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まえがき 訳者まえがき 翻訳凡例 第T部 古典経済学以前 −古典経済学−マルクス −「価値なき」自然と「自然なき」価値− 1章 序論 2章 価値の根源としての労働と自然 −アリストテレスから初期古典学派まで 1.アリストテレスの使用価値と交換価値 2.自然価値 3.アルベルテゥス・マグヌスとトマス・アクィナス −客観的価値学説の先駆者か? −労働の価値について 4.ユートピア国家における裕福 −トマス・モア 5.人間は狼同然であり、自然はその餌食である −トマス・ホッブズ 6.労働は富の父であり、土地は富の母である −ウィリアム・ペティ 3章 ジョン・ロック 1.労働による価値の生産 −ロックの労働価値理論 2.物象的労働価値説と私的所有形成との関連 3.ロックとその時代の自然理解 4.限定的な物象的自然からの無限的な抽象的価値への移行 −自然の無人造成と価値の無限改正 5.自分自身を所有する権利と賃労働について 6.資本による価値の生産 7.価値の諸源泉 −労働の優位 8.ロックにおける自然と社会:質料なき社会という論理構成について 9.経済理論における自然像に与えたロックの影響 −生産力の概念について 4章 アダム・スミス 5章 ディヴィッド・リカードゥ 6章 カール・マルクス −自然と価値理論 第U部 経済学理論としての自然支配 −フィジオクラートたち−「自然価値」再検討 1章 歴史的現象としてのフィジオクラシーとその現代的現実性の根拠 2章 生産理論 3章 価値理論 4章 フィジオクラシーの体系における経済と社会の統一 5章 われわれはフィジオクラートたちから何を学ぶことができるのか 注 参考文献 解説 −具体的自然・具体的労働に踏み込む「未来の経済学」 (内山 節) 第T部 古典経済学以前 −古典経済学−マルクス −「価値なき」自然と「自然なき」価値− 「科学的経済学はその成立以来すでに、原理的に、自然を破壊してきた、ということである。それと同時に、科学的経済学は労働と自然の統一から出発したことはけっしてなく、逆に両者の分裂から出発したといってもよい」(P5)
「物象的な自然は、交換価値によって規定される合理性が求められるこれらの属性を、限定的にしか受け入れえない。こうして、交換価値経済は、社会的価値の生産のために、一方ではすべての物象的自然を使用するが、しかし他方では、この自然の一部分のみがその価値体系によって把握されうるにすぎない、ということも確実である。それゆえ、定義上、物象的な自然の全体性と交換価値経済の合理性との間には深い分裂が存在している」(P9)
「いっさいの量的・抽象的経済学が退場させられ、社会の物象的自然を理解することができる質的経済学がその本来あるべき場所に定置されなければならないというのがこの推論の結論であることは確かであろう」(P12)
「「一方の用は物に固有のものだが、多様の用は固有ではないから、例えば、靴には靴としてはくという用と交換品としての用とがある。両者はいずれも靴の用である」(アリストテレス、山本光雄訳『政治学』(岩波文庫 P51-2))」(P17)
「すなわち、交換されるはずの財、つまり商品は、それぞれの人々によって所有されているのである」(P18)
「「けだし、もし必要が少しも存在しないか、ないしは双方に同じような仕方において存在しないならば、交易は成立せず、ないしは現在のような仕方で交易は成立しえないであろう」」(アリストテレス、高田三郎訳『ニコマコス倫理学 上』(岩波文庫 187-8))」(P18)
「このように、アリストテレスは、交換価値の中には比較できる何者かが含まれていなければならないこと、そのうえさらに交換においては同等性と共通の尺度が存在していなければならないことを無条件に主張する」(P19)
「彼は、交換価値が同時には持ちえない二つの属性を交換価値に求める。一方では、社会内部における不同等な需要が交換を成立させ、そのうえさらに社会構成員を結合させるといわれているが、他方ではこの需要は交換において何か共通なものと同等なものを基礎としているとも言われているのである」(P18)
「アリストテレスにとって本質的な対立する論点は、交換さるべき財、つまり商品の中には何かある不同等なものと何かある共通のものが同時に含まれていなければならぬという内的矛盾であった」(P19)
「[アリストテレスのいう]需要は人間と人間の外的自然との間の具体的関係から規定されるのである。すなわち、人間は何を自分のものにしたいのか、人間はどんな果実を食べたいのか、という人間の願望によってそれは規定される。しかしついで自然によって規定される。すなわち、需要は自然は何を作り出す準備があるのか、自然は人間にどのような富を提供するのか、ということに依存している」(P22)
