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啓発された(見識のある)自己利益
(Enlighten Self-interest)

【文献】

◆Tocqueville de Alexis, (1888) De La Democratie en Ameirque (井伊玄太郎訳 1987『アメリカの民主政治』 講談社学術文庫)

◆猪木 武徳(2011)「自由擁護の思想家たち(4)「啓発された自己利益」とアダム・スミス」『ミネルヴァ通信』4,4-10

◆勝西 良典(2011)「ビジネスにおいてケアを求めるとはいかなることか――高次の倫理的要求の妥当性について (特集 ビジネス・エシックスを多角的に考える)」『異文化コミュニケーション研究』神田外語大学異文化コミュニケーション研究所, 23,161-176

◆村田 潔 「なぜ企業は倫理的に振舞い、その社会責任を果たさなければならないのか」「明治大学 情報倫理研究リソース」(ウェブサイト上の論説)

◆奥澤 英亮(2008)「マーケティングによる循環型社会形成への貢献に関する一考察――逆流通システム構築を目指して」『日本経営診断学会論集』,8,103-108

◆岡本 大輔(2000)「企業評価基準としての社会性――Revisited」『三田商学研究』,43(5),55-74

◆塩澤 修平(2011)「見識ある自己利益と営利企業による社会貢献活動」『三田学会雑誌』 104(1), 51-61

◆鈴木 由紀子(2005)「企業の社会的責任に関する一考察」『三田商学研究』慶應義塾大学出版会,48(1),187-197

◆谷口 勇仁(2002)「「啓発された自利」を超えて――社会業績・経済業績の関係分析の展望」『經濟科學』 49(4), 121-135

◆上田 俊昭(2000)「環境問題と会計上利益概念の再認識 (統一論題「21世紀の会計を展望する」)」『経理研究』中央大学経理研究所,43,10-20

◆大前 慶和(1997)「現代企業の社会的責任の範囲に関する試論――現代企業の営利的側面と社会的側面の関係に注目して」『三田商学研究』40(1),69-90

◆牛尾 奈緒美(1996)「企業フィランソロピーに関する一考察」『三田商学研究』,39(2),157-179

●倫理的利己主義 (Ethical Egoism)

●啓発された自己利益 / 見識のある自己利益(Enlighten Self-Interests) 他人の利益を尊重することが自己の利益の促進に連なると自覚した自利心であり、逆にいえば、自己の利益を促進するためには他人の利益を尊重しなければならないと自利心である。高田 [1974:70]

Kein. G. D. "Corporate Social Responsibility : An Assessment of the Enlightened Self-Interest Model," the Academy of Management Review, Vol.3(1) p.33

★Tocqueville de Alexis, (1888) De La Democratie en Ameirque (井伊玄太郎訳 1987『アメリカの民主政治』 講談社学術文庫)

 自由都市の制度は封建制王政のうちに民主的自由をひきいれた。火器の発見は戦場で平民と貴族とを平等化している。印刷術は平民と貴族との理知の平等な源泉を与えている。郵便は貧乏人の小屋の入り口にも宮殿の門にも同じように文明の光を投げるようになっている。新教はすべての人々が平等に天の道にみつけうることを主張している。発見されたアメリカは、人間の運命に無数の進路を示し、無名の冒険者たちに富と権力とを与えている。(p.26)

 知的不平等は直接には神からきている。そして人間はその不平等がいつでも次から次に出てくるのを妨げることはできない。けれども造物主が欲しているように、各人の知性は、すべて不平等でありながらも、その各人の性情のうちに、平等な平均値をあらわしていることは、少なくともすでに説明したところで明らかであろう。このようにして、アメリカでは貴族的要素は、アメリカができたときから弱まっている。そしてこの貴族制は、破壊されるまでには至っていなくても、少なくとも、それが事物の進行上に何らかの影響力を持っているとするにはむつかしいほどに、弱まっている。(p.110)

 各人は自分ひとりのことに関することについては最上の判断者である(…)−州に対する共同体の義務−フランスでは政府はその代理者を共同体に貸与する−アメリカでは共同体はその代表者を州政府に貸与する(p.132)

