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アリストテレスの正義論
Aristoteles' justice

文献

◆藤原保信(1968)「政治理論における「正義」の問題--アリストテレス「正義」概念の検討」『早稲田政治経済学雑誌』 (210・211), 473-500, 1968-06 Z||310||W41

◆高橋 勝(1969)「アリストテレスの友愛論の一考察--広報と正義との連関において」『理想』 (438), 70-83, 1969-11 Z||100||R47

◆桑原 洋(1972)「アリストテレスの「正義の流通経済」論」『駒澤史学』 19, 21-54, 1972-03

◆木立雅憲(1984)「<市民>と哲学 アリストテレス正義論を手懸りに」『哲学会誌』弘前大学哲学会19,33-41

◆岩田 靖夫(1986)「正義論の基底――ロ-ルズとアリストテレス」『思想』 (746), 25-42 Z||100||Sh91

◆岩田 靖夫(1988)「人倫的世界における目的論:アリストテレスにおける自然的正義の基礎」『哲学』 (38), 1-23

◆松坂佐一(1994) 「アリストテレスの法律と正義」『名古屋大学法政論集』 (158), p79-143, 1994-10 Z||320||N27

◆丸山徹(2003)「交換の正義--アリストテレース倫理学をめぐって」『法学研究』 76(1), 99-125, 2003-01 Z||320||H81

◆相馬 隆治(1966)「「正義」についての若干の考察--アリストテレスを主として」」『甲南大学文学会論集. 社会科学篇』6(1)35-50, 請求記号:Z||051||Ko71||v.5-6

◆高橋一行(2013)「交換的正義論」『政経論叢』 明治大学81(5 6)785-812

◆松井 富美男(2003)「カントの正義論 アリストテレス、ホッブス、ベッカリーアとの比較を通して」『広島大学大学院文学研究科論集』 63, 17-31

◆岩田 圭一(2006)「徳としての正義――アリストテレスの正義論における対他性と平等性」『立正大学人文科学研究所年報』 44, A17-A30

◆竹原 創一(2010)「ルターとアリストテレス――正義の理解をめぐって (特集 ハヤトロギア)」『基督教学研究』 (30), 49-69 Z||190||Ki54

◆香田 芳樹(2015)「正義の女神は苦しむものに秤を傾ける : 古代・中世ヨーロッパ文学に描かれた配分的正義と交換的正義 (特集 詩的正義)」『ドイツ文学』 14(2),日本独文学会 8-23 Z||940||D83

◆小泉 義之(2004)「配分的正義を--死の配分と財の配分 (特集 反派兵)」『情況 第三期』 5(2), 16-19, 2004-03 Z||300||J67

◆海原 裕昭(1991)「配分的正義と是正的正義」『大阪府立大学紀要 人文・社会科学』(39), 1-24

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◆Aristoteles. Nicomachean Ethics. = 1971 高田三郎 訳『ニコマコス倫理学 上・下』 岩波書店)

第一巻 序説
 第一章 あらゆる人間活動は何らかの「善」を追求している。だがもろもろの「善」の間には従属関係が存する
 第二章 「人間的善」「最高善」を目的とする活動は政治的なそれである。われわれの研究も政治的なそれだといえる
 第三章 素材のゆるす以上の厳密性を期待すべきではない。聴講者の条件
幸福
 第四章 最高善が「幸福」であろうことは万人の容認せざるをえないところ。だが、幸福の何たるかについては異論がある。(聴講者の条件としてのよき習慣づけの重要性)
 第五章 前途か幸福とかは、快楽や名誉や富には存在しない
 第六章 「善のイデア」
 第七章 最高善は究極的な意味における目的であり自足的なものでなくてはならない。幸福はかかる性質を持つ。幸福とは何か。人間の機能よりする幸福の規定
 第八章 この規定は幸福に関する従来のもろもろの見解に適合する
 第九章 幸福は学習とか習慣づけとかによって獲られるものか、それとも神与のものであるか
 第十章 ひとは生存中に幸福な人といわれうるか
 第十一章 生きているひとびとの運不運が死者の幸福に影響をもつか
 第十二章 幸福は「賞賛すべきもの」に属するか、「尊ぶべきもの」に属するか
 第十三章 「徳」論の序説――人間の「機能」の区分。それに基づく人間の「卓越性」(アレテー)(徳)の区別。知性的卓越性と倫理的卓越性