「アリストテレスは、有用性と富の概念が物象的・自然的な限界性に結び付けられていることと同時に、物証的自然に対する貨幣追求の「過剰」と無限界性によって生じる結果と危険もきわめて正確に示しているのである。」(…)「アリストテレスは商品の使用価値の中にそれが持っている直接的で、その時々に関連づけられていた有用性だけを見ていた、という多くの経済学者たちの見解は拒否されなければならないのである」(P26)
「交換価値に関して言えば、アリストテレスはその源泉および形成をなんら解明していない。(…)交換価値はどのように根拠付けられているかという点についてはなんら答えていないのである」(P26)
「「すなわち、なんらかの仕方で存在して、それが、つくられた神でないところのもののうちで、生命のあるものは生命のないものの上位におかれるのであって、たとえば産出の力、あるいは、なおその上に欲求の力をもつものは、この能力を持たないものの上位におかれる」」(アウグスティヌス、服部英次郎 訳『神の国(三)』岩波文庫 P46-7)
「いまや自然 「[アウグスティヌスのいう]自然価値は、普遍的なもの、物象的全体、または全体として人間社会の観点から考察されており、これに対して、使用価値はその規定を、まさに広く行われている利益の序列に従う個々人の直接的な利用関心から受け取る、ということが注目されるところである」(P29)
「物的感覚、理性、意識の最高の発展形態として人間の生命が、物象的生命の発展段階の中で完全に上位におかれる。こうすることによって、アウグスティヌスはたんに総体的な物象的概念を創造しただけではなく、彼は生命形態を等級別に位階づけることによって生命の発展の評価、さらにはすべての生命の目的に対する評価さえも与えたのである」(…)「こうして、自然価値なる概念には、人間の世界とその諸形態を維持し、発展させるためには、人間世界の基礎となっている自然 「スコラ哲学の自然価値には生命を把握するための倫理が内包されているのである。自然価値は物象的創造を認識する。それゆえ、自然価値は生命を理解するための基準である」(P31)
「自然価値とは対照的に、アウグスティヌスは使用価値を特殊な仕方で理性と自然に敵対するものとして描き出している」(…)「自然 「ここで重要なことはただ次の一点、すなわち、アウグスティヌスがはじめて物象的・自然的な生存諸条件と経済的・功利主義的な評価、態度および行為との間の根源的な対立に対して注意を喚起し、この対立の中に自然の取得をめぐる個別的な合理性と全社会的な合理性との間に生起しうる根本的な矛盾を認識したという点である」(P32)
「自然の取得および自然の価値評価の形態と方法に対するアウグスティヌスの批判は、使用価値と交換価値の対立を基礎としてなされているのではなく、人間個々人の使用価値をめぐる行動が、自然の秩序と生命諸形態のピラミッドを危険にさらしうるし、破壊することさえありうる、という命題を基礎としてなされているのである」(P34-5)
「蜂蜜を食べたいと欲する人は蜜蜂にも心を配らなければならないし、水を飲みたいと欲する人は別の場所で水を汚してはならないし、人間の生活を守りたいと欲する人は植物や動物の生命を破壊してはならないといった、さまざまな形をとって表れる問題を、アウグスティヌスは指摘したのである」(p35)
「トマス[アキナス]にとっては、自然価値との対決を通して明らかにされる使用価値に対する批判的な考察はもはや重要ではない。そのうえ彼は、商品の交換において、使用価値の観点から期待される以外の商品の性質を告知する義務から契約の当事者を解放するのである。(…)人間は自然価値に対してもはやなんら責務を負うことはない。それは神の司るものとなったのである。アウグスティヌスが自然価値の認識原理とみなしていた理性も、もはや人間による物の使用のために役立っている。そして、もっとも重要なことは、人間は外的財を取得する普遍的な権利を有しているだけではなく、まったく特殊な、つまり個人的な効用によって規定された権利を有している。(…)トマスにおいては、個々のものが有益なものであり、使用できるものであることにもとづいて、自然を従順なものにするための行為原則になってしまっている」(p36-7)
「「[アルヴェラウトゥス・マグヌス(1193-1280)] すなわち支配者はときおり共通の最善の状態を考慮して市場流通を規制しあるものがどの価格で売られるべきかを定める」(…)物の交換においては、交換における反対給付の後に実現される公平さは常に同一の原則に従って規定されているのではなく、この反対給付は、ある場合には平等性によって、ある場合には締結された契約に従ってまたある場合には法律に従って行われる、ということが注意されなければならない」」(P39-40)
