うまなり [Home] / Milton Friedman


◆Friedman, Milton., & Friedman, Rose. (1979,1980). Free to Choose
= 1983 西山 千明 訳 『選択の自由』 講談社文庫

 経済学上の誤った考えの大半は、この簡単な洞察をおろそかにして、この世の中にはつねにある一定の大きさのパイしかないと考え、したがって誰かが利益を得るためには、必ず他の誰かがその犠牲にならなくてはならないと想像してしまう傾向から発生してきている。(上p.51)

すなわち、そのひとつは「資本主義にもとにおける労働者に対する搾取」であり、もうひとつはこの主張と絡み合って主張されている「マルクスの金言に基礎をおいた社会の優越性」である。その金言とは、「すべての人にその必要に応じて与え、すべての人にその能力に応じて貢献させよ」という主張だ。ところが、この金言に従い完全に命令組織原理によって経済を運営しようとしたところ、これを実行することができず、その結果、所得分配の決定を価格機構の働きから切り離すことができなくなってしまった。(上p.71)  

 このような条件下においては、自分が反対していたり、自分はそのための費用を負担したくない活動を、ある地方政府が行い、しかもこれらの活動のほうが、自分が賛成し費用負担も喜んでする活動よりも割合から言って多くなれば、これに対して人びとは移住という形における反対投票をすることができる。(上p.79)

 自由社会を実現し、これを維持していくに当たって発生する主要な問題は、自由を維持するために政府に与えられた強権が、この機能を達成するためにだけ行使され、それ自体が自由に対するひとつの脅威となることがないように、われわれが保証できるためには、いったいどうしたらいいのか、という問題以外のなにものでもない。(上p.82-3)

 第三の任務が政府の妥当な任務だと考えなくてはならない理由は、すべてのことを自発的な交換にだけまかせてしまった場合、そこで交換される財やサービスの種類によっては、極端に高い費用になったり、費用の正確な計算がきわめて困難になったりすることがあるからだ。(上p.85)

 ところで問題は、誰が誰に対してどれだけの損害や利益をもたらしたかを認定するのが困難な場合だが、このような認定を民間が行うのが困難ならば、政府とて同じことだ。その結果、自体を是正しようとする政府の努力が、実は何の罪もない人に費用を負担させたり、幸福な局外者に利益を与えたりすることになってしまい、事態を改善するよりは、かえってこれを悪化させてしまう可能性が、きわめて大きい。そもそも政府がこのような活動をするためには、その費用をまかなうために税金を徴収しなければならないが、これは納税者一般の生活に対して影響を与えることになり、ここでもひとつの「第三者に対する影響」を発生させることとなる。その上、どんな目的のためであっても、政府の権力が増大すればするほど、それは市民の多数派のために奉仕するよりは、市民の中の特定の人びと方の市民たちを利用する手段として使われるようになってしまう。(上p.88)

 「敵にあった。敵はわれわれ自身だ」というポゴの言葉は、不朽の名言だ。われわれは「特殊利益」をののしるが、それは「特殊利益」が自分のものでない場合だけだ。われわれのそれぞれが、自分にとってよいこととは国のためにもよいことだと思っている。そのため、「われわれみんなの特殊利益」と称されるものでも、実はそのひとつひとつが違うということになる。このような状態がもたらす究極的にな結果はなにかといえば、政府によるいろいろな制限措置や抑制措置の迷宮状況の発生であり、われわれのほとんど全員が、これらすべてが廃止されたときよりも実は悪い状況におかれてしまっている。(上p.101-2)

 不平をいう資格があるのは、外国の市民たちだ。外国の市民たちこそが、アメリカの消費者や、自国内で助成金の対象となっている企業を所有している同胞や、それらの産業で働いている仲間の労働者たちの利益のために、低い生活水準を強制されることとなっているのだ。(上p.114-5)

 もちろん鉄鋼産業分野において発生した新しい失業者たちを、これらの企業が吸収していくまでには時間を必要とする。しかし、このような影響を相殺する形において、これまで失業していた人びとが鉄鋼産業以外の分野で雇われるようになったのだ。すなわちプラス・マイナスの賞味でいって、まったく雇用の現象が発生する必然性はない。(上p.116)

 幼稚産業の保護育成のため、初期において関税で保護することは、結果的にはその国の消費者たちがこの産業に助成金を与えるのに等しい。消費者たちがこのような行動をとる価値があるとすれば、それは、その産業の製品価格が、将来、世界の価格より低くなるとか、助成金を取り返すことができる場合だけだ。だがこんな具合に助成金をやがて取り返すことができるのならば、そもそもそれを与えてやらねばならない必要があるのだろうか(…)。「幼稚産業」論は、ひとつの煙幕でしかない。このいわゆる「幼稚産業」は決して成長することはないのだ。(上p.122)