第二巻 倫理的な卓越性(徳)についての概説
 第一章 倫理的な卓越性ないしは徳は本性的に与えられているものではない。それは行為を習慣化することによって生れる
 第二章 ではいかに行為すべきか。一般に過超と不足とを避けなくてはならぬ
 第三章 快楽や苦痛が徳に対して有する重要性
 第四章 徳が生じせしめるにいたるもろもろの行為と、特に即しての行為とは、同じ意味において善き行為たるのではない
 第五章 徳とは何か。それは(情念でも能力でもなく)「状態」である
 第六章 ではいかなる「状態」であるか。それは「中」を選択すべき「状態」にほかならない
 第七章 右の定義の例示
 第八章 両極端は「中」に対しても、また相互の間においても反対的である
 第九章 「中」を得んがための若干の実際的な序言

第三巻 つづき
 第一章 いいとかわるいとかいわれるのは随意的な行為である。随意的とは@強要的でなく A個々の場合の情状に関する無識に基づくものならぬことを意味する
 第二章 徳はよき行為がさらに、B「選択」に基づくものなることを要求する。「選択」とは何か。それには「前もって思量した」ということがなくてはらぬ
 第三章 だが思量とは何か。 −かくして「選択」とは「われわれの自由と責任に属することがら」に対する「資料的要求」であ
 第四章 「選択」が目的へのもろもろの手立てに関わるのに対して、「願望」は目的それ自体にかかわる
 第五章 かくして徳はわれわれの自由に属し、したがって悪徳もまたわれわれの責任に属する倫理的な卓越性(徳)についての各論
勇敢
 第六章 勇敢は恐怖と平然と(特に戦いにおける死についての)にかかわる
 第七章 それに対する悪徳。怯懦・無謀など
 第八章 勇敢に似て非なるもの五
 勇敢の快苦への関係
節制
 第十章 節制は主として触覚的な肉体的快にかかわる
 第十一章 節制・放埓・無感覚
 第十二章 放埓は怯懦よりもより随意的なものであり、それだけにより多くの非難に値する。放埓と子供の「わがまま」との比較

第四巻
(財産に関する徳)
 第一章 寛厚
 第二章 豪華
(名誉に関する徳)
 第三章 矜持
 第四章 (名誉心の過剰・名誉心の欠如に対する)それの中庸
(名誉に関する徳)
 第五章 穏和
(人間の接触に関する徳)
 第六章 「親愛」
 第七章 真実
 第八章 機知
(徳に似て非なるもの)
 第九章 羞恥

第五巻 正義
 第一章 広狭二義における「正義」
 第二章 狭義における正義が問われている。この意味の正義は配分的正義と矯正的正義に分たれる
 第三章 配分的正義(幾何学的比例に基づく)
 第四章 矯正的正義(算術的比喩に基づく)
 第五章 「応報的」ということ。交易における正義
 第六章 正義・市民社会・法律
 第七章 市民的正義における自然法的と人為法的
 第八章 厳密な意味における「不正を働く」ということ
 第九章 ひとはみずからすすんで不正を働かれるか。配分における不正の非は何びとにあるか
 第十章 正義に対する「宜」の補訂的な動き
 第十一章 ひとは自己に対して不正を働きうるか

第六巻 知性的な卓越性(徳)
 概説
 第一章 その論究のひつよう。魂の「ことわりを有する部分」の区別(認識的部分と勘考的部分)
 第二章 前者の目的は純粋な真理認識にあり、後者の目的は実践的な真理認識にある
 各論
 第三章 学
 第四章 技術
 第五章 知慮
 第六章 直知(ヌース)
 第七章 智慧(知慮との比較)
 第八章 (知慮と政治。知慮は個別にもかかわる)
実践の領域に属するその他の知性的な卓越性(徳)
 第九章 「思量の巧者」
 第十章 「ものわかり」「わかりのよさ」
 第十一章 情理(「ものわかり」や「直知」との共通性)
知性的な卓越性(徳)に関する諸問題
 第十二章 問題とその答え
 第十三章 つづき
訳注