「彼は交換における価値の同等性の根拠を客観的な要因に求めており、アリストテレスとはおよそ対立的に、この同等性がまずもって貨幣によって基礎づけられているのではなく、交換によって反対給付されているところの生産物の中に含まれている価値によって基礎付けられていると判断している点である」(P40)
<--! 「「労働と費用(labores et expensae)の同じ量が相互に交換されなければならない(すなわち、そうすることによって、給付と反対給付の間に同等性が保たれる)。というのは、寝台の製作者が、量と室においてこの寝台製作のために支出した費用に相当するものを受け取らない場合には、彼は将来もう寝台を製作することはないだろうからである」」(P40-1) -->
「マグヌスにあっては、交換を必要とし、交換によって分業的な社会をひとつにまとめるのは、さまざまな異質の質的な効用および使用に対する欲望である」(P43)
「植物が常に新しい活動によってのみ生命を維持することができるように、人間もまたその労働そのものによって自らを維持しなければならないのである。したがって活動の哲学において活動が高い地位を占めるのはまったく自然なことである(…)彼[トマス]は労働価値学説の創設者ではありえない。交換される生産物の客観的価値に関しては、彼は師であるアルベルトゥ・マグヌスを超えることはなかった。(…)この運動はトマスにあっては私有財産形成の問題と結びついた。(…)トマス主義の理想像に特徴を与えているのは、静止しており、わずかな生産的介入によって特徴づけられる自然社会ではなく、労働する個人からなる能動的、活動的な社会である」(P45-6)
「「鉄がなければ水や火がないのと同様、われわれは生きてゆけないのである。ところが金銀には、われわれが生きていくためにはどうしても不可欠だと思われるどんな用途があるというのであろうか。ただ少ないというだけの理由で人間が愚かにも高く評価しているのにすぎないのではないだろうか。」(トマス・モア 平井正穂 訳『ユートピア』 岩波文庫 P102)」(P46)
「ユートピア国の社会的富は(…)人間の労働によって自然に働きかける市民の能力の中に存在しているのである。そうであるなら、富は自然が関与する部分と労働が関与する部分戸からなる。外的自然の富を保持することと人間の生活を豊かにすることが、この価値体系においては決定的な価値源泉となるのである」(P48)
「モアの価値学説は(…)労働が正しくなされるならば、注意の労働量の支出によって、人間が幸福かつ健康に生活してゆくことができるのに十分な富を、自然をなんら毀損することなしに、自然から引き出すことができるということである。(…)人間とその物象的自然との間の協力関係を望んでいるのである」(P49)
「ユートピアは、ユートピア内部の交換手段としての貨幣が廃止されなければならないというだけではなく、交換価値関係は富を抽象的に把握するがゆえに、具象的、物象的富を総じて認識することができないのであるから、それだけですでに貨幣によって媒介される交換価値関係は非人間的なものとして現れる、という結論を引き出すのである」(P50)
「第一に、自然状態においてはここの人間の生活は競争者の行動によって脅かされる。死を拒否することが自己保持に対する無制限の権利を与える。第二に「前述の状態の必然的帰結として、そこには所有(Propeiety)も支配(Dominion)もなく、私のものとあなたのものとの区別もなくて、各人が獲得しうるものだけが、かれのものであり、しかも、かれがそれを保持しうるかぎり、そうなのである」(ホッブズ 水田洋 訳『リヴァイアサン(二)』岩波文庫 P164-5))」(P53)
「自然とはもの、すなわち外的自然に対する無制限の権利である。人間は誰でもすべてのものに対する権利を有しているのである。ホッブズの自然権は人間の外にある物象的自然を、人間の自己保存のための餌食であるとみなす」(P53)
「彼は自然を、神の好意によって容易に任意に使われる自由な贈り物であると見なす。(…)人間の自然との交渉は自然を自己のものとするための労働だけに限られる」(P56)
「「豊富は(神の好意についでは)人々の労働と勤勉にまったく依存しているほどである」(ホッブズ 水田洋 訳『リヴァイアサン(二)』岩波文庫 P137))」(P57)
「ぺティの生産的労働と不生産的労働の分類は、労働の生産性に関する重商主義的見解をはるかに超えている。とくに商人と小売商に対する彼の批判は、流通の領域における労働を新しい国富の生産的源泉とは認めないとすることによって、労働の生産性の問題において、彼が古典派経済学を準備していることを示している」(P61)
「「土地の良否、すなわちその価値というものは、生産物を生みだすために投ぜられた単純労働(simple labour)に比例して、その土地から生産された生産物の分けまえ(share)の多少にいぞんしていること(ペティ、大内兵衛・松川七郎 訳『租税貢納論』岩波文庫 P119)」」(P62)
