる財の場合、正義は公平な分配といったたぐいのものを要求しないのではないか、と問い始めている。最も重要な基本財は「個人の尊重という社会的基盤」であるというロールズの興味深い提案に触発されて、政治的・物質的な財だけでなく、象徴財の分配も苦慮する必要があると提案すr人々もいる。結局、我々が分配的正義を信じる理由が、各個人が自分たちの行動のための能力を実現する手段を入手しなければならないと我々が考えていることにあるとすれば、たとえば特定の文化に自らを重ね合わせる行為者が、自>179>らの文化的一体化を表明するために言語上の訓練を受けているかどうか、あるいはレズビアンに自らを重ね合わせる行為が、彼女自身の性的傾向を自由に表明できる公共県にアクセスできるかどうかについて、我々は関心を持つ必要があるかもしれない。(pp.179-180)

 ウィルキムリッカは、文化的メンバーシップを「基本財」と呼んでおり、不利な状況にある少数派の文化の保持を手助けするリベラルな国家について、ロールズ的な議論を提示している。ヤエル・タミールは同様のロールズ的な見解に基づいて、国家が文化的資源を市民に等しく分解することを推奨する。ジェームズ・タリーは、政治的承認への取り組みが成功する場合、国家が当該の集団を扱う方法における変化「事態が、<承認資本>(地位、尊敬、尊重)を再配分することになる」、と指摘している。当該集団のメンバーは、精神的福利の増大を経験することになり、そのこと自体が、彼らが経済的・政治的な権限を求めるうえでの支えとなるだろう。さらに彼らは、自分たちに対して新たに開かれた経済的・政治的な機会を見いだすだろうというのである。(p.180)

 個人の能力を発揮させる好ましい条件を社会が提供する場合にのみ、個人は自由を実現できるのだ。このような議論によって、土地、所得、資本、あるいは基本財の再配分への要求と同様に、「承認資本」の再配分への要求が正当化されうるのである。(p.181)

 (略)我々は分配的正義という考え方の発展を調べることで、それがいかに入り組んだものであり、それを完成に導くためにはいかに多くの異なる理念が集められる必要があるかを、理解する機械を手に入れることができる。分配的正義の価値を信じるためには、人々は個人主義になる必要があること、さらに貧者は他のすべての人間と等しい社会的・経済的地位に値する存在と見なされる必要があること、>185>さらに社会は貧者の状態に責任を負う存在で、それを根本的に変える力を持つ存在であると見なされる必要があること、さらに以上の全てのことは非宗教的に正当化される必要があること。これらすべてのことは、分配的正義の歴史を検討し始めるまで、私には思いつきもしなかった。しかし、いまや私にとっては、これらのすべての断片が、分配的正義という理念のもとに属するように思われる。(pp.184-185)

 私が気がついたのは、貧しい人々を軽視する態度から、彼らが「他の我々と同様に」純然たる善人なのだという認識へと向かう、西洋文化における局面である。人々の能力を発揮させるためには、物質的な手段が不可欠であるという考え方は、それ自体として賢明なものであり、社会と技術が入り組んでいくにつれてますます真実となるだろう。しかしながら、すべての人間がそれぞれ発揮すべきつきることのない能力を備えているという考え方には問題があり、それは自由で幸せな自己を過剰に要求する構想である。分配的正義の歴史に認められるこのような特徴は、人々を援助するために国家がなすべきことについて、更なる拡張的な要求へと通じるものである。(pp.187-188)

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◆宇佐美 誠編(2014)『グローバルな正義』勁草書房

瀧川裕英「正義の宇宙主義から見た地球の正義」

 まず問題状況を整理しておこう。正義の射程について、2つの立場が対立している。第1の立場は、「国家主義statism」である。国家主義は、正義の射程は、国家内部に限定されると主張する。これに対抗する第2の立場が、「地球主義globalism」である。地球主義は、正義の射程は国家内部にとどまらず、地球全体におよぶと主張する。この二つの立場は、たとおえば、地球規模の経済格差に関して対立する。(p.81)

 すなわち宇宙主義とは、「宇宙universe」に存在する万人が道徳的関心の究極的単位であるという主張である。道徳的地平を宇宙とするのが、宇宙主義である。(略)
 このような正義の宇宙主義は、正義の国家主義と対立するだけではなく、正義の地球主義と愛率する。なぜなら、正義の射程を「地球globe」とする正義の地球主義は、正義は国境を越えるという点で国家主義を否定するだけではなく、正義は地球を越えないという点で地球主義を否定するからである。正義の地球主義は、正義の国家主義を乗り越える「普遍的なuniversal」議論だと一般に理解されているが、宇宙主義から見ればこれは誤解である。正義は地球主義が国家に「特殊なspecial」議論であるのと同様に、正義の地球主義も地球に特殊な議論であり、普遍的な議論ではない。(p.86)

