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岩井克人 1998 『貨幣論』 筑摩書店(ちくま学芸文庫)



目次 第一章 価値形態論
第二章 交換過程論
第三章 貨幣系譜論
第四章 恐慌論
第五章 危機論
後記
文庫版後記
索引




第一章 価値形態論



 マルクスの古典は経済学への評価…労働価値(価値法則)
「「労働生産物は、それが価値である限りは、その生産に支出された人間労働の単に物的な表現でしかない」「ある…財かが価値を持つのは、ただ抽象的人間労働がそれに対極化または物質かされている」からであり、その「価値の大きさは…それに含まれている<価値を形成する実体>の量、すなわち労働の量によって・・・測られるというのである」(P18)


 「マルクスの資本主義社会にかんする科学(=資本論)の目的とは、超歴史的な価値の「実体」がまさにどのようにして商品の交換価値という特殊歴史的な「形態」として表現されるのかをしめすことになる」(p23)


 「マルクスは「労働価値論」の自明性を古典派にもまして徹底的に信じていたからこそ、「価値形態論」なるものを展開しえたのである」(p27)


 「十八世紀の中盤から十九世紀の前半にかけてヒューム、スミス、リカードとうけつがれてきた古典は経済学の系譜において、貨幣とは商品流通のための単なる「潤滑油」、財貨を得るためのたんなる「商業用具」、商品交換のためのたんある「媒介物」としての役割しか与えられていないということである。(…)貨幣それじたいにはなんの価値もない。それは、当然、一国内に蓄積された貨幣の量は実態の富としての商品世界には(すくなくとも長期的には)なんら影響もあたえない、という政策的な主張をうみだすことになる」(p35)


 「貨幣という神秘−それは、マルクスにとって、金銀という商品が、モノとしての自然のかたちのままで、ほかのすべての商品にたいする一般的等価物という機能をはたしていることの神秘なのである。神秘は、金銀という商品のものとしての性質にあるのではなく、その金銀を貨幣という社会的な存在にしたてあげる商品世界の存立構造そのものにあるのである」(p39)


 「リンネルが自分との直接的な交換可能性を上着にあたえているという社会的関係の結果にすぎない。しかし、モノの性質とはモノそのものに内在しているという日常生活に根ざした人々の先入観によって、上着もまたリンネルとの直接的な交換可能性を、重さがあるとか保温に役立つとかいう性質と同様に、うまれながらにもっているように錯覚されてしまうのだとマルクスはいう」(…)この「とりちがえ」をうみだす等価形態の不可解さこそ、単純な価値形態のなかにひめられていた「貨幣形態の秘密」なのだとマルクスはいう。(p44)


 「もちろん、貨幣とは、(…)たんなる錯覚などではない。それは、資本主義社会という商品世界の存立構造そのものと関わっているひとつの社会的な実在である。」(p45)


 「貨幣という存在が、商品世界におけるまさに「生きられた循環論法」にほかならないということをしめすことにもなるのである」


 「一般的な価値形態Cに「客観的な固定性と一般的な社会的妥当性」(八三)をあたえて価値形態を完成させるためには、一般的な等価形態の地位を、一介の商品にすぎないリンネルから金という光り輝く商品にゆずりわたす必要があるというわけである。もちろん、あらゆる戴冠式はたんなる儀礼でしかない。そしてそのばあいも、金という商品がモノとして生まれながらにもっているk、均質的であり、分割可能であり、耐久的であり…という貨幣の機能に適した性質のひとつひとつ数え上げてから、最終的に「金銀は生来貨幣ではないが、貨幣は生来金銀である」(一〇四)というおごそかな宣言とともに戴冠式は終了する」(p54)


 「すなわち、ほかのすべての商品が貨幣に直接的な交換可能性をあたえていることと、貨幣がほかのすべての商品に直接的な交換可能性を与えていることとは、たがいがおたがいの根拠となっているまさに宙吊り的な関係になっている。真理と誤謬、本質と外観、実体と幻想といった二項対立が永遠に反転しつづけてしまうのである。」(p63)


 「貨幣以外のすべての商品は、貨幣との直接的な交換可能性を媒介にしてはじめて、おたがいがおたがいどうしと間接に交換可能な存在となる。どの商品も貨幣との直接的交換可能性を持たなければ、それは価値のにない手としての商品ではないたんなるモノになりさがってしまうのである」(p63-4)