 多数決原理による投票方式は、意見の一致がないというのに、強制による意見の一致をつくりだしてしまう。これに対して市場は、強制なしで意見の一致を作れる。だからこそ強制によってでも意見の一致をつくりたいのであれば、可能な場合にかぎり投票による方法を使うのが望ましいことになるのだ。(上p.154)

 アメリカ人はアメリカ社会が自由企業社会だとか、資本主義社会だとかいう。しかし法人企業に対する所有権を見てみると、アメリカ社会はもはや四六%社会主義社会となってしまっている。法人の一%を所有するということは、その法人の利潤の一%を受けとる権利を持っているということであり、また法人が損失を発生させれば、その損失の位置%から自分が所有する株の全体値に等しいところまでは、その損失を分かちあわなければならない義務を持っている(上p.156)。

 官僚は、誰か他人のお金を、誰か他人のために消費している。このような状況下でも、官僚がそのお金を受益者にとって最も利益あるようなやり方で消費することを確実にするためには、人びとに根強くある「自己愛」という強く依存することができる同期に拍車をかけるのではなくて、人道主義に満ちた親切心をあてにする以外にない(上p.246)

 まったくのところ、政治と呼ばれる「市場」において低所得者層の人びとがこうむる不利益は、経済の市場においてこれらの人びとがこうむる不利益よりも、もっと大きい可能性がある。善意に満ちた改善運動者というものは、ひとつの福祉政策を立法化するに当たって、低所得者層をいったん助けこれに成功すると、他の改善運動へと移っていくために、貧困者はその後は自分自身で処理しなくてはならなくなる(上p.247)

 短期的には、ある人びとによっては冷酷なように思えるが、これらの人びとを、福祉政策に依存させておくよりは、低賃金で魅力少ない仕事であってもそれらの仕事に従事させるべきだ。そうすれば、長期的にはるかに人道的な結果がもたらされる。しかし、現状のように福祉プログラムが存在しているかぎりは、これらのプログラムを一夜で廃止してしまうことは不可能だ。(上p.250)

 債権、株券、住宅、工場といった財産に対する相続権というかたちでこの不公平さが現れるかもしれない。また、音楽的な才能や肉体的な能力、数学的天才ぶりといった才能の遺伝という形で、不公平さが出現することもある。財産の相続に対してのほうが才能の相続に対してよりも、はるかに容易に政府の政策によって介入することができる。しかし、倫理的な観点からみて、これらのふたつの異なった種類の相続の間に、いったいほんとうのちがいがあるのだろうか。ところが多くの人びとは、財産の相続には恨みを抱くのに、才能の遺伝に対してはそうではない。(p.284)

 自分でその責任を取るのであれば、自分で決定を下せる。そうではなくて、誰か他の人が結果の責任をとるというのであれば、自分でその決定をするのを許されるべきだろうか。もしくは、実際にそんなことが許されるだろうか。(p.287)

 そのうえ平等へ向けての運動は、もっとも能力があり、最善の頭脳をもち、最も活力に満ちた市民たちのいく人かを、イギリスから外国へと追い出してしまうこととなった。これらの人々の能力を自国の利益のために利用する、より大きな機会を提供したアメリカやその他の国々が、利益を得ることとなった。(上p.301)

 「もしもあなたが自分の子弟のための公立学校教育費を使わないようにしてくれるならば、その代わりに政府はあなたに授業料クーポン、すなわちこのクーポンを認可された学校で自分の子弟の学校教育費用として支払うために使用するならば、そして使用する限りにおいて、クーポンの額面に明示してある金額だけ支払われることを確約する証明書を渡すことにしよう」と。(…)今日親が学校を選択するにあたってその自由を制限されることになっているあの財政的な罰金、すなわち学校教育のための税金を支払い、それと同時に私立学校の授業料も支払わなければならないという罰金の、少なくとも一部は取り除かれることになるだろう。(下p.29)」

 高等教育のおかげによって高度な技術を持ち訓練を受けた人びとを増大させることは、国家にとって利益になるとか、このような技術をより多くの人びとがもてるようになるように投資をすることは、経済成長にとって不可欠なことだとか、もっと訓練した人を増やせばその他の人たちの労働の生産性も増大背させるといった主張を聞かされてきた。これらの主張は正しい。しかしそのどれひとつとして、高等教育に対して政府が助成金を与えることを正当化するような適切な理由では決してない。(…)もしも高等教育がこれを受ける個人の経済的な生産性を改善するのであれば、そのような改善をもたらす成果を本人たちは高い所得を手に入れることによって自分のものとしていくことができる。したがって本人自身が、訓練を受けたいという個人的な誘因を持っているのだ。すなわち、アダム・スミスの「見えざる手」が、本人たちの個人的な自己愛が社会の利益に奉仕するようにさせるのだ。そうだというのに、彼らが受ける学校教育に対して政府が財政による助成を行い、それによって個人的な自己愛を異なった自己愛にさせるということこそが社会的利益に反している(下p.64-5)

