> うまなり[Home] / アリストテレスの正義論(Aristoteles' justice)
Aristoteles' justice
◇文献 ◆藤原保信(1968)「政治理論における「正義」の問題--アリストテレス「正義」概念の検討」『早稲田政治経済学雑誌』 (210・211), 473-500, 1968-06 Z||310||W41 ◆高橋 勝(1969)「アリストテレスの友愛論の一考察--広報と正義との連関において」『理想』 (438), 70-83, 1969-11 Z||100||R47 ◆桑原 洋(1972)「アリストテレスの「正義の流通経済」論」『駒澤史学』 19, 21-54, 1972-03 ◆木立雅憲(1984)「<市民>と哲学 アリストテレス正義論を手懸りに」『哲学会誌』弘前大学哲学会19,33-41 ◆岩田 靖夫(1986)「正義論の基底――ロ-ルズとアリストテレス」『思想』 (746), 25-42 Z||100||Sh91 ◆岩田 靖夫(1988)「人倫的世界における目的論:アリストテレスにおける自然的正義の基礎」『哲学』 (38), 1-23 ◆松坂佐一(1994) 「アリストテレスの法律と正義」『名古屋大学法政論集』 (158), p79-143, 1994-10 Z||320||N27 ◆丸山徹(2003)「交換の正義--アリストテレース倫理学をめぐって」『法学研究』 76(1), 99-125, 2003-01 Z||320||H81 ◆相馬 隆治(1966)「「正義」についての若干の考察--アリストテレスを主として」」『甲南大学文学会論集. 社会科学篇』6(1)35-50, 請求記号:Z||051||Ko71||v.5-6 ◆高橋一行(2013)「交換的正義論」『政経論叢』 明治大学81(5 6)785-812 ◆松井 富美男(2003)「カントの正義論 アリストテレス、ホッブス、ベッカリーアとの比較を通して」『広島大学大学院文学研究科論集』 63, 17-31 ◆岩田 圭一(2006)「徳としての正義――アリストテレスの正義論における対他性と平等性」『立正大学人文科学研究所年報』 44, A17-A30 ◆竹原 創一(2010)「ルターとアリストテレス――正義の理解をめぐって (特集 ハヤトロギア)」『基督教学研究』 (30), 49-69 Z||190||Ki54 ◆香田 芳樹(2015)「正義の女神は苦しむものに秤を傾ける : 古代・中世ヨーロッパ文学に描かれた配分的正義と交換的正義 (特集 詩的正義)」『ドイツ文学』 14(2),日本独文学会 8-23 Z||940||D83 ◆小泉 義之(2004)「配分的正義を--死の配分と財の配分 (特集 反派兵)」『情況 第三期』 5(2), 16-19, 2004-03 Z||300||J67 ◆海原 裕昭(1991)「配分的正義と是正的正義」『大阪府立大学紀要 人文・社会科学』(39), 1-24 >top
◆Aristoteles. Nicomachean Ethics. = 1971 高田三郎 訳『ニコマコス倫理学 上・下』 岩波書店)
第一巻 序説
第二巻 倫理的な卓越性(徳)についての概説
第三巻 つづき
第四巻
第五巻 正義
第六巻 知性的な卓越性(徳)
第七巻 抑制と無抑制
第八巻 愛(フィリア)
第九巻 つづき
第十巻 快楽 −B稿
あらゆる学問は何らかの善を目指しその賭けたるところを探求するが、「善そのもの」の知識のごときはこれを等閑に付しているのであり、しかるにそれほどまでに有力な助力たるべきものをそれぞれの学芸の専門家が誰も知らず、これを探求すらしないというごときことは考ええないことがらなのである。(上p.28) 「人間というものの善」とは、人間の卓越性に即しての、またもしその卓越性が幾つかあるときは最も善き最も究極的な卓越性に即しての魂の活動であることとなる(上p.33) 同じくこの理由によって子供も幸福ではない。彼はその年齢のゆえに、いまだかかる性質の働きをなしていないからである。