うまなり[Home]/そのまま!そのまま! [論点紹介]/経済的価値と無形資産/『貨幣の思想史』



内山節 1997 『貨幣の思想史 −お金について考えた人々』 新潮社 (新潮選書)



目次

プロローグ 人間と貨幣の関係 

第一章 国家の富の創出 −ウィリアム・ペティと『政治算術』

第二章 「自然の秩序」と貨幣 −フランソワ・ケネーと『経済表』

第三章 使用価値をめぐって −ジョン・ロックと『市民政府論』

第四章 経済学と理想の秩序 −アダム・スミスと『諸国民の富』

第五章 経済学が生まれる時 −リカードゥと『経済学および課税の原理』

第六章 貨幣の経済をめぐる矛盾 −J.S.ミル、マルサス、バウェルク

第七章 貨幣廃絶論の行方 −モーゼス・ヘスと「貨幣体論」

第八章 人間の尊厳と貨幣 −ヴィルヘルム・ヴァイトリングと草創期の社会主義思想

第九章 観念の支配としての貨幣 −マックス・シュティルナーと『唯一者とその所有』

第十章 社会主義と労働時間 −カール・マルクスと『ゴーダ綱領批判』

第十一章 貨幣時代の憂鬱 −ケインズと『一般理論』

第十二章 貨幣の精神史

エピローグ 貨幣と虚しさ





第一章 国家の富の創出 −ウィリアム・ペティと『政治算術』

ペティ『政治算術』(大内兵衛 松川七郎 訳 岩波文庫)


 「17世紀イギリスの政治経済学の緊急の課題は、戦争を遂行するための国家財政の確立であった。」(15)

 「ペティは、第一に土地、建物、船舶などの国内の動産、不動産のすべてを貨幣価値によって測定し、第二に農業、工業、商業の持つ生産力をも貨幣量で計算することによって、その合計に国富の現実を見ていく。」(p17)

 「国富が貨幣量で表現されるものなら、国富の増加とは、貨幣で表すことができる蓄積量と生産量を増加させればよいことになるからである。」(p18)

 「ペティは国の中で生産され、蓄積されている商品の量を問題にし、それゆえに変ることのない普遍的な商品として、金、銀、宝石を重視する。とすれば、当時は金貨であり、銀貨でもあった貨幣の増加が、国富の最大としてとらえられることになる」(p18-9)

 「政治経済学の目的が国家の富の増加におかれ、その結果、普遍的な富としての貨幣の増加に目標が置かれたことである。生活次元の経済の豊かさは貨幣を用いないでも実現することができるが、国家の富の増加は、それ自体は生活しない価値 -貴金属であれ、貨幣であれ- の蓄積に頼らざるを得なかった。こうして貨幣の増加に結びつかない民衆の生活次元の営みは、政治経済学の対象から消されたばかりでなく、そのような営みも貨幣経済の元に改編する必要性が提唱されていくようになる。」(p21)

 「労働を国家の富を生みだす基礎と捉えるとき労働を共通の視点から捉える必要性が生まれた。すなわち農業は農業であり、商業とも、手工業とも異なる労働であるようなとらえ方のままでは、労働を国富を生みだす基礎として共通化されセルことはできなかったのである。ここから、すべての労働は貨幣を生みだす労働であるという認識がつくられた。労働の価値は、その労働によって作り出された貨幣量に等しい、こう考えることによってすべての労働はその差異を失い、国富の基礎として一般化されることになった。」(p21)

 「国家の基礎的な力を、ペティは武力でも国家の広さでもなく、経済力としてとらえている。経済力を欠いた武力は、長期にわたって維持することはできない。」(p25-6)





第二章 「自然の秩序」と貨幣 −フランソワ・ケネーと『経済表』


フランソワ・ケネー 1758『経済表』(戸田正雄 増井健一 訳 岩波文庫)

シュムペーター『経済学史』(中山伊知郎 東畑精一 訳 岩波文庫)

マルクス『余剰価値学説史』(大内兵衛 細川嘉六 監訳 大月書店)

H.イムラー『経済学は自然をいかにとらえてきたか』(栗山純 訳 農山漁村文化協会)