 高等教育を受けない人々の犠牲において、高等教育を受ける人の費用を政府が助成金として支出するのを正当化してくれる理由はまったくない。政府が高等教育機関を運営するとしても、その教育のための全費用や高等教育が提供するその他のサービスに対する全費用に対応した金額における授業料を、政府は学生に対して請求すべきだ。(下p.73)

 「見えざる手」に対するこれらの批判は、第一章で述べたように正しい。ほんとうの問題は、このような市場の限界に対応し、市場を補完するために提案されたり採用されたりしたいろいろな取り決めが、そこで目的としていたことを達成できるようにうまく計画化されているか、それともしばしば実際に発生するように治療のほうが病気よりも悪い結果をもたらすといった状況になっていないかどうかだ。(下p.84)

 公衆を安全でない薬や役に立たない薬から保護することが望ましいのは、いうまでもない。しかし新しい薬の開発を促進するような刺激が与えられ、それらの新薬を必要としている人びとにいち早くそれらが入手可能になることもまた望ましいことだ。しばしばそうであるように、ひとつのよい目的はもうひとつのよい目的と衝突する。一面での安全と用心が、他の面で死をもたらす結果となることは十分にありえることだ。(下p.113)

 この引用文のとおりだとすれば、危険な薬を市場から排除できるとか、あるいは一連のサリドマイド悲劇の発生を防止できるという理由で、難病や奇病の患者がこうむるこうした犠牲を正当化することはできないのではないだろうか。(…)食品医薬品局がどんなによい意図をもっていたとしても、その活動が新しい、そして有効な薬の開発販売を必然的に抑圧ないし妨害することになっているという事実はけっして偶然の結果ではない(下p.117)

 その薬がもし開発されていたなら助かったかもしれない人はもはや死んでしまっていて、講義をすることもできないのだ。だからといって、それらの患者の家族は、自分たちが愛していた人の命が、会ったこともない食品医薬品局の役人の「用心」によって失われたことに気づくはずもない。(下p.118)

 しかし不幸にして「市場の失敗」を生み出す原因そのものが、政府がこれを満足いくように解決することをも困難にさせる原因となる。一般的にいって、誰が被害を受け、誰が利益を受けているかを明確にすることは、市場における参加者よりも政府にとっての方が容易であるということはけっしてなく、どれだけの被害や利益がそれぞれの人に発生したかを性格に評価することも、政府にとっての方が容易であることは決してない。「市場の失敗」を是正しようとして、政府を使用する試みは、しばしばただたんに「市場の失敗」を「政府による失敗」に置き換えるだけのことに終わってきた(下p.130)。

 本当の問題は「汚染の排除」ではなくて、汚染を「妥当な」量だけ生み出すことができるような取り決めをどうしたら決定することができるかだ。ここでいう「妥当な」量とは、汚染を減少させることによって発生する利益が、汚染を減少させるためにわれわれがあきらめなくてはならない他のよいもの、たとえば住宅、靴、衣服、その他のものをどれだけ犠牲にしなくてはならないかを明らかにし、そのような犠牲の大きさとまさにつり合いが取れるような量のことだ。(下p.131)

 汚染問題の場合では、非難されるべき悪魔は「企業」すなわち財貨やサービスを生産している会社だというのがその典型だ。しかし事実は、汚染に対して責任があるのは生産者ではなくて消費者のなのだ。消費者こそが汚染に対する需要をつくり出しているのだ。電気を使う人が発電所の煙突から出てくる煙に対する責任をもっている。もしも電気による汚染を少なくしたいというのであれば、そのために要する費用をまかなうのに十分なだけ高い代金を、われわれは直接的に漢籍にか電気に対して支払わなくてはならない。(…)企業はたんなる仲介者でしかなく、人びとの消費者としてのいろいろな活動と生産者としてのいろいろな活動とを調整させているだけの存在でしかない。(下p.132)

 汚染排出課徴金を高くすることによって、財政収入を増大させることができるので、被害をこうむった人びとに補償をしたり、被害対策のために使用できる資金が増大するということも意味しち得る。賦課される汚染排出課徴金の大きさは、われわれがいろいろと経験をつんで汚染に関する費用と利益についての情報が増すにつれて、いろいろと変えていくことができる。(下p.135)

 粗悪品や危険な商品を販売することはきわめてへたな商売のやり方であって、ひいきしてくれたりいつも買ってくれる顧客を獲得していける方法ではない。(…)自由市場による場合と政府の規制に依存する場合との違いは、自由市場では深刻な失敗を犯す企業は倒産へと追い込まれるのに対して、政府機関は失敗を犯すごとにますます大きな予算を手に入れていく可能性がきわめて大きいという点だ。(下p.146-7)

 小売業者は消費者よりも、商品の質を判断するのにはるかに有利な立場に立っている。シアーズ・ローバックやモンゴメリー・ワードは、その他の百貨店と同様にただたんに流通業者であるだけではなく、消費者に対する検査を有効に行い、それらの品質を保証してくれる期間でもあるのだ。自由市場でわれわれが使用できるもうひとつの方法は、商品のブランドつまり商標だ。(…)われわれが市場で使うことのできるさらにもうひとつの方法は、民間の検査機関だ。(下p.147-8)