いわゆる至福なる子供とは、そうなるだろうという期待のゆえにそんなふうに呼ばれるに過ぎない。なぜなら、上述のごとく、幸福であるためには究極的な卓越性が必要であるし、また究極の生涯に待たなくてはないからである(上p.41) それが不正行為(ないしは正義的行為)たるかいなかは、それが随意的たると非随意的たるとによって定まる。すなわち、それが随意的であるときのみ彼は非難されるのであって、同時にまた、その場合はじめてそれは不正行為たるのである。したがって何らかの不正ではあっても、もしそれに随意的ということが付け加わらなければ、いまだそれは不正行為ではないであろう。(・・・)かくして、識られざるゆえのことがら、あるいは識られざるゆえではないが自分の自由にならないゆえのことがら、ないしは強要によることがらは不随意的である。(上p.196-7) 付随的といっても、しかし、恕すべきものもあれば恕すべからざるものもある。すなわち、識らずしてというだけでなく識らざるがゆえに犯すところの過失は恕すべきであるが、これに反して、識らざるがゆえにではなく(識らずしてではあっても)、自然本性的ならぬまた人間的ならぬ情念のゆえに犯すところのそれは、恕すべからざるものである。(上p.200)
◆アリストテレス= 朴 一功訳(2002)『ニコマコス倫理学』京都大学出版会 (= 2002 朴一功 訳『ニコマコス倫理学』 京都大学学術出版会)
まず、「生きる」ということは、植物とも共通することだと思われるが、われわれの探し求めているのは人間に固有の機能である。それゆえ、単なる栄養的生や身体的成長の生は除外されねばならない。次に来るのは、ある種の感覚的生であろうが、これもまた馬や牛、その他すべての動物と共通しているように思われる。そこで残っているのは、人間において「理性(ロゴス)」をそなえている部分、その部分によるある種の行為的生である。
それゆえ、徳を愛する人々の生活は快楽をいわば一種の添え物のようにして必要とするのではなく、生活それ自体のうちに快楽を持っているのである。実際、これまで述べた事柄に加えて、われわれは、美しい行為に喜びを感じないような人は善き人ですらない、と言ってよいかもしれない。というのは、正しい行為をすることによろこびを感じない人を、誰も正しい人とは呼ばないであろうし、また気前のよい行為によろこびを感じないような人を、誰も気前のよい人とは呼ばないだろうからである。他の場合についても>35>同様である。だとすれば、徳に基づくさまざまな行為はそれら自体、快いものであることになろう。のみからず、徳に基づく行為は美しく、善き行為であり、しかも立派な人がそれについて的確に判断するところによれば、そうした行為は以上の性質のそれぞれを最高度に兼ね備えているのである。(・・・)なぜなら、最善の諸活動にはこれらすべての性質が属しているからである。そして、そのような諸活動が、あるいはそれらのなかでも最善の、ただ一つの活動が幸福に他ならない、とわれわれは主張する。(pp.34-35) しかるに、徳もまた、この相違にしたがって区別されるのである。なぜなら、徳には思考に関するものと、性格に関するものとがあり、「知恵(ソピアー)」、「理解力(シュネシス)」、「思慮(プロネーシス)」をわれわれは<思考の徳(ディアノエーティケーアレテー)>と言い、それに対して「気前のよさ(エレウテリオテース)」や「節制(ソープロシュネー)」を<性格の徳(エーティケー・アレテー)>と言っているからである。つまり、>54>「性格(エートス)」について語る場合、われわれは知恵があるとか、理解力があるとか言うのではなくて、おだやかだとか節制があると言うのである。だが、われわれは知恵のある人も、その人の魂の「状態(ヘクシス)」に基づいて賞賛するのである。そして我々は、人々のさまざまな魂の状態のうち賞賛に値するものを、徳と呼んでいるのである。(pp.53-54) それに対して徳の場合は、さまざまな技術の場合と同様、われわれはまずその行為を現実化することによって身につけるのである。というのは、学んだ上で、さらに実際に作らなければならないようなものは、我々はそうしたものを作ることによって学ぶからである。