第七巻 抑制と無抑制
 第一章 悪徳・無抑制・獣的状態。ならびにその反対のもの。抑制と無抑制とに関するうもろもろの通説
 第二章 これらの見解に含まれている困難。以下かかる難点が解きほぐされなくてはならない
 第三章 抑制力のない人は知りつつあしきことをなすのだとすれば、この場合の「知りつつ」とはどのようなことを意味するか
 第四章 無抑制はいかなる領域にわたるか。本来的な意味における無抑制と、類似的な意味における無抑制
 第五章 獣的なまたは病的な性質の無抑制は、厳密な意味で無抑制とはいえない
 第六章 憤激についての無抑制は、本来的な意味における無抑制ほど醜悪ではない
 第七章 「我慢強さ」と「我慢なき」との、抑制ならびに無抑制に対する関係。無抑制の二種 −「せっかち」とだらしなさ
 第八章 無抑制と悪徳(=放埓)との区別
 第九章 抑制・無抑制に似て非なるもの。抑制も一つの中庸といえる
 第十章 怜悧は無抑制と相容れても、知慮は無抑制と相容れない
快楽 −A稿
 第十一章 快楽の究明の必要。快楽は善でないという三説とその論拠
 第十二章 右についての全面的な検討
 第十三章 つづき
 第十四章 つづき

第八巻 愛(フィリア)
 第一章 愛の不可欠性とうるわしさ。愛に関する疑義若干
 第二章 愛の種類は一つではない。その種別は「愛さるべきもの」の種類いかんから明らかになる。「愛さるべきもの」の三種 −善きもの・快適なもの・有用なもの
 第三章 愛にもしたがって三種ある。だが「善」のための愛が最も充分な意味のおける愛である
 第四章 「善」のための愛とそれ以外の愛との比較
 第五章 愛の場合における「状態」と「活動」と「情念」と
 第六章 三種の愛の間における種々の関係
 第七章 優者と劣者との間の愛においては愛情の補足によって優劣の差が補われなくてはならない
 第八章 愛においては「愛される」よりも「愛する」ことが本質的である
 第九章 愛と正義との平行性。したがってあらゆる共同体においてそれぞれ各員の間に一定の愛が見出される。共同体の最も優位的なものは国家共同体である
 第十章 国政の種類と、そこから家庭関係への類比
 第十一章 右に応ずるもろもろの愛の形態。愛と正義とは各種の共同関係において、それぞれその及ぶところの限度が平行的である。
 第十二章 種々の血族的愛。夫婦間の愛
 第十三章 各種の愛において生じうべき苦情への対策として、いかにして相互の給付の均等性を保証するか (a)同種の動物における均等的な友の間において
 第十四章 (b)優者と劣者との間において

第九巻 つづき
 第一章 (c)動機を異にする友の間において
 第二章 父親にはすべてを配すべきか
 第三章 愛の関係の断絶に関する諸問題
 第四章 愛の諸特性は最も明らかに自愛において見られる
 第五章 愛と好意
 第六章 愛と協和
 第七章 施善者が非施善者を愛することは後者を愛する以上であろうのはなぜか
 第八章 自愛は不可であるか
 第九章 幸福なひとは友を要するか
 第十章 友たるべき人の数には制限があるか
 第十一章 順境と逆境と何れにおいてより多くの友を要するか
 第十二章 「生を共にする」ということの愛における重要性

第十巻 快楽 −B稿
 第一章 快楽を論ずる必要。快楽の善悪に関する正反対の両説。その検討の必要
 第二章 快楽は善であろうとするエウドクソスの説。(その制約。)エウドクソスに対する駁論の検討
 第三章 快楽は善ではないとする説。それについての検討
 第四章 快楽とは何か
 第五章 快楽にはいろいろな快楽がある、 −活動にもいろいろあるごとく。では何が人間の人間の快楽であるか。それは何が人間の活動であろうということからあいきらかになるであろう
結び
 第六章 究極目標とされた「幸福」と何か。それは何らか即自的に望ましい活動でなくてはならぬ。だが快楽が「幸福」を構成はしない。「幸福」とは卓越性に即しての活動である
 第七章 究極的な幸福には観照的な活動に存する。だがかかる純粋な生活は超人間的である
 第八章 人間的な幸福は倫理的な実践をも含めた合成的な「よき活動」に存する
 第九章 倫理的卓越性に対するよき習慣づけの重要性。よき習慣づけのためには法律による知慮的にして権力ある国家社会的な指導が必要である。立法者的能力の必要。立法の問題は未開拓の分野である。われわれは特に、国政に関して全面的に論ずるであろう。

