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正義とケアがつむぐ法の意図 :契約と信任の応用倫理学的検討
先端総合学術研究科 一貫制博士課程 田一樹 序論 本稿の概要と構成 第1章 契約と信認 契約関係の特徴 契約の限界と対応策 信認関係の特徴 信認の限界と対応策 忠実義務 善管注意義務第2章 正義とケア 正義の倫理 ケアの倫理第3章 正義とケアに基づいた法の倫理 3.1契約の倫理 信認の倫理 法の倫理
社会には、生身の自然人だけではなく、株式会社や財団など非・生物的な法人がいる。人格の関係は、友人(友好な企業)や親族(系列・財閥)など「私的」な関係だけではなく、法や制度などに基づいた「公的」な関係がある。 今日、もっともよく認識されている「公的」な人格間の関係は、自由主義に基づいた契約関係(Contract Relation)である。たとえば、労働者と雇用者とは労働契約によって、売り手と買い手とは売買契約によって、また患者と医師とは準委任契約によって、ある目的の実現が目指されている。ただし当事者間の合意による契約がすべての「公的」な関係であるのではない。 本稿の目的は、法的な「公的」人格間の関係を応用倫理学の観点から考察することにある。応用倫理学的視点を採るのは、倫理学の今日・社会・現場をキーワードとして現実世界の問いを探るためである。そのためには、これまで別の学問体系のなかでそれぞれ検討されてきた課題を、学域を超えて共鳴させるためである。本稿では「公的」関係には契約のほかに、信認(Fiduciary Relation)という要素があり、それぞれが相補的な関係にあることをを明らかにする。さらにこれらの構造が、これまで倫理学の主要な検討課題であった正義(Ethics of Justice)とケア(Ethics of Care)の倫理に基づいていることを示す。さらにこれまで倫理学の議論では対立関係として論じられてきた正義とケアの関係が補完関係にあること、そして契約と信認という別概念が配分的正義によって結節し、まともさやより善さをめざす倫理によって正当化されていることを明らかにする。 信認関係は、日本では馴染みの薄い概念である。それは日本の法体系が、明治期にドイツやフランスなどのヨーロッパ大陸法を範としたことと、日本の民法典において信認の要素は信託や委任(または準委任)など契約のひとつと位置付けられていることにあるにある。信認のコンセプトは、イギリスの封建制度下の信託(use)にまでさかのぼり、数百年の歴史的背景と判例の蓄積を通じて、今日のアメリカやイギリスの法体系には、契約とは別概念として認識されている。だが日本ではの信認関係の典型である信託は、1922年に法制化されたのち今日まで、信託銀行などによる商事信託を念頭においてきたために、金融資産や不動産など以外には適用されてこなかった。筆者は樋口[1999a ]が主張するように、信認は契約と異なる概念であり、契約とともに信認の重要性を再検討する必要があると考える。 本稿は3章構成である。1章において、法学における契約と信認の特徴を検討する。その結論として、契約は契約自由の原則の下で、公平な人格関係と自己利益追求を前提条件としていることを示す。また信認は、信認を依頼する人格とそれを請け負う人格とは情報、知識、技能、社会的立場において非対称な関係を前提とし、それを補うために厳格な義務が課せられていることを示す。2章において、倫理学における正義とケアの特徴を検討する。その結果として、正義の倫理は形式的正義と普遍化可能性によって正当化され、ケアの倫理は個別具体的な配慮を現実世界で実践するための論理であることを示す。3章において契約と信認という公的な人格関係が正義とケアの倫理に基づいていることを明らかにする。だがその関係は「契約=正義、信認=ケア」という一対一対応の関係ではなく、正義とケアとの相補完的な関係によって成り立ち、その補完がなければ契約と信認それぞれの正当性が担保できないほど根本的に組みこまれた関係であることを示す。最後に契約と信認が実際の社会で用いられるときには、配分的正義を検討することによってその適切さが導き出されることをアリストテレスの議論に照らして検討する。 