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◆Walzer, Micheal (1983). Sheres of Justice :A Defrence of a Pluralism and Equality. Basic Boocks Inc. Publishers.(=1999 山口晃一 訳 『正義の領分――多元性と平等の擁護』 而立書房)

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 平等の根本の意味は否定的なものである。平等主義はその起源においては、廃止を目指す政治である。それはすべての総意を取り除こうとするのではなくて、特定の人まとまりの相違、そして相違なるときと場所におけるひとつの異なったものを取り除こうとする。(・・・)問題となっているのは、集団がその仲間たちを支配する能力である。平等主義的政治を生み出す富者と貧者とがいるということではなくて、富者は「貧者をしいたげ」、貧困を押しつけ、敬意を表すよう命じるということである(P7)。

 平等主義は妬みと憤りの実演というよりも、それらを生み出す条件から脱出しようとする意識的なっこ炉身である、というほうが正確だと私は思う。あるいはそれらを破壊的なものにする条件から脱出しようとする意識的な試み(P8)。

 政治的平等主義の目的は優越から自由の社会である。これは平等という言葉が示す生き生きとした希望である。(・・・)それは差異の除去という希望とは違う。私たちみなが同じである必要はないし、同じものを同量もつ必要もない。いかなる人も優越の手段を所有せず、管理しないとき、男も女も(重要な道徳的・政治的点からいって)相互の平等である(P8-9)。

 本書での私の目的は、社会的財が優越の手段とならない、あるいはなりえない、そういった社会を叙述することである。(・・・)今のここでの現実的な可能性であり、すでに潜在しており、社会的財に関して私たちが共通に理解しているものである。(P9)。

第1章 複合的成員

 正義は人間による一つの組み立てである。だから、それが一つの仕方でしか作られないというのは疑わしい。(・・・)配分をめぐる正義の理論から出された問いは、ある幅を持った答えを許すのである。その幅には文化的多様性と政治的選択を受け入れる余地がある。(・・・)正義の諸原理はそれ自体が多元的な形をしていること。(・・・)これらすべての相違は、社会的財事態についてのさまざまな理解からでてくること。それは歴史的・文化的な特定主義の避けることのできない産物である(P23)。

 財の動きを決定するのは、財の意味である。配分に関する基準と取り決めは、財それ自体に本来備わっているのではなくて、社会的な財に備わっているものである。何が財なのか、その人々にその財がどういう意味を持っているのかを私たちが理解するとき、私たちは、財がどのようにして、誰によって、どのような理由で配分されるべきなのかを理解する(P27)。

 聖職売買同様に、売春収賄という言葉も、財の売買を示しているが、その意味が理解されるなら、当然、売られたり買われたりするべきではない(P28)。

 資本主義社会では資本が優越しており、容易に地位と権力に転換される。技術主義社会(テクノクラシー)では技術的な知識が同様の役割を果たす。(・・・)優越的な財の独占的な管理が支配階級を作り出す。そのメンバーは配分体系の頂点に立つ。(・・・)社会的対立は配分をめぐってにほかならない(P31-2)。

 これらの集団は−そして自らの原理と所有によって同様の特徴を持つ他の集団は−相互に競い合い、最高位を求めて闘う。或る集団が勝ち、次には別の集団が勝つ。あるいは連合した集団が抜けて出るか、その場合は最高位は不安定な形で共有される。最終的な勝利はないし、またあるべきでもない(P32)。

 政治権力は(生産手段以上に)人間の歴史の中でたぶん最も重要な、そして確実に最も危険な財である。だから拘束の実行者を拘束することが必要となるのであり、立憲的な抑制と均衡の確立が必要となるのである。それは政治的独占に課される制限であり、多様な社会的経済的独占が破られた場合には、ますます重要になる(P37)。

 政治的権力に限定を加えいる一つの方法は、それを広く分配することである。(・・・)しかし実際上では、権力の独占を破ることは民主制の効力を弱めることになる。(・・・)それゆえ、民主制とは、マルクスが認めたように、社会的財に関して広範囲にわたる、そして新たに現れつつある配分を映し出し、反映させる体制である。民主的意思決定は、新しい独占権を決め、あるいは同意する文化的な構想で形成されるであろる(P38)。