 「商業や工業は国民の富の総量を増加させていないのではないだろうか。つまり、商業や工業は、そこで生産された分だけ他のものを消費しているのであって、決して富の総量を増やしてはいないのではないかとケネーは考えたのである」(33)

 「生産の場面で用いられるさまざまなものを、過去にさかのぼって追跡、分解していけば、つねにそれをつくるのに費やされた労働力に突きあたるのである。生産は労働力の度重なる消費のうえに実現され、そこで用いられた労働力の総計は、労働力を提供した労働者が生活のなかで消費したものの総計に等しい、と理解することができる。」(34)

 「富の生産は富の消費によって実現されている。ここで問題になるのは、そのとき生み出される富の量が、消費される富の量を上回っているかどうかである。もし上回っていなければ、社会的な富の量は増加していないことになる。ケネーが見つけ出した結論は、商業や工業では富を増加させる要素がないということであった。」(35)

 重農主義(Physiocratie) (Physis: 自然)にもとづく政治。自然の道理に従った政治、あるいは自然の秩序にもとづいた政治の意味。

 生産階級(classe productive) 農民、小作人
地主階級(classe des proprietaires)
非生産階級(classe sterile) 商工業者など非農業勤労者

 「農業は生産のために消費された富以上のものを生みだす唯一の産業であり、自然が生産する富の量だけ超過的な富が得られる。そしてこの農業がつくりだした富が、商品や手工業者、工業者、労働者、地主といった様々な人々の間に流れていく過程のなかに、経済の全体はつくられている。」「しかも農民は超過的に得られた富の一部を土地に返すことによって、富の生産を増加させることができる。とすればこの富の拡大再生産を基礎にして、経済全体も安定的に拡大する循環を作り出せるはずである。逆に述べれば、この循環がうまく展開していないとき、経済は乱れ、農村は荒廃するように思われた。したがってケネーにとって重要な課題のひとつは、農業の再生産とそれを軸にした経済の循環を阻害することのない社会体制の整備であった」(39)

 「ケネーが見ていた富とは貨幣ではなかったことである」(42)

 「ところが『経済表』を読むとすぐに気づくのは、そのケネーもまた国家の富、国富を計算するときには、富=労働生産物説を放棄していることである。ケネーにおいても、国家は貨幣の量によって表現されている。「国民の経済」をとらえる視点と「国家の経済」をとらえる視点は分裂していた。」(43-4)

 「ケネーの見ているものは、そのような貨幣経済ではない。確かな使用価値を労働生産物の交換=形態転換のなかに展開している経済である。この経済観にたつかぎり、貨幣はいかなる使用価値も保持せず、また使用価値を増大させることもない、必要であってもつまらない交換財にすぎないのである」(46)

 「農業を基礎にして、労働生産物=使用価値を主張し、それが循環していくなかに、自然的秩序にかなった経済社会を描くケネーにとっては、貨幣は、この経済社会を手助けする交換財以上の役割を持ってはならなかった。もしも貨幣がそれ以上の役割を果たすようになったら、使用価値にもとづく自然的秩序の社会は、崩壊に向かうしかなかったのである」(48)

 「ケネーは市場経済を冷遇する態度にでるしかなかった。国民が豊かになれば流通する貨幣量も低下するという彼の主張は、そのことを示している。市場経済の中に理想の経済秩序を作り出しえることを、ケネーは認めなかったのである」(67)

 「ケネーは農業以外の労働を不生産的な労働と切り捨てる事によって、この「矛盾」に陥らずにすんだのである。農業のみを生産的労働と考え、すべての経済活動を農業からはじまり、農業に環ってくる循環のなかに位置づけることによって、ケネーは使用価値の経済学を打ち出すことができた」(p84)





第三章 使用価値をめぐって −ジョン・ロックと『市民政府論』


ジョン・ロック 1690『市民政府論』(鵜飼信正 訳 岩波文庫)刊行

 ロックの所有論の発想は「生活上必要な労働生産物=使用価値において、人々は所有権を持つことができる、というのである」(56)

 「ロックの考え方は、その(富の)前提に自然の広がりが合ったとしても、労働に所有の根拠を見出し、そのことによって富を作り出す力を労働に求めている」(57)