 彼は、彼の同胞たちとの結合が彼にとって有効であり、そしてまたこの結合が規制力なくしては存在することができないことを彼が知っているために、社会に服従するのである。したがって、市民たち相互の義務に関連するすべてのことでは、彼は主人である。(…)個人こそが自らの特殊利益の最上の唯一の審判者であり、社会は個人の行為によって損害を受けたと感ずるときにのみ、または社会が個人の協力を必要とするときにのみ、個人の活動を指導する権利を持っているという公理が生まれるのである。(p.133)

 共同体は「社会的」とよばれる利益に、すなわち共同体相互が互いに分かちあう利益に、関係するときにのみ一般に州に従属している(p.134)

 各人は自分自身にのみ関係する事柄については最上の判断者であり、各人は最もよく自らの指摘必要を満足させうるものであるということである。したがって、共同体と郡とはそれら自らの特殊諸利益を監視する責任をもっている(p.164)。

 上記の愛国心よりも合理的な別個の愛国心がある。この愛国心は、一般的でもなく、おそらくは熱心さでは劣っていはいるが、文化的啓蒙から生まれる。(中p.140)

 この私益を国益に結合するという目的を達成するためには、政治的権利を直ちにすべての人々に与えなければならないとは私は主張しない。けれども、人々の関心を国の運命に結びつける手段として残っているものの中で最も強力な、おそらくは唯一の手段は、人々を自国の政治に参加させることであろう。(中p.141)

 アメリカ連邦では、一般民衆の人間も自らの幸福に一般的繁栄が及ぼす影響を理解している。これはアメリカの人民についてのきわめて単純な感想であるが、ほとんど知られていないことである。なお、人々はこの一般的繁栄を自分が作ったものだと見るような習慣を身に着けている。したがって彼は、公共的運命のうちに自らの運命を見るし、国益のために努力する。それは、義務によってまたは誇りによってもあるが、なおあえていえば大欲によってそうなのである。(中p.142)

 それは、アメリカ連邦ではすべての人々が法律に服従していることが、とりもなおさず一種の使役につながるとみなされていることである。なぜかというと、今日では多数者に加わっていないひとも明日にはおそらく多数者の陣営に加わるであろうからである。(…)それゆえにどんなに憂慮すべき法律にも、アメリカ連邦の住民は、最大多数の人々の作品としてのみならず、自分自らの作品としても、何らの苦痛をおぼえずに、その法律に服従するのである。(中p.150)

 ある人間に、国全体の運命について感心を持たせるようにすることはむづかしいことである。なぜならば、国の運命が彼の境遇に及ぼしうる影響を、彼は理解していないからである。けれども、彼の領域内の一端に向かって彼に道をたどらせる必要が生ずるときには、この小公務と彼の大私事との間の関係が見いだされることは、一見して彼に分るだろう。そして彼は人から示されなくても、ここに特殊利益を一般利益に結びつける、緊密な紐帯を発見するであろう。(下p196)

 アメリカで説法されているような実利説が、そのすべての詳細な点で明白であるとは、私は信じていない。けれどもそこでは、この実利説は非常に明白な多くの真理を含んでいるので、人々がこれを知るためには、人々を啓蒙するだけで十分である。それゆえに、あらゆる努力を傾倒して、彼らを啓蒙すべきである。なぜかというと、盲目的な献身と本能的な徳との時代は、すでにわれわれから遠ざかってしまっているからである。そして自由、公共的平和、そして社会的秩序自体が、文化的共用なくしては実現されえない時代が近づいていることを、私は知っているからである。(下p.230)

 


 「啓発された利己心」(enlighted self-interest)とは、端的に言えば、長期的・多面的な角度からの反省規定を内包した利己心である。経営者がもっている自己の企業の維持・発展を図らねばならぬ職務責任と社会的責任とを結びつけるものは、この「啓発された利己心」を置いてほかにない。いま、もし経営者が「利他心」に基づき、無原則的に消費者や地域住民の利益をはかって製品の品質の改善、価格の引き下げ、公害防止をなすことによって、彼のになっている企業の維持・発展を危険に陥れることをあえてした場合、かかる経営者を称して「社会的責任を自覚した優れた経営者」と判断する人はいないであろう。(中谷[1979:166])