第二章 交換過程論



「商品とはひとりの人間に所有されているかぎりたんなるモノでありつづける。それはほかの商品との等価関係のなかにおいてはじめて商品になるのである。もちろん、人間が商品所有者として舞台に登場してしまったあかつきには、商品と商品との等価関係は人間と人間とのあいだで行われる「交換」を通じてでしか実現されえない」(p80)


 「共同体的な規制や中央集権的な強制でもないかぎり、Aという商品を手放したい人間がBという商品を欲しているとき、そのBという商品を手放したい人間がちょうどAという商品を欲していなければ交換は成立しない。もちろん、それぞれの人間の欠乏(欲望)をそれぞれの人間の過剰(非欲望)がちょうど埋め合わせることができるのは幸福な偶然でしかなく、そのような二重の一致がなければ、商品と商品とはたんなるモノとモノとしてそれぞれの所有者の手元に残されたままになってしまうのである」(p81)


貨幣商品説(Commodity Theory of Money)
 「貨幣とはそれ事体が価値をもつ商品をその起源とし、ひとびとのあいだの交換活動のなかから自然発生的に一般的な等価物あるいは一般的な交換手段へ転化したという主張」(p88)


貨幣法制説(Cartal Theory of Money)
 「貨幣とはそれ自体が商品としての価値をもつ必要はなく、共同体の申し合わせや皇帝や君主の勅令や市民の社会契約や国家の立法にその起源をもとめることができるという主張」(p88)


 「貨幣という存在は、みずからの存在の根拠をみずからでつくりだしている存在である。それは、全体的な価値形態Bと一般的な価値形態Cとのあいだの無限の循環論法によって、宙づり的に支えられているにすぎない。商品語ではなく人間語をもちいれば、あるモノをすべてのひとが商品のかわりに貨幣として受け入れるのは、そのあるモノをいつか貨幣として手放してさらにべつの商品を手に入れるためであり、そのあるモノをすべての人がいつか貨幣として手放してさらにべつの商品を手に入れるためであり、そのあるモノをいつか貨幣として手放してべつの商品を手に入れられるのは、そのあるものをすべてのひとがいつでもその商品のかわりに貨幣として受け入れてくれるはずだからである。貨幣が貨幣として流通しているのは、それが貨幣として流通しているからでしかない」(p104)




第三章 貨幣系譜論



 「マルクスは、紙幣とは「それがどういう金名義をもって流通にはいりこもうとも、流通の内部では、そのかわりに流通できるはずの金量の記号にまで圧縮される」(『批判』100)ことになるのだと主張することになる」(p126)


 「マルクスの価値記号論は、本物の貨幣としての金のもっとも純粋な記号であるべき紙幣の現実的な流通を説明する段になって、紙幣と金とのあいだの記号関係そのものを失ってしまうことになってしまったのである」(p127)


 「「商品の交換価値があたえられていれば、流通する金の量はそれ自身の価値によってきまるのに、紙幣の価値は流通するその量によってきまって」(『批判』99)しまうというわけである」(p127)


 「ただ一ポンドの金貨の「代わり」でしかないという意識がたんなる虚偽意識にすぎないとしても、それが商品世界のなかに残りつづけているかぎり、いつかはだれかが中央銀行の窓口にあらわれて一ポンド紙幣を一ポンド金貨に交換することを請求することになるだろう。そして、いつなんどき窓口にあらわれるかもしれないこの請求にそなえるために、中央銀行は地下室に金貨を保管しておく必要がある。だが、発行した紙幣が何人ものひとの手から手へと渡りつづけていくにつれ、それが最終的に中央銀行の窓口に舞いもどってくるまでには長い時間がかかることになる。そして一枚の紙幣の商品世界における平均的な滞留時間が長くなれば長くなるほど、統計学のいわゆる大数の法則にしたがって、中央銀行が地下金庫に準備しておかなければならない金貨の枚数は少なくなる。かくして、兌換紙幣と金貨とは、そのあいだに成立していたはずの「本物」とその「代わり」とのあいだの厳密な記号的関係を、いつのまにやらうしなってしまうことになる」(p138)




第四章 恐慌論



 「恐慌(Krise)とは、ある日とつぜん商品世界全体が需要不足におちいり、すべての売り手が同時に売ることの困難に直面してしまう事態にほかならない。そして全般的な需要不足の状態がその後一定機関ひきつづくとき、それは一版に不況(Depression)とよばれることになる」(p156)