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 あらゆる学問は何らかの善を目指しその賭けたるところを探求するが、「善そのもの」の知識のごときはこれを等閑に付しているのであり、しかるにそれほどまでに有力な助力たるべきものをそれぞれの学芸の専門家が誰も知らず、これを探求すらしないというごときことは考ええないことがらなのである。(上p.28)

 「人間というものの善」とは、人間の卓越性に即しての、またもしその卓越性が幾つかあるときは最も善き最も究極的な卓越性に即しての魂の活動であることとなる(上p.33)

 同じくこの理由によって子供も幸福ではない。彼はその年齢のゆえに、いまだかかる性質の働きをなしていないからである。いわゆる至福なる子供とは、そうなるだろうという期待のゆえにそんなふうに呼ばれるに過ぎない。なぜなら、上述のごとく、幸福であるためには究極的な卓越性が必要であるし、また究極の生涯に待たなくてはないからである(上p.41)

 それが不正行為(ないしは正義的行為)たるかいなかは、それが随意的たると非随意的たるとによって定まる。すなわち、それが随意的であるときのみ彼は非難されるのであって、同時にまた、その場合はじめてそれは不正行為たるのである。したがって何らかの不正ではあっても、もしそれに随意的ということが付け加わらなければ、いまだそれは不正行為ではないであろう。(・・・)かくして、識られざるゆえのことがら、あるいは識られざるゆえではないが自分の自由にならないゆえのことがら、ないしは強要によることがらは不随意的である。(上p.196-7)

 付随的といっても、しかし、恕すべきものもあれば恕すべからざるものもある。すなわち、識らずしてというだけでなく識らざるがゆえに犯すところの過失は恕すべきであるが、これに反して、識らざるがゆえにではなく(識らずしてではあっても)、自然本性的ならぬまた人間的ならぬ情念のゆえに犯すところのそれは、恕すべからざるものである。(上p.200)

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◆アリストテレス= 朴 一功訳(2002)『ニコマコス倫理学』京都大学出版会

(= 2002 朴一功 訳『ニコマコス倫理学』 京都大学学術出版会)


第1巻 人生の目的
第2巻 “性格の徳”と中庸説
第3巻 “性格の徳”の構造分析、および勇気と節制
第4巻 その他の“性格の徳”および悪徳
第5巻 正義と不正
第6巻 思考の徳と正しい道理
第7巻 抑制のなさと快楽の本性
第8巻 友愛
第9巻 友愛(続き)
第10巻 快楽の諸問題と幸福の生

 まず、「生きる」ということは、植物とも共通することだと思われるが、われわれの探し求めているのは人間に固有の機能である。それゆえ、単なる栄養的生や身体的成長の生は除外されねばならない。次に来るのは、ある種の感覚的生であろうが、これもまた馬や牛、その他すべての動物と共通しているように思われる。そこで残っているのは、人間において「理性(ロゴス)」をそなえている部分、その部分によるある種の行為的生である。
 ところで、そうした部分の一つは、理性にしたがうという意味で、理性を備えているのであり、もう一>29>つは、みずから理性をもち、思考するという意味で、理性を備えているのである。また、行為的生というのも二通りの意味で言われるのであって、われわれはここでは「活動(エネルゲイア)」としての生を取り上げねばならない。なぜなら、この生の方がより本格的な意味で生と呼べるからである。
 そこでもし人間の機能が理性に即した魂の活動であるか、あるいは理性を不可欠とするところの、魂の活動であるとすれば、またもし「このもの」の機能と「すぐれたこのもの」の機能とがたとえば竪琴奏者の機能とすぐれた竪琴奏者の機能がそうであるように、種類において同じであって、この点は無条件にあらゆる場合にあてはまり、徳に基づく卓越が当の機能に付け加えられるのであると、このようにわれわれが主張するならば、つまり竪琴奏者の機能は竪琴を引くことであり、すぐれた竪琴奏者の機能は竪琴を上手に引くことであると主張するならば、もし事情が以上のようであるとすれば、[他方、人間の機能はある種の生であり、その生は理性をともなった魂の活動と行為であるとわれわれが解するならば、すぐれた人はそうしたことをよく、かつ見事に果たすのであり、しかるに、それぞれのものの機能は、その固有の徳に基づいて成し遂げられるのである。もし事情がこのようであるとすれば](・・・)人間にとっての善とは徳に基づく魂の活動>30>である、ということになるだろう。またもし徳が複数あるならば、そのなかの最善の、もっとも完全な徳にもとづく活動である、ということになるだろう。その活動にはしかし、完全な人生において、という条件がさらに付け加えられねばならない。というのは、一羽のつばめが春の到来を告げるのでもなければ、一日で春になるのでもないからである。同じようにして、一日や短い時間で、人は私服にも幸福にもなりはしないのである。 (pp.28-30)

