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まえがき 第1章 コミュニケーションのシステムとしての社会の経済 1−1 コミュニケーション・メディアとしての貨幣 1−2 社会の部分システムとしての経済 1−3 経済のオートポイエシス 第2章 貨幣の一般化 2−1 抽象的一般化の三つの次元 2−2 貨幣の悪魔的一般化 2−3 貨幣の稀少性 2−4 「地域通貨」の(反)貨幣性 第3章 価格 3−1 財と価格 3−2 システム複雑性としての価格 3−3 価格の差異と環境複雑性 3−4 経済のオートポイエシスの再確認 第4章 貨幣と道徳 4−1 貨幣取引の道徳的面積条件 4−2 「道徳」の現代的意味 4−3 経済と非経済の領域区分 4−4 道徳としての「メディア・ミックス禁止」 第5章 貨幣と時間 5−1 貨幣の一般化と時間 5−2 貨幣支払いの不か逆性 5−3 支払いの不可逆性の文明論的帰結 第6章 貨幣と言語 6−1 同型性への着目 6−2 メディアと形態 6−3 一般化における同型性 第7章 貨幣と労働 7−1 ルーマンによる労働の「黒衣」化 7−2 コミュニケーション・メディアとしての労働 7−3 労働システムのオートポイエシス 7−4 労働メディアの一般化 第8章 市場の非対称性 8−1 『笠地蔵』に見る市場の非対称性 8−2 稀少性の第二パラドックス 8−3 市場の非対称とその克服 8−4 過剰処理の最新形態 −破壊的ポトラッチの復活? 第9章 市場の自己準拠 −現代市場社会の観察 9−1 観察における「同一」と「差異」 9−2 経済システムの自己観察像としての市場 9−3 市場社会の観察 9−4 自己準拠の変質 9−5 自己イメージという仮構 第10章 「仮構の他者」としての貨幣 10−1 芸術の自己準拠・世界社会の自己準拠 10−2 芸術の他者準拠・世界社会の他者準拠 10−3 貨幣と交換 10−4 「仮構の他者」としての貨幣 補論 経済学の理論とルーマン理論 あとがき 文献 索引 「システムの基本要素を「人間」や「行為」ではなく「コミュニケーション」とすることで、社会システムは要素を自己再生産し、それを通じてみずからを維持しつづける、という性質を獲得します」(P5)
「貨幣や権力や真理性といった「象徴的に一般化したメディア」は、コミュニケーションの「成果」の確実化に役立つとともに、独特のコミュニケーション領域、すなわち「部分システム」の形成をうながしますが、ルーマンは貨幣の「支払い」によって形成される部分システムを「経済」と名づけます」(P6)
「経済システムの「再帰」には貨幣に対する信頼が不可欠であり、しかもその信頼自体がシステムの作動や観察をあいだに挟んで「貨幣にたいする信頼が貨幣にたいする信頼を生む」という自己準拠性を示しています」(P12)
「(…)貨幣によって将来の不確実性と危険がすべて除去されるわけではなく、むしろ貨幣が新たなリスクをもちこむのです。(…)いくらリスク計算の技術が進んでも想定外の事態によって事前の計算結果は裏切られます」(P17)
「財・サービスのもつ背景を斟酌する必要なく貨幣を支払いさえすればよいという「負担免除」(=事象次元での貨幣の象徴作用)が、ひとびとの倫理的・宗教的その他経済以外のもろもろの感覚を麻痺ないし鈍化させるところに悪魔性を見るのは容易でしょう」(P18)
「たとえば、貧しいたくわえを食いつぶしてもなお職をえるあてのない失業者にとって、「貨幣は自分の財の入手から排除する悪魔である」との思いが日増しに強くなるに違いありません」(P19)
「総量が限定された貨幣というメディアは、財の稀少性をみずからの量つまり「価格」に写しとることによって、暴力を誘いがちなむきだしの稀少性に第二のいわばソフトな形態を与え(これをルーマンは「希少性の二重性」とよんでいます)、希少性の問題の平和的処理にしするのです(P23)