たとえば人は家を建てることによって建築家になり、竪琴を弾くことによって竪琴奏者になるのである。まさにこれと同様に、正しいことを行うことによって、我々は正しい人になり、節制のあることを行うことによって節制のある人になり、また勇気のあることを行うことによって、勇気のある人になるのである。一方、さまざまな国家で行われていることも、この点を示す証拠となる。すなわち、立法家たちは市民を慣習づけて善き人々にするのであり、またそのことがあらゆる立法家たちの望むところであって、この作業をうまく行わないかぎり、彼らは自分たちの仕事に失敗するわけである。そしてこのような習慣づけにおいてこそ、すぐれた国政と劣悪な国政との違いが出てくるのである。(p.58) 要するに一言で言えば、同じような活動の反復から、人の性格の状態が生まれるのである。それゆえわれわれは、活動を一定の性質のものにしなくてはならない。なぜなら、活動の相違に応じて人の性格の状態は異なったものとなるからである。したがって、若い頃からただちにどのように習慣づけられるかは、些細な違いを生むのではなく、きわめて大きな、いなむしろ全面的な違いを生む、と言ってよいだろう。(P.59) そこで第一に、形成される性格の諸状態というのは、ちょうど身体の強さと健康の場合にみれるように(このように言うのは、明瞭でない事柄のためには明瞭なものを証拠として利用しなければならないからで>61>ある)、本来、不足と超過によって滅びる性質のものであるということ、その事実をまず我々は見極めておかなくてはならない。すなわち、過剰な運動も運動の不足も身体の強さを損なうし、同様に食べ過ぎや飲み過ぎも、逆に飲食の不足も健康を損なうのであって、適度な量が健康を作り出し、増進し、保全するのである。そしてこれと同じことが、節制や勇気、その他の徳の場合についても言えるのである。なぜなら、あらゆることを避け、恐れ、何にも耐えることをしないような人は臆病になり、逆に、お恐れるという音が全くなく、あらゆることに立ち向かっていくような人は向こう見ずになるからである。同様に、あらゆる快楽に耽り、何一つ快楽を差し控えようとしない人は放埒な人になり、他方、あらゆる快楽を避ける人は、野暮な人たちがそうであるように、一種の無感覚になる。したがって、節制と勇気は超過と不足によって滅ぼされ、「中庸(メソテース)」によって保全されるのである。(P.60ー61) これらの条件はしかし、「知っているということ」そのものを除けば、一般に技術を身につけている条件には数えられない。それに対して、徳を身につけている条件としては、この「しっているということ」はまったく重要でないか、あるいはわずかしか重要でないけれども、他の二条件はわずかどころではなく全面的な意味を持ち、それらの条件は何度も正しい行為や節制ある人が行うことから生まれるのである。(p.67) かくして、正しい行為をすることから正しい人が生まれ、節制ある行為をすることから節制ある人が生まれると言えば適切なのである。そうした行為を行わなければ、だれも善き人になる見込みすらないであろう。然るに、多くの人々は、このようなことをしないで議論に逃げ込み、議論をすることが哲学することであり、議論によってすぐれた人間になれるだろうと、そんなふうに思っているけれども、実際には彼らは、まるで医者の言うことには注意深く耳を傾けはするが、処方されたことについては何も実行しない患者と似たり寄ったりのことをしているだけなのである。だから、そのようなやり方で治療を受けても、その患者たちの身体がいっこうに善い状態にならないのと同様、そのようなやり方で哲学をしても、多くの人々の魂のあり方が善くなることはないのである。(p.68) まず、徳というのはすべて、それがそなわるところのものを善き状態にし、そのものに自分の機能を善く行うようにさせるところのものだと言わなければならない。たとえば目の徳が、目と目の機能をすぐれたものにするように。なぜなら、われわれは目の徳によってよく見ることができるからである。