 強い労働組合がその組合員に対して獲得する賃上げは、主として他の労働者の犠牲においてである、という点が見落とされてしまっている。(…)労働組合がその活動において成功を収めれば、その労働組合が支配している種類の仕事の数は減少していく。その結果、労働組合水準の賃金で、そのような仕事に尽きたいと思う人々は、もはやその仕事に就業することができなくなる。それらの労働者は、どこかほかの分野で求職しなくてはならなくなる。その結果、他の仕事に対する労働者の供給が増大していくにつれて、それらの仕事に対する賃金は引き下げられていく。(下p.165-6)

 ある労働者が提供するサービスを雇用者が求めるのは、とりもなおさずその労働者の仕事に完全に見合った賃金や俸給を支払うことが、雇用者自身の利益になるからだ。もしある雇用者が十分に賃金を払わないならば、他の雇用者が喜んで払うといいだすだろう。つまりその労働者が提供するサービスを手に入れようと、数多くの雇用者たちが競走することが、労働者にとっての本当の保護となる。(下p.188)

 通貨を持っているすべての人びとが道路のために費用を支払ったということだ。労働者たちが他の何らかの生産的活動に従事する代わりに、道路建設に従事するように誘導しようとして、政府によって支出された余分の通貨は、物価を押し上げる。政府支出の増大による支払いを受けた労働者たちはその支出を増大させ、これらの労働者たちにいろいろなものを売った販売者たちへと余分の通貨がさらに流れて息、さらにその余分の通貨がそれらの販売者たちから他の人びとへと流れていく。(下p.219)

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Friedman, Milton. (1962). CAPITALISM AND FREEDOM. The University of Cicago.
= 1975 熊谷 尚夫 西山 千明 白井 孝昌 共訳 『資本主義と自由』 マグロウヒル好学社 P234 A5 \1700

 
序章
第1章 経済的自由と政治的自由との関係
第2章 自由社会における政府の役割
第3章 貨幣の管理
第4章 国際金融・貿易制度
第5章 財政政策
第6章 教育における政府の役割
第7章 資本主義と差別
第8章 独占と企業および労働組合の社会的責任
第9章 職業免許制度
第10章 所得の分配
第11章 社会福祉政策
第12章 貧困の軽減
第13章 結論
訳者あとがき

 

第1章 経済的自由と政治的自由との関係

 第一に、政府の活動範囲は制限されなければならない。政府の主要な機能は、われわれの自由を国外の敵と国内の同胞との双方から守ること、いいかえれば法と秩序を維持すること、指摘契約を履行させること、競争的市場を育成することでなければならない。(p.2)

 本書はこのような問題のいくつかを論ずる。それの主要な論題は、経済的自由の体制であるとともに政治的自由のための必要条件としての競争的資本主義−自由な市場で活動する私的企業を通じて経済活動の大部分が行われるような組織−の役割である。その副次的な論題は、自由を最高の目的とし、経済活動の組織化を主として市場に頼ろうとする社会において政府が果たすべき役割である。(p.4)

 つぎの二つの条件がみたされるならば、協力は厳密に個人的かつ自発的である。すなわち、(a)企業は私的なものであり、したがって究極の契約当事者は個人であるということ、そして(b)個人はどんな特定の交換にも参加するかしないかが実質的に自由であり、したがってあらゆる取引が自発的であるということ。(p.15)

 消費者は、取引することのできる他の売り手たちが存在しているから、売り手による弾圧から保護されているのである。売り手は、彼が売ることのできる他の消費者たちのおかげで、消費者による弾圧から保護されているのである。被用者は、彼を働かせてくれる他の雇用者たちがいるために、雇用者による弾圧から保護されているのである。そして市場は、こうしたことを没人格的に、かつ集権的権威の手を借りずになしとげるのである。(p.)

 じっさい、自由経済に対する反対論の主要な根源は、明らかにそれがこの課題をあまりにもうまく果たすということにある。自由経済は人びとが欲求するところのものを彼らに与えるのであって、彼らが要求すべきだとある特定の集団が考えているところの物を与えるのではない。自由市場に反対するたいていの議論の根底には、自由そのものに対する新年の欠如が見られる。自由市場の存在はむろん政府の必要性を排除しない。それどころか、政府は「ゲームのルール」を定めるための公の討論の場として、また定められたルールを解釈し、施行する審判者として必要不可欠である。市場のなすことは、政治的手段を通じて決定されなければならない諸問題の範囲を大幅に縮小するとともに、政府が直接にゲームに参加する必要の生ずる程度を最小限にとどめることである。政治的経路を通じてなされる行動の特徴は、それが大幅な順応を要求し、あるいは強制することになりがちだと言うことである。これに反して、市場の大きな長所は、それが多様性を広く許容するということである。(p.16)