本稿の結論は、契約と信認という補完的かつ、公的な人格の関係が、正義とケアからなる何らかの倫理的規範の実現を目指しているがゆえに正当化されることを明らかにすることである。 法学における契約や信認の議論には、数多くの先行研究、国ごとの法制度の違い、判例の歴史的な蓄積がある。だがそれらの判例や学説を網羅的に分析や検討することは、筆者の能力を超えた作業である。またそうした作業は倫理学における正義とケアの論争についても同様である。本稿は、法学や倫理学に関する個々の学説史の検討に向かうのではなく、学域を超えた問題意識の共鳴を優先的な検討事項としていることを予め断わる。 top 1章 契約と信認 契約関係の特徴今日の契約関係は、封建的身分、社会的出自、階級制度によることなく、契約自由の原則に基づいて論じられている。契約自由の原則とは、契約内容や方法を自由に設定できること(方式・内容決定の自由)、誰と契約を結ぶかを決められること(相手方選択の自由)、契約締結を自由に判断すること(契約締結の自由)を当事者間の合意に委ねられていることである。また国ごとの法体系による相違があるものの、原則として一度交わした契約を解除する自由も保証されている。 アメリカの契約法では、契約を破棄した側の損害賠償を条件として、理由のいかんに関わらず契約を一方的に解除することができるとされている。たとえばアメリカでは1 9世紀後半以降、労使双方に特段の理由がなくとも、一度結ばれた労働契約をいつでも一方的に解除できるという雇用慣行がある(任意雇用慣行: Employment At Will)。また樋口[1999b 95]は、アメリカ医事法の教材から、医師-患者間の契約関係に基づいた解釈を紹介している。樋口によると、アメリカの医師には患者に対する診療義務を課せられておらず、死亡や深刻な障害など患者の症状に危急性が認められない場合には、特段の理由がなくとも診療を拒否することができるとされている。これは契約自由の原則を明確に示す事例といえる。契約の特徴をさらに検討するために、樋口 [1999a 32-5]が紹介する事例から「効率的契約破棄の法理」(doctrine of efficient breach of contract)を取り上げる。家具の製造で知られるA工場は、椅子卸売のB社に椅子の納品契約を両社間で結んだ。それが履行された場合には、A工場とB社はそれぞれ9万ドルの利益を見込める契約だった。だがA工場は契約後に、別のテーブル卸売会社C社とテーブルの納品契約を結び、それによってA工場は35万ドルの利益を見込んだ。契約したときA工場は、椅子またはテーブルのどちらか一方の納期に間に合わせるほどしか生産能力を持っていなかった。そこでA工場はB社との契約を一方的に解除し、C社との契約に絞った。A工場はB社に対して、B社が契約によって得たであろう9万ドルの損害賠償をした。即ちA工場はB社に損害賠償を支払ってもなお、C社との契約によって得た利益との差額分の26万ドルを得たのである。この契約にはさらなる後日談があった。 B社はA工場に契約解除されたあと、椅子の市場価格が高騰したのである。即ちA工場との契約が継続していたならば、B社は当初想定利益9万ドルとは別に、価格高騰分の利益を得たかもしれなかったのである。だがアメリカの契約法によると、損害賠償は契約が有効である期間内のみ請求対象となり、契約解除後の追加的な損害は考慮されないとされている。契約の特徴は、契約当事者の自由の原則と対等な人格関係を前提としている。即ち、契約の内容、方法、対象、締結と解除の判断は、原則的に当事者の自由であること。そしてその判断には、自己利益の追求する「合理的」な人格が描かれている。また損害賠償の対象範囲は、契約で明示されていた部分についてのみである。即ち契約という「公的」関係において期待されているは、契約内容の忠実な履行と、契約の解除を含めて公平な自由の保障にある。「効率的契約破棄の法理」が前提とする人格象は、契約破棄後の損害賠償と新しい契約によって想定される利益を明確に見込めることを想定した近代経済学の「経済人」を明瞭に表現している。 top 1.2 契約の限界と対応策現実世界において、完全な契約自由の原則や「対等」な人格関係を想定することは不可能である。たとえ歴史的な経緯に基づいた慣行に基づいて、「合理性」についての標準化が踏襲されていたとしても、あらゆる契約にかんする合理性や対等な人格関係を示すことはできない。