「貨幣は一時点のストックとして見れば(人為的に)総量が限られており、だからこそ当該時点における財の希少性を写しとることができるのですが、絶えず支出されることによってのみひとびとの役に立ちうるのですから、フローとしての量は無限です。いいかえると貨幣は支払いの無限連鎖を通じて、無限の将来にわたって生産される(であろう)無限量の財を体現しているのです。それゆえ、希少な財をめぐってそのつど他者と争うかわりに、フローとしては希少でない貨幣を他者と争わず稼ぐことで、当面の欲求を平和的に充足させるのみならず将来の欲求充足への備えを確保する道も開けるのです(貨幣の「一般交換手段」としての機能と「価値補像手段」としての機能)」(P23)
「欲求やふところぐあいの違いが需要価格の差異となってあらわれたといってもよいでしょう。この価格の差異ないし不均等は、貨幣が希少性の問題を首尾よく処理しうる(したがって経済システムが円滑に作動しつづける)ための必須条件です」(p36)
「複雑性や希少性の縮減・解消は経済システムの機能ではあっても目的ではないのです。それどころか、経済システム自体は複雑性や希少性を前提にして、あるいはそれらを再生産することで維持されるのです」(P38)
「経済システムは、帰巣性と複雑性をともに糧としかつ再生産しながら、しかもみずからは目的を持たずに作動しつづけるオートポイエティック・システムである」ということができます。そしてこの命題はルーマンの経済システム感を凝縮したものでもあるのです」(P39)
「経済の領域と引きえ財的領域がはっきり分かれているなら、経済の領域における貨幣の使用ないし金銭的取引は道徳的な避難を逃れるというわけです。(…)いったい経済の領域と非経済的領域の境界線はどのようにして引かれるのでしょうか」(…)「領域確定の段階では道徳的判断が必要であるにせよ、ひとたび判断がなされ経済の領域が定まれば、その領域内では貨幣の使用に関してそのつどいちいち道徳的な判断を下す必要がなくなって(負担が減って)、システムの作動が円滑化する。」(P42)
「ルーマンによれば、経済的コミュニケーションの領域を他から区別し貨幣メディアの使用(金銭的取引)を経済領域に限定することは、経済システムひいては全体社会の円滑な作動を助ける複雑性縮減(負担免除)戦略でした。これを一般化して考えるなら、「メディア・ミックス禁止」にはもともと道徳的な意味あいはなく、システムの作動を円滑化するための技術的要請だったと推察できます。(…)ルーマンの言葉に直せば、社会の機能的部分システムとしての「家族」の分化とともに、その固有メディアである「愛」以外のメディアに媒介された結婚は家族システムの作動にとって有害なものとなるということです」(P49)
「「メディア・ミックス禁止」は、機能的に分化した現代社会が自生的につくりあげた警告ブザーとしての道徳の一例であると私は考えます。つまり、本来はシステム作動上の技術的要請だった「メディア・ミックス禁止」がいつしか道徳とみなされるようになったということです」(P50)
「取引を通じて選択の自由が支払人から受取人に移されるわけです。ここで注意していただきたいのは、自由の移動方向は「支払人から受取人へ」であって、その逆はありえないという点です」(P56)
「もし支払いが不可逆であれば、つまり支払いの取消しがつねに可能であれば、経済システムが成り立ちえないことは明らかです。いつでも返品OKなどというディーラーの商売は成り立つはずもありません」(P56)
「貨幣と言語は社会・文化的進化の過程で生みだされた「人工メディア」です。水や空気や光はもともと自然界に多量に存在し自由に動けるがゆえに多様な形態をとりうるのですが、人工メディアのばあいには量と自由度は社会・文化的に必要とされる形態の多様性に合わせて人為的に決まります」(P67)