 私としては独占(モノポリー)の粉砕や独占の抑制ではなくて、優越(ドミナンス)の縮小にこそ焦点を合わせるべきである、と主張したい。特定の財の転用[転換]が可能である範囲を狭め、配分領域の自立性を守るということはどういうことを意味するのかを、考えるべきである(P40)。

 複合的平等の制度は専制の対立物である。(・・・)一つの領分に立つ市民、あるいは一つの社会的財にかかわっている市民は、他の領分に立ち、他の財にかかわることで、地位が低下させられることはないということを意味している(P44)。

 貨幣はすべての境界を越えて浸透するからである。これは不法入国の初歩的な形である。どこでそれをとめるべきかは原理の問題であるだけではなく、得策であるかどうかの問題でもある。或る適切なところで止めないと、その結果は配分の範囲全体に影響を及ぼす(P48)。

第2章 成員資格

 私たちがお互いの間で配分する第一の財は、ある共同体の中での成員資格(メンバーシップ)である。そして、私たちが成員資格に関して行うことが、私たちの他のすべての配分をめぐる選択に構造を与える。(P61)

 その価値は私たちの仕事と会話によって決められる。この場合、私たちが配分の権限を持っている(・・・)。しかし、私たちはそれを私たち自身の間で配分するのではない。それはすでに私たちのものなのである。私たちはそれを部外者(ストレンジャー)に与える。(P63)

 この承認は相互扶助の原理として公式化することができる。(・・・)しかし、「もしもこの義務が受け入れられないとしたら、社会はどうなるだろうか」と考えれば相互扶助という原理は確立できると主張するロールズを私は正しいとは思えない。というのは、(・・・)そういった争点が生じるのは、共同体を共有していない、あるいは共有していることを知らない人々の間でのみである。(P63-4)

 人々は、国境を横切るにことによってと同様に、そしてそれ以上に、すでにそこにいる両親のところに生まれることによって、一つの国に入るのである。(・・・)私たちはまだ生まれていない、それゆえまだ知らない個人を扱うことになる。大家族への補助金と産児制限計画は、人口の規模を決定するだけであって、住民の性格を決定するわけではない。(・・・)主要な公共政策の争点は人口の規模 −その成長、安定、衰退ーだけである。(P66-7)

 労働力の完全な移動はたぶん一つの幻影であろう。というのは、それはおそらく地域(ローカル)レヴェルで抵抗に遭うからである。(・・・)彼らは、あるいは彼らの大部分は、生活がそこで非常に困難でない限り、留まる傾向がある。(P71-2)

 国家の壁を取り壊すということは、シジウィクが不安そうに指摘したような、壁なしの世界を作ることではなくて、千の小さな砦(とりで)を作り出すことである。壁も取り壊されるかもしれない。(・・・)その場合、結果はシジウィクが描いたように、経済者(ポリティカル・エコノミスト)たちの世界であろう。(P73)

 個人が自らの国を正当なかたちで去ることができるということは、別の国へ(他のどんな国へも)入る権利が生じるということではない。入国と出国は道徳的には非対称である。(P74)

 「自立した」団体は領土国家の常に補助的なもの、そしておそらく規制的な形で補助的なものであろう。国家を捨てることは効果的な自己決定を放棄することである。そういうわけで帝国の支配が皇太子、国民が「解放」過程を開始するや否や、境界線が、そしてその境界線を横切る個人や集団の動きが、激しい論争の的になるのである。(P81)

 移民は居留外人になり、特別な法の適用免除を別にしては、それ以上の何もない。彼らはなぜ認められるのか。困難で不愉快な仕事から市民を解放するためである。(P93)

 ここにおいてふさわしい原理は相互扶助ではなくて、政治的正義である。外国人[客]は市民権を必要としてない。少なくとも彼らが仕事を必要としてるのと同じ意味でそうなのではない。(P103)

 もしかららが新しい働き手を導入したいのであれば、自分たち自身の成員資格(メンバ−シップ)を拡大する覚悟ができていなくてはならない。もし新しい働き手を受け入れたくないのであれば、社会的に必要な仕事をするには国内の労働市場の限度内で方法を見つけなければならない。これはまさに彼らの選択である。(P105)

第3章 安全と福祉

 人はただ必要であるというのではなく、必要についての観念(アイデア)をもっているのである。優先順位があり、程度ある。そして、この優先順位と程度は彼らの人間性にだけでなく、歴史と文化にも関連している。(・・・)必要は資源・蓄積を食べ尽くしてしまう。しかし、それだから必要(ニード)は配分的原理ではありえないとして苦するのは間違っていよう。むしろ、それは政治的限定に服している原理なのである(P113)