さらに重要なことは、合理性や対等性などの論点に結論が見出されるかいなかに関わらず、現実世界では契約が日々取り交わされているのである。 法は契約自由の原則と「合理的」かつ「対等」な人格という理想的前提に近づけるために、様々な「配慮」を制度に組みこんでいる、と筆者は考える。例えば、日本にはアメリカ型の任意雇用慣行は一般的にはない。それは日本の労働基準法において、一般に使用者(経営者)は労働者よりも優位な立場にあるため、「対等」な人格の関係に基づく自由契約の原則が成り立ちえないと想定されているからである。仮に契約自由の原則に基づいた場合には、労使間のパワー・バランスによって契約内容には、労働組合の不参加を雇用条件としたり(黄犬契約)、低賃金・長時間労働などをあらゆる契約を正当化する余地が生じる。 労働基準法における「配慮」とは、契約自由の原則を制限することによって、「対等」な人格という理想的前提を(たとえ不十分であったとしても)目指している。具体的には労働基準法によれば、法の定める基準に達しない労働契約は、その部分について無効として、その代わりに基準法が定める内容が適用される。またアメリカの「効率的契約破棄の法理」とは対照的に、日本の契約法によると、契約自由の原則を制限し、契約解除には一定の条件がなければならない。具体的には、法定解除(定期行為遅滞・履行不能・履行遅滞・不完全履行)、約定解除、合意解除などの場合でなければ、契約の解除は正当化されない。アメリカの任意雇用慣行も実際のところ、公民権法第Vll章 (TitleVll、 Civil Rights Act of 1964)によって、人種、宗教、性別、皮膚の色、または出身国を理由に労働契約を差別的に取り扱うことが禁じられているため、その対象範囲が法的に制限されている。 日本での医師-患者間の関係は、準委任契約という契約関係に基づいている。だが日本の医師法第19条には「診療に従事する医師は、診察治療の求があつた場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない」と定められており、医師に診療義務を課すことによって契約自由の原則を制限しているといえる。 このように契約とは、自己利益に配慮した合理的判断ができる個人が、対等な個人関係と契約自由の原則に基づいて合意するという前提がある。また契約によって想定される結果が契約時点で明瞭に予測でき、かつそのための契約内容を規定できることが前提とされているのである。しかしその前提は、ある程度まで可能であるにせよ、完全に前提とすることは実現不可能である。だが契約関係において法は、その理想的前提に近づけるために一定の重み付けによって配慮を組み込んでいるのである。だが現実世界には情報、知識、技術、社会的地位、物理的環境などについて法的な配慮では対等な関係を保証できない明らかな限界ある。たとえば医師-患者、弁護士-依頼人、金融機関-個人投資家などがある。つまり専門家(技術者)の知識や技術が明らかに有利な立場を形成し、非・専門家(非・技術者)が一方的に依存しなければならない関係である。相した場合に適用されるべき公的な人格関係が次節で検討する信認関係である。 top 1.3 信認関係の特徴信認関係の特徴は、不均衡で非対称的な人格の関係を前提としていることにある。有償無償に関わらず、それは依頼主(委認者 settler)の利益を、受認者(trustees)の裁量によって保証してもらう一方的な依存関係である。信認の長所は、受認者の有する知識や技術などの専門性を遺憾なく発揮することによって、それを持たない委託者の期待する利益を実現できることにある。即ち、専門家(受認者)が非専門家(委認者・受益者)と非対称的、片務的依存的な「公的」関係を結ぶ事によって、受益者(beneficiary)はケガや病気を治癒したり、勝訴したり、金銭的な利益を獲得するという利益を得る事ができる。 信認の典型である商事信託は、個人資産家(委託者)が信託銀行(受託者)などに資産運用を託すことである。そして受託者は情報、知識、技術、社会的立場など自らの専門的裁量を駆使することで、能率的な資産運用を行う。そもそも信認の起源は、ヨーロッパ封建時代の遺言信託制度(use)に遡り、運用や分配を含む個人の遺産管理を第三者が引き受け、委託者の死後にも遺言に基づいてその意思を実現するために行われた。この場合の受託者の専門性とは、委託者の死亡しにより本人ができない行為を肩代わりすることである。そのため信認の専門性とは、必ずしも高度な技術や資格認定とは限らず、子孫や友人などの受益者に対して遺言の内容を忠実にはたせる能力を持つ人格ということになる。 top