「生産物と生産される富に対するそれぞれ[労働の生産力と自然の生産力]の館余分を性格に確定することが十分に可能なのである。ペティはこのことを(…)指摘しているのである」(P63)
「ペティの地代理論は明白であり、疑問の余地はない。総収穫物から生産のために調達されたいっさいのもの、つまり労働、生産手段等が差し引かれた後に、純粋の自然生産物、つまり「自然な・真実の地代が残される(…)労働と並んで土地は抽象的価値の源泉とみなされうるのである。それゆえ、ペティは労働価値と自然価値に関する理論家とみなされねばならないのである」」(P66)
「彼は自然による価値の形成と労働によるそれとをまことに明確に分離する。価値の大きさは、労働と自然のその時々の余剰が銀、つまりイングランド貨幣で表されるということを通して表示される。」(P68)
「ペティは労働と自然が照合されうる価値尺度を見出そうとする試みに着手するに先立って、彼は労働と自然の価値を生産する力を前提する」(P75)
「客観的諸要素が交換価値の大きさを決定するということ、したがって、あらゆる商品の中に対象化された価値が認められるということを明らかにするのがペティであったのである。価値の大きさは購買者の主観的な需要に依存するのではなく、その時々の土地(自然)に帰属去るべきものに依存するのである」(P77)
「彼は総価値から労賃に帰属すべき部分を差し引くことによって、土地、ないしは自然に帰属すべき部分をも得られると信じていたのである」(P78)
「物質生産に関する観察に基づいて彼は、自然は価値をほとんど生み出さず、これに対して労働がほとんどすべての価値を生み出すという見解に達したのである。(…)彼の物象的・物質的価値理論の内部で、価値形成、あるいはむしろ使用価値形成における外的自然の関与を排除し、そうすることによって労働の関与を高く評価しようとしている(…)」(P83)
「ロックは労働に帰せられるべき価値部分と自然に帰せられるべき価値部分を計算しようとし、しかもこの計算を費用を基礎として行おうとするのである」(P86)
「ロックが成案物の価値を自然に帰属させる部分と労働に帰属させる部分に区別する計算基礎として費用を取り上げるとき、彼は自然と労働の物象的・質的な評価を離れ、抽象的な価値思考の合理性を交換価値量の中に見出しているのである」(P87)
「第一に(…)、ロックは大地とそれが産出するすべてのものを人間の生活の前提であると見なしている。(…)第二に、(…)大地とその果実は人間に共有のものとして神から与えられたものだからである。第三に、だが自然状態においては、大地とその果実の人間による占有はいまだ発生していない」(P89)
「「彼のこの労働によって、他の人々の共有の権利を排斥する何者かがそれに付加されたのである。この労働は、その労働をなしえたものの所有であることは疑いをいれないから、彼のみが、己の労働のひとたび加えられたものに対して権利を持つのである」(ロック、鵜飼信成『市民政府論』岩波文庫 P46)」(P91)
「神によって人間の共同社会に共有財産としてゆだねられたものであるが、まだ人間の労働が加えられていない自然がある」(P93)
「社会はこの自然の存在に対してなんら責任も負わないということも明らかであるように見える。神の創造物を保持し、増大するというロックの主張は、彼の論理の中では私的所有形成のための掟であることが判明する。」(P104)
「すべての自然の物質は、それらが一度占有され、私的に所有されると、たんに自然状態から引き離されるだけではなく、それらはもはや自然状態に戻ることはないだろう。ロックの思想の中にあるこのような考えを、ここでは彼の自然像の非可逆性と呼んでよいであろう。」(P106)
「自然特性は(…)ある場合は他の物質やエネルギーと化合し、またある場合には複雑な成長過程の一部をなしており、絶えず変質・変形され、その状態を変化させるという点に見出されるのに対して、ロックが想定する自然の唯一の重要な特質は何かといえば、それは指摘財産としての自然の有用性と利用可能性なのである」(P111)
「価値に関するロックの見解に見られるきわ立った特徴は、物象的・具体的な価値学説と量的・抽象的な価値学説が実際なんら対立もなく並存していることである。(・・・)なぜロックは物象的・物質的価値の源泉として労働をかくも重視し、外的自然をかくも軽視したのであろうか。(・・・)彼が受け入れることができなかったことは、あらゆる生産とあらゆる生活の根底にある人間と自然の間のこの生産的な対応を社会的な関係として認めることであった」(P125-6)
「」(P)
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041027作成 うまなり[Home]/そのまま!そのまま! [論点紹介]/経済的価値と無形資産/『経済学は自然をどうとらえてきたか』 |