 「ロックは使用価値が失われるような大量生産も所有も不可能だと考えていた。採取しすぎて腐れ瀬手しまう果実も、耕しきれない土地も、使用価値をこえた労働と所有が生み出したものである」(57)

 「貨幣が出現したことが、人間たちに『自分の使用のために必要とし、彼に生活の利便をあたうべきよりも以上のもの』を、所有する道を開いたのである」(58)

 「人間たちは『自分の使用し得る以上のものを労働によって得ようとする誘惑を感じ』ず、したがって『他人の権利を侵害する余地はなくなった』のに、貨幣の発生によってこの調和は崩れ、権利と財産と争いの時代がはじまる。それを克服するために、所有を社会的に承認する必要性が生じた。こうして『国家においては、法が所有権を規律するのであり、そうして土地所有は実定制度によって定められる』必要があった。(60)

 「使用価値を軸にしてい展開するけいざいと、貨幣を軸にして展開する経済が、室の異なる経済であることををロックは明らかにしていた」(60)





第四章 経済学と理想の秩序 −アダム・スミスと『諸国民の富』


アダム・スミス『諸国民の富』(大内兵衛 松川七郎 訳 岩波書店)

 「重商主義以降の戦争では、中心が職業的な軍隊に変った。それは賃金の支払いを必要とする国家の銀多雨である。軍の装備も中世とは比較にならないほどお金のかかるものになった」(P64)

 「スミス流の用語を用いれば、使用価値の異なるものが、なぜ交換価値では等価になるのであろうか」(…)「ただしスミスはこの問題に深入りしようとはしなかった。そうして、使用価値と交換価値のあいだに生じている矛盾に深入りするかわりに、市場経済の発展が、結果としてくらしの経済をも豊かにすることをきたした」(p65)

 「スミスは、勝手気侭に各人がおこなっているかにみえる労働が、社会全体としては分業の体系として作られていることをさし示し、この分業が経済の発展に大きな貢献をしている」(p71)(…)「もっともスミスによれば、分業は人間の叡智によってつくりだされたものではなかった。それは交換という人間の習慣が自然発生的につくりだしたものであり、市場の拡大が分業を発展させた」(…)「勝手気侭におこなわれているかのようにみえる経済活動は、そのまま自由放任に任せておけば、「見えざる手」の働きによって、予定調和的に、もっとも有効な経済社会がつくりだされていくだろうというスミスの発想である」(p72)

 「お互いに他人の労働を自分のものにし、他人の労働を支配していくことができるのである。つまり昔は自分の労働だけで暮らしていた人間たちが、自分の労働を他人に提供し、代わりに他人の労働を手にするようになっていくこと、それがスミスにとっての分業であり、この分業の発達はひとびとを豊かにしていくだろうと彼には思われた」(p73)

 「労働の濃淡は一様ではなく、しかもその濃淡を計測するのは不可能なのであるとすれば労働の量である「実質価格」は、どうやって計測すればよいのであろうか。」(…)「もっともスミス自身は、この二つの価格にそれほど遠い違いはないだろうと予測していた。市場に自由放任しておけば、市場の動きが、次第に「名目価格」を「実質価格」に近づけていくに違いないという楽観的な予測を彼はたてていたのである」(p76)

 「彼は、現実の経済がある秩序を底において形成されていることを提起しながら、その根幹にある秩序を、現実的なものとしてではなく、理論的に捉えることができる抽象のなかでしか説明していないのである」(p77)

 「たとえ利潤はその生産を継続しうる最低限にまで低下する傾向をもっているが、労働賃金は、その賃金によって労働者=労働力の再生産が可能な水準以下にまで引き下げることができないのであり、仮にそのような低賃金で働かせることができたとしても、それでは生産を長い間継続しえない」(p81)

 「賃金は労働者の生活の維持費に近づいていく(…)それは労働(力)の価値、つまり労働(力)の交換価値量が、結果的には労働者が生活を営む上で必要な使用価値量を反映しているということである」(…)「使用価値と交換価値は次元の違う価値であり、両者はけっして一致することはないにもかかわらず、労働(力)の交換価値が生活必需品を商品として購入させる過程をとおして、労働が使用価値をつくり、その使用価値が生活を支えると言う(P82)