1.4 信認の限界と対応策受認者は専門的知識、技術、情報、社会的立場などの面において受託者よりも常に優位な立場にある。そのため、受認者がその優位さを転用して、本来は受益者が得るべき利益の一部または全部を受認者自身の利益に挿げ替えてしまう余地が生じる。「信認法の根本的なディレンマ」と樋口[1999a 208] が表現するように、「(専門的知識や技術を持つ受認者の)裁量を認めながら、(その知識や技能の)濫用を防止する」ことは、信認関係の非対称性を前提とするがゆえの不可避な課題である(括弧は引用者)。 この「ディレンマ」によってこれまで多くの社会的問題が引き起こされてきた。たとえば生物・医学上の典型的な利害対立には、ケガや病気の治療によって得られる患者の利益と、治験を含む被験者実験によって新知見や技術の向上を目論む学術上の利益がある。そしてこの「ディレンマ」の裁量を常に委ねられるのは、専門家である受託者となる。具体的には、タスキーギ事件(1932-1972)、ミルグラム研究(1963)、ウィローブルック(Willowbrook)研究(1960年代-1970)、 ムーア‐カリフォルニア大学裁判(1984)などは、被験者となった患者の利益がないがしろにされてきた「人体実験」だった。またキャメロット計画(1965)は、「各国の革命勢力の動向をさぐり、内戦の過程や将来における予測可能性を研究する」という軍の政策に社会科学の研究者が深く関与した問題である。 この「ディレンマ」を解消するために、受認者には厳格な義務と、利益の「吐き出し」と呼ばれる原状回復措置が課される。次項では受認者義務のうち特に重要なである忠実義務(duty of loyalty)と善管注意義務(duty of prudence)について検討する。そしてこの義務の存在こそ、信認と契約との構造的な相違を示している。 top 忠実義務 アメリカ信託法の第3次リステイトメント(restatement)を、樋口[1999a 209-15]の紹介に従って検討する。忠実義務とは「受託者は、もっぱら受益者の利益のためだけに、受託の管理運用を行う義務を負う」と定められている。四宮[1989 231]は忠実義務について、受忍者が委認者との利益相反となる立場や地位にいることの禁止(conflict of interest)、受託者の裁量を自己または受益者以外の第三者の利益することの禁止(No profit rule)であると述べている。 「ディレンマ」の構造、つまり忠実義務を侵す論理とは、G.Eムーアが功利主義を批判するために指摘したいわゆる「自然主義的誤謬」の問題と同様の構造をもつ。即ち「受認者の裁量に次第で、本来受益者に帰すべき利益の挿げ替えることができる状態にあるので(事実的記述)、挿げ替えてよい(規範)」と判断されている。これは信認の前提を保証する社会的規範(忠実義務)の拘束を受認者自ら解くことによって、「である」という事実劇記述が「よい」と倫理的規範に置き換えて正当化されている。 信認関係が成立するのは、受忍者が信認を引き受けた時点である場合が多い。しかし守秘義務や情報適用義務は、委認者や受益者の個人的情報についての忠実義務であり、これらの義務は信認関係の終了後にも、受認者に引き続き課せられる。即ち、専門家の立場によって知りえた情報は信認関係の機関を問わず、受益者以外の第三者の利益となる可能性があり、それを防ぐ必要があると考えられている。対照的に契約関係において、こうした配慮(義務)は契約内容に含まれていない限り前提とされていない。 また、信認関係は有償であることを必要条件とはしていない。だが委認者が、医師、弁護士、投資顧問会社などとの信認を結ぶさいには有償であることが一般的である。有償を伴う信認の忠実義務とは、契約で保証された報酬以外に受認者は自己利益を図ってはならないことである。信認関係が契約の一形態に見なす立場は、信認関係を結ぶ行為が契約に基づいていることを根拠としている。 