 それゆえ、徳を愛する人々の生活は快楽をいわば一種の添え物のようにして必要とするのではなく、生活それ自体のうちに快楽を持っているのである。実際、これまで述べた事柄に加えて、われわれは、美しい行為に喜びを感じないような人は善き人ですらない、と言ってよいかもしれない。というのは、正しい行為をすることによろこびを感じない人を、誰も正しい人とは呼ばないであろうし、また気前のよい行為によろこびを感じないような人を、誰も気前のよい人とは呼ばないだろうからである。他の場合についても>35>同様である。だとすれば、徳に基づくさまざまな行為はそれら自体、快いものであることになろう。のみからず、徳に基づく行為は美しく、善き行為であり、しかも立派な人がそれについて的確に判断するところによれば、そうした行為は以上の性質のそれぞれを最高度に兼ね備えているのである。(・・・)なぜなら、最善の諸活動にはこれらすべての性質が属しているからである。そして、そのような諸活動が、あるいはそれらのなかでも最善の、ただ一つの活動が幸福に他ならない、とわれわれは主張する。(pp.34-35)

 しかるに、徳もまた、この相違にしたがって区別されるのである。なぜなら、徳には思考に関するものと、性格に関するものとがあり、「知恵(ソピアー)」、「理解力(シュネシス)」、「思慮(プロネーシス)」をわれわれは<思考の徳(ディアノエーティケーアレテー)>と言い、それに対して「気前のよさ(エレウテリオテース)」や「節制(ソープロシュネー)」を<性格の徳(エーティケー・アレテー)>と言っているからである。つまり、>54>「性格(エートス)」について語る場合、われわれは知恵があるとか、理解力があるとか言うのではなくて、おだやかだとか節制があると言うのである。だが、われわれは知恵のある人も、その人の魂の「状態(ヘクシス)」に基づいて賞賛するのである。そして我々は、人々のさまざまな魂の状態のうち賞賛に値するものを、徳と呼んでいるのである。(pp.53-54)

 それに対して徳の場合は、さまざまな技術の場合と同様、われわれはまずその行為を現実化することによって身につけるのである。というのは、学んだ上で、さらに実際に作らなければならないようなものは、我々はそうしたものを作ることによって学ぶからである。たとえば人は家を建てることによって建築家になり、竪琴を弾くことによって竪琴奏者になるのである。まさにこれと同様に、正しいことを行うことによって、我々は正しい人になり、節制のあることを行うことによって節制のある人になり、また勇気のあることを行うことによって、勇気のある人になるのである。一方、さまざまな国家で行われていることも、この点を示す証拠となる。すなわち、立法家たちは市民を慣習づけて善き人々にするのであり、またそのことがあらゆる立法家たちの望むところであって、この作業をうまく行わないかぎり、彼らは自分たちの仕事に失敗するわけである。そしてこのような習慣づけにおいてこそ、すぐれた国政と劣悪な国政との違いが出てくるのである。(p.58)

 要するに一言で言えば、同じような活動の反復から、人の性格の状態が生まれるのである。それゆえわれわれは、活動を一定の性質のものにしなくてはならない。なぜなら、活動の相違に応じて人の性格の状態は異なったものとなるからである。したがって、若い頃からただちにどのように習慣づけられるかは、些細な違いを生むのではなく、きわめて大きな、いなむしろ全面的な違いを生む、と言ってよいだろう。(P.59)