 人びとが公然と社会主義を主張し、そのための運動をすることができるのは、資本主義社会の政治的自由のしるしである。それと等しく、社会主義社会における政治的自由は、人びとが資本主義の導入を提唱するのに自由出るべきことを要求するであろう。資本主義を提唱する自由は、社会主義社会のなかでどのようにして維持され保存されうるであろうか。(p.18)

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第2章 自由社会における政府の役割

 効果的な比例代表が不可能な事柄も明らかにいくつかある。私が望む量だけ国防を手に入れることはできないし、あなたがそれとは違った量を望むだけ手に入れることもできない。このような分割不可能な事柄について、われわれは討議し、主張し、そして投票することができる。しかし、決定したからには、われわれは服従しなければならない。市場を通じての個人の行動に全面的に頼るわけにいかなくさせるのは、まさしくこのような分割不可能な事柄−なかでも個人と国民を強圧から守ることは明らかに最も基本的なものである−の存在である。資源のいくらかをこのような分割不可能な項目に使用すべきであるとするなら、われわれは意見の相違を調停するのに政治的毛色を用いなければならない。(p.26)

 人びとの自由は相互に衝突することもありうるし、そのような場合には、ある人の自由は他の人の自由を守るために制限されなければならない−かつて最高裁判事が述べたように、「自分の握りこぶしを振るわたしの自由は、あなたの下あごが近くにあることによって制限されなければならない」。政府が行うに適した活動を定める際の主要な問題は、異なる個人の自由のあいだのこのような衝突を以下に解消するかと言うことである。ある場合には、その答はやさしい。ある人が隣人を殺す自由は、その隣人を生きる自由を守るために犠牲にされなければならない、という主張に対してほぼ全員一致を取り付けることには、ほとんど困難がない。別の場合には、答は難しくなる。経済の猟奇では、結合する自由と競争する自由とのあいだの衝突に関して大問題が発生する。「自由」と言う言葉が「企業制」という言葉を就職しているとき、それにはどんな意味が付与されるべきであろうか。(p29)

 要約すると、自発的交換を通じて経済活動の組織化は、つぎのことを前提している。すなわち、ある個人に対する他の個人の強制を排除するためのほうと秩序の維持、字は打って木に取り交わされる契約の履行の確保、財産権の定義を明確にすること、そのような権利の解釈と施行、および貨幣制度の枠組みの整備が政府を通じてわれわれに用意されていることがそれである。(p.31)

 技術的的条件が競争的な市場のはたらきの自然な結果として独占を生み出すとき、採用できると思われる選択の途は三つしかない。(・・・)しかしながら、私的独占・公的独占・公的規制という三つの害悪の中での選択は、現実の状況とは無関係に、一度限りに行われうるものではない。(・・・)時と場合によっては、技術的独占が事実上の公的独占を正当化することもありうる。他の誰であれ競争することは違法であるとすることによって達成される公的独占を技術的独占の論拠だけで正当化することはできない。(・・・)もし技術的独占でなければ、政府はそれにたずさわるべき理由はない。どちらかであるかを見きわめるための唯一の方法は、他の人びとに自由に参入させてみることである(p.32-4)

 この場合、道路を利用する個人を識別し、彼らに使用量をかすることは技術的に可能であるから、この仕事を指摘に運営することも技術的に可能である。しかしながら、多数の出入り口がある一般通行用道路については、もし料金が各個人の受けた特定のサービスに応じてふかされるべきものだとするならば、すべての進入箇所に料金徴収所かそれに相当するものを設ける必要が生じるので、徴収費用は極度に高くなるだろう。道路の利用度にほぼ比例して個々人に料金をかける方法として、ガソリン税のほうがはるかに安あがりである。しかしながら、この方法では特定の道路利用に特定の支払いを密接に結びつけることがqで着ない。したがって、広範囲な私的独占を成立させるのでなければ、指摘企業にサービスを提供させたり利用金を徴収させたりすることは実際上ほとんど不可能である。(pp.34-5)

、近隣効果は諸刃の剣であるどちら側を切ることもできる。それは政府の活動を制限する理由にも、また拡張する理由にもなりえる。近隣効果が自発的交換を妨害するのは、第三者に及ぼされる影響を識別して、その大きさを軽量するのが困難だからである。(p.36)

 このことをもっと非情なように見える調子でいいかえると、子供たちは一種の消費財であると同時に、潜在的には社会の責任ある成員である。個人が彼らの経済的資源を自分の望むように使う自由は、子供をもつためにそれを使う −いわば子供のサービスを特殊な消費形態として購入するためにそれを使う−自由を含んでいる。しかし、ひとたびこの選択がなされるならば、子供たちは自ら自体として価値をもち、両親の自由の単なる延長ではない彼ら自身の自由を持つのである。(p.38)