「ディレンマ」を克服すべく設けられる忠実義務は、事実的記述と規範とが混同されることによって、常に無効となる要素をはらんでいる。信認を成立させるためには忠実義務を遵守させる更なる措置が必要である。 top 善管注意義務 善管注意義務とは、専門的裁量をもつ受認者に、合理的で思慮ある(prudent)判断を求める義務である。即ち、専門家の立場として当然期待される判断や成果など、受認者にまともな裁量を求める義務である。だが合理的で思慮あることの程度は社会的背景に影響を受けて流動的に定義づけられてきた。 ”Prudent Man Rule”(思慮ある人ならば判断するであろうルール)は、アメリカ商事信託における「思慮ある」判断の基準を定めたものである。樋口[1999a 188-211]によると、1830年以前において「思慮ある」投資とは、リスクが少ない優良な投資先として、裁判所が選定したリストに従って投資することを意味した(court list rule)。しかし1830年にマサチューセッツ州最高裁は「いかなる投資にもリスクがある」という判断を示してから、投資信託による損失が即座に善管注意義務に反するとはみなされなくなった。さらに1929年の世界恐慌をひとつの契機として投資リスクが世界的に認識されると、「思慮ある」投資に関する信託法の教科書やリステイトメントの記述は、投機的投資の禁止と表現された。だが金融工学の理論的進展に従って、ポートフォリオ(安定した運用成績を目論んだ分散投資)などのリスクヘッジの方法が確立すると、投機的投資もまた「思慮ある」投資のひとつとして認められ始めた。信託法第3次リステイトメントにおける「思慮ある」投資によれば、個々の投機的投資を認めたうえで、投機的投資も含めた総合的な運用成績と認識されていることに表わされている(Prudent Investor Rule)。 日本の民法典における信認の要素は、委任・準委任契約として位置付けられている。患者は病気の治癒を期待するのは当然だとしても、請負契約のように医者はその理想を確実に実現することは不可能である。信託銀行は委託者に個人資産の効率的運用を約束したとしても、正確な運用成績を約束することはできない。善管注意義務とは確実に想定される結果に対する義務ではなく、受認者としての思慮ある判断を求めることによって理想に近づける努力が義務化されているといえる。 信認関係とは、信認の内容を厳密に定めることが物理的、認識的に不可能であることを前提とされていることが契約関係の前提とは対照的である。そして受託者の専門的裁量を認めることによって、当事者間の合意を取付ける契約の手続を踏まなくとも、受益者の利益を可能な限り保証することができる。さらに忠実義務と善管注意義務などを受認者に課すことによって、信認は人格間の非対称なパワーバランスに均衡を図っている。 top
2章 正義とケア 正義の倫理形式的正義と普遍化可能性とは、正義の倫理の主要素である。形式的正義とは、「等しきものは等しく扱え、等しからざるものは等しからざるように扱え」または「各人に各人の権利を分配せよ」という公平であることへの要求である。そして普遍化可能性とは、いつでも、どこでも、誰に対してもある概念が適用されるべきだ、という規範を普遍させるための要請である。即ちここでは正義の倫理を「公平さは文脈を問わず保証されるべきだ」という規範として考える。 正義の正当性が失われる場合とは、規範が日和見的で場当たり的な取り扱いを許したり、一貫性を欠いていること(公平性の破綻)であるか、または特定の対象を優遇する(普遍化の破綻)状態である。喩えるならば不正義とは、正義の女神 Justitiaが目隠しを取り、手に持つ天秤を傾けることである。このことから正義の倫理は、等しいもの(者・モノ)の存在を前提としていることがわかる。そして扱いをうける対象がそれぞれ等しいことを前提としているがゆえに、公平に扱うことが正しいのである。井上 [1986 37-39]は「等しきものは等しく扱え」という形式的正義と、アリストテレスが考えた配分的正義・匡正的正義との関わりについて検討している。井上によると、各人の「価値」に比例した配分を要求する配分的正義は、形式的正義に含まれること。さらに各人の「価値」ではなく、損害や利益に対する等・不等の基準によって補償する匡正的正義も形式的正義に含まれると述べている。