 社会的評価が高く、すぐれた社会業績を上げている企業には、多くの場合、社会における企業の役割を広範囲で展開しようとする経営首脳陣が存在している。彼らは、社会が抱える問題を解決するために企業が大いに貢献すべきだと考えている。また、彼らは短期的利益に焦点をあてるよりも、長期的な視野で企業活動を展開し、企業の長期計画において経済的目標と同等に社会的目標にも高い優先順位をつけている。(松野 堀越 合力 編著 [2006: 14-5])

 組織内部に「CSRはコストではなく、投資である」という意識を共有するような仕組みづくりを行ない、もはや現代企業にとって社会的常識であり、今後、その常識を逸脱する企業は淘汰され、社旗や社旗環境全体からの信頼を失うことになるであろう。松野 堀越 合力 編著 [2006: 28]

 1955年ごろアメリカから日本に成長株(グロース・ストック)という考え方が輸入され、成長株ブームが起こったことがある。会社が成長すれば利益が増えるから増配の可能性がある。そういう株が成長株なのだが、おりから日本経済が高度成長時代にはいったことによってこの成長株という考え方が大流行するようになったのである。それは将来の増配を見越せば現在の利回りは低くてもよい。すなわち現在利回りはかりに3%になっても将来の予想利回りは5%だから大丈夫だということになって株価が上がっていく。奥村[1992:32]

 

 


 活動は、一つの関心を表示し、しかもあらゆる関心は、関心として自我をふくんでいるからという理由だけで、活動は利己的だと主張する考えが、しばしば、もちだされる。この立場の検討は、一切が、それにふくまれてくる自我の種類に依存するという言い方を裏付ける。すべての活動は、自我から出てき、自我に影響するということは、自明の理である。なぜなら関心こそは、自我を定義するものにほかならないからである。そのかぎり、人が何に関心を持つかは、自我の一構成要素である。(Dewey & Tufts [1908,1932=1972:282])

 たとえば、ある人物が、自分の友人たちを自分の職業における自分自身の個人的出世のたんなる助けとして、利用するばあいがある。しかしこうした場合には、当人は、友人に対して、独立した友人として、あるいは独立した人間としてさえ、関心をいだいているのではない。当人は、自分が彼らから利用できるものに関心をいだいているのである。彼らを「友人」とよぶのは、いんちきな口実である。要約すれば、利己性と非利己性との全区別の本質は、自我が関心をいだく対象の種類の中にある。「関心をおさえた」(ディスインタレスティッド)活動は、関心活動を意味しはしない。関心をおさえた活動が、無関心の意味をもつ場合、活動は情熱がなく、貼りきらず、しきたり的であって、容易に気落ちさせられる。「関心をおさえた」というコトバにあたえられる唯一の知的意味は、関心が知的に公平であり、かたよらず、自分の幸福に関しようと、他人のだれかの幸福に関しようと、同じものは、同一価値のものとして評価することである。(Dewey & Tufts [1908,1932=1972:283])

 正しく組織された社会秩序において、人人が相互に結び合う諸関係そのもののが、ある方向のビジネスを遂行する人物に対して、他人の諸必要を満足させる種類の行為を要求すると同時に、他人は他人で、当人をして自分自身の存在の諸能力を表現させ、実現させること可能にさせてくれているのである。別のコトバでいえば、サービスはその結果において、相互的、共同的となるのであろう。われわれが医者を信頼するのは、その慰謝が、自分の職分の社会的意義を承知し、知能と技能にめぐまれている場合であって、医者の利他的熱望がどれほど大きかろうと、個人的感情によってもっぱら動かされている場合ではない。(Dewey & Tufts [1908,1932=1972:285])