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第3章 貨幣の管理

 社会全体の見地からみた商品本位制の根本的な欠陥は、貨幣ストックを増加させるには実質資源を使用しなければならないということである。南アフリカの地中から金を掘り出すために人びとは重労働をしなければならない(・・・)。商品本位制を運用するために実質資源の使用が必要であるということは、こうした資源を使わずに同じ結果を得る方法を見出そうとする強い誘因を人びとに与える。(p.45)

 

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第4章 国際金融・貿易制度

第5章 財政政策

第6章 教育における政府の役割

 政府はある最低限水準の学校教育を義務づけ、それをまかなうに親に証票(ヴァウチャー)をあたえて、「公認の」教育サービスに費やされるならば子供一人一年当たりある一定の最高限度額までそれが償還されることができよう。そうすると親はこの金額といいくらkでも自分の用意した金額とを合わせて、自分自身で選んだ「公認の」機関から教育サービスを購入するのに自由に費やすことができよう。教育サービスは営利を目的とする私企業によって提供されることもあれば、非営利施設によって提供されることもありうるだろう。政府の役割は、それらの学校が授業計画の中に最低限度必要とされる共通の内容を取り入れているかどうかといった、ある一定の最低基準を満たすように保障することに限れられるのであって、それは政府が現在飲食店を検査して、最低限の衛生基準を維持させようとしているのほとんど同じである。(p.102)

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第7章 資本主義と差別

 われわれがすでに見てきたようなやり方で、自由市場は経済的効率性をそれとは無関係な諸特性から切り離す。第一章で注意したように、パンを買う人はそれが白人の栽培した小麦から作られたのか、あるいは黒人の栽培した小麦からなのか、キリスト教徒のか、それともユダヤ人のかといったことを認めようとしない。その結果、小麦の生産者は、彼が雇用する人々の人種・宗教あるいはその他の特徴に対して社会がどのような態度をとっているかにかかわりなく、資源をできるだけ効率的に利用することができる。それに加えて、おそらくもっと重要なことには、自由市場には経済的効率性を個人の他の諸特性から切り離そうとする経済的誘因が存在する。ある実業化とか企業者とかが自分の経済活動において、生産的効率性と関係のない選考を表すならば、彼はそうでない人々に比べて不利になる。そのような個人は事実上、こうした選考を持たない人びとよりも高い費用を自分自身に負わせていることになる。そのために自由市場では後者の人びとが彼を駆逐することになりがちであろう。(p.124)

 これと同じ現象はもっと広い範囲にわたって見られる。人種・宗教・皮膚の色、あるいはその他の何であれ、そのようなことを理由にして他人を差別する者は、そうすることによって何らの費用もまねかず、他人に費用をかぶせているにすぎないのだということがしばしば当然のように考えられている。この見解は、他国の商品に関税を課しても時刻はまったく被害をこうむることはないという、大変よく似た誤謬と同質なものである。どひらも等しく間違っている。たとえば、黒人からものを買ったり黒人と一緒にはたらいたりすることをいやがる人は、それによって自分の選択の範囲を狭めている。一般的にいって、彼は自分の買うものに対してはより高い価格を支払い、自分の仕事に対してはより低い報酬を受け取らねばならないだろう。あるいは、反面からいえば、皮膚の色や宗教と関係のないことだと考える人びとは、その結果として何らかのものをよりやすく買うことができる。(p.124-5)

 たとえば、黒人の手人による応対に強い件を感を抱く人々の居住する地域で営業している食料品店が置かれている状況を考えてみよう。いま、これらの店のひとつの店員に空きがあって、最初の応募者がその他の点では資格があるにもかかわらず、たまたま黒人であったとしよう。そして法律があるために、この店は彼を雇わなければならないものとしよう。そうすることの結果は、この店の商いが減り、店主は損失をこうむるということであろう。もしもこの地域社会の差別的嗜好が非常に強ければ、この店は閉鎖に追い込まれることさえあるかもしれない。法律がない場合に店主が黒人よりも白人の手人の方を雇うとしても、彼は決して自分自身の選好、偏見、もしくは思考を表明しているのではないかもしれない。彼はただその地域社会の嗜好をとりついでいるだけではないかもしれない。彼はいわば消費者のために、消費者が進んでお金を払ってくれるサービスを生産しているのかもしれない。それにもかかわらず、彼がこの活動に従事することを禁じる法律、すなわち、黒人ではなく白人の店員を雇うことによって地域社会の嗜好の仲立ちをすることを禁じる法律によって被害を受けるのは彼であり、じっさい、彼だけが著しい損害を受けるのかもしれない。この法律が抑制しようと意図しているような選好をもつ消費者たちは、店の数が制限されて、一つの店が脱落していたためにこれまでよりも高い価格を払わねばならないかぎりにおいて実質的な影響をこうむるに過ぎないであろう。この分析は一般化することができる。(p.126-7)