また「いかなる正義観もそれが本来正しいとみなす状態が乱されたときには何らかの仕方でそれが回復されるべき」であり、「『失われし正義は回復されるべし』という一般化された匡正的正義の理念は、すべての正義感の共通の前提であるといってよい」と述べる(傍点原文通り)。井上のいう「一般化された匡正的正義」とは、これまでまさに正義の倫理の中核をなす形式であり、例外的なルールが排除されることによって保証されてきた概念である。たとえばカントは、定言命法を案出することによって普遍的な道徳を追究した。また J.ベンサムは個々人間の快楽計算を前提として、自然人に対する公平な規範を追究した。だが、公平性、普遍性など正義の倫理が前提とする概念は、画一的であり、机上の空論ではないのか、という問いがすぐに想起される。なぜならこれまでの諸学が明らかにしてきたことは、現実世界に存在する対象の多様性と、対象間に生じる関係の複雑さだったからである。さらに「等しからざるものは、等しからざるように扱う」という論理が、差別的待遇を助長する余地を残しているためである。 筆者は正義の倫理を補完する概念として、ケアの倫理に注目する。アリストテレスが説いた中庸に基づく正義の議論をケアの倫理に照らして再検討したい。そして正義とケアが補完関係にあることを契約と信認の基本的構造のなかで明らかにする。即ち、正義の倫理がケアの倫理なくしては現実社会では理念を現実化できず、ケアの倫理は正義の倫理なしには御都合主義に陥るということである。 top ケアの倫理 ケアの倫理がどのようであるべきかについては、様々な文脈のなかで論じられ、繰り返し定義付けられてきた。川本[1995 65-76][2002 282-592]は、道徳発達心理学の分野でケアの倫理と正義の倫理との相違点を対照的に論じたC.ギリガンの『もうひとつの声』のインパクトと、その業績に対する学問的、政治的な毀誉褒貶について詳しく紹介している。彼女はこれまでの道徳発達の観点が正義の倫理に基づいた単線的基準によって評価されていることを批判的に検討し、配慮と応答というケアの倫理に基づいた道徳発達の段階の存在を示した。しかし川本によれば、ギリガンや「第2波」フェミニズムの論者が正義の倫理を男らしさに、ケアの倫理を女らしさにそれぞれ対応させて論じたことによって、「男性の倫理=正義」「女性の倫理=ケア」という当時のアメリカ「保守系」論者にとって都合のよい定式に落とし込まれてしまったという。 正義とケアの関係は、政治哲学、倫理学、心理学など学術分野において、また医療、介護、教育など現実的な社会問題としても重要な論点だった。H.クーゼ[2000 176-198]は医療現場において、男性である医者に正義の倫理を、女性である看護婦にケアの倫理を担わせる議論を批判している。そして彼女は「ケアの視点と同時に公平の概念も必要」と言い、別概念としての2つの倫理の視点を同時に保持すべきであると主張する。また品川[2002 9-21]は、ギリガンが示した「結婚」と「反転図形」の比喩に着目して、正義とケアの「統合」可能性について検討している。結婚の比喩とは、正義とケアが排他的ではなく、補完的関係にあること、そして反転図形の比喩とは、「女性であれ男性であれ、同一の人間が(ケアの見方と正義の見方の)どちらの見方も取りうること」をそれぞれ意味する(括弧は筆者)。品川は「見方を切り替えて、異なる見え方に熟通し、そのあいだで均衡をとる」ことを可能にする反転図形の比喩を評価する。 ケアの形式的な特徴は、ケアするもの(者・モノ)とケアを受けるものとの非対称な関係にある。即ち、ケアをするための専門的情報、知識、技能、社会的立場にいるものと、それを満たしていないがゆえにケアを求めるものの存在を前提としている。この前提は前項で検討した正義の倫理の前提とは対照的であり、この相違こそ正義とケアとが対立関係として論じられてきた理由である。 正義とケアとは、根本的に異なった形式と前提があるという点では対照的な関係にある。だが筆者は、正義とケアがその相違を補完することによって、ある理想を目指しているという点で共通していると考える。本稿ではその関係を前章で検討した契約と信認の構造を再検討することによってこの補完関係を明らかにする。 top 第3章 正義とケアに基づいた法の倫理 契約の倫理法に基づいた契約関係とは、形式的正義の普遍化を目指すものである。