 スミスは、経済の秩序をとらえようとする以上、使用価値ではなく交換価値にその基盤を求めざるをえなかった。ただしスミスは、交換価値の循環が、結果としては使用価値の循環をも反映していることによって、経済学にとってきわめて厄介な使用価値という代物に、深入りせずにすむ論法を見つけ出したのである」(p84)

 「スミスが『諸国民の富』のなかで明らかにしようとしたことのひとつは、国富は貿易差額から生まれるものでも、その結果としての金銀の蓄積にあるのでもなく、その国の生産力の大きさに基づいているということであった。その点ではスミスは重商主義の時代から産業資本主義の時代への転換を、経済思想の面から促進した思想家である」(p87)

 「スミスの発想、すなわち市場に対する自由放任と経済活動に介入しない小さな政府=「安価な政府」を理想とするという発想は、ケインズ経済学を対極としながら、今日まで受継がれている経済政策の有力な考え方のひとつでありつづけた」(p88)

 「スミスの目的のなかに国家の経済学の確立があり、経済活動全体をひとつの理論秩序によってとらえようとする指向がある以上、その経済学は交換価値の経済学にならざるをえなかった。労働が作り出す交換価値の経済学となることによって、スミスは政治経済額の理論的統一性を確立したのである」(P92)

 「交換価値の経済学の立場に立つ以上、重商主義的な交易中心主義も、投機的な活動をする商人の動きも、理論的には防ぐことができない。スミスの理論は、重商主義的な政策が生まれてくる基盤を喪失させることができないのである」(p93)

 「スミスがめざしたものは、「確実な商業用具」に貨幣をすることであった。貨幣の地位を、目的から道具、手段に引き下げることである」(P95)

 「スミスをふくむ古典経済学の学徒が目指していたものは、第一に、一見するとかって気侭に展開しているかにみれる経済学が、実は一定の秩序=法則のうえに成り立っているのではないかという仮説にもとづいて、その秩序=法則をみつけだすことにあり、第二に、経済にとってもっとも理想的な秩序=自然の秩序と矛盾しない=神の摂理にかなった=もっとも真理を体現している秩序をみつけだし、それを実現することにあった。しかもしれは、第三に、国家と国民がともに教授できる秩序でなければならなかった」(P97)





第五章 経済学が生まれる時 −リカードゥと『経済学および課税の原理』


1772 ロンドン生
1817 『経済学および課税の原理』刊行
1821 同書改訂「機械について」の章を付け加える

デイヴィッド・リカードウ『経済学および課税の原理』(羽島卓也 吉沢芳樹 訳 岩波文庫)

 「使用価値=富と価値は別の世界に生まれたものであり、経済は使用価値を問題にしていないこと、リカードゥはまずこのことを明確にしている」(…)「使用価値と交換価値との、たとえ間接的であっても、幸福な協調を夢見たスミスの願いは、リカードゥにとっては意味のないことだった。なぜなら経済とは単なる価値の運動に他ならず、使用価値はこの運動とは別の次元にある「富」なのだから」(…)「リカードゥは、価値とはそれを生みだすのに必要だった労働時間量によって決定されていると結論付けた」(p105)

 「使用価値は非合理的な価値であり、無秩序な、あるいは秩序性をもたない価値なのである。とすればそのような「価値」に依存すれば、経済活動の合理的展開など成立しようもない」(P107)

 「生みだされた価値が、賃金、利潤、地代に分配されていく過程をみることによって、資本が拡大再生産されていく秩序=法則をとらえること、それが経済学の目的であった」(P108)

 商品の価値=生産のために消費された労働時間=生産のために直接投下された労働時間+過去に投じられた労働(=機械、道具、原材料を生産するために必要な労働時間)時間

 商品の価値(=総労働時間)は、商品の価格(総労働時間+利潤+地代)ではない。労働力商品は、自然価格(労働者とその家族を支えるのに必要な商品量に規定される)と市場価格(労働力の需給関係により規定される)である。長期に渡って経済が維持されるためには、ろ動力の市場価格は自然価格に一致する必要があると、リカードゥは考えていた。