同様に、馬の徳は馬をすぐれたものにし、走ること、乗り手を運ぶことと、敵を前にして踏みとどまること、こうしたこと>71>にかけて馬のその力を発揮させるのである。そこでもしこのようなことがあらゆる場合に成り立つとすれば、人間の徳もまた、人間を善きものにするところの、そして人間に自分自身の機能を善く行わせるところの状態である、ということになろう。(pp.70-71) ところでどのようにしてこのような状態が生まれるかについては、すでにわれわれは説明したが、さらにその点は、徳の本来の性質がどのようなものなのかを次のようにして考えてみても明瞭になるだろう。 すなわち、連続していて分割できるものなら何であれ、われわれはそれに関してより多くのもの、より少ないもの、あるいは等しいものをとることができるのであり、しかも事柄そのものに即しても、われわれとの関係においても、それら三種類の分量のどれでもとることができる。ここで等しいものとは、超過と不足の中間をなすものである。そして、「事柄における中間」ということで私が意味しているのは、両極端のそ>72>れぞれから等しく離れているもののことであり、まさにこれはだれにとっても同じ一つのものであるが、それに対して「われわれとの関係における中間」とは過剰になるのでもなく、不足もしない量のことである。(pp.71-72) ところで、私がここで言っているのは、<性格の徳>のことである。というのも<性格の徳>とは情念と行為に関わるものであるが、情念や行為には超過と不足、中間という、おとが認められるからである。たとえば、恐れること、自信のあること、欲すること、起こること、哀れむこと、一般に快楽を覚えたり、苦痛を感じたりすることには、多すぎることや少なすぎることが認められるのであって、どちらの場合も善くないのである。けれども、しあるべき時に、しかるべきものについて、しかるべき人に対して、しかるべきことのために、しかるべき仕方でこうした情念を感じることは、中間の最善の状態によるのであり、これこそまさに徳に固有のことなのである。同様にまた、行為に関しても超過と不足、中間が見られるのである。そして、徳は情念と行為に関わっており、情念と行為における超過と不足は誤っているけれども、中間は賞賛され、正しいあり方をしているのである。しかるに、賞賛と正しいあり方のどちらも徳にふさわしい事柄なのである。こうして、徳とは、中間をねらうものである以上、ある種の「中庸(メソテース)」なのである。(p.73) 実際、すぐれた人はそれぞれのものごとを正しく判定し、それぞれの場面において彼にとっては、まさに真実が姿を現すのである。すなわち、それぞれの性格の状態には、それらに応じた固有の美しさや快さがあるが、すぐれた人というのは、それぞれの場面で真実を見て取ることにかけて、おそらく最も卓越しており、そのような人は、美しいものや快いもの、いわば基準であり、尺度である、と言ってよいのである。それに対して、多くの人々の場合には、快楽ゆえに錯覚が生じるように思われる。なぜなら、実際にはそうでないのに、彼らには快楽が善に見えるからである。だから、彼らは単純に、快いものを善として選び、苦痛を悪として避けるのである。(p.109) 実際、すぐれた人はそれぞれのものごとを正しく判定し、それぞれの場面において彼にとっては、まさに真実が姿を現わすのである。すなわち、それぞれの性格の状態には、それらに応じた固有の美しさや快さがあるが、すぐれた人というのは、それぞれの場面で真実を見て取ることにかけて、おそらく最も卓越しており、そのような人は、美しいものや快いもの、いわば基準であり尺度である、と言ってよいのである。それに対して、多くの人々の場合には、快楽のゆえに錯覚が生じるように思われる。なぜなら、実際にはそうでないのに、彼らには快楽が善に見えるからである。だから、彼らは単純に、快いものを善として選び、苦痛を悪として避けるのである。(p.109) さて、われわれは徳についてこれまで一般的にその類の輪郭を述べてきた。