「売買においては当事者がお互いに相手との個別・人格的関係から独立した(たんにある財の買い手または売り手であるという)普遍的な側面、しかも相手の属性・資質ではなく、(何をいくらどれだけ買うまたは売るかという)普遍的な側面、しかも相手の属性・資質ではなく、(何をいくらでどれだけ買うまたは売るかという)その業績ないし遂行に着目し、相手の関心を(財の取引に)限定して感情中立的にふるまうことが原則になっています」(P75)
「一般的な傾向として、生産規模が大きくなり分業が進化すればするほど、最終的にできあがった生産物はここの働き手にとってよそよそしいものになる、といえそうです(「よそよそしい」のかわりに「疎外された」といっても同じことです)」(P83)
「つくられるモノではなく、作業に対して支払われる報酬を「作品」の代用物とみなすのです。報酬が大きいほど「いい作品」を作ったととりあえず考えるわけです。(…)この「作品の金銭化」もまた支払い側の対応次第で全体としての生産能力を向上させる力になりえます」(P84)
「分業は労働をメディアとするコミュニケーションシステムであり、他の機能的部分システムと並んでオートポイエティック・システムとして全体社会から分化している」(P88)
「社会全体としてマクロ的に見たとき、いたるところで作業実行が作業実行に接続する膨大なネットワークが動いているという点です。これこそ(経済システムのそれに比すべき)労働システムのオートポイエシスなのです」(P89)
「働き手の側からみれば、貨幣支払いは相手を選ぶ自由を放棄して自らの労働を社会的に一般化させるインセンティヴとなりうるのです。注意すべきは、労働はほんらい希少なのではなく、社会的に一般化した姿においてのみ希少なのだという点です」(P95)
「労働はほんらいの姿では希少性にしたがってまた貨幣とのつながりをもっておらず、つながりは労働を広範囲の分業へと組織する段階ではじめて生まれたものなのです。すなわち大規模分業の円滑な作動に不可欠な社会的に一般化した労働は、インセンティヴなしには得られないという意味で希少であり、現代社会はたまたま貨幣というインセンティヴを用いることでその確保に成功したのです」(P98)
「ベッカーは、経済システムにおいてこの「容易な貨幣支出と不確かな貨幣受領」という非対称な二項を媒介するものは市場であると考えます」(P99)
「バタイユが個別的「欠乏」から全般的「過剰」への支店の切り替えをうながしたのにたいし、私は個別的「欠乏」と全般的「過剰」の並存に着目し、これを「希少性の第二のパラドックス」と名づけたのです。全般的「過剰」については、(…)利用可能なのに廃棄される大量の財とくに食料品、遊休設備、耕作放棄地そして失業者、これらは明瞭に生産能力の過剰を示しています。では個別的「欠乏」はなにゆえ生じているのでしょうか。貨幣を交換手段とする経済的分業が発達し生活必要物資の範囲が拡大する(=生活水準の向上)につれて、個人や小さな人間集団(これはバタイユのいう「ここの生命体もしくは生命体の限られた集合」に相当します)のもちあわせる労働能力では次第に必要物資のすべてをみずからつくる(=自給する)ことができなくなります。物々交換ももはやかなわぬとなれば、彼らは必要物資を確保するために自分のつくった財(たとえば笠)あるいは労働そのものをなんとしてでも貨幣に換えねばなりません」(P107-8)
「おおくの売り手は、消費意欲の欠如した買い手にモノを売らねばならぬという事態、いいかえると、かつてないほど先鋭化した「市場の非対称性」、に直面しているのです」(P117)
「「消費テロ」の標的はさしあたりなくても不便を感じないから買わないでいるひとたちなのです」(P118)
「消費者による自発的な過剰処理がいきづまるなか、政府も加担して様々な消費強化策が打ちだされています」(P118)