 「慈善」は、人間の社会的良心をごまかすための手段として用いられさえすると同時に、社会的不正に苦しめられている人人の中に、慈善がなければわきおこるであろう憎悪を買収しさえするのである。大がかりな慈善事業は、無慈悲な無慈悲な経済的搾取をおおいかくすために、用いられる場合すらある。図書館、病院、ミッション、学校への寄付金は、現存体制で辛抱できるものにし、社会的改革への免疫をもたらす手段としてさえ使用されるだろう。さらに、計画された慈善は、他人を服従させ、彼らの問題を彼らにかわって処理する手段として使用される。(Dewey & Tufts [1908,1932=1972:287-8])


 短期的には、内部留保を少なくして配当を多くすることが株主たちことに一時的株主を喜ばせるであろう。けれども、株主の中には大口株主をはじめかなり持続的株主ないし中世株主が損じ明日るから、一時的配当を抑制してもその分が会社慎重のための有効な社内留保となり、将来の隆盛をもたらすとすれば、このような配当抑制は、長い眼で見て、彼らにとって決して不利益とはならないということもまた事実である。C.C.ボスランドはつぎのごとく述べている。「取締役は、株主の即時配当要求と、会社の財務的要請および会社の長い眼でみた利益とをちょうせいしなければならない」(傍線 細井,細井[1958:262])


 社会的責任肯定論の中でも、最も一般的な見解は、企業が社会的役割を自覚し、社会的責任を遂行することが、長期的視点に立てば、企業自身の利益とよく一致するというものである。たしかに、酒井敵責任に関連する諸事項に取り組むことは、企業に大きな費用負担をしい、短期的には利潤極大化を目的として活動する経済的組織に主種の当惑や混乱を生ぜしめることになろう。しかし、こうした問題を無視するか、ないしは安易に回避する行動をとれば、長期的には、企業に批判的な風潮の中で、有能な従業員を継続的に確保することが困難となる。対木[1979:42]

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◆鈴木 由紀子(2005)「企業の社会的責任に関する一考察」『三田商学研究』慶應義塾大学出版会,48(1),187-197

 現在の「社会的責任:は、企業が社会とのコミュニケーションをより意識し、また「実践としてのCSR」を促進するためにガイドラインなどが利用されていることなどから、新たな「社会的責任」の搭乗であると強調される傾向がある。たしかに一見すると取り組みとしてはより戦略的になり進化しているようだが、理念的には「持続可能性」という言葉に集約されるように、社会の利益を促進しながら企業も利益を得るという点で、純粋に利他主義的なものではなく、「戦略的CSR」ともいえ、いかに斬新であるかのように見せたとしてもその本質は古くからいわれている「啓発され>195>他自己利益(enlightened self-interest)」であることを免れ得ない。したがって、現在、真に社会からの期待にもとづいての企業の「社会的責任」の実践なのかどうかをより詳細に検討していく必要がある(pp.194-195)

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◆勝西 良典(2011)「ビジネスにおいてケアを求めるとはいかなることか――高次の倫理的要求の妥当性について (特集 ビジネス・エシックスを多角的に考える)」『異文化コミュニケーション研究』神田外語大学異文化コミュニケーション研究所, 23,161-176

 利潤追求の背後で公益を実現するシナリオは、「啓発された自己利益」 という概念を得て一層強固で信頼に足るものとなった。公平な観察者の視点を導入することが利益につながるという論理は、潜在的恐怖によって規範を内在化させるパノプティコンモデルよ りも遙かに洗練されている。

 社会的責任投資(SRI)や社会的責任>167>購買(SRB)といった他のステイクホルダーの動向も、 この流れを後押しする。以上を啓発された自己利益として理解できるなら19)、「ケア」や「ケアの倫理」の出る幕はどこにあるのか。(p.166-167)
注釈19 B の CSR を含め、このような動向は「啓発された自己利益」を超えているとする論者も多い。一例として、三戸 1994、谷口 2002、葉山 2008。筆者が問題にしたいのは、たとえば、社会的・公共的・倫理的観点がビジネスの論理に組み込まれることによって、企業の自己批判の可能性が少なくなり、延いては他者の批判を受け入れにくくなりはしないか、ということである。 註 2)、 註28)を併せて参照。倫理学的には、このレベルの実際的行為は倫理的利己主義や功利主義の道具立てで十分に達成可能である。(p.173)