 そこで第一に、形成される性格の諸状態というのは、ちょうど身体の強さと健康の場合にみれるように(このように言うのは、明瞭でない事柄のためには明瞭なものを証拠として利用しなければならないからで>61>ある)、本来、不足と超過によって滅びる性質のものであるということ、その事実をまず我々は見極めておかなくてはならない。すなわち、過剰な運動も運動の不足も身体の強さを損なうし、同様に食べ過ぎや飲み過ぎも、逆に飲食の不足も健康を損なうのであって、適度な量が健康を作り出し、増進し、保全するのである。そしてこれと同じことが、節制や勇気、その他の徳の場合についても言えるのである。なぜなら、あらゆることを避け、恐れ、何にも耐えることをしないような人は臆病になり、逆に、お恐れるという音が全くなく、あらゆることに立ち向かっていくような人は向こう見ずになるからである。同様に、あらゆる快楽に耽り、何一つ快楽を差し控えようとしない人は放埒な人になり、他方、あらゆる快楽を避ける人は、野暮な人たちがそうであるように、一種の無感覚になる。したがって、節制と勇気は超過と不足によって滅ぼされ、「中庸(メソテース)」によって保全されるのである。(P.60ー61)

 これらの条件はしかし、「知っているということ」そのものを除けば、一般に技術を身につけている条件には数えられない。それに対して、徳を身につけている条件としては、この「しっているということ」はまったく重要でないか、あるいはわずかしか重要でないけれども、他の二条件はわずかどころではなく全面的な意味を持ち、それらの条件は何度も正しい行為や節制ある人が行うことから生まれるのである。(p.67)

 かくして、正しい行為をすることから正しい人が生まれ、節制ある行為をすることから節制ある人が生まれると言えば適切なのである。そうした行為を行わなければ、だれも善き人になる見込みすらないであろう。然るに、多くの人々は、このようなことをしないで議論に逃げ込み、議論をすることが哲学することであり、議論によってすぐれた人間になれるだろうと、そんなふうに思っているけれども、実際には彼らは、まるで医者の言うことには注意深く耳を傾けはするが、処方されたことについては何も実行しない患者と似たり寄ったりのことをしているだけなのである。だから、そのようなやり方で治療を受けても、その患者たちの身体がいっこうに善い状態にならないのと同様、そのようなやり方で哲学をしても、多くの人々の魂のあり方が善くなることはないのである。(p.68)

 まず、徳というのはすべて、それがそなわるところのものを善き状態にし、そのものに自分の機能を善く行うようにさせるところのものだと言わなければならない。たとえば目の徳が、目と目の機能をすぐれたものにするように。なぜなら、われわれは目の徳によってよく見ることができるからである。同様に、馬の徳は馬をすぐれたものにし、走ること、乗り手を運ぶことと、敵を前にして踏みとどまること、こうしたこと>71>にかけて馬のその力を発揮させるのである。そこでもしこのようなことがあらゆる場合に成り立つとすれば、人間の徳もまた、人間を善きものにするところの、そして人間に自分自身の機能を善く行わせるところの状態である、ということになろう。(pp.70-71)

 ところでどのようにしてこのような状態が生まれるかについては、すでにわれわれは説明したが、さらにその点は、徳の本来の性質がどのようなものなのかを次のようにして考えてみても明瞭になるだろう。

 すなわち、連続していて分割できるものなら何であれ、われわれはそれに関してより多くのもの、より少ないもの、あるいは等しいものをとることができるのであり、しかも事柄そのものに即しても、われわれとの関係においても、それら三種類の分量のどれでもとることができる。ここで等しいものとは、超過と不足の中間をなすものである。そして、「事柄における中間」ということで私が意味しているのは、両極端のそ>72>れぞれから等しく離れているもののことであり、まさにこれはだれにとっても同じ一つのものであるが、それに対して「われわれとの関係における中間」とは過剰になるのでもなく、不足もしない量のことである。(pp.71-72)

 ところで、私がここで言っているのは、<性格の徳>のことである。というのも<性格の徳>とは情念と行為に関わるものであるが、情念や行為には超過と不足、中間という、おとが認められるからである。たとえば、恐れること、自信のあること、欲すること、起こること、哀れむこと、一般に快楽を覚えたり、苦痛を感じたりすることには、多すぎることや少なすぎることが認められるのであって、どちらの場合も善くないのである。けれども、しあるべき時に、しかるべきものについて、しかるべき人に対して、しかるべきことのために、しかるべき仕方でこうした情念を感じることは、中間の最善の状態によるのであり、これこそまさに徳に固有のことなのである。同様にまた、行為に関しても超過と不足、中間が見られるのである。そして、徳は情念と行為に関わっており、情念と行為における超過と不足は誤っているけれども、中間は賞賛され、正しいあり方をしているのである。しかるに、賞賛と正しいあり方のどちらも徳にふさわしい事柄なのである。こうして、徳とは、中間をねらうものである以上、ある種の「中庸(メソテース)」なのである。(p.73)