 「彼の経済学は、資本制商品経済の軸になっている秩序=法則をとらえるためには、経済の動きから不純な動きを取り払い、それを純粋な経済として理論的に設定しなおすという経済の抽象化をはからなければ、不可能であることを教えているのである」(p113)

 「貨幣という現実的な商品も理論に影響を与えるものではなくなった。重要なことは、価値の生産と分配であって、価格でも、貨幣でもないのである」(P117)

 「こうしてすべての人間が、抽象的な人間Pになった。(…)同じように資本も、すべてが抽象的なCでよい。PがCのもとで価値を生産すればそれでよいのである。経済学理論は生身の人間からも資本からも離れた。とすれば、現実のなかで問題になる貨幣の悩みなどは、その課題になるはずはない。(…)それが資本主義の本質であることを、リカードゥはその理論の確立を通して明らかにした(…)」(p118)





第六章 貨幣の経済をめぐる矛盾 −J.S.ミル、マルサス、バウェルク

 

J.S.ミル 1848『経済学原理』(末永茂喜 訳 岩波文庫)

J.S.ミル 『ミル自伝』(朱牟田夏雄 訳 岩波文庫)

マルサス 『人口の原理』(高野岩三郎 大内兵衛 訳 岩波文庫)

マルサス 『経済学における諸定義』(玉野井芳郎 訳 岩波文庫)

バウェルク 『経済的財価値の基礎理論』(長守善 訳 岩波文庫)

 「J.S.ミルにとっての経済学の課題は、現実の人間にとっての経済を解くことであり、人々の豊かさの問題であり、現実に働いている労働者の問題だった」(P122)

 人間的な経済社会を構築しようとすればするほど、資本性商品経済の非人間性が見えてきて、この問題を解決するには、資本性商品経済とともにある社会秩序全体の改革が必要であり、少なくとも経済学の枠内での問題意識に依存したのでは、その解決は不可能だと思えてくるのである」(P122)

 「使用価値とはアダム・スミスが誤解し、その後の人々がその誤解を受継いだような、労働生産物がもっている固有の価値ではなく、それと関係をもつ=使用することによって生まれる関係的価値であり、商品の価値も商品経済のなかに成立する関係的価値なのであって、二つの価値を成立させある関係の世界が異なる以上、それらが一致することなどありえないのである」(p128)

 「資本性商品経済のもとでは、商品の購入によって使用価値もまた購入されるという、あるいは商品の生産によって使用価値も生産されるという諒解が、前提化されるということであろう。もちろんこのような諒解は正しくない。しかしこの諒解が正しいかのごとき擬制の上に、この商品経済は成り立つのである。商品化された労働生産物に関するかぎり、人々は商品を購入しなければ使用価値を手にすることはできないのであって、それゆえ資本性商品経済は商品を購入することによって使用価値も譲渡されたものとみなす」(P131)

 「使用価値の問題を商品の次元で論じざるをえないという擬制であり、価値論の抽象性を取り払おうとすれば価格論を論じるしかないという擬制でもある。そうせざるをえないのは、経済学が経済活動の本質をひとつの秩序のなかにとらえる学問だからであろう。ある秩序のなかに経済をとらえようとするかぎり、使用価値自体のことは論じようもないし、現実の秩序を視野に収めようとすれば、価格=貨幣を軸にした経済をみるしかなくなるからである」(P132-3)

 「「其の財によって与えられる幸福の重要性」である使用価値は、その使われ方によって変化する。それをバウェルクは「主観的価値」と呼ぶ。その「主観的価値」は、人々の暮らしのなかの豊かさと結びついている価値でもある。それに対して、もうひとつ、「交換される使用剤の使用価値」がある。それは「財の経済的価値」であり、限界効用によって測定される「客観的価値」である。貨幣で表現される価値とは、この客観的価値のことである。それがバウェルクの結論であった」(P138)





第七章 貨幣廃絶論の行方 −モーゼス・ヘスと「貨幣体論」

モーゼス・ヘスと「貨幣体論」(所収 山中隆次・畑孝一訳『初期社会主義論集』未来社)

 「生産活動を経済の次元でとらえるのではなく、人間の次元でとらえること、それが彼のテーマであった。だから生産活動とは、分業ではなく、交換あるいは交通でなければならなかったのである」(P145)