 「買うことの困難とは、貨幣を商品に交換することの困難である。インフレ的熱狂(Manie)とは、商品世界全体が需要過剰となり、まさにすべての買い手が買うことの困難に直面している事態にほかならない」(p156)


 「インフレ的な熱狂がさらなる熱狂をよび、物価と賃金が加速度的に高騰していくハイパー・インフレーション(hyperinflation)とよばれる事態にまで進展したとき、それまで貨幣として流通していた金属のかけらや紙のきれはしや電磁気的なパルスがそのまま貨幣として流通しつづけていることが困難となる危機(Krise)がとつぜんおとずれる。貨幣が貨幣であることが困難になるといってよいだろう」(p157)


 「資本主義社会のなかにおいては、ひとつの市場は孤立して存在しているのではない。それはほかのすべての市場とともに、価格を通じておたがいに依存しあう膨大にひろがった網の目を形成しているのである。ひとつの市場における価格の変化は、ほかのすべての市場における需給に影響をあたえ、そこでの価格の変化を誘発してしまう。(…)市場と市場のあいだの相互依存の網の目はそれぞれの市場の内部での価格調整による均衡化への傾向にたいしてなんらかの干渉作用を及ぼしてしまうのである。」(p160)


 「交換が実現するにせよしないにせよ、売りがかならず買いをともない、買いがかならず売りをともなうこの物々交換経済においては、モノの売りをすべて足し合わせた総価値は、ものの買いをすべて足し合わせた総価値とつねに等しくなるはずである。すなわち、モノにたいする総供給はモノにたいする総需要と必然的に一致するという「セーの法則」が成立するのである」(p162)


 「なにかひとつの商品にたいする需要が供給を上回っているときには、かならずなにかべつの商品にたいする需要が供給を下回っているはずである。ここで可能な不均衡の形態とは、結局、一部の市場において需要の不足がありべつの一部の市場において需要の過剰があるという、「相対的な不均衡」でしかないのである。これは小学一年生でもわかる足し算である」(p163)(…)「だが、貨幣以外の商品のばあい、偶然に欲望が二重に一致している人間を見いだせないかぎり、そのなかに蓄えられている価値は死滅されたままになってしまう」(p166)」


 「資金はすべて利子や配当を生んでくれる債権や株式のかたちで運用され、あらかじめ予定された時点になってから、予め決めておいた商品をあらかじめ定めておいた数量だけを買うのに必要な分が売りさばかれることになるだろう。利子や配当を生んでくれない貨幣はたんなる交換の媒介としてしか使われず、債権や株式の売り買いに莫大な費用がかからないかぎり、だれも貨幣をながく保有していようと思わないはずである」「だが、不幸にもこの世は不確実性にみちている。おもいがけない事態の発生によって、いつなんどき特定の商品が入りようになるかもしれないし、思いがけない市況の低迷によって、いつなんどき特定の商品が買い得になるかもしれない。(…)まさにそのような不確実性の存在が、人々に流動性なるものを欲望させるようになるのである」(流動性選好liquidity preference)(p167-8)


 「ほんらいは商品を手に入れるためにたんなる媒介でしかないはずの貨幣が、その商品とならんで、それ自体あたかもひとつの商品であるかのように、流動性選好という名の欲望の直接的な対象となってしまうのである。ここでは、あの価値商品説の論理が完全に逆立ちさせられている。モノとしての商品が商品であることによって貨幣になるのではなく、商品ではない貨幣がモノですらないことによって「商品」になってしまうのである。」(p169)


 「貨幣には市場がないということは、なんらかの意味で貨幣の需給の変化が起こったとき、それに応じた調整を直接おこなう場がないことを意味するのである。貨幣のある世界では、したがって、世にある商品市場をすべて動員した間接的なかたちでしか(いや、裏返しにしたかたちでしか)、ひとびとの流動性選好の変化にたいして反応することができないことになる。じつは、それが恐慌でありインフレ的熱狂にほかならないのである」(p175)


 「物価や貨幣賃金が連続的にかつ無際限に下落していく過程では、ここの売り手が主観的にはどれだけ正しくあろうと意図していても、それぞれの市場で自分の商品の値札に付ける価格は、必然的に誤ったものとなっている。いくら失敗から学ぼうとしてもけっして学ぶことを可能にさせない全体的な構造のなかにはまり込んでしまっているのである。個々の売り手が価格の調整によってそれぞれの市場の内部の不均衡を改善しようとするこころみが、意図に反して、市場と市場とのあいだの相互依存の網の目を通しておたがいの効果を相殺してしまうのである」(p178)