 実際、すぐれた人はそれぞれのものごとを正しく判定し、それぞれの場面において彼にとっては、まさに真実が姿を現すのである。すなわち、それぞれの性格の状態には、それらに応じた固有の美しさや快さがあるが、すぐれた人というのは、それぞれの場面で真実を見て取ることにかけて、おそらく最も卓越しており、そのような人は、美しいものや快いもの、いわば基準であり、尺度である、と言ってよいのである。それに対して、多くの人々の場合には、快楽ゆえに錯覚が生じるように思われる。なぜなら、実際にはそうでないのに、彼らには快楽が善に見えるからである。だから、彼らは単純に、快いものを善として選び、苦痛を悪として避けるのである。(p.109)

実際、すぐれた人はそれぞれのものごとを正しく判定し、それぞれの場面において彼にとっては、まさに真実が姿を現わすのである。すなわち、それぞれの性格の状態には、それらに応じた固有の美しさや快さがあるが、すぐれた人というのは、それぞれの場面で真実を見て取ることにかけて、おそらく最も卓越しており、そのような人は、美しいものや快いもの、いわば基準であり尺度である、と言ってよいのである。それに対して、多くの人々の場合には、快楽のゆえに錯覚が生じるように思われる。なぜなら、実際にはそうでないのに、彼らには快楽が善に見えるからである。だから、彼らは単純に、快いものを善として選び、苦痛を悪として避けるのである。(p.109)

 さて、われわれは徳についてこれまで一般的にその類の輪郭を述べてきた。すなわち、徳とは中庸であること、そして徳は状態であり、特定の行為から生まれるということ、しかも徳はそうした行為を徳そのものに基づいてわれわれに行わせるものであること、さらに徳はわれわれの力の範囲内にあり、自発的なものであって、「正しい道理」が規定するような仕方でわれわれに行為させるところのものであること、以上のことが述べられたのである(p.116)。

そして、勇気ある人とは、人間に可能なかぎり、ひるむことのない人である。たしかに勇気ある人は、人間に耐えうる恐ろしいものであっても恐怖を覚えるであろうが、しかし彼はしかるべき仕方で、理性が命じるとおりに、美しいもののためにこそそれに耐えるであろう。なぜなら、この美しいものが徳の目指す目的だからである。(中略)
 一方、あらゆる活動の目的となるものは、性格の状態に即したものである。しかるに、勇気ある人にとっては、もとより勇気は美しいのである。だから、勇気の目的もまた、同じように美しいのである。というのも、何であれそれぞれのものごとは、その目的によって規定されているからである。それゆえ、勇気ある人>122>が、その勇気に応じた事柄に耐え、行為するのは、ほかでもなく美しいことのためなのである。(pp.121-122)

 かくして、臆病な人も、向こう見ずな人も、勇気ある人もみな同じものに関わっているが、その同じものに対する態度が異なっているのである。すなわち、臆病な人や向こう見ずな人は、超過したり不足したりしているが、勇気ある人は、しかるべき仕方で中庸の態度を保持しているからである。そして向こう見ずな人たちは請求であり、危険な事態が起こる以前には危険なことを望んではいても、いざその事態に直面すれば、たちまちひるんでしまうけれども、勇気ある人は、逆に、実際の行動の場面では果敢であり、それ以前は落ち着いて静かにしているのである
 したがって、すでに述べたように、勇気とは、先に言われたような状況において、自信を抱かせるものと>124>恐怖を与えるものとにかかわる中庸なのであり、そして中庸としての勇気が選んだり耐えたりするのは、そのようなことをすることが美しいか、あるいはそのようにしないことが醜いか、そのどちらかの理由によるのである。だが、貧困や恋心、あるいは何か苦しいことから逃れるために死ぬというのは、勇気ある人のなすべきことではなく、むしろ臆病な人のすることである。すなわち、つらいことを避けるのは、意志の弱さであり、そのような人が死を選びそれに耐えるのは、その行為が美しいからではなくて、ただ別の悪いものから逃れるためにすぎないのである。(pp.123-124)