「政府という一組織の視点から見て効率的支出(資源)配分の問題がいかに重要であれ、それぞれの組織のもつ一定量の資源をあれこれ配分変えしても社会全体の過剰問題の解決にはつながりません。過剰の処理に寄与しようとするなら、投資は公共投資・民間投資を問わず、おおむね役に立たない投資、つまり無駄な投資であるべきなのです。すなわち生産力の増強をめざす設備投資や生産関連公共投資は過剰を助長するがゆえに論外であり、個々人の消費を代替するような生活関連公共投資も、(…)とにかく民間消費の足を引っ張りますから望ましくありません。その点、無駄な投資はひたすら過剰の処理に尽くす優等生といえるでしょう」(P120)
「強制消費・投資のもたらす無駄は、過剰の処理に寄与する点で冒頭にあげた北西部アメリカ・インディアンの破壊的ポトラッチと機能的に等価であるばかりでなく、むしろ破壊的ポトラッチそのものと見ることができます」(…)「ルーマンの社会システム理論を通して見れば、この現代版ポトラッチもまた自己準拠性の一つのあらわれなのです」(P122)
「市場経済にかんするルーマンの一見したところ意表をつく理解は、彼自身は意図しなかったでしょうが、いわゆる「市場原理主義」の信奉者にとっては手痛い理論的打撃になります。というのも、市場原理主義をおし進めたとき、そのいきつく先は、経済の「純粋他者準拠化」であり、そこには計画経済が遺骸をさらしているからです。経済に参加するものはすべて「市場の命ずるところ」にしたがうべきであり、市場における自由な競争なくして経済・社会の繁栄はありえないと主張する「市場原理主義」の論調は、(…)」(P130)
「自己組織的市場の段階にいたってなお自生的秩序が期待通りの好ましい結果をもたらすとは思えません。なぜならこの段階の市場参加者は、経済システム内的データとしての価格情報とせいぜい経済システムの自己イメージを観察するだけで、もはやみずからの目で自分自身とみずからの環境を直接観察することはないからです」(P140)
「腕輪と首飾り(両方の総称が「ヴァイグア Vaygu'a」です)が互いに反対向きにグルグルまわるクラ交換には、一見すると経済的な意味はないようですが、ヴァイグアの循環はひとびとの結びつき、ひとびとのあいだの信頼を確認するプロセスになっていると同時に、結びつき・信頼が確認される事によってヴァイグアは循環すると言う自己準拠的関係がみられます」(P149)
「ヴァイグアは貨幣として交換を媒介すると同時に交換される財そのものなのです。したがって、クラ交換では貨幣の支払いは同時に財の引き渡しであり、財の引き渡しであるからこそ、受け取った方は支払い=返礼の義務を負うわけです」(P150)
「クラにおいてはコミュニケーションが連鎖的にコニュニケーションを生みだし、そうしたコミュニケーションの連鎖がつづくかぎりで環境とのあいだの境界が維持されますから、クラはメンバー間のコミュニケーションを要素とするオートポイエティック・システム、つまりルーマンのいう社会システムとみなせます」(P152)
「現代の経済はだれもその全貌を見とおすことができない大規模で複雑な分業と交換のうえに成り立っています。貨幣はそうした分業と交換システムとしての経済がみずからの姿を写しだす鏡なのです」(P156)
「ルーマンの社会システム理論がミクロ経済学に何を問いかけているのか、少しふれておこうと思います。もっともきわだつのは、価格のはたらきに関する認識の違いです。(…)ルーマンの理論では均衡はむしろあってほしくない状態です。価格は絶えず変化する経済システム外の事情をシステム内に反映させるメーターの針のようなものであって、止まることを許されません。(…)ルーマンにとって「均衡」や「均等」はシステムの作動停止を意味します」(P160)
「ルーマンの「経済システム」は、不均衡ないし差異というエネルギーを環境から取りこんだりみずからつくりだして自律的に作動するオートポイエティック・システムでした。そしてそのエネルギーの取りこみないし創出にとって欠かせない媒介装置が貨幣・価格です」(P163)
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