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第8章 独占と企業および労働組合の社会的責任

 法人企業の役員が株主のためにできる限りの利益を上げるということ以外の社会的責任を引き受けることほど、われわれの自由社会の基盤そのものを徹底的に掘り崩す恐れのある風潮はほとんどない。これは根本的な破壊活動の教義である。もし経営者が株主のための最大の利益をあげるということ以外の社会的責任を実際に持つとした場合、彼らはそれが何であるかをどうやって知るのだろうか。仲間内だけで選ばれた私的個人が社会的利益の何たるかを決めることができるだろうか。彼らは社会的利益に奉仕するために、どのくらい大きな負担を自分たち自身または株主のいわせるのが正当とされるかを決めることができるできるであろうか。厳密に私的な集団によってその地位に選ばれ、現在たまたま特定の企業にあずかっている人々によって、そうした課税、支出、および統制の公的機能が行使されてよいものであろうか。もし経営者が株主の雇人ではなくて公務員であろうとするならば、民主主義のもとでは、遅かれ早かれ、彼らは選挙と任用の公的手続きを経て選ばれるようになるであろう。(p.151-2)

 政府が企業や労働組合の自己統制を求めるのは、政府が自分のこと−それにや貨幣の管理も含まれる−を自分でやる能力がないからであり、また責任を他に転嫁しようとする自然な人間性のためだ得る。社会的責任論の領域での一つの話題で、私自身の利害にも影響するので、ぜひ触れておく義務があると感じるのは、企業は慈善活動を支援するために、またとりわけ大学に対して寄付をすべきだと言う要求について絵ある。法人企業によるこのような贈与は、自由企業社会では会社の資金の不適当な使い方である。法人企業はそれを所有している株主の道具である。もし法人が寄付をするならば、それは個々の株主が自分の資金をどのように処分すべきかを自分自身で決定する自由を妨げることになる。法人税と寄付金の控除制度とがあるために、株主は無論自分に代わって会社が贈与をしてくれることを望むかもしれない。というのは、それによって彼らはより多額の贈与をすることができるだろうからである。最善の解決は法人税の廃止であろう。しかし法人税が存在するかぎりでは、慈善的ないし教育的施設への寄付の控除を許すことは正当化できない。そのような寄付は、われわれの社会における究極の財産所有者である個人によってなされるべきである。(pp.153-4)

 ・・・政府が現に動きつつある方向、すなわち法人企業に慈善的目的の寄付を許し、所得税に対するこうっじょを許すという方向は、所有と管理の新の分離を作り出し、われわれの社会の基礎的な本質と性格を破壊する方向への一歩である。それは個人主義的な社会から遠ざかり、法人国家へと向かう一歩である。(p.154)

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第9章 職業免許制度

第10章 所得の分配

 市場の働きを通じて生ずるもう一つの種類の不平等もまた、いくぶんかいっそう微妙な意味において、処分の平等を実現するために−あるいは別の言い方をすれば、人々の嗜好を満たすために−必要とされる。それは富くじの例によって説明するのがいちばん簡単である。個人のグループを考え、かれらの人々は当初に平等な資力を持っていて、一同が非常に不平等な償金つきの富くじに参加することに自発的に同意するものとしよう。その結果生ずる所得の不平等は、問題の人々が彼らの当初の平等を十分利用することができるようにさせるために必要なことは確かである。事後に所得を再配分sることは、富くじに参加する機会を彼らに拒むことと同じである。この事例は、「富くじ」の観念を文字どおりに受け取った場合に一見して思われるよりも、実際上はるかにいっそう重要である。人々は職業や投資その他の選択を、一部は不確実性に対する彼らの嗜好に応じて行う。(p.182-183)

 じっさい、こうした面から、累進課税その他を通じて所得を再分配しようとする政府の措置を解釈することもできる。つまり、次のような議論ができる。管理上の経費といった何らかの理由で、市場はその社会の構成員が望むような範囲もしくは種類の富くじを生み出すことができないのであって、累進課税はいわばそれをするための政府事業である。この見解には疑いもなく一面の真理が含まれていると私は思う。と同時に、それによって現在の課税を正当化することは、次の理由だけから言っても難しい。というのは現在では、実生活上の富くじがだれが賞金を引き当て、だれが空クジを引いたかがすでにほとんどわかってしまったあとで租税が課されるのであって、しかも税金は主として、自分が空くじを引いてしまったと考える人々によって票決されるのだからである。(p.183)