 「ヘスは、過去において理想的な交通が成立していたとは考えていない。それは飽くまで未来に実現されるのである」(P148)

 「商品経済の社会では、利己的な個の確立が目的になり、類は個の目的を実現するための手段になっているとヘスは述べる」(…)「商品を買うために、自分の労働力を商品としてうる、それがこの世界に成立している交通=疎外された交通の姿だとヘスは考えている。それは人間の価値が商品的な価値になることであり、貨幣量が人間の価値を表現するという怖しい状態を生みだしている。貨幣化された人間の価値をもとにしている人々、その点ではプロレタリアもブルジョアも同じことだ」(P149-50)

 「ヘスは労働生産物の価値や、生産に関する人間の能力が貨幣の量によって測られることに、人間の自己喪失を見ていたのである」(P152)

 「より深刻な問題は、この擬制を、人々が強制的に受け入れさせられているのではなく、「自由意志で」受け入れていることにあった。(…)自分の労働能力はもっと高価なはずだと人々は嘆く。しかしその不満は、自分の労働能力はもっと多くの貨幣と交換されるべきだというものであって、労働能力を貨幣量によって測るという擬制自体は受け入れられている。ヘスが問題にするのはこの「自由意志」である」(…)「ヘスは、古代の奴隷制や中世の農奴制は、強制と略奪によって実現していたのに、なぜ近代の「奴隷制」は、人々の自由意思によって実現しているのかを解こうとしていた、ということである」(P153)

 「「『所有』も…それが利己的生存の手段であり、『自我』によって利用される」社会では(…)人は人間の自由と平等をつくりだしたと信じたが、それは死の平等にもとづく猛獣の自由の徹底的な貫徹であったのである。この自由を人は人間の自然的自由と名づけた!」。こうして「われわれは自由意志で自分を売らねばならないのだ!」」。(P155)

 「この状態から人間を解放するには、「われわれの期待する有機的共同体」を生みだす必要がある。この「有機的共同体」では貨幣は廃絶されるだろう。(…)もはやこの未来社会のもとでは、価値や能力を貨幣量で表現する必要性はなくなっているからである」(P157)

 「疎外された交通の展開こそが、そこから人間の解放を可能にすることを、ヘスは明らかにしている」(P159)

 「なぜ人間の能力が貨幣で評価されなければならないのか。なぜ人間は孤立し、相互に利己的に利用しあっている関係のなかで生きなければならないのか。個のような関係から人間の解放を願う人々にとっては、貨幣は到底認めることのできないものだった」(P160)

 「貨幣の社会は、だから彼の目には、自由をもっもも否定された社会だと映っていた。なぜなら、貨幣社会のもとでは、貨幣的な価値基準によって自然や労働、労働生産物などをとらえるという精神的「強制」を、人々が自由意志によって働かせることによって、「自分自身の本性」を解放することができないからである。」(P164)





第八章 人間の尊厳と貨幣 −ヴィルヘルム・ヴァイトリングと草創期の社会主義思想

 「ファイトリングもヘスと同じように、自然な人間、純粋に生命を高めていける人間を創造可能な社会を求め、それを阻害する現実の社会を批判していたのである」(...)「新しい社会は、とヴァイトリングは述べる。「貨幣制度なき財産共同体」でなければならないと」(・・・)「はじめに彼は、労働を、社会にとって最低限の必需品をつくりだす労働と、必需品ではないが人々の暮らしのなかで求めているものをつくりだす労働とにわけている。そのうえで、前者を誰もが従事しなければならない労働とし、後者を労働者の選択にまかせる一種の自由労働と定めている(P167-8)

 「「自由な労働」の労働時間である「交易時間」を基準にして、労働生産物を交換していくシステムである」(・・・)「労働者は、自分が得意とする分野で「自由な労働」に従事し、その従事した分だけ、他のものをつくりだした「自由な労働」と交換していく」(・・・)「すべての労働は平等に価値を持っているという精神が、このルールん基礎にあることは、言うまでもない(P168)

 「この「交易時間」は、その記録や交換を、(...)老人におわせている」(...)「「もはや労働に従事していない老人がこれを管理する」」(P169)