 (・・・)すべての政治的共同体が原理上、一つの「福祉国家」であることの意味である。(P115)

 ひとたび必要とされている財の提供を共同体が引き受けたのであれば、その必要としているすべての成員(メンバー)にそれを提供しなければならない。(・・・)共同体の使用可能な資源・財源は過去と現在の産物にほかならず、成員(メンバー)が積み重ねた富であって、富の「余り」ではない。福祉国家は「或る種の経済的余剰に依存している」と一般に論じられている。(・・・)しかし、現実には共同体の成員であったので、まず第一に援助の手を差し伸べられるのであった。同様に、能力を失っていることが扶助金支給の理由であれば、能力を失っている市民はすべてその扶助金受領の資格がある。しかし何が無能力を構成するかを決めるという問題は以前残っている。(P125-6)

 困窮している成員にその困窮さゆえに財は提供されなければならないが、しかしまた財は成員資格を維持するような仕方で提供されなければならない。(P130)

 私は公衆衛生を一般的用意(ジェネラル・プロビジョン)の一例として取り上げてきたが、それは共同体の或る成員たちの犠牲によってのみ提供される。しかも、それは最も弱い者たちに最も利益を与える。(・・・)社会的安全もまた最も弱い者たちのためのものである。(P134)

 ここに社会契約の一層明確な存在理由があるのである。それは、現に進行中の細部にわたる政治的決定に従いながら、成員の資源・財産を、彼らの必要(ニーズ)に関しての共有された理解と調和させて再配分することへの同意である。(P136)

 根本的な平等化を欠いている状態では、きっと購買力のある人々が、必要とされているサーヴィスの価格をせり上げることはありうるし、おそらくそうなるであろう。だから、共同体は個人の福祉を出資するとしても−今日、間接的にされているだけであるが−必要(ニード)に用意(プロヴィジョン)をあわせているのではない。収入が等しかったとしても市場を通して届けられる健康面での配慮(ケア)は必要に応えてはいないであろう。また、市場は医療研究を適切なかたちでは提供することはないであろう。(・・・)どの必要(ニード)が認められるべきかについて先験的(アプリオリ)な規定はありえないことを私は再び強調したい。(・・・)しかし、備え(プロヴィジョン)の形は、態度が変わると自動的に変わるというものではない。(P147)

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アマルティア・セン 著、池本 幸生 訳(2011)『正義のアイディア』明石書店

 この出発点、すなわち、答えるべき問題の選択(例えば、「何が完全に平等か」ではなく「ど」>42>うすれば正義は促進されるか」)は特に重要である。この選択には二重の効果があり、一つには先験的なルートではなく、比較のルートをたどることであり、二つには制度や規則だけに焦点を合わせるのではなく、社会が十歳に実現したことに焦点を合わせる。現代の政治哲学における強調点のバランスを考えると、このことは正義論の定式化において根本的な変化を求めることになる。(pp.41-42)

 すでに述べたように、ここでの対照は、正義の「契約重視」の考え方と、正義の「実現重視」の理解との間の、もっと一般的でもっと幅広い二項対立とかかわっている。前者の考えでは、正義が行われていることを示す制度、規則、行動ルールなどの組織的取り決めによって正義は概念化されると提案する。この文章で問われるべき>43>は、制度や一般的な規則を正しくすることだけに正義の分析を限定すべきなのかということである。それらの制度や規則が与えられたとして、人々が十歳にどんな暮らしを遅れるのかなど、社会に何が現れるかについて、また実際の行動など、人々の暮らしに影響を与えざるをえない他の影響について吟味する必要はないのだろうか?(p.42-43)

 現実の世界を(広く受け入れられている基準で)より不公正をなくするために、その制度的構造を改革するために提案されうる多くの変化を考えてみよう。例えば、既に定着し、安価に生産しうる薬を、それを必要とする貧しい人たち(例えば、エイズに苦しむ人たち)がもっと容易に入手できるように特許法を改正する件について考えてみよう。これか明らかにグローバルな正義にとって重要な課題である。ここで我々が答えなければならない問いは、世界をもう少しだけ不公正でなくするために、どんな国際的な改革が必要かということである。
 しかい、一般的な正義を促進するため、特にグローバルな正義を拡大するためのこの種の議論は、一組の完全な制度の組み合わせの選択を通して正義の原理を適用する主権国家を日宇町とするというホッブズ流(そしてロールズ流)の主張に説得させられた人たちにとって「散漫な話」に聞こえるかもしれない。これが、先験的制度尊重主義の枠組みで正義の問題を語ることの直接的な願意である。制度の完璧な組み合わせによって達成される完全なグローバルな正義は、たとえそれが特定できたとしても、グローバルな主権国家を必要とし、もしそのような国家が存在しないならば、グローバルな生後の問題は先見主義者たちにとって答えられないものとなるだろう(pp.62−63)