 広く主張されているところによれば、個人の生まれつきの才能の不平等と財産の不平等とを区別し、また相続された富から生ずる不平等とみずから獲得した富から生ずる不平等とを区別することが必要不可欠であるとされている。個人的な能力の差から生ずる不平等、あるいは当の個人によって蓄積された不平等は妥当なものと考えられるか、あるいはすくなくとも、相続された富から生ずる差異ほど明瞭に不当なものではないと考えられている。
 この区別は支持することができない。大きな需要のある特異な声を両親から受け継いだ個人が高い収益を得ることには、財産を相続した個人が高い収益を得ることよりも、なんらかより大きな倫理的正当化の理由があるだろうか。(…)富を所有していてそれを自分の子供に残してやりたいと思う親は、いろいろなやり方でそうすることができる。彼はある一定金額を使って、子供の訓練、たとえば公認会計士としての訓練の資金にすることができるしあるいは子供に事業で身を立てさせることもできるし、あるいは子供に財産所得をもたらす信託基金を設定してやることもできる。これらのどの場合でも、子供はそうでなかった場合よりも高い所得を受けることになるであろう。しかし、第一の場合には彼の所得は人間的能力から生じているとみなされるであろうし、第二の場合には利潤から、第三の場合には相続した富から生じているとみなされるであろう。倫理的根拠に基づいて、これら三つの種類を区別することに何らかの基礎があるだろうか。さいごに、人か彼が個人的能力によって生産したもの、あるいは蓄積した富の生産物に対して権利があると言いながら、富を自分の子供たちに譲る権利はないのだということ、人は自分の所得を放縦な生活に使うのはよいが、それを相続人にあたえてはならないのだということ、それは非論理的であるように思われる。

 世界中のすべての人々の平均を超えて富を所有している人は誰でも、その超過分を直ちに世界中の他の住民のすべてに等しく分配しなければならないということをわれわれは自分たち自身に、あるいはわれわれの仲間に対して強く主張するだけの容易があるだろうか。そのような行動が少数の人々によって企てられるときには、われわれはそれに感服し、賞賛するかもしれない。けれども、普遍的な「贈り物分配行事」は文明社会を不可能にするであろう。(p.186)

 労働者は彼が生産するものを当然受け取る権利があるとしてはじめて「搾取」されていることになる。それに代えてラスキン的な前提、「各人には必要に応じて、各人からは能力に応じて」−それが何を意味するにせよ−を受けいれるならば、労働者が生産するものを彼が受け取るものと比べるのではなくて、彼の「能力」とくらべなければならないし、また労働者が受け取るものを彼が生産するものと比べるのではなくて、彼の「必要」とくらべなkればならない。
 もちろん、マルクス主義者の議論は別の根拠からしてもやはり妥当ではない。第一に、そこでは協力するすべての資源の総生産物と、生産物に付け加えられる量−経済学の専門用語では、限界生産物−とのあいだの近藤がある。なおいっそう目立つことだが、前提から結論に進んで行く家庭で、「労働」の意味がいつのまにか変化している。マルクスは生産物を生産するにあたっての資本の役割を認めたが、しかし資本を具体化された労働とみなした。したがって、略さずに書きあらわすと、マルクス主義者の三段論法の前提はこうなるであろう。「現在と過去の労働が生産物の全体を生産s塗る。現在の労働は生産物の一部だけを受け取る。」論理的な帰結はおそらく、「過去の労働は搾取されている」ということである。そして行動のための推論は、過去の労働は生産物をもっと受け取るべきだということである。とはいっても、優美な墓石でというのではないかぎり、どのようにして受け取るのかは、決して明らかではないが。(p.189)

 過去一世紀にわたる進歩と発展の主要な特徴は、それが大衆を骨の折れる労役から解放し、以前には上流階級の独占になっていた生産物とサービスを彼らの手に入るようにさせたということ、しかも富裕な人々の手に入る生産物とサービスはそれに応ずるほどには決して拡大しなかったということである。(p.191)

 累進所得課税の望ましさを判断するにあたっては、二つの問題を区別することがわたしには重要であるように思える−たあとえその区別が、応用面では厳密でありえないにしても。すなわち、第一に、政府が着手することに決定している諸活動(それにはおそらく、第12章で論ずるような貧困除去の諸手段も含まれる)をまかなうための資金の調達、そして第二に、再分配の目的だけのための租税の付加がそれである。前者については、受益に応じて費用を割り当てるという根拠と社会的な構成の基準という根拠との双方にもとづいて、ある程度累進性が要求されるということも十分にありえよう。しかし、所得および相続の最高位所階層に対する現在の高い名目税率をこの根拠に基づいて正当化することはむずかしい−それらによる税収が非常に低いという理由だけからしてもそうである。(pp.195-196)

 所得の配分に立ち返ると、所得の分配に影響を与えるためには、課税とは非常に違った種類の社会的行動を正当化するはっきりした理由がある。現実脳平等の多くは市場の不完全性に由来している。これらの多くはそれ自体が政府の行動によって作り出されてきたものか、あるいは政府の行動によって除去することができたはずのものである。これらの不平等の源泉を取り除くように、ゲームのルールを調整する理由が十分にある。たとえば、政府が与える特別の独占的特権、関税、そのほか特定の諸集団を利する立法措置などは不平等の一つの源泉である。これらの排除を子祖、自由主義者は歓迎するであろう。教育機会の延長と拡大は、不平等の縮小に役立ってきた大きな要因である。このような諸手段は、単に症状を軽減するだけではなくて、不平等の源泉を打破するという咲く戦場の利点を持っている。(p.198)

 

 

 

第11章 社会福祉政策

第12章 貧困の軽減

第13章 結論

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UP:060322,REV:070316,070420