第九章 観念の支配としての貨幣 −マックス・シュティルナーと『唯一者とその所有』

 「国家であれ、法であれ、あるいは教育や学校、教会、家族・・・、つまりひとつの秩序が人間の上に立ち、その秩序に人間が従わなければならないことが、主ティルナーにとっては、人間の自己喪失であった」(・・・)「人間は、自分の作り出したものを自分の支配下におくのではなく、そのつくりだしたものに逆に支配される。(・・・)シュティルナーは、この構造を国家と人間の関係のなかにみた」(P172)

 「個人」が「国民」に服従しなければならない。あるいは個人であることを制限、抑制し、自己を国民という「一般者」にしなければならない」(P174)

 「観念は人間がつくりだしたものであるにもかかわらず、その観念が個人よりも偉大なものになり、個人が観念どおりの人間であらねばならなくなる。彼が問題にしたのはこの構造だった」(...)「彼が嫌ったのは、個人から遊離した普遍的な自由の観念が生まれ、その自由の観念に個人が支配されることであり、同じように、幽霊のような平等や博愛という観念がつくられ、この幽霊のような観念に個人が支配され、<僕>や<君>という唯一無二の個人が喪失されていくことであった」(P175)

 「現実の経済秩序が貨幣を貨幣たらしめ、同時に、貨幣についての観念秩序が、貨幣を貨幣たらしめる。(...)だから、貨幣の批判者たちは、現実の経済活動における貨幣の役割を批判するだけではなく、貨幣が人間の精神をも支配する「神」になっていることをも批判しなければならなかった」(P180)(...)「(...)貨幣という「観念」に支配された私たちは、本物の価値を正当に見ることさえできない人間であるという近代的人間に対する痛恨の心情が、もうひとつの貨幣論んを生み出していた」(P180)





第十章 社会主義と労働時間 −カール・マルクスと『ゴーダ綱領批判』

 「資本主義の矛盾を解決する出発点は、所有の問題を解決することにある、ということである」(P183)(...)「最大の問題は労働力商品の存在にあり、労働力商品を成立させてしまう所有の問題であった。マルクスの目的は、労働力商品の廃絶にあったのである」(P184) 」

 「協同組合会社にあっては、労働力商品の売買はおこなわれない。(...)労働者は、自分が働いた労働量=労働時間量を証明する証書を受けとる。そしてこの証書に記された労働時間分だけの消費物を受け取るのである。それがマルクスの提案であった」(P185)

 「労働時間量にもとづいて対価を受ける社会は、まだ不平等なのである。なぜなら労働時間量を基準にしたのでは、労働者の熟練度や、その労働の強度が反映されないからである。(...)共産主義社会では、生活のために働くという資本主義化の労働者的な働き方は、一切なくなるとマルクスはいう。(...)この社会では、人々は能力に応じて働き、必要に応じて受けとるのである」(P186)

 「誰もがその能力に応じて働き、誰もがその必要に応じて受け取ることができる社会、つまり賃労働も労働時間による労働の測定も必要ではなく、労働と分配が全く結びつかなくなる社会、しかもそれを可能にする生産力を持つ社会、それがマルクスの共産主義社会のイメージである。このイメージをマルクスは、フランスの社会活動家、ルイ・ブランの「各人はその能力に応じて働き、各人にはその必要に応じて与えられる」から借りた。

 「彼にとっては、あくまで、労働者にとって矛盾に満ちた秩序が問題なのであって、ヘスやシュティルナーのように、秩序が人間の上に君臨すること自体が問題であったのではない。ここに社会主義思想と、アナキズム的発想との根本的な相違がある」(P190)

 「この論理を読むときに、なぜ私の心が踊るものを感じないのだろうか。(...)もしもマルクスのいうとおりだとしたら、自分たちはいつまでも、その時代の秩序のもとで生きなければならないことになる。自分自身が根源的に解放されることはなく、未来の解放のために努力することだけが自分の使命ということになってしまう」(p194)





第十一章 貨幣時代の憂鬱 −ケインズと『一般理論』

 「今日の経済理論t古典経済学の間には、(...)古典経済学の学徒たちにあった、経済全体と個々の人間の次元の経済とのくい違いをめぐる動揺を、今日の経済学理論は継承しなかったことである」