即ち契約とは、情報、知識、技術、社会的立場について公平な立場にある「合理的」な契約当事者の双方による合意を前提としている。そして契約当事者が、それぞれの利害関心に基づいて、契約自由の原則が正当化されるのもこのためである。それに対して不正(不当)な契約とは、日本の契約法における法定解除に示されるように、契約を締結するさいの想定が、遅滞や不履行などによって実現化されなかったことである。そしてこの関係は、時期、場所、対象を普遍化することによって正当化されている。即ち契約の倫理とは、形式的正義の普遍的な実現によって正当化される。 だが2.1の最後で問題提起したように、契約の前提は、現実世界では成り立ち得ない想定である。なぜなら標準化された文脈はありえないからであり、それは日本の民法典が13の典型契約(有名契約)を定めるとともに、それ以外の非典型契約(無名契約)を認めていることが示している。 法は、この問題に対して契約の前提に近づけるための配慮によって対処する。1つは契約内容を当事者間で共有すること、双方で合意することによって公平性を保証する。2つは、公平を逸脱して生じた場合にはその部分についての損害賠償によって埋め合わせること。3つめは、日本の労働基準法やアメリカの公民権法の例で示したように、そもそも契約自由の原則のもとでは公平さを保障できないと認められる状況や文脈について、優位な立場の自由を制限することによって、公平である前提に向けた配慮がなされている。 この配慮とは、アリストテレス[1129a-1133b]が論じた正義(ディカイオシュネー)の議論に共通した問題意識がある。アリストテレスによれば、配分と矯正による均等がなされたあとに、応報されることで正義が実現するという。そして均等化するためには、「比例的」(アナゴロン)な配分と矯正によってなされるという。その例として靴工が作る靴と、大工が作る一軒の家屋との「取引の応報」(売買)の事例が取り上げられている。筆者はこのように均衡を目指す配慮、つまり公平性を実現する配慮こそケアの形式が組み込まれていると考える。即ち、契約の前提は正義の倫理に基づいているものの、現実世界で契約がかわされるさいには、公平であることを保証するためにケアの倫理に基づいた配慮が不可欠なのである。 top 信認の倫理 契約関係とは対照的に、信認は非対称的な人格のあいだの関係である。それは信託や医療行為など特定の目的において、情報、知識、技術、社会的立場などの配慮によっても公平性を保つことが困難であることを予め織り込んでいる関係である。そのため委認者は受託者に一方的に依存することによって受益者の利益を保証させる。また信認関係に不可避の「ディレンマ」を忠実義務や善管注意義務など複数の義務を課すことで一定の成果を期待する。それは善管注意義務(duty of prudence)の別名が配慮義務(duty of care)であることに明瞭に現れている。即ち信認とは、専門家が自らの能力を発揮することによって、他者・非専門家である受認者の利益を全面的にケア(配慮)する関係である。そして受認者は自らの専門性を報酬以上の私的利益を目的として発揮してはならない配慮も組み込まれている。 信認関係において忠実義務と善管注意義務が課されているのは、非対称的人格関係において、専門性を発揮することがそのまま利益に還元されることを認めない、即ち専門性を持たないため、それを発揮できなくとも利益の追求を可能にすべきであるというケアの倫理を規範化したことにある。 ただし信認関係は、人格間の関係をケアの倫理によって正当化する同時に、形式的正義を実現してもいる。即ち「等しいからざるものを、等しからず扱う」ことを普遍化することによって、ここでも配分的正義が目指されているのである。それは決して格差の助長を目指すためではなく、より善さ、まともさを備えた理想の追求のためにある。 信認は非・専門家である受託者・受益者に不利益を集中させないこととパレート最適性の双方を満たす可能性を秘めている。例えば今日の製造者責任論を信認の観点から検討することができる。製造者責任とは、製造者の故意や過失に拘らず配慮義務 (Due Care)を課し、製品の欠陥による消費者の被害を製造者の配慮の欠如とみなすことである。