 すなわち、分別を欠くものにとっては、快いものを求める欲求は飽くことを知らず、どこからでも満足を得ようとするのであり、しかもその欲望の活動は生来の力を増大させ、そしてもろもろの欲望が大きくて激しいものになれば、そうした欲望は、理知的な思考をも駆逐してしまうのである。それゆえ、その種の欲望は適度でわずかなものでなければならず、理性にも決して反対してはならないーこのような状態こそわれわれは、従順にして懲らしめを受けた状態と呼んでいるのであるー、そしてちょうど子供が自分の指導教師の指図に従って生きなければならないように、欲望的部分もまた理性に従わなくてはならないのである。
 このようなわけで、節制ある人の欲望的部分は、理性と調和しなくてはならない。なぜなら、両者の目指すべき目標は美しいことだからである。すなわち、節制ある人のは欲すべきものを、しかるべき仕方で、しかるべき時に欲するのである。そして、理性もまたそのように命じるのである。(p.143)

 ところで、有用性をもつものは、善い仕方でも悪い仕方でも用いることができる。しかるに、富は有用なものの一つである。また、それぞれのものを最善の仕方で用いる人は、用いられる当のものにかかわる特をもっている人である。したがって、財貨に関わる特をもっている費とが、富の最善の仕方で用いることがで>148>きるであろう。そしてこのような人が、気前のよい人なのである。(pp.147-148)

 また一般に、受け取らないことの方が与えることよりも用意である。事実、他人のものを受け取るよりも、自分のものをあまり手放さないことの方がよいあることなのである。そして、気前がよい、と言われるのは、与える人たちの方についてである。それに対して、受け取らない人たちが賞賛されるのは、気前の良さのためではなく、かえって正義のためなのである。また、受け取る人たちが賞賛されるなどと言うことは、けっしてありえないのである。他方、気前のよい人たちというのは、徳があると言われる人々のうちでも最も愛される人たちだと言ってよい。なぜなら、彼らは有益な人たちであるが、その有益さというのは、贈与の点にあるからである。(p.148 )

 このようなわけでh、一定数の靴と一つの家との関係、あるいはそれだけの食料との関係は、家職人の靴職人対する関係に対応していなければならないのである。実際、もしこの比例関係が成り立たなければ、>220>「交換」も「共同関係」も成り立たないであろう。また、このような比例関係は、交換されたものが何らかの点で等しくなければ、あり得ないであろう。それゆえ、今述べたように、何か「一つのもの」によって、すべてのものが計られなければならないのである。
 その「一つのもの」とは、真実には、「必要(クレイアー)」なのであって、この必要があらゆるものを結びつけるのである。なぜなら、もし人々が互いに何も必要としていなかったり、あるいは同じ程度に必要としていなかったとすれば、そもそも交換というのはありえないか、たとえあるとしても、双方にとって同じ後半ではないであろう。しかるに、貨幣とは、人々の取り決めによって、必要のいわば代替物になったものなのである。そしてこのゆえに、貨幣は「ノミスマ」という名前を持っているのである。すなわち、貨幣が存在するのは「自然(ピュシス)」によってではなく、「法(ノミス)」似よるのであり、それを変更するのも、無用にするのも我々の力の範囲内にあるのである。(p.220)

 また、正義とはある種の中庸であるが、それが中庸であるのは、他の様々なとくと同じ仕方によるのではなく、まさに中間を見いだすことによるのである。他方、不正とは極端を目指すものである。
 そして、正義とは、「正しい人(ディカイオス)」が選択に基づいて「正しいこと」を行う、といわれる場合の「状態」であり、またそれは、「正しい人」が、自分自身と他人との関係においても、あるいは他者相>224>互の関係においても、比例関係に基づく等しいものを、自分と他者に配分し、同様に他者相互の間でもそのような仕方で配分する、といわれる場合の「状態」であって、その配分の仕方は、望ましいものを自分にはより多く、そして隣人にはより少なく、といったものではなく、また損害になるものについては、これと反対にする、といったものでもない。
 他方、不正は、正義とは逆に、「不正なこと」にか変わるのであるしかるに、「不正なこと」とは、有益なもの、あるいは損害になるものの、比例関係に反した超過と不足である。それ故、不正とは、超過と不足を作り出すという理由によって、超過と不足にほかならないが、自分自身の場合には、「一般的に有益なもの」の超過を作り出すとともに、他方、損害となるものについては、不足を作り出すのである。(pp.223-224)

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◆UP:20180923