 「古典派や新古典派経済学の立場からは、労働者が貨幣の切り下げには抵抗するが、個人主義的効用計算ではそれと同じ効果をもつはずの物価水準の引き上げに抵抗しないのは非論理的である。そして、たしかに、労働者のそのような行動様式の説明には、労働組合の圧力や国家による規制さらには共同体的な連帯意識といった、砒素本主義的な要因の存在が数多く指摘されている。だが、最大の逆説は、それが論理的にせよ非論理的にせよ、労働者のこのような行動様式が、労働力の価格である貨幣賃金を下方に粘着的にすることによって、不均衡累積過程の全面的な展開を妨げる役割を果たしているということである。資本主義社会が本来的にもつ自己破壊の傾向が、まさに資本主義化されていない「外部」の存在によって抑えられているのである」(p183)




第五章 危機論


 「商品のばあいは、たとえそれが売り手にとって全く無価値であったとしても、買い手にとっては有効なものとしての価値をもっている。それだからこそ、買い手は貨幣を支払って商品を買い、それを実際にモノとして使うのである.たしかに商品の価値を支えているのは他人の欲望であるが、その他人にとってはその欲望は自分自身の欲望なのである。これにたいして、貨幣のばあいは、それをほかの人間にあたえようと思っている買い手にとってだけではなく、それを買い手から受け取ろうと思っているそのほかの人間にとっても、モノとしてはまったく無価値である。貨幣の価値を支えている他人の欲望自体が、べつの他人の欲望の媒介としてしの意味しか持っていないのである。」「結局、一万円の貨幣と一万円の商品との交換という価値の次元における公明正大な等価交換のもとには、無価値のものと価値あるものとの交換というまさに一方的な不等価交換がモノの次元で存在している」(p193-4)


 「…最後の審判の日から暦を逆にめくっていけばこの今というときにおいても、無が有とひきかえられる不等価交換は成立しえず、買い手の手にある一万円札は、一万円札の価値として手わたす未来のほかの人間がひとりも存在しないたんなる一万円の紙切れでしかなくなってしまうのである。未来が無限であることをやめたその瞬間に、後ろ倒しの論理(後方帰納法)によって、だれも貨幣を貨幣としてもとうとはしなくなるのである」(p196)


 「インフレーションの加速化の予想がひとびとの流動性選好を縮小させ、その流動性選好の縮小が実際にインフレーションをさらにいっそう加速させてしまう悪循環のなかで、すべてのひとびとがもはや未来においてだれも貨幣を貨幣として受け取ってくれないと確信した瞬間に、あの後ろ倒しの論理(後方帰納法)がはたらきはじめてしまうのである」(p207)

 「貨幣共同体のばあいには、貨幣を貨幣として使うというひとびとの行動に先行するなんらの社会的事実も存在していない。ひとびとが貨幣を貨幣として使うのは、ひとびとが貨幣共同体の構成員であるからではない。逆である。ひとびとは貨幣を貨幣として使うことを目的として貨幣共同体の構成員になるのである。その意味で、貨幣共同体とは、利害の一致にもとづいて合理的に形成される社会的関係としての利益社会(Gesellschaft)にほかならない」(p211)


 「恐慌のなかでひとびとが欲していたのは、貨幣にふくまれている金ではなく、貨幣がもつ流動性なのである。恐慌が発生するのは、ひとびとがモノとしての商品の具体性よりも、いつでもどこでもどのような商品とも交換できる可能性のほうを欲しがっているからである」(p222)


 「すべての商品がたんなるモノであるといおう理由から無価値であると見下され、貨幣だけが唯一の富であるとして叫びもとめられている恐慌とは、したがって、資本主義社会にとっての本質的な危機ではありえない。ひとびとは、たんにモノの実体性よりも貨幣共同体の永続性を欲しているだけなのである。たとえ、生産がとまり、企業が倒産し、失業者が街にあふれていても、ひとびとが貨幣を貨幣として欲しているかぎり、その貨幣を貨幣としてうけいれる貨幣共同体の未来に対する信頼は失われていない」(p223)




後記

文庫版後記

索引






041019作成
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