即ち、製造者とは、製品利用者に比べて製品の構造や安全性などに関する知識、技術、情報を持つ立場にあり、そのために専門家としての受託者責任があるとみなすことができる。そして製造者に製品利用者に対する忠実義務と善管注意義務が課されているがゆえに、非・専門家である製品利用者の利益を確保するものである。しかし、こうした観点はしばしば費用便益分析とその背景にある選好功利主義の議論に落とし込まれやすい。実際に製造者の責任を限界にまで押し広げる厳格製造者責任や、社会全体の利益の最大化を正当性の根拠とする社会費用説は、あらゆる価値を数値に還元する傾向がある。筆者は信認において、配分的正義こそ最も重要な論点だと考える。ただしそのさいには、価値の多様性を数学的な比較関係によって比較することを批判的に検討しなければならない。なぜなら別のカテゴリーと認識されている価値に数的な重みづけをすることは、価値の特殊性を一元的に規格化するおそれがためである。 top 法の倫理 アリストテレス[1133b]は比例的配分を売買契約の例を用いて説明した。即ち、「農夫:靴工=食糧:靴」からなる四項比例の関係は、貨幣的価値に均等化された後に、応報(取引)されると論じた。さらにアリストテレスは かくして貨幣はいわば尺度として、すべてを通約的とすることによって均等化する。事実、交易なくしては共同関係はないのであるが、交易は均等性なくしては成立せず、均等性は通約なしには存在しない。もとよりかくも著しい差異のあるいろいろなものが通約的となることは、ほんとうは不可能なのであるが、需要ということへの関係から充分に可能となる。 と述べる。 この記述は受給関係によって市場価格が定まるという経済原理を示している。その一方でアリストテレスは、差異の著しいものの通約はほんとうは不可能だと言い、貨幣という数的な単一の基準によって現実世界のあらゆる価値を通約的に均等化できると考えたわけではない。むしろこの文章は貨幣に置き換えることのできる需要にしか数的な比例関係は当てはめることができないことを暗に示しているのではないか。即ちアリストテレスが述べた配分的正義とは、貨幣など数的処理が可能な価値を前提にしている。 今日現実世界で問題となる配分的正義とは、数値化不可能な諸価値の需要であったり、ここでは検討できないほど複雑な理由によってかき消されている「声なき声」による需要に基づいている。たとえば丸山 [2004 66]は水俣病の問題をとりあげて、「富、機会、教育といった便益のみならず、有害廃棄物と言った付加も公平に配分されるべきことを要求する」という配分的正義に基づいた環境正義について検討する。鬼頭[2004 122-123]もまた、所沢ダイオキシン報道から「ゼロリスク」論の問題を解き起こし、「人間の生の原理的なあり方から、リスク自体をゼロにすることが不可能であっても、そのリスクの存在のあり方が社会的に偏っている問題を少しでも是正し、配分の正義を実現させることは社会的に重要な課題」だと述べている。「差異の著しいものの通約はほんとうは不可能」であり、完全な配分的正義はありえない。しかし配分的正義が正当化されるのは、現状よりはまともであること、つまりより善さを目指しているからである。そして契約と信認はそれぞれに正義とケアの倫理のより善い配分を目指すがゆえに正当化されている。また、社会におけるあらゆる公的な人格間の関係を契約または信認に一元化して論じることはできない。形式的正義とその普遍化可能性を目指しつつも、文脈の多様さに応じた配慮を併せ持つことによって、公的な人格関係の正当性が保たれるのである。 本稿の考察が正しいならば、契約と信認という公的な人格関係の正当性が、正義とケアの相補完的な倫理によって正当であることが示された。「悪法もまた法なり」という格言の正当性は遵法的正義によって保たれている。だが仮にそれが悪法だと思われる場合には、その法の正当性を検討することによって、その法に従うべきか否かを判断することができる。少なくとも契約と信認という公的な人間関係は、法は法であるために正当であるというのは同語反復であり、法がなんらかの倫理に基づいているために正当化されるのである。ゆえに法の意図は、実際的な問題から配分的正義の正当性を掘り起こす応用倫理学の問題として再検討されるべきである。
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