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◆岡本 大輔(2000)「企業評価基準としての社会性――Revisited」『三田商学研究』,43(5),55-74

 米国には「見識ある自己利益・啓発された自己利益(Enlightened Self-interest)」という考え方がある。これは,社会貢献は企業活動をより円滑に行なうための社会システムへの投資であり,企業は>64>自由経済を保証する社会制度の強化を行なうためにフィランソロピーに参加する,という考え方である。実際,アメリカ企業は,本社も支店もなくビジネス上重要な地域でもないところには決して寄付をしないと言われている(pp.63-64)

 企業の究極の目的を長期の維持発展とするのは従来通りである。その手段としてのド位目的が収益性,成長性,社会性となる。社会性は,収益性・成長性の下位目的・サブ目的・手段ではなく,同じレベルの目的になっているところがポイントである。 お互いの関係は,短期的目的として収益性,中長期的目的として成長性,超長期的目的として社会性となる。超長期というのは,既に述べたように社会性を追求した場合にそれが企業経営にプラスになる,という論証が各種あるとはいえ,ダイレクトに収益性・成長性を追及した場合に比べてはるかに間接的な効果となって現れてくるからである。ゆえにそのウエイトも収益性・成長性に比べ>65>れば低くならざるを得ないが,ただし,あくまでも,下位目的ではなく,対等であることが重要である。社会性が収益性・成長性より下位の目的と見られていたり,別物として考えられていたのは,企業の社会貢献が企業の収益性・成長性を損ない,利害関係者の利益にならない,と考えれていたからである。しかし現在では2章および3章で述べた各種要因を始め,長期的なイメージ向上,それによる取引関係の良好化,優秀な人材の確保など,様々なメリットが考えられる。そしてこれは株主の意向に反しているわけでもない。株主にとっては企業が長期的に維持発展してくれれば,キャピタルゲイン,インカムゲインともに増加するのである。
 企業は社会性の追求に際して,本業と関係なく社会のために尽くす,などと偽善的なことを言う必要はないし,陰徳といってその活動を隠す必要もない。企業は社会性を企業目的のひとつとして追及すべきなのである。(pp.64-65)

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◆大前 慶和(1997)「現代企業の社会的責任の範囲に関する試論――現代企業の営利的側面と社会的側面の関係に注目して」『三田商学研究』40(1),69-90

 現代企業の営利的側面と社会的側面が両立することを主張するものとして,啓発された自己利益(enlightened self-interest)の考え方がある。経済開発委員会(CED)は,「企業がその競合能力を維持できる範囲において,社会の諸問題に敏感に反応し,対決に至る以前に必要な行動をとることこそ,企業の自己利益を最もよく生かす道であることは明らかである」と論じている。つまり,企業は第一義的に営利的存在であることを認めた上で,社会的活動が企業の利潤増大に寄与する場合があることを示唆しているのである。
 このような指摘は,企業の社会的活動を市場という体系内でとらえたのでは,されえない、したがって,市場よりもより広範な範疇である社会という体系内でとらえているものと思われる。ここでの社会とは,様々なステイクホルダーから構成されており,企業に対する期待や要求も多様であると考えられる、(p.82)

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◆村田 潔 「なぜ企業は倫理的に振舞い、その社会責任を果たさなければならないのか」「明治大学 情報倫理研究リソース」(ウェブサイト上の論説)http://www.kisc.meiji.ac.jp/~ethicj/Ethical%20basis%20of%20firms.pdf
 他方、長期利益説とは、「長期的に見れば、企業が社会責任を果たすことは経済的利益をもたらすのであるから、企業は社会責任を果たさなければならない」というものである。「利益追求体としての企業」は「啓発された自己利益」(enlightened self-interest)に基づいて行動せよ、というこの主張は、至極分かりやすいものであるかもしれない。しかし、これも同様に論理的には、「長期的に見て社会責任を果たさないことが利益につながるのであれば、企業は社会責任を果たすべきではない」、「非倫理的な行為が長期的な利益をもたらすのであれば、企業はそれを行わなければならない」という理解を導いてしまう。




◆UP:060528,REV:070103,150714