すなわち、徳とは中庸であること、そして徳は状態であり、特定の行為から生まれるということ、しかも徳はそうした行為を徳そのものに基づいてわれわれに行わせるものであること、さらに徳はわれわれの力の範囲内にあり、自発的なものであって、「正しい道理」が規定するような仕方でわれわれに行為させるところのものであること、以上のことが述べられたのである(p.116)。 そして、勇気ある人とは、人間に可能なかぎり、ひるむことのない人である。たしかに勇気ある人は、人間に耐えうる恐ろしいものであっても恐怖を覚えるであろうが、しかし彼はしかるべき仕方で、理性が命じるとおりに、美しいもののためにこそそれに耐えるであろう。なぜなら、この美しいものが徳の目指す目的だからである。(中略)
かくして、臆病な人も、向こう見ずな人も、勇気ある人もみな同じものに関わっているが、その同じものに対する態度が異なっているのである。すなわち、臆病な人や向こう見ずな人は、超過したり不足したりしているが、勇気ある人は、しかるべき仕方で中庸の態度を保持しているからである。そして向こう見ずな人たちは請求であり、危険な事態が起こる以前には危険なことを望んではいても、いざその事態に直面すれば、たちまちひるんでしまうけれども、勇気ある人は、逆に、実際の行動の場面では果敢であり、それ以前は落ち着いて静かにしているのである
すなわち、分別を欠くものにとっては、快いものを求める欲求は飽くことを知らず、どこからでも満足を得ようとするのであり、しかもその欲望の活動は生来の力を増大させ、そしてもろもろの欲望が大きくて激しいものになれば、そうした欲望は、理知的な思考をも駆逐してしまうのである。それゆえ、その種の欲望は適度でわずかなものでなければならず、理性にも決して反対してはならないーこのような状態こそわれわれは、従順にして懲らしめを受けた状態と呼んでいるのであるー、そしてちょうど子供が自分の指導教師の指図に従って生きなければならないように、欲望的部分もまた理性に従わなくてはならないのである。
ところで、有用性をもつものは、善い仕方でも悪い仕方でも用いることができる。しかるに、富は有用なものの一つである。また、それぞれのものを最善の仕方で用いる人は、用いられる当のものにかかわる特をもっている人である。したがって、財貨に関わる特をもっている費とが、富の最善の仕方で用いることがで>148>きるであろう。そしてこのような人が、気前のよい人なのである。(pp.147-148) また一般に、受け取らないことの方が与えることよりも用意である。事実、他人のものを受け取るよりも、自分のものをあまり手放さないことの方がよいあることなのである。そして、気前がよい、と言われるのは、与える人たちの方についてである。それに対して、受け取らない人たちが賞賛されるのは、気前の良さのためではなく、かえって正義のためなのである。また、受け取る人たちが賞賛されるなどと言うことは、けっしてありえないのである。他方、気前のよい人たちというのは、徳があると言われる人々のうちでも最も愛される人たちだと言ってよい。なぜなら、彼らは有益な人たちであるが、その有益さというのは、贈与の点にあるからである。(p.148 ) このようなわけでh、一定数の靴と一つの家との関係、あるいはそれだけの食料との関係は、家職人の靴職人対する関係に対応していなければならないのである。実際、もしこの比例関係が成り立たなければ、>220>「交換」も「共同関係」も成り立たないであろう。また、このような比例関係は、交換されたものが何らかの点で等しくなければ、あり得ないであろう。それゆえ、今述べたように、何か「一つのもの」によって、すべてのものが計られなければならないのである。
また、正義とはある種の中庸であるが、それが中庸であるのは、他の様々なとくと同じ仕方によるのではなく、まさに中間を見いだすことによるのである。他方、不正とは極端を目指すものである。
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◆UP:20180923
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