 理性が倫理的信念の究極の調停者出なければならないということを、なぜ我々は受け入れなければならないのかということである。倫理的判断にとって何より重要で決定的なものと見なされるべき、たぶん、ある特定の種類の理性的推論に何か特別な役割はあるのだろう>82>か。理性の支持は、それ自体では価値を当たる本質ではないので、我々は次のy法に問わなければならない。なぜ理性による支持が厳密にそれほど決定的なのかと。理性的な精査は、真実に到達するための保証となると主張することはできるのか。このことを主張するのは困難である。なぜなら、道徳的政治的信念の性質は難しい課題だからと言うだけでなく、主として、倫理学やその他の学問分野におけるもっとも厳密な探求はやはりしっぱいしうるからである。(pp.81-82)

 アダム・スミスは、あ文化においては知られていない関連する議論を無視することになりかねない価値の地域的偏狭性を避けるために、議論を拡張する必要性にも関心があった。公共的討議は反事実的な形式をとりうるので(「遠く離れた「公平な観察者」なら、それについてどう言うだろうか?」)、スミスの主要な手法上の関心は、同じ文化的社会的環境にいて、何が理に適い、何が理に適っていないかについて、同じ>89>ような知恵、偏見、信念を持ち、何が実現可能で、何が実現可能で内科についてさえ同じような信念を持つ人との(現実的なものであれ、反事実的な者であれ)遭遇だけで満足するのではなく、あらゆる所から多様な経験に基づく広い範囲の視点や見解を呼び起こす必然性にある。特に我々は自分自身の感情を「自分自身から一定の距離を置いて」見るべきだというアダム・スミスの主張は、既得権益の影響だけでなく、しっかりと根付いてしまった伝統や観衆の影響をも精査するという目的によって動機づけられている。(pp.88-89)

 私自身は、原初状態において完全に公正な社会に必要な公正な制度の特定の原理が1つだけ選択されるというロールズの非常に特殊な主張に関しては非常に懐疑的であると言わざるをえない。我々の正義法海に関わる一般的な関心は、紛れもなく複数的な者であり、ときとしてそう反するものである。それらは、便宜的には、つまり選択にとって便宜的には、たった一組の原理のみが普遍性と公正さを本当に体現し、他のものは体現しないとするなら異なる必要はない。その多くは不偏的であり、冷静(公正)であるという特徴を有しており、その支持者が(イマヌエル・カントの有名な言葉を用いれば)「普遍的法とする意志」という格率を表している。(p.106)

 実際、不偏的原理の複数性は、不偏性がさまざまな形式をとることができ、全く異なった形で表現できるという事実を反映していると私は論じたい。例えば、序章で述べた、笛をめぐる三人の子どもの競合する要求の例は、それぞれの子どもの要求の根拠には、それぞれ効率的な利用と効用、経済的平等と分配の公正、自分だけの努力で獲得した青果物に対する権利に注目する、人々を不偏的かつ公平な形で扱う一般理論がある。彼らの議論は全く一般的であり、彼らのそれぞれの公正な社会の性質についての理性的判断は、(既得権益に異音するのではなく)それぞれ不偏的に擁護しうる、異なった基本的アイデアを反映している。(p.106)

 問われるべき問題は次のようなものである。もしある社会で起こったことの正義が、制度的特徴と実際の行動の特徴の組み合わせと、社会の達成に求める他の影響に依存しているなら、実際の行動(それは、「公正な」あるいは「理に適った」こうどうでないかもしれない)にかかわりなく、「公正」な制度を特定することは可能か、ということである。もし求められている正義の理論が、実際の社会における制度の選択を導くために何らかの適用可能性を持たなければならないとすると、正しい「正義の政治的構想」を形成するいくつかの原理を単に受け入れるだけでは、この問題を解決できない。
 実際、正義の追求は、部分的には行動パターンの漸進的形成の問題であると考える相当な理由がある。つまり、正義の原理の受容後に人飛びに、正義の政治的構想に一致するように個人の実際の行動を完全に再設計す得るわけではない。一般に、制度は、当該社会の性質と一致しているわけでなく、正義の政治的構想がすべての人々によって受け入れられたとしても、実際の行動パターンと依存的>122>に選択されなければならない (pp.121-122)

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◆UP:20180726,0923,1008