 「ケインズ経済学は、古典経済学にはなかったふたつの新しい立脚点を確立していた。そのひとつは経済学が発見しようとしていた経済秩序を、絶対的秩序から相対的秩序へと移行させたことであり、もうひとつは、経済学にとって人間とは、具体的人間ではなく、抽象的人間でしかないことを明らかにしたことであった」(P197)

 「経済学も、そうして現実の経済過程も、貨幣の疑念をいだくかぎり成立しない。なぜなら経済学がとらえようとした秩序、あるいは現実の経済過程を支えている秩序は、商品には固有の価値があるとみなし、その価値は労働時間量によってつくりだされたとみなし、さらに価値量は価格としての貨幣量によって表現されているとみなすことのうえに、成立しているからである。そして、それがゆえに、貨幣は経済的秩序の絶対的基準でなければならなかった」(P204)

 「貨幣が経済活動の軸に据えられた資本制社会は、必然的に「貨幣愛」の社会に人々を導く。そのことが投機的な活動に人々を誘いながら、腐敗した金銭の社会をつくりだしていくだろう。真面目に考えれば、人間が道徳的な部面まで金銭によって支配されること自体が、すでに人間の腐敗である。ここではケインズは貨幣の社会に対して危惧をいだいていた」(P206)





第十二章 貨幣の精神史

 「特定の商品が普遍的な交換財としての役割を果たすためには、その商品が、時間の経過によって品質を低下させず、持ち運びしやすく、その商品の価値が市場変動にさらされにくい、しかも商品価値の地域差が少ないという条件が必要である」(...)「ところが貨幣の使用が一般化したとき、人々は貨幣が単なる交換財以上の役割を果たしていることに、気がつかないわけにはいかなかったのである」(P213)

 「資本主義制商品経済のもとでは、実体が価格をつくりだすのではなく、価格が実体を作り出すという転倒が生じていることになる。そうしてこのことがまた貨幣時代の人々の戸惑いをつくりだしていた。人間の存在次元の感覚では、実態が価格をつくりだしているはずなのである。ところが現実の貨幣社会では、価格を構造化することによって、そこから実体を成り立たせる」(P216)

 「使用価値を生みだす関係性が、それに使用価値という実体をつくりだすのであって、固有の使用価値が出発点にあってそこから関係的世界が生まれるのではないのである使用価値は、関係的世界とともに変容するという非合理性を捨て去ることはできない」(P217)

 「商品の価値をつくりだしてるものは、使用価値にいても、交換価値あるいは価値の面においても、その価値実体をつくりだしているものは、それとともにある関係的世界である」(P218)

 「皮肉なことに、資本制商品経済は、そのようなものとして人間の平等を実現した。なぜなら私たちはAやBではなく、抽象的なP、あるいはP1、P2、P3・・・にすぎないものとして平等だからである。あるいは今日の社会は、抽象的人間としての平等を実現しているのであり、具体的人間のままでの平等は実現していないといったほうが正解かもしれない」(P224)

 「貨幣を必要としない関係をつくりだすことによって、貨幣の領域を縮小させていく、そして貨幣を単なる交換財の地位にまで引き下げることがここでの課題である」(P226)





エピローグ 貨幣と虚しさ

 「とりわけ人間の労働力が貨幣価値化されたことは決定的であった。貨幣量で価値評価できるはずのない人間の働きや営みが、賃労働の大量出現によって様子を変えた。労働を貨幣量で評価すること自体が虚構のはずなのに、この虚構にもとづいて労働社会がつくられるようになったのである。」

 「貨幣量に表現された価値=価格は、有用性とは別のところでつくられる。ときにそれは純粋に市場であり、ときに生産のために必要となったコストであり、ときに談合や独占、寡占や様々な恣意的な操作が価格を決定する。そして価格が決定されたことによって、それが市場経済の規範として機能しはじめるのである。(...)自動車を生産した結果、自動車の価格が決まるのではなく、その自動車の価格をいくらにするかがあらかじめ決まり、それにあわせて設計や生産がおこなわれる。実体のない価格は、こうして市場経済上の実体を獲得する。虚構の貨幣が実体を持つようになるのである」(P235-6)

 




041020作成
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